開かずの間にて - 1/6

 

 

 その本丸には開かずの間が有った。
 中に何が置かれているのか、何故封じられているのか、古株の刀はおろか審神者すらも把握していない。力自慢の男士がいかに奮闘しようと、その襖は堅く閉ざされたままだった。短刀らの好奇心を煽ったのも始めだけ、皆が皆、次第に部屋の存在をも忘れていった。

 男が歩くたび紫色の長衣が揺れる。近侍であるへし切長谷部は、主命を受けて荷物を倉に運んでいる最中だった。春一番が吹き始めた頃合いとはいえ、板張りの廊下はまだまだ底冷えする。靴下越しにも堪えがたい冷気を感じて、長谷部はいつも以上に足早に歩を進めた。

 ――ごとごと!

 先を急ぐ刀の足が自ずと止まる。無人のはずの部屋から盛大な物音、流石に無視できず長谷部は抱えていた荷を下ろした。戸を数センチばかり横にずらす。ただそれだけで千々と埃が舞った。放置されて久しいことは明白である。

 長谷部はその謹厳さ故に近侍を任されることが多い。主の期待に応えるため、どの刀剣よりも本丸の事情には通じていると自負していた。その長谷部ですら、このような部屋に見覚えは無い。そこから導き出される一つの仮説、もしやこれが件の、開かずの間ではなかろうか?

 知らず、男の喉がごくりと鳴る。突き動かされるように長谷部は中へ足を踏み入れた。

 物々しい噂とは裏腹に、室内は静かで、どことなく清廉な空気が流れている。些か殺風景ではあるが、衣装箪笥や数枚の座布団は誰かが生活していた名残に思えた。

 どうやら音の発生源は床に伏した置行灯らしい。地震が有ったようには感じられないが、ひとりでに倒れるほど不安定な形もしていない。おそらく鼠の仕業か何かだろう。長谷部は適当に結論づけて部屋の観察を再開した。とりわけ目を惹くのは中央に鎮座する文机である。その上には手記らしき帳面が置かれていた。

 白手袋が柳染の表紙を捲る。長谷部は危うく冊子を取り落としそうになった。
「なん、だ、これ――」
 止め払いを意識した、神経質そうな字体は間違いなく自分のものだったからだ。

 喉が渇く。胸の内がざわつく。それでも文面を追う目は止まらない。書かれている内容は、この奇妙な事態に反してありふれた、素朴なものだった。

 二月四日
「今日は俺の方から挨拶を試みた。向こうは少し驚いた様子を見せたが、すぐに笑っておはよう長谷部くん、と返してくれた。他の男士たちなら当然のようにできる、何でもないやり取りだが俺は朝から手に汗を掻いて事を実行したのだ。故に俺は自分で自分を褒めてやる。よく頑張ったぞ長谷部」

 二月十日
「遠征帰り、水分を欲して厨に寄った。何か期待していたわけでもないが、そこには手製のずんだ餅を作る燭台切の姿が有った。美味そうだな、と声を掛けるのは自分の分を要求しているようで卑しく思える。俺はただ邪魔するぞ、と断りだけ入れて冷蔵庫に真っ直ぐ向かった。
 しかしそこは伊達男と言うべきか、良かったら味見していかない、と向こうから誘いを掛けてきた。俺は手が汚れているのを理由に断ろうとしたが、燭台切は構わず俺の口に作りたての餅を放り込んできた。美味しい? と問われた際には必死になって頷いていたが、味は、正直覚えていない。心臓に悪い刀だ」

 燭台切光忠に対する淡い想いを綴った手記に、長谷部は心底肝を冷やした。このように記述こそしていないが、日付も内容も男へのままならぬ片恋も、己が経験したものと一致している。さらに恐ろしいことには、この日記は現時点での未来に当たる出来事まで書き記していた。
 薄ら寒さを覚えた長谷部は、主に相談しようと考え、そして思い止まった。
 この手記はある種予言書だ。何もかもが己が身に起きたことと相違ない。もし、日記の長谷部が想いを成就したならば、自分も同じように振る舞うことで燭台切と懇意になれるのではないか。

 理性と恋情とを秤にかける。長谷部の判断は、後者に傾いた。

 抗いがたい誘惑に促され、閉じた帳面を再び捲る。長谷部はほとんど斜め読みに近い早さで文面を追った。判断すべきは進展の有無であるから、じっくり読み込む必要は無い。
 そして三月十四日まで日付は進み、長谷部は無言で拳を握った。性格そのままにカッチリした文字は勢い余って変な癖がついている。

 三月十四日
「燭台切から先月のお返しだとマカロンなる菓子を渡された。何が恐ろしいって、俺はあいつへのチョコを匿名で贈った。しかもメッセージカードの一つも付けずにだ。お前はエスパーか何かか、と喜びより先に引いてしまった覚えが有る。
 それに対して伊達男、
「そんなのずっと見てたから判るよ」
 ずっと見てた、とは枕元に忍ばせようとこっそり部屋に入ったところからだろうか。寝顔も格好いいなあ、と見惚れていたことも承知済みということか。いいだろう殺せ、主の手を煩わせるわけにもいかないからお前が折れ。なおこの提案はあっさりと却下された。

「好きな子に引導を渡せなんて酷いこと言うね」
 呆れたように笑う伊達男を前に俺は腰砕けになった。冗談抜きにその場に座り込んだ。そんな俺の頬を燭台切が挟んで言う。

「そういう恥ずかしがり屋なところも、本当に可愛い」
 うるさいお前はもっと恥じらいを持て。気障ったらしい台詞ばかり言いやがって。この上なく様になってるけどな畜生!」

 最良の結果を確認した長谷部は舞い上がった。廊下でスキップするほど有頂天だった。玉鋼の入った箱を持って陽気にステップを踏む姿は、驚きを求める白い太刀にばっちり押さえられ、しっかり詳細まで伊達の刀へと伝えられた。あの長谷部くんが、と意中の刀に衝撃を与えていたことを長谷部は知らない。

 それからの長谷部は日記の記述に忠実に従った。とはいえ、曖昧な描写も少なくなかったから、結構な部分でアドリブを利かせなくてはならなかった。自他共に認める堅物で、臨機応変を不得手とする長谷部にとっては酷な要求である。

「長谷部くん、何か良いことでも有ったのかい」
「何故だ?」
「昨日、君が廊下でスキップからのトウループジャンプ決めてたって鶴さんから聞いたんだ」
「イヤトクニイミナドナイゾ」
「油を差してないギアみたいな声で否定されても」
「この季節だ、空気も乾燥してるし喉が荒れても仕方ないな」
「じゃあ生姜湯作ってあげるよ、蜂蜜入りで」

 戸惑う長谷部を余所に、厨の主はあれよあれよと準備を進めていく。喉の不調など言うまでもなく長谷部の出任せに過ぎない。騙しているようで気の引ける長谷部だったが、燭台切の作った生姜湯は絶品だった。
 目的も忘れて長谷部は仄かな甘みを腹から堪能する。そのうちに、カップの中身と同じ、蜂蜜色の瞳が己を見つめていることに気付いた。片恋の相手に注視されて平然としていられる長谷部ではない。みるみる体温は上昇し、背中に脂汗が浮かんでいった。

「な、なんだ」
「ああ、ごめんね。もしかして喉の不調は風邪が原因じゃないのかなって。長谷部くんは頑張り屋さんだから、身体壊してることにも気付かず仕事してそうだし。今だって何か顔が赤いし」
「熱いものを飲んでいるせいだろう。心配は無用だ」
「本当にそうならいいけど、あまり無理しないでね」
「問題無い。主命さえ有れば俺は折れずにいられる」
「無理しないでね」

 念押しする男に妙な圧を感じ、長谷部は黙ってこくこくと頷いた。
 二月二十日、燭台切に体調を気遣われ、その男振りに惚れ直す。日記には概ねそういった内容が綴られており、長谷部の心境としても間違ってはいない。しかし、結果的には生活習慣の見直しを要求されて終わった。

「本当にこんな調子で燭台切と懇ろになれるのか」

 期日まで一月も無い。それにも関わらず、長谷部と燭台切は現段階で友人どころか単なる同僚レベルの交流しか築いていなかった。日記の通りにやっているつもりだが、どうも反応が芳しくない。

「長谷部くん、また髪乾かさずに寝ただろう。髪の跳ね具合が尋常じゃないよ」
「長時間遠征は疲労が溜まるから、人員はなるべく入れ替えるようにって主からも言われてたよね? どうして長谷部くんが連続で部隊に組み込まれてるのかな? 近侍権限? はは、長谷部くんは面白いことを言うねえ」
「はい消灯のお時間ですよ、良い子は寝る寝る。悪い子になる? 悪い子ならそもそも書類整理なんてサボるよねえ? 屁理屈捏ねてないで寝なさい」

 心温まる会話よりも説教されている頻度の方が余程高い。もはや酒の一つや二つも呑まねばやってられぬ。長谷部は我が身を省みるより先に逃避を選んだ。

 さて、黒田の刀らしく酒には強い長谷部だったが、燭台切への慕情を拗らせてからは加減も弁えず呑むことが多くなった。気付いたときには自室の布団の上で夜明けを迎えている。
 こういう朝は決まって酷く喉が乾いていた。水分を欲する身体とは裏腹に、長谷部は厨に行くのを憚る。格好良いを信条とする刀にこのような無様な姿は見せられない。朝餉作りに励んでいるだろう刀を思い、長谷部はいつも庭先まで足を伸ばす。霜が降りて久しい季節だ、井戸を利用する刀などほとんどいない。長谷部は厚手の上着を羽織り、今朝もまた凍える廊下を行こうとした。

 しかしながら、その日は勝手が違った。障子がひとりでに開く。長谷部が警戒の眼差しを外に向けると、今ばかりは会うのを控えたい相手が立っていた。

「おはよう長谷部くん」
 陽光より眩しい黄金色が柔らかく撓む。その手には水の入ったグラスと、雑炊を載せた盆が有った。

「大丈夫? 食欲は有るかい?」
 甲斐甲斐しく世話を焼こうとする男に長谷部は唖然とする。
 確かに燭台切光忠は面倒見の良い刀である。それこそ口下手で無愛想な長谷部だろうと、分け隔て無く優しく接するくらいには面倒見が良い。だとしても、そう親しくもない同僚を相手に、二日酔いを想定した食事などわざわざ用意するだろうか。
「面倒を、掛けた」
 微かに覚えた違和感を、長谷部はこの刀の性分だと結論付けた。特別扱いではなく純粋な親切心からの行動と知れば、残るのは申し訳なさだけである。頭を垂れる長谷部の髪に何かが触れた。
「長谷部くんの寝癖、今日も凄いね」
 そう述べる男は、どこか愉しげに跳ねる煤色を掬う。

「面倒なんて思ってないよ。君がいつもお仕事頑張ってるのを僕は知ってるからね、たまには羽目を外したくなることも有るんだろう。こんなささやかなことしかできないけど、僕は間接的にでも長谷部くんの応援ができて嬉しいんだよ」
 社交辞令ではなく、本心からの言葉だと流石の長谷部も気付いた。男の顔は、それだけ優しかった。

 何が切っ掛けなのかは長谷部も解らなかったが、その朝から燭台切はよく長谷部に話しかけるようになった。それに応えんとする長谷部の言動は相変わらずズレていたが、ただの同僚から仲の良い友人と思えるぐらいには距離も縮まっていった。

 長谷部は今宵も俯せになって布団に倒れ込む。火照った身体には褥の冷たさが何とも心地良い。ほう、と熱の籠もった吐息が漏れた。脳裏に浮かぶは愛しい、黒い刀のことばかり。一日の間に男から掛けられた言葉を反芻し、長谷部は興奮のあまり手足をばたつかせた。
(今日も沢山燭台切と話してしまった)

 ――おはよう長谷部くん、今日も一日頑張ろうね。
 ――どうかな長谷部くん、今日の肉じゃがはちゃんと味が染みてるかい。
 ――長谷部くん、これからお風呂? 今は空いてるからゆっくりできるよ。湯上がりに月見酒でも一杯どう? 僕も話し相手がいると助かるんだけどな。
 ――おやすみ長谷部くん、また、明日ね。

 起床から就寝まで、気付けば一日の大半を燭台切と過ごしていた。以前の長谷部ならこれを単なる僥倖と片付けていただろう。あの刀は誰にでも優しい、別に俺が特別なわけではない。本来ならそう捉えるべきところを、前向きに受け取っているのはやはり件の日記が大きかった。暦は三月十三日を迎えている。

 予言通りであれば、明日はとうとう燭台切から想いを告げられる。この三週間を振り返る限り、日記と現実との間に大きな差異は認められない。順調に事を運んでいると考えて良いのだろうか。
 長谷部は枕元の冊子を引き寄せ、三月中旬までの記述をざっと読み返した。問題が無いことを確認してふと気付く。

 仮に恋仲になれたとしても、後に別れてしまっては意味が無い。遡行軍との戦いは未だ終わらず、明日の生死も判らぬ身である。何が原因であるにせよ、悲劇の芽は予め摘んでおくべきだろう。
 長谷部は初めて三月十五日以降の記述に目を通した。流し読みすることおよそ一月、紡がれる日々は平穏そのものだ。

 胸を撫で下ろしたところで指先が奇妙な感触を捉える。よく見ると頁が二枚重なりくっついていた。紙を破らないよう、糊付けされた頁をゆっくりと、慎重に剥がしていく。ようやくのことで開いた中身は、或いは日記を初めて読んだときの衝撃を上回るものだった。
 全面に飛び散った墨、感情のままに書き殴ったであろう荒々しい筆跡、惨状と呼ぶに相応しい見開きにまず度肝を抜かれる。さらに水でも吸ったのか、大半の文字はその輪郭を滲ませていた。

「帰ったら君を抱くよ、なんて恥ずかしいこと言っていたくせに。あいつはとんだ嘘つきだ。好きな子を泣かせる趣味は無いなんてどの口が言ったんだ笑わせる。嘘だ笑えないもういっそのことぜんぶ忘れさせてくれ」

 江戸城下に出陣した燭台切が折れた。四月十九日の日記は、その文面から始まっていた。