そして僕らは夢から覚めた

 

 

 どうして友という間柄では満足できなかったのだろう。常に傍らにあり、四季の移ろいを楽しみ、背中を預ける喜びを味わうだけなら、恋仲である必要などない。
 戯れに交換し合った氷菓がいけなかったのか。或いは水遊びの最中に透けた身体が、己よりずっと逞しかったのがいけなかったのか。
 きっと眩しすぎる夏の日差しが刀をも狂わせたに違いない。あれから俺は、親友に組み敷かれ、獣同然に喘ぐ夢ばかり見ている。

 

◇◇◇

 

 長雨が終わり、分厚い雲は千切れて東の空へと流れていく。庭先を眺めれば、枝の合間に張られた蜘蛛の巣に水滴が浮かんでいた。
 実に三日ぶりの青天であった。本日の洗濯係、歌仙と山姥切は庭先でシーツの波に埋もれている。免除されていた畑当番も再開となり、獅子王や御手杵といった面々から悲壮な声が上がった。
 補足しておくなら、雨との別離を惜しむ者はごくごく少数派である。買い出し班として万屋を訪れた二振りも例外ではない。長い脚で水溜まりを跨ぎながら、燭台切たちは早々に目的を達成した。

「長谷部くん、どれがいい?」
「ダッツなら何でも」
「カップ系は歩いて食べられないから却下」
「買い食いは行儀が悪いぞ」
「まあまあ、これぞ夏の醍醐味だろう? 僕はコーヒーにしておくよ」
「尽くすタイプの俺は亭主関白な彼氏の横暴に抗えず、渋々グレープ味のチューチューを手に取るのだった」
 長谷部はいそいそと冷凍庫へ腕を伸ばし、自分の分を確保した。店外に出たふたりは、ほぼ同時に袋を破る。そうして見た目こそ成人男性の刀たちは、氷菓を頬張り部活帰りの中学生もかくやという姿を周囲に晒した。

「アイスが美味しい季節になったねえ、長谷部くん」
「そうだな、グレープも美味いが他の味も捨てがたい」
「太陽より隣の熱視線に焼かれそう」
 素よりシェアのために選んだチューブアイスである。汗を掻き始めた小麦色の棒を差し出すのに否やはない。

 燭台切は淀みなく相棒の唇をアイスで突き、長谷部もまた当然のようにコーヒー味の甘味を口内へと運んだ。同様に、残り半分となった葡萄色の氷菓も燭台切の手元へと渡る。
 この間、特別会話はない。ふたりで迎える夏も今年で三度目だ。余計な言葉を重ねずとも、相手が何を求め、何を与えようとしているか、互いに肌で感じていた。

「あっ、しまった」
「何だ。買い忘れでもあったか?」
「いや、恋人同士の作法らしい、はいあーんってやつをやり損ねたと思って」
「安心しろ、ちょうど今お前のうっかりに大々的な感謝を捧げているところだ」
「ええ? 長谷部くん、結構こういうの好きだろう」
「頭の中お花畑か? 俺はそんなバカップルまっしぐらな所業御免被る」
「はい、あーん」
「お前って結構ひとの話聞かないよな」
「強引に迫られるのも嫌いじゃないって知ってるからね。何なら君の声がもっと聴けるように、膝枕からの耳掃除してくれてもいいんだけど」

 長所はおろか短所も知り尽くした仲だ。燭台切が一度こうと決めたら絶対に退かない刀であることは、長谷部も重々承知している。
 細長い容器の先がてらりと光った。先程まで燭台切が咥えていた薄いプラスチックには、男の歯形さえ残っていて、余計に長谷部の胸をざわつかせる。
 煤色の髪が前後左右に揺れる。誰もこちらを見る者がいないことを確認し、長谷部はままよとチューブの先端に齧りついた。

「美味しいかい?」
「……よくわからん」
「もう一回行っとく?」
「はっ、いいのか? せっかくシェアしたグレープ味が全部俺の腹に収まるぞ」
「構わないよ。今の長谷部くんの舌はきっと葡萄の味がするだろうし」
「それは街中でするなよ、絶対するなよ」
 抗議する長谷部の頬は赤い。本当に嫌なら、燭台切の提案になど構わず、歩調を速めてさっさと本丸へ帰っていたことだろう。何のかんの言いつつ、こいびとの口車に乗せられているのは長谷部自身の意志でもある。

「俺にばかり業を背負わせるな。連帯責任だぞ彼氏」
 刀の切っ先を突きつけるがごとく、長谷部は手にしたアイスを燭台切の顎先に押しやった。取り繕った笑顔は口の端が震えて、今にも崩れそうになっている。
「例の台詞は?」
「今すぐあーんしろ、ダーリン♡」
「うーん、面白いからいっか」
 仕返しとはいえ、楽しんでいなければ曰くバカップルの真似事に当の長谷部が加担するはずもない。

 親友であった頃も似たようなことはあった。アイスを分け合い、同じ杯で酒を飲み交わすことなど日常茶飯事だったと言っていい。
 しかし、始めは肩書きでしなかった恋仲という関係が名実を伴うにつれ、燭台切の見る世界は変わった。
 さりげない挨拶、かち合う視線。それら全てに微妙な熱が含まれていることを、以前の燭台切ではとても理解できなかったはずだ。
 昔の自分はなんと滑稽だったのだろう。想いに応えた長谷部がどれほど綺麗に笑うかも知らず、友という地位に甘んじていられた己が信じられない。在りし日を省み、燭台切は下唇を舐めた。

「全く、好奇心旺盛な彼氏を持つと苦労するなァ」
 報復を終えた長谷部が前を向く。仄かに上がった語尾はご機嫌な証拠だった。意外に少女趣味である打刀は、一連のやりとりを大層気に示したらしい。

(もっと早く、気付いてあげられたら)
 三度目と言わず、昨年の夏には長谷部の望みを叶えてやれたかもしれない。
 街路樹に止まった蝉が鳴き出す。けたたましい風物詩は一時の夢想を打ち破るに十分だった。

「まだ時間あるし、みんなにお土産でも買っていこう」
 ふたりきりの時間を延ばすべく、燭台切は尤もらしい理由を述べてこいびとを口説いた。男の真意を見抜けぬほど、長谷部も鈍くはない。
「ああ。主が喜びそうな品を探そう」
 石畳に落ちた影が寄り添い、一つになる。

 大量のゼリーを抱え、燭台切らが本丸に帰還したのは陽が落ちかけた頃合いだった。
 日中に歩き回り、さらに短時間の遠征を挟めば、体力自慢の男士でも消耗はする。ドライヤーから寝床の支度まで燭台切に世話してもらったものの、長谷部の意識は今にも現実から切り離されそうだった。

「そこはお布団じゃないね、長谷部くん」
「いま布団のやわらかさを味わったら秒でねる……」
「寝ればいいじゃないか。眠いのはお疲れの証拠だよ」
「寝たらまぐわえないぞ」
「既にくたくたの君に無理強いするつもりはありません。ほら、今日は一緒に眠るだけにしよう」
「おまえ知らないのか、俺はえっちな長谷部くんだぞ」
「知ってるよ」
「据え膳」
「よし電気消すよ、おやすみ」
 大の字になるこいびとを褥に転がし、燭台切は部屋の灯りを落とした。なおも抵抗する長谷部だったが、睡魔と背を撫でてあやす燭台切の手管には勝てなかった。

 静かな寝息が男の喉元を気まぐれにくすぐる。
 愛しい刀の腕を枕に、長谷部は夢想の世界を揺蕩っていた。眉間の皺は失せ、勝ち気な吊り眉はすっかり垂れ下がっている。平素の長谷部を知る者が見たらさぞ驚くだろう。もっとも、そのような機会を燭台切が許すはずもない。
 この苛烈にして繊細な刀を腕に抱けるのは、恋仲たる自分だけの特権だ。他の誰にも、それこそ想像上の自分にすら譲るつもりはない。

 長谷部が選んだのは現実の燭台切である。仮に長船と夢の中で再会したとして、彼と睦言を交わすのは長谷部であって長谷部ではない。箱庭は隠れ蓑としての役割を終えた。彼らの時は長谷部が目を覚ますたびに針を進め、やがて現実同様、秋を迎えることだろう。夢の住人たちの物語にまで口を出すのは、さすがに大人げない。

「夢の中でもお前に会えるのは悪くない」
 そう長谷部に微笑まれて釘を刺されては、燭台切としても頷くしかない。というのが妥協の真相だが、これは余談である。
 穏やかに眠るこいびとは、瞼の裏でいったい何を思い描いているのだろう。長谷部以外には執着せず、眠りも深い質だったためか、燭台切はとんと夢に縁がなかった。

(どうせ見るなら、長谷部くんの夢がいいな)
 傍にある温もりを引き寄せ、男もまた黄金の一つ目を閉ざす。微かに藤の匂いが香るや、燭台切の意識は水中に溶けるがごとく、うつつから遠ざかっていった。

 

◆◆◆

 

 風鈴が鳴った。庇の下では、刀が二振り並んで夕涼みに興じている。手合わせを終え、燭台切と長谷部は一服とばかりに氷室からアイスを拝借していた。

「チューチューが在庫切れとは誤算だった」
「夏場のアイスは陽炎がごとしだね。補充しても次の日には綺麗さっぱり無くなってるから見事だ」
「やっぱり専用の冷蔵庫を自室に置くべきだな」
「置いてくれたら毎日通うよ」
「バレたら悲惨だからな。誰もいない時間に来いよ」
「いいね。僕らだけの秘密にしておこう」
 しゃく、と小気味良い音が立つ。氷塊の断面には紫色のラムネが埋まっていた。燭台切の咥内に炭酸の甘みがじわりと広がっていく。
 腑に落ちない。不審に思って、燭台切は隣に座る男を横目に見遣った。ソーダ味のアイスは、チューブタイプに次ぐ長谷部のお気に入りだったはずだ。奇妙なことに、半ばを過ぎた辺りで彼の手は止まっている。

「どうしたんだい、長谷部くん。お腹でも冷えた?」
「いや……何でもない」
 燭台切の懸念を否定しつつも、長谷部はやはり手元の氷菓を口に運ぼうとしない。とうとう水色の氷菓子から雫がつう、と伝い始めた。

「危ない」
 燭台切は咄嗟に長谷部の手首を掴み、垂れかけた甘露ごとアイスを食んだ。久しく斜陽に晒された氷は脆く、歯を立てた途端に崩れ落ちる。燭台切が口を離す頃には、ほぼ木の棒しか残されていなかった。

「ごめんね。手が汚れると思ってつい」
「いや、ぼうっとしていた俺が悪い。気にするな」
 そう断るなり、長谷部は面を伏せた。俯いた視線の先には、うっすら濡れたアイスの棒だけがある。
 どうにも歯切れが悪い。長谷部が好物を忘れて呆けていた理由とは何だったのか。こちらから説明を促すのも無粋だと燭台切は敢えて口を噤んだが、配慮も虚しく、いたずらに沈黙が続くばかりだった。

 時間にすれば、一分にも満たなかったかもしれない。しかしながら、燭台切はこれ以上待つ気は毛頭なかった。傍に自分がいるにもかかわらず、物思いに耽る長谷部がどうにも気にくわない。腹の底がぐつぐつ煮えるような心地がする。燭台切は、その感情の名前を知っていた。
 長谷部の視界から西日が消える。覆い被さる黒い影は光はおろか、呼吸さえも男から奪った。ほんのり湿った唇は柔らかく、少し冷たい。ソーダ味の口吸いを終え、燭台切が見た長谷部の顔は、夕日よりも赤かった。

「おま、なん、いまなにを」
「何って、キス」
「あああああちがうそうじゃない、いきなり何をしでかしてくれたんだ、また例の発作か!? 最近見たドラマか映画に影響されたってオチだな!?」
「僕を幼児か何かと勘違いしてない? 興味本位でしていい行為じゃないことくらい知ってるよ」
「故意犯だと。尚更に質が悪い」
「いい性格してるって自覚はあるけどね」
 燭台切がすかさず長谷部の肩を掴む。相手を見据える金色のまなこは、戦場よりも昏く重い光を湛えていた。
 退路が断たれたことを長谷部は遅れて理解する。

「長谷部くんだけだ。口を吸いたいと思うのも、僕だけを見ていてほしいと思うのも、ひとりで悩みを抱え込む君に頼られたいと思うのも。全部、ぜんぶ長谷部くんにだけ覚える感情だ。こうした一連の衝動がどういう名前で呼ばれているか、君も知っているんだろう」
 怒濤の告白を浴び、長谷部はくらりと眩暈に襲われた。都合の良い夢を見ているのではないか。頬をつねりたくとも、上から押さえつけられた両腕は動かない。
 この本丸の燭台切はとかく情緒に疎い。傍目には器用に立ち回ってみせるも、その本質はどこまでも刀だった。長谷部との交流でようやく友情に目覚めたものの、恋心が芽生える様子はまるで無かったはずである。

「うそだ、そんなの、俺は信じない」
「なら、どうすれば信じてくれるかな」
 黒く、大きな掌が、堅く握られた長谷部の拳をそっと包み込む。男の温もりを思い、無意識に縋っていた木の棒が長谷部の手からこぼれ落ちた。

「一言、欲しい。ずっとお前に言われたかった。たった二、三文字の、実に陳腐で、ありふれた文句だ」
 燭台切に言葉を請う声は、いつになく辿々しい。眉をひそめ、長谷部は謎かけの答えを心待ちにした。

「すきだ」
 薄紫の双眸に張った膜が盛り上がる。溢れ出した水がみるみる両頬を濡らし、長谷部はすぐに目を開けていられなくなった。

「誰よりも何よりも、狂おしいほどに君のことがすきだ。どうか僕を信じて、僕の手を取ってくれないか」

 重ねた手とは別の、もう一方の指先が長谷部の目尻を拭う。拾い上げた落涙が、今度は黒革を伝って地を濡らした。いくら燭台切が慰めようと藤色の瞳は乾かない。優しくされればされるほど、反って涙が止まらなくなるので、長谷部は言われたとおりに男の手を取った。

 

◇◇◇

「起きたか」
 どこか弾むような声だった。徐に目蓋を開けた燭台切の視界に、すっかり身支度を調えた長谷部が映り込む。

 二振りとも朝は早い方だった。私生活でも怠慢を嫌う刀と、格好に拘る伊達者の組み合わせであるから、特別不思議な話ではない。起床する順番も日によって違う。同衾すれば寝付く頃合いも変わらないので、実は相手の寝顔をじっくり観察する機会は意外に少ない。
 こいびとの胸に頬杖突き、未だ微睡みより脱けきっていない黄金色を、長谷部が熱心に眺めているのは、そういう理由からであった。

「珍しいなあ、格好付けのお前が寝坊なんて」
 曙光に満たされた室内は明るく、時刻は七時を回っていた。幸い早朝からの予定は入っていないが、出陣まで布団の世話になるのは論外である。燭台切はのし掛かるこいびとごと上体を起こし、早々に寝床を片付けた。

「夢を見ていたせいかな」
「夢? どんな?」
 渡されたシャツに袖を通しながら、燭台切は思案する。没頭するほど、まさに夢中だった物語を伝えようとして男は言葉を詰まらせた。

「……忘れちゃった」
「まあ夢なんてそんなものさ」
 長谷部に軽く流されてなお、言いようのない違和感が燭台切のうなじをちりちりと焦がす。

 本当に忘れていいものなのか、夢の中の自分は誰と、何をしていたのか。促されて洗面所に立ち、冷水で顔を濡らしてみても、燭台切は浮き足立つ自身を認めずにはいられなかった。

 

……引用「遺書」三枚目八行目より……

 

 街中で腕を組む男女を見かけた。仲睦まじいのは構わないが、人前でも大っぴらに触れ合うのは目に余る。
 周囲の者が顔を顰める中で、ただひとり、光忠だけが純粋な好奇心を彼らに向けていた。

「ああも他人に執着できるのは性欲の問題かな。色里に行って女でも買えば、僕も少しはひとの心が理解できるかもしれないね。長谷部くんはどう思う?」

 最低だと思った。とは、口が裂けても言えない。ただ肌を重ねるだけなら、金を払ずとも隣で親友面しているやつを押し倒せば済む話だ。

「商売女に手をつけても財布が薄くなるだけだぞ。金の有無でリップサービスが変わるやつより、架空でも恋愛小説を読んでいた方が勉強になるんじゃないか」
 悪友の皮を被ったまま、さりげなく光忠の関心を現実から虚構へと導く。告白する度胸もない俺は、身勝手な嫉妬を押し隠し、親友のいじらしい努力を踏みにじった。

「ふうん、じゃあ青春小説読みあさってる長谷部くんは恋愛玄人なわけだ」
「世にどうして素人童貞って言葉あるか知ってるか?」
「じゃあ色里も行ってみない限り、参考になるかどうかは判らないよね」
「お前の面なら、その辺に歩いてる女くらい即ホテルに連れ込めるだろう」
「ううん、後々面倒になりそうなのはちょっとなあ」
「色恋沙汰なんて面倒事の塊に決まってるだろ。綺麗なのはフィクションの世界だけだ」
「長谷部くんは色恋沙汰が面倒だって知ってるんだ」

 返る光忠の声は低い。動揺を悟られぬよう頬肉を噛み、男の不興を買った理由を考える。判らない。この太刀は滅多に怒らない。怒る必要がないから当然だ。
 燭台切光忠は、刀を振ること以外に頓着しない。

「痴情のもつれが厄介なのは歴史が証明しているだろう。俺だってお前と一緒で、経験があるわけじゃない」
「なら良かった」
「良かったとは何だ」
「だって長谷部くんが誰かとそういう関係になったら、僕と遊んでくれなくなるだろう」
 子供じみた独占欲を打ち明けられ、現金な心臓が早鐘を打つ。血が滲むほどに歯を食いしばり、漏れ出そうになる恋心を押さえ込んだ。他意はない。こいつに限って、そんな期待を持ってはいけない。

「でかい犬を飼うと、おちおち外で情婦も作れないな」
「はは、首輪つけられる方が好みだろうによく言うよ」
「勝手に妙な性癖を植えつけるんじゃない」
「大丈夫。世間は広いし、遊郭に来る客も千差万別だ。君の嗜好にあった娘を宛がってくれると思うよ」
「はっ、誰が行くか」
「残念。仕方ない、僕ひとりで行ってくるか」
 ほら見たことか。この刀は好悪はさておき、その他は敵味方の判断くらいしかできないめしいである。

 花街なんてお前にだけは誘われたくなかった。行くなと袖を掴んで泣き喚いてやりたい。そんな権利はないと解っているくせに、俺は光忠と寝るだろう見知らぬ女に嫉妬している。
 たとえ恋仲には発展しなかろうと、光忠が親友として俺の身を第一に考えてくれようと、この八方塞がりな情と付き合うのはもう、疲れた。捨ててしまおう、ヒトになれない道具が同じ刀に焦がれたところで不毛なだけだ。
 問題ない。忘れるのは、得意な方なんだ。

 

◆◆◆

 

「長谷部くん、君とだけは戦いたくなかったよ」
「そうか、俺はお前の澄ました顔を常々めちゃくちゃにしてやりたいと思っていた」
「話が合わないなあ」
「猿芝居はよせ。本音では、その提げたデカブツを振り回したくてたまらないんだろう? 口角上がってるぞ」

 長谷部の背後にあった木が揺れる。燭台切の得物は、タンク容量一リットルを超える大型ウォーターガンだ。
 射程距離も優秀で、全長七十五センチの砲身から放たれる一撃は、細い枝であれば折りかねない威力を持つ。難点はその大きさ故に小回りが利かないことだが、扱うのが燭台切光忠である以上、問題にはならないだろう。この太刀の強みは、手数ではなく一撃一撃の重さにある。
 敗北条件は身に着けた白いたすきを濡らされること。正面だけではなく、背後からの奇襲にも警戒しなくてはならない。燭台切は獲物の位置を正確に把握した上で、胸元の布を狙う気概でいた。

 一方の長谷部が手にするのは、ベレッタに似せた小型ガンである。射程距離もタンク量も先の銃には遠く及ばないが、奇襲、機動戦においては他の追随を許さない。
 有効範囲五メートルの近接戦を強いられるデメリットは大きいが、メリットである持ち運びの容易さも強力な武器となり得る。長谷部の足の速さを以てすれば、相手の懐に潜り込み一瞬で勝負をつけることも可能だろう。

 開戦の合図となった攻撃を避け、長谷部は間髪入れず敵との距離を詰めた。一足で標的の影を踏むまでに近づいた刀を、次なる水砲が襲う。長谷部は横っ飛びに回避する傍ら、構えた短銃の引き金を引いた。
 飛沫が上がる。狙いは過たず、男の左胸目掛けて奔流が走ったが、その水は目的の布を濡らす前に弾け散った。

「さすが長谷部くん、三発目を撃たせる隙も与えてくれないね」
 盾に使われたウォーターガンから水滴が流れ落ちる。敵の妙技を讃えながら、燭台切は乾いたままのたすきを風に靡かせた。
「ふん、油断も隙もないのはどっちだか」
 不敵に笑う長谷部もまた相手の抜け目なさを詰りつつ、長く続きそうな攻防を悦んだ。

 この本丸が誇る第一部隊、第二部隊の隊長が昼間から水砲戦でしのぎを削っているのには理由がある。
「最近暑くなってきたし、水鉄砲で遊ぼうぜ!」
 発案、鶴丸国永。これにて回想終了。

 かくして出陣の沙汰もない夏の午後、暇を持て余している刀たちの仁義なき戦いが幕を開けた。件の二振りが衝突したのは、参加者の半数が脱落した後の話である。
「ッ! ちっ、弾切れか!」
 舌打ちし、長谷部は空気を押し出すだけとなった銃を打ち捨てた。
 投げられた黒塗りの玩具が勢いよく地面に円を描く。その回転を紺色の爪先が押し止めた。

「さあ、観念してもらおうか長谷部くん」
 木を背にした長谷部を銃口が捉える。勝利を確信した黒い太刀は敢えて一歩ずつ標的に近付き、己の優位性を誇示してみせた。
「……空手の俺に抗える術はない。煮るなり焼くなり、好きにしてくれ」
 たすきとジャージの隙間に手を入れ、長谷部は降参とばかりに身体から白い布を浮かせる。ゆっくり引き抜かれた輪は、託される前に二振りの頭上を飛んだ。

 長谷部が空に放ったたすきが落ちるまで、一秒そこらといったところだろう。その間に長谷部は腹に仕込んでいた替えの武器を抜き、最後の反撃を読んでいた燭台切もすぐさまスコープを覗いた。

「アーアアー!」
 突如として一騎討ちに人影が割って入る。綱を頼りに猛然と中空を行く男は、真剣勝負の絶頂にあった刀たちに文字通り水を差した。

「お楽しみのところ悪いが、生憎こいつは手合わせじゃなくてサバイバルなんでな!」
 振り子運動が端にまで達し、漁夫の利を得た闖入者が地上へと降り立つ。得意げにバケツを振り回す太刀は、ジャングルの勇者ではなくゲームの発起人だった。

「そこの鶴丸国永」
「この本丸には俺以外の鶴丸国永はいないが何か?」
「色々と言いたいことはあるが、それは鉄砲か」
「水鉄砲で遊ぼうと触れ込んだが、水鉄砲以外の使用は禁止なんて言わなかったからな!」
 水も滴る敗者ふたりは表情をなくし、熱を失った目で知己を睨めつけた。さしもの鶴丸も危機感を覚えたのか、笑顔を保ったまま後退り、さりげないフェードアウトに注力する。そのがら空きの背中は、茂みの隙間を縫った水砲によってしとどに濡らされた。

 鶴丸国永、敗退。勝者の大倶利伽羅は、決着の瞬間を見届けた燭台切たちに黄色い声援を送られた。

「全く、とんだ茶番だ」
「最後はともかく、君もかなり楽しんでたじゃないか」
「言っただろう。お前の澄まし顔を崩してやりたかったと。まったく、良い機会だと思ったんだがなあ」
 言いながら、長谷部は濡れそぼったジャージを寛げた。ファスナーを下げれば、やはりと言うべきかシャツまで水浸しで肌の色が透けている。
 この熱気なら捨て置いてもいずれ乾くだろうが、人の身は案外脆い。風邪でも引いては堪らないと、長谷部は早々に帰還すべく踵を返した。そして二歩目にして足を止めた。長谷部の意志ではない。不意にこいびとの腕を掴み、その場に留まらせたのは燭台切の仕業だった。

「長谷部くん」
「な、なんだ」
「今すぐファスナー上げて。脱ぐなら部屋に帰ってからにして」
「なにゆえに」
「僕が今にも無様を晒しそうだからだよ」
 つい先頃まで朗らかに接していたはずの男は、ひとが変わったように眉を吊り上げている。相当におかんむりらしいが、自分が服を着込むことで燭台切の不満がどう解消されるのか、長谷部にはいまいち理解できなかった。

「よく解らんから却下する。下着まで濡れてしまったし、前を開けておかないと気持ち悪いんだ」
「長谷部くんはこの前僕が何て言ったのか、もう忘れたみたいだね」
「ひとを鳥頭みたいに言うな、ァっ……」
 革の手袋が長谷部の胸を這う。肌に張りついたシャツは下着の役目を全く果たしておらず、皮膚の凹凸を浮き彫りにするだけだった。

「僕は君のことが好きなんだよ。好きな子がいやらしい格好してたら興奮するし、誰にも見せたくないって思うのは当然だろう」
 冷えて縮こまった突起が押し潰される。強ばる長谷部の背中を近くの木に預け、燭台切はなおも胸への刺激を続けた。

「ゃ、ばか、おちつけ。ここは外だぞ……!」
「外だよ。本丸のすぐ近くの森で、いつ誰が通りがかるかも判らない場所だよ。それなのに長谷部くんは平然とおっぱい晒してさあ、どういうつもりなんだい」
「蒸れて気持ち悪かっただけだ! ひゃぅッ」
「無自覚なのが一番質悪いな」
 ぎゅうと挟まれた乳頭が二指の間から顔を出す。甘い痺れが背筋を貫き、長谷部は顎を反らして身悶えた。

「は、ぁ。も、わかったから、はなせぇ……」
「わかった? 本当に?」
「ほんとう、ちゃんとかくす、部屋までぬがないから」
 力の抜けた手が燭台切の頬に添えられる。指先で男の下唇を辿り、長谷部は途切れ途切れに言葉を続けた。

「つづきは、部屋にかえってから、して」
 潤んだ紫の瞳がさらなる蹂躙を請う。こいびとから熱を求められ、男は知らず喉を鳴らした。

 すっかり凝り固まった先端がジャージの下に隠れる。長谷部の腰を抱き、燭台切は慌ただしくその場を去った。

 

……引用「遺書」二枚目四行目より……

 

 人の身体というのは厄介で、感情が昂ぶると何かしら異常となって外に表れる。判りやすいところで涙、動悸、肌の紅潮などが挙げられるが、最も面倒なのは男の部分が反応した場合だと思う。
 欲に従順であるうちは良いとして、終わった後にこれほど虚しくなる行為はない。片恋を自覚してしばらく、夜ごと己を慰めては涙する日々が始まった。

「ふぅ、ぁ。みつただ、みつたらぁ……」
 利き手で性器を扱き、空いた手で自らの胸を嬲った。始めは全く快感を拾わなかった場所も、親友に愛される幻想を糧に触れるにつれ、徐々に過敏になっていった。
 掌がじっとりと水気を帯び出す。粘つく指を陰嚢より奧に滑らせ、まだ固く閉ざされた窄まりをなぞった。
 自慰に後ろを使うようになったのはいつ頃だったか、もう覚えていない。はっきり言えるのは、腸壁を執拗にいたぶると射精より深い快楽がもたらされることぐらいだった。

「あ、あぁ、いい。みつただ、もっと、つよく」
 この場にいない親友の名を呼び、粘膜を掻き回す指をさらに増やす。

 今日は午後に水砲戦の練習があった。そういう名目で行われただけであって、実際は鶴丸が暇潰しに提案した催しだったが、参加する者は多かった。その中には俺と光忠もいて、熾烈な争いを繰り広げることになった。
 互いに濡れ鼠になり、健闘を讃え合って帰路に就こうとしたときの話だ。隣に並ぶ光忠の身体は、俺より余程逞しく、水に透けた筋肉に一瞬で虜になった。

「撃ち合ってる間は涼しかったんだけどなあ。やっぱり冷蔵庫買って正解だったよ、長谷部くん」
「そう、だな」
 脱いだ上着を絞るふりをして、光忠から目を逸らす。この大所帯だ、風呂の時間が被ることだって珍しくない。仲間に不純な気持ちを抱いている俺がおかしいのであり、光忠に誘惑している自覚がないのは当然だろう。

「お風呂上がりにまたお邪魔するね」
 冷やしてあるラムネが目当てだと知っている。俺たちふたりだけの秘密だが、この響きすら今はひどく空虚に聞こえた。
 光忠の態度は変わらない。親友の肌を見たところで、何とも思わない。想像の中のこいびとは、濡れた肢体を押しつけ、外にもかかわらず情欲を露わにしてくれるというのに。現実はこんなにも、ままならない。

「ぁ、あぁッ、いく、みつただ、おれもう、ッ……!」
 膨らんだしこりを激しく擦る。同時に胸の尖りも形が変わるほどに摘まみ上げた。限界に達した身体をくの字に折り、凶暴な快楽の波をやり過ごす。ちかちかと目の前で火花が散った。
 昇り詰めた熱が急速に冷えていく。下敷きにした布地に白濁が飛んでいた。

「はは」

 ひとり遊びを終えた己の口から嘲笑が漏れる。後味の悪さしか残らないのに、どうせ明日も同じように淫蕩に耽る自分を思うと、吐き気がした。
 自己嫌悪が募るに従い、俺を抱いていた光忠の幻想が薄らいでいく。夢に縋ることもできず、黙々と後始末に勤しむ自分は、実に滑稽だった。

 

◇◇◇

 

「光忠、なあ光忠」
 呼び声に応じ、燭台切の意識が浮上する。きんいろが室内灯の明るさに眩むと、男の頬に走る衝撃も収まった。

「はせべ、くん……?」
「……おきた」
 例によって長谷部はこいびとの胸を枕にし、掛け布団に顔を埋めた。崩れ落ちた身体は武装も外しておらず、出陣から帰って間もないことが判る。

 確かに長谷部は夕刻より池田屋に飛んでいた。翌日の予定について語った夜は、燭台切の記憶にも新しい。
 違和感に気づき、起きたばかりの刀もようやく事態が呑み込めた。朝焼けではなく日暮れと共に出陣するなら、燭台切は長谷部を見送る側になる。それにもかかわらず、こいびとを激励するどころか、任務を終えた相手に叩き起こされるとは何事か。
 先に寝たわけでも、急な怪我や病気で伏せていたわけでもない。燭台切は昨晩より一日、布団の中で過ごしていた。身体を揺すられ、頬を叩かれようと、決して目を開けず、出来の良い人形がごとく渾々と眠り続けた。

「もう、目を覚まさないかとおもった」
 男に縋る長谷部の語尾は、消え入りそうなほど小さい。褥から伸びた手がこいびとの背を抱く。小刻みに震える身体を慰めるうちに、鼻を啜る声が燭台切の耳に届いた。

 許しがたい。何も知らず眠りこけていた己もそうだが、この世で最も愛しい刀を傷つけた不埒者は、たとえ八つ裂きにしても飽き足らぬ。大丈夫だよ、と長谷部を諭す刀の胸中は、報復の念をどろどろに滾らせていた。
 この件に関して審神者、薬研の見解は一致している。燭台切光忠は心身ともに健常である。神気の乱れは確認できず、長時間の睡眠を必要とするほど疲労も溜まっていなかった。

「以前の長谷部と似たような症例かもな」
 薬研の仮説を聞き、渦中の二振りは揃って顔を顰めた。遡ること数週間前、長谷部は七日に渡って夢を見続けた。重傷による昏睡が発端とはいえ、一時現実を捨てたのは長谷部が逃避を望んだからに他ならない。もしも薬研の指摘が的を射ているとすれば、燭台切は現状に何かしら不満を抱えていることになる。

「貴様、いったい何が不服だ。言え」
「仕事にはやり甲斐を感じているし、可愛いこいびともできて毎日楽しいですが何か」
「おいおい、医者の前で患者を脅すのは感心しねえな。まあ旦那がべた惚れなのは火を見るより明らかだし、別に原因があると見た方がいいだろう」

 夫婦喧嘩は犬も食わぬ。もう漢方や民間療法の出番はないと、薬研は仲裁も忘れて周囲の片付けに回った。
 結局、大した収穫も得られずふたりで自室へと戻る。幸いに日はまだ高く、夜更けは遠い。燭台切らは向かい合って今後の対策を練った。

「どういう夢を見ていたか、思い出せないのか」
「残念ながら。起きた後も記憶に残る夢って今まで見たことないし、体質かもしれないね」
「健康優良児め。なら俺を倣って今夜はカフェイン漬けだな。ミルクなんて認めないから覚悟しろよ」
「目が活き活きしてるなあ。コーヒーのお世話にはなるとして、もう一つ試したいことがあるんだけど」
「試したいこと?」
「どうせ真似るなら、生活習慣じゃなくて恋文の書き方にしたいと思ってね」
「は? 恋文なんて書いた覚えないんだが」
「熱烈なものをくれたじゃないか。アイスを食べたり、水遊びをしていたとき、君が本当はどう思っていたのか、事細かに記した文束を」
 一拍置いて、長谷部の顔がみるみる朱に染まっていく。文字通り過去を掘り起こされた刀は、羞恥に堪えかねて荒々しく男の胸ぐらを掴んだ。

「あれは! あげたんじゃなくて! お前が勝手に盗掘して勝手に所有権を主張しているだけだろうが!」
「一度捨てた時点で君は所有権を放棄しているだろう。なら手紙は拾った僕のものさ。今でもたまに見返しては日々の活力を貰ってるよ」
「お前を殺して俺も死ねばいいのか?」
「断っておくけど、これはいたって真面目な提案だよ。長谷部くんはあの遺書を介して自分の夢を操作していた。もし同様の手段を用い、眠った後も自分の意志を持って動けるなら、怪異の正体を掴むのにも役立つはずだ」

 こうも理路整然とした主張を聞かされては、長谷部も黙らざるを得ない。燭台切が現実を疎んでいるとは到底思えないが、彼の刀を取り巻く状況は、過去の長谷部と非常に似通っている。可否はともかく、他に有効らしい手段も浮かばない以上、試してみる価値はあるだろう。

「……わかった。上手くいくかどうかは保証できないが、打開策が見つかるまで光忠に不眠不休を強いるわけにはいかないしな」
「納得してくれたところで、ご指導ご鞭撻のほどお願いいたします」
「まず見られて恥ずかしいことは書かない方がいい」
「忠告の重みが一味違う」
 先輩のありがたい言葉を参考に、燭台切はいざ一筆と意気込んだものの肝心の内容に困った。曰く、叶うはずもない願望を綴った方がより夢に没入できるらしい、が。

(願望か)

 燭台切は一度欲しいと感じたものは絶対に諦めない刀である。情緒の欠落を理解しながらも人の真似事を続け、遂に親友の思慕に応えたのがその好例と言えるだろう。それ故に、この刀にとって願掛けとは目標の提示であり、無責任に幸福を祈願する行為ではない。
 始めは途方に暮れていた燭台切だったが、一つこれというものが見つかってからは迷いがなくなった。

(まあ、こればっかりは僕ひとりの力じゃどうにもならないからなあ)
 できる限りの努力はするけどね、と独白に付け足して燭台切は筆を置いた。その僅かな物音に、遠征の報告をまとめていた長谷部が反応する。

「書けたのか」
「ああ。ご開帳は先になるけど楽しみにしていてくれ」
「ちなみに音読しても大丈夫な内容だろうな」
「勿論。もし明日の朝も僕が目覚めなかったら、この封を開けてほしい。長谷部くんなら、きっと上手くやってくれるはずだ」
「多大なる信頼、痛み入る」
 芝居がかった様子で長谷部が一礼する。燭台切もこのいらえに満足し、便箋を黒い櫃へと収めた。

 

◆◆◆

 

 夕立が降っていた。庭先では日輪を見失った向日葵が雨水に打たれている。天の恵みなしでは生きていけないのに、鈍色の雲を睨む黄色い花はひどく矛盾して見えた。少なくとも、長谷部にはそう映った。

「降られちゃったねえ」
 髪を濡らした男が鴨居をくぐる。烏の濡れ羽色を柔らかなタオルで覆った刀は、長谷部の頭も同じように布で包み込んだ。

「どうせにわか雨だ。上がったら収穫に戻るぞ」
「はいはい、仰せのままに」
「戻るったら戻るからな」
「承知してるよ」
「……雨が降ってる間くらい寛いでもいいと思うが」
「そうだね。メリハリは大事だ」
「メリしなくていいのか。ハリの出番はお天道様次第だ、今が絶好のメリチャンスだぞ。メリを始めるなら今だ」
「新規ユーザー優待キャンペーンみたいなアオリがなくても、言いたいことは伝わってるから大丈夫だよ」
 髪を拭い終え、燭台切は畳に腰を下ろした。それから両腕を広げて、佇立したままのこいびとが来るのを待つ。部屋にはふたりの他に誰もいない。見咎められることもないのに視線を彷徨わせ、長谷部は吹っ切れたように男の胸へ身体を預けた。

「わざわざ理由なんてつけずに、いつでも甘えてくれて構わないのに」
「俺が構う。こんなの、慣れてしまったら溶けてしまう……お前がいないと駄目になる……」
「いいね、最高の殺し文句だ」
「よくない。ぁ、こら……ん、ふ」
 制止の声は燭台切の唇に塞がれる。啄むような口吸いを交わし、繰り返し背を撫でられ、長谷部はすっかり息が上がってしまった。
「あめ、止むまでだからな」
 艶を帯びた薄紅色が再三の制約を強調する。雨の匂いを残す前髪を掻き分け、燭台切はこいびとの額にそっと口づけた。

 肌を晒し、互いの熱に溺れる。とうとう向日葵は焦がれていた日光と再会を果たすことなく、夜を迎えた。
 あちこち情痕を刻まれた肢体が畳に横たわる。何度目かの吐精を経て、遂に長谷部は曖昧になった意識を手放した。
 繋がりを解くや、栓を失った後口から白濁が溢れる。ぽってり腫れた縁がひくつき、なおも男を誘うのを見て見ぬふりしながら、燭台切はさっと服の乱れを直した。

 廊下は静まり返っている。これほどの大所帯で誰の声も聞こえないのは不思議だが、一刻も早くこいびとの元へ戻りたい燭台切には好都合だった。
 脱衣所に厨。ぬるま湯と清潔なタオルを用意する間、燭台切は他の男士と擦れ違うことはなかった。絶えず耳にするのは、窓を叩く雨の音だけである。

(まさか、今は本丸に僕らしかいないのか?)

 さすがに妙だと、燭台切は別の場所も見て回った。
 大広間、書庫、道場、会議室。さらには伊達、長船派の私室も巡ったが、その全てが空振りに終わった。
 昏く、得体の知れない不安の塊が燭台切の喉を塞ぐ。主から留守を申しつけられた覚えはない。在籍している九十以上の刀剣が忽然と消えるはずもない。まさか神が神隠しにあったとでも言うのか、笑えない冗談だ。

(いや、待てよ……そもそも今日は)

 いつものように皆で朝餉を摂ったり、内番の振り分けで一喜一憂する仲間を見ただろうか。過去へ飛び、最後に刀を振るったのはいつだ。長谷部以外の男士と話したのは、どれくらい前になる。

 ばちん、と鋭い衝撃が燭台切の頭蓋を揺るがす。あらゆる記憶に掛かっていた靄が晴れ、鎖で雁字搦めだった自意識がようやく解放された。
 審神者や男士たちは行方を眩ましたのではない。この思い出を辿るのに彼らの出番が不要だったために、登場する権利を得られなかった。この世界において、燭台切と長谷部以外の演者は尽く端役に過ぎない。
 夢の主は来た道を取って返し、自室の戸を開け放った。どうせこいびとの痴態を見る者はおらず、情事の余韻に浸っていた刀はとうに身繕いを済ませている。素より、絡繰りを知っている者からすれば後始末も所詮はごっこ遊びでしかない。装いをジャージからカソックへと改め、長谷部は淡々と燭台切を迎えた。

「雨、止んだな」
「驚かないのかい」
「いずれ気付くとは思っていたさ。だからってあれほど激しく愛し合った後でなくても良かっただろうに。賢者タイムで本当に賢者になるやつがいるか」
「エキストラの採用を渋るからだよ。一振りでも誰かに会えば、僕だって疑わずに済んだはずだ」
「裸の俺を放置して、他の刀と話したいとは酷いことを言うなあ。水遊びのときだって結構妥協したんだぞ」

 雲が切れて、室内に月明かりが差し込む。障子の枠に切り取られた格子柄の光帯が畳に落ちた。

「でも腑に落ちないね。ここが本当に僕の夢の中なら、自分の意志で覚醒を促すこともできるはずだ。どうして今も現実の僕は眠ったままなんだい」
「そんなの答えは一つだろう。お前も心の奥底ではこの夢から覚めたくないと考えてるからさ」
 何を馬鹿な、と否定するつもりで燭台切は口ごもった。暮れなずむ縁側で想いの丈を打ち明けたのも、水遊びで濡れた長谷部に手を伸ばしたのも、誰に命じられたわけでもなく燭台切が望んでそうしたことだ。

 この夢は過去の記憶をやり直す目的で作られている。心ならずも親友を傷つけ、日常の端々に垣間見えた訴えを読み取ることもせず、長谷部に一度現実を放棄させた自身を、燭台切はひどく憎んでいた。償うには、恋仲となった長谷部に誠心誠意尽くす以外にない。
 頭ではそう理解していても、長谷部がふとしたことで喜びを露わにすると、この愛しい刀の想いに早く応えてやりたかったという想いは膨らむばかりだった。

 燭台切光忠は自制心の強い刀である。過去の改竄など、忌むべき宿敵と同じやり方に救いを見出したりはしない。心中の憂鬱は行き所を失い、長谷部を一層甘やかすことで禁忌に繋がる芽を摘もうと心掛けた。いたちごっこだ。こいびとに接するたび、起こり得たかもしれない未来はより眩しく、鮮やかになって男の胸中に巣くった。

「俺も同じだ。光忠と過ごせるこの夢が何より大切で、何を置いても手放したくはない」
「夢は所詮夢だ。いくらここで足掻いたところで、僕が長谷部くんを振り回した事実は揺るがない。臭いものに蓋をしたって何の解決にもならないだろう」
「模範解答だな。実につまらん、頷く気にもなれない」
「協力は期待しない方がよさそうだね」
「好いた男が他のやつに盗られると解っていて誰が」
「他のやつって、君も彼も同じ長谷部くんで」
「違う!」

 叫号が反駁の声を掻き消す。顔色一つ変えず種明かしに臨んでいた刀は、ここに来て急に馬脚を現した。眦を決し、肩を上下させ、長谷部はさらに激しく言い募った。

「あいつと俺が同じわけないだろう! 長船との茶番劇をしつこく非難しておいて、それすら判らないのか! 現実に居場所のあるやつは楽だよな、都合が悪くなればたかが妄想でしかない夢なんてあっさり切り捨ててしまえるんだからなあ!」

 刹那の間に燭台切の視界が白で埋め尽くされる。紙、紙、紙。一面に降り注ぐ大量の紙が長谷部の姿を隠す。嵐が収まった後の部屋には、燭台切だけがひとり残されていた。

「あくる日の晩、光忠が何も言わず外出した」
 畳に落ちた一枚を拾い上げる。手書きの文字で綴られていた記述は、燭台切にも覚えのあるものだった。

「別にいつもふたりで行動しているわけではない。俺があいつに付き合う機会が多いだけで、光忠は伊達や長船の連中ともよく話している。ただ、万屋も閉まるだろう時分に本丸を出たことから行き先の想像は容易についた。つい先日その手の話題を振られたばかりだ。まずもって間違いない。光忠は花街に向かったのだろう。俺が筆を執ることになった切っ掛けは、こんなものだ」

 これは遺書である、という書き出しで手紙は始まった。冒頭で語られる執筆の動機は、字面から受ける印象より余程重い。
 足下を紙の山で囲まれ、燭台切はやっと得心がいった。

 嘗ての親友とは違い、現実に固執する自分がどうして夢から離れられないのか。当時の夕涼みや水遊びで全く長谷部の憂愁を汲み取れなかったのに、過去を再現するにあたり前述の場面が採用されたのは何故か。
 夢の主に逆らえるのも道理だろう。あの長谷部は彼の遺書そのものである。この夢は燭台切の悔恨と長谷部の手紙が結びついて生まれた。
 箱庭の半分を掌る長谷部は、頭から爪先まで報われぬ恋心のみで成り立っている。作者の手から離れた物語に続きが加わることはなく、長谷部の悲願は現実において決して形にならない。

「参ったな」
 文を卓上に置き、燭台切は自らの肩を揉んだ。輪郭のはっきりした眉は些かも下がらず、独り言が宿す響きは弱音にはほど遠い。
 ひとたび燭台切が念じると、右手に筆、左手に半紙が現れた。既に墨を含んだ毛先が紙面を滑る。男らしくも整った字が二、三行続き、書き上がったそばから微光を放ちだした。

「後で長谷部くんに謝らないといけないね。いくら手紙を下敷きにしているとはいえ、安易に混合するのは良くなかった。まあ、でも」

 ――代わりに彼の本音が聴けたと思えば、この失態も無駄にはならないか。

 筆を休め、燭台切は何も書かれていない余白をじっと見つめた。やがて小綺麗な楷書調の字が先の文に続けて浮かび上がる。

「さて隠れん坊といこうか、長谷部くん」

 去った長谷部に合わせ、燭台切も燕尾服に身を包む。雨雲は裂け、薄闇の広がる空と地上との境に紅色が差し込んでいた。とうに沈んだはずの西日は時を遡り、夜を押しのけて逢魔が時を演じている。神の気まぐれを受け、失意に濡れていた黄色い花は、庭で爛々と咲き誇った。

 

◇◇◇

 

 布団から盛り上がった影が旭陽を遮る。長谷部は三日に渡り、こいびとより早く朝を迎えた。顔を洗い、服を替え、日課の素振りを終えても未だ燭台切は起きない。
 虚空を舐め続けた白刃を収め、長谷部は庭先から室内へと戻る。武器を握り、心頭滅却の境地に至った打刀は、約言通り黒い櫃へと手を伸ばした。箱を開け、封を切り、中身を取り出す。折り畳まれ蛇腹状になった文を広げ、長谷部は眉をひそめた。
 白い。昨晩、確かに燭台切が筆を走らせていた紙面は、どこまでも白が続いているように見えた。

「光忠」

 問うように呼びかけても、依然その刀は夢の中にある。返ってくるのは静寂ばかりだった。暫しの逡巡を経て、長谷部は再び手元へ視線を落とす。こいびとに託された意志を胸に、男は無地の書面をしんねり睨み続けた。

(考えてもみろ、こいつは何の策も講じずに死地へ足を踏み入れるような無能じゃない。必ずどこかに仕掛けが施されているはずだ)
 窓に立てかけてあるよしずに蝉が止まった。ジリジリと鳴き、森閑とした空気を震わせても、長谷部の集中は一切乱れない。皮膚に珠の汗が浮かび、襟の裏側が湿りだした頃、とうとう転機は訪れた。

「長谷部くんへ」
 ひとりでに白紙の書状へ文字が書き込まれていく。力強い筆運びは長谷部もよく目にするものだ。張り詰めていた緊張が僅かに解け、煤色の眉がくっと吊り上がる。

「待たせてしまって申し訳ないね。こちらはやっと相手の正体が掴めたところだ。僕ひとりでは少々骨が折れそうなので、是非とも協力を願いたい」
「言われなくとも」
 焦燥の失せた藤色に戦意が灯る。長谷部は卓上から筆を借りるや、燭台切の申し出に是と返した。

「ありがとう。結論から先に言うと、僕が今追っているのは過去の君だ。正しく書くなら、長谷部くんが捨てた手紙に宿った意志が、この覚めない夢を作り出している。彼の目的はおそらく夢の中で惚れた男と添い遂げることだろう」
 その惚れた男が右記の文を書いたと思うと滑稽だが、当事者である長谷部としては笑えない。自信過剰だなとからかうには些か遺書の内容が熱っぽすぎる。

「はっきり断れよ。俺以外の男と心中なんて許されると思うな」
「彼も紛れもなく君の本心で一部だ。手酷く扱うことはできないね」
「八方美人め。どこぞの誰かさんみたく、こいつは俺の男だ、とでも目の前で宣言してやればいいのか?」
「それじゃあキャットファイトに発展するだけだろう。彼を傷つけるやり方には反対だな」
「さりげなく俺を猫扱いするな。そもそも互いの需要が噛み合わなすぎる。あっちを立てればこっちが立たず。俺はあれを一度捨てたんだ。誰にも顧みられず存在ごと闇に葬られようが、今さら構いやしないだろう」
「僕が構うよ。君が要らないと嘯いて捨てたものを僕が拾った。なら、あの手紙をどうするかは、持ち主である僕に決定権があるよね」
「やはりもっと早くに見つけ出して、密かに焼いておくべきだったな」
「そうやってすぐ昔の自分を貶めるのはよくないよ」
「手打ちも焼き討ちも駄目ならどうしろと言うんだ」
「あるじゃないか。あの手紙を書いた君にしかできないことが一つ」

 きっとこれを書いた男の左眼は細められ、口元は緩く弧を描いているに違いない。現実の燭台切は目蓋を閉ざしたままだが、長谷部はこいびとの含み笑いを想像して舌を鳴らした。

 

◆◆◆

 

 それに声が届いたのは果たして偶然だったのか、必然だったのか。
 男に名前はない。付喪神が人の想いから生まれるものだとすれば、付喪神から生まれたものは何と呼べばいいのだろう。

 ある梅雨の晩、へし切長谷部は自身の燻る恋心を扱いかねて、人知れず葬り去ることを決意した。到底口にはできぬ望みを筆先に託し、過去を振り返る痛みごと硯に溶かし、遂に一つの遺書を完成させた。
 人の身体を得て、人の感情を知り、人と同じく恋慕に翻弄された刀の執心は生半可なものではない。文章には作者の人格が反映されるというが、長谷部の著した遺書も例外ではなかった。
 下げ渡されたことを恨む刀が、廃棄を前提にした手紙を書く。かくして地中に埋められた書は、ままならない現実への悲観以外を知ることなく、時を過ごした。

 彼の遺書が文字通り日の目を見ることになったのは、長谷部が夢に没入し、意中の男と別れてからの話である。燭台切は長谷部を連れ戻すため、親友が山中に埋めた箱を掘り起こした。墓標以外の何者でもなかった遺書は、このとき初めて他者に価値を見出された。
 長谷部の手紙に述べられているのは、親友への痛切な片想いの記録である。望むと望まざるとにかかわらず、遺書が抱える燭台切光忠への情念は深い。さらに書き手の意志をも撥ね除け、新たな持ち主に燭台切が収まったことから、付喪神の記した恋文は余計に男を慕うようになった。

「もっと早く長谷部くんの気持ちを知ることができたら良かったのに」
 燭台切にとっては何気ない一言のつもりだった。実際に選択肢を提示されたとして、この太刀は決して過去をやり直す道は採らないだろう。ただし、恋に破れた刀の苦悶を知る者は別である。長谷部が燭台切への報われぬ想いをいかにして抑えてきたか、彼の遺書はともすれば当事者よりも雄弁に語る自信があった。
 今の主の願いを叶えんがため、という大義名分を得た遺書は、嘗てのように夢の世界で箱庭を作り上げた。

「誰よりも何よりも、狂おしいほどに君のことがすきだ。どうか僕を信じて、僕の手を取ってくれないか」
 男の告白は、片恋しか知らない憐れな紙束の情緒をも育んだ。長船の頃とは違い、この燭台切は既に愛しいという感情を理解している。

 燭台切に夢を見せるつもりで、実際に夢を見せられているのは、筆者に捨てられた恋文の方だった。
 一日目はお試しで、二日目にはもう引き返せなくなり、三日目は現実と袂を分かつつもりで、箱庭の主は恋しい男を夢に閉じ込めた。

 長谷部を模した虚構の住人が空を仰ぐ。群青色をした帳は遙か遠く、とうに地平線の彼方に沈んだはずの夕日が茜色の光を投げ込んでいた。打刀の長谷部はともかく、夜になれば太刀の動きは鈍くなる。現実での制約が夢で通じるかはともかく、夢の主が望めば天候も時間も操作できないものはない。

「長谷部くん」
 黄昏色を閉じ込めた瞳が樹上の影を捉える。長谷部は気怠げに首をめぐらし、自らを見上げる刀を眺めやった。

「俺とここで添い遂げる覚悟はできたか」
「答えを判っていて訊くのかい」
「俺を燃やす覚悟は決めたか、の方が良かったか?」
「たまに君のセンスを心底疑うよ。僕がそんな真似するとでも思ってるのかい」
「そうでもしなければ出られないぞ。前のときと違って、今度はお前が目覚めても俺の方に利点がない」
「君が知っているのは、僕が長谷部くんと付き合うまでの時間だけだ。恋仲になって、倉庫の中で隠れて花火をしたことも、買い出しの帰りにアイスを食べさせ合ったことも記憶にないだろう」
「それくらい、この夢の中でも再現できる」
「嘘は良くないなあ。君が引き出せるのは、あの手紙に書かれていた内容だけだよね。僕の記憶を使おうにも、こちらが夢だと自覚してしまった以上は手の出しようがないだろう。長谷部くんのときと同じさ、箱庭の世界は勝手に広がったりしない。同じ日常を何度も何度も繰り返すことしかできない。それでも君は、この夢を選べと僕に言うのかい」

 枝がしなる。漣のごとく揺れる梢の下で、鞘を払った長谷部が歯を噛みしめていた。
「お前の意志なんて知らない」
 皆焼刃の切っ先が燭台切に向けられる。斜陽を纏った鋼が男の首を跳ねるには、三歩もあれば十分だろう。

「飽こうが疎もうが、この箱庭から出してやるつもりはない。お前はここで俺とずっと一緒に過ごすんだ」
「それは困るなあ」
「煩わしいか? 俺が憎いか? そう思うなら刀を抜け。こちらで俺を切っても、向こうで燃やすのと同じ結果になるだろうさ」
「僕が長谷部くんを切れるはずないだろう」
「お前のいう長谷部は俺じゃない!」
 燭台切の隻眼に一閃が走る。刀身は肉に触れる寸前で押し止められ、虚空に黒い髪を一本踊らせた。

「俺は、逆立ちしたってお前の長谷部にはなれない」
 袈裟斬りに振り下ろされた刀が震えている。やがて柄頭に両手が沈み、刃先が土を穿った。

「わかってる、わかってるんだ、俺は所詮偽物だって、長船と同じように現実の俺には勝てないって」
 伏せられた長谷部の面から雫が一つ、二つ落ちる。雲の大半はとうに東の空へと流れていた。紅樺色の天上を遮るのは木の葉ぐらいのものだろう。ふたりの足下は今も雨が降っている。

「でも、それを認めてしまったら俺はまた捨てられる。どうして、俺はお前を好きでいることしかできないのに。夕涼みや水遊びの他にもやりたいことが沢山あるのに。光忠とずっと一緒にいたいのに、こんなに好きなのに、どうして、どうして俺じゃないんだ!」

 悲痛な叫びが森に木霊する。別れを誰よりも覚悟していたのは長谷部の方だった。自らが埋まっていた裏山にわざわざ足を運んだのも、終焉の地にこれほど相応しい場所はないと悟ってのことだった。

「長谷部くん」
 喉をつかえさせ、鼻を啜り、噎び泣く長谷部の後ろ頭に革の手袋が触れる。煤色の柔らかな髪を楽しみながら、燭台切は自らの懐を探った。

「もっと早く君に応えてあげられたら、という僕の夢を叶えてくれてありがとう。もしものお話はこれにて閉幕だけど、お生憎様。君の物語はまだ終わらないんだ」
 長谷部が目を見開くのと、燭台切が取り出した紙片を広げるのとは、ほぼ同時だった。

「付き合ってから二度目に出かけたとき、僕たちが見た映画のタイトルは?」
「そんなのしら」
 知らない、と突っぱねるつもりだった長谷部の脳裏に、白球がグラウンドを横断する映像が浮かぶ。
 観客の入りは控えめだが、上映が終わりスクリーンを出る頃には、そこかしこで熱っぽい感想が囁かれた。人に交じり、余暇を楽しんでいた男士二振りも同様である。

「今さら実写化なんて、と息巻いてた誰かさんが綺麗に掌を返したときは笑ったね」
 ふたりが映画を観た日時は、公開から一週間も経っていない。この頃には梅雨も明け、蝉が街路樹を宿り木にするようになった。地中にあった箱は主を替え、部屋で大事に仕舞われていた。原作小説の内容は知っていても、映像化された作品の是非は判断しようがない。それにもかかわらず、長谷部はフィルム越しに表現された物語にいたく揺さぶられた記憶があった。

「それから長谷部くんはずっと映画の話ばかりしてて、あまりに止まらないから口にポップコーン突っ込んだんだっけ。途中から楽しくなってきて、何個入るか試してみたんだけど」
 長谷部の口はさほど大きくはない。お陰で頬はすぐに膨らみ、限界を迎えた。リスと化したこいびとを燭台切は大いに笑い、直後容赦なく背を叩かれた。それすらも二振りにとっては良い思い出である。
 箱庭の主は困惑していた。未知の話題ばかり振られているはずなのに、まるで自分もその場にいたかのごとく、その時々の感情までもが理解できる。

「あれも含めて、とても楽しい一日だった」
 思わず頷きそうになり、長谷部は胸を押さえた。謎の高揚感が喉元まで迫り上がり、言葉の発露を塞ぐ。

「君もそう思うだろう、長谷部くん」
 同意を促され、夢の住人は息を呑んだ。否と答える他選択肢はないのに、不可解な多幸感がそれを許してくれそうにない。

「おまえは、ひどいおとこだ」
 先の質問を皮切りに、見知らぬ記憶が長谷部の虚無を続々と埋め始めた。かりそめではなく、惚れた男と真実恋仲になってからの日々は、ただの想像とは比べものにならない。この悦びを知らしめておいて、なおも意志を貫けるかどうか確かめるとは暴君も良いところである。

「そうだね、君も悪い男に捕まったもんだ」
「そんな悪い男に提案がある」
「何だい」
「俺はこう見えて嫉妬深いんだ」
「知ってるよ」
「そういうわけだから、向こうの俺にもここでの思い出を譲るつもりはない」
「はは、オーケー。いいよ、僕と君だけの秘密だ」

 腕を軽く振ると、燭台切の右手に夢との媒介となった便箋が現れる。現実の長谷部が手に取ったものと違い、その書面には大望の成就を祈る文句が並んでいる。

「僕の夢を君に託す。いつの日か、この願いが形になる日まで預かっておいてくれないか」
「ああ。せいぜい励めよ」

 文が長谷部の手に渡る。次いで、たんぽぽの綿毛にも似た光点がふたりに降り注いだ。空が割れ、飴色の破片が白い粒子に寄り添う。箱庭の消失は近い。

「そうだ。さっきは軽率な発言をしてごめんね」
「どの発言のことだ」
「君も彼も同じ長谷部くんだと言ったことだよ。確かに君は長谷部くんの一部で、僕が好きになった子の大切な思い出なことに変わりはないけれどね。戻る前に、これだけは謝っておかないと、と思って」
「律儀なことだな。気にするな」
「気にするよ。うっかり謝り損ねて、君を傷つけたまま自分はこいびとの元へ帰還、なんて無神経が過ぎる」
「大丈夫だ。別件での恨み言は次の機会に披露する予定だからな」
「そうかい、じゃあ今度のお楽しみにしておくよ」
「ああ。せいぜい震えて待っていろ」

 再会を約し、ふたりは互いに背を向ける。二色の雨が地上を埋め尽くす頃には、夢の住人はどこにも見当たらなかった。

 

◇◇◇

 

 机上の紙に亀裂が入る。ひびは見る間に広がり、四隅に至って何百もの細かい破片を生んだ。戸惑う長谷部を余所に、ばらばらになった書面は無風の室内で舞い散り、粉雪のごとく溶けていく。
 消えた遺書の行方を追えば、膨らんでいた布団が半ばめくれて畳の上に落ちている。寝起きでいつもより髪を跳ねさせた男は、自分の目覚めを待っていたこいびとを見つめ、ひとつきりの金色を優しく撓めた。

「おはよう長谷部くん」
「おはよう寝坊助」
 すっと広げられた両腕の間に長谷部が飛び込む。黒い寝衣越しに耳を当てれば、とくとくと確かな拍動が伝わってきて、気丈に振る舞っていた打刀の双眸に水の膜が張られた。

「俺を放って、さぞ楽しい夢を見ていたんだろうな」
「妬いてくれた?」
「焼き討ちは俺の十八番だぞ」
「あはは、弁明したいところだけどごめんね。起きたらどんな夢を見て、彼と何を話していたかほとんど忘れてしまったみたいだ」
「俺に惚気たっぷりの回想録を書くよう言っておいて、相手をどう説得したかも覚えてないと申すか」
「その熱烈な恋文はいずこに」
「もう無い。お前が起きる寸前、ひとりでに切れ込みが入って、どこぞに消えていった」
「そっか……」

 邂逅の記憶は残らずとも、夢で交わした約束と箱庭の主が繋いだ絆は、燭台切の胸に深く刻まれている。
 あの遺書がなければ、こうして長谷部と心を通わせ、抱き合うこともできなかっただろう。やきもち焼きで、寂しがり屋で、書き手そっくりな友への感謝は尽きない。

「恋文と言えば、お前は結局何を書いたんだ」
「え? 読まなかったのかい」
「読めなかったんだ。開けたときには白紙だった」
「白紙、白紙かあ」

 燭台切には犯人の心当たりがあった。十中八九、ああ見えて嫉妬深いへし切某の仕業だろう。
 夢の長谷部は自分を生み出した書き手に反発している。ひとりの男を巡るふたりの長谷部は、根幹を同じくするだけに一層相容れない関係となってしまったらしい。

「どうせ見せるつもりだったなら、口頭で聞いても構わないだろう? このままじゃ気になって夜しか眠れん」
「聞いたら僕の夢に協力してくれるかい」
「内容にもよるが、前向きに検討する所存だ」
「大丈夫、長谷部くんにしかできないことだから」

 長谷部の背を抱いていた手が滑り、カソックの切れ目に割り入る。小ぶりだが、薄らと肉のついた双丘は男の掌によく馴染んだ。軽く揉み込むと、艶を含んだ悲鳴が長谷部の口から漏れる。何度も自身を受け入れた場所に指を突き立て、燭台切は恋文の一句を諳んじた。

「僕は君を孕ませたい」
「……は?」
「僕の子を産んでくれないかな、長谷部くん」
「気は確かか?」
「君に狂っているという意味では正気ではないね」
「メスイキできても俺は男なんだが」
「男性神が子を生むのは別に珍しくないし」
「たかが付喪神だぞ? 物が物を生めると思うか?」
「実際に君は生んだじゃないか。筆に託した情念が自ら意志を持ち、見た者に語りかける。これが命を生み出す行為でなくて何と言うんだい」
「遺書を遺すのとは訳が違うだろ……」
「試してもいないうちから諦めるのは感心しないね。で、君の返事はどうなのかな?」

 見慣れた額に唇を落とし、燭台切はこいびとの答えを待った。長谷部は唇を固く結んだまま、明後日の方向を見つめている。暫しの沈黙を経て、長谷部は片割れの手を取り、自らの腹に宛がった。

「前向きに検討すると言った。男に二言はない」

 張り詰めた肉茎が長谷部の中を往復する。細身の腰を背後から掴み、燭台切は隘路を我が物顔で蹂躙した。
「ぁあ、ぁッ! やぁ、も、むりぃい……」
「まだいけるだろう? 長谷部くんだってまだ二回しか出してないじゃないか」
「うぅ、おまえの絶倫ぶりを基準にされてもこまる」
「君がオカズにしてたっていう毎晩親友に種付けプレスする僕は、夜の営みをたかが一回や二回で済ませる紳士だったのかい」
「抜かずの三発決めて最後にお掃除フェラまで要求する帝王ぶりだったが何か」
「わかった、まずは三回だね。ほら、頑張って」
「あぁああ、そこ、だめ、~ッ!」
 下生えが双臀に擦れるほど密着する。痙攣する後膣の突き当たりに亀頭が触れた。これ以上の侵入を拒む壁を傘の部分で執拗に突かれ、長谷部はひゅっと息を呑んだ。

「ま、まて。みつただ、それこわい」
「だめ?」
「さすがにそこは入ったらまずいんじゃないのか」
「でも孕ませるなら奧に注ぎ込んだ方がいいよね」
「うん……うん? そうか?」
「そうだよ。僕も、君のもっと奥まで知りたいな……」

 汗ばんだ身体に覆い被さり、燭台切はこいびとの耳や肩を優しく啄む。激しい肛虐が已んで、長谷部は交歓に溺れた頭で返すべき言葉を探した。
 未知の場所を拓かれる恐怖は消えない。それ以上に、長谷部は穏やかな愛撫で半端に煽られる熱に苦しんだ。深々と内側を犯す杭はただそこにあるだけでも圧迫感と高揚感を募らせる。燭台切の形を覚えた下腹は秒ごとに疼きを増して、咥えた雄にはしたなく縋りついていた。
 長谷部の中で、恐怖と淫欲の天秤は後者に傾きだしている。いっそ自分から腰を揺らしてしまいたいところだが、男の体重を受けている今は身動ぐのがやっとだろう。
 赤い舌が長谷部の首筋をなぞり、正面に回った五指が凝り固まった胸の突起を弄う。刺激に餓えていた肢体は、柔く乳頭を潰されるだけで決壊を迎えた。
「ッ……みつた、だぁ……!」
「なんだい?」
「奧、いいからッ、うごいて、いっぱい、してくれ」
 懇願する声は震え、背後を顧みる薄紫は快楽に濡れている。長谷部の答えは、燭台切の征服欲を満足させるに十分だった。

「ァ、あ゛あ゛ああッ!?」
 固く勃起した性器が再び肉の連なりを責める。燭台切は寝そべる長谷部をしっかり抱いたまま、容赦なく奧の壁を叩いた。頑なだった襞は次第に緩み、とうとう結腸を超えて、長谷部の中に燭台切の全てが収まった。
「ひっ、ァ……あ、あぁ……」
「ふッ、はぁ……先っぽ、すご……」
 互いに汗みずくになって褥に倒れる。長谷部は痛覚、快楽どちらともとれない鋭い刺激に我を忘れた。瞼の裏が明滅し、呼吸をするたび貫かれた余波が下腹部を苛む。散漫な思考の中で唯一確かなのは、愛しい刀を最後まで受け入れられた歓びくらいだった。

「はせべくん、だいじょうぶ?」
 燭台切が普段より余裕の欠いた声でこいびとを呼ぶも、長谷部からの反応はない。不安になって組み敷いた身体を抱え、ふたり揃って側臥する。繋がった場所は絶えず顫動を続けていて、燭台切は今にも突き上げそうになるのを必死に堪えていた。

「長谷部くん、痛い? 苦しくない?」
「ふぇ……?」
 おとがいを取られ、長谷部は自分を覗き込む黄金色をぼんやり見つめ返した。したたかで飄々と振る舞い、人を食ったような態度の目立つ男が、珍しく眉を曇らせてこいびとを案じている。この表情は、きっと己だけが目にすることを許されたものだ。少なくとも、長谷部にはそう思えて仕方がなかった。

「っ、長谷部くん!?」
 戸惑いの声も無視し、長谷部は近くにあった指を咥え、歯を立てずやわやわと食みだした。柔らかな唇が、長く節くれだった指を挟み、時に唾液を絡める。一見赤子がする仕草に似ているが、長谷部が行っているのは口淫のそれだった。

「ん、みつたらぁ……」
「はい」
「おまえはゆびまで男らしくて、かっこいいな……」
 燭台切は確信した。長谷部の理性はとうに蕩けており、自分も今し方の追い打ちで限界を迎えた。このふやけた表情から察するに、多少羽目を外したところで長谷部はこいびとの暴挙を間違いなく歓迎するだろう。
 燭台切は捕まった指を引き抜き、その手で長谷部の内腿を抱えた。呆けた藤色が途切れた銀糸を名残惜しげに見つめる。束の間の休息が終わったことに気付かぬ眸は、再び下腹を穿たれて淫蕩に耽った。

「ああッ! ン、やあ、おく、らめぇッ!」
「あっは、奧突かれるの気に入った?」
「っぐ、ぁ、あん、すき、おくすきぃっ……」
「はぁ、はせべくん、素直でかわいいね、かわいいッ」
 男を知ったばかりの場所を屹立が二度、三度と暴く。根本まで臓腑に包まれ、粘膜を掻き回し、絡みつく襞をこそぐ悦楽は、つい先日まで色恋に興味のなかった刀を変貌させた。

(また知らない顔が見られた)
 燭台切は、自分と異なり情感豊かな長谷部を見るのが好きだった。些細なことで一喜一憂し、効率を重んじる体を装いながら、時にひどく不合理なやり方を採る様は見ていて飽きなかった。
 友になってからも、恋仲という肩書きを得てからも、長谷部はいつだって新鮮な驚きをくれる。何より退屈を嫌う太刀には悪いが、この愉しみを他の誰かと共有するつもりは毛頭ない。

 長谷部が教えてくれた嫉妬なる感情は中々に厄介で、下手をすれば仲間同士の不和を招きかねない。燭台切は日に日に膨らむ独占欲の対処に困っていた。孕ませたいという欲求も、長谷部を身重にして自分の手の届く範囲に囲っておきたい、と言い換えることができる。

(本当にややこができても、長谷部くんを独り占めするようなら考えないといけないな)
 仄暗い計画を立てながら、燭台切は猛る執心ごと腰を突き出した。しどけなく開いた足がびくりと跳ね、中の締めつけがより強固になる。

「ああああぁ、い、ッあ、はぁッ……! あぁぅ……」
 背をのけぞらせ、長谷部は一際激しい官能の波に打ちのめされた。爪先が敷布を滑り、やがて汗ばんだふくらはぎごと褥に沈む。弛緩する双脚の狭間で、熱棒を埋められた秘所が絶頂の余韻に浸っていた。
「ッ、はせべくん、ぼくも、もう」
「ひ、やぁ、いってる、いまだめ、だめだからぁ!」
 長谷部の嘆願とは裏腹に、被虐を好む媚肉はさらなる刺激を喜々として受け入れた。火照る肌を隙間なく押しつけ、燭台切は吐精のためにひたすら腰を振った。

「はあッ……はせべくん、だすよ、お腹の奧にいっぱい子種注いであげるからね!」
「ぅ、ン……ほし、おれも、みつただのこだね、ほしいッ……あ、あ゛ぁあっ……!」
 肉の輪を貫いた先端から精が迸る。熱く濃厚な神気は見初めた器に馴染み、より深い恍惚を長谷部に与えた。全てを吐き出した後も、燭台切は依然硬度を保つ陰茎で自らの残滓を塗りたくる。この刀は自分のものなのだと主張するように、丹念に、執念く長谷部の中を犯した。

「ン、ふ……ははっ」
「どうかした?」
「なに、いつも以上に腰遣いが熱心なものだから、本当に孕ませるつもりなんだと思って、つい」
「冗談だと思ってたのかい?」
「まさか。ただ俺の想像よりずっと、お前は真剣だったらしくてな」
 長谷部が手を滑らせ、自らの下腹をゆるりと撫でる。命の芽吹きなどは感じられないが、男に注がれた愛情は今も仄かな熱を帯びて、こいびとの内側を温めている。

「俺も、お前の子を宿すのが楽しみになってきた」
 目映い未来を夢想し、眇められた藤色が男の昏い思惑を一掃する。
 燭台切からすれば拍子抜けだった。肥大化する妬心の制御に散々悩まされていたというのに、たかが長谷部の微笑み一つで全てがどうでもよくなってしまうというのだから、やはり恋心なるものは未だ度し難い。

「幸せ家族計画、ってこういうことかあ」
「避妊にはまだ早いぞ」
「そうだね、じゃあノルマまであと二回。頑張ろうか、長谷部くん」
 抗議の声は甘い痺れにあっさり封じられる。
 一連の騒動で、ふたりの出陣や内番は当分見送られていた。多少朝を過ごしたとして咎めに来る者はいない。肌を重ねて日の浅いこいびとたちは、三日ぶりの行為に没頭し、報告も忘れて互いの熱を貪り合った。

 夏が終わり、秋を迎え、冬の厳しさに掌を擦り合わせ、春に花見を楽しむ。戦場を駆け、鍛錬に勤しむうちに、季節は巡って、暦は水無月に入った。
 燭台切と長谷部の仲はいたって順調である。時折諍いになって互いに拳を交える事態に発展することもあるが、友となる切っ掛けが切っ掛けだけに、手入れが終わると大抵は喧嘩していた理由も忘れて、普段の距離感に戻ることを繰り返してる。
 子作りも続けているが、生憎とこちらに実りはない。その代わりに夜の営みは密度を増して、とうとう離れへ引っ越すよう周囲から抗議される段階まで来た。夜更けに本丸を出歩く際は、母屋からあまり離れないように、が皆の暗黙の了解となりつつある。

 庭の紫陽花が露を含み、手水鉢の波紋が消えない日の朝だった。
 起き抜けからどうにも長谷部の顔色が悪い。倦怠感が全身に纏わりついて、食欲は湧かず、微熱もある。
 同衾していた燭台切は附きっきりの看護を申し出たが、敢えなく長谷部に却下された。折悪くもその日の近侍は燭台切の持ち回りだった。

「怠慢は許さん。俺たちは主の刀だ、片方が斃れようと片方が散った相手の分まで忠義を尽くすべきだ。というわけで、こっちは布団と仲良くしてるから、俺の分まで主のために尽くせ」
 主命第一のこいびとに窘められ、多少後ろ髪を引かれながらも燭台切は責務を果たした。私情で組織の決まりごとを破るのは格好がつかないため、是非も無い。

 遠征部隊の報告を聞き、資材の確認をして、審神者と今後の方針を相談する。公務に対してはとかく真面目な刀である。近侍として為すべきことを成す間は、男の思考に雑念の入る余地はなかった。

「そろそろ鍛刀が終わる頃じゃないですか?」
 と、話題を振ったのは馬当番の鯰尾だった。厩の掃除を終え、一息つこうと厨へ寄った彼は、お裾分けという形で寒天の盛られた器を運んできた。そのまま審神者の部屋に居つき、ふと口にしたのが前述の台詞である。
 男士の顕現に立ち会うのも、近侍の仕事に含まれる。舌に残るきな粉を緑茶で浚い、燭台切は鍛錬所へと足を伸ばした。

 さて新人はどういった顔ぶれだろうと、何気なく工房を訪ねた男はいつにない驚きに包まれた。
「あーぅー」
 赤子である。年頃の娘など影も形もない男所帯には、およそ縁のないだろう生きものが二つ、掛台の傍近くに転がっている。

 丁寧にそれぞれ黒と紫の襁褓を身につけた乳飲み子は、燭台切を見て顔面をくしゃりと歪めた。奇妙なことに、嬰児に触れた経験などないはずの刀は、その皺だらけの面貌が喜びを意味していることに気付いた。
 さらにもう一つ、燭台切を唖然とさせる発見があった。番のように寄り添うふたつの影は、その小さな拳の中に半ばこより状になってしまった紙片を握りしめている。壊れ物を扱うように閉ざされた掌をこじ開け、燭台切は怒濤のような混乱から希望と喜悦を見出した。

「長谷部くんが僕との子を生んでくれますように」

 いつかの夜、とある刀は愛しい者と新たな縁を繋ぐ夢を見た。その夢が箱庭の住人に託されてより十月十日、祈りは現実となり、男の望みは最高の形で果たされた。
 離れの一室で寝入っていた長谷部が瞼を開ける。急に楽になった身体を訝しむ打刀は、母屋の方で起きている騒動を知らない。
 漆黒と煤色の髪を持つ双子を抱え、こいびとが戻ってくるまで、あと数刻の出来事だった。

「はせべくん」
 青磁のような滑らかな肌に、烏の濡れ羽より深い黒を戴く少年は、どこか舌足らずな調子で片割れを呼んだ。
 長谷部と呼ばれた少年も、黒髪の兄弟に負けず劣らず美しい。日に透けると鈍色に輝く直毛に、淡い紫の瞳は見る者の多くを魅了した。誕生の時を同じくする少年も、彼の紫色に強く焦がれるひとりである。

「なんだ、光忠」
 最愛の兄弟が呼びかけに応え、光忠少年は満足そうに頬を綻ばせた。見た目だけは瓜二つの片親と違い、この黒髪の美少年はよく笑い、よく怒り、よく泣く。衝動に流されやすいのは伊達男らしいのだろうか、と長谷部はたまに思うのだが、激情家を羨む刀の願望が反映されていると言えば納得もする。
 とはいえ、成長すれば中身まで燭台切そっくりになる可能性は高い。ふたりの長谷部は今だけしか楽しめない、無垢な子供の愛らしさをひどく惜しんだ。

「さっき畑でトマト貰ってきたんだ。一緒に食べよう」
「いいな、冷やして食おう」
 お気に入りの場所である樹上から下り、長谷部は兄弟と並んで川辺まで歩いた。

 本丸の裏山は幼い双子たちのなわばりである。幼いと言っても、三月も経たずに十歳前後の肉体まで成長した彼らに人の常識は通じない。他の男士たちと同じく、刀としての意識を常に持ち、遊びを通じて戦い方を学んでいるのだから、身内で彼らをただの幼子とあなどる者は皆無だった。
 ただし、肉体に精神が引っ張られることはままある。光忠は自らの兄弟を家族とは別の目線でも好いているが、その感情が肉欲に繋がった試しは今のところない。指を絡め、寄り添い、穏やかに眠るだけでも、少年は十分に満たされていた。
 川の流れに果実を浸し、赤い表皮にかぶりつく。歯を突き立てた途端に、瑞々しさが咥内に広がった。農業に一家言ある桑名が育てただけあり、何ら調理をせずとも舌が蕩けるほどの味わいが楽しめた。

「これだけ美味しいなら、もう全部生で食べてしまえば料理する手間も省けそうだな」
「僕と父さんの活躍の場を奪うのはどうかと思うよ」
「料理してあげようか、などと無駄に色気を振りまいて余計な嫉妬を買わずに済む」
「父さんはその過程も楽しんでるらしいから」
「ひどい男だな」
「僕もそう思う」
 二親の気質を色濃く受け継いだ兄弟は、さも他人事のように身も蓋もない評定を下した。

「お前は好きなやつを振り回して楽しむようなやくざ者になるんじゃないぞ」
「言い方」
「あと顔の良さを利用して無理難題を通そうとするのもだめだ。本当に格好いい男は惚れた弱みに付け込んだりしないものだ」
「相当誰かさんへの不満が溜まってることは解ったよ」
「少しくらい文句言ってもいいだろう。俺はこう見えて振られた身なんだから」
「誰が誰を振ったって?」
 日を背にしたきんいろが鋭く光る。俄に居心地が悪くなって、長谷部は思わず肩を竦ませた。兄弟を溺愛する光忠だが、時に垣間見せる語気の強さは、戦場に生きる刀の鋭さが強く表れている。どれほど愛嬌ある見た目をしていても、燭台切光忠はやはり燭台切光忠でしかない。

「父さんが自分に横恋慕する男を捨てた話だ」
「僕が君を捨てるわけないだろう」
「光忠じゃなくて、父さんの話だぞ」
「ひょっとして君、気付いてないのかい」
「何が」
「僕がどうして君と一緒に生まれたきたのか。僕が何故消えてしまったはずの恋文を握りしめていたのか」
 長谷部は燭台切に託された夢物語を、光忠は人知れず葬られるはずだった恋物語を。産声を上げたとき、双子はそれぞれ別の紙片を手にしていた。

 長谷部は夢での記憶を、昨日のことのように振り返ることができる。では光忠の方はどうなのか。今まで何となく言及を避けていたが、この片割れは己と同様に箱庭の欠片を継承しているのか。心臓が警鐘を鳴らす。真実を求める気持ちと拒む想いが、長谷部の中で綯い交ぜになった。

「はせべくんが言ったんじゃないか。夢の中の思い出はふたりだけの秘密にしたいって。君が夢を託されたなら、僕はこの約束を守るために生まれてきたんだ。僕はね、君だけの光忠になるために、ここにいるんだよ」
 白い手が長谷部の顔の輪郭をなぞる。朱を注がれた頬はいつしか涙に濡れていた。その顔ばせは、先頃水流に晒したトマトを彷彿させる。もっとも、新鮮な野菜より、縁側で分かち合った氷菓より、今の光忠には食欲をそそられるものが、目の前にあった。

「あともう一個、君が誤解してることがあるんだけど」
 長谷部のぼやけた視界に烏の濡れ羽色が広がる。額や鼻先に触れる黒髪のこそばゆさに悶える暇もなく、一瞬重なった温もりに、意識の大半がかっ攫われた。

「様子のおかしい親友のことが気になって仕方なかったから、花街には結局一度も行ってないんだよね、僕」
 書き手がその事実を知ったのは、ようやく本懐を遂げ惚れた男と身体を繋げた日のことである。あれから文字通り箱入り生活を続けていた長谷部に、自分が生まれた切っ掛けが勘違いだと知る機会などあるはずもない。

「今も昔も、僕の初めては全部君から教わったことだよ。はせべくん」

 一年越しの告白に、長谷部は為す術なく崩れ落ちる。力の抜けた片割れを抱き、光忠は込み上げる愛しさを唇に載せた。

 もう睡りから覚めることを嘆かずともよい。
 愛しき箱庭の日々は、今も長谷部の傍らにある。

 

 

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