段ボール本丸 / 一

 

 

 機械的に手を動かし、まないたに転がったほうれん草を刻み込む。

 人の身を得て早数日経った。始め手足の存在に戸惑っていたことも既に懐かしい。包丁の感触はすっかり手に馴染んで、今や己も男所帯の本丸では欠かせない料理番の一角だ。
 ざくざくと小気味良い音が静かな厨に響く。残念ながら、一緒に作業することの多い歌仙くんは本日遠征に出ていた。無聊を慰めてくれる相手が居ないお陰で、作業的な仕込みの時間は単調に思えてしょうがない。さりとて気を紛らわせようと適当なことを考えれば、意識は自ずと今朝の一幕に向いてしまう。

「はあ」

 思い返すと改めて溜息が出る。今日も上手く行かなかった。一体何が原因なのだろう。顕現して日の浅い僕は彼の本心が掴めず、ただただ生じる困惑と焦りとを持て余すことしかできなかった。
「とーう!」
 不意に背を衝撃が襲う。危うく包丁を取り落としそうになった。
「とわぁ!?」
 崩れたバランスを持ち直せば、体重を載せた刃先が己の左手数ミリ手前に沈み込んでいる。恐ろしい。一歩間違えれば、夕飯のグラタンにはベーコンではなく長船派が祖、光忠が一振りのウィンナーが混入していただろう。文字通りお手製ウィンナーだよ! やったね、みっちゃん!

「ためいきはいけませんよ、しょくだいきりさん。しあわせがにげてしまいます」
 そう言って、僕から離れた霞色の天狗様はぴんと人差し指を立てた。忠告はごもっともだが、幸せより先に指先が逃げてしまう方が問題ではなかろうか。晩秋には似つかわしくない冷や汗を流しつつ、僕は台所の闖入者に向き直った。

「ありがとう今剣くん。でもね、調理中に悪戯をしてはいけないよ」
 成立年次と刀剣男士としての精神はあまり関係無いらしい。その幼い見た目が示すとおり、今剣くん含め短刀たちの言動は純粋かつ無邪気なものだ。しかし、いくら童子といっても道理は弁えなければならない。しゃがんで今剣くんに視線を合わせた僕は、言い聞かせるような口調で彼を窘めた。

「はーい」
 僕の誠意はちゃんと伝わっただろうか。間延びした返事を聞く限りでは不安が掻き立てられるが、まずは相手を信頼することから始めていきたい。

「で、なにをなやんでいるのですか」
 先の溜息について言及され、僕は詳細を話そうかどうか一瞬躊躇った。果たして当事者らで解決すべき問題を打ち明け、この小さな天狗に余計な重荷を背負わせて良いものだろうか。
「はなしてみるといいです。ぼくはこうみえて、くちがかたいのです!」
 備え付けの椅子に座り、胸を張る少年の姿は実に微笑ましい。その様子に和んだ僕は口を開こうとして――隻眼が捉えた人物を前に言葉を失った。

「今剣、廊下は走るなと常々言っているだろう」
 怜悧な声が空気を震わす。張り上げているわけでもないのに、よく通る低音は僕の心胆を寒からしめた。
「あわわわ、たいへんです! きしん、つりまゆおにのしゅうらいです! さらばしょくだいきりさん! とだなのビ●コはいただいていきますよー!」
 窮地を察した短刀の動きは早い。今剣くんはその恵まれたバランス感覚を活かし、椅子の背もたれを倒した勢いで空中に飛び上がった。流石の彼も面食らったような表情をしている。呆気にとられる二振りを尻目に、今剣くんはまんまとひとり虎口を脱した。

 そして厨に僕と彼のみが取り残される。気まずい沈黙の中、僕はおずおずと深紫のカソックを視界に収めた。
 菫色の瞳が真っ直ぐ僕を射貫いている。この厳格な眼差しの前では、彼の口癖通り怠慢など許されるはずもない。今の僕はまさに蛇に睨まれた蛙同然だった。

「や、やあ長谷部くん。何か用かな」
 我ながら馬鹿げた問いかけだと思う。短刀の不作法を注意するだけなら厨に残る必要は無い。そして今の彼は、とても今剣くんの捕獲を諦めて途方に暮れているようには見えなかった。
「ああ、主命だ燭台切。歌仙と入れ替わる形で遠征に出てもらいたい、と仰せつかった」
 長谷部くんの報告を受け、つい主の特徴的な姿を思い浮かべてしまう。

 この本丸の長、審神者は人ではなく、とはいえ動物の類でもない。

 僕が顕現して初めて知った現世の知識、それは段ボールという名を持つ箱状の紙製品だった。何故そのような珍妙な事態に陥ったかというと、この審神者がくだんの段ボールだったからである。比喩表現でも何でもない。長谷部くんが近侍として付き従う、我らが主は疑問の余地を挟むまでもなく完璧に段ボールだった。
 直方体の箱が喋ったり、動いたりする光景に衝撃を覚えた日々も今や過去である。いや、実のところ日数に直すと五日ぐらいしか経っていない。ただ当の本人、というか段ボールから「お前らだって刀のくせに話したり動いたりしてるだろ」と言われてしまっては、ぐうの音も出ないというか。

「了解、歌仙くんと交替なら夕飯の心配もしなくて済むね」
 できる限り声を明るくするよう努め、快く主命を承ったことを示す。実際、未だ練度の足りていない僕は内番が続いていたから、遠征に出られるだけでも有り難い話だった。
 人付き合いの基本とは笑顔である。僕は長谷部くんとの間に流れる息苦しい空気を払拭するつもりで、ことさら頬の筋肉を釣り上げてみせた。
「ああ。主の役に立てるよう、せいぜい励むと良い」
 にっかり作戦は多少なりとも効果があったのか、なんとあの長谷部くんから激励の文句を引き出すことに成功してしまった。
「あ、ありがとう長谷部くん! 期待には必ず応えてみせるよ」
 僕は素直に同僚の相槌を好意から出たものだと解釈する。舞い上がって謝辞も口を衝いて出た。

 歓喜に打ち震える僕を目の当たりにして、長谷部くんがその薄い唇を大きく吊り上げる。歪んだ口角は、およそ親愛を滲ませたものには見えない。

「礼など不要だ。さっさと練度を上げたいのだろう。いつまでも厨当番ばかりでは、食材切光忠に改名せねばならんからなァ」
 語尾に明らかな嘲りを載せて、へし切長谷部は踵を返した。もう用は無い。言外にそう語る刀は、残酷なほど優雅に厨を去って行く。

 ああ、まただ。長谷部くんはどうして、僕に冷たく当たるのだろう。
 今剣くんに告白するはずだった悩み。初めて本丸で出会った刀、へし切長谷部との不和に関して、僕は一向に解決策を見出せないでいた。

 

■■■

 

「長谷部! 太刀だ、初めての太刀だぞ!」
 陽気な声が隣に立つ誰かに呼びかけている。返る清音は柔らかく、温かみに満ちていて、僕に向けられたものでないと知りながらも好感を抱かずにはいられなかった。
 視界を覆う目映い光が徐々に晴れていく。降りしきる桜吹雪を掻いくぐるように、淡い藤色が僕を見据えていた。伸びた背筋に皺一つ無い衣服、意志の強そうな眉の形が彼の人柄を十二分に物語っている。
 美しい刀だな。正直な話、あのときの僕は彼に見惚れていたと思う。挨拶のための名乗り口上だって考えていたのに、主の姿を眼窩に収めるまで僕は身じろぎ一つできなかった。

「よく来てくれた燭台切。うちは稼働から間もない本丸だから戦力として期待してるぞ」
 僕を歓迎する声は藤色の彼から発せられたものではない。初めて意識を室内全体に向けると、彼の足下で風変わりな箱が独りでに動いているのが判った。

「……腹話術?」
「初対面で宴会芸を披露する趣味は無い。そこにおわすは、我らが本丸の主だ」

 僕の疑問に眉間の皺を深くしたのも束の間、彼は動く直方体を両の腕で抱き上げ、何故かその様を自慢げに見せつけてきた。
 はて、もしかすると、この箱は彼のペットか何かだろうか? 愛玩動物にしては些か趣味が悪くないか? やだなあ、顔も声も良いのにセンス皆無なんて勿体ない。会って二分も経たないうちに、僕は同僚に憐憫の眼差しを投げかけていた。

「段ボールが審神者やってて悪いか、あん?」
 渦中の人物がドスを利かせてくる。もっとも箱の表面に何の変化も見られないので、主(仮)の感情の機微については雰囲気で察するしかない。人間一年生の僕には少々難易度が高かった。というか、この道六十年のベテランでも匙を投げるレベルではなかろうか。
「貴様、まさかとは思うが主に不審を抱いているのではなかろうな」
 無表情な主(仮)の代わりに、あの美しい刀が柳眉を歪めて抗議の意志を示す。いや眉どころか、利き手は本体の柄を握りしめ抜刀秒読みの構えでいる。冷静に見えて意外と喧嘩っ早い彼に、先とは別の意味で心臓が痛くなった。「とんでもない。オーケー、ここの主はさっきまで君が抱えていた彼で、箱だけど喋るし動く。大丈夫、把握したよ」
 世には深く考えてはいけないことも有るのだろう。僕はまた少しだけ賢くなった。

「じゃあ長谷部、本丸ん中を適当に案内してやってくれ」
「主命とあらば」
 返事と共に無用となった武器が消失する。主の前に恭しく傅いた彼の目元は、垂れる煤色の髪に阻まれて窺うことはできない。ただ口の端からは隠しようもない喜びが滲んでいて、彼の主に対する忠誠心がはっきりと見て取れた。

「長谷部くんって言ったっけ。僕は燭台切光忠、青銅の燭台だって切れるんだよ」
 鍛刀部屋を出て、先程はうやむやになった口上を名乗る。あまり格好の良い由来ではないが、それが元主から賜った特別な名前であることに変わりない。
「では燭台切、と呼ばせてもらう。俺は長谷部……へし切長谷部だ」
「へし切?」
 変わった名前だと思った。思わず鸚鵡返しのようにその響きを確認すると、彼は判りやすく顔をしかめた。
「棚に隠れた茶坊主ごと圧し切った。前の主の、そんな狼藉が名前の由来だ」
 忌々しげに言い捨てた彼を前に、僕は何となく長谷部くんとは気が合いそうだと感じていた。こうして思い返すと、呑気というか太平楽というか、考えなしとしか言いようが無い。
「なるほど、君も切れ味が自慢の刀なんだね! 僕は家臣を手打ちした際に側に有った燭台まで斬ってしまったのが由来でね、エピソードとしてはそこそこインパクト有ると思うけど何分格好よさに欠けるのがねえ。はは、君とは仲良くなれそうな気がするよ。ねえ名前繋がりで、へし切くんって呼んでもいいかい」

 捲し立てる僕を置いて、長谷部くんはひとりさっさと先に行ってしまった。慌てて後を追い、何度か呼びかけてみるもいらえは無く、その歩みも止まらない。

 もしや怒らせてしまったのだろうか。舞い上がっていた僕がその可能性にようやく辿り着いたのは、彼がある部屋の障子を無遠慮に開けたときだった。

「秋田」
「わあ! どうしたんですか長谷部さん、奇襲ですか」
 部屋の主にとっても突然の訪問だったらしい。桃色の柔らかそうな髪を持つ短刀は、大きい目を白黒させて、仁王立ちする近侍と僕とを交互に見やっていた。

「新しく来た太刀の燭台切光忠だ。主より本丸の案内を申しつけられたのだが、急用を思い出したのでな。悪いが、俺の代わりに主命を全うしてくれないか」
「え、ええ!?」
 驚愕の色を見せたのは秋田と呼ばれた少年だけではない。口を挟めず、成り行きを見守っていた僕も長谷部くんの発言に少なからず動揺していた。

 案内も何も、鍛刀部屋を出てまだ数分しか経ってないじゃないか。僕は一体彼に本丸のどこを紹介されたのだろう。またも焼かれて記憶が都合良く飛んでしまったか?
「では頼んだぞ」
 用事は済んだとばかりに長谷部くんがカソックを翻す。僕は慌てて彼の腕を取った。今度は無事に立ち止まってくれたが、相手は僕と視線を合わせようともしない。

「待ってよ、長谷部くん。僕は君を怒らせてしまったんだよね。それについてはあや」
「燭台切」
 謝罪を述べようとする僕の言葉を感情の無い声が遮った。彼の腕を捉えていた己の手から一瞬力が抜ける。その隙を見てか、緊張に戦く僕の首に、彼の本体であるへし切長谷部が突きつけられた。

「俺は、へし切と呼ばれるのは好かん」
 鞘越しにも彼の怒気が伝わってくる。先頃僕を魅了した双眸の奥で、憎悪を宿した炎が静かに燃え滾っていた。中てられる冷たい殺気の前では、喉を鳴らすことさえ憚られる。

「今後同じ名で俺のことを呼んでみろ。その独眼竜、座頭市に変えるのもやぶさかではない」
 そのときの僕は息をするのも忘れていた。遠ざかる足音がどこか現実離れして聞こえる。残された秋田くんは腰を抜かし、僕は右手を喉に当てて首が繋がっていることを無意識に確認していた。

■■■

 

「こうも的確に地雷原でのタップダンスを披露されると表彰もんだわ」
 唖然とした加州くんがおざなりな拍手を入れる。ちゃっかり彼の隣に腰掛けていた薬研くんも参加して、塞ぐ僕の心は即興のアンサンブルで追い打ちを掛けられた気分になった。

「もう! 僕は! 真剣に悩んでるんだよ!」
 膝を叩いて態度の改善を要求したけれども効果は今ひとつのようだ。
 縋るような思いで、同行していた宗三くんと伽羅ちゃんに視線で訴えかけてみる。結果は控えめに言って芳しくない。そもそもふたりは僕の話を聞いている最中も眉一つ動かさなかった。

 知り合ったばかりの宗三くんは解るよ? でもね、伊達時代からの仲である伽羅ちゃんの無反応は流石に堪えるものが有るね。あんまりだね。
 もはやどうどう、と僕を宥めてくれる秋田くんだけが僕の味方だった。ありがとう、格好悪いから涙は見せないけど心の中は土砂降りだよ秋田くん。

「いやあ、すまんすまん。あまりにも旦那のステップが完成されすぎてたもんだから、ついな? 茶化すつもりは無かったんだ」
 居住まいを正した薬研くんがすぐに先の無礼を詫びてくれたので、僕もこれ以上の追及は控えることにした。彼は短刀だというけれども、容姿はともかく器量に関しては下手な太刀の上を行くと思う。主に少年に慰められて平常心を保っている燭台切某と比べての話だが。

「それで? 初日からずっと会うたびにチクチク嫌み言われてるって? うわあ、小姑かよあいつ」
「実際、小姑なみに粘着質ですからね、あの刀は」
 加州くんの意見に、これまで沈黙を保っていた宗三くんが賛同を示す。
 彼と長谷部くんとは、織田に居た頃からの付き合いらしい。顕現したての僕と比べるまでもなく、宗三くんは長谷部くんの人となりをよく理解している。だからこそ一緒に遠征というこの機を逃す手は無い。なけなしの休憩時間が来るやいなや、僕はすかさず宗三くんに声を掛けた。今まで話したことがほとんど無かったから多少驚かれはしたけれども、彼は快く相談に乗ってくれた。

 さらに面白がった加州くん、薬研くんも加わり、ひとりで岩場に腰を落ち着かせようとしている伽羅ちゃんを僕が引っ張ってきて、事情を把握している秋田くんも同席してくれたから、結局は全員で僕の話を聞いてくれることになった。何だかんだ最後まで静聴を貫いてくれた伽羅ちゃんも含め、皆揃って付き合いが良い。

「しかしですね、あれが執着するのはそれなりに心許した人物だけです。貴方はまだスタートラインにすら立っていないでしょう? 僕としては、そこが引っ掛かります」
 スタートラインにすら立てていない、という表現に悲しくなったけれども、宗三くんの指摘には目を見張るものが有る。僕に対する長谷部くんの態度は、古馴染みの宗三くんから見ても腑に落ちないものらしい。それを吉と捉えるか凶と捉えるかは微妙なところだが、今の二進も三進もいかない状況に光明が差したことは確かだ。

「そうだなあ。長谷部は気にくわないことが有ればすぐ口に出すし、同じく自分に向けられた不満も素直に受け入れる。善処するかどうかは別だがな……それでも、自分に非が有ると認めた相手を、理由もなく嘲る真似はしねえと思うぜ」
 宗三くんの疑問に乗っかる形で、薬研くんも長谷部くんの違和を肯定した。知己の二振りが共に認めるならば、長谷部くんが僕に対して特別思うところが有るのは間違いないだろう。

 問題なのは、心当たりを探ろうにも僕自身、皆目見当も付かないということだった。初対面での不躾が争点ならその日のうちに謝ったし、宗三くんたちの話を聞く限りでは要因ではあっても原因ではないと見える。

 さて、己の一体何があの麗しい刀を憤らせるのか。いくら頭を悩ませてみても、思考は霧が掛かったままでろくな回答を示してくれない。結局のところ、本人に直接訊いてみるしか無さそうだった。

「……自分が悪くないと思うなら、もっと堂々としていろ」
 不意に寄せられた鼓舞に、知らず伏せていた顔を上げる。伽羅ちゃんは腕を組んだまま、砂利ばかり転がる地面を見つめていたけれども、先の言葉が僕の背を押そうとして発せられたことは明らかだった。
「そうだね、ありがとう伽羅ちゃん」
 諦める必要は無い。彼が真に送りたかった声援とはそれだろう。常日頃より馴れ合いはごめんだと言いながら、困っている誰かを見捨てられない彼は、本当に優しい刀だった。

「そうですよ燭台切さん! まだ勝負は始まったばかりです、僕と一緒に長谷部さんという名の大海を制しましょう!」
「秋田くん……! ああ、頑張る、僕頑張るよ! 長船派が祖の名に恥じぬ舵取りで大洋、長谷部オーシャンを見事渡りきってみせるよ!」

 秋田くんと手に手を取り、ふたり揃って足場も不安定な河原で踊り出す。宗三くんと伽羅ちゃんからは本気で引く気配が、加州くんからは乾いた笑いが漏れたけれども、上機嫌な僕たちは気にしない。少なくとも薬研くんは鷹揚に構えていてくれたし、今回の遠征は僕としては花丸を付けたい出来だった。

  

■■■

 

 この本丸の近侍部屋は、主の私室から見て斜向かいに位置している。

 資料室を隣に据えた六畳一間は、文机や書棚を除いて家具らしい家具も見当たらない。歌仙くん辺りならば丸窓の前に季節の花でも添えようが、生憎と今の近侍様は部屋の景観に対してあまりに無頓着であった。

 ――仕事が出来るなら問題無いだろう?

 良くも悪くも実務的な彼の関心は、主の手となり足となり、いかに本丸を上手く運営していくかという一点に注がれている。資材の在庫数、政府への報告書、内番のシフトなど確認する事項は少なくない。それらの煩雑極まる事務仕事を、へし切長谷部は嫌な顔一つ見せずに淡々とこなしていった。

 難しいというより、ひたすら面倒な仕事であったから、いくら要領の良い刀であっても切り崩すのに相応の時間は要る。真っ先にその皺寄せが行くのは睡眠時間で、彼は今日も消灯の刻限を迎えながら電子画面と格闘しているようだった。

「長谷部くん、ちょっといいかな」
 入室の前に一言断ると、障子越しに映る長谷部くんのシルエットが僅かに揺らいだ。輪郭しか捉えられない黒々とした影は今どんな顔をしているのだろう。互いの姿を想像でしか補えない現状で、僕は持参したお盆を掲げてみせた。手ぶらでないと主張した効果が有ったのか否か、さほど間を置かずして障子が開かれる。

「お仕事ご苦労様。少ないけれども夜食を持って来たよ」
 梅、鮭、昆布といった定番どころのおむすびに、入れたての玄米茶を持って僕は夜の近侍部屋にお邪魔した。長谷部くんは差し入れの内容を確認するなり、怪訝な顔つきで僕を睥睨する。湯飲みを二つ用意した時点で、長谷部くんのこういう反応は十分予測できていた。

「居座るつもりか貴様」
「そんなに長いこと拘束するつもりはないよ。でも、お茶が冷めるくらいの時間は付き合ってくれないかな」

 作業机の近くに盆を置き、僕は平然と自らの湯呑みを手に取る。白い湯気がふたりの間にほかほかと立ち上がっては消えていった。居心地悪そうに佇立していた部屋の主も、僕に引く気が無いことを知って諦めたらしい。いやに薄い座布団に腰を下ろした長谷部くんは、作った側としても惚れ惚れするような勢いで夜食にかぶりついた。

「遠征の件だけど、あれは僕が早く出陣したいって今朝ぼやいてたの、気にしてくれたんだろう」
 今日こうして長谷部くんとふたりきりで話すのは、厨での件も含め三回目だ。

 初めの邂逅は、内番や出陣の編成を掲示板の前で確認していた朝方のことだった。
 特もついていない僕は、内番か雑務に回されてばかりで未だに実戦を経験していない。この調子では部隊に配属されるのもいつになることやら。廊下でひとり項垂れる僕を立ち上がらせたのは他でもない、日課をこなしに来た長谷部くんだった。
 でかい図体で進路を阻むな、と鬼の近侍様に咎められては背筋も伸びる。ネームプレートを抱えた長谷部くんは、迷いの無い動きで掲示板に張り出された名前を入れ替えていった。開放されている第三部隊までの編成に、今日も僕の名前は挙がっていない。その事実を知った僕は、また厨当番かあ、と不遜にも零してしまった。新人の慨嘆を聞き逃さなかったらしい長谷部くんが僕に視線を投げ寄越した。

「家政夫の真似事に満足しているように見えたが、お前も敵の身体を裂きたいか」
 血生臭い表現にいくらか鼻白んだけれども、長谷部くんの揶揄は強ち的を外していない。
 僕らは異名を得るほどの切れ味を誇りとし、兵器として活躍するため人の身体を得て顕現した。肉を断つ欲求に駆られるのは刀の本分から見れば不思議ではない。
「厨の仕事も楽しいけど、こう見えて実戦向きだからね。早く長谷部くんとも轡を並べて戦ってみたいものだよ」
 へし切長谷部の戦う姿はさぞ美しかろう。戦場での彼を一度たりとも目にしたことが無いにも関わらず、僕はその憶測に半ば確信を持っていた。

「お前は本当に口の減らん刀だ。媚を売るなら近侍ではなく、主に直接物申したらどうだ?」
 僕の分不相応な願望は相手にもされない。長谷部くんは、僕が好意的な態度を示すと必ず侮蔑や嘲弄を以て応じてきた。今回も例外ではなく、張り詰めた空気をものともせずに長谷部くんは去り、困惑する僕だけが毎度その場に立ち尽くす羽目になる。

 これまでは偶然居合わせただけだった。その反省を活かし、今回は僕が長谷部くんを訪ねる形を取ったから、僕が退室しない限り長谷部くんは中途半端に会話を切り上げることなんてできやしない。

 今日という今日は長谷部くんの本心を聞き出す。僕は不退転の覚悟を以て、この場に臨んでいた。

「次にどの時代へ出陣するか決めるのは主だけど、誰を送るかは近侍の判断に委ねられていると聞いた」
 主命とはいえ、窓に西日が差し込む時間帯になってから遠征の予定が入るとは思いがたい。僕が厨に詰めている理由には、料理を得意とする刀が少ないからという切迫した事情も含まれている。本丸の現状を誰よりも把握している彼が、わざわざ僕を指名したことを、単なる偶然と片付けたくはなかった。

「多少なりとも、君から期待を掛けられていると思って良いのかな」
「うちの本丸に初めて来た太刀だ。早く戦力になってもらわねば話にならん」
 湯呑みを傾けた長谷部くんは、さも渋さの権化のように玄米茶を啜る。口当たりの良い緑色の水面には、頬に苦笑を滲ませた僕の顔が映っていた。

「この本丸に来た日に君を怒らせてしまったこと、僕は今でも悔やんでいる」
 意味もなく湯呑みを持ち替えたり、畳の目を数えたりしながら、僕はようやく本題に移った。二度目の謝罪は、拒まれる恐怖を知っているだけに、衝動に任せた一度目よりもずっと恐ろしい。
「僕がしでかした無礼なら何度だって謝る。だから、どうか僕を本丸の仲間として、君の友として迎え入れてほしい」
 頭を下げる。必死と思われても、僕は言葉と誠意とを尽くしたつもりでいた。これでもなお認められないというのなら、金輪際彼とは関わりを持たないようにすれば良い。

「友か、そうか」
 僕の言葉をなぞるように長谷部くんが小声で呟く。上体を起こして相手の出方を窺うと、覚悟していたような嘲りの色は見られなかった。いや、寧ろ何かに苦しんでいるようにそのかんばせには愁色が差している。その真意を伺うより一瞬早く、長谷部くんが口を開いた。その唇の形は、夕方の再現のように歪んでいた。

「友ならば、俺の頼みも聞いてくれるな燭台切」
「も、勿論」
 不穏さを忍ばせた長谷部くんの笑みが僕の肌をひりつかせる。湿り気を帯びた彼の口調を友好的と捉えるほど僕はなまくらになったつもりは無い。

「では今から、この荷物を資材置き場に運んでくれ」
 誰にでも判る。長谷部くんの「頼み事」は、体よく僕を部屋から追い出すための口実だった。

 しかしながら、それを断る選択肢は僕の中に存在し得ない。利用されているだけだとしても、この要求を撥ねのければ友でありたいという先の嘆願を自ら否定することになる。たとえ実態の伴わない肩書きでも、僕はその響きに縋りたかった。

「構わないよ、僕たちは友達だからね」
 二つ返事で引き受けると、長谷部くんはまた微かに眦を吊り上げる。彼の言う通りにしたというのに何故不服そうなのか。僕には長谷部くんという刀が解らない。

 お盆と入れ替わりに、重量感の有る段ボールを持って近侍部屋を出る。
 今晩の対話は前進だったのか、はたまた後退であったのか。ただ彼の横暴に振り回されて終わっただけではないのか。友になりたいと土下座までして頼み込んだ結果がこれとは無様にも程が有る。
 ぎり、と不快な音が耳に届く。僕は、知らず知らず奥歯を噛みしめていた。

 わあ、何も見えない。
 太刀故に夜目の利かない僕は、荷物に溢れて窓を塞いでいる資材部屋の暗さに怖じ気ついていた。

 夜光すら入らない室内は、僕の視点からだと黒一色に染まって見える。たかが段ボールを置くだけと甘く考えていたが、足を踏み入れるなり脛を強打した僕はその場に蹲った。さぞ今の僕は情けない姿をしているだろう。誘導役の有無はともかく、他に誰も居なくて良かったとこのときは心底思った。
 痛みの引いた僕はすっくと立ち上がり、灯りを確保するため来た道を戻ることにした。うろ覚えだが厨にはライターも置いてあったはずだ。廊下に荷物だけ放置して帰ることはできないので、僕は心持ち早足で板張りの床を駆けていく。

「ひぶぅ!」
 勢いのままに角を曲がった先で何かにぶつかった。慌てて悲鳴の正体を確認すると、これまた段ボールを持った秋田くんが目を回して倒れ込んでいる。
「ご、ごめんね秋田くん! 大丈夫!? 怪我してない!?」
「だ、ダンプカー……」
 謎の遺言を漏らす秋田くんに危機感を覚え、血色の良い頬を何度か叩く。幸いに秋田くんはすぐに意識を取り戻したので、僕はほっと胸を撫で下ろした。

「無事で良かった。で、こんな夜中に段ボールなんて抱えてどうしたんだい?」
 秋田くんの代わりに端に転がってしまった段ボールを抱え込む。意外なことに、先の資材を詰めた箱と大して変わらない重量感が伝わってきた。短刀の子が持つには文字通り荷が重いのではなかろうか。

「あ、それはですね」
「新鮮なメスの気配を感じたんだ」
 秋田くんの代わりに腕の中の段ボールが僕の疑問に答える。驚きのあまり箱から両手を離してしまった。重力の力を借りて床に降り立った段ボールから鈍い声が上がる。

「主か、ごめん。というか痛覚有ったんだね」
「痛覚も性欲も有るわ、紙製品と思って舐めとんちゃうぞ」
 息巻く主の表面を撫で擦り、改めて一振りと一箱から事情を伺う。
 主曰く、夜中に新鮮な段ボールの気配がしたので、秋田くんに障子や鍵を開けてもらって自ら未来の伴侶を出迎えに行こうとしたらしい。
 段ボールに雌雄が有ることにも驚きだが、何より、もうじき日付も変わるというのに侍従に短刀を選ぶという発想がまた信じられない。

「そういうことなら、せめて青江くんとか加州くんに頼みなよ。君は秋田くんの前で女性を口説こうとしてたのかい? 情操教育に悪いとか思わないの?」
 敢えて長谷部くんとは言わない。確かに彼なら喜んで随伴するだろうが、最中も主を優しく見守る姿が容易に想像できてしまう。その熱視線に耐えてナンパを遂行できる男は相当な猛者だ。喩えるなら、子供以上に張り切る母親を背後に据えた授業参観の構図に近しい。苦行を通り越して完全に拷問の域に達している。

「寝所警護は短刀の仕事だったって聞いてるから平気だろ。大丈夫だって、俺も会っていきなり合体とかしないから」
「合体って何? 段ボールハウスでも作るの?」
 ジェネレーションギャップというやつだろうか、主の言動は鎌倉生まれの僕には度し難い。何にせよ、秋田くんの細腕に主の運搬を任せるわけにはいかないので、僕もふたりに付いていくことにした。

 結論から言うと、僕たちの目的地は一致していた。
 主が捜していた女性とは、先程長谷部くんに頼まれて僕が運んできた箱のことだったらしい。僕らの前では饒舌を振るっていた主も、いざ彼女を前にするや緊張して言葉を無くしてしまった。

 好機とばかりに、僕は秋田くんの案内に従って段ボールを室内に運び始める。時間帯に配慮した主の叫びが後方から上がったが、今生の別れになるわけでもないので放置した。

「おい燭台切、お前あの美女どっから拐かしてきたんだよ」
「人聞きの悪い言い方しない。長谷部くんから頼まれただけだよ」
「長谷部さんに?」
 長谷部くんの名前に秋田くんがいち早く反応する。彼は初日からずっと僕と長谷部くんとの間を気に掛けてくれていた。秋田くんからすれば望んでもいない修羅場を面前で見せつけられたのだから無理もない。しかし、和解を願う彼には申し訳ないが、お世辞にも今回の話し合いが成功だったとは言えないだろう。

「ああ。まだ他の刀ほど仲良くはできてないけど、少しずつ前進はしてるはずだよ」
「燭台切って、しれっと嘘吐くよな」
「主こそ、しれっと酷いこと言わないでくれないかい?」
 嘘をついたわけではない。たとえ進む方向が後ろ向きであったとしても、見方を変えれば前進してるとも言える。そりゃあ僕だって言い訳としては苦しいと思うよ。でも実情を打ち明けて秋田くんを悲しませるぐらいなら、卑怯者の汚名を被った方が幾分かましだ。

「俺は、今のお前じゃ長谷部とは仲良くなれないと思うよ」
 息を呑む。五日間の苦労を水泡に帰すかのような主の呪詛が、ぞわぞわと身体の奥深くまで浸蝕していった。言い得も知れぬ悪寒が全身を苛む。反論は、否定の言葉は、全く浮かんでこない。主の思い描く未来は、吐き気がするほど現実味を帯びていた。

「どうしてですか主君。燭台切さんも、長谷部さんも真面目で良い人なのに」
「真面目で良いやつが全員仲良くなれたらドンパチなんぞやらねえだろ」
 もし主が人の形を取っていたら、今はさぞかしニヒルな笑いを浮かべているのだろう。肉体を得て僅か五日だというのに、自分は表情や声色を介してしか相手の心情を推し図れなくなってしまった。刀であったときの己と同様に、目鼻口の無い主が何を考えているかも解らない。

「じゃあ、君はどうすれば良いと思うんだ」
 気力を失った僕は壁に背を預けた。身体を傾げたまま主を見下ろすのは不敬かもしれないが、彼は多少の不調法を逐一取り上げたりしないだろう。

「長谷部はさ、お前が考えてるよりずっと単純なやつだよ」
「んん?」
「要するに馬鹿だって話。で、馬鹿故に行動に迷いが無くて始末が悪い」
 主の語るへし切長谷部と、僕の知っている長谷部くんとは、全く別物に聞こえる。頭の中で色々と試行錯誤してみたけれども、やはり両者が一本の線に繋がることは無かった。

 あの冷静で、効率重視で、無駄なことを嫌う長谷部くんが単純馬鹿だって? 確かに主に対するへし切長谷部は忠臣そのもので、男士たちへのつれない態度とはまるっきり異なるけれども。その主に侍る姿だって、合理性を重んずる発言の数々は単純馬鹿とは程遠いじゃないか。

「だからお前も、長谷部に譲歩する必要は無いと思うぜ。俺から言えることはそれだけ」
 首を傾げる僕と秋田くんを置いて、主ひとりだけが納得している。
「つまり、どういうことだい?」
「得意の打撃で、あの綺麗な顔の一つも吹っ飛ばしてやれば?」
 物騒極まりない意見が段ボールから飛び出した。冗談じゃない、血臭に焦がれるのは戦場だけで十分だ。そもそも、第一部隊を率いる隊長と正面からやり合ったところで勝敗は見えている。

「今の練度差じゃ僕が一方的に殴られて終わるよ」
「頑張れ頑張れ」
 これっぽっちもやる気の感じられないエールが送られてくる。その中央に走るガムテープをマスキングテープに差し替えてやろうか、とクーデター計画を練りかけた。

「喧嘩はどうかと思いますよ、主君」
「男には拳を通してしか解らないものも有るんだぜ秋田くん」
「それもそうですけど、長谷部さんを怒らせるなんて正気じゃないです。考えただけでも怖いです、夜中に厠行けなくなっちゃいます」
「安心しろ秋田くん、燭台切の怒った姿も相当だから」
「はい、そこ。さも見てきたかのように言わない」
 もう夜も遅い。これ以上僕の風評被害が広がる前に、さっさとふたりを部屋まで送り届けてしまおう。

「だからな秋田。燭台切の堪忍袋の緒が切れないよう、常にしっかり見張っておくんだぞ」
「はーい」
 勝手なことを言う主に青筋を立てながらも、僕は敢えて弁明せずに無言を貫いた。焦って発言を訂正したら、反って本性が苛烈であると認める気がしたのである。人付き合いは、常に柔和に穏やかに、格好良くいきたいよね。 

■■■

 

 長谷部くんとの関係が特に好転もしないまま、僕は初陣を迎えた。

 資材調達が主の遠征や演練には時折出させてもらっていたけど、時間遡行軍と直接相見えるのは今回が初めてとなる。
 武具を身につけ、手袋を内番用から出陣用のものに替えている間も血が沸き立つのを抑えられない。いかに人の身を得ようと、己が本分は肌肉を切り裂くことに在る。戦い以外の悦びを知った今でもなお、敵を斬り伏せる感覚は、何者にも代え難い愉悦を与えることだろう。

 本来であれば諸手を挙げて喜ぶところだが、配属された部隊の長は例の彼が任命されていた。長谷部くんが戦場に私事を持ち込むような刀でないことは重々承知している。ただ不安が拭えないのもまた事実だった。同じ部隊に秋田くん、伽羅ちゃんも編入されていたことがせめてもの救いだろう。

 出陣先は戊辰戦争時代の鳥羽が選ばれた。さほど敵も強靱ではなく、練度の低い刀に経験を積ませることが目的なのは明らかだ。おそらく苦戦もせず、皆壮健のままに帰還するに相違ない。
 そうであってくれ。敵の攻撃ではない何かを要因として負傷する未来予想図を、かぶりを振って無理矢理に掻き消した。

 隊長に長谷部くんを、副隊長に青江くんを据えた部隊が、留守居の面々に見送られて時代を逆行する。視界はおろか身体ごと歪められる違和感に寸刻耐え抜くと、本丸とは異なる空気が全身を包んだ。途端に鼻を突く独特の臭気は嗅ぎ慣れたものと言って差し支えない。

 高台に立つ僕たちの眼下では、銃や刀を手にした兵士たちが隊列を成して固まっている。まだ薩摩藩と旧幕府軍は接触しておらず、待機を命じられている兵士たちの緊張も些か緩んでいるように見受けられた。
 もし僕が彼らの敵であったなら、今ほど奇襲にうってつけのタイミングも無いだろう。その思いは六振りに共通していたらしい。誰に命じられるわけでもなく、皆本体の鯉口に手を掛けていた。

「来るぞ」
 先頭に立つ長谷部くんが虚空に身を躍らす。彼の宣言とほぼ同時に、蒼穹に不気味な亀裂が走った。異質な音と共に空間が割れて、次々に異形の兵士らが鳥羽の地へ降り立つ。

 一連の怪異を目にした薩摩藩の誰かが声にならぬ叫びを上げた。恐怖は周囲に伝播して恐慌となる。見るからに人外のなりをした時間遡行軍は、彼らから容易に理性を奪っていった。パニックに陥ったまま何も解らずに撃鉄を落とした兵もいる。目測を誤った弾丸は敵影の脇をすり抜けて役目を終えた。
 短刀を模した遡行軍の一振りが目標に迫る。人より最も遠い姿を取ったはずの化生が捕食者の顔を見せたとき、その刀身は粉々に砕け散った。

「俺より速く動けると思ったか」
 冷笑が断末魔を迎えた敵の耳朶に響く。刹那の間だけ走った銀色の閃光は、滑つく血糊を浴びてなお健在だった。
 彼が身を起こせば纏っている青朽葉の帯布も揺れる。刀身にこびりつく臓物を振り払った刃は、背後の敵脇差をも横薙ぎに裂いた。迸る血煙が容赦無く長谷部くんの右半身を穢していく。奇襲など初めから見抜いていたのだろう。赤銅色の化粧を乱暴に拭う彼の横顔は、気力に充ち満ちている。
 ようやくのことで敵の短刀を一振り屠った僕は、首級を上げたことよりも大きな興奮をこの身に感じていた。

 あれが、へし切長谷部。嘗て第六天魔王にその切れ味を絶賛された名刀中の名刀。
 己に向けるのとは全く異質の、研ぎ澄まされた殺意は、皆焼の刀文と同様にどこまでも美しい。淡い色彩の瞳孔は昂揚に濡れ、ぎらついた光を放っている。支離滅裂な咆哮を上げて斃れる怪物より、彼の方が余程獣じみて見えた。

「燭台切、撤収だとよ撤収。聞いてるのか、おおい」
 薬研くんの手袋が目の前で揺れている。それに気付いたときには、敵軍の姿は影も形も見当たらなくなっていた。遠目に秋田くん、伽羅ちゃん、青江くんの無事を認めて、ひとまず全員が健在であることに安堵する。

「ごめん、ハイになっていたせいか少しぼけっとしてたみたい」
「はは、それ部隊長様に言ったら大目玉を食らうぞ」
 件の部隊長様は腕を組んで僕らの帰還を待っていた。その右腕を注視すると、彼の人差し指が忙しなく二の腕をとん、とんと叩いている。合流したら間違いなく小言を浴びせられるだろう。

「遅い」
 開口一番に長谷部くんから叱声が飛ぶ。部隊長は怒りも露わに僕との距離を詰め、威嚇するように柄頭をこちらへ向けてきた。そのまま少し腕を振り上げれば、彼の本体は僕の顎先を容赦無く打ち据えることができる。
「燭台切、初陣で浮き足立つ気持ちは判らんでもないが団体行動は乱すな。隊長である俺の指示には従え。集合の合図を聞いたら十秒以内に駆けつけ」
「長谷部くん」
 衝動的にへし切長谷部の柄を両の掌で包み込む。ふぇ、と間の抜けた声が長谷部くんの口から漏れるも、僕にはそれを気に留める余裕など無かった。

「さっきの君すっごく格好良かったよ! 飛び降りるなり空中で刀を抜いて、着地する前に崖を蹴り上げて跳躍ってほとんど曲芸の域だよね! それで敵を斬ったと思ったら返す刀でまた背後の敵も一蹴! 豪快なのに無駄が無くて! 流石は近侍で第一部隊の隊長やってるだけあるよね! ちらっと横目で見てるだけでもドキドキしちゃったよ!」
 胸中の思いを残らず吐き出す勢いで長谷部くんへとぶつける。彼の勝ち気なつり眉が八の字を描くのを僕は初めて見た。それでも僕の口からは、先の戦いぶりに対する賛辞が止めどなく流れ出ていった。逸る鼓動が、生死のやり取りで孕んだ熱が、この感動を直接伝えろと訴えかけてくる。

「ああもう思い出したらテンション上がっちゃうな、そうだ長谷部くん帰ったらサイン書いてサイン」
「お、大倶利伽羅!」
 名指しされた伽羅ちゃんがびくりと肩を震わせた。いくらか逡巡しながらも、真面目な旧友は隊長命令を無視できなかったらしい。
 羽交い締めされたまま部隊長様の説教を聞いているうちに順当に己の熱も冷えていく。そうして、僕は無事先程の醜態を客観視できるようになり、皆に見守られながらひとり頭を抱えるに到った。

「なんたる、無様な……」
「ああも情熱的に握られたら火照ってたまらないだろうねえ……柄の話だよ?」
「記憶を上塗りする良い方法が有るぞ旦那、インパクトにはインパクトで対抗だ。今度は全裸になって戦おう」
「二振りともネタにする気満々だよね、酒の席の定番ネタにするつもりだよね」
 盛り上がる青江くんと薬研くんに恨めしげな視線を送るも、彼らが僕を顧みる様子は無い。哀しいかな、伽羅ちゃんから貰った干菓子が妙に塩辛く感じられる。これを渡してきた刀は厠に行くと言って席を外していた。おそらく集合が掛かるまで戻っては来ないだろう。

 仕方ないので、友人の不器用な優しさは秋田くんとふたりで堪能することにする。甘納豆を喜々として頬張る彼は年相応の子供らしくて、見ているだけのこちらも幸せな気持ちになった。帰ったら短刀くんたちに差し入れでも持って行こう。
「落ち込まないで下さいね、燭台切さん。長谷部さんの戦ってる姿が格好いいというのは、みんなも思ってることですから」
「秋田くん」
 感極まって眼下に在った桃色の頭髪に手を伸ばす。見た目通り柔らかい和毛にこげは、撫でられると素直に形を変えるので指に心地良い。

「君は優しいね。帰ったら好きなお八つ何でもリクエストしてくれ」
「僕は甘味より今晩の副菜にもずくをリクエストしたいなあ」
「君はいつから秋田くんになったんだい、にっかり青江くん」
 もずくを副菜に据えたメニューを考えていると、伽羅ちゃんが部隊長を伴って戻ってくるのが見えた。どうやら休憩は終わりらしい。

「敵の本陣が判った。日が傾く前に決着をつけるぞ」
 手書きの地図を広げた長谷部くんが進軍ルートを大まかになぞる。本陣の手前で道が二つに大きく分かれていた。分岐地点を中心に、隊長の白い手袋が円を描く。
「索敵は入念に行いたい。後顧の憂いを断たねば、本陣と奇襲部隊とで挟撃されかねん」
 本陣とは比べるまでもない規模だが、本陣から南下した位置に別の駐屯所が設けられている。仮にこれと合流されたら厄介なことになるだろう。

 過去に送り込める男士は六振りまでと決まっている。斥候に割く人員も惜しいくらいだが、万が一のことを考慮して索敵は二振りで行うことになった。
 選ばれた青江くん、薬研くんが戻ってくるまで残りの四振りは進軍しない。問題の岐路は木々も少なく視界も開けていたので、それより少し奥まった場所での待機となる。

 それにしても慎重に慎重を重ねた行軍だ。近侍として事務の一切を処理しているときの姿なら納得できるが、あの鬼神のような戦いぶりを見せられた後では拍子抜けにも感じる。兵は拙速を尊ぶを地でいきそうな刀らしからぬ采配だった。

「珍しいですね、今日は本陣直行じゃないんですか」
 何度か鳥羽に出陣している秋田くんも似たような感想を抱いていたらしい。まだ練度の低い僕と伽羅ちゃんは揃って部隊長の方を向いた。長谷部くんは木に寄りかかって斥候部隊の復命を待っている。
「今日は初陣のやつもいるからな、石橋を叩いて渡るに越したことはない。下手に進軍して負傷されたのでは資材が無駄になる」
 ぶっきらぼうな言い回しが照れ隠しでないことは判る。彼は刀としての自分に矜恃を持っているし、怪我を負っても怯むどころか益々好戦的になる質だった。手入れについても、主の手を煩わせるという理由で避けたいだけなのだろう。
 それでも彼が、戦果より僕たちの安全を優先しているのだと知って僕は嬉しくなった。表情を悟られないよう、少し俯いて頬の筋肉を緩める。こんな腑抜けた顔を見られたら部隊長様からどやされるに違いない。

 乾いた風が一行の間を吹き抜けた。草蕪が揺れる。小枝がしなる。冬景色が立てる物音に交じり、硬質な何かが空気を裂くのを、確かに耳にした。
 鞘に収めたままの本体を力任せに振り回す。下から打ち払われた飛来物は、向かいの幹に深々と刺さって杭を立てた。金属特有の重量感が痺れとなって腕に伝わってくる。第二撃が来る前に全員が抜刀を済ませた。

「挟み撃ちと各個撃破、どちらがマシと言えるだろうか」
 忌々しげに呟く長谷部くんが鞘を投げ捨てる。茂みと木陰の合間から覗く敵影を脅威とみなしたわけではないだろう。僕ですら対応できる程度の奇襲は、あまりにも粗末でおざなりだった。こうなると数の劣る偵察組の安否の方が危ぶまれる。

「ひい、ふう……ふん、十二体か。ひとり三殺とは言わん。隊長の俺が責任を持って二振り分のノルマをこなしてやろう」
 長谷部くんならやりかねない。あの突出した機動を以てすれば、僕が二体相手する間に四体分の返り血は浴びているだろう。有言実行とばかりに長谷部くんは地を駆り、藪ごと遡行軍の上体を圧しきっている。敵短刀の尾のような長い体躯が一刀の下に千々と舞った。隊長に続き、残りの三振りも各々敵を相手にし始める。

 第一波の撃退は早々に終わった。第二波、第三波の襲来は間断置かずに行われ、いよいよ多勢に無勢の様相を呈してくる。バラバラに動く中、気付けば僕と背中合わせになっていた伽羅ちゃんから「おかしい」という声が漏れ出た。

「敵に打刀がいる」
「それはおかしなことなのかい?」
「ここに出兵するのは概ね短刀か脇差だ。打刀は、首領以外に見た覚えは無い」
 脂汗が頬を伝う。旧友の発言を咀嚼するなら、それは大将自ら対抗勢力の迎撃にお出ましになったということではなかろうか。偵察に向かった二振りは今頃、誰も居ない本陣を前に蒼然としているかもしれない。

「了解、あのセンスを疑う笠さえ斬れば敵は総崩れになるんだね」
 高所から指示を出している編み笠を睨め付ける。僕たちの中で遠戦の可能な装備を所持しているのは秋田くんだけだった。彼が刀装を展開するのに十分な時間を稼がなくてはいけない。僕は伽羅ちゃんに後を任せ、秋田くんの下へ走った。

「秋田くん、僕が周りを相手にしてる間に首領を狙って!」
「は、はい!」
 僕には、長谷部くんや秋田くんのように速度を活かした戦いはできない。数に任せて迫る敵を相手取るなら一対一の構図は非合理的だ。

 そう判断して、適当な短刀の尾をひっつかむ。その顔面を足蹴にし刃が砕けたことを確認するや、掴んだ尾を思いきり振り回した。短刀の何振りかが旋風に巻き込まれて地に堕ちる。再び宙を舞われる前に、光忠が一振りを順次叩き込んでやった。

「無茶苦茶な戦い方をする、必死か」
「必死だとも。何せ僕はこれが初陣なんだからね」

 蛮族じみた戦法を採る僕と違い、長谷部くんは前髪を汗で貼り付けた今ですら敵を一体一体、確実に破壊していく。
 斬り、突き、薙ぐ。その動作が装甲や肉壁に阻まれることなど有り得ない。軌跡は常に一筋の線を描き、白刃がきらめけば鮮血が飛びしきる。それはへし切長谷部にとって当然の道理だった。

 第五波を押しのけ、遂に秋田くんの準備が整う。矢石が崖上の打刀へ向けて雨のごとく降り注いだ。瞬く間に針鼠の仲間と化した首魁がバランスを崩す。空中に投げ出された長躯は、重力の赴くまま地上へと落下していった。

 肉と骨の砕ける音が響く。俄に訪れた静寂の中では脈打つ鼓動がいやにうるさい。上がった息を整えたいのか、皆暫くはその場に立ち尽くしていた。それから意を決したように秋田くんが恐る恐る肉塊へと近づいていく。
 偶然にも死骸の首は僕の方を向いていた。変な方向に折れた首や手足が嫌でも視界に入ってくる。あれなら即死だなと判断する僕の隻眼に、粘ついた、狂気の光が飛び込んできた。

 そうだ、編み笠の男は、あの状態でも武器を手放していない。

「秋田くん!」
 もつれそうになる足を無理矢理に動かし、走る。僕が動くのと、男が自らの打刀を投擲するのとはほぼ同時だった。

 秋田くんは小さくて軽い。あの夜も、僕が少し早足で歩いていただけで突き飛ばされていた。今はそれが幸いしたと思う。己の背から腹に掛けて貫通している刀を見下ろし、僕は場違いに微笑んだ。

 遠ざかる意識の中で、三振りの叫び声を聞いたような気がする。

 

■■■

 

「……らさ、長谷部もそう気に病む必要は無いんだって。情報漏洩なんて真似やらかしたのは政府の方なんだから」
「たとえ対策を取られようと、臨機応変に動くのが現場の仕事です。俺が部隊を分けなければ、こいつは無事に帰還していました」
「軽傷だって負わせたくなかったんだろ? 練度の低い連中を気遣った結果ってのは、みんな解ってるさ。お前まで落ち込んだら、秋田がますます泣きやまなくなる」

 嗚咽を漏らし噎び泣く幼子の声、それに少年と青年の境目のような声と、哀しそうな男の人の声が聞こえてくる。

 ひとりは秋田くん、少し軽そうな口調は主のものかな。でも最後の声はちょっと解らない。いや聞き覚えは有るのだけれど、僕の記憶の彼とは一致しないところが多かった。
 まず彼は主の前でこんな自信無さげな態度は取らないし、自分の選択を後悔するような真似もしない。高慢で、冷徹で、誰よりも刀らしい刀、それが僕の知っている彼の全てだった。
 でも、そんな顔しか見たことが無いのは、僕が彼と仲良くなれなかったせいだろう。もしかしたら、へし切長谷部はもっと感情豊かで、意外に人情味に溢れた刀なのかもしれない。
 そうだとしたら、たとえ話は合わなくても、気は合うかもしれないね。何せ僕らは、互いに変な名前を付けられた同志だからね。

 格子柄のイナゴ天井がぼやけて見える。徐々に鮮明になっていく視界の外で、誰かの温もりを感じていた。
「お、目を覚ましたか」
 首を横に倒して声の主を追う。何故か古ぼけた紙の箱が鎮座していた。暫し思考を整理し、ワンテンポ遅れてそれが主だということに気付く。

「起きがけに君のアップは何とも言えない気持ちになるね」
「誰が手入れしてやったのか思い知らせてやってもいいんじゃよ」
 小刻みに前後運動を繰り返すのは威嚇行為か何かだろうか。段ボールの生態には詳しくないが、畳が心配なので素直に非礼を詫びることにする。

「しょくだいきりさあん!」
 悲嘆と共に懐に感じていた温もりが離れた。天然湯たんぽの正体は秋田くんだったらしい。僕が体を起こすと胸に飛び込み、また顔面をぐしゃぐしゃにして泣き始めた。汚れ一つ無くなったシャツに水分が染みこんでいったけど、秋田くんが安心してくれるなら何てことは無い。

「大丈夫、主が全部治してくれたからね。それより秋田くんは平気? 怪我してない?」
「お、おかげざばで、げがびとつ、あでぃばぜん」
 何を言ってるか解らないけど、目視した範囲では外傷を確認することはできなかった。秋田くんが息災と知って僕もほっと胸を撫で下ろす。
 縋り付く幼子の背を擦りあやしていると、冷えた視線を右前方に感じた。顔を上げれば表情筋も頑なな近侍様と目が合う。相も変わらず寄せられた眉根は、やましいことが無くとも謝ってしまいそうになる迫力が有った。

「は、長谷部くんも居たんだね」
「この至近距離で気付かんとは、お前の偵察値がよほど低いのか、俺の影が相当薄いかのどちらかだな」
 予想はしてたけど、形の良い唇から僕を見舞う言葉は紡がれなかった。曲がりなりにも起きるまで看取っていてくれたのだから、ちょっとは期待してたんだけどなあ。

「燭台切、身体は動かせそうか」
「ああ。後遺症も特に見られないし、今から厨で一仕事するのも訳無いよ」
「なら付き合え」
「へ?」

 促されるままに戦装束を身につけ、連れて来られた先は普段手合わせをしている稽古場だった。既に日は沈んでいて、灯り取りの窓から差し込む光以外に照明は無い。

 道場の利用者は僕と長谷部くんのふたりだけだった。施錠されていた扉を開けて入って来たのだから当然である。
 問題は、この時間帯ならば誰も来ないであろう場所を何故選んだのかだ。隅にまとめて置かれた竹刀の類が妙に存在を主張して見える。僕は慌ててそれらを視界から追いやった。

「そこに座れ」
 何も敷かれていない床を長谷部くんが指さす。冬場の夜気に中てられたそこへ直接座るのはさぞ冷たかろう。にも関わらず、二振り分の座布団を取って来ようと動けば長谷部くんに押しとどめられた。引き留めた理由も、その必要は無い、の一点張りである。
 観念して板張りの床に腰を下ろす。服越しにも伝わる冷気がぞわりと肌を粟立てた。唇を真一文字に食いしばり悪寒を堪え忍んでいる僕と違い、長谷部くんは仁王立ちした姿勢のまま一向に座る気配が無い。

 いや、まさに座る気など無いのだろう。僕を見下ろす長谷部くんは、おそらく初めからこの構図を狙っていた。自らを糾弾者の立場に置き、一方的に僕を詰る側につく。対面に座り僕と同じ視線で話すなど、彼の望むところではない。

「さて、今日はお前の初陣だったわけだが……手入れ部屋で目覚めた件も含め、申し開きは有るか燭台切光忠」
「申し開き?」
「そうだ。まさか主の手を煩わせ、無為に資材を消費させた不手際を上等とみなすわけなかろう」
「確かにあの助け方はまずかった、と思う。でも、僕は秋田くんを庇ったことを後悔してないよ」
 僕の偽ることなき本心を伝える。長谷部くんは僕が頭を垂れて萎縮する姿を見たいのかもしれない。それでも、僕は僕の答えを、咄嗟に動いた自らの体を信じている。

「たとえ格好つかなくても、無様な結果に終わったとしても、仲間が傷つくのを見過ごすなんて僕にはできない」
 熱意を以て説けば長谷部くんも解ってくれる。
 どうして散々失敗してきた手法が、今回に限って通じると思ったのか。

「だからァ?」
 嘲笑が一切の希望を踏みにじる。誠実であること、真摯に向き合うこと、それら全てを否定する悪意が口を開けて笑っていた。

「そう言えば麗しい友情だ、燭台切は仲間想いだな、などと褒めてもらえると思ったか? 主の心を無駄に砕いた罪が不問になると考えたか? 浅はかだ、お前のその配慮の無さが最高に癪に障る。土下座だ。今すぐ床に手をついて、主と部隊長である俺に謝意を示せ」
 別に赦されたかったわけでもない。秋田くんを助けた行為に打算は欠片も無かった。長谷部くんが真に謝罪を求めているというのなら、頭ぐらいいくらでも下げよう。でも違う。彼が欲しいのは反省でも恭順でもない。僕が侮辱に堪えかねた表情で、地に頭を擦りつける無様な姿が見たいだけだ。

「良いことを教えてやろう。もし件の悪あがきを秋田が受けたとしても貴様ほどの大事にはならん。だいぶ損傷してはいたが刀装は残っていたからな、せいぜい軽傷で済んだはずだ。……いかに己の行為が自己満足に過ぎないものだったか、理解したか?」
 無為に資材を消費した、という表現にようやく合点が行く。なるほど、軽傷の短刀と重傷の太刀とでは掛かる手間も資材も雲泥の差が有る。結果論ではあるが、秋田くんを庇った行為は自己満足と呼ばれても仕方なかった。だが、その事実を知らされたところで僕は答えを曲げる気にはなれない。

「そうだね。君が言うとおり、僕の行動は後先考えない勢いだけのものだったろう。でも、それを知ったところで、僕は秋田くんを庇ったことを悔やんだりしないよ」
「強情な男だ。友だ仲間だという一時的な感傷に引き摺られ、刀としての本分も全うできぬ己を恥とは思わんのか」
 誰を主と仰ぎ誰を友と呼んだところで、刀の長い生涯を共に添い遂げる相手は存在し得ない。だからといって、それら全てを不要と斬って捨てる権利がどうして他人に有るだろうか。

「君は、君だったら秋田くんを見捨てるというのかい」
 否定を求めて、敢えて避けていた問いかけをする。僕はここで初めて自分の拳が震えているのに気付いた。
「そうだと言ったら?」

 深夜の道場に破裂音が走る。少量の木屑を纏った拳が、道場の床に真新しい穴を開けていた。

 頭に血が上る、とはよく言ったものだ。全身を巡る血液がふつふつと煮立って、思考の全てを赤黒く染めていく。人の身を得て半月は経ったが、これほどの激情に駆られた覚えは一度たりとも無い。ましてや同じ釜の飯を喰らうともがらを相手に、拳を振るいたくなるなどと誰が想像しようか!

「一度でも、君と友になりたいなんて思った僕が馬鹿だった」
「お前が馬鹿なことくらい、会った初日から知っている」
 立ち上がろうとした僕の前に木刀が転がる。それを投げ渡した彼は既に中段に構えていて、僕の出方を待つばかりだった。手にしない選択肢は無い。真剣よりも随分と軽い得物を握り、切っ先が相手の眉間に来るよう調整する。

 打って出たのは、やはり長谷部くんの方からだった。
 いつ足が床を離れたのか判らない速度で迫り、僕の右肩から左腹部にかけて木刀を振り下ろす。体重を載せた踏み込みを何とか凌いたと思った矢先に、右足が浮遊感に囚われ身体が横に傾いだ。
 足を払われたことを瞬時に察し、咄嗟に受け身を取って側方に転がる。本命だったろう重い一撃が寸秒前まで僕のいた場所に加えられた。その風圧を受けた長谷部くんの前髪が一挙に持ち上がり、白い額が露わとなる。
 攻撃を避けられても長谷部くんが憤る様子は無く、寧ろ紫水晶の瞳は昏い悦びに震え煌々と燃えたぎっていた。

 もはや互いに道場剣術らしい綺麗な型を取ろうとはしない。長谷部くんは隙さえ有らば俊足を活かした蹴りを放とうとするし、僕も僕で、鍔迫り合いの最中に長谷部くんの襟元を何度も掴もうとした。
 両者ともに多数青痣を作り、あばらのヒビに耐えながら仕合を続ける。噴き上げる汗を拭う余裕も無く、一心不乱にひたすら木刀を走らせた。
 これは力量を計るための闘いではない。僕らは、自分の意地を貫き通すためだけにしのぎを削っている。

「ははっ、お前もそんな顔するんだな燭台切! 正直な話いつもより数倍は男前だぞ!」
「そう言う君はいつにも増して嫌みったらしい顔つきだねえ! 主の前での猫かぶり本当どうかと思うよ! もう一周回って尊敬に値するね!」
「俺の方もなァ、誰に対しても良い顔をする貴様を見るたび目を疑ったぞ! なんて薄ら寒い笑い方をするやつだと肝を冷やしたわ!」

 本心か罵倒かも判らない掛け合いが飛び交う。叫びすぎた咥内が水分を欲すれば、その都度鉄錆の味がする液体で喉を潤した。
 出陣前に念を入れて整えた髪も乱し、拘り抜いた衣装も埃と血汗に塗れてぼろぼろになっている。今の己の姿はとても人に見せられたものじゃないだろう。それでも、長谷部くんと切り結んだときの高揚感は、当初の怒りを忘れさせるほど濃厚だった。
 激しい打ち合いに耐えられず、とうとう木刀の方が先に限界を迎える。得物を失ったところで僕らには関係無い。折れた武器を蹴り飛ばした後は、服を掴み、髪を掴みの泥仕合になっていった。

 小競り合いが始まって何分経っただろう。道場に入った直後よりも差し込む光帯が短くなっているように感じた。ひゅう、ひゅう、と喘ぎつつ壁時計を探す。やっと見つけた文字盤だが、生憎と陰影を捉えるのがやっとだった。長谷部くんなら見えるかもしれないが、それを僕が訊くわけにはいかないだろう。
 少なくとも健康的な生活を送る刀たちは床に就いている時間だ。体勢だけなら僕らも似たようなものだが、ただえさえ手入れ後なのに道場で一夜を明かしたくはない。

 互いに立ち上がる気力も無くて、僕と長谷部くんは暫く大の字に転がっていた。会話は無い。乱闘の最中に口でも散々やり合ったせいなのか、僕はこの無言の間を特に不快とは思わなかった。だから、先に沈黙を破ったのは長谷部くんの方だった。

「やっと怒ったなあ」
 穏やかでありながら心底嬉しそうな声が胸を打つ。
 驚嘆のあまり、僕は激痛を忘れて上体を起こした。長谷部くんはまだ仰向けのまま横になっている。絡んだ視線の先に、生々しい傷跡をものともせず笑う長谷部くんの顔が有った。

 初めて本丸にやって来た日のこと、まだ曖昧な意識の中で耳にした清音に、僕はずっと思い焦がれてきた。主にだけ向けられる優しい響きが、いつか自分にも与えられるよう、ずっと彼の背中を追っていた。その悲願が、まさかこんな形で達成されるとは思わなくて、感動より先に呆けてしまった。

「ずっと思ってたんだ。お前は本当に辛抱強い馬鹿だなって」
「君、今日だけで僕のこと何回馬鹿って言うつもり」
「まだ二回目だろ、聞き流せ馬鹿」
 あっさりと記録が増えた。口を尖らせる僕とは対照的に、長谷部くんは何が楽しいのか声を上げて笑っている。

「お前はな、優しすぎるんだ」
 ひとしきり笑った後で長谷部くんも身を起こし、僕と向き合う形になった。唇が切れ、服も所々血が滲んで薄汚れてはいたけれども、彼の芯に在る美しさは少しも損なわれていない。

「言い返せばいいのに、相手にも非が有るはずなのに、自分が悪かったんだとばかりにすぐ身を引く。その態度を大人と言うやつもいるかもしれんが、俺には逃げの姿勢に見えた。いつも笑ってばかりで窮屈そうに感じた。勿論俺から見た燭台切の印象であって、実際お前が窮屈に感じてるかどうかは別だ」
「僕、割と思ったこと正直に言っちゃう方だよ」
「肝心なことは言わないだろう。だから不満を溜め込んで、別に油断を突いたわけでもないのに大暴れするんだ」

 長谷部くんがちらと稽古場の惨状を一瞥する。つられて僕も室内全体を見渡した。壁や床には複数の穴、無残にも軸ごと落ち砕けた掛け絵、真っ二つに折れた木刀など、傍から見ても台風一過か何かかと疑う有様である。

「初日にへし切の名を呼ばれ、俺は一方的にお前を突き放しただろう。どう考えても悪いのは俺の方なのに、事情も知らないお前は有りもしない己の非礼を詫びて、全てを無かったことにしようとした。それを受け入れ、俺も頭を下げれば、同僚として仲良くやっていけることは解っていた。でも、そんな関係は嫌だった」
「どうしてだい? 何も知らないとはいえ、君の地雷を踏んだのは事実だよ? なら僕が謝るのは当然じゃないか」
「馬鹿か、初対面で相手の嗜好なんて判るはずないだろう。あれは不幸な事故だった。大体右も左も判らん新人をひとり置いて去って行く先輩とか最悪じゃないか。燭台切には俺を罵る権利が有る」
 また馬鹿って言ったね、四回目だね、聞き逃せなくてごめんね長谷部くん。流石に五回目を数えたら突かせてもらうよ。現時点でも仏の顔よりは保ってるから褒めて欲しい。

「先に顕現したとか、練度が高いからとか、近侍だ第一部隊の隊長だとか、そんな肩書きは憚る理由にはならない。俺は燭台切とは対等でありたい。互いに不平不満を正面からぶつけ、受け止める関係でありたい。腫れ物に触るみたいにご機嫌取りされて、お前だけが不満を呑み込んだまま、本丸の仲間としてやっていくのは嫌だったんだ」

 ――だから必要以上に厳しく当たって本音を引き出そうとした。

 長谷部くんの述懐を聞いた僕が唖然としたのは言うまでもない。

「肝心なことは何も言わないって台詞そっくりそのままお返ししたいよ! 何だいそれ! もっと早く教えてくれてたら、僕こんな無様な姿晒さなくて済んだんじゃない!?」
「会って数日も経たん輩に、これからは本音で話してくれ、と乞われたらお前は、よし腹の底を割って話そう、と思うのか」
「思いません」
「だろうな」

 長谷部くんの論理は一見飛躍しているようで、意外に地に足をついた考え方をしている。実際に取った方法は乱暴に過ぎるが、言わんとしていることは解らなくもない。だから迂遠な行動を責めようにも責めきれず、こうして僕だけがこめかみを押さえる羽目になるのだ。

「それにな、俺が言葉尻を柔らかくして、軽率な判断ではあったが秋田を庇ったお前の気持ちは解る、などと言ってみろ。手入れにかかった資材の量と主の心労とを本当に省みたか? 自分の行為は間違っていなかった、と余計確信したんじゃないか?」
「そんなことは――ああ……うーん……どうかなぁ……?」
「ほらみろー!」
「ほらみろー! って」
 僕から言質を取った長谷部くんは子供のようにはしゃいでいる。そこに、新人の向こう見ずな行動を戒めていた隊長の面影はどこにも無い。見る間にくるくる変わる表情を前にして、この刀が非人情の冷血漢などと誰が言えようか。

「俺は、遠慮も愛想も無いとよく宗三から言われる。言葉の裏を勘ぐるとか行間を読めだとか、そういった機微を察して言葉を選ぶことができない。だから俺は嘘はつきたくないし、相手にもついてほしくない。誹謗中傷は堂々と告げてほしい」
「驚きの政治力だね、長谷部くん」
「統率低くて悪かったな」
 愛想が無いなどと言うが、僕の発言一つでむくれる長谷部くんは幼く見えて何だか可愛らしい。ああいや、大の男相手に可愛い、は失礼かもしれないから愛嬌が有ると言っておくべきかな。よし本人に言うときはそう表現しよう。

「そういうわけだから、お前を怒らせようとして散々な態度を取ったときも、肯定的な意見を言わなかっただけで概ね本音で接していた」
「本音かぁ、そっかぁ……」
 残念だが納得できなくもない。主を優先するのも、不用意な行為を諫めるのも、隊長としての配慮を当然と思うのも、彼が職務に対して真面目に取り組んでいる証だ。

 でも、もし秋田くんがまた同じ目に遭ったなら、長谷部くんもきっと彼を助けようと必死になるんだろうな。おそらく僕よりは器用に、そして僕よりずっと大げさに無事を喜ぶのだろう。目に浮かんだ光景に僕はそっと目を細めた。

「俺の態度に失望か、或いは諦めがついたというなら構わん。主に申し出て、燭台切とは組まないよう部隊を編成する」
「そんな私情で部隊を弄っちゃって良いのかい、近侍様」
「できれば誰と組んでも変わらず結果を出すのが最善だが、現実はそう上手くいかんだろう。ならば近侍として把握している限りの人間関係には考慮するさ」
「長谷部くんの中で人事計画が進んでるところ悪いけど、僕は君と組むの嫌じゃないからね?」
「何故だ」
 長谷部くんが心底不可解そうに尋ねてくる。上目遣いで小首を傾げている姿は、かわ、もとい愛嬌が有るけど、寧ろ解せないのは僕の方だ。

 散々人を突き放しておいて、さらにその理由が僕と対等でいたいからで、あんな告白を聞かせておいて今度は勝手に離れていこうと言うのか。そんな暴挙が許されるのものか。

「方法はどうあれ、君は僕を仲間として迎え入れるために尽くしたんだろう。僕は初めから、長谷部くんとは気が合うって思ってたんだ。双方ともにその気が有るなら、仲直り……というか改めて宜しくすることだってできるんじゃないかな?」
「知っての通り、俺は気遣いや愛想笑いとは程遠い刃種なんだが」
「長谷部くんはそれで良いんだよ。何も隠さず、良くも悪くも思ったことを正直に話してくれて。せっかくセットした髪も、お気に入りの服も滅茶苦茶にされたけど、こんなスッキリした気分は刃生で初めてかもしれないなあ」
「お前あれだな、やっぱり鬱憤溜め込むタイプだな」
「その辺はまあ、趣味や戦闘で発散してたから」
 発散した結果がこれか、と長谷部くんが引き裂かれたカソックの裾を持ち上げる。対抗して僕も燕尾の先を見せつけた。訳もなく可笑しくなって、ふたりして声を上げて笑った。

「燭台切」
「んー?」
「今まですまなかった。お前からの厚意も、本丸の連中を大事にする姿勢も、前々から好ましいとは思っていたんだ」
「えっ、ああ、うん、ありがとう」
 長谷部くんの賛辞は素朴で率直で、衒いがなくて、含まれた好意はどこまでも澄み切っている。だからこそ言葉を掛けられた側としては混ぜっ返すこともできず、込み上げる羞恥心とひとり戦わなくてはいけない。これを天然でやっているのだから質の悪い人たらしも居たものである。

 だけど長谷部くんの言葉から伝わる、じんわり染み渡るような温かさはとても心地良い。戦闘時の沸騰したような熱さとは全く違った。

 人の身体はまだまだ興味の尽きないことばかりで、僕はこの本丸に顕現できたことが、今は心から喜ばしい。
 そう思わせてくれた一端が徐に立ち上がり、僕に右手を差し出してくる。月影を照り返す藤色の眸子には、確かに僕の姿が映っていた。

「ようこそ我らが本丸へ。俺はお前を歓迎するぞ、燭台切光忠」
 僕は迷わず彼の右手を取る。
 友人の目映い笑顔に負けじと頬を緩め「こちらこそよろしく、長谷部くん」と、二度目の挨拶が最高のものになるよう笑いかけた。

 ちなみに恥を忍んで本日二度目の手入れ部屋に入ったところ、揃って後始末を命じられた僕らは結局道場で一夜を明かすことになった。

 

 

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