夢追人は青い箱庭に帰り出づ - 1/3

 

 

 ノートの余白とシャープペンシル。
 その二つさえ有れば、長谷部国重は満たされた。

 

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 一つ目の踊り場に足を載せたところで、切妻屋根の頂きが姿を現した。階段を上がるたびに三角形の裾野は広がっていき、そのうち半円系のエントランスホールと目線が合うようになる。複数の柱で支えられた分厚い庇には、この施設の名前が刻まれていた。

 長船光忠は勤務四年目となるドルフィントレーナーである。ゴールデンウィークという名の繁忙期も過ぎ、溜まり溜まった有給を消化してきたばかりだった。
 実家に帰省し、地元の友人と再会を楽しむこと二日間。光忠は心から休暇を満喫していた自覚が有った。それにもかかわらず、復帰前に職場へと赴いてしまうのはほとんど病気の領域だろう。自分が不在の間もイルカは元気にしていたか。ちゃんと食事を摂っていたか。ふとした瞬間に思い出しては心が逸り、終には手土産片手に様子を見に来る始末である。

 水族館としては規模が大きい方だが、やはり平日の昼過ぎともなれば客の入りは少ない。近所に住む年配の夫婦や、男女の二人組がちらほら訪れるくらいで、先週との差は歴然としている。
 定刻となり、利用客を歓迎するための噴水が上がった。水柱で囲まれた円の中心にはイルカの像が鎮座している。ありふれた題材と言ってしまえばそこまでだが、光忠はこのモニュメントが嫌いではなかった。輪をくぐるイルカの虚像は、本物の飛沫を添えることで忽ち真に迫る。この作り物が生を宿すのは三十分に一回、今は八回目のジャンプの最中だった。
 しかし、いかに出来が良かろうと、光忠はここに留まるつもりは無かった。彼の目的はあくまでプールで泳ぐイルカであり、彼らを模した偶像ではない。もし左目で見慣れぬ鈍色の光を捉えなければ、光忠は早々に館内へと歩を進めていたことだろう。

 閑古鳥の鳴いていた広場だが、実は光忠以外の姿があった。水の壁の向こうで揺れる髪は煤色で、日の光を受けると抜き身の刀のように輝く。どこか幼さを残してはいるが、左右対称の整った顔立ちは、格好に拘る光忠をも唸らせる造形だった。
 制服を着ているから学生なのは間違いないだろう。今が平日の昼下がりでなければ、そこまで目につかなかったはずだ。

(校外写生か、何かかな)

 若者の膝に広がるノートを見て、光忠はそう判断した。勉強にしてはペン先があちこちに動きすぎている。講義に飽き、レジュメの余白に奇天烈な落書きをしていた大学の先輩とよく似た筆運びだった。
 気にはなる。気にはなるが、わざわざ近づいて中身を確認するのは不審者の振る舞いだろう。後ろ髪を引かれる思いをしながらも、光忠は若者に背を向けた。

 所用を済ませること小一時間、外のイルカが十回目のジャンプを試みる前に光忠は職場を離れた。外の光景は入館前と何ら変わりない。噴水の縁に座る学生の位置も、微動だにしていなかった。
 一度意識してしまえばもう遅い。どうせ後は帰宅するだけなのだからと、光忠の天秤は好奇心の方に大きく傾いた。

 紙面に影が落ちる。突然手元が暗くなり、青年は当然訝しんだ。さも気怠げに顔を上げた彼は言葉を失った。どんなに自分の記憶や知識を洗い直したとして、ここまで美しいものと会った試しはない。
 髪は夜よりも深い濡れ羽色、瞳は蜜より甘く香る琥珀色。肌は白磁の器を思わせる滑らかさで、整えられた眉は存外太く、男らしい輪郭を描いていた。街を歩けば嫌でも衆目を集めるだろうルックスである。青年――長谷部国重も例外ではなく、一瞬で目の前の男の虜になった。
 もっとも訪れたのは青い春ではなく、未知への恐怖心だった。長谷部は混乱した。まず以てこんな美形とは全く、これっぽっちも面識がない。そして彼の気を惹くような奇行を働いた覚えもない。あまりの理不尽さに長谷部は苛立ち始めた。どうして見知らぬ美丈夫に日照権を脅かさなければならないのか。

「すごい」

 文句の一つも言おうとしたところで、長谷部は先手を打たれた。高揚を滲ませた琥珀色が忙しなく瞬かれる。

「君、とても絵が上手いんだね! 風景画かと思ったら想像で描いてるなんて驚いたよ!」

 かなり勢い込んだ賛辞に、今度は長谷部が目を白黒させる番だった。直前まで男に抱いていた怜悧そうな印象が一気に崩れる。抗議を挟む余地は与えられない。白い歯を覗かせる大きな口はますます興に乗り、引き続き長谷部の絵に言及した。

「特にこのイルカ、とても良いね! 身体のラインといい、構図といい、魅せ方を判ってる人の描き方だよ! もしかして君イルカ好きだったりする? だったら僕とお揃いだね、嬉しいよ」
「い、いやあの」
「ただスケッチブックじゃなくて普通のノートに描いてるのが勿体ないなあ。課題じゃなくて趣味なのかい?」

 延々と捲し立てる唇の前に手が差し出される。黒ずんだ掌をまじまじと見つめ、光忠はようやく我に返った。とんだ無様をしでかしたと気づき、先とは別の理由で頬が赤らんでいく。若干の沈黙の後、光忠は青年に向かって深々と頭を垂れた。

「いきなりごめん。あまりに君の絵が心に響いたものだから、つい」
「い、いや少し驚いただけなので、あの反って居たたまれないので頭上げて下さい」

 許しを得て、光忠は改めて長谷部と向き直った。当然だが青年からは警戒の色が抜けない。とにかく気まずい雰囲気を払拭しようと、光忠は演技がかった咳払いを一つした。

「驚かせてすまなかったね。僕は長船光忠、ここの水族館で働いてるんだ」
 証拠とばかりに社員証を掲げられ、長谷部はおずおずとその字面を追った。やたらと麗しい証明写真の隣には聞いたばかりの姓名が確かに記載されている。
「ドルフィントレーナー」
「そうだよ。土日と毎週水曜日にイルカショーやってるから、機会があったら見に来てね」
 身分を明かしたことでやや安心したのか、青年の険が多少和らいだ。好機を逃さない光忠はすかさず「君の名前は?」と切り込んでいく。長谷部は真面目かつ昔気質な青年だった。相手が名乗ったのに自分が黙ったままなのはフェアじゃないと、脇に置いていた鞄をまさぐった。

「長谷部国重。そっか、長谷部くんって言うんだね」
 高校三年、受験生か。渡された学生証を眺め、光忠は風変わりな青年の身の上を思った。

 仮説その一、長谷部は美大志望である。であれば罫線の入ったノートなど使わず、スケッチブックに思いきり描き込んで然るべきだろう。
 仮説その二、受験勉強の中の息抜きである。これなら先の仮説よりは納得がいく。しかし、風景画でないのなら図書館か教室でも描写は可能だ。平日の昼間に、わざわざ人気のない公園を選ぶ理由がいまいち解らない。
 イルカや魚が海中を漂う絵は、唯一長谷部の想像を頼りに描かれたものだった。淡水魚と深海魚が一枚の絵に同居している時点でそれは疑いようがない。現実にはそぐわないけれど、賑やかで夢に溢れたキャンバスはある意味、水族館に似ている。

「今日は水族館で息抜きかい?」
 学生証を返し、光忠はさりげなく長谷部の隣に座った。ブレザーに包まれた肩が俄に強ばる。別に光忠の接近が原因ではない。煤色の髪が左右に揺れる。これこそが先の質問に対する長谷部なりの答えであり、一瞬竦んだ理由でもあった。

「お金、なくて。中には入ってない」
 辿々しい口調で補われた説明は、光忠の心を打った。
「割とお小遣いとか厳しい家庭なのかな」
「……多分」
 ノートに視線を落とす長谷部の横顔は暗い。自分のことを語るのに随分と曖昧な物言いも、受験生という立場も、平日に制服姿で外を出歩くのも、意味深長な事情を想像させるには十分だった。
 二人の背後で水の塊が迸る。頭上のイルカがまたも天を志し、輪をくぐった。十回目の飛翔である。水族館が本日の営業を終えるまで、二時間と三十分になった。

「長谷部くん、僕こう見えて水族館のスタッフなんだよ」
「知ってます」
「フランクで知られる光忠お兄さんとしては敬語は抜きがいいな。で、僕は従業員割引が利くんだけど」
「いえでも長船さん年上ですし、俺には割引無いですし」
「光忠でいいよ。つまり二人分出しても大した出費にならないってこと」
「会ったばかりの人にそんな呼び方と真似させられません」
「まあそうなるよね。だからさ、ここの入館料で君の絵を買おうと思う」
「は?」
「ダメかな? さっきの長谷部くんの絵、本当に気に入ったんだ」

 美の化身のような男が微笑む。日の光に照らされた一つ目が金色に輝いていた。こちらの意向を窺うような、穏やかな言い回しだというのに、長谷部はどうしても抗えない。
 この場合、男の容姿が同性にも通じる美しさであることは些細な影響しか及ぼさなかった。
 光忠に声を掛けられてから、長谷部の心臓はずっと早鐘を打っている。この青年が絵で無聊を慰めるようになって久しい。しかしながら、この趣味は長谷部一人の中で完結しており、他人に打ち明けたことなど今まで無かった。絵を褒められたのは光忠が初めての経験だった。誰かに価値を認められるとは、こんなにも心地良く胸が熱くなることだったのか。
 ノートを支える指先に力が入る。長谷部が水族館を訪れたのは、幼い頃に一度きりだった。朧気な記憶を不格好に繋ぎ、白黒だけで再現された似絵と本物は違う。生命が息づく青い箱庭に焦がれる気持ちを、長谷部は否定できなかった。

 案内に従い、薄暗い通路を進む。開けた場所に出た途端、シアンの眩しい光に迎えられた。数百もの魚影が水中にまだら模様を描く。薄い腹を見せながら漂うエイ、縦縞を揺らめかせて水底を泳ぐタイ、そして王者然として巨体を揺らすシャチ。
 息をするのも忘れて、長谷部は眼前の水槽に見入った。
 父に手を繋がれていた頃より十年近く経っている。背も伸び、物の見方も変わった。ここ最近は心揺さぶられるような経験をしていない。昔と違って楽しめないのでは、という長谷部の懸念は杞憂に終わった。
 光忠が隣の青年を横目で見る。長い睫毛にけぶられた二つの藤色は、明らかに恍惚を孕んでいた。

「お気に召しましたか、お客様」
「うん……あ、いや、はい」
 慌てて訂正する長谷部の傍らで忍び笑いが漏れる。敬語は要らないと断っているのに、中々どうしてこの青年は頑固だった。そのくせ展示には素直に喜んでみせるのだから、光忠としても見ていて飽きない。
「無理せず、長谷部くんが話しやすい方で良いよ」
「武士口調で話してもいいんですか」
「それではお代官様、閉館までおよそ二時間となりまして候。恐れながらこのままでは全て回りきれず尻切れトンボになる可能性があると申し上げざるを得ません」
「雑に合わせてこなくてもいい。でも回りきれないのは嫌だな」
「そうかい。じゃあ、名残惜しいけどサクサク行こうか」
 大きな掌が長谷部の肩を抱き、水槽から順路へと意識を向けさせる。一つ一つに割く時間は短かったが、忙しなさや不満を覚えることはなかった。長谷部が物足りなく感じたときには、必ず光忠の補足が入ったお陰だろう。現役スタッフによる解説や豆知識はさすがに聞きやすい。

「怖がらなくて大丈夫だよ。ほら触ってごらん」
「光忠が持つとなんかいかがわしく見える」
「思春期か。ご覧の通りただのナマコだよ」
「ただの……ひッ、なんかぬるぬるしてる……!」
「そうだね、ただのナマコだからぬるぬるしてるね」
「ふぇっ!? う、腕に載せるな! ぬるぬるが、ぬるぬるが!」

 腕の黒い胴体を引き剥がそうとするも、滑つく体表に戦き長谷部はまたも悲鳴をあげた。ふれあいコーナーならではの喜劇に光忠の口角は上がりっぱなしである。遊ばれたようで散々光忠に文句を垂れる長谷部だったが、人の成長は早い。最後には自らナマコを掴んで伊達男の顔面に突きつけていた。
 どこまでも続く水槽トンネル、七色にライトアップされたクラゲ、アクアリウムのコーナー。足早に抜けながらも、長谷部はその全てを精一杯堪能した。
 プールを泳いでいたイルカが背びれを沈ませる。よく訓練された彼らは、スタッフの合図一つで行儀良く整列し、順番にトレーニングセンターへと戻っていった。次いで館内に和やかな音楽が流れ始める。
 四時五十分。閉館まであと幾ばくもなかった。

 柱にもたれ、長谷部はまだ明るい西の空を望んだ。日が傾き、立ち並ぶビルのガラスに斜光が降り注ぐ。直方体の群れは徐々に夕暮れに呑まれ、一斉に巨大な鏡と化した。そこに映るのは似たり寄ったりな鉄の箱ぐらいで、青年の目を惹くようなものはない。しかし近場の噴水も本日の業務を終えて、今では水を湛えるだけの置物である。長谷部は仕方なしに、高台から駅の周辺をぼんやりと眺めた。
 豆粒ほどの人影がホームから吐き出される。服装までは見て取れないが、おそらくスーツや制服姿の乗客が多いことは容易に想像がつく。鞄の持ち手を、長谷部は何とはなしに握り直した。

「お待たせ」

 がさり、と紙の擦れ合う音がする。首をめぐらせた長谷部は言葉を失った。一足遅く水族館から出た光忠が、行きには無かった荷物を抱えている。
「何だそれ」
「当館の人気商品です」
「彼女へのプレゼントか?」
「惜しい、彼女じゃなくて彼だね。今日の記念にどうぞ」
 差し出された黒いビーズと長谷部の目が合う。イルカを象ったぬいぐるみは腕に抱くのに程よい大きさだったが、男子高校生が持つには愛らしすぎた。

「サービス過剰だ。チケット代だって立て替えてもらったのに」
「あれは立て替えじゃなくて、絵の代金として当然の出費をしたまでだよ。このぬいぐるみはそうだな、未来への投資ってことで」
「出世払いってことか」
「そんなに先の話じゃないさ。当館としてもリピーターが増えるのは大歓迎だからね、これを機に贔屓してくれると嬉しいな」
「バイトもしてない一学生だ。来たくても来られないぞ」
「じゃあ、そのときはまた新しく絵を描いてもらおう」
 さも名案そうに光忠が言い放つ。提案された側である長谷部は大いに顔を顰めた。あまりにも自分に都合が良すぎる。一般的な常識に照らし合わせてみても、こんな条件を鵜呑みにできるはずがなかった。

「却下だ。光忠にメリットがなさすぎる」
「メリットなら提示したじゃないか。チケット代くらいで長谷部くんの絵が貰えるなら安いものだよ」
「絵なら、それこそ土産コーナーで売ってるポストカードでいいだろう」
「それで満足するなら始めからこんな提案してないよ。僕は、君の絵が、欲しいんだ」
 年下の青年を諭す琥珀色に嘘はない。長谷部は未だに自分の絵が光忠の厚意に適うものだとは思えなかった。ここで首を縦に振ったのは、目の前の美しい男の言葉を疑いたくない一心だった。

 ラッピングされたイルカを受け取る代わりに、鞄からノートを取り出す。一枚の頁が切り離され、光忠の手に渡った。
 特別な画材は使っていない。ただシャープペンを思うままに走らせた絵は、ところどころ線が掠れたり、指紋が残っていたりした。素人目にも稚拙だと判る。

 イルカを抱く腕に力が入った。長谷部は叶うなら逃げ出してしまいたかった。つい今し方、本物という名の生きる絵画を見てきたばかりなのだ。所詮は手慰みの、拙い技量で描いた偽物とは比べものにならないだろう。光忠が口を開いたときが最後、あの麗しい唇が紡ぐのは失望の念に違いない。長谷部は俯き、審判のときを待った。

「ああ、やっぱり」
 ――君の絵は素敵だね。

 黄昏を閉じ込めた左目が細められる。薄暗くなる世界の中で、長谷部は一等その残り火が輝いて見えた。

 

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 開いたドアから外廊下の照明が差し込む。室内は静まり返っている。帰宅した一人息子を迎える者はいない。無人の居間には一人分の食事とメモが置かれていた。
 看護師である長谷部の母は夜勤が多い。父親は十年以上前に離婚しており、会わなくなって久しかった。一人で家計を支えなくてはならない母の苦労を長谷部は理解している。聞き分けの良い息子は積極的に家事を覚え、学業に励んだ。母子家庭というだけで付きまとう偏見から逃れるためには、不足など何ら感じていないよう振る舞うしかない。同級生と疎遠となってしまえば、最新のゲームやネットの話題についていけない焦燥感も覚えずに済んだ。

 そもそも離婚は父の浮気が原因だった。別れて半年も経たないうちに別の女性との間に子を設けた彼は、長谷部家の現状を果たして知っているのだろうか。
 昨晩のことだった。珍しく夕方に帰宅した母は、息子に模試の判定について尋ねた。ダイニングテーブルの端に刻まれた真新しい傷は、そういうことである。

 長谷部国重の腹違いの弟は有名私立中学に通っている。中高一貫校で偏差値は相当に高く、旧帝大への受験を視野に入れている生徒が大半だった。国重の父は医師である。女性遍歴に加えて立場も有るとくれば、人の口に戸は立てられない。
 自分を捨てた男が余所で幸せな家庭を築き、さらには息子の教育にも熱を入れている。放任主義を気取っていた元夫の変貌を知り、かつての妻は憤慨した。歪んだ愛憎は、一人息子への過度な期待と束縛を生み出した。
 向こうの息子よりも優秀であれ。対抗意識の塊となった母は、何としてでも国重を国内最高峰の学府へ入れようと決意した。

 長谷部国重に選択肢はない。彼は母からの愛情を得るために、勉学以外の全てを捨てなければならなかった。遊ぶなどもっての外で、高校生活のほとんどは机に向かって過ごしていた。不満は有ったかもしれないが、それよりも母に喜んでもらう方が大切だった。長谷部は母のために全力を尽くした。結果は、伴わなかった。
 研鑽不足の一言で片付けてしまうには酷な話だろう。この場合、求められているハードルが高すぎる。この時期にD判定なら健闘している方だと教師も励ましていた。その理屈は、長谷部の母には通じなかった。手こそ上げなかったが、彼女は凄まじい剣幕で息子の怠慢を詰った。

 翌日、長谷部は初めて学校を自主的に休んだ。登校するつもりで制服に着替え、用意もし、電車にも乗った。ただ最寄り駅で降り損ねた。ありふれた出来事だが、青年の張り詰めていた糸が切れるには十分だった。
 友人も作らず、ひたすら問題集と睨み合ってきた長谷部は娯楽に疎い。小遣いも昼食代など必要最低限の範囲でしか持たせてもらえず、まず以て浪費のしようがなかった。

 普段は利用しない駅に下り、改札を抜ける。歩道の舗装も、周辺の店構えも、何もかもが記憶と食い違っている。唯一変わっていなかったのは、湧き上がる水の頂点で跳躍するイルカの像と、水族館の名前だけだった。
 長谷部が父と過ごした時間は少ない。父というよりは、時折遊びに連れて行ってくれる親戚のおじさんという認識の方が正しかっただろう。オープンしたての水族館を二人で訪れたときには、既に父が家を去って数年経っていた。

「国重は、絵を描くのが好きなんだな」
 頬杖をついた父が何気なく呟く。売店で買ったばかりの自由帳には、子供らしいタッチで描かれたイルカやタコが所狭しと踊っていた。初めての水族館で長谷部もかなり上機嫌である。筆も乗りに乗って、また新しいページに鉛筆を当てた。
 子供を挟んだ男女二人が水槽の前に立つ。絵の中の三人は皆笑っていた。長谷部は満足げに完成した一枚を指さし、
「今度はおかあさんが休みの日に、いっしょに来ようね」
 叶うはずのない夢を口にした。

 そして親子が一堂に会することもないまま、長谷部は一人水族館の前に立っていた。不用意に訪れたため、入館料すら財布の中に入っていない。在りし日をなぞることもできず、だからといって今さら学校に行く気にもなれず、長谷部は途方に暮れた。
 噴水の縁に腰を下ろし、これからの予定を思う。息の抜き方すら判らない青年は、ひとまず考えをまとめようと筆記用具を取り出した。手遊びで動かしていたはずのペン先がいつしか流動的な線を描き始める。それからは無我夢中だった。長谷部はしがらみを忘れ、ひたすらに海原の幻想を指先に託し続けた。
 絵は良い。誰に頼らずとも、己一人で世界を作り、完成させることができる。長谷部にとっての絵は、自分のためだけに描くものだった。対外的な評価に繋がらなかったとして関係ない。絵を描くという行為そのものが長谷部の目的だったからだ。

「やっぱり君の絵は素敵だね」

 こんなことさえ言われなければ、長谷部の心が揺らぐことも無かっただろう。美しいかんばせを彩る琥珀色を思い返すたびに胸が騒ぐ。速まる鼓動を誤魔化すように、長谷部は男から貰ったぬいぐるみを掻き抱いた。

「みつただ」

 イルカに顔を埋め、この場にいない人の名を呼ぶ。過ごしやすい五月の宵にもかかわらず、火照った頬の熱はしばらく引かなかった。

 

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 水面が弾ける。空に舞い上がった灰色の身体は、掲げられた輪を見事くぐり抜けた。歓声と拍手が同時に沸き起こる。熱狂の中心に立つ青年が手を振った。彼が声援に応えたことで会場はますます盛り上がる。
 観客の視線を一身に集める彼だが、この舞台においてはあくまで端役である。主役であるイルカたちがプールサイドに集い始めた。水中から黒い突起が生え、ずらりと並ぶ。水で濡れたつぶらな瞳を見つめ返し、青年はその長い手足を折り曲げた。

「よくできたね、みんな良い子だ」

 マイクが青年の低音を余さず拾う。子供連れの母親たちが一様に悶絶した。ドルフィントレーナー、長船光忠の参加するショーではありふれた光景である。いつもと異なる点と言えば、彼の妖艶さに惑わされる人々の中に同性が含まれていたことぐらいだろう。

(これはお子様に見せていいものなのか……?)
 初見である長谷部は疑問符を浮かべた。ショーの内容自体に問題はない。光忠の進行役は堂に入ったもので、イルカたちの演技も見所がある。客からのリクエストにも即興で応える柔軟性も長谷部には好感触だった。
 ただ若干、イルカのお兄さんという役柄に対し、長船光忠は色気が有りすぎる。公共の場にはそぐわないあれこれを夢想し、長谷部は思わず下唇を噛みしめた。
 イルカにご褒美の餌をやり、また新たな演目に移る。ボール遊びや子供たちとの触れ合いなど定番の催しが続き、ショーは順当に消化されていった。

「みんな今日は来てくれてありがとう。次のショーは週末にやるから、お友達も一緒に見てくれると嬉しいな!」
 皆から惜しまれつつも、イルカとスタッフたちは舞台から捌けていく。退場をする寸前に光忠が客席を振り返った。目が合った、と感じたのは果たして長谷部の勘違いか否か。すり鉢状になった会場の最上段から、ステージまでの距離はかなり開いている。表情の変化など互いに読み取れないだろうに、長谷部は彼の琥珀色がぱちんと瞬かれるのを確かに目の当たりにした。
「ッ……!」
 会場の方々で黄色い声が飛び交う。アイドルさながらのウィンク芸は奥様たちの心をばっちり掴んだ。

「やっぱりあいつは教育によろしくない」
 ショーが終わり、周囲の喧噪も次第に遠ざかっていく。一人残された長谷部は携帯を取り出し、未だ使い慣れぬアプリを立ち上げた。

 噴水の縁に長い影法師が落ちる。閉館を報せる音楽が流れて三十分ほど経っていた。若い絵描きがキャンバスに落としていた視線を上にやる。予想に違わず、彼の足下まで伸びてきた黒い輪郭は、長谷部の見知った姿形をしていた。

「待たせたかな」
「いや、むしろあと五分欲しかった。悪いが今日は約束のものを渡せそうにない」
「え? 五分くらいなら普通に待つよ」
 そう言って光忠は長谷部の隣に座った。シャープペンの先があらぬ方向へ走る。ただえさえ光忠の気安さは心臓に悪いのに、筆運びをまじまじと見つめられては純朴青年が耐えられるわけがない。

「描きづらいから見るな」
「あ、やっぱりダメだった? 絵が完成していく過程を見るのって結構面白そうなんだけどな」
「他のやつはどうだか知らないが俺は恥ずかしい」
「今の段階でも十分見応えがあると思うけど」
「感覚的には着替えを見られるのと変わりない。お前はそんなに俺の下着が気になるのかスケベ」
「とんでもない喩えでとんでもない風評被害がもたらされた。わかった、大人しくして待ってるよ」
 さすがに年長者だけあって光忠は引き時を弁えている。右半身を苛む熱視線が失せて、長谷部はようやく安堵した。
 素より仕上げを残すのみである。集中する長谷部の筆遣いに迷いはなく、先に掲げた五分のうちに絵は完成した。

「できた」
「おお早い。ありがとう、長谷部くん」
 リングから切り離された一枚が光忠へと渡される。先日のノートとは異なり、長谷部が今回使用したのは歴としたスケッチブックだった。掠れも少なく、濃淡が一層鮮やかになった絵は以前より洗練されている。吐息を漏らし、光忠は紙片の中の世界に没入した。
 題材となったのは一匹のイルカとヒトだった。ヒトと言っても腕しか描かれていない。節くれ立った手から、辛うじて男性ということが判る。イルカの頭を撫でる彼が何を考え、何を好んでいるか、それらは全て見る者の想像に委ねられた。
 きっと優しくて穏やかな人柄に違いない。光忠は確信した。絵の中のイルカは自らに触れる掌を喜んでいる。このような関係に至るまでは少なからず苦労しただろう。自らの境遇と照らし合わせ、光忠は絵の中の男性に深く感じ入っていた。

「……何とか言え」
「ええ、せっかくだから噛みしめさせてよ」
「噛みしめるところあるか? 前に渡した絵よりシンプルだし、その、地味だろ」
 不遜な口調が語尾になるにつれ弱々しくなる。種々多様な生物が描かれた海中絵図と比べれば、イルカとヒトの手のみが登場する一枚は淡泊に映るだろう。言うまでもなく、長谷部に手を抜いたつもりはない。人に渡すものだからと、手慰みに描いていた頃よりも丁寧に作画したくらいだ。ただ華やかさで言えば前者に軍配に上がる。いかにも派手で煌びやかなものを好みそうな光忠がいずれを評価するのか、長谷部は不安でならなかった。

「ごてごてと飾り立てるばかりが芸術じゃあないだろう? 前の絵は賑やかで見ていて楽しかったけど、今日の絵はメインを絞ったからこその味わい深さがある。僕はどっちも好きだよ」
「さすがはイルカのお兄さん、口が上手いな」
「本日の光忠お兄さんはとっくに閉店してます。お世辞と思われてるなら、この絵の魅力についてもっと語ればいいのかな?」
「死因が褒め殺しになるのはごめんだ」
 口を開けばひねくれた返しばかりが出るものの、長谷部は光忠からの評価に救われた気がしていた。沸々と湧き上がる幸福感が四肢の末端にまで広がる。

 実のところ、長谷部はショーを見るまで筆が止まっていた。他人に認められたことで意欲は増したが、いざペンを持つと何を描くべきか解らなくなったのである。どうせなら光忠に喜んでもらえる絵を、と思索してみても一向に事態は上向かない。悩みに悩むうちに時間は経過し、気付けば水曜日を迎えていた。
 ちょうど平日で唯一イルカショーを開催する曜日である。初めて会ったときにも誘われていたので、気分転換も兼ねて長谷部は再び水族館を訪ねることにした。そこで感銘を受けた長谷部は、館外に出るなり矢も盾もたまらず画材を取り出した。スケッチブックに向かった彼はなおも相手を喜ばそうとしていただろうか。答えは否である。このときの長谷部は、純粋に手の赴くまま、描きたいと思った世界を綴らんとするのに夢中だった。

「それに、どっちも長谷部くんが楽しんで描いてたことが伝わってくるからね。僕もつられて嬉しくなるんだ」
 この言葉がどれだけ青年の心を癒やしたか、長船光忠は知らない。面映ゆさに悶えながら、長谷部は抜け出せなくなっていることを自覚した。

 

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 ローチェストの天板に新しいフォトフレームが置かれる。クリアカバーでしっかり保護されている中身は、いずれも年少の絵師から貰ったものだった。部屋の主人はインテリアに拘りを持っている。数ミリ動かしてはまたずらしと、傍からは全く差異の読み取れない調整が続く。当の光忠に妥協するつもりはない。彼は長谷部の絵が最も映える位置を真剣に考えていた。

「今帰ったぞー!」

 玄関先から陽気な声が響く。光忠も家具との睨み合いを止めて、帰宅した同居人を出迎えた。
「おかえり鶴さん。今日は珍しく身軽だね」
「ああ、ひとまず荷物は別のところに預けてある。ただ土産だけは持ってきたぞ、どうだこの仮面! 良い感じに尖ってるだろう!」
「物理的にもセンス的にも尖ってるけど、玄関に飾るのはNGだよ」
 周縁に突起物を生やした円盤は長船光忠の眼鏡に適わなかった。入ってびっくり、未開民族に崇められてそうなシンボルが客を出迎える趣向は敢えなく却下される。鶴さん、と呼ばれた白髪の青年は壁に宛がった仮面を渋々片付けた。

「まあ立ち話もなんだし、こいつをどこに飾るかの相談はリビングでしようぜ」
「そうだね、お茶でも入れようか。仮面は鶴さんの部屋以外で飾らせないよ」
未だ模様替えを諦めない同居人に釘を刺しつつ、光忠はキッチンへ向かった。湯を沸かしている間に適当につまめるものを用意する。長い海外出張を終えてさぞ日本の味が恋しかろうと、卓上には煎餅やあられなど渋い菓子が並んだ。

「俺としてはテレビの上あたりなんかが良いと思うんだよ。落ち着いたカーテンの色合いの傍にちょっとした刺激をプラスしよう」
「頑なに自分の部屋以外に持ち出そうとするね? 正直なところ自分でも扱いに困ってるんじゃないだろうね?」
 テーブル越しに向かい合い、引き続き光忠は酔狂者の戯言を話半分に聞いていた。

 鶴さんこと鶴丸国永は、光忠の大学時代の先輩である。同じサークルに所属していたことが縁で、ルームシェアを筆頭に、光忠は卒業後も何かと鶴丸の世話になっていた。
 同居とはいえど、鶴丸が自宅に留まっていることは一年を通してみても稀である。予告なくふらりと帰ってきては、奇天烈な冒険譚を語って光忠を驚かせていた。いったいどういう職に就いているのか疑わしいが、収入は悪くないらしい。ほとんど留守にしている割に、自宅にしているマンションは一人暮らしには贅沢すぎる作りだった。始めは光忠も恐縮していたが、隙を見せると怪しいインテリアに侵食されるため、早々に遠慮は無くなった。目が覚めたら何の動物とも知れない頭蓋骨と鉢合わせするのは御免である。

「仕方ない。光坊が引き取ってくれないなら伽羅坊にやるか」
「意地でも自分で使おうとしないな、この人」
「そりゃあ引っ越しが控えているとなったら、さすがに荷物を減らす努力はするさ」
「待って、引っ越し?」
「ああ。来月から本格的に海外で活動することになったんだ。あれ言ってなかったか?」
「反応からお察しだと思うけど初耳だよ」
「そうか。そういうわけだから、よろしくな!」

 愛嬌をたっぷり滲ませた鶴丸の笑顔に返す言葉もない。光忠は頭を抱えた。初めて会ったときから奔放な人だと思っていたが、今回はまた突拍子がなさ過ぎる。
 翌月まであと七日を切っていた。せめてもう少し時間が欲しかった、とは光忠自身の都合でしかなく、鶴丸に文句をぶつけるのは筋違いになるだろう。

 一般に、ドルフィントレーナーの給与は高い部類ではない。資格の有無でも変わってくるが、光忠は飲食店勤務との兼業で食い扶持を稼いでいた。
 いつまでも鶴丸の世話になるわけにはいかない。外見から軟派な印象を持たれがちだが、長船光忠は義理堅く、友人間でも金銭のやりとりをおざなりにはしなかった。多少無茶を通しただけあって、自立のための資金は着実に貯まってきている。
 しかし、この家を出た後も同じような生活を続けていては身体が保たないだろう。安定した生活を考えるなら、いずれかの仕事に専念して出世するのが手っ取り早い。
 もっとも、ドルフィントレーナーとしての栄達を志せば、イルカショーの現場から離れる可能性も高くなる。管理職になれば当然給与は上がるが、今の慎ましくも充実した日々には戻れない。
 実際、光忠は既に昇進の話を持ちかけられていた。前向きに考えてほしい、と有給を勧められた、つい先日のことである。そろそろ返事をしなければ、と悩んでいた矢先に鶴丸の引っ越しが先に決まってしまった。一人このマンションに残るなら、採れる選択肢は限られてくる。

「焦る必要はないさ。光坊が結論を出すまで、口座は俺名義のままにしておけばいい」
「いつまでも鶴さんに甘えていられないよ。いつかは決断しなければならないことだったんだ。今週中には答えを出すさ」
「なに後輩の面倒見るのは先輩の務めだろう。あまり一人で背負い込みすぎるなよ」
「ありがとう鶴さん、でも大丈夫だよ」

 衝撃の告白を経て、二人はそれから互いの近況報告で盛り上がった。ひとしきり笑ったり驚いたり、表情筋を酷使した光忠だったが、部屋に戻るなりベッドに倒れ込んだ。成人男性の体重を受けたスプリングが軋む。
 鶴丸にはああ啖呵を切ったが、正直なところ光忠自身答えを決めあぐねていた。薄給でもイルカたちと歩む日々は何物にも代えがたい。素より苦労は承知の上で選んだ職だ。今さら生活と秤に掛けて何になる。感情は否を叩きつけているが、理性は鶴丸への報恩や自身の可能性についてを冷静に分析している。花形とはいえ、イルカショーだけが水族館の魅力ではない。仮に管理側になったとしても、新たな動物を誘致し、様々な企業と提携する楽しみも有るだろう。
 考えれば考えるほど深みにはまる。暗中模索の問答に飽いて、光忠はシーツの海に沈んだ首を傾けた。二つのフォトフレームが視界に入る。片や常識の一切を排した想像上の深海と、片や光忠が焦がれた世界そのものを写し取った絵が嵌めこまれていた。

(きれいだなあ)

 長谷部がどのような事情を抱えているかは明らかでない。どのような想いをこれらの絵に載せたかも判らない。ただ光忠は、長谷部国重が思うままに描いた、鬱屈を忘れさせるほど美しい世界が好きだった。
 目を閉じる。現実から切り離された瞼の裏で、煤色の青年が筆を執っていた。

 

+++

 

「明日のショーも見に行く」
 用件だけの短いメッセージが送信される。今時の若者にしては珍しく、長谷部はSNS慣れしていない。親と連絡を取るときはほぼ通話で済まされていたし、中学に上がって携帯を持つ頃には親しい友人がいなくなっていた。光忠との出会いがなければ、マップやアラーム以外のアプリを導入しようとは思わなかっただろう。
 時刻は六時を過ぎている。何事も無ければ光忠も退勤している頃合いだった。長谷部は机に向かいながらも、携帯が鳴るのを今か今かと待ち構えた。長谷部と違い、既読がついてから光忠の返信は早い。その日も例に漏れず、二、三分で縦長のタイムラインが更新された。

「いつもありがとう、待ってるよ」
 メッセージに次いで猫のスタンプが表示される。素っ気ない長谷部の文面と違い、光忠は絵文字やスタンプ機能を使いこなしていた。いつもなら企画の案内やイルカの様子まで教えてくるのだが、今回はそれらの情報は付け足されなかった。代わりに続けられたのは、何とも抗いがたい誘い文句だった。
「よかったら明日は晩ご飯一緒に食べない?」
 これが実際に相対しての質問だったなら、長谷部は一も二もなく頷いただろう。液晶越しでは向こうの表情は読み取れず、同時に自分のひどく動揺する様を見られることも無い。震える指先で了承の意を伝え、長谷部は机上に突っ伏した。
 上昇する体温が下敷きにしたノートに伝わっていく。そのページの片隅には、特徴的なつむじを持つ黒髪の男性が描かれていた。

 落ち着いたジャズの流れる店内に踏み入る。壁は赤煉瓦を敷き詰め、カウンターキッチンの上部にはチョークボードのメニューが掲げられていた。ウッドタイルに合わせたオーク材のテーブルはよく磨かれている。
 いかにも洒落た内装に長谷部はたじろいだ。少なくとも、学生が息抜きで立ち寄るような場所ではない。制服姿なのも相俟って、長谷部は完全に萎縮していた。これで案内されたのが個室でなければ、水を飲むのも遠慮していたかもしれない。

「長谷部くん借りてきた猫みたいだね」
「う、うるさい。こんな小洒落た店には慣れてないんだ」
「ファーストフードに慣れている感じもしないけど」
「あんな値段の割に健康に悪いものは食べない」
「坊ちゃま、ここピザやサラダが中心ですがお口に合いますか」
「食べ物の好き嫌いはない。出されたものはちゃんと食べるさ」
 からかったつもりだが、予想外に真面目な回答をされて光忠は危うく噴き出しそうになった。まだ二週間ほどの付き合いとはいえ、長谷部といるとつくづく退屈しない。生真面目で、世間ずれしていなくて、口はあまり素直でないが表情がすぐ顔に出る。光忠にとっては何もかもが新鮮で、不思議と親しみを覚える青年だった。

「今日は誘いに乗ってくれてありがとう」
「良い飯には釣られておかないとな」
「あれ、手厳しいなあ。まあ、こうして来てくれたんだから結果オーライだよね。長谷部くんとは一度じっくり話してみたかったんだ」
 途端に据わりが悪くなって、長谷部は徒におしぼりを握りしめた。正面に座る男の一言一句に惑わされる。深い意味はないと判っていても、淡い期待を抱くのを止められなかった。

「別に、面白いことは何も話せないぞ」
「そんな気負わなくてもいいよ。僕にとっては面白いことかもしれないしね。あんな綺麗な絵を描ける子が、普段何を考えて何に興味を持っているかを知りたいんだ」
 甘酸っぱい緊張とは異なる理由で長谷部は肩を強ばらせた。それこそ絵を除いてしまえば、長谷部には勉強以外何も残らない。

「期待に応えられるような答えは、できない。ずっと勉強しかしてこなかったし、絵もたまに気晴らしで描いてたくらいで、誰に習ったわけでもないんだ。水族館だって、光忠と一緒に入ったときが人生で二回目の体験だった。多分、お前の想像以上に、俺は世間のことに疎いと思う」
 ぽつぽつ、と辿々しい口調で長谷部は自らの身の上を語った。両親が幼い頃に離婚して、今は母親と二人暮らしであること。中学に入ってからは勉強三昧で、友達もろくにできなかったこと。趣味で描いた絵を見せたのは、親以外では光忠が初めてであること。

 話せば話すほどに、長谷部は自らがつまらない人間に思えてならなかった。イルカと心を通わせ、子供から大人まで楽しませるショーを演ずる光忠とは到底釣り合わない。テーブルの木目が不意に滲んだ。唇を噛みしめ、感情が決壊しそうになるのを押し止める。とうとう自己嫌悪で喉がつかえ、長谷部は口を閉ざす他なくなった。

「長谷部くんは、頑張り屋さんなんだね」

 サックスとピアノの協奏が不意に遠ざかる。悲鳴をあげる心臓がうるさいせいだろうか、長谷部の耳は周囲の音をろくに拾わなくなった。うるさいほど響く鼓動の中で、ただ光忠の声だけがはっきりと聞こえてくる。

「勉強しかしてこなかった、なんて君は言うけれど、母親のためにそこまで努力できる人は中々いないよ。友達だってできなかったんじゃなくて、作らなかったんだろう? 仕事で忙しくしているお母さんを間近で見てたら、まあ自分だけ遊ぼうなんて気にはなれないよね」
 人並みに遊ぶ同級生を羨んだことは数知れない。テストの点を見せ合って一喜一憂したり、部活動に取り組んで切磋琢磨できる友が欲しいと何度願ったことか。長谷部はそれら全てを気の迷いと切り捨ててきた。他者からの理解を求めながら、交流の一切を排除してきた長谷部にとって、光忠の文句は甘美に過ぎる。

「……理由はどうあれ、勉強以外何もできない俺と友達になりたいってやつはいないだろう」
「その反証が目の前にいるじゃないか」
「一回りぐらい歳が違う気が」
「友情に年齢は関係ないし、僕は今年で二十六だからね。長谷部くんと八歳しか離れてないからね?」
「知ってるか、学生にとって一年の違いは大人のそれより大きい」
「二十歳超えたら一年なんて誤差の範囲だよ。それに長谷部くんとは結構気が合うと思うんだ」
「現在進行形で会話が噛み合ってないのにか?」
「話が合わなくても気は合うかもしれないだろう?」
 光忠の主張はいまいち呑み込みがたい。怪訝に思いながらも長谷部は抵抗を諦めた。長船光忠という男は、一見柔和なようで意外に強引な節が有る。チケットやイルカのぬいぐるみがその良い例で、今回も長谷部が頷くまで得意の弁舌を振るい続けるだろう。

「たとえば長谷部くん、コーヒーと紅茶ならどっち派だい?」
「コーヒー」
「こしあんとつぶあん」
「つぶあん」
「犬と猫」
「どちらかといえば犬」
「ほら、やっぱり気が合う」
「心理テストか何かか?」
「単純な嗜好の確認だよ。心理テストっていうのはもっとこう……そうだな、あるところに夢を追い求めている男が一人いました」
「本当に始めるやつがあるか」
 相手が眉根を寄せようと光忠は全く意に介していない。長谷部は一足先に届いた揚げじゃがを口に運んだ。

「男は無事に夢を叶えました。しかし、彼の夢はお金になりません。お金がなければ生活が立ち行きません」
「生々しいし暗いな」
「そんなある日、お偉いさんが男の下にやって来ました。彼は国の重鎮で、是非とも男を自分の部下に欲しいと言ってきたのです。この申し出を承諾すれば、立身出世は思いのまま。今の生活とは比べものにならない富と名誉を約束されるでしょう」
「設定も展開もファンタジーだな」
「男は悩みました。夢を採れば困窮し、生活を採れば夢から引き離される。彼はそれまで夢を叶えるためだけに生きてきました。他の道なんて知りません。あれこれ考えるうちに、決断の日がやって来ました。さて、この問い、長谷部くんならどう答える?」

 男の生い立ちと世界観の掘り下げがようやく終わる。長谷部は指先についた塩気を拭い、まるで自分とは縁のない二択について思索した。
 長谷部は夢を追う男の心境が理解できない。人生の大半を母親のために費やしてきた若者は、自分が将来どうありたいかなど一度も考えたことは無かった。夢と現実の乖離など物語の題材としてはありふれた部類だ。しかし長谷部にとってはあくまで例え話であって、自分自身に置き換えて考えることはできそうにない。

「死んだら夢どうこう以前の話だろう。俺ならお偉いさんとやらの話に乗る」
「へえ、意外に現実主義だね」
「ふん、夢も希望もない答えで悪かったな。所詮こいつと俺とは別人なんだ。男の立場になって考えろなんて設問は小学校のテストまでにしておけ」
「夢も希望もない子があんな絵を描けるとは思えないけどなあ」
「将来絵で食っていくつもりはないしな」

 好きな絵をいつまでも好きなように描いていられるなら、それは理想の職業だろう。もっとも、そうした生活を営めるのは上澄みの中の、さらにごく一部の層に限られる。知名度を得るには相応の下積みを要求されるし、自分の趣向に沿わない作風を依頼されることもままある。長谷部は絵によって地位を得たいわけではない。描きたいときに描きたいものを描く。この権利さえ守られていれば、長谷部は他に何も要らなかった。

「出世しても忙しくなっても、紙と鉛筆さえあれば絵はどこでも描ける。男の立場になった俺が考えた結論はそれだ」
「ええ、なんかずるくないそれ?」
「正しく自分の身になって考えただけだが? 大体、こいつも悩んでる時点で少しはお偉いさんの話に惹かれてるんだろう。死んだら後悔もできないが、生きていればやり直しは利く。まあ、ここで夢を選ぶようなやつは、良い意味でも悪い意味でも狂ってるから未練を残すような真似はしないだろうがな」
 言い切って、長谷部は手付かずのグラスを煽った。家庭の事情から心理テストの回答まで喋り通しである。渇いた喉に水がよく馴染んだ。

「で、この心理テストで何が判るんだ?」
 濡れた唇を軽く拭い、長谷部は診断結果を待った。出題者である光忠はどこか上の空な様子で、瞬きすらしていない。長谷部が目の前で手を振り、揚げじゃがを唇に押しつけて、やっと琥珀色の焦点が合わさった。

「おい、大丈夫か?」
「ああ……ごめん、ちょっと考えごとしてた」
「診断結果の?」
「当たらずとも遠からずかな」
「で、結果は出たのか?」
「そうだね。おめでとう、長谷部くんと僕の相性はばっちりだよ」
「心理テストはどこいった」
「僕との相性が判る心理テストだよ。僕たち良い友達になれそうだね!」

 衝撃の結果を受けて、長谷部はさらに困惑の色を強くした。すっかり光忠は調子を取り戻したようで、おどけつつも年長者らしい振る舞いを崩さない。
 そうするうちに料理が届いて、会話はより弾むようになった。厨房によく立つだけあり、光忠は食に関して一家言持っている。その慧眼による店選びは見事的中し、長谷部の舌を存分に満たした。

「長谷部くん、今日は本当にありがとう」
「いやむしろ世話になったのは俺の方だ。ごちそうさま。かなり美味かったぞ、この店」
「気に入ってくれたなら嬉しいな。今度はまた別のオススメを紹介するよ」
「今度?」
「そう、今度」

 長い睫毛に縁取られた琥珀色が眇められる。夕闇に包まれた街角で、柔らかく弧を描いた一つ目が長谷部を見つめていた。じわりと身体の内側が灼かれていく。質の悪い男だと、長谷部は内心毒づいた。この美しくもお節介な男は、年下で同性の友人に惚れられているとは微塵も思っていないのだろう。だからこそ相手の慕情を拗らせるような台詞を平然と言ってのける。悲しいことに、長谷部はその厚意を撥ね除ける気概は持てなかった。

「楽しみに、してる」

 長谷部の応えを聞き、光忠はますます喜色を満面に滾らせた。好奇心から始まった出会いではあるが、交流を重ねるにつれ、光忠は着実にこの年少の友人に惹かれつつあった。たとえ新しい絵を見ることが叶わずとも、長谷部ともっと話す機会が欲しいと思うくらいには好感を持っている。

 決定的だったのは心理テストの件だろう。実際は診断でも何でもなく、光忠の現状をぼかしただけの例え話だったのだが、長谷部は予想外の答えをくれた。本当は夢を選ぶために背中を押してもらいたかったのかもしれない。ただ彼の青年は出題者の淡い期待には沿わなかった。境遇を理解できないなりに自分が思う正答を導きだし、理想に拘泥する光忠の尻を引っ叩いた。
 夢と現実、いずれかを選ばなければいけないというのは勝手な思い込みに過ぎない。長谷部はいついかなるときでも絵は描けると言った。たとえ管理職に移ったとしても、イルカたちの世話ができなくなるわけではない。理想に殉ずるのは善悪問わず狂人の生き様だが、光忠は生憎と真っ当な人間だった。狂うにも才能が要る。お前にはその才能が無いと長谷部に断じられ、光忠はいっそ清々しいぐらいだった。

「勉強で忙しいとは思うけど、夏休み中にまたショーを覗きに来てくれるかな」
「気が向いたらな」
「宜しく頼むよ。何しろ、光忠お兄さんの引退ショーになるかもしれないからね」
「は?」

 長谷部が本日何度か判らない驚愕の声をあげる。隣にいる光忠は、してやったりとばかりに口角を歪めていた。

 

+++

 

 単調な電子音が鳴る。メッセージの受信を伝えるそれを聞くたび、塞ぎがちな長谷部の心は躍った。
 画面をタップして表示されるのは、予想に違わず光忠の名である。

「お疲れ様。今日の一枚だよ」
 労いと共に画像が添付される。写っているのは、円柱型の水槽に浮かぶ多数のクラゲだった。薄暗い室内において、緩慢に泳ぐクラゲだけが色彩の所有を許されている。透明な身体を持つ彼らは、時に赤から黄色、緑から青へと自由に装いを変えた。秒ごとに移り変わる光のアートに長谷部が驚嘆したのは、今より一ヶ月も前のことである。

 暦は進み、六月の下旬を迎えて湿っぽい梅雨の時期に突入した。小雨が窓を叩く音で朝の到来を知る日も少なくない。
 悪天候が続く中でも、長谷部は週に一度は必ず水族館を訪れていた。今ではスタッフとも顔馴染みとなっている。学生にしては足繁く通う長谷部だったが、家と学校ではなおも優等生然としていた。ふとしたときに腕に抱くイルカのぬいぐるみも、普段はクローゼットの奥へと潜ませている。
 受験勉強はもはや長谷部の習慣の一部だった。日常に新たな楽しみを見出したとしても、根幹である母への献身を忽せにはできない。本来なら光忠とも疎遠になるべきだろうが、一度折れかけた自身を救ってくれた恩人との繋がりは絶てなかった。絵に関しても同様である。以前はノートの片隅に描くだけで満足していたはずが、今では勉強よりも余程熱心にスケッチブックへと向き合うことが増えた。

「俺は、親不孝者だな」

 自嘲気味な呟きが数式の羅列に落ちる。光忠への返信を終えて、長谷部が取り出したのはすっかり背表紙がくたびれたクロッキー帳だった。光忠に渡すスケッチブックとは違い、こちらは正真正銘、誰にも見せられない内容が綴られている。
 冊子の半分ほどは既に埋まっていた。描き込まれているのはどれも同じ人物だったが、長谷部が彼に飽くことはなかった。
 黒漆よりも艶のある髪、絹のように滑らかな肌、目鼻立ちのはっきりとした顔つき、逞しくも均整の取れた身体、自分を見下ろすほどの長躯。いくら紙面に起こしても、その美しさを形にすることは叶わない。もどかしいが、長谷部はその歯痒さとの付き合いすら楽しんでいた。

 光忠は長谷部に良くしてくれている。昇進試験の対策の他、繁忙期に向けてショーの準備も有るだろうに、長谷部が職場に来れば必ず相手をした。話しているときは年の差なんてほとんど意識させないのに、時には年長の友人として含蓄ある言葉を寄越す。
 要するに、長船光忠は長谷部の良き友人であり、兄貴分だった。彼もまた長谷部を可愛い弟分と思っていることだろう。それ以外の関係にはなりようがない。いくら長谷部が一人の男として光忠を想おうと、同じだけの熱量を返されることは到底有り得なかった。
 何かの拍子に長谷部の片恋が知られたとしても、光忠がそれを素気なくあしらうとは考え難い。おそらくは苦笑を浮かべて、気持ちは嬉しいよと耳触りの良い文句を述べるのだろう。それから続く言葉は、長谷部の望むものではない。
 今日もまた白紙のページが埋まる。絵の中の光忠は、恋しい人の手を取って艶っぽく微笑んでいた。彼の恋人は腕から下しか描かれていない。全てが許される想像の中でさえ、長谷部は光忠の隣に立てずにいた。

 カタン、と扉を隔てたさらに奥から物音が聞こえる。長谷部は慌ててクロッキー帳をしまい、自室を出た。

「おかえり、母さん」
 ただいま、と抑揚のない声が返ってくる。短い挨拶だけを交わし、母は息子の脇を通り過ぎた。それ以上の会話は無い。住人が一人から二人になろうと、この家の静けさは変わらなかった。
 自室に取って返した長谷部は、机ではなくクローゼットに向かった。吊られた服の山を掻き分け、収納ボックスの蓋を開ける。横長の箱に眠るぬいぐるみを引っ張り、長谷部はその柔らかい生地に顔を埋めた。

「みつただ」
 くぐもった呼びかけがイルカの腹に吸われる。春から数えて、二度目の模試が迫っていた。

 

 

 その日も変わらず、朝から雨が降り続けていた。この勢いから察するにイルカショーの中止もやむを得ないだろう。光忠は溜息をついた。湿気で髪型が崩れることもそうだが、イルカたちの見せ場が減ることを思うと、どうにも雨の日は好きになれない。
 いまいちやる気の出ない我が身を叱咤し、光忠は思いきって家の掃除を始めることにした。主な対象は既に引っ越していった鶴丸の部屋である。客間として使ってくれ、と一部を除き家具が据え置きになった空間は雑然としていた。怪しげなグッズの大半は回収させたが、棚の整理や雑誌の処分などやれることは沢山有る。

 断捨離を進めること一時間。スペースも随分と余裕ができて、そろそろ何を置くかの段階に入りつつあった。色々と考える光忠だったが、自室のチェストや壁を見た途端に悩む余地は無くなった。
 厳選に厳選を重ね、断腸の思いでフォトフレームを数個手に取る。光忠が客間に戻ると、本棚のぽっかりと空いた隙間にモノトーンの絵が収まった。幾度も重ねられた鉛筆のタッチが、白一色のボックスの中でより際だって見える。長谷部の絵は、光忠以外の部屋にあってもインテリアとして申し分なかった。

「長谷部くんにも送ろう」
 今日は休日で水族館の写真は送れない。渡りに舟とばかりに、光忠は生まれ変わった客室をカメラのフレーム内に収めた。
 軽くトリミングを施した画像を長谷部へと送信する。どんな反応が返ってくるか、光忠は肩を揺らして既読が付くのを待った。

 一向に鳴らない携帯を置き、それからしばらく光忠は作業を続けた。六時を回って、夕飯の支度を始めようかという頃合いである。光忠は半ば忘れかけていた携帯の画面をもう一度確認した。
 ロックを解除し、SNSのトーク画面が真っ先に復帰する。最新のメッセージは光忠が先刻送ったものから変わっていなかった。既読はついているものの、長谷部からの返信は届いていない。忙しいのだろうと納得しかけたが、光忠はふと嫌な予感を覚えた。虫の知らせと言った方が正しいかもしれない。

 光忠は電話帳から長谷部の番号を探した。杞憂で終わるなら良し。過保護と思われようとも、長谷部の家庭事情を知っているのは光忠の他にいなかった。彼の性格からして、何事か起きたとしても素直に光忠を頼ってくるとは思いがたい。
 無機質なコール音が一回、二回と繰り返される。脂汗が光忠の背を伝った。十回目、固唾を呑む。二十回目、もはや祈るしかない。三十回を超えた時点で、光忠は傘片手に家の外へと駆け出していった。
 エレベーターに乗り込み、マンションを出るまでの間にコールの数は三桁にまで達した。未だ長谷部は応答しない。電源が切れているなら、その旨をアナウンスが伝えるだろう。携帯をどこかに落とした可能性も有る。鞄の奥深くにしまい込み、単にコールに気付いていないだけかもしれない。楽観的な予測を立てても、光忠の逸る心を落ち着けるには至らなかった。

 ホームドアが開き、雨の匂いを吸ったスーツと革の臭いから解放される。後は帰宅するだけのリーマンを掻き分け、光忠は通い慣れた道をがむしゃらに走った。
 水を吸った靴を持ち上げ、広場へと続く階段を進む。閉館時間を過ぎて久しい水族館の照明は落とされていた。大きい庇で守られたエントランスの下は、街灯の明かりすらまともに届かない。太い円柱に隠れた影を光忠が見つけられたのは、ほとんど幸運の為せる技だった。

「長谷部くん」
 直接声を掛けても一人蹲る青年は何も返さなかった。身につけた制服は色が変わるほどに濡れそぼっている。水浸しを逃れているのは、彼が抱え込んでいる鞄だけだった。

「行こう。そのままだと風邪ひいちゃうよ」
 長谷部は頑なに無言を貫いている。このままでは埒が明かないと、光忠は了承を得るより先に青白くなった腕へ指先を伸ばした。
「はなせ!」
 搾り出すような叫声が男の善意を拒む。光忠は絶句した。打ち払われた手と長谷部を交互に見、つい今し方起きた事態が信じられぬとばかりに目を瞠った。

「なんで、きたんだ」
「長谷部くんが電話に出ないから」
「気付いてなかっただけかもしれないだろう」
「返信もくれないし」
「見ての通り、そんな気分じゃない」
「返信する余裕もないくらい落ち込んでるのかなって考えたら、身体が勝手に動いてた」
「よけいなお世話だ」
「お節介焼きなのは君もとっくに知ってるだろう?」
「……おまえにだけは、たよりたくない」
「頼ってくれなくてもいいよ。勝手に世話を焼くから」
 傘を放し、光忠は両の掌で友人の冷たくなった片手を包んだ。貼りついた煤色の奥で、虚ろな目が重なった肌をぼんやりと捉えている。

「家に帰れとは言わない。何があったのかも今は訊かない。だから、せめて僕の家に着くまではこっちの好きにさせてくれ」
 強ばっていた手から力が抜ける。光忠は今度こそ長谷部を立ち上がらせ、その背を押した。
 鞄を守るように持つ長谷部の腕は空かない。雨はまだ止んでおらず、使える傘は一本のみである。とうに濡れ鼠となった長谷部を優先し、光忠は肩を濡らしながら歩いた。マンションに着く頃には、二人揃って雨垂れを滴らせていた。

 ドラム式の洗濯機の中で白いシャツとチェックのズボンが回っている。薄手の夏服なのが幸いした。乾燥機能を使えば朝方には十分着られるだろう。問題なのは服よりも鞄の方だった。
 いくら長谷部が身を挺して庇ったといっても、やはり限度は有る。濡れた制服の水分を吸い、ネイビーのスクールバッグは大部分が黒ずんでいた。中身を取り出し、内と外の両面にドライヤーを当てたいところだが、光忠一人での開封は認められなかった。
 どれだけ長谷部にとって大事なものが入っているというのだろう。気にはなるが、友人の信頼を裏切ってまで確かめようとは思わない。光忠は新聞紙を敷き、外側をブローするだけに留めておいた。
 共に入浴を済ませ、片付けて間もない客間に集まる。血色も髪の艶も戻ったが、長谷部の口はなおも重たいままだった。

「そういえば写真の感想、聞いてなかったね。どうだい、我ながら良い配置になったと思うんだけど」
「……わざわざフレームに入れて飾るほどか?」
「君の絵をいつでも見られるようにするにはこれが一番適当だろう?」
「そんなに俺の絵が好きか」
「大好きだよ」

 衒いなく、光忠は自身の気持ちを率直に伝えた。二つの部屋に跨がって飾るほど絵を貰い、そのたびに光忠は長谷部の作品がいかに素晴らしいか説いてきた。真心からの言葉にもかかわらず、長谷部はいついかなるときも友人からの評を疑った。今もまた、若い絵描きは顔を顰め、部屋着の裾を握りしめている。

「どこがいいんだ。あんな、素人の走り書き」
「うーん、沢山あるけど強いて一つ挙げるなら……楽しんで描いてることが、見てる側にも伝わってくるところ、かな」

 技量こそ違うが、その魅力は幼子がクレヨンで書き殴った画用紙に近い。小難しい理屈を打ち捨て、ただ描く行為そのものを楽しんだ絵は、たとえ拙くとも人の心を動かすのに足りる。一種の郷愁にも似た感情を喚起させる、長谷部の絵には、そのような力が有った。

「じゃあ、俺はもうお前の気に入る絵は描けない」
「どうしてだい」
「もう絵を描いても楽しいと思えない」
「今は気が滅入っているからそう感じてしまうんじゃないかな」
「無理だよ! 無理、無理なんだ!」
 長谷部が声を荒げる。激しくかぶりを振り、ベッドを叩く姿は癇癪を起こした子供も同然だった。鬼気迫る様子に光忠もとても口を挟めない。

「今日、模試の結果が返ってきたんだ」
 箍が外れたのか、捨て鉢となっただけか、長谷部は途端に饒舌になった。先刻喚き散らしていたのが嘘のように、淡々と、熱を失した声で数時間前の出来事を振り返った。

「結果は前より悪くなってた。まあ当然だよな、勉強時間だって前より減ってるだろうし。覚悟していた分、五月のときよりショックは無かったと思う。もっともそれは俺の捉え方の問題で、母さんにとってはそうじゃなかったんだけどな」

 激しく罵られることはほぼ確定、勢い余って殴られるかもしれないが、当然の報いだろう。長谷部は内心開き直って、母に模試の結果を手渡した。予想は半分当たり、半分外れた。母親は怒るよりも嘆いた。およそ今までとは違う態度に、流血すら覚悟していた息子は呆気にとられた。

「貴方を信じていた私が馬鹿だったの、ねえ国重、答えてちょうだい。私が仕事でいない間、貴方はちゃんとしっかり勉強をやっていたの」
「あ、ああ」
 涙ながらに問い質してくる母に気圧され、息子は気のない返事を寄越した。後にして考えれば、この曖昧な肯定こそが長谷部自身の首を絞めることに繋がった。母は息子に詰め寄るのを止め、踵を返した。幽鬼のようにふらふらと、覚束ない足取りで消えた母親は一分足らずでまた戻ってきた。その手には、自分以外決して知らないはずのクロッキー帳が握られていた。

「国重、もう一度訊くわ。私がいない間、しっかりと勉強をやっていたのよね?」
 今度こそいい加減な答えは許されない。しかし長谷部の震える舌は、真実も虚偽も何一つ言の葉にできなかった。この場に限っては沈黙こそが最も雄弁な答えである。

 全てを察した母はクロッキー帳の表紙を捲った。スケッチブックとは異なり、一枚一枚のページは薄く柔らかい。女の細腕でも引き裂くことは容易だった。
 紙片が舞う。恋しい男を想い綴った日々が、ただの紙屑となって床に散乱した。

 それから先は長谷部もあまり詳しくは把握していない。急に首の裏がかっと熱くなり、周囲の音が一切耳に入らなくなった。気付いたときには、破れたクロッキー帳の破片を拾い集め、それらを鞄に詰めていた。母の制止も振り切り、傘も持たずに降りしきる雨の中を突っ切っていた。
 文字通り冷えた頭で、長谷部はこれから先のことを考えた。いつぞやの欠席騒ぎどころではない。友人はおろか知人さえ少ない長谷部には、今晩泊まる場所の当てすら思い浮かばなかった。いや正確には一人候補者がいたが、その相手にだけは頼ることはできなかった。

 光忠は優しい。絵に熱中するあまり長谷部が成績を落としたと知れば、自分のせいだと責任を感じてしまうだろう。それ以前に絵の破片が見つかるようなことが有れば、もう目も当てられない。
 そして足の赴くのに任せ、長谷部が辿り着いたのはまたしても水族館だった。施設の中は静まり返っている。水族館は閉館し、雨の広場を散歩する変わり者もいない。行き場を無くした青年はここを一晩の仮宿と見定めた。朝までは誰に見つかることもなく、雨を凌いでいられるだろう。光忠が探しに来るという不測の事態が起きなければ、長谷部は今も冷たい石畳に腰を下ろしていたはずだ。

 何もかも上手くいかない。いつしか懊悩は苛立ちに変わり、苛立ちは自暴自棄を呼んだ。
 話し終えた長谷部が自らの鞄を持ち上げる。ファスナーを開けるや、底部が天井を向くように上下をひっくり返した。

「これで、お前にだけは頼りたくなかった理由も、もう絵を描けない理由も解っただろう」

 座っていた光忠に紙吹雪が降り注ぐ。床に落ちた絵の断片を見れば、繋がって一枚の絵になっていなくても誰が描かれたものか判るはずだ。どれも同じ人物を描いている以上、答えに辿り着くのも早い。光忠の長谷部を見る目が変わった。奇行に対する反応ではなく、友人と思っていた相手に裏切られた驚愕が、彼の琥珀色に滲んでいた。

「俺はな、初めて会ったときから光忠のことが好きだったんだ」

 愛の告白にしては随分と悲壮な顔つきだった。無理矢理に頬の肉を吊り上げ、笑顔を取り繕った表情は痛々しいことこの上ない。

「間違いなく、この散らばった絵を描いているときが一番筆が乗ったな。母さんのことも、受験のことも忘れて、ただ光忠のことを考えていられる時間は幸せだった。でも、お前が俺に望んでいる絵はこれじゃないんだろう? 気持ち悪いか? 同性で年下のガキなんかに好かれて、何枚も何十枚も自分をモデルにした絵を無断で描かれて! あんな雨の中、俺を探しに行ったことを後悔してるだろう! 見損なったよなァ! 友人だと思っていたやつに恩を仇で返されて! ああ、追い出す必要はないぞ。自分で勝手に出て行くからな」

 捲し立てる長谷部の頬が濡れ始めた。一度決壊したものは止まらず、なおも自嘲を続けようとした舌は引っ込んだ。フローリングにぽつぽつと水滴が落ちる。袖で拭っても目元が腫れるばかりで、長谷部にはどうすることもできない。いっそ逃げだそうとして、力強い腕に押し止められた。

「行かせないよ」
 水族館の前よりも語調を強め、光忠は長谷部の手首をしかと掴んだ。油断を突くように腕を引かれ、溜まらず長谷部は体勢を崩した。床に強か身体をぶつけるよりも先に、光忠の両腕が長谷部を支える。しぶとく抵抗したところで、二人の体格差は明らかだった。拘束から逃れられず、長谷部は涙混じりに文句を言った。
「はなせ」
「嫌だ」
「なんで、だって、きもちわるいだろ」
「どうして長谷部くんをそんな風に思わなくちゃいけないのさ」
 初めて触れた身体は自分より一回りも小さく、細い。長谷部の言うような嫌悪感など、光忠は少しも抱くことができなかった。

「おれ、おれはおまえのことがすきなんだぞ」
「ありがとう。長谷部くんみたいな子にそう言ってもらえるのは嬉しいよ」
「うそ、うそだ」
「嘘ならこうやって引き留めたりしない」
「すきでもないくせに、やめろよ。よけいむなしくなる」
「好きだよ。君の気持ちとは少し違うかもしれないけど、僕は人として長谷部国重に好意を持っている。詰られようが蹴られようが、泣いてる君を放っておくことなんて絶対にできやしない」

 優しく背を撫でられ、長谷部は男を拒むことを忘れた。胸を押し返していた手が垂れ、目の前の身体に体重を預ける。肩口に額を寄せれば好きな人の匂いがして、長谷部はとうとう耐えられなくなった。

「みつただ」
「うん」
「おれ、おれほんとうは勉強なんてしたくないんだ」
「うん」
「かあさんによろこんでほしくて、ずっとむりしてきたけど、ほんとうは友だちといっしょにあそびたかった。絵だってすきなだけかいていたい。みつただとだって、もっと、いっぱいはなしたい。そばに、いたい。おれのこと、すきに、なってほしい……ッ」

 後の言葉はもう声にならなかった。好きな男の背に縋りつくと、長谷部は嗚咽を漏らし、喉が嗄れるまで泣き続けた。煤色の髪に指を滑らせ、涙と鼻水を服で受け止めながら、光忠はずっと長谷部の傍についていた。

 

+++

 

 分厚い雲の切れ目から朝焼けが差し込む。夜明けを告げる光がカーテンを透かし、長谷部の顔を弱々しく照らした。微睡みの中にあった意識が徐々に覚醒へと向かう。夢現の境もあやふやのまま瞼を開き、長谷部は勢いよく上体を起こした。
 見慣れぬ天井に見慣れぬ部屋。服の襟元は随分と開いているし、スウェットに至っては裾を何度か折っている。明らかに自分の体格にそぐわない格好は、やはり長谷部の記憶に無いものだった。
 ベッドから下り、フローリングに爪先を載せる。たかがそれだけの行為にも怯えつつ、長谷部はドアノブに手を掛けた。戦々恐々と開けた隙間から芳しい匂いが漂う。味噌の香りだった。長谷部の腹がくうと鳴る。食欲に正直な足は、警戒心を忘れてひとりでに匂いの元を辿っていった。

「あれ、おはよう長谷部くん。もう起きたのかい?」
 いかにも朝はパン派ですみたいな顔をした男に微笑まれ、長谷部は目を疑った。
「おは、よう」
 湯気を立ちのぼらせている鍋には味噌汁が、美丈夫の持つしゃもじの先には炊きたての白米が見える。つられて挨拶を返したものの、長谷部はますます混乱を深めた。唯一理解できるのは、この己に都合の良すぎる状況が夢でないことだけである。自らの頬をつまみ、長谷部はエプロン姿の光忠を目に焼き付けた。
 焼き鮭にワカメと大根の味噌汁、卵焼きに白米と定番の朝食が並ぶ。他人が作った出来たての料理を食べるのは久々で、長谷部はうっかり朝から目頭を熱くしかけた。光忠の手腕は大したもので、食の細い長谷部ですら二杯目の誘いを断らないほどだった。

 幸福だった朝の一時が終わる。食卓に着いて光忠と話すうちに、長谷部も昨晩の失態を思いだしつつあった。
 実のところ状況は何一つとして好転していない。長谷部は母と仲違いしたまま、当てつけるように外泊して連絡を絶っている。
 原因は恋慕にうつつを抜かして親の期待を裏切った自分にある。今さらどの面下げて家に帰ろうというのか。いつまでも光忠の厚意に甘えるわけにはいかないが、母との確執はもはや決定的だろう。己の言動を省みるほどに明るい展望は容赦なく遠ざかっていく。
 項垂れ、長谷部は下唇を食んだ。あと一歩遅ければ、歯先が柔い皮膚を突き破っていただろう。

「長谷部くん、これ乾いたよ」
 光忠が差し出したのは長谷部の制服だった。皺も見当たらず、美しく折り目のついた上下はとても昨晩雨に降られようには見えない。
「ありがとう。アイロンまで掛けてくれたのか」
「当然、いついかなるときでも格好には気を遣わないとね。よれよれの服で帰ったら親御さんも驚くだろう?」
 さらりと母親のことに触れられ、長谷部は身を固くした。光忠はどうして長谷部が家を飛び出してきたのか、その理由も経緯も知っている。破られた絵の断片を見るだけでも、母の憤りが生半なものではないと窺えるだろう。それを承知の上で、光忠は母子の再会がさも当然のことだと言ってのける。余程の呑気か、楽天家か。豪胆すぎる光忠の思考についていけず、長谷部の眉宇に険しさが漂った。

「母さんが俺を許してくれるとは思わない」
「どうして?」
「絵ばかり描いて勉強を疎かにした。孝行息子が聞いて呆れる」
「受験生にだって息抜きは必要だろう。そもそも長谷部くんは志望している大学に本当に行きたいのかい? 母親が望んでいるから、という理由は抜きに、君自身の意志で、青春を捨ててでも行きたいと思える?」
「……それ、は」
「言い淀んだのが答えだよ。僕が君の立場になったとしても返事はノーだ。紙と鉛筆さえあれば絵はどこでも描けるけれど、そのどちらも持たせてもらえないならお偉いさんの話に乗る必要は無いよね?」

 いつかの心理テストになぞらえ、光忠は今度こそ夢を選ぶ道を採った。二者択一で真実迷っていた自分と違い、長谷部の関心は一方にしか注がれていない。母のためと言えば聞こえが良いが、それは思考を放棄したに過ぎないだろう。

「そんな理屈で誰が納得するもんか」
「そういう台詞は試してみてから言うものだよ」
「試すまでもない」
「本当に? 君は一度でも、絵が描きたいと、難関大なんかに入りたくないとお母さんに伝えたことがあったかな?」
 長谷部は反論しない。ばつが悪そうに目を逸らす仕草が、噤んだ口の代わりに肯定を物語っていた。

「ねえ、長谷部くん。世の中、言ってくれないと判らないことだらけだよ」

 大きな掌がまろい後頭部を覆う。椅子に座る長谷部と、それを見下ろす光忠の影が頭上で重なった。頭を撫でられるなどいつぶりだろう。幼い頃に父と遊んでもらって以来だと長谷部が気付いた頃には、光忠の手が煤色の直毛に馴染みきっていた。

「言っても、だめだったら」
「そうだなあ……二人で駆け落ちでもしようか」
「……ははッ」
 この人たらし、と痛恨の揶揄が飛ぶ。成功を確信しているからこそ、相手の期待を煽るような台詞を軽々しく吐けるのだろう。憎らしいと思いながらも、長谷部はそんな小狡い男が嫌いになれなかった。

 結論から言うと、光忠の予想は的を外していなかった。
 長谷部家の前では一晩経っても帰ってこない息子を待つ母親がおり、二人が姿を見せるなり人目も憚らず泣き崩れた。
 同僚たちの心ない噂話に振り回され、多忙を極めながらも誰にも頼れない片親の心労はいかばかりだろう。日に日に精神を磨り減らし、息子に当たるのを避けるうちに会話も無くなった母子は、互いの距離を掴みかねていた。

 息子も息子なら母親も母親である。鬱積を自分の中に溜め込み、吐き出すこともしないまま限界を迎えて他人にぶつける悪癖は、両者の血縁を感じさせるものだった。
 母親は息子の趣味すら知らなかった。勉強に専念していると思っていた息子の部屋から、百以上に及ぶ手書きの絵が発見されたときは衝撃だっただろう。目の前でクロッキー帳を破き、やっと懸念を払拭したと思った矢先に息子の家出である。財布や通帳ではなく、バラバラにされた紙片を集める愛息を見て、彼女は初めて我が子の執着を知った。

 携帯は繋がらず、一人だけの自宅は物音すらしない。息子から友達や恋人の話を一切聞かなかった母は、探す当てもないまま周囲を駆けずり回った。
 ひどく憔悴した母を前に、長谷部もまた息を詰まらせた。どこまでも不器用で言葉が足りない母子は、数年ぶりに家族に戻った。
 呆気ないといえば呆気ない幕引きである。こんなに簡単に解決するなら、もっと早くに本音を話すべきだった。そう過去を悔いることができるのも、大団円を迎えた者だけの特権である。残された課題は有れど、長谷部は高校生活最後の夏を謳歌していた。

「で、結局進学はするんだ」
 光忠は突如居間に広げられたパンフレット類を覗き込んだ。表紙になっているのは近隣の大学が中心で、ひとまずは通いやすさが優先されている。
 当初の第一志望が極端に狭き門なだけであって、長谷部は十二分に優秀な生徒だった。推薦枠も狙える成績は維持しているため、こうして勝負の時である夏休みも友人の家に入り浸っている。

「行っておけば就職にも何かと便利だろう」
「相変わらずその辺は現実的だねえ」
「見識が広がれば将来やりたいことが見つかるかもしれないしな」
 長谷部の絵は未だ趣味の範囲を出ない。好きな絵を好きなときに好きなだけ描く。この信条だけは変わらず、美大を目指す気はさらさら無いらしい。

「将来かあ、ドルフィントレーナーなんてどうかな?」
「冗談、俺は高給取りになる」
「やり甲斐はあるよ」
「やり甲斐しかない職は謹んで辞退申し上げます」
「残念だなあ」
 全く残念そうな表情を見せず、光忠はりんごの皮むきを再開した。実家から送られてきた果実は、もっぱら甘党な客人の腹に収まっている。手慣れた調子で切れ込みを入れては、小皿にうさぎの家族を増やしていった。

「長船光忠の配偶者という選択もあったな」
「全く高給取りじゃないけど大丈夫?」
「お前が出世すれば大丈夫だ」
「財産目当てなんて酷いや」
「金がなくても第一志望だから安心してくれ」
 うさぎの耳が半端なところで削れる。斜めに切れた皮はVすら描いておらず、左右でそれぞれ長さが違う有様だった。

「責任取ってくれよ長谷部くん」
「何の話だ」

 取ってもらいたい責任とは、失敗したうさぎの今後なのか、年下の友人に口説かれ気恥ずかしくなったことに対してなのか。発言者である光忠にすら本当のところは判らない。渋い顔をする友人を不思議に思いながら、長谷部はりんごの甘酸っぱさに舌鼓を打った。