段ボール本丸 / 五 [ 紫苑の灯 ] - 1/2

 

 

 夜桜の合間から天上の濃藍が見える。月影に透ける花冠は美しく、これが二百年後も続くと思うと余計に感慨深い。できることなら相棒ともども花見酒と洒落込みたいところだが、どこぞの之定よろしく風光明媚を愛でる余裕は無い。徳利の代わりにシャベルを手にした俺たちは、いい塩梅になった穴の大きさに軽く頷いた。
 持参したプラスチックのケースを土中に埋め、また土を被せていく。付喪神たちの写し絵は地上の老樹をさぞ養生させることだろう。そうして、行く行くは本丸の礎となり俺たちを見守る側になる。桜並木を楽しむのは、その頃でも遅くはない。

「燭台切」
 土埃を払う男に呼びかける。月白を浮かべた琥珀がこちらを向いた。
「俺は、もっと強くなりたい」
 男の瞳に己を映しながら、十二度目になる遠征で固めた決意を表明する。

 前回の出陣で俺は主を失った。それは、今の本丸が成立するために不可避の悲劇であり、仮に脅威を退けていれば、俺や燭台切はこの場に人の身を以て立つことは無かっただろう。理不尽なようだが、歴史とはそういうものである。しかし、もう二度と目の前で大切な者を失うのは御免被りたい。
 ただの鋼であった頃と違い、今の俺たちには手も足も有る。自らの意志で刀を振るうことができる。人よりも頑丈で強健な肉体を得た俺は、正直なところ自惚れていた。刀剣男士として顕現した己に敵などいない。この器を以て、主に仇為すありとあらゆる障害を駆逐してみせよう。大言壮語でも何でもなく、俺はその画餅を現実のものにするつもりだった。だが実際はどうだろう。己の力が及ばないばかりに、守るべき主に窮地を救われ、うら若き青年の未来を奪ってしまった。
 犠牲となった青年は姿を変え、数奇な巡り合わせを経て、再び俺たちの元へ姿を現した。まさに奇跡である。要するに次は無い。降りかかる火の粉は必ず振り払わなければならぬ。今の力に満足していては、また同じ過ちを繰り返すとも限らない。

「帰ったら、主に修行を申し出ようと思う」
 俺たちの本丸は先日、池田屋の調査が終わったばかりだった。まだ修行に出た刀は一口もいない。主も吟味を重ねているところだろう。これから先の戦いは、一層険しさを増すと聞く。容易に許可が下りぬのは覚悟の上だ。それでも俺は、今よりもっと主のお役に立ちたかった。

「ああ、行ってらっしゃい」
 こちらの煩悶を知ってか知らずか、男の反応は予想外に淡泊なものだった。

「何だい、その顔」
「別に。随分あっさりしてるんだな、と思っただけだ」
「好きな子の門出を祝わないなんて彼氏失格だろう」
「……強くなりたいのはお前だって一緒のはずだ。俺が先で、いいのか」
「いいよ。君が強くなりたい理由や、わざわざ僕に宣言してきた意味が解らないほど鈍くはないつもりだ。それに、また君を追いかけられるっていうのも悪くない」
 俺と燭台切の練度は共に上限に達している。桜が散り、梅雨をしのぎ、蝉の大合唱に辟易とする中、太刀の修行も解禁された。古参の本丸と異なり、俺たち二振りの間には選択権が存在している。燭台切は、俺に先陣の誉れを譲ると言う。主からの承諾も頂いてないというのに、なんともまあ気の早い話だ。

「後悔するなよ。自慢じゃないが、足並み揃えるのは苦手な質なんだ」
「逆に僕は得意な方だから任せてくれよ。君が留守の間もしっかり馬の世話をしておくし、いつまでも早駆けが自分の専売特許と思わないことだね?」

 白皙の肌に三日月型の口角が浮かぶ。挑発を交えた鼓舞に、俺は拳を突き出し、男もまた同様に拳で応えた。こつん、と骨がぶつかり軽く音を立てる。
 第一の戦友から受けた激励で迷いは消えた。主のために、燭台切のために、そして自分自身のために俺は必ず強くなってみせる。

 

□□□

 

 道行く人々の格好や、聳え立つ城郭の装いから年代と場所とを推察する。修業先を選ぶことはできなかった。山上から水鏡を臨む。日の本一広い湖を眺めて、この地へ赴くよう促された理由が解った。

 安土城。あの男が起居し、戦ではなく政のために設けた拠点。絢爛豪華な装いは城主の威光を示すに十分なつくりである。
 ただの刀であった頃、俺がこの城に訪れたことは一度も無い。なにしろ、施工の前年には黒田に渡っていた。めまぐるしい戦乱の世にあって、彼の城は十年と保たず朽ち、現代ではその名残を留めるに過ぎない。歴史の流れに閃光のごとく現れ、非業の最期を遂げた城は、なるほど主の生き様に殉じたと言えるかもしれない。

 へし切長谷部の物語は確かにあの男から始まった。いかに己の号を忌んだところで、その事実は変えられない。
 一歩踏み出す。目指すは天守閣、魔王は必ずやあの高みに居るだろう。何とはなしに柄を握り直す。手袋の下は知らぬ間に湿り気を帯びていた。

 落陽が物と物との境界を曖昧にする。夕闇に紛れ、灯火を避けるように見張りの目を掻い潜った。暗殺や謀反を幾度となく経験しながら、この時代で最も影響力を持つ男の根城は異様なほど防備が薄い。流石に中に入れば近習の数も増えようが、薄暗い屋内で身を隠すのは慣れている。池田屋での経験を活かし、暗がりに潜んで兵の隙を窺った。さすがに寝所の警護は厳重である。力尽くで突破できないことも無いが、騒ぎを起こしては元も子もない。

「ねえ」

 廊下の先を睨めつける俺に、それは音もなく近寄ってきた。冷気が背筋をなぞる。人の気配など全く感じなかった。油断していたわけではない。息遣い一つ取りこぼさぬよう、神経は限界まで尖らせていた。いかな手練れだろうと、人の身では刀剣男士の耳目より逃れる術はない。つまり相手も尋常の範疇に収まる輩ではない。
 自ずと鯉口に手が伸びる。振り向きざまに火花を散らすと思いきや、刹那の間に重なった視線のために、俺の緊張は急速に弛緩していった。

「君も僕とお仲間なのかな」
 琥珀の二つ目が夜闇の中にぽっかりと浮かぶ。濡れ羽色の髪に藍墨の小袖を纏う男は、曲者を前にして柔和に微笑んでみせた。あまりにも見覚えのある姿形をしながら、記憶とはやや異なる彼の正体を掴むのに時間は掛からなかった。

「しょくだい、きり……?」
 眼帯で覆われていない右目が瞬かれる。微かに滲んだ驚愕の色を認め、俺は一拍遅れる形で己の迂闊さに気付いた。そうだ、仮にこの男が燭台切だとしても伊達に遷っていない今は号を得ていない。

「い、いや何でもない。今のは忘れてくれ、刀違いだ」
「そう? まあ、ここには沢山の光忠がいるからね。他の兄弟と見間違えても仕方がないさ」
「やはりお前も光忠なのか」
「ああ。でも「しょくだいきり」の名を持つ兄弟は聞いたことがないなあ。他家に渡った光忠ならお手上げだけどね」
 忘れてくれと言ったのに、嬉々として話題に取り上げるんじゃない。

「ご所望の光忠ではないけれど、良かったら話し相手になってくれないかな。こうして会えたのも何かの縁だ」
「う。わ、悪いが危急の案件が有る。それが済んだ後ならいくらでも時間を作ってやるから」
「信長公に会いたいんだろう? 協力してあげようか」
 不可視の身体を壁に預け、光忠が一振りは悠々と答えを待った。他に当てが有るわけでもない。俺は不承不承、男の申し出を受け入れた。

 過去の燭台切に案内されて、屋根裏に腰を落ち着ける。埃っぽさについ咳き込む俺と違い、依然同伴者は澄まし顔を崩さずにいる。
 不思議でも何でもない。見てくれが据え置きのため勘違いしそうになるが、この太刀は肉を通して知る快不快とは未だ無縁であった。隠密行動が主軸となる現状では実に羨ましいご身分である。

「協力と言うが、具体的に何をしてくれるんだ」
「簡単な話さ。付喪神にできるのは人の営みをひたすら見聞きすることだけ。その成果で得たもののうち、君の目的に有益だろう情報を提供しよう」
「有益かどうかなんて、どうやって判断する」
「疑われず信長公の寝所に入る方法と聞いたら?」
 ぐうの音も出ない。閉口する俺を余所に、長船派の祖はさらに言葉を続ける。

「本当は無償で教えてあげたいところなんだけど……ごめんね、一つ条件を付けさせてもらってもいいかな?」
「構わん。俺も借りを作るのは好きじゃない」
「ありがとう。それじゃあ――君の時間を少しだけ僕にくれないかな」

 頬を綻ばせる男を前に、己の中でぶつ切りだった糸がようやく一本に繋がる。
 蜜を溶かしたような瞳だと常々思っていた。時に好奇心を抑えられず、本当に甘いのではないかと舌を這わせたことも有る。言うまでもなく、甘かったのは俺の見通しと後に浴びせられた男の睦言だけだった。
 目の前の色男と、六百年後に出会う相棒とは紛れもなく同じ魂を受け継いでいるのだろう。こんなにも己を騒がせる美しい刀が、世に二つとして有るはずがない。

 

■■■

 

 暦の上では処暑を迎えたが、差し込む日差しは一週間前とさほど変わらない。西の空に浮かぶ綿菓子の群れが恵みをもたらしたのはいつのことだったか。予報ではしばらく晴れ間が続くという。生温い風がシーツを揺らす。顎先を伝う汗を拭えば、二度目の秋が余計に恋しくなった。

「男心と秋の空」
「そのこころは」
「自分の過去と見つめ合うことになった刀は、肉体を得て初めて主や恋仲の目から離れる生活を送ることになる。愛されることに慣れた身体は自分で慰めようとしてもどうにもならない。この欲望を満たしてくれるはずの男は傍に無く、火照る肌を持て余した刀は遂に夜のネオン街へと消えていき」
「秋要素が無い。やり直し」
「さすがは光坊! 主の熱弁にも全くの無関心!」

 盛り上がる一箱と一振りを尻目に洗濯を続ける。
 片や己の主で、片や懇意にしている知音ではあるが、それらの関係性が揶揄を許容する免罪符になるわけではない。日課の報告書と畑当番はどうなったんだろうね。場合によっては夕餉の内容が一部変更になるかもしれない。怒りの卵かけご飯を楽しみにしているがいいよ。

「秋うんぬんは置いておいてさ、こっちじゃ四日だけど刀によっちゃ数ヶ月、数年かかる場合も有るらしいぜ、修行。嫁の心変わりを疑ったりしないのかね」
「僕は長谷部くんとこれまでの積み重ねを信じてるからね」
「んまあ面白くない反応。どうですか特別審査員殿」
「驚きには欠けるが、まだ一日しか経っていないからな。今後に期待しよう」
 白い腕に抱かれた箱の蓋を開ける。大した容量ではないが、靴下や足袋を入れるにはちょうど良さそうだ。がらんどうの主は、忽ちお日様と男所帯のフレグランスで満たされた。

「やれやれ手厳しいなあ。ちょっとは容赦してやってくれ、こっちも単に野次を飛ばしに来た、ってわけじゃあないんだぜ」
 悶える段ボールを脇に挟み、鶴さんは空いた手を懐にやった。取り出された封筒に目線が釘付けになる。細く骨張った二指が摘まんだ紙片をひらひらと踊らせた。

「主から許可は貰ってる。一番槍だ、開封の儀は頼んだぜ隊長殿」

 渡された書簡の字を検める。見間違えようがない。几帳面で手本に忠実な筆致は日々のやりとりで何百と見てきたものだった。
 長谷部くんは今、安土にいる。自分に号と物語とを与えた男の膝元で、彼はいったい何を思うのだろう。信長公の時代はおよそ六百年も前に遡る。懐かしい。その頃の僕は名も無き光忠が一振りに過ぎず、虚しく蔵で眠っているだけで――

 伊達家。燭台。葵。揺れる。焼けた臭い。熱。悲鳴。箱の中。くろがね。紫苑。

 腕を伸ばす。物干し台を堅く握りしめ、崩れかけた体幹を支えた。炎天下の作業が予想外に負担になっていたのかもしれない。不意の立ち眩みに加え、瞼の奥から響く鈍い痛みは中々引く兆しが見えなかった。
 僕を案ずるふたりに断り、自室へと戻る。障子を閉め切り、厨から拝借してきた飲料水のボトルを傾けた。
 ひどく渇いている。潤したばかりなのに水を欲する器は、明らかな不調を訴えていた。常備しているタブレットを噛み、塩分を摂る。もし熱中症なら、これで暫し休めば治るだろう。全く人の身も万能ではない。
 腕を額にやり、視界が暗くなるのに合わせて目を瞑る。やはり疲れていたのか、意識はすぐに埋没して、眠りの底へと落ちていった。

 

□□□

 

「長谷部くん」
 頭上から陽気な声が降ってくる。ヒノキの枝に大柄の男が腰掛けていた。椅子にされた樹木はしならず、緩やかに蒼穹を指している。地に映る影は折り重なった梢の輪郭だけだった。

「言われた通り来たぞ。それで? 俺はここで何をすればいいんだ? きのこ狩りか?」
「惜しいなあ。狩るのは旬の食材じゃなくて紅葉だよ」
 優雅に地上へと降り立ち、光忠は俺の隣に寄り添った。
 長谷部と光忠。理由は違えど号で呼び合えぬ俺たちは、刀工の名を互いの通称とした。正直な話、むず痒い。情を交わした後ですら燭台切で通していたのに、伊達の刀にのみ許されていた呼称を今さら用いようなどと誰が想像できるものか。

「鳥兜に木槿むくげ。あっちの水辺には彼岸花が咲いてるね。うんうん、秋らしくて実に良い光景だ」
「目の付け所が若干不穏だな」
「知識の出所は薬師が主だよ。察してくれ」
 男の指先が連なる青紫を掠める。茎や根に強い毒性を持っていようと、光忠には関係ない。花冠を愛でようとした掌は目標をすり抜けるだけで、微風の一つももたらすことは無かった。

「解った。これらの毒を抽出し、近習の者を昏倒させようという寸法だな」
「そんな間怠っこしい手段採るくらいなら斬った方が早いよね? ほうら、長谷部くん紅葉だよー綺麗だねー心が浄化される気がするよねー?」
「俺の心が穢れてるみたいに言うな」
 楓の天蓋を日除けに山道を行く。ある程度は人の手が入っているだろうが、秋深まり花開いた野草の数々や、暖色の傾斜は天然のものである。我が本丸を取り巻く風光明媚もさることながら、安土の秋も悪くはない。

 ふと前を歩く男がこちらを顧み、二つの黄金色をすっと細めた。
 胸の奥がつきりと痛む。ああ、まただ。光忠はどうして俺にあんな目を向けるのだろう。熱を孕み、情に焦がれた視線が何を意味したものなのか、解らなければ同性に身体を預けたりなどしない。
 しかしながら、想像を肯定するには展開があまりにも急すぎる。俺と光忠は昨日今日会ったばかりの間柄に過ぎない。一目惚れというなら、後に本丸で会って告白に至るまで三月掛けた燭台切は何だったのか、という話ではないか。

「どうしたんだい。そんな面白い顔して」
「お前の意図が読めない。俺と一緒に散策して、そちらに何の得が有る」
「君ほどの器量よしを供にして喜ばない男はいないんじゃないかな」
「それで誤魔化したつもりか。生憎と駆け引きは苦手な部類でな、目的も腹の内も不明瞭な輩は信用できん。答えろ光忠、俺を今日この場に呼んだ真意とは何だ」

 自らの刀身を鞘から引き抜く。幾千の戦場で振るわれ、化生の血を何万と啜った鋼の切っ先が男を真正面から捉えていた。
 相手が血肉を持たぬ付喪神であろうと、今の俺ならば問題なく斬れる。虚仮威しではないと気付いたのか、こちらの気迫が伝わったのか、光忠の肩は小刻みに震えていた。

「ああ」
 上擦った声が漏れる。吐息に恍惚を交え、彼の太刀は眸子にますます蜜を含ませた。
 白銀が心の臓を突くまで二尺も無かっただろう。その僅かな距離を自ら埋め、光忠は両の手で俺の刀身を握り込んだ。

「やっぱりそうだったんだね。見間違いでも妄想でもなかった。この皆焼の刃文、忘れられるものか」

 人肌も鮮血の温もりも感じないのに、不思議と抱きすくめられている心地がする。低音が金属に響くたびに腰が砕けそうになった。
 やめてほしい。あの刀と同じ声、同じ姿、同じ魂で迫られては、振りかざした凶器の行き場が無くなってしまう。

「また会えて嬉しいよ。へし切くん」

 

■■■

 

 茶坊主を棚ごと圧し切った。その凄まじき切れ味を讃え、これを圧切と名付く。
 明快にして珍妙な号は良くも悪くも記憶に残った。蔵を住まいとする付喪神の大半は噂話に余念が無い。新たに名を賜った一振りは井戸端会議を暫し賑わせた。
 風聞のうち信用に足るものはいかほど有っただろう。実際に顔を合わせ、言葉を交わした身からすれば、世評など妄説虚言の大盤振る舞いだ。

「お前、光忠の刀か」
 脈絡無き問いかけに我を忘れる。木の葉の合間より仁王立ちする青年の姿が見えた。
 藤の羽織に紫の着物を召し上げ、煤色の長い髪を結い上げている。若衆の頃はとうに過ぎているが、仮に受肉していれば方々から誘いの声が絶えなかっただろう。左右対称の整った顔立ちは、美麗よりは瀟洒という表現の方が似つかわしい。
 見れば見るほど造形の妙に気付かされる。凛とした声と、容姿から受けた彼の第一印象は、是非お近付きになりたいという、言葉にすると実に低俗なものだった。

「もしかして聞こえてないのか。よし待ってろ、今から俺がそっちに行く」
 いよいよ痺れを切らしたのか、彼は品の良い草履を木の幹に押しつけた。名家の子弟もかくやという拵えが台無しである。時折白い脚が裾を割って垣間見えるのもいただけない。樹上からお刀様の奮闘劇を見守るつもりが、早々に居たたまれない気持ちになってしまった。
 姿勢を崩し、地上の彼へと手を差し伸べる。いくらか逡巡した後、青年は渋々といった様子で僕の助力を受け入れた。思い切り引き上げる。その勢いに乗り、彼も僕が座っている枝まで一息に登りつめた。

「悪くない眺めだ」
「だろう。僕も結構気に入ってる」
「そうか。返事が聞けたということは聾ではないな。改めて問うぞ、お前は光忠の刀で合っているのか」
「そう、だけど」
「やはり光忠だったか! やたらめったら眩しい顔面をしているから間違いないと思ったぞ!」
「僕らは照明器具か何か?」
 隣の彼が相好を崩す。肩を揺すり白い歯まで見せて、大変にご満悦のようだが、何が面白いのか僕にはさっぱり理解ができない。まあ、笑顔が可愛いから先の偏見についてはひとまず不問としよう。

「そういう君はどこの刀なんだい」
「俺か。俺は山城国、長谷部国重が打った刀だ。先だって主より圧切の名を賜ったから、呼びたければそちらでも構わんぞ」
 第一声のとき同じく腕を組んで、評判の刀はふんぞり返った。構わんと断ってはいるが、自らの号に相当な愛着を持っているのだろう。鼻を高くして得意げに振る舞う彼が、いずれの名を望んでいるかは明らかだった。

「じゃあ、へし切くん」
 呼びかけた途端に藤色の中で星が煌めく。ころころと表情を変える彼は、下手な人より余程人らしく見えた。

 ほら、やはり噂は当てにならない。主からの寵愛を笠に着た偏屈者? 血生臭い由来に相応しい冷血漢? まさか、実際の圧切御刀は想像よりずっと素直で、負けん気が強くて、直球勝負がお好みだ。おそらく腹芸や詐欺にはとことん向いてないに違いない。
 いかな付喪神といえど人にあまりにも近すぎる。刀である以上は避けられぬ、大切な人との別れを経験したとき、果たして彼の心は耐えられるのだろうか。
 懸念を大いに含んだ疑惑は、最悪の形で答えを提示された。

「どうして、どうしてです信長様。俺は、へし切は貴方様のための刀ではなかったのですか」

 悲痛な声色が胸を締め付ける。追い縋る手が主君の袂を捉え、陪臣と取り交わした約言の真意を何度質そうと、人の子が神の言の葉に応えることはなかった。
 ある夏の日、圧切と名付けられた刀は織田から黒田へと持ち主を替えた。失望で麗しいかんばせを曇らせ、ひとり頬を濡らし続ける姿を、僕は今でも覚えている。
 彼と離ればなれになり、主に仕える道具でしかない我が身を初めて呪った。もっと話をしてみたかった。ずっと幸せな夢を見せてあげたかった。頬を濡らす雫を己の指で拭ってあげたかった。
 我ながら鈍いにも程がある。失ってようやく、君に一目惚れしていたことに気付いたなんて、笑い話にもなりやしない。

 人の世は盛者必衰である。宝物たる刀剣がいつまでも同じ場所に留まれる道理は無く、一度主家を異にすれば再会するのは難しいだろう。ただ、可能性がどれほど低くとも僕には待つことしかできない。
 百年、或いは千年も経てば機も巡ってくるだろうか。もし縁が有れば、今度は降りしきる紅葉の中を共に歩こう。夏で途絶えてしまった君と過ごす四季を、また秋から紡いでいきたい。

 僕はずっと君を想っているよ、へし切くん。

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 肌に刀身を当て、懐かしい神気をこの身で味わう。人であれば頬肉ごと顔を削られていただろうが、陽炎も同然の器は毀こぼれることを知らず、久方ぶりの逢瀬に打ち震えていた。

「たかだか数年で念願叶うとは思わなかった。装いも身の丈も変わって、何より人と同じ身体を持っているから様子を見ていたけど、君は紛れもなく僕が待っていたへし切くんだ」
「待て待て待て、色々と言いたいし訊きたいことは有るが、とりあえずその呼び方はやめろ」
「前は許してくれたのに?」
「昔と今とは違う。呼ぶなら、これまで通り長谷部の方にしてくれ」
「そう。少し寂しいけれど、君のお願いなら仕方ないな」

 嘗ての呼び名を許されぬ代わりにと、目の前の皆焼刃をじっくりと堪能する。炎を散らせた刃文はいつ見ても美しい。の目から中程の乱れ刃まで指でなぞると、手にしていた鋼が不意に立ち消え、僕は一瞬空を掴む羽目になった。どうやら刀は使い手である彼の意志で自由に隠顕できるらしい。便利なものである。

「悪いが、俺は昔のことなど話したくない」
 自らの右腕を擦り、長谷部くんは過去の共有を拒んだ。さもありなん。主の真意はどうあれ、最も敬愛すべき御方に手放された事実は揺らがない。

 今や織田は旭日昇天の勢いで天下に迫っている。岐阜を根拠地にしつつも、安土に築城し、新たに政の場を設けたのは、乱世のその後を見据えてのことだろう。数多くの刀剣もこの地に遷り、各々覇王の居城たるに相応しい壮麗さを演出している。本来なら長谷部くんも、その一角を担ったはずだ。

「昔話が嫌なら、これから先の話をするしかないね。君の目的は一体何なんだい、長谷部くん」
「目的が判らないのはお前も同じじゃ」
「僕は好きな子の望みを叶えたいだけだ。それ以外に説明が必要かな」

 食い気味に放った一言は長谷部くんを黙らせるには十分だった。小さな口が忙しなく開閉し、視線は定まらず、双頬は見る間に赤くなっていく。

「君がどういう経緯で肉の器を手に入れ、安土まで足を運んだのかはこの際置いておこう。僕にとって重要なのは、君と再会できた今は千載一遇の好機ってことだ。もう想いを告げられず、己の中で燻らせたままでいるのは耐えられない」

 後ずさる長谷部くんの踵が木の根にぶつかる。彼の前に立ち、自らの身体で退路を塞いだ。
 現世に干渉できない身でも、同じ付喪神なら話は別である。僕の指先は確かに彼の襟足を捉えていた。

「しょくだいきり、だっけ? 君はその刀と縁浅からぬ仲なのかな」
「……そう、だ」
「だったら僕をさっさと突き放した方が良いよ。このまま許されていると、自分でも何をしでかすか判らない」

 久々に言葉を交わした恋しい刀は、僕を見るなり別の刀の名を呼んだ。煮え滾る妬心を持て余しながら、素知らぬ顔で初対面を装った自分を褒めてやりたい。
 岐阜の城には二十以上の光忠の刀が有った。黒田家に渡り、失意に暮れただろう彼が、名も無き一振りのことを忘れてしまったとしても無理はない。もし彼の相手が同じ光忠でなければ、僕もここまで強引な手段には訴えなかったはずだ。

 長谷部くんの、へし切くんにとっての光忠は僕だけでいい。

「警告までしたのに、どうしてそういう顔しちゃうかなあ」
「どういう顔してるって言うんだ」
「満更でもないって書いてある」
 髪を愛でていた右手を前に滑らせ、綺麗な顔の稜線を慈しむ。未だに長谷部くんは制止の声を上げない。潤む双眸には困惑の色が浮かんでいるが、決してそれだけではないと断言できる。己の意に沿わないと判断すれば、彼はとうの昔に僕の身体を撥ね除けているはずだ。
 それと解っていて、上体を僅かに傾げる。薄い口唇との距離が縮まり、藤の匂いが強くなった。

「往生際悪くない?」
 割り込んできた掌に向かって文句をぶつける。拒むよう勧めたのは僕だけれども、不満の一つくらい許してほしい。ここまで来て寸止めとは流石に納得できかねる。
「す、少しはこっちの言い分も聞け。忘れていた身で説得力が無いのは承知の上だが、俺もお前のことは憎からず思っている」
「だったら」
「待て。今の俺はお前のものになるわけにはいかない」
「例の刀を裏切れないから?」
「……すまん、詳しいことは話せない。だが、これだけは言える。俺は燭台切も、お前のことも裏切らない。先に意中を明かすよう迫っておきながら不義理とは思うが、どうかこの件については俺のことを信用してくれないか」
 好きな子に上目遣いで頼み事をされて、断れる男がこの世にいるものか。計算でやっているとしたら大したものだが、長谷部くんの場合は間違いなく天然だろう。
 ふと脳裏に惚れたが負けという格言が過よぎった。まさに完全敗北もいいところである。

「いいよ。もう少しだけ待っていてあげる」
「ありがとう。その、今は難しいが、次に会ったときは必ず、お前のものになると約束するから」
「やっぱり口吸っていい?」
「撤回早いな!? 犬だって待てくらいできるぞ!」
「君の方が餌をやる配分を間違えてるんだよ。本当にだめならまた止めてくれ」
 僕と長谷部くんとの間に隔たった壁に口づける。柔い肌を何度か啄むうちに、彼の手首からは力が抜けて、地に向かい垂れ下がるようになった。すかさず顔を寄せる。隙間の失せた場所から、微かに湿った音がした。
 甘い神気がじわりと内側に染み渡っていく。もっと味わいたくて、薄紅のあわいを舌先で突いた。
 抱いていた肩が跳ねる。驚いた拍子に頑なだった入り口が緩み、僕の一部が彼の中に潜り込んだ。温かい。思い出すのは皮膚や臓腑を切り裂いたときの感覚だった。ああ、さらにこの器の奥へと進んだなら、きっと極上の快感が芯鉄しんがねを焼くに違いない。
 背徳的な衝動に突き動かされ、彼の腹をそっと撫でる。服の下、詰まった腸を想像すると気が狂いそうになった。帯に似た黒い装束に手を掛ける。悲しいかな、人を模した肌にそれ以上近づくことは叶わなかった。

「ちょ、調子に乗るなぁ!」

 鋭い掌底が顎を襲う。目の前の肢体を貪るのに夢中だった己が避けられるはずもなく、僕の視界は一瞬のうちに急転した。

 

□□□

 

 五歩分ほど距離を開けて男の後ろを行く。隣に立つよう誘う声は無視した。苦笑しつつも光忠はそれ以上催促をしてこない。
 いつぞやの初春を思い出す。想いに応えられるかどうかは判らない。そう返した俺を、親友は根気強く、愛情深く見守り続けてくれた。傍目には二股を掛けられているとしか思えぬ状況にありながら、こちらを詰ることなく、俺の身勝手な提案を呑んだ光忠は本当にできた刀である。油断も隙もないのは玉に瑕だが。
 光忠が織田に在ったときから俺を想ってくれていたのは、嬉しい。だからこそ、余計に真実を伏せたまま過去の圧切のごとく振る舞い、なし崩しに佳い仲になるのは避けたかった。そういうわけで理不尽は承知しつつも、ソーシャルディスタンス発動である。また迫られたら二度は拒めないだろう己の弱さが憎い。

「ほら長谷部くん、藤袴だよ」
「毒草や薬用以外の花も知ってるんだな」
「秋になるたび忘られがたき香が匂います故」
「ふうん、同じ七草なら俺は女郎花おみなえしの方が好きだな」
「気が合うね、僕も好きなんだ女郎花。品が良いし色彩も明るくて、綺麗だよね」
 そりゃあお前は好きだろう、戦装束の裏地に使うぐらいだからな。お陰様で花を愛でる趣味は無いのに、件の黄色を見ると落ち着かなくなる身体にさせられたぞ。

「でも君に贈るなら、女郎花じゃなくて僕はこっちにするかな」
 広く黒い背中が沈む。腰を曲げた光忠の傍近くに行き、その琥珀が見つめる先を追った。枝葉が入り乱れる中で薄紫の群れが一等目を惹く。これまで話題に上った変わり種と違い、色味も形状も全体的に素朴な印象を受けた。

「雑草か?」
「今昔物語集に謝って? こちらの紫苑くんは由緒正しい薬草で、古くから観賞用に栽培されております」
「そうか。しかしお前にしては地味な花を選ぶな」
「派手で綺麗な花も嫌いじゃないけど、こういう落ち着いた風情の花も好きだよ。背が高くて人の目線に近いのに、淡い色合いで主張しすぎない。誰かが足を止めて、見てくれるのを待ってるみたいで、可愛いよね」
「少女趣味の塊みたいな意見に同意を求められても困る」
「最も推したい点は誰かさんにそっくりなところです」
「色だけだろ」
「お気に召さなかったかな?」
「……まあ、悪くはない、と思う」

 光忠の指摘する通り、目立ちはしないが、透けるような紫色が折り重なり一様に天を仰いでいるのは壮観だった。本丸に植わっている鶏頭や金木犀も綺麗ではある。それでも、紫苑の美しさを認めてしまった以上、俺はあの優しい色彩を忘れることはできない。自分に似ているなどと言われたら尚更だろう。
 腰を下ろし、薄紫の花片を掬い上げる。暫しそのままでいると、横から伸びた手が俺の掌をひっくり返した。感覚の伴わない他者の指先にも関わらず、光忠は実に器用に操作する。摘ままされた一枝は程なくして茎から分かたれた。

「それを近習に渡せば目通りが叶う」
 現世に干渉できぬ付喪神が告げたのは、良人を口説く甘い囁きではなく、堅牢たる砦を突破するための助言だった。

「天下人の首もえらく安くなったものだなあ。花一つが通行料か」
「木槿、彼岸花、それに紫苑。これらは全て信長公が栽培を命じたものだ。城内の庭園では見当たらない。摘みたての生花を余所から調達するのは難しいだろうね」
「不可能ではないだろう」
「許可を貰うか、打ち首覚悟で盗窃する勇気が有ればね。そもそも、紫苑が手形の代わりなんて知ってるのは、ごく一部の臣下と暇を持て余した付喪神だけさ」
 未だ瑞々しさを失わぬ掌中の花を見遣る。光忠は始めから、これを渡すために俺を山中に呼んだのだろう。紫苑を贈りたいといった文句も、或いは話の枕に過ぎなかったかもしれない。

「いいのか。もしかしたら俺は、お前の主を殺すかもしれないんだぞ」
「できないことは言うものじゃないね」
「何故そう言い切れる」
「僕が好きになった子は、織田信長という男だけは絶対に斬れないからさ」
 唖然とする。感情の赴くまま否定し、罵声を浴びせられたら、どれだけ良かっただろう。俺は光忠の言に何一つ反駁できなかった。

「岐阜の城に居た頃の君は、へし切と呼ばれるたび誇らしげな顔をしていた。主を慕っていなければ、あんな表情はできない」
「昔の話だ。へし切なんて変な名を付けておいて、直臣でもないやつに下げ渡した男のことなど、もはや何とも思っていない」
「何とも思っていない元主を訪ねるために、自分の首を賭けようって言うのかい」
「この地に来たのは俺の意志ではない。だが、俺の物語はへし切の号から始まっている。自分自身を見つめ直すには、あの男との対峙は避けられないだろう」
「しばらく見ないうちに随分とまあ拗らせたねえ。嘘つくの下手なんだから、変に意地張らない方が良いのに」
「嘘なんてついていない」
「過去に何のしがらみも無ければ、へし切呼びや昔話を忌避する理由も無いはずだ。僕の前で信長公への執心を誤魔化せるとは思わないことだね。こっちは君の惚気話に何十回と付き合ってきたんだ」

 掌中の紫苑を手折りかねない勢いで拳を握る。朧気だった記憶の断片が少しずつ、往事の輪郭を取り戻していった。

 主が好んでいるという光忠の刀が気になり、一目見定めてやろうと躍起になっていた。いざ出会うと、確かにその太刀は美しく、信長様が贔屓にするのも頷けると納得してしまった。言葉を交わせば、ますます男の魅力は際立って、これきりの縁にするのが惜しくなった。そのうち、俺は光忠の隣で延々と主の話をするのが密かな楽しみになっていた。
 黒田に渡ってから、俺は失意の日々を送った。何故、どうして、と問いかけても答えてくれる者はいない。忘れてしまいたかった。厚遇を受け、宝物として扱われ、俺の居場所はここなのだと自らに言い聞かせた。如水様や長政様を始め、黒田家には強く恩義を感じている。しかしながら、月日が流れ泰平の世が訪れようと、俺は圧切の名から、己の背負う物語から逃れることはできなかった。号を呼ばれるたび、とうに虚しく果てた夢が蘇る。本能寺で炎と共に消えた、未来永劫叶うはずのない願いだ。

 俺は、あの御方に迎えに来てほしかった。お前が必要なのだと言われたかった。望んで手放したわけではないのだという証が欲しかった。
 かように未練がましく、童子の我が儘めいた本心など誰にも知られたくなかった。この鬱屈は俺だけのもので、他者と共有するものではない。それにも関わらず、目の前の刀は俺の都合など一切無視して、こちらの秘密を容赦なく暴き立ててくる。なんて酷い男なのだろう。
 とりわけ酷いのは、これほどの仕打ちをしておきながら、強ばった拳を撫でる手つきがいやに優しいことだ。せめて恨み節を吐く余地くらい残しておいてほしい。

「あのとき君は、どうして、と口にした。人の身を得、言の葉を操るようになった今、信長公に会わんとするのも、この問いに対する答えを知りたいからだろう」
「はッ……女々しいと嗤いたければ嗤え」
「どこに嗤うところが有るんだい。慕っていた主から離れて、悲しまない刀なんていないさ。僕が言いたいのは、自分の気持ちに嘘をつくのは良くないよって話」
「ふん。じゃあ正直なところを言ってやろうか。もしあの男が意味も無く俺を下げ渡したのだとしたら、考えるより先に身体が動いてしまうかもしれんな」
「あはは、主君殺しとはまた物騒な逸話が増えるね」
「笑い事か」
「笑い事だよ。だってそんなことは有り得ない。禿げねずみに金柑頭、我が主は妙に風変わりな名前を付けたがる。しかも自分がこれと認めた人物にだ。ところで、長谷部くんも言ってたけど、へし切ってやっぱり少し変わった号だよね」

 あっけらかんと言い放つ男の論調は屁理屈もいいところだった。何せ魔王の感性は筋金入りである。奇妙だの茶筅丸だの、実子の幼名すらこの体たらくなのだから、奇天烈な名を与えられた者が皆才能を認められていたわけではない。

「そんなこじつけで俺を騙せるとでも?」
「騙されてみなよ。もっとも僕は自信が有るけれどね」
「全くの見当違いだったら、あの男の後にお前も折ってやる」
「いいとも。答え合わせ、楽しみにしているよ」
 緩めた拳から萎びた紫が落ちる。拾い上げた一枝を懐に収め、それとは別に草藪から新たな手形を見繕った。

「ちなみに、他の花じゃなくて紫苑を選んだ理由、知りたくないかい」
「話半分でなら聞いてやってもいい」
「紫苑と云ふ草こそ、それを見る人、心に思ゆる事は忘れざなれ」

 亡父への慕情を忘れぬため、息子が墓前に添えた花。相手に自分のことを覚えていてほしい勿忘草とは違う。紫苑は、自分が相手のことを忘れぬよう誓う花だ。

「僕は君のことを忘れない。何百年と経ち、互いに主を変え、今とは全く違う姿形になろうとも、僕は君を見誤らない。そういうわけだから、たとえ長谷部くんが僕を、僕と交わした約束もろとも忘れてしまっていても、容赦なく僕のものになってもらうからそのつもりでいてね」
「あー半分聞いてなかった。特に後半がよく聞こえなかった」
「うん、聞こえてなくても僕が覚えてれば問題ない話だったよ」
「覚えてればいいんだろ、覚えてれば!」

 よろしくね、と傍らに立つ男が破顔する。いくら睨んでも相手は全く怯まない。馬鹿らしくなって溜息をついた。散々に挑発されたというのに、すっかり毒気を抜かれてしまった。とても魔王との直接対決を控えている面持ちではない。

 光忠とあの男は違う。この場でいくら議論を重ねようと、肝心の魔王が俺を下げ渡した真意は、当人より聞く他ない。ただ紫苑を選んだ刀の言葉が、怖じ気づく俺の背を押してくれたことは確かだった。

「おぼえてるよ、ぼくはせべくんのことはぜんぶおぼえてる」

 睦月、酒の勢いで親友が漏らした戯言を思い出す。六百年経とうと、この太刀の根幹は変わらないらしい。男はいつも、俺が望んでいる言葉ばかりをくれる。
 さっさと魔王の首筋に刃を突き立て、尋問を済ませてしまおう。俺も早く答え合わせがしたくなった。

 

■■■

 

 鈴が鳴る。普段であれば遠征部隊の帰還を告げる音だが、今日はどの部隊も待機命令が出されていた。我らが近侍殿の凱旋と来れば、それは本丸を挙げて祝うのが筋だろう、とは主の言である。
 厨の外が俄にざわめきだす。晩餐の仕込みを中断し、僕もまた喧噪の中心へと急いだ。
 歌仙くんに抱えられた主が念じ、正門が重々しく開かれる。季節外れの桜吹雪が舞った。黒装束に白のストラを靡かせ、装いを大きく変えた刀が一礼する。

「へし切長谷部。戻りました。俺の刃はただ、今代の主のためだけにあります」
 面を上げ、四日ぶりに目にした藤色は一等澄みきっていた。それだけでも修行の日々が実入りあるものだったと窺える。己の物語と向き合い、さらに鋭さを増してきた刀は所作の一つ一つが洗練されていた。

「燭台切」
 呼ばれ、惚けていたらしい意識が現実に引き戻される。僕の目線より少し下で、煤色のまろい頭が揺れた。
「部屋で待ってる」
 耳元にあった薄い唇が再び離れる。長谷部くんは仲間から熱烈な歓迎を受けて、忽ち集団の中に埋もれてしまった。織田や黒田といった馴染みに囲まれる彼は、僕に爆弾を投げつけたことなど無かったかのように振る舞っている。
 うん、厨組には悪いけど夕餉の片付けは全面的にお任せしよう。男児たるもの、戦いを挑まれた以上は全力で応えるべきだからね。

「鶴丸、どっちが勝つか賭けようぜ。俺は極めた長谷部に搾り取られるに一票」
「俺は光坊が男を見せてくれるに一票だな! 期待してるぜ伊達者!」
 とりあえず一箱と一振りの朝餉はねこまんまに決定した。

 夜が更け、盛況だった祝賀会もお開きになりつつある。広間は呑む口実が欲しい酒豪たちの無法地帯と化していた。宴の主役もとうの昔に自室へと引き上げている。給仕係もそろそろお役御免だろう。エプロンを脱ぎ、湯浴みを済ませた僕は、いざ決戦の地へと向かった。
 四日ぶりに招かれた部屋は、相も変わらずこざっぱりとしている。床の間を飾る香炉や掛け軸も僕が世話したものだ。内装に頓着しない彼は、始めこそ勝手な模様替えに不平たらたらだったが、そのうち諦めたのか、家具を移動する際はまず僕に確認を取るようになってきた。もはやどちらが部屋の主か判らない。

 そのような有様だから、この部屋に一つでも物が増えれば僕が気付かないはずが無かった。文机の上に見慣れぬ細長い陶器が置かれている。墨色の一輪挿しには、盛りにはまだ早いだろう紫苑の花が生けられていた。

「どうしたんだい、これ」
「修行先の時代がちょうど秋だったんでな。綺麗だろう」
「ああ。目を惹くような派手さは無いけれど、とても落ち着く色合いをしている。君の目に似てるね」
「ふっくく、本当息を吸うように口説くなァ。お陰で帰ってきたという実感も湧くわけだが」
「一層美しくなって帰ってきたこいびとを称えないのは失礼だろう? まさか情緒まで身につけてくるとは思わなかったけれどね」
 別に以前の長谷部くんも無骨一辺倒だったわけではない。移り変わる四季を共に愛で、縁側に並び桜や蛍の景趣を幾度も楽しんだ。ただ積極的に人の営みに関わろうとしないだけで、彼の感性はある意味誰よりも人らしかった。その繊細さが旧主への愛憎を形作ったのだろう。
 長谷部くんは過去を清算してきたと語った。その言が確かなら、道端の淡紫を気に留める余裕が生まれたのも頷ける。

「光忠」
 初めて聞く呼称に耳を疑う。伊達の間ではお馴染みの響きも、彼がそれを用いた試しは今まで無かった。
 心の臓が跳ねる。不思議と喜ばしく思う気持ちより、驚嘆の方が胸を占める割合が大きい。この感覚は、三日前に味わった焦燥感と似ていた。

「は、はは。急に呼び方を変えられてドキッとしちゃった」
「……嫌だったか?」
「まさか。君にとっての光忠を僕が独占できるのは嬉しいよ。ただ少し驚いただけなんだ。本当に、驚いただけで」
 そうだ、僕を光忠と呼ぶ長谷部くんの声はとても心地良い。今まで考えたことも無かったくせに、まるで長年の悲願が叶ったような達成感がこみ上げてくる。
 理性が感情に追いつかない。僕はどうして、こんなにも喜んでいるんだろう。

「やはり、覚えていないんだな」
 長谷部くんが卓上の紫苑を弄った。自分の瞳と同じ色をした花弁に注がれるのは、諦観とも慈愛ともつかぬ曖昧な眼差しだった。

「安土に飛ばされた俺は、織田に居た頃のお前に会った。いや正しくは再会した。俺はまだ燭台切でない頃のお前と交流が有ったんだ。下げ渡されて以来、織田での記憶をなるべく思い出さないようにしていたからな。お前がここに顕現したときも全く気付かなかった。ひどい男だろう? でも、そんな薄情な俺と違ってお前は、光忠は俺のことを忘れていなかった。これからも忘れないと、あいつが選んで寄越した花がこれだ」

 頭の中で警鐘が鳴り響く。熱した金属の棒で臓腑を掻き回されているみたいだ。煮立った鍋と化した体内が熱と不快感とを訴える。
 きもちわるい。うれしい。くるしい。ばらばらになる。
 上体を屈し、視界を閉ざした。黒一色の世界に薄紫の断片が落ちる。花弁の形をしていた雫は水面に垂れ、小さな波を立てると同時に深層へとじわじわ沈んでいった。掬い上げようとしても水中に溶けた絵の具を浚うことはできない。きっと大切なものだったはずなのに、追い縋る理由も解らないまま、僕の手は虚空を掴んだ。

 織田に居た頃の長谷部くん。光忠が一振りでしかなかった頃の自分。忘れないと誓った約束。語られる全てが意識の表層を滑り落ちるだけで、何一つとして過去の記憶と繋がるものはなかった。
 欠落を認識した身体が軋み始める。いよいよ昏倒しかけたところで、額に何かが触れた。冷たい。いや僕の肌が熱を帯びているだけだろうか。薄く開いた瞼の先には、底なし沼に落ちたはずの紫色があった。

「大丈夫か」
 青ざめたかんばせに八の字になった眉が貼りついている。不調に苦しむ僕よりも、彼の方が余程病人みたいな表情をしていた。
 長谷部くんの掌にゆっくりと僕の熱が移っていく。胸の内を苛んでいた痛みもみるみる失せていった。

「ああ、もう大分楽になったよ。長谷部くんのお陰だね」
「俺は何もしていない」
「光忠専用特効薬へし切長谷部」
「注射されてるのは俺の方だがな」
「やっぱり情緒も何も有ったもんじゃないねえ、君」
「そこも好きなんだろ、知ってるぞ」
「正解」
 痺れの抜けた身体を起こし、また横になる。枕にした膝はほどよく筋肉がついているが、寝心地は悪くない。僕を見下ろす長谷部くんは薄らと微笑んでいる。柔らかい表情と新しい戦装束も相俟って、以前よりも聖職者らしく見えた。

「僕は伊達に遷る前の記憶が朧気なんだ」
 黒衣のこいびとは何も言わない。長谷部くんはただただ僕の告白に耳を傾ける。その振る舞いが余計に彼を神父たらしめた。許しを請おうとは思わないが、信徒のふりをした刀を前に、僕はなおも告解を続ける。

「それを悔やんだことは一度も無い。人が物心つく前の記憶に疎いように、僕も号を得るまでの自分が希薄になっている。六百年前の僕は君と出会っていたのかもしれない。そこで大切な約束を交わしたのかもしれない。でも、僕は忘れていたことすら忘れてしまう。君は自分を酷い男だと言うけれど、忘れてしまったことを悲しいとすら思えない僕は、いったい何なんだろうね」

 喉元過ぎればとは言うが、自分の記憶に関する欠落は異常だった。思い出そうとするたび激痛が走るにも関わらず、いつしか苦痛ごと過去への探究心を忘れ去ってしまう。そして僕は僕自身への執着を手放し、心身共に健全であるかのように装う。
 不便や不安すら上書きする欠陥は、己にとって大変都合の良いものだった。だから僕は今初めて、自身の知られざる物語に飢えている。
 長谷部くんは嘗て死を望んだことが有る。己の全てをかなぐり捨て、大切な人との別れを惜しむほどに、彼の情は深い。永遠を諦めながらも欲してしまう。それが、へし切長谷部という刀だ。
 そんな彼に永遠を誓いながら、約束ごと忘れてしまうとは無責任の極みである。やり場の無い怒りを滾らせていると、長谷部くんの左手が降ってきて僕の前髪を掻き上げた。爪先まで整った五指が僕の眼帯をつつとなぞる。

「お前がいったい何かって? 青銅の燭台も切る名刀、燭台切光忠。この本丸で俺と切磋琢磨し、互いに背中を預け、これからも共に生きたいと思わせた男だ」
 今日一番の殺し文句に目が眩んだ。本当に、長谷部くんは僕の怒りを萎えさせる天才だ。

「いまいち説得力が無いのは承知の上で、改めて誓わせてもらえるかい。僕はもう二度と君を忘れない。過去の自分は解らないけど、今の僕はこの約束を違えないと断言するよ」
 いたずらな指先を捉え、そのうちの一本に口づける。角度を変えて根元まで飲み込み、第二関節より下側に軽く歯を立てた。戦うときに指環は邪魔になる。

「僕が修行から帰ってきたら結婚しよう」
 長谷部くんが解放された自分の薬指を一瞥する。さっと朱の差した頬を仰ぎ見て、僕は胸を騒がしくしながら返事を待った。

「初夜まで待てないんだが」
 赤い舌が薬指の情痕を舐る。雰囲気もへったくれもない台詞に苦笑しつつ、未来のお嫁さんの腕を引いた。

 

□□□

 

 涼風を受けて布がはためく。庭一面を埋め尽くすシーツは先日で七十を超えた。発足して未だ一年にも満たないが、この本丸も随分と大所帯になったものである。
 旧知と再会する者も少なからず、政府の戦力補強計画は喜びの声を以て受け入れられた。俺としては頭痛の種が増えたという見解の方が強い。

「へし切」
 噂をすれば影が差す。厄介事がジャージを着てやって来た。

「長谷部と呼べ。呑兵衛の行方なら知らん」
「そうか、なら他を当たろう。あとお前にはこれをやる」
 促されて掌を差し出す。男が懐から取り出したのは飴玉だった。水玉模様の包装紙に丸々とした文字が印字されている。俺を優に見下ろす大男が持ち歩くべき代物ではない。この眼鏡は自身の容姿をどう捉えているのだろうか。

「何の真似だ」
「糖分はストレスに効くという。それであと三日凌げ」
「顕現したてで他刃の世話を焼くとは面白い後輩だなァ」
「弟分の世話を焼くのは兄として当然のことだ。眠れなければ呼べ。子守歌程度は造作も無い」
「善意の安眠妨害を仕掛けてくるのはやめろ。飴はありがたく貰っておく、が……これはどういう経緯で手に入れたものだ」
「万屋で普通に売っていたぞ」
 お前が自分で選んで買ってきたのか。どういう顔してレジに並んだ。あの仏頂面でだろうな。知っている。日光一文字とはそういう刀だ。
 他者の目線を気にするようなやつだったら、あの正三位を弟扱いしようとは思わないだろう。

「俺のことは構わなくて結構だ。日本号ともども畑当番に勤しみ、主命を果たせ」
「言われなくとも任務はこなす。飴の追加は夕方まで暫し待て」
「催促したわけじゃないからとっとと行け」
 兄を名乗る不審者がようやく踵を返した。その影が廊下を曲がりきるのを確認し、渡された包み紙を解く。貰った飴玉は予想の通り、紫色をしていた。

 日光一文字が本丸に顕現したのは、二週間ほど前のことである。揃って黒田の宝として扱われていただけあり、俺との付き合いもそれなりに長い。どちらが上かはさておき、身内という認識はあながち間違いでもないだろう。
 兄弟とは言うが、日光は下を甘やかす質ではない。堅物で無愛想で居丈高な男がやたら俺を気に掛ける理由は一つ、昨日修行に出たばかりの刀が原因だった。

「弟さんとは良いお付き合いをさせてもらってます」
「ほう。長船の祖が相手とは、へし切も隅に置けんな」
「お義兄さんも人の身体を得たばかりで、初めは戸惑うことが多いと思います。僕で良ければ力になりますので、遠慮無く言って下さい」
「うむ。顕現直後から頼もしい弟分が増えて僥倖である」
 という頭の痛い会話さえ無ければ、俺はもっと平和でいられたはずなんだ。

 根が体育会系の日光は、存外筋の通ったやり口を好む。燭台切の挨拶は効果的だった。そして黒田の自称兄は、彼の太刀が修行に出た途端に俺を構い倒すようになった。喜んでいるのは、監視の目が減って昼間から酒浸りの正三位ぐらいのものだろう。

「童子じゃあるまいし、独り寝が寂しいなんてわけあるか」
 消えた背中に向かって毒づく。ちょうど口内の飴が溶けた。舌に馴染んだ葡萄の味わいが恋しくなり、もう一つの包みも開ける。しかし、露わになった中身は期待していた紫色ではなかった。まろびでた飴玉が肌の上をころころと滑る。

「葡萄で揃えてると思うだろ、普通」
 誰かの何かを彷彿させる黄金色をつまみ、日の光に透かす。角度によって表情を変える宝石を仰ぎ、燭台の灯を想った。

 溶け始めた蜜の塊をようやっと口に含む。互いに午後は非番になっていたはずだ。幸い消費していない酒瓶がまだ残っている。たまには旧知と晩酌を嗜むとしよう。

 

□□□

 

 近侍として本丸中を駆け回るうちに二日が過ぎた。燭台切の帰還まで既に十時間を切っている。どうも気持ちが浮ついてしまい、先ほどから大して変わりもしない時計盤を何度も確認していた。
 埒が明かぬと腰を上げ、遠征から戻ってきた部隊を出迎える。運び込まれる資材を横目に、そういえば木炭が若干足りていないことに思い至った。
 まあ良い気分転換にはなるだろう。歌仙に言付けを頼み、俺はひとり幕末に飛んだ。

 つくづく水辺には縁が有る。丁寧な仕事ぶりが窺える植栽や石組に挟まれ、俺は池泉のほとりに立っていた。首をめぐらせば、樹木の陰より洋風の邸宅が顔を覗かせている。果たして戊辰戦争の時代にこれほど立派な西洋建築が有り得ただろうか。

 そもそも気候が一月にしては温暖すぎる。鳥羽・伏見の戦いは手足もかじかむ真冬の京都で行われた。陽光が肌を灼き、玉の汗を皮膚に浮かべることはまず以て無い。
 転送装置を取り出す。黒一色の無機質な画面には、本丸の現時刻だけが表示されている。それ以外のデータは、いくら指を滑らせても閲覧できなかった。

 仕方なしに周囲の散策に当たる。何はともあれ情報が無くては立ち行かない。今は何年の何月で、ここはいったいどこなのか。差し当たっては街道に出るべきだろう。彼方に位置する門を頼りに歩を進める。広々とした庭園には、本邸の他に離れや蔵と思しき建物が有った。興味を惹かれたのは断然後者である。なまこ壁の伝統的な仕様とは異なり、その蔵は煉瓦で造られていた。

 道草を食っている場合ではない。そう理性が咎めながらも、蔵に引き寄せられる足は止まらなかった。庇の下に入り、扉の前に立つ。施錠された格子戸はびくともしない。至極当然のことなのに落胆した。中を見てみたい。目的も忘れ蔵へと入る方法を模索する。好奇心というよりは焦燥感に駆られていた。
 さすがに錠破りの心得は無い。壊すわけにもいかず、未練を押して離れることにした。下手に時間を食って守衛に見つかっては困る。このまま誰の目にも留まらず、適当に柵を越えて外に出なくては。

「だあれだ」

 足が竦む。ただの一言で全身は緊張し、指先すら満足に動かせなくなった。確実に先程まで近くには誰もいなかった。いや今も「人」の気配は感じない。軒先から伸びる影は、俺の輪郭をそのまま写し取っている。背後にいる何者かは血肉を持ってこの世に在るわけではない。
 魔物か妖か。どちらの呼び方もそう外れてはいないだろう。俺たち付喪神も化生の類であることには違いない。

「みつ、ただ」
 身を捩り、己を抱きすくめる腕の主を顧みる。嘗て安土で再会した男は、目映い琥珀色で弧を二つ描いた。

「久しぶりだね、長谷部くん」
 会いたかったよ。と、間髪入れずに続けられた文句が胸を焦がす。見知らぬ蔵の中身にこれほど固執する理由がやっと解った。俺はこいつに呼ばれていたのだ。

 畑を抱える本丸も相当な広さではあるが、元御三家の本邸も負けてはいなかった。
 人目を避けて洋館の脇を通り、離れの長屋に着いてやっと人心地がつく。
 光忠曰く、こちらの棟はあまり使用されていないらしい。少なくとも明朝までは寛いでも問題は無さそうだ。その言葉を信じて武具を一時外す。身体が軽くなったところで、隣に座する刀に正面から向き合った。

「詳しい事情は省く。今は、何年何月何日だ」
「今日は……大正十二年、八月三十一日だね」

 冬どころか秋のとば口も見えていない。なるほど蒸し暑いわけだ、文明の利器に慣らされつつあった身体が悲鳴を上げている。涼を求めて障子を開放するわけにもいかないのが悩ましい。

「安土で君と会ってから長い時間が過ぎた。志半ばにして信長公は斃れ、後を継いだ秀吉公も亡くなり、徳川家が日の本を治めること二百と八十年。つ国と交わり、刀の時代は終わりを告げた。僕らは過去の遺産になってしまったけれど、君はあのときと変わらず綺麗で惚れ惚れするよ」
「お前の悪癖も健在なようで何よりだ」
 膝に置いていた手を取られ、布越しに口づけを施される。そんなところまで文明開化しなくていい。野次を呑み込むと、異人かぶれの男がほうと熱い息を吐いた。

「ね、約束、覚えてるかい」
 手袋の下を自分のものでない指先が這う。窮屈になった白い布が押し上げられ、俺の手から徐々に剥がれていった。絡みつく手が指の股をなぞり、愛されることに慣れた肌から性感を引き出す。

「覚えてない、と言ったら」
「僕が覚えているから問題ないよ」
「確認した意味有ったか? ン、まて、約束の前に話しておきたいことが有る」
「話? 君がこの時代の刀じゃないってことかな」

 声にならず、喉から空気だけが押し出された。唖然とする俺を納得させるためか、光忠はさらに言葉を継ぎ足していく。

「恋敵の名だ、到底忘れられるものじゃない。伊達で燭台切の号を得たとき、ようやく君の言葉が腑に落ちたんだ。そりゃあ事情を話せないわけだよ。未来の僕と恋仲になってるなんてあまりにも突拍子が無いからねえ」
「そこまで解ってるなら、捨て置いた方が良かったんじゃないか。この時代の俺は未だお前との再会を果たしていないし、お前に想われていることも知らない」
「僕と約束したのは、今ここに居る君だろう? 忘れっぽい御刀様を口説き落とすのは後の僕がやるべきことだ。お預けされていたご褒美を貰うのは、今の僕の役目だけどね」
「……本当に誰も来ないんだろうな」
「もちろん。君の可愛い声を聞いていいのは僕だけだ」

 肩を押され、畳の上に横たわる。覆い被さる男の琥珀が輝き、金色に燃えていた。
 戦場で、褥で、何度も目にしてたが、返す返す思う。日輪より月白より、この刀の灯す火が何より眩しくて美しい、と。

 己より体格の良い男の下敷きになっている。ただし身体は全く重さを感じない。逞しい首に両腕を絡めるも、まるで霞を掴んでいるような気分だった。
 それでいて、口を吸われるたび甘い神気が確かに流れ込んでくる。見えるし触れる。しかし合わさった肌は熱を一切帯びない。光忠の興奮を伝えるのは、人ならざる美貌に浮かぶ愉悦と余裕のない声色だけである。

「はぁ、綺麗だよ長谷部くん」
「なんだ、普通に夜目利くのかおまえ……」
「ヒトの身体だとどうかは知らないけれど、僕の方はばっちり見えてるね」
 言いながら服を乱す手つきに迷いは無い。燭台切と共寝するときは明かりが欠かせなかったので、こうして宵闇の中で組み敷かれるのは新鮮に感じた。

「これ耶蘇教の衣装だよね。格好良くて君にとても似合ってるよ」
「似合ってると言いつつ脱がすんだな」
「神の声を聞き、その望みに応えるのも信徒のお仕事だろう?」
「西洋の神は男色お断りだがな」
 格好はどうあれ、稚児遊びの盛んだった頃の刀剣には関係ない話である。禁欲を重んずる僧服を寛げ、極東の付喪神は法悦に浸った。

「心臓がどくどく言ってる。本当にヒトの身体なんだね」
 剥き出しになった俺の胸に黒髪が散らばる。その下に隠された白皙の肌は刃文を、皮膚をくすぐる濡れ羽色は地鉄を思わせた。

「どうだ、切りたくなるか」
「ああ、刃先を突き立てたら最高に興奮しそうだ。でも刹那的な快楽に身を任せるつもりは無いよ。肌を割かずとも肉の味を知る方法は他に有るだろう?」
 光忠の手が腹筋を滑り、足の間を抜けて菊座に触れる。服の上から閉じたままの窄まりを押され、腹の奥がずくりと疼いた。
「ぁ、ンッ……!」
「わあ、ちょっと触っただけなのに顔とろとろだね。やっぱりされる側だったんだ」
「ふ、自分のことだから、わかるだろっ……今も男役を譲る気なんてないくせに」
「仕方ないだろう? 君のこと、いっぱい可愛がりたいんだ。皮膚の厚み、骨の形、腸の感触、僕はその全部が知りたい」
 鎖骨に歯が当たる。柔く噛まれて、僅かに走った痛みは甘い刺激となって思考を犯した。
 畳を滑る足下が重たい。中心を嬲っていた男の手が下衣を引き下ろし、腿の辺りで留めていたようだ。右膝を抱えられ、団子になった服の拘束から逃れる。好奇心を湛えた黄金色が見つめる先には、灰色の靴下とその留め具が有るのみだ。

「長谷部くん、これは何かな」
 尋ねながら、光忠はソックスガーターの帯に指を差し入れた。燭台切もやたらと気に掛けていたが、あれの何がそこまで伊達男の目を惹くのだろう。

「靴下留めだ。激しく動いても落ちてこなくて便利だぞ」
「僕を誘惑するために着けてるわけじゃなくて?」
「お前と恋仲になる前からの愛用品だが?」
「素でこんないやらしいものを……? 何だいそれ反則じゃないか……」
 そう言うなり光忠は俺の足を凝視する。矯めつ眇めつ、時に引っ張ったりと随分ご執心らしい。

「そんなに気になるなら、とくと見ろ」
 自由な方の足で男の袴を割る。情欲というものを知っているかすら危うい中心は、やはり未だ兆していなかった。衣服に隠れた局部の輪郭を爪先で辿る。ぐりぐりと遠慮無しに嬲っていると、光忠の吐く息に若干艶が混じり始めた。

「ッ、やんちゃな足だねえ」
「そう言う長船派の祖は案外大人しいなあ。こんな調子で本当にできるのか?」
「ヒトと違って直接相手の肉に触れないと僕は何も感じないからねえ。でも長谷部くんが僕をその気にさせようと色々とシてくれるのは、見ていて愉しいかな」
「は。童貞のくせに贅沢な注文付けてくるじゃないか」

 左足を畳に付け、右膝も下ろしてもらい、スラックスを抜き去る。はだけて中途半端に纏ったカソックを除け、自ら灰色の下着を露わにした。前立ては若干膨らみ、湿り気すら帯びている。人の雄が勃起しているのを初めて間近で見ただろう光忠が喉を鳴らした。
 相手の反応に気を良くして、自身の興奮をより強調するように指を動かす。注がれる視線に犯され、軽く押し込んだ布から微かな水音が立った。

「お望み通り、その金色の眼にたっぷりと俺の痴態を刻み込んでやろう。一時でも目を反らしたら次は無いと思え」

 汗が喉元を伝った。ほとんど裸体になりながら、晩夏の夜に感じるのは涼気ではなく蒸し暑さばかりである。
 ただ己が息を荒げ、肌を火照らせている直接の原因は時期ではない。粛々と自らを慰める手がしとどに濡れている。高まりつつある熱を解放したい一心で竿を扱き、裏筋を責めた。

「は、ァあ……っふ、どうだ、みつただ……すこしは、ン、やるきになったか」
 言いつけ通り、俺の独り遊びから光忠は一度も目を離さない。興味深そうに人体の神秘を観察し、皓々とした頬に朱を差している。触れない限り昂ぶらないと豪語していた割には良い食いつきぶりだ。時折腰を浮かせては、こちらに指を伸ばそうとするので、そのたびに手をはたき落とした。

「まだダメだ。食べ頃になるまで、もう少しじっとしてろ」
 先走りを窘めた手で光忠の唇を押し潰す。お預けを食らった忠犬は不満げだが、それでも強引に迫ることはせずに、辛抱強く獲物の支度が整うのを待った。これはご褒美も弾まねばなるまい。

「ああ、早く君の内臓の味を知りたくてたまらないよ」
「ふッ、ならいい……っぁ、く……!」
 俯き、背を丸めて精を放った。光忠にしなだれかかり、掌中を汚した白濁を見せつける。俺の腰を支えた男は、すんすんと鼻を動かし、ややあって突きつけられた粘液を舐め取った。

「……ん、唾より長谷部くんの神気が濃い……おいしいなあ……」
「そうか。おっと全部はダメだぞ。残りは、っ、こっちに、使うからな」
 ぬめつく指を下腹部にやり、奥の窄まりに宛がう。光忠を跨ぐように膝を立て、雄を受け入れる場所に潤いを足した。

「ほら、口あけろ。俺が出した分だけじゃ、足りないんだ」
 返事を貰うより先に唇を奪う。触れ合わせた身体に温もりが宿ることは無いが、俺の中に入ってきた黄金色の神気は熱く、思考を容易に蕩けさせる。
 夢中になって互いの舌を絡ませた。次々に溢れる滴を掬い取り、また後孔に忍ばせる。俺の体液しか使えないせいで、いつもより慣らすのに時間が掛かっていた。光忠だけでなく俺ももどかしい。
 ああ早く、腹の奥を硬くて太いもので乱暴に掻き回してほしい。好き勝手揺さぶられて、手足を押さえつけられて、腸壁に子種を叩きつけられたい。期待とは裏腹に、己の指を咥えた秘所から中々異物感が消えなかった。

「辛そうだね、長谷部くん」
「はぁ、ア――すまない、まだかかり、ひッ!?」
「全部ひとりでしなくても大丈夫だよ。ねえ、長谷部くんのいいところ、僕に教えて?」
 縁を辿るようにして光忠の指が円を描く。萎えかけた俺の陰茎から水気を補い、新たな杭が内に沈み込んだ。恐る恐る、慎重に襞を掻き分ける男の動きは、初めて身体を繋いだ夜のことを思い起こさせる。

「どんな風に触ればいい? ここ? それとも、こっち?」
「ぁ、ゃア、ンッ……ここ……ここ、して」
 同じく中にある自身の指で場所を示す。誘導に応じた光忠に弱い箇所を突かれて、全身が歓喜に震え上がった。
 自分では無意識に加減してしまうところを遠慮なしに責められ、拷問じみた快楽に目が眩む。膝に力が入らなくなり、体重も完全に光忠に預けきってしまった。

「ン、んぅッ……は、みつただ、いいッ……もっ、とぉ……!」
 自分でほぐすのも忘れ、眼前の逞しい身体に縋る。好いた男に拓かれて、媚肉が淫らに引きつった。
 二本、三本と指を増やされるごとに男を求める心が増す。もう一刻とて耐えられない。俺を載せている足の付け根に再び手を伸ばす。先と違い、人の臓腑に触れた刀身はひどく凝り固まっていた。

「ァ、みつただ、ほしい。これ、ほしぃ……!」

 到底掌中には収まらない膨らみを擦り、懇願する。すぐ近くで舌打ちが聞こえたと思いきや、視界が急転した。
 畳を枕にし、慌ただしく服を寛げる男を仰ぎ見る。脚を担がれ、喪失感に悶える下の口が晒された。次いで赤黒い塊が臀部に押しつけられる。
 尻のあわいを長大な逸物が往復すること数度、とうとう待ち望んでいた圧迫感が身を襲った。

「ぁ、ア、ああぁあっ!」
 瞬く間に官能が四肢の末端にまで行き渡る。貫かれる悦びを知っている肉鞘は、自らを犯す雄を歓迎し、貪欲にしゃぶりついた。
「は、なにこれ、やっば……!」
 初めての交歓に光忠が切羽詰まった声をあげる。優れた武器であればあるほど、刀が人の肌を切り、腸を裂くのは一瞬だ。久しく体内に留まることはほとんど無い。首を飛ばすだけでも心が躍るのに、油脂で切れ味が鈍る心配もせず、ひたすら臓腑の味を堪能できるなど刀剣にとっては夢のような話だろう。

「はぁッ、ハッ……! どうだァ、光忠、俺の中は」
「言うまでもないよ……気持ちよすぎて、どうにかなってしまいそうだ」
「ふ、くく……いいじゃないか。どうにかなってしまえ、その方がもっと気持ちよくなれるぞ」
 男の首に腕を巻き付け、口を吸う。上と下とで繋がり、狂おしいほどの幸福感に満たされた。

「さっきまであんなによがってた割には余裕だね」
「また啼かせたいなら頑張って腰を振るんだな」
「ふうん。じゃあお言葉に甘え、てッ」
 軽く引き抜かれた肉棒がまた分け入ってくる。挑発した甲斐あって遠慮の無い腰遣いだ。ばちゅばちゅと接合部から立つ淫猥な音がひどくそそる。
「っく、はせべくん、どう、気持ちいい……?」
「あっ、ああ! ンッ、いい、はら、めちゃくちゃにされるのいいッ……!」
「そう、ならよかった……! は、まずっ……なんか、でそう……!」
「は、だせッ……! がまんせず、ぜんぶ、おれのなかに、はきだせ……!」
 意識して内側の剛直を締め付ける。自分の弱いところをも刺激することになるが、情交に不慣れな光忠を追い詰めるには効果的だったようだ。頭上で男が低く呻いて、神気の塊を勢いよく解き放った。

「は――よしよし、いっぱい出せたな……? えらいぞ」
 覆い被さる男のうなじをやわやわと撫でる。初めての射精に惚けているだろう顔が見たくて、肩口で伏せている面を引き上げた。
 こちらの思惑に反し、俺を出迎えたのは恍惚の表情ではなく真顔の伊達男だった。

「どうした光忠、そんな恐い顔し、てッ!?」
 一度極めたはずの雄がまた律動を再開する。油断していた俺はされるがまま、中を激しく突かれて、悲鳴とも嬌声ともつかない雑音を垂れ流した。
「ああ、あッ! み、なん、やァアッ! つよ、そこだめ、だめぇッ……」
 俺の制止の声を一切無視し、光忠はただ黙然と腰を振る。注がれたばかりの神気が攪拌されて、常より早く奥底に溶け込んだ。蜜より甘く、燭より熱い光忠の精は俺から容易に理性を奪っていく。もはや己は腹の中を埋められては噎び泣く卑しい獣に過ぎない。

「ひッ! ン、ぅ……! みつただ、も、むり、いく、いくからァ……!」
 相手の肩からずり落ちた袖を掴み、限界を訴える。汗や涙で顔面を濡らし、無様な格好となった俺を見て、ようやく光忠は笑った。

「あっあッ、いっ……ちゃ、あああああああああ!」
 深々と突き当たりまで挿され、咆哮と共に二度目の絶頂を迎える。押し寄せる疲労感には抗えず、布を摘まむ力すら萎えた手が床に転がった。
 肩で息をする俺とは異なり、先刻散々にいたぶってくれた男はえらくご機嫌な様子である。

「……負けず嫌いめ」
「それはお互い様だろう?」
 違いない。一方的に搾り取られるのも、一方的に満たされるのも好まない俺たちは、気力が尽きるまで交接を繰り返した。

 薄明の中、微睡みから覚醒する。僅かに戸を開けて、立ちこめる精の匂いを外へ逃がした。まだ空の大半は瑠璃色の帳を纏っている。夜陰に乗じて柵を越えるなら今より他に無い。
 鎧と刀を現世から隠匿し、敷布代わりにしていた服を着込んだ。暗がりでも肌のそこかしこに情痕が刻まれているのは判る。帰ってきた燭台切に見られたら説明が面倒くさそうだ。やったのはお前だけどな。

「はせべくん」
 舌足らずで不明瞭な声に呼ばれる。三百年後の燭台切より先に、まずこの大男を引き剥がす方が難題かもしれなかった。

「もういくの」
「ああ。いつまでもここに留まるわけにはいかない。どうすれば元の時代に戻れるのか、敵の有無も確かめつつ打開策を探すつもりだ」
「そうかい。あてがなくなったら、またもどっておいで」
「そうさせてもらう。と、承諾しているから放せ」
「いってきますのキスしてくれたらはなすよ」
「お前本当に文明開化著しいな? 大丈夫か? 日本刀の自覚有るか?」
 寝起きの燭台切は存外、隙が多いらしい。普段は俺より早く起きて格好を整えているため、このように甘えてくるのは酔っ払ったときぐらいだろう。今度こっそり撮影して俺の秘蔵コレクションに加えておかねば。駄々っ子の口を吸う傍ら、帰還後の予定がまた一つ増えた。

 水戸屋敷を後にし、大通りを歩いて地形の把握に努める。朝方は人気も少なく、ただ街並みを眺めるだけだったが、図書館に入れるようになってからは情報収集も捗った。

 手始めに新聞に目を通す。日付は大正十二年九月一日となっている。総理大臣が急逝したばかりで、政府は混乱の只中にあるようだ。この時代は国内外を問わず、世界中が揺れていた。何気ない切っ掛け一つで歴史が変わることも十分有り得るだろう。仮に遡行軍が動いているとしても、その目的を絞り込むのは難しい。
 刀剣が武器として必要とされなくなって以後、俺たち付喪神の自我もかなり薄らいだ。日々目まぐるしく変わる情勢を逐一覚えてはおらず、二度起きた世界大戦も経験ではなく知識として把握しているに過ぎない。

 この時代に飛んだ原因が、単なる機械の故障なら諦めもつこう。しかしながら、もし何者かが明確な意志を以て、俺を大正十二年の東京へ送り出したとすれば話は違ってくる。装置に干渉してまで、たった一振りの刀に守らせたい歴史とは何か。これから俺はいったいどんな事件に遭遇すると言うんだ。

 二週間分の新聞を机上に積み重ね、文字を追っていると前触れもなく椅子の底を叩かれた。それが錯覚で、実際は家屋、ひいては大地そのものが揺れていると気付いたのは数秒後のことだ。
 一気に恐慌が広がる。棚から書籍が落ち、鉢植えが倒れ土もろとも青葉を散らした。立つこともままならず、床に転がって頭部を腕で庇う者も見受けられた。
 世界が激しく上下する。収まったと思えば、一分そこらでまた大きな波がやって来た。三度みたび震撼を経験し、机の下から這い出た俺を待っていたのは地獄絵図だった。

 書架の大部分が倒壊し、床は足の踏み場も無いほど物が散乱している。本や棚の下敷きになった利用客からは呻き声が、パニックを起こし前後不覚になった客からは絶叫があがった。我先に外へ出ようとする群衆が通路にごった返す。
 押し合い、へし合い、方々で罵声が飛び交った。翻って、踏みつけられた生きる屍は痙攣し、助けを求めることもできないでいる。

「そこのお前、こちらに来て手伝え! 案ずるな、この建物は頑丈だ。そう簡単に崩れたりはせん。焦って出て行き、潰れて死にたくなければ善行の一つや二つしてみせろ!」

 腰を抜かし、怯えきっている男を適当に数人捕まえる。一向に出入り口の喧噪が静まらないことで諦めがついたのか、動き出してからは皆従順だった。
 怪我人を発掘し、休ませ、また周囲を探す。そのうちに有志も集い、健常者が肩を貸す形で救助活動は概ね成功を収めた。

 地震が起きて一時間は経っただろうか。やっと屋外に出た俺は、一変した東京の様相に絶句した。周囲の建物には大きく亀裂が入り、黒煙が複数立ち上っている。突然の災厄に喘ぐ人々の多さは、図書館の比ではない。
 状況を把握するため、近くの木に登る。隅田川を渡った先でも、屋根まで火焰で染めた棟々が見えた。広大な敷地を持つ徳川家の住まいも、同様である。

 俺は大馬鹿者だ。光忠から話を聞いたとき、何故この史上最悪の災害に思い至らなかったのか。
 大正十二年九月一日、関東大震災により小梅邸は焼失。あいつは、今日という日を以て焼身の刀となる。

 後先など考えず走り出した。線路を越えて住宅街へ、火の粉が舞う大通りは逃げ惑う民衆で塞がっている。路地裏は火に呑まれているか、瓦礫が折り重なって通れそうにない。必然的に、採るべき道は一つとなった。
 壁を蹴り、屋根から屋根へと飛び伝う。誰もが極限状態に陥っている今、空を駆る人影を気に掛ける余裕は無いだろう。俺はただ最速で、真っ直ぐ橋の向こう側を目指せばいい。

 叫号や強風に銃声を紛れさせ、放たれた弾丸が間近に迫る。切り捨てられた鉄の残骸が瓦に転がった。狙撃手は次弾を装填することなく、本来の得物を鞘走らせる。鈴なりに並ぶ穢刀どもを前に、俺も自らの白銀を喚び寄せた。
 毛先が剣圧によって煽られる。文字通り紙一重の攻防を繰り返し、太刀の脇腹を装甲ごと暴いた。血肉が地上に降り注ぐ前に、化生は霧散し東京の灰と混ざり合う。こいつらの目的は足止めだ。いちいち殲滅を試みていては間に合わない。

「邪魔をするなナマクラ!」

 骸の壁を一蹴。短刀自体は大した脅威ではないが、矮躯故に仕留めきれない個体はどうしても出てくる。凶刃から逃れたうちの一体が俺の腕に巻きついた。鋭い牙が血管を破る。
 激痛が走るよりも先に、左手に絡みつく頭蓋で振りかぶられた鋒を受け止めた。白骨が弾ける。次いで俺の頬を赤黒い飛沫が叩いた。切り捨てた打刀の腹を踏みつけ、再び先を急ぐ。

 息が切れる。動悸が激しい。遠征を想定し、刀装を身につけて来なかったのが仇となった。容易く傷つく肌を守ろうにも、盾が無ければ話にならない。遅れて意識した疼痛は体力の消耗に一役買った。
 追っ手を振り切り、向かいの建物目指して跳躍する。飛距離は十分だった。計算外だったのは足場の耐久性である。三度地盤を揺らされた家屋はとうに限界だった。
 突端に触れた直後、体重を支えきれず足場が一挙に崩壊する。咄嗟に飛び退いたが、方向も見定めず空に晒した俺の頭上では、大蜘蛛の足が獲物の首を狙っていた。

 どう、と脇差の屍が地に落つる。同じ運命を辿るはずだった俺の身体は、縦縞の布に包まれる形で九死に一生を得た。

「全く、とんだお披露目になっちゃったなあ」
 逆光の中で男が菅笠を引き上げる。露わになった黄金色に見下ろされ、俺は男が脱ぎ捨てた合羽をぎゅうと握りしめた。

「久しぶりだね、長谷部くん。少し目を離した間にえらく人気者になってしまって、彼氏としては誇らしくも複雑な気分だよ」
「ハッ、正直なところを申し上げろ。絶好のタイミングで助太刀をかまして、実はかなりテンション上がってるだろ?」
「いやだなあ長谷部くん、大当たり、だよッ!」

 手綱を荒々しく引かれ、馬の前脚が上がる。蹄の下にあった地面に矢が数本突き刺さった。
 民家の上に立つ影が続々と増える。銃を構え、矢を番える射手を無視し、馬は文字通りの炎天下を駆けた。

「どうしてお前がここに居るんだ!」
 障害物の多い悪路を強引に突っ切る。手綱をこちらに寄越し、俺の代わりに矢嵐を薙ぎ払う太刀に問うた。

「さて、これが僕にも解らないんだよね。本丸に帰還しようと装置を起動させたら、何の手違いか大正時代に飛ばされてしまったみたいだ。情報を集めようとした矢先に地震が起きるし、時間遡行軍は現れるし、本当踏んだり蹴ったりだよ」
「悲しいぐらい俺と似たような事情だな。新しい情報が何一つ出てこなかった」
「その代わり戦力の補強と足の確保はできただろう?」
「その足とやらはどこから盗んできたものなんだ?」
「人聞きが悪いなあ。壊れた乗合馬車の一頭を借りただけだよ」
 つまり軍馬としての訓練は受けていない。泰平に慣れた四つ足は、ただの銃声にすらひどく怯えを見せた。
 暴れ馬を御しつつ、拓けた道を探すのは中々に難しい。炎を避け、地割れを迂回し、東奔西走するうちに時間は刻一刻と過ぎていく。

「くそ、キリが無い!」
 前方から後方から、雑兵どもは際限なく増え続ける。歯を噛みしめ、思うは未だ距離の縮まらない橋向こうである。いっそ馬を捨て、迎撃に専念するべきか考えたときだった。

「長谷部くん」
「何だ、舌を噛まないよう手短に頼む!」
「吾妻橋の先、向島の邸。そこで落ち合おう」
 やにわに背を覆っていた体温が離れる。思いきり腹を蹴られ、甲高くいなないた馬が疾駆した。

「燭台切!」
 後方を顧みる。強引に下馬した男は、こちらを窺いもせず呑気に手を振っていた。
 天の一部に黒雲が集まる。それら全てが、たった一振りの太刀目掛け急降下した。剣戟の音が遠ざかる。勢い余って振り落とされぬよう、両足に力を込めた。

「後で会ったら覚えておけよ」
 もう振り返る必要は無い。刀身を振るう。火難を尽く避けてきた刃先は、橋梁の紅蓮を易々と切り裂いた。
 馬を放し、柵を跳び越える。半日ぶりに訪れた小梅邸は見る影も無くなっていた。強風が家屋の炎上を煽る。庭も長屋も洋館も、火気に包まれていない場所はない。黒ずんでいく柱を脇目に、ひたすら煉瓦造りの蔵を目指す。
 燭台切光忠が焼身となるのは厳然たる事実だ。刀剣男士として、その歴史を歪めるわけにはいかない。頭では解っていても、逸る足を止めることはできなかった。

「光忠! いるか光忠!」
 昨日と打って変わって、蔵は最も外側の扉まで閉め切られている。周辺まで火の手が回っているが、木造でないのが幸いしたのか煤で汚れている以外の変化は無い。ただ中は相当な高温となっていることだろう。刀身に負荷が掛かれば、付喪神にも影響が及ぶ。返事は正直期待できない。それでも俺は何度も男の名を呼んだ。

「はせ、べくん……?」
 執念が実を結び、扉の向こうから望んでいた音が返ってくる。弱々しく、掠れた声色は、数多の戦場を共にしてきた己ですら聞き覚えのないものだった。

「良かった、君は無事だったんだね」
「それはこっちの台詞だ。もう二度と話せないかと思ったぞ」
「あはは、心配させてごめんよ。でも外には、ちょっと、出られる格好をしてないから……お屋敷がどうなってるかだけでも、教えてもらっていいかな……」
 ふと扉に背を預け、蹲りながら話す黒い刀の姿が浮かんだ。おそらくこの想像は正しい。気丈に振る舞ってはいるが、今の燭台切は意識を保つのもやっとのはずだ。

「外は……火の海だな。本館も離れも、焼け落ちるのは時間の問題だろう。ただ、来る途中に死体は見かけなかった。住人は避難したと思って良さそうだ」
「そう……なら良かった。ここの家の人たちには、世話になってたからね」
 燭台切の相槌はたまに途切れ途切れになった。火が時折爆ぜるのも相俟って聴き取りづらい。戸前の段差に腰掛ければ、多少なりとも距離が近づいたのか声の鮮明さがやや増した。

「当分は君に紫苑を贈れそうにないなあ」
「気にするようなことか。そもそも、花を摘まねば薄れてしまうような感情なんて、有っても無くても大差ないだろう」
「趣ってものを解ってないねえ、さすが長谷部くん」
「そんなに褒めるな。照れるぞ」
「見えないけど、全く可愛げない顔してるのが一周回って可愛いやつだなって確信できた。ああ本調子ならなあ、思う存分抱きしめて頭撫でてるところなのになあ」
「それはまたの機会にやってくれ」
「よし、言質はとった。覚悟しといてくれよ長谷部くん」
「覚えてたらな」
 何気ない会話のつもりで俺はまた酷い約束を交わした。
 燭台切が今日のやりとりを掘り返すことは金輪際無いだろう。三百年以上も律儀に待ち続けた男が、肌まで許した相手を忘れるとは思い難い。あれの記憶が失われるとしたら、刀身の被災が原因に違いない。

「僕が君のことを忘れるはずないだろう」

 何も知らない男が、果たせるはずのない誓いを口にする。よりにもよって、この刀に永遠の不在を証明されるとは、皮肉が過ぎて笑ってしまいそうだ。

「たとえ燃えても、忘れるものか」
 戯言と流しかけた身が跳ねる。絞り出すがごとく紡がれた文句の意図を尋ねようとして、敵わず鞘を払った。
 弾いた鉛玉は二つ、南蛮胴で防いだものは一つ。煙の向こうで構える敵影は十を下らない。

 いいだろう、あれの目の前で先の追及するのは面倒だ。この程度俺ひとりで全て片付けてやる。水戸徳川家の至宝を、彼らが辿る歴史を蹂躙されてなるものか。

 

■■■

 

 有象無象という言葉が脳裏を過る。短刀や脇差の膂力ではこの身に傷一つ負わせられず、太刀や大太刀の機動では今の僕には遅すぎた。もはや敵の強みは数の多さくらいしか残っていない。いい加減に見飽きた面構えばかりだが、囮になった甲斐有って遡行軍は浅草側に留まっている。
 長谷部くんは過去の僕と落ち合っている時分だろうか。彼の視線が橋向こうの邸に注がれているのには気付いていた。燭台切光忠がこの先どのような運命を辿るか知っていながら、迷わず走り出したあの刀には感服させられる。もっとも、ふたりきりの時間はそう長くは作ってあげられそうにない。

 グローブに返り血を擦り付け、得物を構え直す。それにしても物量だけは大したものだ。いっそ落ちてる廃材でも振り回して一網打尽にしてやろうか。荒む僕の思考とは裏腹に、それまで愚直に突撃ばかり繰り返してきた敵方が妙に大人しくなる。

 波が一斉に引いた。異形の群れが撤退する先を目線で追う。打刀以上の長物は次元を裂き、別の時代へと還ったようだ。残留する短刀の何振りかは隅田川を下り、僕から離れていく。
 死にかけのかげろうじみた動きで、ふらふら宙を泳いでいた骸が急に尾を翻した。猛進する雑兵は僕の頭上を行き、河岸へと迫る。
 橋を渡らずに川沿いを進めば、山の宿の渡しへと行き着く。大災害の直後にも関わらず、今にも向こう岸へ漕ぎ出そうとする舟が一艘有った。

「ひ、ひぃいいい!」

 凶器を銜えた化け物に襲撃され、壮年の男が船底で暴れる。逃亡先に彼が選んだのは水中だった。しかし、狼狽するあまり身体が縁に引っかかり、敢えなく暗殺者に無防備な背中を晒す羽目になる。白骨の兵士が自らのあぎとごと標的へ鋒を向けた。
 舟がぐらぐらと揺らぐ。水上に浮かぶ足場は不安定で、飛び乗った途端に大きな波紋を作り出した。
 喉ごと貫いた刀を引き抜く。軽く腕を振って穢れた血を払い、上空の後続を睨めつけた。機先を制せなかった以上、非力な短刀が僕という守りを突破できるはずがない。暫し空中に漂っていた彼らも、そのうちに姿を消した。

「すまない、驚かせてしまったね」
「い、いや……助けて頂いてありがとうございます」
 腰を抜かしていた男性の手を取る。未曾有の災厄に引き続き、怪異に命を狙われ、彼は相当に参っているようだった。
 根気よく宥め、話のできるようになった頃には対岸の火もすっかり落ち着いていた。

「街がこんな有様なんだ。一人で出歩くのは感心しないなあ」
「はい……先程はその、大変お世話になりました」
「そうだ、君は向こう岸に渡りたいのかい? 僕もちょうどあちらに用が有るから漕ぐのは手伝うよ」

 僕の申し出は彼の意に合致したらしい。同船は快く受け入れられ、焼け落ちた橋の世話になることなく、邸の近くまで渡ることができた。
 想定外だったのは、下船した後のことである。あにはからんや、別れたはずの男性が徳川の邸に堂々と足を踏み入れている。

 ちり、と芯鉄が焦げつく。ああ、そうだ。彼は、職務に忠実で真面目な男は、そのひたむきさ故に死に至る。扉を開けたのは、彼だったのだ。
 小梅邸は一面焦土と化していた。使用人は沈痛な面持ちで灰燼積もる庭園を行く。右を見ても左を見ても炭しか転がっていない。かぶりを振り、彼は焼け落ちた洋館を回り込むように裏手へ進んだ。

「あなた!」
 蔵の無事を確かめようとした使用人を誰かが引き留める。この距離では上手く会話を拾えなかったが、どうやら二人は夫婦らしい。大地震や火事が相次ぎ、不安になった妻は職場に一人戻った夫が気がかりだったのだろう。避難所に戻るよう説得されても頑として首を振ろうとしない。とうとう男の方が根負けして、同行を許してしまった。

 寄り添う二人は、目的である宝物庫を前にして足を止めた。他の建物とは異なり、煉瓦造りの蔵は倒壊も炎上もしていない。しかし、使用人の男は糠喜びに浸ることも叶わなかった。
 厳重な扉を背に立っているのは、この大正の世にあって鎧に身を包んだ見知らぬ男である。この混乱だ、火事場泥棒を目論む輩がいてもおかしくはない。彼の不審者はさらに抜き身の刀まで携帯していた。 息を呑み、夫婦が警戒を強めるのは当然と言える。

「あ、あんた誰だ。徳川様のお屋敷に何の用がある」
 煤色の髪をした侵入者は何も言わない。弁明を一切口にしないまま、刀身を鞘に収めることなく使用人と対峙している。

「さては物盗りだな。だとしても諦めろ、その扉は刀で壊せるほど柔じゃない」
 声に恐怖を滲ませながらも、凶器を持った相手に丸腰で説得を試みる姿勢は中々に肝が据わっている。妻の方はと言えば、夫にしがみつき肩を震わせていた。
 下手すれば夫婦共々殺される。死に恐怖する婦女子としては相応の反応だろう。決して上手くはない芝居だったが、彼女の夫を騙すには十分だった。

 男の首に白い縄が絡みつく。骨でできた拘束具は捕らえた獲物を引き倒し、地面へとしたたかに打ち付けた。ぐぅ、と唸り声をあげたのを皮切りに男は身動ぎ一つしなくなる。気絶した夫の背に跨がり、妻は影に潜む伏兵より短刀を受け取った。

「武器を捨てて下さい。さもなければ、この人を刺します」
「立場が逆じゃないのか? それはお前の夫だろう」
「貴方たちが守りたいのは人命ではなく歴史でしょう。この人が蔵を開けなければ徳川宝剣の今後は変わる。それは政府としても看過すべからざる事態では?」
「そう言う貴様が守りたいのは人命のはずだ。手段のために目的である夫を殺して何になる」
「夫を殺せば徳川の秘宝は守られます。お役目のために命を賭し、その責任を果たした結果、守るべきものを己の手で壊したなんて最悪の未来は回避できます。誰も報われない歴史なんて消えた方が幸せでしょう。貴方だって、お仲間が焼け焦げ、刀としての死を迎えるのをただ見ているだけなんて、歯痒いとお思いのはずです」

 歴史の守り手に毒を含んだ甘言がもたらされる。ここで彼が見逃せば、徳川の刀は焼けず、善意の使用人が死ぬこともなく、あの女性も夫を失わずに済むだろう。紫苑に託した誓いが忘れられることもない。双方ともに利点しかない申し出だった。

 藤色の刀が俯く。刀を構えていた腕がだらりと垂れ下がった。交渉の成功を確信した細君は追い打ちとばかりに、再び言の葉を繰り出す。

「焼けた刀は刀ではない。価値も認められず、薄汚れた鉄の棒となってしまうのは武器として酷い辱めでありましょう。どうか、お仲間の矜恃を損なわぬ選択肢を今一度ご考慮下さいませ」
 飛礫が刃の中心部分に当たる。油断を突いたのも有るが、何より女性の握力では不意の衝撃に耐えられなかったようだ。
 彼女が取り落とした刀は影に拾われるも、その牙が倒れた男に刺さることは無かった。我が本丸きっての俊足は一瞬の隙さえ見過ごしはしない。使用人は無傷のまま、黒土の上に横たえられた。

「随分と焦らしてくれたな、また懲りもせず最も格好がつくタイミングを窺っていたのか?」
「それも有るけど、僕としては長谷部くんの口から答えが聞けるまで待ちたかったなって。最後のアプローチがあんまりだから、待ちきれず出てきちゃったけどね」
「そうか、お前が痺れを切らすのを待った俺の作戦勝ちだな」
「はは、じゃあ今回はそういうことにしておいてあげるよ」
 茂みから出で、黒漆の刀室から自らの得物を引き出す。
 審神者の力によって再現された鋼の輝きは、なるほど水戸徳川家の宝物と謳われるに相応しい。これを偽りや虚飾の美と捉えるかは人それぞれだろう。僕の答えは、決まっている。

「焼けた刀は刀ではない。確かにそう考える人もいるだろうね。僕らの価値は戦場でこそ発揮されるものだ。僕だって刀の時代が続いていれば、焼身の自分を嘆いたかもしれない。でも世に平穏が訪れ、刀が美術品となった後世、燭台切光忠は再び日の目を見た。焦げついた刀身に溶けたはばきを見て、この姿を日本刀だと、刀だと認めてくれた。何故だか解るかい。僕らの刀としての物語は、歴史は、決して見た目だけで紡がれてきたものではないからだ。薄汚れた鉄の棒になろうと、人は燭台切光忠を愛してくれている。だから僕は焼身の自分を恥じたりしない! 故に光忠が一振りの矜恃を損なわぬ選択肢は一つ! 僕らの通った歴史を否定すること、それ自体が男士への最大の侮辱になると知れ!」

 短刀が二振りで挟撃を仕掛けてくる。鞘で一方の眉間を打ち据え、もう一体は軸をずらしてこじりで頭蓋を砕いた。不意に視界が暗くなる。上空から脳天目掛けて振り下ろされた穂先を避ける。僕の代わりに地面には大穴が空いた。力自慢のつもりだというなら芸が無い。大震で脆くなっている土を抉って何が面白いというのか。

 続いて大太刀、薙刀が次元の割れ目から姿を現す。前者はこちらの首を狙い、後者は僕の一喝を受けてから放心している女性に向かっていった。
 離間の計成らず、兵を伏せる仮宿としての意味も失った。もはや女など用済みと言いたいのだろう。口封じとばかりに長刀の刃が嘗ての同志を手に掛けようとした。

「敵を前にして仲間割れとは余裕だなァ?」
 戦線に戻った相方が組み合わさった刀をじわじわと押し戻す。標的を仕留め損ない、焦れる薙刀は明らかに気圧されていた。

「おい女。夫を連れて逃げるなら今のうちだぞ。貴様らが居ようが居まいが、誰かがいずれ蔵を開ける。名も無き倉庫番の死など大勢には影響しない。仮にその男が歴史の流れにおいて重要な意味を持つならば、何度改変を繰り返したところで死は免れんだろう。俺は徳川宝剣の辿る歴史を守る。貴様も、一度人道を外れる覚悟をしたならば最後まで貫き通してみせろ!」

 呆けていた女性の二つ目に生気が宿る。倒れた夫を肩に担ぎ、牛歩ながらも彼女は戦場から少しずつ離れていった。

「本当に不器用だね、君は」
「手っ取り早くていいだろう。回りくどい言い方は苦手なんでな」

 大太刀を返り討ちにし、ついでに先程の槍にも奇襲のお礼参りを済ませた。協力者が去ってなお、遡行軍は未だ燭台切光忠の破壊を諦めていない。
 最愛の刀と背中を合わせる。相も変わらず敵の総数はこちらの上を行っている。ただし僕らは揃いも揃って、この状況を劣勢とは全く思っていなかった。

「久しぶりにやるか、首級争い」
「上等。今度こそ白黒つけようじゃないか」

 口角を吊り上げ、武器をゆるりと構える。僕らの踵が離れるのは、やはり今回も同じタイミングだった。

 

■■■

 

 いつの間にか伏せられていた瞼を開く。或いは夢の続きなのか、目に映る全ての光景が不明瞭だった。
 充満する熱気に鉛がごとく重たい身体。ああ、これはいっそ夢であってくれた方がありがたい。ようやく想いを遂げというのに、こんな無様な姿になってしまっては彼に合わせる顔が無いではないか。
 戦闘の気配は途絶えた。扉の向こうで起きていた血生臭い事態は収拾が付いたらしい。巻き込まれていてほしくはないけれど、それは難しい相談だろう。刀が戦の主役であった時代は終わったにも関わらず、再会した彼は常に武具を纏っていた。わざわざ過去へ赴いたくらいだ、彼には為すべきことが有るに違いない。外での一悶着もおそらくはその一環だ。ともすれば障害を排除した時点で目的達成となり、また元の時代に帰ってしまうかもしれない。

「みつただ」
 落ちかけていた意識が戻る。琵琶より鈴より心地よく、清涼で耳に染み渡る声。数百年焦がれ続けた響きが、扉越しに僕を呼んでいた。

「はせべくん、もう、だいじょうぶなのかい」
「ああ。もう外は落ち着いた。人が来るまでは、お前と話していられる」
「そっか。おつかれさま」
「ああ……それと、お前に伝えたいことが有る。ただこれは俺の我が儘だ。全てを打ち明けることで一方的に満足を得たいだけの行為だ。それでも良ければ、聞いてくれるか」
「好きな子のわがままなら、いくらでもきくさ。たとえば、僕がもえてまっくろな刀になってしまうというはなしでもね」

 見えなくても判る。きっと長谷部くんは藤色の綺麗な瞳を丸くして、僕の発言に息を呑んでいることだろう。

「どうして、そう思った」
「はじめにひっかかったのは、岐阜の城でのできごとをきみが忘れていたことかな。未来の僕と好きあってるなら、そのはなしをしないはずがない。わけあって黙っているのかとも考えたけど、なまずがあばれて、蔵からでられなくなったとき、思ったんだ。僕はもう、刀としては最期なのかもしれないって。でものちに、きみとはまた縁をむすぶことになる。そのときの僕は、なにもかもやけてしまって、まっさらになってしまってるかもしれない。だから、きみとのやくそくを、はなしたくてもはなせなかったんじゃないかって」

 舌がろくに回らず、つい訥々とした口調になってしまう。それでも長谷部くんは、強引に続きを促したり、茶々を入れたりせず、ただ静かに話を聞いてくれた。
 無言の聞き手は時折鼻を啜っている。その他、押し殺すような声は何かに塞がれたのか、さほど目立つことはなかった。
 別の神気が僕の知っている神気に寄り添っている。好きな子の頭を撫でてやれないもどかしさは、これでもう感じる必要は無い。

「ねえ、はせべくん。つぎにきみと会うときの僕は、かっこよかった?」
 今度は返事を待つ。彼が涙を乱暴に拭い、荒くなった息を整える間、僕は告白の後のように胸を膨らませた。

「ひとめぼれするくらい、かっこよかった」
 長谷部くんの答えは、まさに殺し文句と呼ぶに相応しかった。もう折れてもいい、なんてこれから先のことを考えると洒落にならないか。

「ふふ、ありがとう。それを聞けただけで、やけたとしても後悔はないよ」
「おまえはほんとうに、むかしから、かっこつけなんだな」
「とうぜんだろう? きみにはいっとう、よくおもわれたいんだ」

 ばか、と短い罵倒を最後に、長谷部くんとの会話は切り上げられた。後に残ったのは悲壮な嗚咽だけだ。これより先は僕の出る幕ではない。

「僕もそこにいるんだよね」
「ああ」
「ふるいやくそくと、あたらしいやくそく。どちらもきみにたくすよ。あとのことはよろしくね」
「ああ、任せてくれ」
 力強い応えを聞き、僕はやっと肩の力を抜くことができた。

「だいじょうぶだよ、はせべくん。僕はきみのことを忘れない、たとえもえても、くろがねにきざんだきおくはきえたりしない。だから、また会える日をたのしみにしているよ」

 目を閉じる。いつしか二つの神気は遠ざかり、代わりに別の足音が近づいてきた。
 薄暗い室内に光が差し込む。儚げな光帯はすぐさま別の閃光に上書きされた。
 世界が弾ける。瞬く間に膨れ上がった熱は、蔵の内も外も関係無く、全てを暴力の波濤へと巻き込んでいった。
 熱い。溶ける。苦しい。
 焦熱地獄に意識を浚われ、世界が赤から黒へと変わっていく。何もかもが泥濘に沈み行く中、僕は導かれるがごとく薄紫の破片を掴み取った。

 

■■■

 

 使用人が来る前に装置が作動し、僕たちは本丸へと帰還を果たした。
 遠征や修行先から定刻になっても戻らない二振りに対し、皆も相当に気を揉んでいたらしい。折角の新衣装を汚して帰ってきた僕らは、やはりと言うべきか問答無用で手入れ部屋に突っ込まれた。事情聴取もその際に進められたが、僕も長谷部くんもどうして大正時代に飛ばされたか判らず、詳しいことはまた後日と一旦保留にされた。

 戦闘の連続で疲弊していたこともあり、今宵の酒宴も延長である。お祭り好きと酒豪たちの嘆きが聞こえたが、長谷部くんの様子を鑑みるに、まだ騒ぐような心境にはなれないだろう。
 傷を治し、先に手入れを終えた長谷部くんを訪ねる。時刻はとうに日付を跨いでいた。相手が寝ていてもおかしくない頃合いだが、部屋の照明は未だ落とされていない。

「長谷部くん、今ちょっといいかな」
 入室の許可は無事に下りた。音を立てぬよう障子をずらせば、文机の前に陣取る黒衣の刀が目に入る。彼の手入れが終わったのは一時間以上も前のはずだ。

「変わった寝間着だね」
「どうにも眠れる気がしない」
「寝る気が無い、の間違いだろう。着替え出すから、その間に脱いでおいて」
「脱がしてくれ」
「子供じゃないんだから、着替えくらい自分でしようね」
「誘ってるんだが」
「僕に抱かれたいって話なら喜んで承諾するよ。慰めてほしいのなら今晩はしない。長谷部くんが眠れるまで、ずっと傍にいて、話を聞いてあげる。不安で人肌恋しいなら一晩中抱きしめているから、今夜はそれで手を打ってくれ」

 勝手知ったる相棒の部屋。迷わず桐箪笥を開けて夜着を差し出すも、長谷部くんは一向に脱ぐ様子が無い。
 仕方なしに布団の脇に服を置いて、彼の隣へ腰を下ろす。開かれた日記の一頁は白紙のままだった。

「お前と恋仲になってから毎日が楽しくて、すっかり忘れていたな。日記の内容は常に明るいことばかり書けるわけではないと」
 既視感ある呟きに春先のやりとりを振り返る。
 あの頃の長谷部くんは僕との関係に悩んでいて、日記の内容にも少なからずその傾向が表れていた。
 結論を出そうと焦る彼を宥めるにあたって、僕は一つ、贅沢な頼みごとをした。長谷部くんの言を顧みるに、件のお願いはつい先日まで叶えられていたらしい。ならば今日の日記に明るい話題を提供するのは僕の仕事だ。

「新婚旅行で行きたい場所が有るんだ」
「いきなりどうした」
「日記の内容で悩んでるみたいだから、助太刀しようかと思って」
「行ってきたわけでもないのに、今日の日記として書くのか?」
「そういう約束を交わした、ってことなら何の問題も無いだろう?」
「書くネタが無くて困ってるわけじゃないんだがな」
「そのせいで気分が落ち込んだら世話無いよ。前にも言ったじゃないか。僕のことを書くときぐらいは、思い返すだけでも笑ってしまうような、そんな楽しい出来事ばかりであってほしい、って。君は為すべきことを為した。後悔したり、ひとりで抱え込む必要は無い。過去はどうあれ、今の僕はこうして君の傍にいるわけだし、新婚生活への期待を一言添えて、めでたしめでたし、でいいんじゃないかな」

 言いたいことは言った。日記の持ち主はあくまでも長谷部くんなので、僕の案が採用されるかは彼次第である。机に頬杖ついて、白紙の帳面に文字を書き足されるのを気長に待つことにした。

「新郎殿は新婚旅行先にどこをご希望なんだ」
「気になるかい? なら耳を少し拝借」
「いや普通に話してくれればいいんだが。ああ、やりたいだけなんだな。まったく、しょうがないやつめ」

 口調の割に長谷部くんも満更ではなさそうだ。耳にかかる髪を避けて、剥き出しになった肌色に唇を寄せる。
 行き先を告げた途端、長谷部くんが勢いよく僕の方へ向き直った。目を白黒とさせる彼の反応が可愛くて、頬がだらしなく緩むのを自覚しながらも止められない。

「どうかな?」
 色好い返事を期待していたら、長谷部くんは答えそっちのけで卓上の桐細工に手を伸ばした。抽斗から取り出したるは、年明けに僕が贈った十字架。大切にされる代わりに中々日の目を見ない装飾は、珍しく持ち主の胸に宛がわれて銀のチェーンを揺らしていた。

「汝、病めるときも健やかなるときも」
「えっ、いきなり何だい」
「聞いての通り、誓いの言葉だ。俺はこの格好だし、ちょうどお前から貰ったこれも有るし、契りを交わすには持ってこいだろう」
「また急だなあ。焦らなくても式はいつでも挙げられるよ?」
「誰かさんが新婚旅行先にえらく趣味の良い場所を選んでくれたからな。待ちきれなくなったんだ」
「そんなに楽しみにしてくれると、こっちも張り切り甲斐が有るね」
「解ったらさっさと続きいくぞ。あー、富めるときも貧しきときも、相手を愛し、敬い、慈しむことを誓いますか」
「誓います」
「よし。ならば俺ことへし切長谷部は、燭台切光忠を伴侶とし、共に生涯変わらぬ忠義を主に尽くし、互いに切磋琢磨し、この身尽きるまで喜び悲しみを分かち合い、相手に対して誠実であり続けることを、ここに宣言する」
「なんか途中から選手宣誓みたくなってなかった?」
「初夜なんて実質スポーツ耐久戦みたいなものだろ」

 欠片も情緒を感じさせない誓約の儀が終わる。格好はつかないが、僕らの場合はこれで良いのだとも思う。
 そもそも、初めて本音をぶつけ合った日から喜怒哀楽をありのままに共有してきた仲だ。心構えはともかく、在り方は以前とさして変わらないだろう。

「えーでは、最後に誓いの口づけを」
 にわか神父が十字架の先で自らの唇を突く。促されるがまま、幾度も触れた薄紅色に自らの肌を重ねた。ただ身体の一部を合わせただけで甘美な痺れが全身に行き渡る。
 修行中はご無沙汰だったためか、火が点くのもいつになく早い。勢い貪ってしまいそうな温もりから離れる。吐息が混ざり合う程度の距離は、伸びてきた両腕によって再び無くなった。

「ん、ンぁ、しょく、らいきり」

 ぬるりと差し込まれた舌が僕の咥内を探る。うなじを撫でる手つきは優しいが、一方で背中を押さえつける力は強い。
 畳に横たわる長谷部くんを組み敷きながら、実際に襲われているのは僕の方だった。唾液を渡し、渡される。互いの神気を交換するうちに、遠慮なんて考える方が馬鹿らしくなった。
 絡みつく舌を捕らえ、その先端に吸いつく。あれほど積極的だったのに、僕から攻められた途端に長谷部くんの身体は硬直した。
 柔らかな肉を嬲りつつ、細い腰の稜線をなぞる。さらにその下の双丘は、僕の掌に収まってしまいそうなほど小さい。揉み込み、感触を楽しんでいると僕を挟む両脚が震えた。その間に兆し始めた雄を押しつける。
 ごり、と硬くなった性器同士が擦れ、長谷部くんの腰が跳ねた。その拍子に唇が離れる。喘ぎ喘ぎ呼吸する彼の口端から、僕のものとも長谷部くんのものともつかない雫が伝っていた。

「誓いのキスで舌を入れるなんて、いけない新婦さんだね」
「ふ、初夜をすっぽかそうとする酷い旦那様にもの申したまでだ」
「もの申してなかったよ。寧ろ口封じを仕掛けてきたよ、この嫁」
「それで? 俺の直談判は受け入れられたのか?」
「さあ。結果は布団を敷いてから教えようかな」

 敷布の上に長谷部くんを転がし、彼を跨ぐ形で服を脱いでいく。
 手入れから間もなくこちらを訪ねたせいで、重苦しい防具は無いにしろ僕も戦装束のままだった。梅の意匠をあしらったコートに臙脂色のベスト。イメージチェンジした僕を愛しい刀の目に焼き付けるべく、多少勿体つけて、わざと性感を煽るような脱ぎ方をした。長谷部くんの喉仏が上下する。熱視線に応えて上体を屈し、彼の胸板にネクタイを垂らした。結び目を緩め、長い一本の紐となった布がぐいと掴まれる。

「よく見たら、オシャレ眼帯も前と少し違うんだな」
「あ、気付いてくれた?」
「さすがに毎日見てればな。まあ鬱陶しい前髪のせいでほぼ隠れてるんだが」
「見えないところにも気を遣うのが本当のオシャレだよ」
「はいはい」

 曰く鬱陶しい前髪の下に彼の指が滑り込む。耳の裏を通り、僕の後頭部を包んだ両の手が探るように動いた。かち、という音を皮切りに微かな圧迫感から解放される。
 眼帯を外そうと僕の視界が広がることはない。この右目は何者も映さない。左の黄金色とは異なり、淡い紫色を宿した眼球は飾りも同然だった。
 隻眼が元の主に由来するものか、その他に理由が有るのかは僕も把握していない。どうせ使い物にならないならと、普段は政宗公にあやかって眼帯で覆っている。己以外にこの右目の秘密を知っているのは、長谷部くんだけだ。

「昔のお前は、両目とも金色の輝く目をしていた」
「へえ。長谷部くんは片方だけじゃ不服かい?」
「いや、この紫色も悪くない。俺とお揃いだしな」
「急に可愛くなるのはレギュレーション違反です」

 眼帯を弄ぶ右手、綺麗な形をした額、しばしば突拍子のないことを言い出す唇。長谷部くんの全てを余すことなく愛でるつもりで口づける。
 ボタンに手を掛け、隙無く着込んだ衣服を剥いでいく過程はいつ臨んでも楽しい。この潔癖で清廉そうな刀を好きにできるのは自分だけだと思うと尚更だった。

「修行中は退屈しなかったけど、君に触れられないのは寂しかったな。強くなった僕を早く長谷部くんにお披露目したいな、ってずっと考えていたよ」
「は、そのせいで、ふたり揃って想定外の時代に飛ばされたんじゃないのか」
「そんなことができるなら、僕らだけしか入れない神域でも作って蜜月を過ごすよ。まあ、やれたとしてもしないけどね」
 確かに、長谷部くんを自分だけのものにしたいという欲求が湧いたことは一度や二度ではない。でも彼は主の一番を望みながら、その実とても貪欲で、懐に入れたものを手放せない性分でもある。不器用だけれど優しくて、誰かの悲しみにそっと寄り添って自らも傷つくような繊細さを持っている。僕はそんな彼の美点を損ないたくはなかった。
 それに長谷部くんの帰ってくるのは僕の傍ではなく、僕も含めた仲間たちや主のいるこの本丸であってほしい。

「そうだ、言い忘れてた」
「なにを?」
「ただいま、長谷部くん」
 大正での一件で有耶無耶になっていた挨拶を口にする。あまりに脈絡がなかったせいか、長谷部くんも目を見開き、暫し二の句が継げずにいた。
 やがて我に返った彼が手で面を隠し、くつくと忍び笑いを漏らす。

「おかえり、伊達男」

 蜜を得た藤色が綻ぶ。温かな抱擁に出迎えられ、僕はようやく帰ってきた喜びを噛みしめた。

 抱えた足が頻りに弾む。抱き寄せた身体はどこもかしこも熱い。貫いた後に長谷部くんが、あつい、とける、と譫言のように訴えてきたが、僕からすれば溶けそうなのはこちらの方だった。

「あ、はあぁ……はら、おもい。むり、おれる……」
「こら物騒なこと言わない。僕でここいっぱいにするの、好きだろう?」
 とんとん、と下腹を突くと肉鞘が収縮し、内側の雄を締め付けた。なんとか踏み止まって射精を免れる。
 どうせなら離れていた時間の分だけ、たっぷり長谷部くんを味わいたい。何度も極めさせ、すっかり男の形に馴染んだ奥に子種を叩きつけて、全て僕で満たしてやりたい。長谷部くんが孕んでしまうと錯覚するほどに注ぎ込んで、彼の中に自らを刻みつけたい。ああ、いっそ本当にみごもってしまえばいいのに。

「ッ……! やめ、おく、ばっかつつくなぁ……!」
「えっ、ああごめん。長谷部くんが孕まないかなあって考えてたらつい」
「本気かそうじゃないかわかりづらい冗談はやめろ……」
「もちろん本気だよ」
 ぐちゅ、と結合部から水音が立つ。強ばる四肢に構わず、後ろから限界まで突き入れた。弓反りになる身体を押さえ、濡れそぼった隧道を掻き回す。

「ア、アアッ! やら、ふかいィ……! だか、おく、らめらってェ……! ァ、はぁ、おかしく、なる……!」
「あは。長谷部くんかーわいい……いいよ、僕でいっぱいおかしくなってくれ」
「ひッ、ああァア! だめ、おくっはい、やあああああ!」
 執拗に壁を突いていた先端がさらに奥へと入り込む。雁首を包む肉の輪と、絶頂に震える襞がもたらす官能は相当なものだった。正直これで道連れにされなかった自分に驚きである。

「ァ、は――だめ、っていったのに」
 恨みがましい視線を向けられるも、赤く染まった目尻に上気した肌では、いかんせん迫力に欠ける。ただ無理をさせたことは事実なので、僕も素直に謝った。

「ごめんね、どうしても長谷部くんのここまで可愛がりたくて」
「ン、い、いやではないが、もうすこし、ゆっくりしてくれるとありがたい……」
「ああ、大丈夫。しばらくは動かないから」
 弛緩する身体を抱き、肌と肌とを触れ合わせたまま寝そべる。長谷部くんの肩口に顔を埋めると、仄かに甘い香りが鼻腔を擽った。

「なあベッドヤクザ」
「何だい子猫ちゃん」
「とうとう否定しなくなったな……手紙で、修行先は他にも候補が有ったと書いていたが、水戸徳川家もその一つだったか?」
「そうだね。やっぱり長くお世話になっていた家でもあるし」
「燃えた記憶を探ろうとは思わなかったのか?」

 問われて、数秒ほど黙考する。刀剣男士の修行はいわゆる武者修行というより、自らの根源を見つめ直す旅といった意味合いが強い。
 燭台切光忠の物語は伊達から始まるとしても、今の僕に繋がる工程として、水戸徳川家を外すことはできないし、焼かれた記憶は長船派の祖という意識の土台になっていたはずだ。長谷部くんとて、織田時代の思い出を僕と共有したかったことだろう。
 それでも僕は、迷うことなく仙台を修行の地に選んだ。

「本当に取り戻せないものなら、拘ったって仕方ないだろう? 僕が欲したのは、過去を通して未来に繋がる物語だ。歴史を守る刀の付喪神として、自らの在り方を確かめるには仙台が最も適当だった。僕は今でもこの選択は正しかったと思うよ」

 顎を捉え、振り向いた長谷部くんと額を突き合わせる。過去を忘れたくとも忘れられない、情に深い刀のために、僕は笑って言葉を継ぎ足した。

「それに別れる前の僕だって言っていたじゃないか。たとえ燃えたとしてもくろがねに刻んだ記憶は消えたりしない、って。君の選んだ刀は約束を違えなかったと、どれだけ時間を掛けようと必ず証明してあげるよ」

 根拠もなく法螺を吹いているわけではない。昔の自分に意志を託されてから、僕は忘れていたことを忘れなくなった。全身を引き裂くような激痛も今は感じない。全てを思い出す日も、きっと遠くはないのだろう。

「ふ、はは。大きくでたなあ、いいのか? 期待してしまうぞ」
「そう言われて応えない男だと思うかい?」
「応えなければ、ご自慢の逸物を圧し切ってやるまでだ」
「ううん、それで困るのはどっちだろうね」

 軽く引いた腰を再び打ち付ける。甘い悲鳴をあげる長谷部くんをひっくり返し、彼の鎖骨から腹筋まで、人差し指で一筋、線を描いた。

「そろそろ休憩はお終い。初めてのときから僕がどのくらい経験を積んだか、身を以て味わってもらおうかな」
 快感に濡れていた双眸に恐怖の色が滲む。
 いくら手入れで大概の情痕が消えるといっても、身体の奥深くまで染みこんだ神気までは誤魔化せない。四日ぶりに触れるはずなのに、彼の中から自分の名残を見つけたときにはさすがに察しが付いた。我ながら侮れないというか、抜け目が無いというか。いずれにせよ、僕の対抗心を煽るには十分だった。

「あ、相手はお前だから浮気じゃないぞ」
「うんうん、解ってるよ。この本丸で初めてしたときも、余裕が無くてがっついてしまったからね。肉の悦びを知らない頃の僕なんて尚更だろう。だから――今夜は全力で、長谷部くんを蕩けさせてあげる」

 根元まで埋めた刀身をゆっくり抜き、離れる寸前で一気に奥まで収める。先端で結腸を小突き、気まぐれに前立腺を責めた。
 穿たれることに慣れた身体は多少乱暴に扱っても優に快楽を拾う。痛覚と性感の境界を見極めながら、戦く粘膜を執拗に抉った。

「アッあッ! しょく、やあぁ、イィっ! そこ、よすぎてッわけわかんな、ヒッぁ、むねだめ、じんじんするぅ……!」
 腰の動きはそのままに、先の体位では触れづらかった胸も可愛がる。ぴんと主張する突起を摘まみ、潰し、舐めてやれば、下の窮屈さもより増した。
 長谷部くんの口から漏れるのはもはや意味不明な母音の羅列のみだ。背を大きく反らし、もっと弄ってとばかりに突き出された胸は、唾液でぬらぬらと光っている。支配欲を満たす光景に、あと一歩でお預けを喰らい続けた欲望が体積を増した。

「ふッ、はせべくん、いいよッ……あともうちょっと頑張ったら、いっぱいご褒美あげるからね……!」
「うん、ほしいッ……おく、あつくてどろどろなの、おれのなかにくれッ……!」
 長谷部くんの足が絡みついて、密着を迫ってくる。望まれるままに覆い被さり、ひたすら遂情に向けて腰を振った。ふたりの間に挟まれた長谷部くんの中心も硬く滾っている。己の下で震える性器を掴み、律動に合わせて上下に扱いた。

「ッぁ!? や、そんな、いっしょはむ、りぃッ! あッああぁあ、しょくら、きひ、くる、すごいの、くるぅッ……!」
 戦慄く後孔を串刺しにし、こじ開けた狭い口の先に潜り込む。組み付いた双脚が僕の腰を固定し、今度こそ逃すまいと男の精をねだってきた。

「く、ッ、はせべくん、ほらご褒美だよ……ちゃんと全部、のみこんでねッ!」
「ひ、ぁあああああッ!」

 ちかちかと瞼の裏が明滅し、脱力する。溜まり溜まった白濁は長谷部くんの中に残らず注がれ、新旧の神気が一つの器の中で混ざり合った。
 彼我の境目が無くなり、与えた分だけ与えられる。乾いた大地がどこまでも水を吸うように、交わした金と紫の精気が隅々に行き渡った。

「はぁ、あ……? 燭台切……?」

 長谷部くんが困惑も露わにこちらを見上げている。おそるおそるといった調子で彼の指が僕の頬に触れた。それから掌を寝かせ、長い前髪を掬い上げる。飾り物の右目が表に晒されると、長谷部くんはますます驚愕の色を強くした。

「金色になってる」

 言われて姿見を一瞥する。以前に僕が贈った全身鏡には、金の二つ目を持った男がはっきりと映っていた。
 違和感は無く、寧ろ腑に落ちた心地すらする。首をめぐらし、墨色の一輪挿しに生けられた薄紫を眺めやった。
 ああ、そうだ。燃え盛る蔵の中掴んだ希望の灯は、間違いなくあの形をしていた。

「長谷部くん!」
 衝動に任せて目の前の刀を掻き抱く。苦しげな声が上がったのも無視して、僕は長谷部くんの上体を起こし、柔らかな直毛の感触を手で梳いて楽しんだ。

「いきなりどうした、突然のホラー展開に正気でも失ったのか」
「あれ、忘れたのかい? 本調子になったら、思う存分抱きしめて頭を撫でるって約束したじゃないか」

 三百年越しに念願叶って上機嫌の僕と、まるで理解が追いついてない表情をする長谷部くん。随分な温度差だけれども、そのうちに足並みも揃うだろう。
 何が目的だったかは知らないが、僕と長谷部くんを大正の世へ送り込んだ誰かには感謝しなければならない。ずっと愛しい刀を待ち続けた僕が本懐を遂げなければ、焼ける己の意志を継ぐ僕がいなければ、右の目に秘めた記憶は二度と一つには戻らなかったはずだ。

「これでやっと君に紫苑を贈れるよ、へし切くん」

 懐かしい呼称を聞き、ようやく長谷部くんの中で昔と今の僕が繋がったらしい。抱擁に応える彼の肩越しに卓上の紫苑を窺う。

 暦は九月。これから盛りとなる紫の花を探すには、うってつけだった。

 

■■■

 

 令和二年三月。まだまだ肌寒い時分ながら、随所に春の息吹が感じられる。車窓の外で流れる景色では、旬を迎えた梅が水戸の地を彩っていた。

 バスから降りて、少し歩く。梅祭りの時期ではあるが、目的の施設は思ったより空いていた。わざわざ平日に来ただけのことはある。これで人混みを気にすることなく、ゆっくり館内を廻れるだろう。
 まずは順路に従って展示を楽しみ、それなりに時間を費やした後で最奥のエリアまで進む。そのガラスケースは大広間に出てすぐ、一際目立つ位置にあった。

 黒く焼け焦げた刀身。鎺は溶けて、純金が茎の部分に散っている。仮にこの刀を振るったとしても、斬れるものは何一つ無いだろう。

 ――新婚旅行は令和の水戸に行こう。鉄の塊になってなお日本刀として認められた僕の姿を、君にも見てほしいな。

 燭台切光忠の現在を前に、僕は長谷部くんと並び立つ。乱世では決して価値を認められなかっただろう焼刀に対し、己が持つ感想は今も昔も変わらず一つだけだ。

「どうだい、格好いいだろう」

 同意を求めれば、最愛の伴侶が笑って頷く。

「ああ、俺の光忠は世界一格好いい」

 どちらともなく手を繋ぐ。静かな展示室で、僕らは暫く寄り添ったまま焼身の刀を見つめていた。

 僕を語り継ぎ、その在り方を良しとする者が居る限り、燭台切光忠が折れることはない。僕を愛してくれた人たちのために、隣に立つ刀のために、僕はこれからも戦い続けよう。たとえ切れなくなっても、燭台切光忠は刀なのだから。