段ボール本丸 / 四

 

 

 それは本気かい、長谷部くん。

 いや僕も彼には感謝してるし、その望みを叶えてあげたい気持ちは一緒だ。
 でもね、そういう例外を作ってしまったら、今後君を良いように利用しようって輩も出てくるかもしれないよ。
 え? 刀剣男士なんて形で顕現されてる時点で今更だ? まあ、そうかもしれないけど君の「毒を食らわば皿まで」は限度を知らないからなあ。

 ああ、ちょっと拗ねないで。解ってるなら良いんだ。オーケー、これ以上余計な口は挟まないよ。
 まさか君ひとりにやらせるわけないだろう。さっき言ったよね、僕も彼には感謝してるって。
 リスクを語って退かせるつもりなら諦めなよ。誰かさんは同じこと言っても聞かなかっただろう。
 前に釘を刺されたから報告だけ事前に済ませたかった? なるほど、それが無かったら全部ひとりで終わらせるつもりだったんだね。怒るよ。

 幸も不幸も独り占めは良くないよね。長谷部くんだけハッピーエンドの介添えをするなんてずるいと思わないかい?
 一振りより二振りの方がやれることは多い。当然だよね。

 格好つけキザ忠? いやそれほとんど原型留めてないじゃないか。
 別に良いだろう、好きな子の前でくらい格好つけさせてよ。

 お前のそういうところが嫌いだって? はは、ごめんね。僕は君のこと大好きだよ。

 

□□□

 

「お酒飲みたい」
「確実に身体溶けるよね」

 また主の気まぐれという名の病気が始まったらしい。加州の正論にもめげず、再生紙由来の身体を揺すって酒酒と溶解液の名を連呼している。

 我が本丸の主はこと乱痴気騒ぎには目がない。新刀剣男士の歓迎は勿論、祝日、節句、二十四節気等々、ありとあらゆる理由をこじつけ宴会を開こうとする。呑兵衛の次郎太刀や道楽者の鶴丸が来てからは、余計にその頻度が増した。これで日本号まで顕現していたら手の施しようが無かっただろう。戦力が充実するのは良いことだが、これ以上エンゲル係数に急勾配を描かれるのは困りものである。

「くっそ加州め、こやつ中々ガードが堅いな。なあ長谷部、お前なら解ってくれるだろう。みんなでグビグビガバガバ呑んでハジけようや、春らしく」
「もう主。この本丸も男士たちの数が増え、資材のやりくりに手一杯なのですよ。そんな懐具合で宴会などと」
 擦り寄る主に揺らぎつつも苦言は呈する。主の御心に添えないのは非常に心苦しい。しかし、その放蕩を窘めるのも近侍の務めである。本丸の運営のためにも、主のためにも、俺はここで心を鬼にしなくてはいけないのだ。

「諸君! 日々の遠征出陣その他業務への精勤、誠にご苦労である! 本日の席は我々の一層の活躍、精進を願って主がご厚意から設けられたものだ! 今後も変わらぬ忠誠を胸に、感謝の念を捧げながら杯を交わすように!」
「良い挨拶だったよチョロ部」
 加州が何か言っていたが、拍手喝采の波にさらわれてよく聞こえなかった。まあ何を言われたところで、主の笑顔(仮)の前には森羅万象全てが些事となる。飲めもしない一升瓶を傍らに置いて歓声を上げる主は、今日も最高に輝いていた。

 重なった花弁の隙間から柔らかな日差しが顔を出す。仰々しく敷かれた赤い絨毯の上には所々に桜色の斑点が見えた。
 本丸における季節は景趣の切り替え一つで様変わりする。言ってしまえば審神者の心持ち次第なのだが、それでも現実時間の進行に合わせて春の陽光を感じられるのは有り難いものである。満開の桜の下で花見酒というベッタベタなシチュエーションも、いざ我が身で体験してみると中々これで味わい深い。これも一種のかまくらマジックというやつだろう。心なしか酒がいつもより美味しく感じられた。

「いやあ悪いなあ主、俺たちばっか酒を進めてしまって」
 鶴丸がぐい呑片手に主の元へ挨拶に来る。頼まれずとも宴会部長に就任する白い刀は、一所に留まらず色々な席を渡り歩くのが常だった。先頃は陸奥守と飲んでいたのか、懐には未開封のカステラが見える。

「構わん構わん、本日は無礼講じゃ。それに俺は飲まずとも酔ってるからな、この美しい桜並木によ……」
「燭台切のようなことを仰らないで下さい主」
「長谷部くん僕のこと何だと思ってるんだい!?」
 どこから聞きつけたのか燭台切が唐突に会話に入ってきた。その右手にはずんだ餅を載せた丸盆が有る。給仕中なのに耳聡いやつ。

「だってお前、夜景の見える飲食店に誘って君の瞳の方が美しいよとか言うタイプだろ」
「否定できないけど桜並木に酔ったりしないから! 僕が酔うのはお酒と君相手にだけ!」

 その台詞も大概だと思う。口に出しては言わなかったが、表情には出ていたようで燭台切の方から恨みがましい視線を感じた。うむ、機嫌を損ねる前に酒漬けにして沈めておこう。
 鶴丸はカステラと何故か大倶利伽羅を置いて再び放浪の旅に出た。困惑する竜の刀にすかさずナッツと燭台切を渡す。既に彼の旧友は出来上がっていたので、さぞ場も暖まることだろう。

「ねえ聞いてよ伽羅ちゃん。長谷部くんったらねえ、僕のこと天然メンナクマシンガンって言うんだよお。僕はガイアより長谷部くんに愛を囁かれてナイトメアに溺れたいのにひどいよねえ」
「おい長谷部、厄介なものを押しつけるな。そして口を閉じろマシンガン」

 悲壮な低音が背後から聞こえてくるが、おそらくは幻聴だろう。俺の目には、自分の身体に何枚桜の花びらが乗ったか数える無邪気な主しか見えないな。

「おまさんら、楽しそうじゃのう」
 陽気な声と共にフラッシュが光る。見上げると陸奥守がカメラのレンズ越しにこちらを窺っていた。

「おう、むっちゃん。今なら第一部隊が隊長様のご乱心を激写できるぜ」
「了解ぜよ。ほうら燭台切に大倶利伽羅、スマイルじゃスマイル」
 主に促され、陸奥守はここぞとばかりに伊達組の醜態をフィルムに収めていった。自衛手段に酒が適当だったとはいえ、燭台切には可哀想なことをしたかもしれない。後日何かしら埋め合わせをしてやろう。生憎ナイトメアにいざなうことはできそうもないが。

「むっちゃんむっちゃん、次俺と長谷部も撮ってくれ」
 主の要請を快諾する陸奥守に反し、俺の身体は一瞬強張りを見せた。カメラの被写体になるのは、未だに慣れない。実際に刷り上がった写真を見ると、愛想も素っ気も無い己の顔と必ず睨み合うことになる。これがまた面白くなくて、宴会のたびにカメラの視界から逃れていた。

 しかし、いかに苦手といえども主命とあらば笑顔で承諾するしかない。誉を取り初めて主から褒賞を頂戴した日のことを思い出せばいける。頑張れ今の俺は特付き前だ、お前ならできるぞへし切長谷部。

「ええ、主だけずるい~僕と伽羅ちゃんも入れてよお長谷部くん」
 酒気を多分に含んだ息が耳元にかかる。先程あしらったはずの黒い刀がいつの間にか背後に迫っていた。

「ほら、伽羅ちゃんも長谷部くんの隣に来て。主はあ、そうだね長谷部くんの膝にお邪魔しようかあ。良いなあ、膝羨ましいなあ」
 酔っ払いのくせに燭台切の指示は妙に的確である。部隊長筆頭の面目躍如、と言いたいところだが、そもそも酔っていない友人は常に統率者として完璧だった。やはり酒は財布と理性にとって天敵でしかない。

「では主、硬くて座り心地の悪い膝ではございますが、ご随意にどうぞ」
「この本丸、硬くて座り心地の悪い膝のやつしかいねえから気にしねえよ。そんじゃお邪魔します」

 失敬して主の側面に手をやり、持ち上げようとする。そう、持ち上げようとした。明らかに以前よりも重量が増している。持ち手が無いタイプの段ボールなため、底面に引っかけるようにしなくては動かすのも厳しそうだった。

「長谷部、おんし顔が緑色ぜよ。大丈夫が?」
「ははは、何の、これしき」
 指先をぴくぴく震わせながらも何とか主を己の膝まで運ぶ。左右二振りからも心配されたが、この大役を他に譲る気は無い。寧ろ俺からすれば、記念写真に相応しい笑顔を見せられるかどうかの方が難題だった。

「長谷部くん表情かたいねえ」
 表情どころか頭まで緩くなった燭台切が俺の顔を覗き込む。そうしてこの美丈夫は何を思ったのか、指先を伸ばし俺の頬を遠慮無しに引っ張り出した。

「ひはいひはい! ひゃにをひゅるしょふはいひひ」
「陸奥守くん、撮影するなら今だよお」
「お、おう……?」
 抵抗空しくシャッター音が無慈悲に鳴った。歯まで露出し、正面から見たらさぞ間抜けであろう面構えが写真に納まったと思うと絶望しかない。

「長谷部くん、顔こわあい。そんなんじゃあ、せっかくのお酒も美味しくなくなっちゃうよお?」
 艶を帯びた声が耳元で囁かれる。己の肩口から覗く麗容と合わせ、本当にこの友人は男振りの良い刀なのだとつくづく感じた。このイケメン様が先の蛮行に及んだと思うと余計に腹立たしい。覚えてろよ、次に無様を晒すのは貴様だ燭台切光忠。

 昼下がりから始まったその日の宴会は宵の口まで続いた。数時間にも及ぶ狂騒の中、虎視眈々と友人の失態を狙っていた俺が、何度も陸奥守を呼びつけたのは言うまでもない。

 

■■■

 

「ほい、燭台切。これはおんしの分ぜよ」
 いつものように夕餉の食膳を片付けていると、陸奥守くんが若菜色の洋封筒を差し出してきた。表面に燭台切とだけ書かれた袋は意外にも厚みが有る。いざ受け取ると、およそ便箋とは思えない硬質の感触が手袋越しにも伝わってきた。

「この前の宴会の写真じゃき。こじゃんと撮ったがで一部ばあけんど」
「わざわざ分けてくれたのかい? ありがとう、大変だったろう?」
「なに、そういう作業もやってみたら意外に楽しいもんぜよ」

 他の連中にも届けてくる、と陸奥守くんは長居することなく大広間を後にした。去り際に見たトートバッグは下部が膨れていて、中身が全員に行き渡るには結構な時間が掛かりそうである。それこそ食事時など皆が集まるタイミングに配ればよさそうなものだが、おそらく待ちきれなかったのだろう。こうして見ると我が本丸はせっかちな刀が多い。

 せっかち、でついあの刀を思い浮かべてしまった。彼の機動力はそのまま日常の所作にも反映されていて、起床も食事も内番も人後に落ちた試しが無い。そこに就寝時間も含まれれば、と思うも、自分はその恩恵を被っている身なので強くは言えなかった。数字と睨み合う彼に夜食を届け、休息を促すのは、僕の密かな楽しみになりつつある。
 壁時計の文字盤を確認した。食事を済ませてから三十分も経っていない。皿洗いと明日の仕込みを済ませても、差し入れを持って行くには早すぎるだろう。貰った封筒をテーブルに置き、とりあえずは目先の仕事を終わらせることにした。

「長谷部くん、ちょっと良いかな」
「ん、入れ」
 障子を開くと、まず千鳥柄の衝立が視界に飛び込んでくる。情緒に欠ける近侍部屋に微細な変化が訪れるようになって随分久しい。

 この衝立も元は僕が勝手に持ち込んだものだった。あまりの殺風景さを見かねてのことだが、当然ながら部屋の主は始め難色を示した。周囲から評価を得られなければ彼の態度が軟化することはなかっただろう。そう思うと、歌仙くんや主には感謝してもしきれない。今でも僕は、文机の近くに彼の私物が置かれているのを見るたび、自分の影響を感じて嬉しくなる。

「今日は随分と早いな。それとも俺の体内時計が狂ってるのか?」
「いいや、長谷部くんのお腹はいつだって正確だよ」
 食い意地が張ってて悪かったな、と続ける長谷部くんだが、視線はお八つのわらび餅に釘付けだった。
 少々棘の有る発言をしたのは僕なりに理由が有る。予定を前倒しして近侍部屋を訪ねたのも、その理由が関係していた。

「長谷部くん、陸奥守くんからもうこれを受け取ったかい?」
「ああ。花見のときの写真だろう、ここに有るぞ」
「そっか。じゃあ遠慮無く」

 僕は持参した封筒から写真の束を取り出し、その先頭数枚を抜き去った。そして長谷部くんの鼻先にずいと突きつける。僕が開封した瞬間、危うく絶叫しそうになった問題のショットをだ。

「これ君が言って撮らせたやつだろう!」

 問い詰めるまでもなく、友人は写真を捉えた瞬間に腹を抱え、けたたましい笑い声を上げ始めた。厳格な近侍様にあるまじき姿である。鶴さん辺りが見れば喜んでくれそうな光景だが、贄にされた当事者としては堪ったものではない。
 渡された写真は、概ね被写体となった刀を中心に選別されている。それは良い。問題は、酔いに任せてやらかした己の珍行動が尽くシャッターに収められているということだ。ただえさえ酩酊時の記憶も消えない体質から、翌日は終始負のオーラを垂れ流していたというのに! 忘れた頃に古傷を抉られるとは酷い仕打ちも有ったものである。

 無論、単にカメラマン陸奥守の嗅覚が優れていただけという可能性も否定できない。しかし、これを偶然で片付けさせなかったのは、ひとえに眼前で哄笑する友人が常に同じフレーム内に写っていたことが大きかった。何しろ貴重なへし切長谷部のピースサインである。あのお得意の嘲ら笑いまで付け足されては、近くに居ただけという言い分も通らないだろう。いや本当に憎たらしいぐらい良い笑顔されて、怒るべきか嘆くべきか一瞬リアクションに戸惑ったよ。

「俺のベストショットはこれだな、木に抱きついて睦言を囁く燭台切光忠」
「君の! オススメは! 聞いてませんッ!」
 どうやらツボに入ってしまったらしく、長谷部くんの放笑は一期さんが乗り込むまで続いた。

「桜の下で写真というと、あいつを思い出すな」
 興奮も冷め、二振りで写真を見比べていると長谷部くんが不意に懐かしい話を持ち出した。

 年明けの遠征からもう三ヶ月ほどが経つ。今思い返しても、平成の世では色々なことが有りすぎた。
 歴史修正主義者というにはあまりにも年若い少年と出会ったこと、命を断とうとする彼を何度も取り押さえたこと、遠征の意義に疑問を抱く僕と主命を盲目的なまでに遂行する長谷部くんとで諍いが起きたこと、少年が青年に成長するにつれ自分の生と向き合うようになったこと。

 あの青年とは最後の遠征以来、会っていない。それは彼が壮健であり続けた何よりの証と言える。人と神とは妄りに交わるべきではない。僕たちの間には、どちらの手にも届かない写真が一葉有ればそれで良かった。

「二百年保ったかな、あのタイムカプセル」
「保ったとしても目印が無いだろうからな。あの男に桜一本養生させる甲斐性が有るかどうか甚だ疑問だ」
「手厳しいなあ。彼は良い男になると思うよ」
「お前の男を見る目は信用していな、むぐ」

 遠回しな自虐を口走る友人にわらび餅を押しつける。たとえ本人といえども、好きな子を貶されて黙っているのは男じゃない。可愛くないことを言う口はどんどん塞いでしまおう。できれば塞ぐのは餅ではなく自分の唇が望ましいが、それを実行したところで畳と濃厚な接吻を交わす未来が見えていた。

「調べたんだけど、タイムカプセルっていざ掘り出そうとしても場所が判らなくなることも多いんだって。見つけたときには周囲が穴ぼこだらけ、なんて例も有るらしいよ」
「間の抜けた話だな。俺だったらそんな不手際は起こさんぞ」
「頼もしいなあ。じゃあ僕がタイムカプセル作るときは長谷部くんに位置取りお願いしよう」
「作りたいのか?」

 時間遡行軍との戦いがいつまで続くかは判らない。一ヶ月後かもしれないし、十年、ひいては百年先ということも有り得るだろう。この本丸も、植わった桜の寿命を待たず消えてしまうかもしれない。
 そんな状況下で、皆と過ごした日々をタイムカプセルに納める。掘り起こす日が来るかどうかも明らかでない。それは一種の願掛けのようなものだ。二度と日の目を見られなければ、いかなる結末を迎えたにしろ戦いは終わっている。掘り起こすことができたなら、思い出を分かち合う友が健在であることを喜べば良い。そう考えると、どうあっても悪い方には転ばないような気がした。

「そうだねえ、作りたいかな」
 幸い宴好きの主のお陰で写真には困らない。明日にでも主に相談して、朝礼の際に皆へ参加を促そう。僕の方は始めそういう段取りで計画を組んでいた。

「作るのは、俺と、お前のふたりでか」

 思いがけぬ問い掛けに目を見張る。
 僕は本丸の皆でタイムカプセルを作ることを考えていた。それはそれで素敵なことだと思う。一方、長谷部くんと二振りだけの秘密を共有したい欲も確かに有った。
 喉を鳴らす。その可能性を自ら言及したということは、彼も同じ思いを抱いていると、期待して良いのだろうか。

「あ、ああ。長谷部くんは嫌、かな……?」
 恐る恐る尋ねる。心臓は早鐘を打っていた。これで肯定されようものなら立ち直る自信が無い。

 長谷部くんはきょとんとして、何を言うでもなく不安そうな僕を見つめている。そして彼は、弾けたように笑った後、右手で輪を作った。その輪は僕の眉間の辺りで開かれ、額に強烈な一打をお見舞いしてきた。痛い、とうっかり尻餅をつく僕を長谷部くんは愉快そうに見下ろしている。

「そんなわけがあるか」
 少し意地の悪い、しかし親愛を多分に滲ませた笑顔が待望の返辞を投げる。
 この友人は己の怒りを萎えさせることに天賦の才が有るのでないか。デコピンを頂戴しながら、改めて彼が好きということを思い知らされる現実に、僕は複雑な想いを抱いていた。

「そうと決まれば埋める写真やら小道具やらを集めてこよう。一時間も有れば足りるか?」
「ええ、まさかの今夜決行」
「誰かに見られて囃し立てられるのも癪なんでな。埋めるなら夜のうちだろう」

 まるで死体を埋めるような口ぶりである。
 もっとも、長谷部くんとの秘め事は他人に知られたくはないから、掲げられた方針には概ね同意だった。日中は互いに仕事が有るし、都合を合わせるなら夜間しかない。

「それに桜がいつ散るとも限らん。夜目が利かんと言うが、あれは是非お前にも見てほしい。凄いぞ、絶景だ」

 近侍様はそう言って得意げな顔をしてみせる。おそらく本人は重大な発言をしたことに気付いていない。僕に夜桜を見せたい。なるほど。不思議だ、どう考えてもデートのお誘いにしか聞こえないぞ。

「長谷部くんってそういうところ有るよね」
「お前も唐突に抽象的な台詞を言うよな。で、どういう意味だそれは」
 君が無駄に男前だって話だよ、と告げても首を傾げられるだけだろう。変に意識されるよりも友人との遊興に心踊らせる彼を見ていたかった。

 月明かりと提灯の光源のみを頼りに夜道を行く。繋がれた友人の手を信頼しているから、視界が覚束なくとも惑うことは無かった。それに、僕らの足取りは散策が目的と言わんばかりに、ひどくゆったりとしたものになっている。ぐずぐずしていては明日の予定に響くと解ってはいるが、それでもつい歩みが遅くなってしまうほどには、夜半に見る桜並木は美しかった。

 春の星空は冬と比べて色彩が柔らかい。ものの境界線が朧気となって、自らも天上の暗色に溶け込んでしまいそうな心地にさせられる。
 特にあの桜の色がいけない。月白に透かされた花冠は、空の青藍色を受けて身が白藤色に輝いていた。

「綺麗だろ」
 やはり同じ色をしている。振り向いた朋友の瞳に先の景勝を重ね、僕は深く頷いた。

 どれだけ緩やかに進んでも目的地には近づいている。そのときには繋いだ手も離れてしまうかと思うと名残惜しかった。
 長谷部くんは自分を好いていると告げた男にも、こうして平然と接触を許している。夜目の利かない刀種だから、仲の良い友達だから。理由なんていくらでも付けられるとしても、僕は馬鹿げた望みを抱かずにはいられない。

 長谷部くんにも当然、僕以外に親しくしている刀の一振りや二振りはいる。それは織田家縁の刀だったり、僕を通して交流を深めた鶴さんや伽羅ちゃんだったり、最近では短刀くんたちの玩具にされている光景も珍しくない。
 それでも、本丸にいる刀の誰にでも夜に二人で出歩こうなんて誘いを掛けないのは、解る。これを自惚れと斬って捨てるには、懐のタイムカプセルが些か重たすぎた。言うまでもなく、重量の問題ではない。

「やはり埋めるなら立派な目印が有るところだな」
 道が広がり、開けた場所に出る。ちょうど皆で花見を行った木の近くだった。

 長谷部くんは僕から離れると、しゃがんで木の根に着目したり、何かを探すような素振りをし出した。やや有って、目当てのものが見つかったのか提灯を揺らし、僕を招くようなジェスチャーを取る。

「この部分だが、根に刺し傷らしきものが残っていてな。相当古そうだし、数年やそこらで消えるものじゃないだろう。ここから向かいの木に向かって十メートル歩く。メジャーは持って来たから距離を見誤ることは無い」
 どうやら長谷部くんはここに来る前から目印の見当をつけていたらしい。木の直近は地中の根に引っ掛かるため、タイムカプセル向きではないと聞く。なるほど、掘り出す際の失敗談を聞いて自信有りげに胸を張っていたわけだ。これは木が成長した場合について尋ねるだけ野暮と言うものだろう。万が一、根の伸長が誤差で納まらない範囲になったら微笑ましく見守ることにしたい。

 場所さえ定まれば後はひたすら力仕事が待っている。農作業用のシャベルを構え、ふたり揃って一心不乱に土を掘り起こした。
 始めのうちは穴も順調に広がっていったが、途中何かに引っ掛かって掘削が止まった。感触から見るに木の根ではないようで、切っ先を当てるとカツン、と硬質の物体に触れたような音が返ってくる。

 長谷部くんはシャベルを置き、身につけていた軍手で土を浚った。土中の異物がみるみる露わになっていく。そうするうちに、古ぼけたプラスチックの蓋が顔を出した。およその大きさが判明したところで、その周辺の土を削り全貌を明らかにする。鮮やかな水色をした蓋とは異なり、側面はほとんど下地の色を残していない。
 地中から箱を取り出したとき、僕はこの作業が本来必要のないものであることを思い出した。長谷部くんも僕も、一切の疑問を差し挟まず、このプラスチックの直方体を発掘することに没頭していた。今になって自分たちの行動と、箱から滲み出る独特の雰囲気を顧みる余裕が出てくる。

「燭台切」

 長谷部くんの僕を呼ぶ声にも同様の懸念が感じられた。この額を伝う汗は運動によるものなのだろうか。安易な仮説を裏切らんばかりに、ケースの威圧感は秒ごとにいや増していく。敵の奇襲に怯えるでもなし、果たして何を恐れることが有るのか。
 そもそも、半ば神域と化している本丸の敷地内に、時代を経た遺物が有るはずがない。僕らは、その大前提を強いて忘れるよう努めながら箱の中身と対峙した。

 プラスチックの容器の中には、さらにビニールで保護された段ボールが入っている。厳重な包装を少しずつ解き、最後に、経過の割には綺麗なガムテープを引き剥がした。
 段ボールを開いた直後の反応だが、これは二振りとも絶句の一言に尽きる。箱の中には大量の写真と手紙が詰まっていて、僕らも寸前までやろうとしていた行為と同じものだと容易に想像がついた。

 僕らが色を失ったのは先駆者の存在ではない。山伏さん、御手杵くん、青江くん――挙げようとすれば切りが無くなるほど、収められた写真は見覚えの有る姿しか捉えていなかった。
 特に衝撃を与えたのは他でもない、最上部に置かれていたワンショットである。

「何で、ここにあいつの写真が有るんだ」

 長谷部くんが震える手で矛盾と疑惑に満ちた一葉を掴む。
 写っているのは僕と長谷部くん、その間には、平成の世で一時縁を結んだ彼の青年が立っていた。ご丁寧にも、写真の中の僕らは前日に買い揃えた当世の衣装を着ている。もはや偶然の一致と片付けることはできない。

「長谷部くん、今日のところは戻ろう」
 持って来た荷物と発掘したパンドラボックスを抱える。もう将来の展望についてふたり語り合うような気分にはなれなかった。箱を見つけてから悪寒が背筋をひた走っている。一刻も早くこれの正体を掴まねば気が狂ってしまいそうだった。

「写真のことは明日一番に主に訊こう。この本丸で、他に彼のことを知っているのは主だけだ」
「ああ」
 提灯の弱々しい光源でも、長谷部くんの顔色が蒼白としているのが判る。彼と共に居て、こんなにも夜明けが待ち遠しいと思ったのは初めてだった。

□□□

 

 それは顕現以来、最悪の寝覚めだったと自負している。

 庭先から漂う花の香りも、障子の枠だけを切り抜き布団に伸びる日差しも、春らしい朝の風景はどこにも見当たらない。 障子を開けると、灰色の重苦しい雲が空を覆っているのが見えた。いやに張り詰めた空気が身に纏わり付くのもあって、ますます気分が悪くなる。

 着替えを済ませたら、いの一番に燭台切を訪って主の元へ行こう。
 昨晩は部屋に戻ってすぐ布団に入ったが、予想通りほとんど寝付けなかった。

 あの童の写真が先の遠征のときに撮ったものならば、昨晩の箱は彼が埋めたと見て間違いないだろう。しかし、それが何故この本丸の敷地内に埋まっていたのか? この空間は現実と切り離された場所に在る。たとえ例のタイムカプセルが二百年の時を地中で過ごそうと、この場に存在し、あまつさえ本丸の男士たちの写真をその内に収めることなど有り得ない。

 考えもまとまらないうちに身支度が終わる。当たり前だろう。己ひとりが頭を捻って真実に辿り着けるものではない。そう単純な話なら、とうの昔に臓腑を刺すような不快感から解放されている。

 自室から足を踏み出した途端、強烈な違和感が全身を襲った。
 早朝とはいえ、あまりにも本丸の中が静かすぎる。生活音がしないどころではない。人の気配が全く感じられなかった。
 試みに両隣の部屋に声を掛け、返事を待たず障子を開ききる。誰もいない。どの部屋も布団を敷いたまま、まるで住人だけが消えてしまったかのようにもぬけの殻となっていた。

 そうだ、主。主はご無事だろうか。
 ひょっとしたら鶴丸なみに悪戯を好まれる主のこと、気まぐれに大規模な狂言でも仕組まれたのかもしれない。
 楽観的な想像に身を任せ、半ば縋るような気持ちで主の部屋の前に立つ。俺を迎えたのは、無人の八畳間だけだった。

「主、ご冗談でしょう? 俺をからかっているんですよね」

 隅に積まれた段ボールに触れる。何の抵抗も無く紙箱の山は崩れ落ちた。悲鳴も文句も聞こえない。目の前に転がっているのは、本当にただの段ボールでしかなかった。

「主」
 無我夢中で部屋を飛び出す。廊下の端、大広間、縁の下、この本丸には行く先々に段ボールが有る。きっと、そのうちのどれかに主は憑依しているに違いない。

 本丸中を駆けた。主を、或いは仲間の姿を、文字通り地を這いずるように探した。
 廊下を走り回り、大声で呼びやる俺を咎める声は一切飛んでこない。己が立てた騒音の後に残るのは、不気味なほどの静けさだけだった。
 母屋を抜けて畑の方まで出る。とうとう水滴が頬を濡らし始めた。堰を切ったように雨粒は降り注ぎ、地面の色が見る間に黒ずんでいく。

 もしかすると、これは俺が見ている幻ではないだろうか。粟田口の連中も言っていた。世界にひとり取り残される怖い夢を見たことが有ると。経験の有無によって、短刀の間では怖い、怖くないと意見が分かれていた。あのときは他人事だと思っていたが、いざ自分の身になって考えると恐ろしいなんてものじゃない。

 主も、仲間も、敵もいない。忠誠を捧げる相手、功名を競う友人、刀としての本懐を遂げるための宿敵、そのいずれも存在しない世界で、一体どこに己の意義を見出せば良いと言うのか。
 誰でも良い。俺は独りじゃないと言って欲しい。

「長谷部くん」

 聞き慣れた声が俺の名を呼ぶ。畑の奥で、黒い塊が蠢いていた。滝のような雨垂れの中では琥珀色の隻眼が一等光って見える。あの刀も俺の姿を捉えるなり動き出したが、それよりも俺が男の腕の中に飛び込むのが早かった。

「燭台切!」

 己より幾分も逞しい背中に腕を回し、肩口に額を押しつける。相手の鼓動も体温も感じられた。夢ではない。以前にもこの懐に抱かれたことが有る。燭台切の与えてくれる温もりはあのときと変わらない。この男の腕の中ほど安心できる場所を、俺は他に知らなかった。

「怖かった。主も、皆も、誰もいなくて、ひとりきりになってしまったかと、本当にこわかったんだ。お前だけでもいてくれてよかった、燭台切がいてくれるなら俺はもう、じゅうぶんなんだ。このままどこにも行かないでくれ、たのむ」
「あ、あの長谷部くん」
 ぎゅうぎゅう抱きつく俺を燭台切は困ったように見つめている。俺の腰を抱く手も、添えているだけのようで、どこかぎこちない。

「俺たちのことは気にするな。後はこっちで上手いことやっておくぞ光坊」
「そんな状況じゃないから! 長谷部くん、嬉しいけどそういうことは後でじっくり話し合おう! 割と今は緊急事態だったりするから!」

 燭台切の後方に鶴丸と大倶利伽羅に五虎退、秋田の面々を認めて肩の力が抜ける。普段なら捨て置けぬ白い太刀の戯言も、今に限っては安堵をもたらすだけだった。

 集合して話を聞くに、異変は夜明け前から既に始まっていたらしい。
 たまたま尿意を覚えた秋田が目を覚ますと、粟田口の大部屋には自分と五虎退を除き、誰もいなくなっていた。不審に思った秋田は五虎退を起こし、兄弟たちの行方を捜したがやはり見つからない。さらには、粟田口どころか本丸中の刀までもが蒸発している。
 目を潤ませながら伊達の部屋を訪れ、大倶利伽羅が寝息を立てているのを見つけたときは二振り揃って噎び泣いたそうだ。その声で部屋の主だけでなく、寝所の近い燭台切と鶴丸も覚醒し駆けつけることになった。俺がちょうど夜を徹した疲れから微睡み始めていた頃の話である。

「ごめんね、長谷部くん気持ちよさそうに寝てたから起こしづらくっていたたたいたい長谷部くん痛い」
 余計な気遣いをした伊達男の腿をつねる。八つ当たりかもしれんが、その優しさのせいで童子のように縋ることになったと思うと許し難いものが有った。

「刀だけでなく主も見当たらないとなれば、政府に連絡を取った方が良いかもしれんな。長谷部、通信機器は使えるのか」
「そうだな、試してみよう」
 鶴丸に言われて、始めて外部への救援という可能性に思い至る。主の消失に相当参っていたようだ。他者に指摘されるまで最低限の対処すら疎かにしていたとは、怠慢にも程が有る。

 近侍部屋に戻り、政府へのホットラインを繋ぐ。起動は問題なく行えたが、パスコード認証の段階でエラー表示が出て進めなくなった。最近になってセキュリティ情報を更新した覚えは無い。紙に起こしたメモと記憶に有る文字列とを比べてみたが、やはり入力したパスワードと相違なかった。

「こりゃあ噂のハッキングってやつか?」
「あの力押ししか能の無い時間遡行軍がか。随分と知恵が回るようになったものだ」
 忌々しげに言い捨てたものの、真に敵の襲撃によるものならば、我々は既に後手に回らされたことになる。焼け付くような焦燥感が下腹を冒した。

 本丸に大倶利伽羅、五虎退を残し他の四振りで再び捜索に出る。何もかもが不明瞭の状況下で、さすがに単独行動は許可しかねる。熟慮の末、鶴丸は秋田と、俺は燭台切と組んで山野を練り歩いた。
 草藪に分け入りながら、ひたすら主を呼び続ける。雨が降り止む気配は無い。あの御方が、この天候で外に出られるような身体でないことは重々承知している。それでも、座して転機を待つなどという真似はできそうになかった。

「っ!」
 ぬかるみに足を取られバランスを崩す。受け身を取るより先に、俺の身体は厚みの有る壁に支えられた。
「すまん燭台切、助かった」
「お安いご用だよ。長谷部くんが怪我しなくて良かった」
 燭台切は俺の腹に回した手を外すと、そのまま俺の右手を取り先導するように前を行った。昨晩の構図とはすっかり立場が逆転してしまっている。

「もし主が本当に消えてしまったなら、僕たちだって人の形を保っていられるはずがない」
 こちらを顧みることなく燭台切は独語する。俺を励ますために言っているのだと、すぐに知れた。
「主は生きている。どこかで、僕たちが迎えに来るのを待ってる」
「ああ。必ず見つけて帰ろう」

 雨に打たれてすっかり身体も冷えてしまった。無事帰った暁には燭台切特製のスープでも飲みたいところである。
 昨晩も訪れた花見の会場に立つ。とりわけ立派な枝振りを見せていた桜は、一晩のうちに焼け爛れた後のような無残な姿へと変貌していた。

「歌仙くん!

 幹に寄りかかるようにして初期刀が根元に座り込んでいる。駆け寄り具合を窺うと、そのかんばせからはほとんど血の気が失われていた。それもそのはず、外傷こそ見当たらないものの、歌仙の神気はほぼ底を突きかけている。

「ああ、遅かったね……危うく言伝を秘めたまま首を落とすところだった」
「不吉なことを言うな。何が有ったか、話せるか」
「一から話すには、ちょっと、身体が保ちそうにないね……手早く要件のみを伝えようか」

 燭台切と顔を寄せて歌仙の言伝に耳を傾ける。
 俺たちは事態を把握するとともに、急ぎ本丸に取って返した。

 

×××

 

 施設を出てから八年ほど経つ。
 俺を引き取った老夫婦はできた人たちで、血の繋がらない俺の面倒を見た上に、大学にまで通わせてくれた。そのお陰で何とか就職も決まり、長年お世話になった家に別れを告げて、今では勤め先付近の賃貸マンションに一人暮らしている。

 どちらの家にもそれなりの頻度で顔を出していたが、今日向かうのは施設の方だった。何しろ可愛い妹分が第一希望の大学に見事合格を果たしたのである。これを祝わずして何が兄貴分なものか。入学が決まれば、あいつも一人暮らしを始めることになる。その下宿先が自分の勤め先と近いと聞いて、俺は密かに胸を弾ませていた。
 あれが俺を兄としか見てないのは解りきっている。今はそれでも良い。たとえ兄妹の間柄でも過去を共有できることに違いはなかった。

 良い機会だから八年前のタイムカプセルもそろそろ掘り出すとしよう。あいつと仲良くなる切っ掛けをくれたのは、そのタイムカプセルに並々ならぬ関心を抱いていた神様たちなのだし。

 数ヶ月ぶりの施設は生憎と人が出払っていて、俺以外には誰も居なかった。時刻は十時前、うっかり主日のミサに当たってしまったらしい。どうせ二時間も経たずに戻ってくる。例のカプセルを取り出していれば程よく時間も潰せるだろう。
 常備してあるシャベルを掴み、広場で最も目立つ桜の下へ足を向ける。さて、大体の位置こそ覚えているが、何分八年前のことだから細かい部分は曖昧だ。まあ、仮に見当違いな場所を掘ったところでネタになるから構いやしない。

 まだ肌寒い時分といえども、鉄製のシャベルを持って掘削を続けていれば汗の一つも掻く。そろそろジャケットを脱ぐ頃合いか、と見当を付けたとき、背筋を薄ら寒い風が通り抜けた。
 恐ろしくも身に覚えの有る感覚である。振り返るのは、まずい。半ば転がるようにして横に身体を投げ出す。寸秒経たずして、空を割くような音が己の元居た場所から轟いた。

 烏帽子を戴いた鎧武者が勿体つけたようにゆっくりと上体を起こす。妖の双眸は鈍い光を懐いていた。そこに滲んでいるのは殺意ではない。有るべき流れを己が意志一つでねじ曲げようという、純然たる狂気のみが為し得る輝きだった。
 教義を改めたとはいえ、一度は遡行軍に与した身である。それこそ歴史を修正する気概も保てず、全くの凡人に身を窶した己を狙う利点など只の一つも無かった。だが、それを口にして何になろう。彼らは人語を解せど人情には通じぬ。ただ血肉を斬り捨てることのみを求められた、哀れな怪物だった。己に出来るのは、このひどく頼りない得物を武器に、精々この場を切り抜けるため必死に藻掻くことぐらいだろう。

 文字通りの兵器を正面きって相手にするほど愚鈍ではない。施設後方に広がる森に逃げ込めば地の利を活かすことだってできる。あの重厚な装束なら身体に掛かる負担もさぞ大きかろう。俺の目的は生き延びることで、敵を退けることではない。
 先ほど掘り起こした土塊が目に入る。渾身の力で振るえる程度の量を掬い、敵の顔面目がけ思いきりシャベルを横に薙いだ。直後、目を潰された男は咆哮を上げて勢い体勢を崩す。その隙を突いて得物を投げ出し、一目散に森の方へと駆け抜けた。

 足を動かすたびに心臓が警鐘を鳴らす。遠い、遠い。嘗て野球するにも手狭と思われた遊び場が、手足の伸びた今になってこんなに広く感じるなんて。

 やっとのことで入り口を示す茂みが眼前に迫る。胸を撫で下ろしかけた刹那、ふくらはぎが俄に熱を孕んで前方に動かすのを拒んだ。何が起きたかも解らないまま、前のめりの体勢で地面に倒れ込む。体重を受けた両腕よりも、じくじくと伝わる脚部の痛みの方がずっと大きい。

 ふと俺の全身を何かの影が覆った。がしゃり、がしゃりと重たげな金属音を立てて男が距離を詰める。吐き出す呼気が荒い。憤っているのだろう。そういう単純な情動だけはあの化生にも許されているらしい。
 鎧武者がかぶりを振る。足が動かない。逃げろ、逃げなければ。まだ、やることも、やりたいことも沢山残っている。

 神様が拾ってくれた命を、こんな意味もないまま終わらせてたまるものか。

 肉と骨が割ける。脇腹から右肩に掛けて、まるで一切の抵抗を覚えなかったように、その切り口は真っ直ぐであった。血飛沫が舞う。崩れた巨躯の先に目を眩ますような白銀しろがねが有った。

「全く、貴方という方は、いついかなる時もじっとしておられないのですね」

 煤色の髪と深紫の長衣が風に揺れている。ああ、見忘れるわけがない。この男との邂逅は、いつだって鮮烈な光を以て記憶の内に刻み込まれていた。

「お迎えに上がりましたよ、主」

 唐突に現れては、己の命を救っていく刀だ。

 

□□□

 

 斬り伏せた太刀が跡も残さず身を溶かしていく。援軍が来る前に主の手当を済ませたいところだが、そう都合良くは行かないらしい。

 飛び交う矢石を打ち払い、時に刀装で受け止める。脇差と打刀とが各々一体ずつ遠方よりこちらを睥睨していた。ならば相手にするのは脇差だけで十分だろう。
 蜘蛛にも似た奇形が地を駆ける。その背後に打刀が続くも、間を置かずして血煙を上げるのが見えた。己に斬りかかろうとしていた脇差が後方の異常に気付く。澱んだ黒目が僅かに動くのを見逃さず、その頭頂に刃先を中てた。味方の絶命を捉えた瞳は、己の身が二つに割れたことを知らぬまま逝っただろう。

「長谷部さん、交替です! 身辺警護は短刀の僕にお任せ下さい!」

 打刀を屠った秋田が陽気に手を振る。こちらと合流しようとする短刀を、遡行軍の二振りが遮った。敵の片割れは大太刀で、秋田の痩躯をへし折らんばかりに大ぶりの一閃を放つ。短刀が切り結ぶには荷が重い打ち込みである。受ければ腕ごと刀を落とされそうな一撃を、しかし悠々と止める者が居た。

「はは、こいつは驚いた。大太刀というから期待したんだが、これならうちの太刀連中の方が余程重い打撃をくれるぞ。ああ、期待はずれも良いところだぜッ!」

 白い太刀は勢いづけて相手の得物を空に打ち上げるや、わざわざ背後に回って上段から己が業物を叩きつけた。切れ味以前に込められた力が尋常でない。華奢な見た目にそぐわぬ膂力を身に浴びた敵は、粉砕された脳髄を周囲にばらまきながら散っていった。
 鶴丸が前述のような大立ち回りを繰り広げる間に、秋田は己が喉元を狙う一振りを事も無げに打ち倒している。淡い色彩の刀たちはハイタッチを交えつつ、主の元に馳せ参じた。

「お待たせしました主君! 御身の警護はこの秋田藤四郎と」
「俺こと鶴丸国永が務めさせてもらうぜ。大船に乗ったつもりで任せておけ」

 呆然とする主を二振りに任せ、俺は前線に赴くべく歩を進めた。以前に写真を撮った木の周辺を、幾重もの遡行軍が取り囲んでいる。奴らの目的は人ではなく、あの木の破壊そのものに在った。
 幹に刃を立てようとする敵の腕を弾丸が貫く。負傷に竦んだ異形は例外なく竜の刀の餌食となっていった。

「ぐ、ぐっじょぶです」
「ん」

 襲撃が落ち着くと、五虎退と大倶利伽羅とが互いの健闘を称えるように小さく頷き合っている。木の上から攻撃を仕掛ける短刀を敵は容易に狙えず、同じく遠距離からの狙撃を図ろうとすれば褐色の刀に妨げられた。
 さしもの大倶利伽羅も、一振りでは押し寄せる敵影に尽く対応することはできない。その間断を縫うように、同じく伊達の刀が豪腕を振るい鉄壁の陣を敷いていた。

「残念。ここは通さないよ」

 燭台切の役割は言わば殿だ。五虎退が威嚇し、大倶利伽羅が蹴散らす。その包囲網をかいくぐり、勝利を確信した身の程知らずの懐を燭台切が骨ごと打ち砕く。旧友のふたりほど派手には立ち回らない。だが、地に根ざしたような重量感有る男の守りを誰が突破できると言うのか。頭数では圧倒的に勝る遡行軍だが、その旗色は芳しくない。

 いよいよ敵も力押しでは勝てぬと踏んだようだ。太刀以上の体躯を持つ兵の投入を避け、遠距離からの持久戦に方針を変えようとしている。こうなると、自軍も前線を押し上げる必要が有った。地上の二振りを引き剥がし、手薄になった本陣を奇襲しようという企みが透けて見える。
 大倶利伽羅も燭台切も薄笑いを浮かべた。敢えて挑発に乗った二振りが樹木から距離を取る。彼らが敵の弓兵、投石兵と交戦した機を見計らい、草陰から短刀らが飛び出してくる。狙うは非力な五虎退ひとり。身軽さだけが取り柄の穢刀は、木陰に入るよりも先に四肢を分断されていた。

「どこぞの鶴ではないが、驚き甲斐の無い奇襲だったな」

 長い尾が吸い込まれるように地に堕ちる。刀身に垂れ下がる臓腑をうち捨て、敵を攪乱するふたりに合図を送った。伊達の刀たちが後退するのを見届け、五虎退ともども刀装を展開する。追い縋る敵兵は降り注ぐ弾丸と投石とに阻まれ、まんまと俺たちの合流を許してしまった。

「迎撃お疲れ長谷部くん」
「なに、前線で暴れ通しだったお前たちほどじゃない」
 燭台切の掲げられた手に己の掌を叩きつける。鶴丸と秋田もやっていたハイタッチだが、首級を挙げた後にやると殊更に気分が良い。大倶利伽羅の方にも掌を差し出すと、渋々ながら応じてくれた。

「動き回って疲れた。少し上で休ませてもらう」
「構わん。俺の投石兵をやるから、しばらくは後方支援に徹していてくれ」
 刀装を交換し、大倶利伽羅と入れ違いに地上防衛の任に就く。

 敵もいい加減小細工は諦めたらしい。悪あがきとばかりに、大太刀と槍兵を大量に導入してきた。打刀と太刀の混合編成だったときよりは確かに厄介に思える。

「ねえ、長谷部くん。僕たちが一緒の戦場に出たのっていつぶりだっけ」
 殺気づいた敵を前に燭台切が場違いな質問を投げかけてくる。それを受けて素直に過去の出陣を振り返ろうとする俺も俺だが。

「そうだなあ、お前が特付きになる頃にはほとんど入れ替わりで部隊を回されていたしな」
 年明けの遠征だって、燭台切と共にするのは本当に珍しいことだったのである。そういえば、俺が最後に燭台切の戦う姿を見たのはいつぶりだっただろう。

 最も記憶に色濃く根付いているのは、初陣で見せた伊達男らしからぬ、形振り構わぬ戦い方だった。あれを間近で見せられた当時、嘗てない昂揚を覚えたことは今でも忘れられない。
 練度も上がり、部隊長を任されるようになった男は、剛胆さと抜け目無さを備えるようになった。敵のあしらい方も随分と洗練されたものである。しかしながら、あの美しい面差しに一つだけ残る黄金色は、やはりどこか初陣の頃の獰猛さを捨て切れていない。敵を映す隻眼は、思わず相手に同情してしまうほど凶暴な熱を湛えていた。俺は、友のその瞳が、どうしようもなく好ましかった。

「良い機会だし首級争いでもしようか?」
「お前の鈍足で俺の働きに付いて来られるのか?」
「長谷部くんこそ、装甲がっちがちの大太刀を一発で仕留められるのかい?」

 互いに声を上げて笑い合う。双方の踵が同時に離れた。

 大太刀の間合いに入る寸前に礫を投げつける。狙いはそれず、相手の右瞼に命中した。既に振り払う動作に入っていた敵は視界を潰され、見当違いの方向に刃を振るう。攻撃した直後の隙はその威力に比例した。俺の動きを察知するも対処できない敵は、刀を圧し入られ宙に雁首を飛ばしていった。
 赤黒い飛沫を追い、その陰となった別個体の胴を薙ぐ。さすがにあの程度の目眩ましでは足止めにならないようで、俺の踏み込みは敵の刃に妨げられた。力比べをするつもりは無い。このまま刃毀れ覚悟で身を滑らせ、側面に転がり込めないものだろうか。そこまで考えたところで、計画は無期延長となる。俺が鍔迫り合いをしているうちに、敵の頭部が兜ごと叩き割られていた。

「横入りごめんね?」
「助かったとは言わんぞ」

 筋肉への信号が途絶え、重力に抗えなくなった大太刀が俺の側へ倒れ込もうとする。燭台切は粗雑にも屍体の足を蹴り上げ、その向きを調整した。こういうところにも初陣の頃の癖は残っているらしい。
 のうのうと血振りを行う友人を注視する。俺は投石の要領で男の肩目掛け本体を投げつけた。燭台切の背後に居た槍の眉間をへし切長谷部が貫通する。伊達男の顔は期待通り歪んでいた。友人の脇を通り抜け、血泡を噴く屍から本体を飄々と回収する。

「中てない自信は有った」
「知ってたけど長谷部くんって根に持つタイプだよね」

 競い合っているのか、協力しているのか判らない連携は続く。ただ一つ確かなのは、この男ほど己の背を預けるのに相応しい刀はいないということだった。おかしな話である。互いを親友と認めながら、俺たちは今の今まで共闘らしい共闘など一度もしてこなかった。

 最後に残った大太刀の喉笛を刺し貫く。柄をことにゆっくり引けば、精根尽きた身体がぐらりと揺れ、地に沈み込んだ。挙げた首級は燭台切と同数。どうやら勝負は次に持ち越しとなったらしい。
 激戦を制し、四振りとも健在のまま鶴丸たちの所へ戻る。主は未だに事態を把握できていないのか、膝を折る俺たちを目にして明らかに困惑していた。

「はあ、俺が将来審神者にねえ」
「はい。自慢の主です、本当にご立派になられました」
「あんたに敬語使われるの違和感しか無いんだけど」
「まさか主とは存じ上げず、以前は散々にご無礼を働きました。その節は誠に申し訳ございません」
「黒いお兄さんヘルプ! 変わり身が激しすぎてチキン肌!」

 俺の応対は主のお気に召さないらしい。説明役を燭台切に取られて以後は、己が不機嫌を主に悟られないよう必死だった。
 もっとも詳しい話は俺たちも知らされていない。歌仙から伝え聞いたことは、平成の世で出会った少年が後の主であること、また遡行軍が狙っているのは主ではなく桜の木であること、この二点のみである。
 何故遡行軍がこのタイミングで襲撃を謀ったのか。本丸で俺たち六振り以外の刀が姿を消したのは何故なのか。その辺りの説明を受けるには、歌仙の神気が保ちそうになかった。真実は帰還して主から改めて伺え、ということなのだろう。

「何にせよ助けてくれてありがとう。まあ丁度良いっちゃ丁度良いし。あんたらも前に撮った写真見たいだろ、タイムカプセル掘り起こすの手伝ってくれよ」
「主命とあらば喜んで」

 施設のシャベルをさらに一本借りて、燭台切と共に木の根の合間を掘り進める。程なくして、見覚えの有るプラスチックの角が露わとなった。表面を浚った後は力自慢の友人に引き上げてもらう。側面は下地の白がまだ見えていたが、間違いなく俺たちが昨晩持ち帰った箱だった。
 開帳は俺たち刀ではなく、やはり主の手によるのが相応しいだろう。燭台切も同じ考えらしく、土汚れを最低限取り除くと箱を主の足下まで運んでいった。
 見ると、短刀組はおろか鶴丸も目を輝かせて開封をまだかまだか、と待ちわびている様子だった。冷静なのは大倶利伽羅だけだが、あれもしっかり視線は箱に固定されている。

「ほら開いたぞ、でもあんまり期待すんなよ」
 主の取り出した品々に好奇心旺盛な三振りが群がる。大倶利伽羅も白い太刀に引き摺られ、その輪に無理矢理入れられた。残された俺たちは主を交え、件の写真を前に昔を懐かしんでいる。

「この頃と比べ、また一段と凛々しく成長されましたね」
 当時、十代の半ばほどだった青年は背丈も伸び、声も成人男性のそれに相応しい低音になっていた。俺や燭台切より細い体格とはいえ、そこに子供だった頃の名残は見られない。出会った時分の年齢も相俟って、まるで年長の親戚のような気分になった。
「長谷部くん親戚のおじさんみたい」
 妙にしみじみと言う友人の脇腹に肘を入れる。やかましい、おじさんは余計だ。

「こんな美形の親戚要らねえなあ、横に並ばれると空しくなるわ。あ、でも秋田と五虎退は有りかな。弟に欲しい」
「主、それ言うと長谷部くん本気で磨上げを検討しちゃうから止めて。あのナリでも可愛いところいっぱい有るから許してあげて」
 人の心を読んだようなフォローを入れる友人の尻を叩く。やかましい、大の男に可愛いもクソも有るか。せめて愛嬌が有るとか言え。

「主、主! 今度は俺たちも写っていいか? きみの驚きの姿は是非形に残しておきたい!」
「これで驚きって、俺将来どんな格好してんだよ。まあ記念撮影は大歓迎だけどな」
 鶴丸の提案を主は快く承諾する。やはり今もカメラは携帯しているらしく、鞄からフォルムの大きく様変わりした機材が見え隠れしていた。主は慣れた手つきで撮影の準備を進めていくので、カメラ素人の俺は待つことしかできずもどかしい。
 時刻は正午、太陽は真上に位置して木陰も小さく窄まって見える。日を覆うような雲も少なく、快晴と言って良い天気だった。撮影もさほど手間取らず終わるだろう。

 そんな俺の予想を裏切るかのごとく世界に影が差した。昼夜を逆さまにしたような暗闇が訪れたかと思うと、一瞬のうちに稲妻が走る。その刹那、八人分の影が地面に映し出されたのを見た。
 八人。この場に居るのは、六振りの刀と一人の主だけ。

 肌を戦慄が舐め上げる。鯉口をくつろげる猶予も無く、鞘ごと引き上げて奇襲に備えた。刀装に被害が及んだ形跡は無いのに、身体は疑いようのない痛みを訴えている。己の脇腹を抉る槍の先を追った。青白い微光がぼんやりとその稜線を描く。

 そうだ。俺は燭台切と今まで何度平成の世に飛んだ?

 出現した検非違使の練度は俺に合わせたものだろう。短刀の二振りどころか顕現が比較的遅かった鶴丸だって相手取るのは危うい。そして俺は槍の不意打ちを受けて負傷している。燭台切と大倶利伽羅の二人はいけるだろうが、正直なところ厳しい。
 仲間が俺の名を叫んでいる。あまり休んではいられないようだ。己の身を裂く槍を抱え込み、鞘走らせた刀身を左から右へと切り上げる。噴き上げる朱い間歇泉を過ぎり、持ち直した切っ先を残り五体に向けた。

「君は下がって後方支援に回りなよ」
 怒気を孕んだ声が横から響く。男は既に薙刀を一振り討ち取ったようだ。
「馬鹿言え……あいつらが狙ってるのは俺だぞ」
「じゃあ大人しく疑似餌の役にでも徹してて。手負いに粘られても良い迷惑だから」
 わざと語気を強める友の真意も解らないほど鈍になったつもりは無い。一度だけ男の肩を軽く叩いた。後は任せる。俺は、俺にできることをしよう。

 秋田と五虎退の刀装が剥がれる。鶴丸の白装束が敵ではなく自身の血で紅く染まる。怒濤の勢いで刀を振るう大倶利伽羅も疲労の色を隠せない。俺と練度の同じ燭台切なんかは、大太刀や槍などの屈強な刀種と対峙し続けてぼろぼろだった。
 俺は無事だった投石兵を展開し、相手が距離を取った瞬間を狙うしかない。歯がゆい。俺も仲間と並び戦場を駆けたい。本丸に無事帰り、風変わりな容貌となった主に迎えられ、全てを笑い話に済ませてしまいたい。
 失血のためか膝が笑い始めた。もつれそうになる俺の肩を誰かの手が支える。傷一つない、綺麗な指先だった。

「こんなことくらいしかできなくて、悪いな」
「申し訳ありません主。このような無様を晒すどころか、貴方の手まで借りてしまって」
「気にすんなよ。俺がもうちょっと聞き分けの良いガキだったら、あいつらも出なかったんだろうし」

 主とふたりで仲間の奮戦を見守る。

 軽傷、中傷を負いながらも五虎退は太刀の装甲を削り、秋田は防御の薄くなった面に深々と本体を突き立てていた。
 左方に目を向けると、大倶利伽羅が槍兵の胸板に十字を走らせている。敵は左足を軸に、後退する身体を何とか踏み止まらせた。が、その背後には既に白い刀が控えている。脇から差し込まれた刀身は肩を抜け、鮮血とともに敵の右腕を中空に踊らせた。
 白い手と褐色の手のシルエットが重なる。パン、という小気味良い音はここまで届いた。
 燭台切に至っては言うまでもない。一対一の真っ向勝負、振り下ろされた白刃を紙一重で避けた黒い刀は、大太刀の刀身をまさかの足で踏み砕く所業に出た。滅多に揺れぬ検非違使の目に焦りが浮かぶ。情感を初めて宿した面相は、別の表情を見せる前に斬り捨てられていた。

 どうです主、貴方の刀たちは頼りになるでしょう。
 口に出しては言わなかった。本当は胸を張って自慢したいところだが、主に肩を借りている俺が言うには少し気恥ずかしい。

 戦場を見渡す。出現した検非違使六体は、例外なく地に斃れ伏していた。勝利を飾った五振りが上機嫌でこちらに戻ってくる。主に断って、俺も仲間を出迎えようと一歩踏み出した。

 手負いの獣が一番厄介である。その風説を最初に唱えたのは誰なのだろう。始めに俺が斬り伏せた槍兵は、この瞬間を待っていたのかのように半身を起こし、得物を振り上げていた。

 風を切る音が伝わる。同じ光景を、俺は以前にも見たことが有った。
 突き飛ばされ、受け身も取れぬまま地面に転がる。顔を上げた先には、肉を貫く槍と俺に覆い被さるように手を突いた主が有った。

「なくなよ、はせべ」
 いくら主命でも、それは無理難題が過ぎる。

 駆けつけた大倶利伽羅は慌てて主の身体を抱いた。褐色の刀は黙って首を横に振る。槍は急所を突いていた。致命傷だと傍目にも判る。あの一投で敵も力尽きたのか、栓となっていた凶器も塵となって消え失せる。赤い染みがじわじわとシャツ全体に広がっていった。

「お前にふてぎわがあったわけじゃない。きっと、俺はさいしょからここで死ぬ予定だったんだ。だって、ピンチになったら神さまにいつも助けてもらえるなんて、できすぎた話じゃん」
 違う、俺が、あのときちゃんと止めを刺していればこんなことにはならなかった。

「ごめんな、お前らのあるじになってやれなくて」
 何で貴方が謝るんですか。止めて下さい。俺が悪いんです、俺がもっと強ければ、あのとき無理にでも戦っていれば違った結果になったかもしれないのに。

「なあ、つるまる。ほんまるってどんなところなんだ」
「面白いぞ、毎日が驚きに満ちている」
「そりゃあいいな。ペットとか飼ってたりしないのか」
「不自由しない」
「虎くん以外にも、猫さんとか鶏さんもいますよ」
「いいね、小さくてかわいいのはすきだよ。これですいじせんたく、やらなくてよかったらさいこうだね。えいきゅうしゅうしょくしたい」
「燭台切さんのごはん、すごくおいしいんですよ」
「毎日腕によりを掛けて作ってるからね。君にも是非食べてほしい」
「野郎のてりょうりってとこがむなしいけど、いいなたべてみたい」

 鶴丸、大倶利伽羅、五虎退、秋田、燭台切がそれぞれ自分なりの言葉で主に応えていく。俺は何も言えなかった。唇を噛みしめ、泣くなという主命を果たすのに精一杯だった。秋田も、五虎退も耐えているというのに、俺は視界が霞んで呼吸もままならない。

「はせべ」
 俺はちゃんと相槌を打てただろうか。友の手が勇気づけるように俺の背を撫でる。大丈夫だよ、と励まされている気がした。

「あの写真、おまえにやるよ。俺がちゃんとイケメンにそだったってこと、ちゃんと覚えておいてくれよな」
「主命と、あらば」
「しゅめいじゃなくて、おねがいだ」

 貴方も俺を置いていくというのに、忘れるなと仰るのですか。酷い御方だ。主を守れなかった俺を責めることも、罵ることもせずに、形見を托して一人逝こうとするなんて。

「はい、忘れません」
 他ならぬ貴方が望むなら、たとえどんなに苦しくても決して忘れません。

「それと、あんま気にやむなよ。おれはおまえをたすけたかったから、たすけたんだ。かみさまに、おんがえしなんて、めったにげほっ……できない、だろ」
 口の端から血が零れる。もう喋らないで下さい、と懇願したけれども主は聞こうとしなかった。この人は、何度俺が窘めても一度決めたことは頑として譲ろうとしなかった。

「それに、だれかにやさしくするのに、おとなも子供もかんけいないなら、きっと神さまとにんげんだっていっしょだろ」
 はせべ、と主が俺の名を呼ぶ。燭台切も長谷部くん、と俺に応えを促した。自分に優しくしてくれた誰かに報いる術を、俺たちは既に知っている。

「主」
 この身を救って頂き、ありがとうございます。

 俺の言葉を聞き、主は満足げに目を細める。もう二度と、その瞼は開かれない予感がした。

「しらないうちに、おれもいい部下をもったもんだ。うん、さにわになって歴史を守るのもわるくねえな。だから」

 ――もうすこし、おまえたちといっしょにいたかったな。

 大倶利伽羅の目が見開かれる。その意味を理解した俺はとうとう抑えていたものを解放した。短刀たちと一緒になり、幼子同然に泣き腫らした。燭台切は、そんな俺の肩をずっと抱いていてくれた。

 凱旋というには鬱々とした顔をぶら下げ、本丸へと帰還する。
 皮肉にも俺たちの憂愁とは裏腹に、張り詰めたような空気は失せ、暴雨も収まった雲間からは青天が覗いていた。

「あ、みんなおかおつー」
 脳天気な声が心身ともに疲弊した俺たちを労う。段ボール姿の主が縁側から俺たちを迎えていた。

「主、僕たち今かなり重苦しい雰囲気引き摺って帰って来たんだけど」
「その空気を断ち切ろうと殊更明るく振る舞ってんだよ!」
「嬉しいけど温度差激しすぎて付いていけないよ!」

 燭台切が主と喧々囂々の言い争いを繰り広げている。いつもの日常だった。この光景を、あちらの主も望んでいたと思うと、再び目頭が熱くなるのを止められない。

「だからさあ、長谷部泣くなよ」
 今更ながらに気付く。声色こそ違うけれども、俺を気遣う口調はあの青年とまるっきり同じものだったと。

「俺はちゃんと、お前らの主になれたから」

 目も鼻も口も、あらゆる感情を表現するためのパーツを主は失っている。それでも俺には、まだ幼さを残す笑顔が見えたような気がした。

 

■■■

 

「というわけで、俺は今第二の人生を段ボールとして過ごしている」
「凄いまとめ方したね」

 異世界転生じみた総括はともかく、主から大凡の事情を聞くことはできた。一部は主自身の推測を交えているらしいが、聞いた限り大筋は間違ってはいないと思う。

 曰く、主の本体は段ボールでも桜の木でもなく、あの日撮った写真がそれに該当するらしい。彼が懸念していた通りに、あの写真は微量ながら神気を帯びてしまった。それだけなら本来大したことにはならない。誤算だったのは、埋めたのが老齢に達した木の近くだったということだ。
 写真は年月を経ても姿形を変えることはないが、樹木は別である。神気の影響で桜の木は霊樹となり、年々成長するごとに力を増していった。齢二百年に達し、無視できない力を蓄えた樹木は、運が良いのか悪いのか政府の目に留まり、物言わぬ審神者として抜擢されることになった。

 ちなみに主はこのことを良く思っていない。生物でないという理由から、政府は樹木を管理する側と自認して憚らなかった。この点に関しては、刀である僕も主と同意見である。付喪神を味方につけておきながら、いざ非生物の審神者が誕生するや途端に本丸ごと道具扱いとは笑わせる。僕の初陣のときに、政府が情報漏洩のミスをしでかしたと聞いていたが、そういう事情なら納得だ。いや、ミスどころかデータ収集のため故意に行った可能性すら有る。決して反感を抱くことのない、機械のような部下を持った上司のやりそうなことだ。まあ政府との軋轢はこの際置いておこう。

 では、桜の木と写真の関係について明らかになったところで次の疑問である。本丸に起きた異変が、歴史改変によって桜の木が消失したために生じたという仕組みは解った。しかし、何故今になって遡行軍は樹木を攻撃したのだろう。目的はこの本丸の壊滅にあるとしても、その関係性に気付いているなら、もっと早くに事が起きていても不思議ではない。

「切っ掛けはそうだなあ、歌仙が言ってたけど写真が掘り出されてたって話だからな。桜と離れたことで両者の結びつきも弱まったんだろう。それぐらいしか原因らしい原因は思いつかねえや」
「うわあ」
 つまり全ては、僕と長谷部くんが例のタイムカプセルを発掘したことが原因なのか。まずい、これは長谷部くんに話したら滅茶苦茶落ち込むぞ。この真相に限っては、できれば主と歌仙くんと僕の胸の内だけに留めておきたい。

「というか、歌仙くんは最初から全部知ってたんだね」
「おうよ、何せ初期刀だからな。有事がいつ起きても良いように、あの六振り以外にも動ける刀が欲しかったんだよ。特製の御守り作らなくても、ある程度踏みとどまってくれることは予想ついてたし」
「全員分作ってあげれば良かったんじゃ」
「出納帳持って毎月脅してるのは誰だッ……! 良いか、世の中金なんだよ。何をするにも金、金、金。六振り分揃ったのだって先月の末なんだ、こっちは常にギリギリを生きてるんだぞ!」

 それこそ常日頃の無駄な出費を抑えれば、歌仙くんももう少し余裕を持って事情を説明してくれたと思う。
 聞けば、歌仙くんはあの刀壊寸前の状態で色々動いてくれていたらしい。政府にこの一件を知られると厄介なため、連絡が取れぬよう設定を弄ったのも彼だったそうだ。神気が回復するまでは例の木の近くで休み、復活してからは主の本体を探して東奔西走、いや本当に彼には頭が上がらない。

「写真といえば、本体以外に入ってたのは何だったんだい? 見たところ、この本丸の皆が写ってるように思えたんだけど」
「ああ、埋め直したときに追加したんだよ。長谷部が写真持って来ちまっただろ? あれでタイムカプセル作らないと審神者になれないからなあ俺」

 なるほど、平成にはもう一度飛ぶ必要が有るようだ。そのときは主の墓参りにも行こう。彼の死を認めるのは辛いが、その事実が無ければこの本丸は成立し得ない。
 まあ主の性格からして、落命を悼むよりは墓前を賑やかしてくれた方が喜ぶだろう。段ボールなだけあって、我が主は湿っぽい空気が大層お嫌いだった。

「俺のイケメンショットが二度と日の目を見ないのは残念だが、まあ記憶の中でだけ楽しんでくれ」
 人の姿をした主がイケメンだったかは各々の判断に任せるとして、そういえば主は何故段ボールの姿を取っているのだろう。確かに写真を収めている箱は段ボールだったが、あれをかりそめの身体に選ぶ必要は無いように思える。

「ところで、主がわざわざ段ボール姿になってる理由は解らないままなんだけど」
「単に消去法だよ。人型になると元々ギリッギリの霊力が枯渇するし、下手すると遡行軍から鞍替えした過去が明るみに出る。というか政府に意思疎通できることがバレると面倒。で、適度に小さくて俺の本体に近しい存在ったら段ボールしか無かったわけ。プラスチックの箱はちょっと動いてても可愛げないだろ?」

 残念ながら紙の箱が動いている様に可愛げを覚えた試しは無い。朱に交われば赤くなるというが、段ボールになったからといって性の対象までも段ボールに移るものだろうか。刀の僕が段ボールの生態を理解するには時代が早すぎた。その辺りの知識を深める気は一切無いけれども。

「まあ、お陰様で大体の事情は解ったよ。もっと早くに話して欲しかった、というのが本音だけれどもね」
「いや俺だって黙ってるのは心苦しかったけどさあ、事情を知った長谷部とガキの頃の俺を引き合わせてみろ、地獄だぞ」
「よく解りました」

 荒んだ少年時代の主が、忠犬モード長谷部くんの言葉を聞き入れるとは思えない。この主従は微妙に根底が似通っているというか、どちらもお為ごかしや虚言の類を毛嫌いしている。そして僕は長谷部くんに隠し事ができない。それが本丸の継続に関わるような大事なら尚更黙ってはいられないだろう。

「そろそろ長谷部の手入れも終わるかな」

 主の独言を受けて時刻を確認する。僕たちが帰還してから優に半日は経過していた。確かに打刀の彼なら治療が終わっていてもおかしくはない。
 重傷を負った長谷部くんは事情の説明も待たず、真っ先に手入れ部屋へと放り込まれた。鶴さんや伽羅ちゃんは比較的軽傷だったから、長谷部くんの次に損傷の激しかった秋田くんが一方の部屋を利用した。その次は五虎退くんで、こちらも短刀だから既に手入れは終えているはずだ。
 僕は主から説明を受けたかったので、順番も最後に回してもらった。もっとも、肝心の説明は不調を訴える皆の面倒を見て大分遅れてしまったけど。それに付き合った鶴さん、伽羅ちゃんは手入れを待つ気力も無く、呼ばれるまで自室で仮眠を取ることにしたらしい。そろそろ二振りのどちらかを呼びに行く頃合いだった。

「燭台切、棚の上から三段目左開けてみ」
「え、ああ、判ったよ」
 言われるままに指定された抽斗を開く。仕舞われていたのは手伝い札だった。
「長谷部への事情説明、よろしく」
 これは手間賃だと言いたいのだろうか。同じ話を二回もしたくない気持ちは解るが、主の事情は主の口から説明してほしいものである。

「やっぱり慰められるなら彼氏の方が良いと思うんだよなあ、うんうん」
「僕たち未だそういう関係じゃないよ」
「うるせえ、何がまだだ。イケメンほど友達以上恋人未満の時間が短い人種はいないんだよ! 決して説明するのが面倒だとか、泣かれたら対処に困るとか、そういうアレじゃないんだからね!」

 長谷部くんは面倒事を率先して片付けるけど、主は面倒事を率先して他人に押しつけようとする。相性が良いようで泥沼に嵌まりそうな主従だった。これは双方共に釘を刺す人物が必要である。主に上司の方に。

「はあ、じゃあ有り難く頂いていくよ。今月からはお財布の紐引き締めていくからね」
 くぐもった悲鳴が聞こえたが、振り返ることはしなかった。機を得た以上は一刻も早く友人の憂慮を解いてやりたい。

 手入れ部屋の利用状況を確認する。大倶利伽羅、残り四時間強。へし切長谷部、残り三分。後の訪問を伝えるだけの時間としては悪くない。
 長谷部くんは大人しく床に就いて横たわってはいるが、目は閉じていなかった。入室を断る際に返事は有ったから、覚醒したのも今し方のことではないだろう。何を考えていたのか気になるが、それを訊くのは少なくとも今のタイミングではない。

「主が手伝い札をくれたんだ。手入れが終わった後に君の部屋へ行っても良いかい」
「詳しい事情はお前から聞けということか」
「もう夜も遅いからね。主から直接聞きたいことが有れば、情報を整理した明日以降にするのも手だと思うよ」
「それが主の意向というなら従おう。本当なら、お前にもゆっくり休んで欲しいところだが」
「大丈夫、今回の件で出陣も当分見合わせになったから。多少夜更かししても平気だよ」
「いつもと立場が逆だな」
 言われてみれば、普段は僕が長谷部くんの残業を窘める側だった。彼に不摂生を指摘されるとは、刃生何が起きるか解らないものである。

「じゃあ、待ってる」

 そう告げた長谷部くんの微笑は、どことなく艶めいて見えた。

 

□□□

 燭台切が俺の部屋を訪れたのは、手入れを済ませてから十数分後のことだった。
 手伝い札を使ったにも関わらず生じた微妙な空白は、友人の武具が外れていること、及び手持ちの茶菓子で概ね想像が付く。知ってはいたが、逐一まめな男である。

「今朝から何も口にしてないだろう。栄養は無いけど、何もお腹に入れないよりはマシだからね」

 用意された大福は明らかに既製品だった。俺を待たせてるという認識から、作ってる暇は無かったのだろう。それに愕然とするとは、己の舌も随分と贅沢になったものだ。
 果たして、燭台切の話が終わっても卓上の菓子は減らなかった。味の可否以前に、食べ物が喉を通る気がしない。

「主は、過去の自分が死ぬと解っていて俺たちを出陣させたのか」
 いたずらに数だけを重ねた遠征の日々を思い出す。少年だった主を奮い立たせた燭台切と違い、俺は彼に何をしてやれただろう。主は恩返しと仰っていたが、自分は単に与えられた任務を遂行したまでだ。

「まあ、本人がそう誘導してる部分が有ったからね」
「行ったのが俺でなければ、主は死なずに済んだんじゃないか」

 燭台切のように相手の心に寄り添えて、検非違使が現れても敢然と立ち向かえるような武者ならば、主に身を挺して庇ってもらうなんて事態を引き起こさなかったんじゃないか。青年があのまま生きていれば、人の姿を取ったまま審神者となり、現世で幸せな家庭を築くこともできたのではないか。
 気に病むな、と言われても俺は最善の可能性を考えずにはいられない。

「長谷部くんは僕に何を期待してるの? 慰めの言葉? それとも責任の追及?」

 友人らしからぬ冷えた口調にはっとなる。抑揚の消えた声音は彼が強い憤りを感じている証左だった。

「浅ましい、真似をした。そのつもりで言ったわけではないが、燭台切なら俺の言説を否定してくれると、無意識のうちに期待していたのかもしれない」
「浅ましいなんて思ってないよ。辛いことが有ったら、誰かに慰めてもらいたいと願うのは当然じゃないか。僕が怒ってるのはね、長谷部くんが君自身を、ひいては主のことも信じ切れてないんだなって解ったからだよ」
「馬鹿を言うな。俺はいつだって主を第一に」
「じゃあ何で今の主を否定するようなことを言うんだ。仮に君の言う通り、主があの場で死ななかったとするよ? 人の形を持ったまま審神者になって、僕らのことも可愛がってくれたとするよ。でも、それは本当に今の主と同じって言えるのかい? 段ボールなのにお酒を飲みたがって、小動物の隠れ家にされて、水を被っては騒ぐ主と同じだって、本気で主張するつもりかい?」

 そんなはずがない。人は飲酒を躊躇わないし、小動物と寝食は別に摂るし、水を被っても拭えば済む。

「それとも長谷部くんは、今の主より手間の掛からない人の姿をした主の方が良いのかな?」
「そんなわけが有るか! 俺は、主がどんな姿をしていようと誠心誠意お仕えする! そこに優劣を付けるなんて馬鹿な真似誰がするか!」
「じゃあ、あそこで死ななかった主のこと考えて悩むのはやめなよ。遠征だって今回の出陣だって長谷部くんじゃないといけなかった。僕と君の二振りで出会い、六振りで守った主だからこそ意味が有る。主はそう思ってるから、あんな厄介な検非違使を招き寄せるほど君を鍛えたんだ。それは僕にも同じことが言える。それを忘れて、もしもの場合を良しとするなんて、遡行軍の奴らと変わらないじゃないか!」
 強まった語尾に気圧された俺を見て、今度は燭台切が我に返ったようだ。手入れで整えられた前髪を掻き乱し、面を伏せて俺を見ないようにしている。

「ごめん。こんな言い合いをするために来たわけじゃないんだ」
「いや、俺がお前の優しさにつけ込んで無神経な発言をしたせいだ。燭台切は、悪くない」

 ふたりして口を閉ざす。秒針が何周しただろう、長い沈黙に堪えかね先に静寂を乱したのは俺の方だった。

「主が俺を庇ったとき、秋田を庇って倒れたお前を思い出した」

 初陣だというのに、特もついていないのに、仲間の危機と見るや燭台切は脇目もふらず秋田の前に出た。腹を貫かれた燭台切を見て、俺はまた好感を抱いた者に先立たれる恐怖に怯えた。手入れ部屋で容態が持ち直したときは胸を撫で下ろしたが、同時に言いようのない不安が渦巻いていた。
 これが最後になるはずがない。この男は、友のためなら平然と身を投げ出せる、そんな優しすぎる刀だった。その後の競り合いで、男の情け深い性分が変えられるものでないと知れた。もはや俺には、簡単には折れぬよう燭台切が強くなってくれることを祈るしかない。あのときの俺がどれほど惨めで情けない顔をしていたか、この友人は知らないだろう。
 燭台切の練度が自分と並んで安心していた矢先に、今度は主を見殺しにしてしまった。その原因が自分と知れて、平静でいられるわけがない。

「秋田も俺も、攻撃を受けたところで助かる見込みは十分に有った。当時の燭台切や、主はそうじゃない。おかしいじゃないか。どうして、いつも弱いやつが強いやつを庇って苦しまなくちゃいけないんだ」
「主も言っていただろう。助けたかったから助けた。強い弱いなんて関係ないよ。いざってときに、そんなこと考えてる余裕なんて無いからね」
「そういう連中は残されたやつの気持ちが解らないんだ。俺はもう、置いて行かれたくない」

 ああ、散々に理屈を並べ立てておいて、俺が行き着くのは結局そこだった。大倶利伽羅のことを強く言えない。親しい者と別れる覚悟ができていないのは、他ならぬ俺自身だった。

 向かいに座っていた男の立ち上がる気配がする。黒い影は俺を跨ぐようにして座り、腕の中にぐずる友人を引き込んだ。胸板に押しつけられた耳が男の鼓動を生々しく伝えてくれる。燭台切は、生きている。生きて俺を抱いているのだ。

「主はちゃんと君のところに帰って来た。僕もこうして君の隣にいる。たとえ離れてしまったとしても形に残るものは有る。だから主は、写真を撮るのが好きなんじゃないかな」
「写真……」
「そうだよ。写真は過去と現在とを区切って、思い出を振り返るために有るんだからね。それは決して過去を引き摺るためのものじゃない。少なくとも、僕はそう思うよ」
 それに、と燭台切が続ける。

「僕は強くなったよ。君を置いて、先に折れたりしないくらいにはね」

 知ってる。敵を一刀の下に屠る剛腕も、攻撃をものともしない屈強さも、獣性を秘めた金色の光も、熱が入ると行儀の悪くなる足癖も、全てが見惚れるほど美しかった。

「もし不安なら、これからもいっぱい写真を撮ろうよ。振り返る材料は多い方が良いよね」

 とろけるような笑顔は戦場で見る燭台切とは全く異なる。もっとも、どちらの表情も俺を強く惹きつけることに変わりはない。微かに熱を帯びた琥珀色に己の姿が映っている。このことを、喜ばしいと感じるようになったのはいつ頃だろう。

「写るのは俺とお前のふたりか?」
「ふたりでが良いの?」
「主とも撮りたい」
「ああ、長谷部くんらしくて良いよね」
「でも、お前とふたりで撮るのも悪くない」
「悪くないかあ、悪くない止まりかあ」

 至極残念そうに言う燭台切の背に手を伸ばす。この距離だ、友人の背が強ばったのはすぐに判った。

「ちょっと控えめな表現だった。嬉しい、そうだ嬉しいが正しいな」
「色々と期待したくなる訂正だね」
「期待して良いぞ」

 目の前の鎖骨のあたりに頬をすり寄せる。あからさまに男の動悸が速まるので、笑いを忍ぶのに少し苦労した。

「お前の腕の中は温かい」

 視界が反転する。いつの間にか後頭部の下に在った手に支えられ、俺は畳の上に転がされていた。
「長谷部くんって、本当そういうところ有るよね」
「どういうところだ。抽象的な言い回しをされても俺には伝わらんぞ。口説くなら直球で来るんだな、色男」
「今口説かれてたの僕の方だよねえ?」

 あんな遠回しな睦言が口説きに入るとは、こいつ見た目の割に初心だな。俺を見下ろす面輪も耳元まで赤くなっている。大の男に可愛いという形容詞は合わないと思っていたが、この刀に関しては例外かもしれない。

「ああ、じゃあ良いよ直球で行きます」
 燭台切の右手が俺の頬をなぞる。指先が耳元を辿り、顎先に到達すると、男の身体が近づいて濡れ羽色の髪が俺の煤色と交ざった。

「僕はずっと君の隣に立っていたい。楽しいこと、悲しいことを君と分かち合い、こんなことも有ったねと互いに振り返れる間柄でいたい。だから、君に一番近い場所を僕にください」
「ああ、これからも宜しく。燭台切」

 ふわりと落ち着いた香りが鼻先をくすぐる。伊達男は匂いまで完璧なのだな、と唇を吸われながら間の抜けたことを考えていた。
 始めは押し当てたり、啄むだけだった動きが徐々に情欲を滲ませたものになる。上唇を舐められ思わず口を開くと、僅かな隙間をこじ開けるように男の舌が入り込んできた。ざらついた感触が咥内を蹂躙する。燭台切の舌先が口蓋をなぞれば、ぞくりと身体が痺れて腰の辺りが重くなった。

「こら、いき、んぅ、は、できな」
 息苦しさを覚えて好き勝手する男の肩を叩く。休憩を促したつもりなのに、伊達男は事もあろうか、鼻で息して、と初心者相手に高等テクニックを要求してきやがった。いや、燭台切も初心者なんだろうが、呼吸に喘いでいないのは既に自分でも実行しているからだと思われる。何だこいつ、初心と思わせておいて見た目通りの童貞詐欺か。
 舌を絡め取られるうちに唾液が口の端から零れた。それを追うようにして燭台切の舌が這い出る。ようやく距離を取った男の尊顔を拝見すると、己を喰ってやろうという捕食者の意志が強く感じられた。

「ねえ、期待ってどこまでしていいの」
 低く囁かれた声に余裕のようなものは見えない。俺の鎖骨を撫でる黒手袋は、許可を与えられなければボタンに手を掛けることはしないだろう。既に燭台切の雄が服の上からでも判るほど兆していても、相手の意志を優先する。俺が好きになったのは、そういう男だった。
「ご随意にどうぞ?」
 燭台切の首に腕を絡め、ここぞとばかりに口角を吊り上げてやる。一つきりの黄金色が薄暗い灯を宿した。敵の血肉を浴びたときと同じ目をしている。俺の一番好きな顔だ。

「っ!? んん、ぅう……!」
 じゅるじゅる、と粘膜を啜る音がすぐ近くで鳴る。燭台切は俺の唾液を吸い尽くそうとしてるのではないか、という勢いで口づけてきた。己の首元に在った黒い指先は腰に回り、手早くカマーバンドを外しに掛かる。足りなくなった水分を男の唾液で潤している間に、前も寛げられて肌が外気に接していた。
 唇から離れた舌が露わになった首筋を舐め上げる。時に柔く肌を噛まれると、上擦った声が漏れそうになった。

「ごめんね、痛かった?」
「いや大丈夫……それと、跡は見えないところにつけてくれ。でないと、お前の眼帯の紐を輪ゴムに替えてやるからな」
「見えないところだったら良いんだね、オーケー」
 今こいつ聞き捨てならないことを口走らなかったか。

 有言実行とばかりに、燭台切は服で隠れる位置に散々跡をつけていった。戦装束でも内番服でも俺は露出を好まないから、つまりはほとんどの場所に吸い付かれている。

「しばらく風呂にはひとりで入ることになりそうだ」
「僕もお伴するから大丈夫だよ」
「お前は髪を洗うのに時間かかりそ、あっ、はあ、執拗にそこ、舐めてるがな……俺は、女じゃないんだぞ」
 さっきから燭台切は舌で円を描くように乳首を責めている。もう片方は指で摘まれたり、先を潰されたりとまるで玩具扱いだった。俺としては、あの美丈夫が男の乳を吸っているというだけで既に面白いのだが、その顔がいやに真剣なものだから迂闊に茶化せない。

「気持ちよくない?」
「わから、ん……なんというか尻の辺りがもぞもぞする。気持ち悪くもないが変な感じだ」
「もぞもぞって、この辺かな」
「ひぇっ!?」

 布の上からとはいえ、際どい部分をなぞられ腰が跳ね上がった。陰茎と後孔の間を燭台切の指が緩く往復している。上下に動かされるたび、胸を責められていたときの感覚が一段と強くなって思考がバラバラになった。嬲る腕を弱々しく掴むと、自分を犯す手の動きが伝わってきて尚更に頭がおかしくなる。声を耐えるために足にも力が入るが、指は何度も畳の上を滑って居所を失いつつあった。
 その反応を良しと見たのだろうか。燭台切は下衣を膝の辺りまで引き抜き、肌に直接手を這わせた。既に勃ち上がり始めていた俺の性器に黒手袋が絡みつく。袋を柔く揉み込まれ、竿を撫ぜられると、もうどうしていいか解らなくなる。

「長谷部くんのおちんちん綺麗だね、おいしそう」
「せ、せいきに、うまい、もくそもあるかっ……あ、あああぁ……」

 排水性の高い手袋なのだろう、先走りを溢し始めた肉棒を扱くたびに黒い指がぬらぬらと光った。見せつけてるつもりは無いとしても、己がいかに興奮してるか一目瞭然で自己嫌悪に陥りそうになる。俺だけ一方的に高められているせいで、殊更にそう思えた。燭台切はまだ上着すら脱いでいない。

「おまえも、ぬげ」
 燭台切のネクタイを引っ張り上体を無理矢理寄せる。鍛えられた胸板に手をやると、ぎらついた瞳が一瞬だけ丸くなった。先頃まで俺を好きに弄んでいた男にしては、あどけない表情をする。

「見ててあつくるしい。あと俺だけぬがされるのは、不公平だ」
 動きが止まったのを良いことに、紳士服然とした衣装を脱がしていく。ネクタイを解き、ボタンを二、三開けると逞しい身体がまろび出た。割れた腹筋も厚みのある胸も、純粋に造形美として完成度が高い。好奇心が先立って肌にぺたぺたと触れるが、愛撫というより芸術品を愛でている心地になった。

「……むかつくぐらい良い身体してるな」
「あ、ありがとう?」
 ずっと前から服を窮屈に押し上げている下はどうなのだろう。ベルトを外し、戸惑う声を無視して下着から燭台切の性器を取り出してみた。

 触れた時点で既に判っていたことだが、眼前に突き出されると一層明らかになる。あの凛とした面立ちからは想像もつかない、立派を通り越してグロテスクな逸物が俺の手中に在った。長船派の祖はこちらの方も光忠が一振りだったらしい。凄い。凄いという感想しか出てこない。
 試しに少しだけ扱いてみる。燭台切の肩が大げさに跳ねた。その反応が面白くて、両手を使って本格的に陰茎を刺激し始める。

「は、はせべくん……ちょっと、いきなり、はぁっ……あ、ああ」
 艶を帯びた吐息が耳に掛かる。眉をひそめ、快楽に耐える燭台切の姿は、性的なんて表現では言い尽くせないほど淫靡だった。俺以上に白い肌が上気して赤みを帯びてるのも良い。なるほど、燭台切が俺を嬲るのに気をよくするわけだ。相手を自分の手管で翻弄する愉しみは、一度知ってしまうと止められない。

「良い面構えだなあ、燭台切」
 雁首を指で擦り、掬い取った雄汁をこれ見よがしに舐めとってみせる。

 流石に調子に乗りすぎたらしい。端から挑発を目的とはしていたが、効果がこちらの予想を遙かに上回ってしまった。起こしていた上体は再び床に縫い付けられ、中途半端に膝で引っ掛かっていた服は完全に剥ぎ取られる。さらけ出された素足は力強い腕によって閉ざされ、その合間に先ほどまで己が育てた燭台切の欲望が割り入った。

「はせべくんって、ほんっとに、負けずぎらい、だよねぇっ……!」
「お、同じせりふ、ひぁっあ、ああっそっくり、そのまま、かえしてやる……!」
 ず、ず、と両脚に挟み込まれた剛直が俺のものと重なる。突き入れられるたび、自分の太腿が性器になったような錯覚に陥った。己に覆い被さる男の顔は、眉間に皺を寄せて絶頂の予感に震えている。あの柳眉の歪みが俺への執心に由来していると思うと、あらぬ所が疼いた。この時点で俺の本能は自分が女役になることを受け入れていたと言って良い。

 互いに限界を迎え、腹にふたり分の精液がぶちまけられる。俺の上に倒れ込む燭台切の身体にも精子が付着しただろうが、向こうは気にした様子は無かった。
 荒い息を吐いて吐精後の虚無感をやり過ごす。ここで行為を止める、という選択肢も存在してはいた。

「……つづき、するか?」
 俺の問いに燭台切が身を起こす。その気遣うような視線の内にも、欲情の色が隠し切れていない。答えは是、と捉えて良いようだ。
「でもね、長谷部くん僕は」
「抱きたいなら抱け。お前を受け入れると決めたときから、どちらの立場にもなる覚悟はできている」
「おっとこまえぇ……」
「でも今からお前に雌にされるんだろう? 構わんぞ。燭台切に背中を預けたとき、俺は喰われたいという欲を初めて知った。それで喜ぶお前は相当な悪食だろうがな」
「長谷部くんの美味しいところは僕だけが知ってれば良いんだよ」
 存外に独占欲の強い男が俺に口付ける。やはり、こいつはどうしようもない悪食だ。

 今更ながらに布団を敷き、その上に四つん這いになる。この方がやりやすいから、の一言で押し切られた格好だが、流石に少しは屈辱を覚えた。何せ燭台切に尻を突き出している体勢だ、全てを晒しているような気にさせられて落ち着かない。それに加えて音。燭台切の香油を唯一の潤滑油に用いた作業は、ぬぷぬぷと下品な音を立てて、いちいち俺の羞恥心を煽ってくる。

「長谷部くん、大丈夫?」
「へ、へいきだ……もっと遠慮なしにやってくれても、いい」

 たかが指二本でこの圧迫感である。徹底して慣らしてくれなくては、あの凶暴な代物を受け入れられるはずもない。
 快感を得る場所として触れられた試しの無い後孔は、弄られても色よい反応を引き出すことはできなかった。ただ、会陰と同時に撫ぜられると、妙にふわふわとした気分に包まれる。それを伝えてからは指の本数を増やされるのも楽になった。

「は、ああ……ひっ!? えっはあ? ちょっ、ぁ、ひぃっ……!」
 唐突に生じた痺れに対処できず、枕に顔を押しつける。肉壁が顫動し、内に在る燭台切の指を愛おしむように締め付けた。

「あ、今のところ気持ちよかった?」
「うぅ、しらん……あっああ! やめ、さわるな、そこいやだあぁっ」

 普段は諍いが起きても自分から身を引く燭台切だが、今回の制止の声は全く聞き入れてくれない。それどころか俺の嘆願こそが催促とばかりに、強く反応を示した箇所を何度も往復する。訳も判らずぐずぐずにされ、己の口は快感の波に耐える呻き声しか紡がなくなった。気付けば指は三本に増えていたのに、後穴はそれを平然と受け入れている。
 はふ、はふ、と息も絶え絶えになりながら首を動かす。後ろを慣らす間、触れられてもいない俺の性器は再び鎌首をもたげていた。

「はせべくん」
 身を乗り出した燭台切が俺のうなじに唇を寄せる。懲りもせず跡を残すように肌を吸った男は、そろそろいいかな、と濡れた声で問い掛けてきた。こいつの低音は心臓に悪い。頷いて肯定を示すと、粘性の音を立てて指が引き抜かれた。そのまま腰を抱えられそうになったので、仰向けになって押し止める。

「あの格好でするのはいやだ」
「慣れないうちは後ろから入れた方が楽らしいよ?」
「俺は、伊達男のかおが余裕なくしてぐちゃぐちゃになるところを見たい」
「ええ……おねだりするにしても、もう少し可愛い言い方は無かったのかな……」
「じゃあ、口をすえないからいやだ。向き合ってしよう」
「ん、りょうかい」

 唇が合わさる。戯れのような接触を経て、膝裏がぐっと持ち上げられた。大きく開かされた足の間に燭台切の身体が割り込む。寸前まで解されていた箇所が期待にひくついた。
 先端が沈み込む。まだ序盤も序盤だというのに、指とは比べものにならない圧迫感と異物感とに襲われた。口を開けば苦悶に喘ぐ声のみが漏れるだろう。指を咥内に差し入れ、叫びそうになるのを何とか耐えた。

「噛んじゃうから、だめだよ」
 優しい声音で俺を諫めた燭台切が唾液に濡れた指を取る。赤い舌が残った歯形をなぞると、指だけでなく下半身の痛みも和らいだような気がした。

「あ、あああぁあっ……」

 剛直が隘路を突き進むたび、接合部分がみちみちと悲鳴を上げる。痛いというより腹が重い。燭台切の方も顔を顰めて時折苦しげな声を漏らしていた。侵入する腰の動きが収まり、両者ともにようやく息をつく。
 下腹部に手を当てると、内に自分以外の脈動を感じた。今になってじわじわと達成感が込み上げてくる。俺にのし掛かる男の襟足を弄り回すと、燭台切はくすぐったそうに身を捩った。仕返しのつもりか、相手は傍近くに在った俺の耳を薄い唇で食んでくる。湿った音が直接響くのが殊にいやらしい。
 息も落ち着いて全身から力を抜いていると、不意に刺激を受けて直腸が蠢いた。軽く身動いだだけの燭台切もあまりの過剰な反応に呆然としている。

「い、いきなりだからびっくりしただけだ。もういいから動け、そのままじゃ出せるものも出せんだろう」
「無理はしないでよ。こうやってくっついてるだけでも僕は十分気持ち良いよ」
「本音は」
「中をグッチャグチャに掻き回して一番奥に子種をたっぷり注ぎ込みたいです」
「ようし、正直な良い子にはご褒美をくれてやろう。俺の身体を使って存分に気持ちよくなれ」
 犬と戯れるような手つきで伊達男の後頭部を撫でる。忠犬ミツタダは顔中に口付けて飼い主に感謝の気持ちを表してくれた。

 ゆっくり引き抜かれ、また奥まで欲望を押し入られる。暴力的な熱が狭い道を行き来するに当たり、鋭い快感は未だ伴わない。ただ俺の身体を貪る燭台切の表情は甘くとろけていて、これを見られただけで身体を擲った甲斐が有ると思えた。
「はあ、は、ふう……ひっ!?」
 頭が焼けきれるような痺れが全身に広がる。その正体は男を受け入れた部分から生じているようで、腸壁が中にいる燭台切を離すまいと縋りついていた。一瞬動きを止めた燭台切が恐る恐る腰を引く。俺の喉からは再度ひきつるような声が上がった。
 快感を追う身体は肉槍の喪失に怯えている。もし抜かれでもしたら、己の指で内を塞いだ挙げ句、竿を掴み無我夢中で自慰に耽ったことだろう。怖くなって燭台切の身体に足を絡めた。無事接合が深まったようで胸を撫で下ろす。その安心感は、身体を激しく揺さぶられてすぐに消え失せた。

「ああぁあっ! すご、しょくだいきり、あつい、はらあつくておおきくて、すごいぃ……!」
 腰を容赦無く叩きつけられるたびに直腸が悦びを訴える。もう俺の内側は燭台切専用の肉壷と化してしまった。疼く後孔を満たしてくれる昂ぶりを身体が主人だと認めている。俺の麗しのご主人様は、恍惚の表情でこちらを見下ろしていた。

「はせべくん、はせべくんっ……!」
 必死に腰を振って俺の名を呼ぶ男のなんと愛おしいことか。燭台切の肌に滲んだ汗が俺の身体にまで伝ってくる。ああ、俺が見たかったのはこれだ。

 放置されていた俺の性器に燭台切の手が絡む。ただえさえ満たされる悦びに溺れていたのに、雄としての快感を喚起されて頭が馬鹿になりそうだった。すぐに限界に追いやられて、二度目の射精を果たす。前の快楽は後ろにも繋がって、腸壁が今までになく収縮した。燭台切が低く唸るような声を上げて身体を倒す。男が腰を密着させて掻き回すように何度か動くと、奥深くで燭台切の神気が溢れるのが判った。
 至福の表情を見せる男の頬を掴み、引き寄せる。中に精を放たれながら燭台切の口を吸った。いつもの処理であれば、事を済ませた後など速やかに睡魔に任せたくなるのが普通だった。今は不思議なことに、いつまでも相手の体温を感じていたい気分になっている。燭台切もそうなのだろうか。口吸いに応じる唇は少しも消極的になっていない。

「長谷部くん」
「なんだあ」
「もう一回、いいかな」
 俺の中に入ったままの燭台切はなおも硬度を保っている。どうやら、俺はとんだムッツリの刀を相棒に選んでしまったらしい。

「言っただろう。ご随意にどうぞ、とな」
 そう返す俺もとんだ助平だった。

 

■■■

 

 朝を迎え、まず見慣れない内装に面食らう。布団を引き剥がし周囲を見渡すと、確かに自室ではないが知っている場所だったことに安堵した。次に自分の状態を確認して、一糸纏わぬ姿であることに二度目の驚愕を味わう。そして三度目の衝撃は、自分の隣に横たわる温もりの正体を知ったときに走った。
 己が愛して已まない刀が同じく全裸のまま一つの布団に収まっている。見れば乱雑に脱ぎ捨てられた服の山が近くに転がっていて、昨晩ここで何が行われたかむざむざと思い知らされる羽目になった。

 そうかあ、昨日は長谷部くんと明け方近くまで張り切ってたんだったなあ。
 自分の性欲と体力にも呆れるが、それに付き合った彼も彼である。その手の話題を振った覚えはあまり無いけれども、この調子だと長谷部くんも相当な好き者だ。うん、落差が有るより断然良いと思う。今度は是非あのソックスガーターにかけさせてもらおう、何をとは言わないが。

 長谷部くんの身体は最低限清められていたものの、その他の後処理はほとんど手つかずのようだった。それならそれでよろしい。彼が起きる前に着替えと洗濯を済ませ、ついでに美味しい朝ご飯も用意してあげよう。それぐらいは彼氏として当然の務めだよね。

 主に声を掛けられたのは、身支度と洗濯を済ませて厨に向かう途中だった。

「おっはよ燭台切」
「おはよう主。どうしたんだい? 散歩中?」
「いやあ、まあ、なんだ……散歩っつうか」
 とりとめのない質問に何故か主は戸惑いを見せた。長谷部くんと並んで、歯に衣着せぬ物言いが標準装備の主にしては珍しい。

「ちょっと厨まで俺のこと運んで行ってくんない?」
 溜めた割に、告げられたのはこれまた何でもない要求だった。厨には常備している段ボールが有る。わざわざ僕を経由する必要は無い気もするけど主命とあらば、だよね。
 僕は板張りの廊下にしゃがみ、主のかりそめの身体を持ち上げ……持ち上げ、られない。

「えっ? ちょ、えっあれ……?」

 紙製の箱はどんなに力を入れても微動だにしない。ちょっと失敬して足で側面を支えながら浮かそうとしたが、段ボールは床から離れる気配を一向に見せなかった。
 冗談だろう、たとえ中に砥石や玉鋼を目一杯詰め込んだとしてもこんなに重くなるはずがない。主の中身はどうなってるんだ。というか、本体でないなら重量なんて不要なんじゃないか。

「やっぱりなあ」
 主はひとりで勝手に納得している。多分その「やっぱり」は僕の混乱を救う一助になるから至急詳しい説明をして頂きたい。

「お前、長谷部と昨日何か有ったろ。いやぶっちゃけヤったろ」
 思わず噴き出しそうになった。主はどういう推測を経てその結論に達したのだろう。一連のやり取りからは何も得られるものは無く、ただ図星を指された気まずさだけが残る。

「いや別に責めてるわけじゃねえから。リア充はなべて全身永久脱毛の呪いに掛からねえかな、とは思ってるけど別に責めてねえから」
 不穏しか感じられない慰めである。いつか引っ越し業者にでも連絡して新鮮な段ボールを届けてもらうことにしよう。

「詳しいことは厨で話すから後でな」
 そう言って目の前の段ボールは動かなくなった。

 残された箱に触れてみる。主の身体だったものは、いとも簡単に持ち上がった。

 暖簾を押しのけて厨に入る。隅に積み上げられた段ボールは独りでに動き出したりはしなかった。その必要はきっと無かった。
 十代半ばほどの若者が僕に向かって手を振る。少年と青年の境目のような顔立ちと、厳めしい神官服の出で立ちの組み合わせは、どこかちぐはぐとした印象を拭えなかった。

「一番良い飯を頼む」

 まるで定食屋のような注文を受け、ようやく僕は確信する。目の前に居るのは紛れもなく、いつも段ボール姿で僕たちに運ばれていた主なのだ、と。

 卵、野菜、ジャム等々のバリエーションを用意したサンドイッチを皿に並べる。作るのに時間が掛からず、手軽に食べられて栄養も摂れる料理として一番にこれが浮かんだ。初めて長谷部くんが美味しい、と言ってくれた思い出の品という面も多少有る。丁寧に両掌を合わせた主が始めに掴んだのは野菜サンドだった。

「おお美味い、マジで美味い。すごいな燭台切、お前いつでも長谷部の嫁に行けるぞ」
「単なる軽食だけどありがとう。ご祝儀期待しておくね」
 僕の軽口に主は即耳を塞いだ。今まで段ボールの姿しか見てこなかったが、やはり生前と同じく、彼はかなり表情豊かで取るリアクションもいちいち大げさだった。

「お前が顕現して半月ぐらい後だったっけ。俺が本丸中を一人で動き回れるようになったの」
「ああ、確かそれくらいの時期だったね」
 それは長谷部くんと和解して間もない時期のことだった。主が独り立ちなされてしまった、と落ち込む彼のヤケ酒に付き合い、とんだ無様を晒すことになったから忘れたくとも忘れられない。

「ついでに言うと、燭台切が来てから太刀以上の刀種がよく鍛刀されるようになったなあ」
 ここまで言われれば流石に察しも付いた。主の変化、或いは霊力の多寡には燭台切光忠という刀の存在が大きく関わっている。おそらくは長谷部くんも僕と同じだろう。

「この本丸の審神者として就任したとき、つまり歌仙しか刀がいなかったときの俺な。あの桜の木から全く離れられなかったんだよ」
 主は真っ先にへし切長谷部の顕現を歌仙くんに命じた。長谷部くんは当たり前のように段ボールこそが主であると認識していたが、それも彼の存在あってこそのものだろう。
 身動きを取れるようになった主は本体の傍近くに戻る必要が無くなった。だからこそ、段ボールが審神者であるという荒唐無稽な話を周囲に信じさせることができたのである。ここまで来れば、初太刀が燭台切光忠というのも偶然とは考えがたい。

「やっぱり、本体に写ってるのが僕と長谷部くんだから、かな」
「多分そうだとは思うんだが、昨日の出陣が終わってから少し考え直したんだよ。俺は元々審神者になる素質は無かったんじゃないかって」
「いきなり何を言い出すのさ」
「だってそうだろ? 本当に素質が有るなら、俺が生きてるうちに審神者として召還すれば良かったんだよ。でも俺は死んで、しかも霊樹の力を借りて初めてお前らの主をやってるんだ。そう考えるのが妥当なんじゃねえの?」

 主の言わんとすることは解らなくもない。いや、寧ろそちらの方が筋としては通っている。
 本来刀を使役する側の審神者が、刀の有無によってその霊力を制限されるなんて本末転倒な事態起こり得るはずがない。そのような不都合が生じると判って、わざわざ非生物を審神者に任命する物好きがどこにいるだろうか。少なくとも政府がこの絡繰りに気付いていたなら、確実にこの本丸は誕生しなかった。

「だから俺はこう考えたんだ。俺が審神者になれたのは、きっとふたりの神様のお陰なんだって」
「それって、僕と長谷部くんの本霊のこと?」
「ああ。こう言っちゃなんだが、俺は命と引き替えに付喪神を救ったわけだろう? だから願いを叶えてくれたんだよ。お前たちと一緒に居たかった、って本来実現できるはずもない夢をな」

 実に楽しげな様子で主は自説を語る。
 少年の面影を残した笑顔を見て僕は自分が誇らしくなった。彼が審神者になりたいと思えたのは、自分と己の愛しい刀が過去に奮闘した結果に他ならない。

「これからは飯と風呂のときだけ人型になるから宜しく」
「そっちの姿の方が便利そうだけど良いのかい?」
「お前ね、あの状態を満喫してなきゃ段ボール相手に欲情なんてできねえよ?」

 主らしい、実に説得力の有る意見を聞いて僕はお腹を抱えた。
 ほらね、やっぱり心配することなんてなかったんだよ長谷部くん。

「君が僕たちの主になってくれて本当に良かったよ」
「おう。俺も三食昼寝つきの職場にリサイクルされて良かったぜ」

 さて、そろそろ眠り姫が起きてくる頃だろうか。
 僕もすっかり鶴さんや主に毒されてしまったらしい。主の姿を見た彼はどれだけ驚いた顔をするだろう。そして僕と同じ質問をして、同じ返しをされると思うと今から楽しみで仕方ない。

 今日も今日とて、この本丸はめでたい。

□□□

 

 燭台切には感謝している。

 自分たちの意志で審神者を作り出すなんて、刀としてあるまじきことだろう。もしこの一件が時の政府に知られれば、ろくな結果にならないだろうことは解っている。
 それでもお前は協力してくれた。命を張って分霊を救ってくれた青年に報いたいという、俺の我が儘に付き合ってくれた。
 彼の願いを叶えることはできたが、お前の厚意にどう報いれば良いのか解らない。

 自分がやりたいからやった、なんて逃げ方はずるいと思う。人に優しくするなら、人に優しくされる覚悟も持つべきだ。
 やはり身体じゃ駄目なのか。前に提案したら断られたと記憶しているが。

 そういうのはギブアンドテイクの対象になるものじゃない? なんだと、据え膳食わぬは男の恥、という格言を知らんのか。
 お付き合いはちゃんと順序立てて行いましょうだと? お前の分霊は想いが通じた直後に褥を共にしていたぞ。あれは順序立てていると言えるのか。
 ちゃんと当人同士が好き合ってるなら大丈夫だと? なら俺だって問題無いだろう。

 嬉しいけどお礼という形でそういう行為はしたくない。なるほど、お前は見た目の割に初心なところが有るな。
 君が僕のために何ができるか考えてくれることが最大の礼だって?
 だからお前は格好つけキザ忠だと言うんだ。俺は燭台切が喜ぶことをしてやりたいのに、そうやってヒントも与えてくれない。お前の優しいところは好ましく思うが、格好つけて本音を晒さないところは嫌いだ。

 本当はいやらしいことをしてほしかった……ははは、顔が真っ赤だぞ伊達男。別に恥ずかしがることはないだろう。好いた者に触れたい、触れられたいと思うのは当然じゃないか。

 ん? 格好つけで内心を隠されるのは嫌だが、格好つけるお前は嫌いじゃないぞ。そうやって常に努力してるところも燭台切の魅力だからな。

 何だ、長谷部くんってそういうところ有るよねって。
 俺は思ったことを口にしているだけだぞ。

 ――ああ、俺もお前のことが好きだよ燭台切。俺のことを好きになってくれて、ありがとう。

 

 

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