好きな相手の体液を口にしないと呪われる長谷部くん - 1/2

 

 

□60/100□

 

 瞼の外側に眩しさを覚える。朝の到来を知り上体を起こした。
 しかし頭が枕から離れると同時、何かを押し潰したような音を耳にする。振り返り、褥を検めてみれば枕の下より紙片がはみ出ていた。何かの切れ端なのか、手にしたそれは掌に収まりきるほど小さい。

「想う相手の体液を口にしなければ呪われる」

 豆粒同然の文字を睨めつける。まだ寝ぼけているのかと瞼を擦ったが、何度見ても紙が告げる文句に変わりはない。
 タチの悪い悪戯だろう。刀だけでなく頭も切れると評判の俺は、いたって冷静な判断を下した。

 馬鹿馬鹿しい。御神刀連中ほど格が高くないとはいえ、俺も一応は神の末席に連なる者だ。本当に神を呪えるほどの脅威が迫っているなら、本丸の警戒システムが異常を訴えないはずがない。
 大体なんだ、想う相手の体液を口にしろって。誰が得するんだ。そんなに俺に変態の汚名を着せたいのか?
 あれこれ考えるも、犯人に心当たりはない。不毛な推理に切りをつけ、俺は身支度を再開した。全く起き抜けからどっと疲れた気がする。

「おはよう長谷部くん」
 廊下を曲がるや、朝焼けより目映い金色に出迎えられた。心臓が跳ねる。目線はぬばたまの黒が浮かべる水滴に釘付けになった。

「お、はよう。相変わらず早いな、お前は」
「僕は髪を整えるのに少し時間がかかるからね。そういう長谷部くんこそ毎日早起きじゃないか」
「当然だろう。早く起きた方が仕事できる時間が増える」
「うんうん、早寝早起きは生活の基本だよね。でも遅く寝て早く起きるのはダメだよ?」
 男の人差し指が俺の目尻に伸びる。普段は手袋に覆われている指先が緩く弧を描いた。
「仕事熱心なのは良いことだけど、それで倒れたら元も子もないからね」
 めっ、と麗しい唇から優しい叱責が飛ぶ。途端に立ち眩みを覚えた。言うまでもなく睡眠不足が原因ではない。しかし目の前の男がその理由に勘付くはずもなく、俺に気遣って蒸しタオルまで用意してくれた。
 男と別れた後、温かい布で顔面を覆い、内心叫ぶ。

(早起き最高おおおおおおおお!)

 ここが自室なら床をのたうち回り、埃を激しく舞い上げていたことだろう。
 主に奉仕する時間が一秒たりとも惜しい気持ちに偽りはない。しかし、俺が日々早起きする最大の目的は、燭台切との接点を増やすことにあった。
 そう俺は、仲間である燭台切光忠に懸想をしている。この片恋は旧知はおろか、主にさえ打ち明けてない。
 刀の本懐は敵を切ることだ。人の真似事にうつつをぬかすなど男士としてあるまじき醜態である。いっそ捨ててしまえれば楽なのだが、人の心は肉片と違って容易に切り離すことはできなかった。

 妥協した俺は、次にこの恋心とやらを飼い慣らす方法を考えた。幸いにも内なる獣は安価な餌で満足するらしい。
 声を掛けられた、隣に立った、彼の作った料理を食べた。それだけで身体の内側がぽかぽかと熱を持ち始める。
 恋仲になりたいなどと贅沢は言わない。俺はただ燭台切と良き仲間でいられるだけで十分なんだ。体液を口にしたいとか、そんないかがわしい行為などできるはずもない。

「……間接キスくらいならセーフじゃないか……?」
 男所帯だし「そのジュース美味そうだな、俺にも一口くれ」的な展開があってもいいと思う。

 頬を張り、脳裏をよぎった妄想を圧し切る。そんな都合のいい呪いがあるわけないだろう! エロ同人じゃないんだぞ!
 朝餉の後は演練、出陣と予定が決まっている。雑念を捨てるべく、いつにも増して猛然と刀を振るった。奮戦の甲斐あってか、湯浴みを終える頃には呪いのことなどすっかり頭から抜け落ちていた。
 周囲にも尋ねてみたが、本丸を留守にしている間も特に異常は無かったらしい。すっかり安心した俺は、寝床に入るなり深い眠りについた。

 格子型に切り抜かれた光が枕元を照らす。昨日と違い意識ははっきりしてたが、目覚めは最悪だった。
 力任せに折られたであろう筆が文机に転がっている。二つに分かれた胴体の下には、またもや紙片が一枚挟まっていた。

「想う相手の体液を口にしなければ呪いは続く」

 墨のひどく散った文面には見覚えのある指示が綴られている。込み上げてくるのは恐怖でも戦慄でもなく、憤懣だった。
 冗談で済ませられる限度を超えている。相手の尻尾を捕まえ、相応の報いを受けさせなければ気が済まない。敵の意図や目的は不明だが、要求を呑めば燭台切まで巻き込むことになってしまう。あの美しい刀の顔が曇るような事態を見過ごしてなるものか。
 まずは呪いの有無を見極めるべく、石切丸に検証を願い出た。曰く、特に不浄な気は感じられないとのことだ。やはり正体は血肉を持った存在なのだろう。なら寝ずに待ち構えていれば確実に捉えられる。

 不寝番一日目。成果無し。
 二日目。続けて成果無し。
 三日目。とうとう身体が限界を訴え、途中で意識を失ってしまう。起きたときには引き裂かれた本の頁が部屋中に散乱していた。
 己の不甲斐なさに歯噛みする。敵はこちらの予想よりも遙かに用心深い。その後もカメラを仕掛けてみたが、画面にはただ砂嵐が映るばかりだった。

「検非違使が一体……検非違使が二体……」
 青白い武者どもを想像の中で幾度も切り伏せる。眠気覚ましに廊下に出たものの、夜気が睡魔を退けることはなかった。
 柱に背を預け、朧気な月の輪郭を拝む。一杯飲むには良い景観なのだろうが、生憎俺の傍らにあるのは酒ではなく栄養ドリンクだった。連日の消費が祟って早々に在庫は尽きてしまった。これが手元にある最後の一本である。
 そうして効き目の薄くなった缶を傾けたが、一向に咥内が潤う様子はない。

「夜更かしは駄目って言ったろう?」
 夜空より濃い黒の帳が月を隠す。俺を見下ろす男の手には、これから飲むはずだった缶が握られていた。

「今寝たら困るんだ。返してくれ」
「眠いなら素直に眠ればいいんだよ。人の身体は万能じゃないんだからね」
 伸ばした手をやんわりと絡め取られる。不意に好いた男の体温に触れて、刹那、俺は目的も抵抗も忘れてしまった。こちらの動揺を知ってか知らずか、燭台切は缶の飲み口に唇を寄せた。
「はい、返したよ」
 優しい拘束が解け、軽くなった容器だけが返ってくる。

 おやすみ、とか、また明日ね、とか別れ際に男が何か喋っていたような気もするが判然としない。俺の胸中は嵐のように荒れ狂っていて、現実を直視するような余裕など皆無だったからだ。
 火照った掌の熱が金属の缶にじわじわと吸われていく。先の出来事を反芻し、煮えた頭が理性を奥底へと押しやった。代わりに浮上した本能が四肢を突き動かす。
 缶の一部は、まだ濡れている。

 燭台切が触れた場所に、自分の唇を重ねた。とうに飽いたはずの味なのに、いつもより数段、甘美に感じる。
 明くる日の朝、俺の部屋に呪いの痕跡は認められなかった。

 

□20/100□

 

「おや、珍しい。外出ですか」
 靴の踵を直しながら背後を顧みる。声の主はこれから出陣のようで、左文字共通の袈裟を羽織っていた。

「ああ、使っていた筆やら小物が駄目になってな。内番も終わったし万屋で適当に見繕ってくる」
「そうですか。実はお小夜も江雪兄様もあそこの苺大福がお気に入りでしてね」
「二つ入りか、任せろ」
「お小夜にケチくさいと思われてもいいなら構いませんよ?」
 こいつは本当に口が回る。宗三の使い走りをさせられるのは御免だが、実行すれば兄想いの短刀は落胆するだろう。
 仕方ない。小夜の涙に免じて、ここは和睦の道を採ろうじゃないか。

「おっ、万屋に行くのか。悪いが俺の分も頼まれてくれねえか。実は消毒液切らしちまってなあ」
「なんだなんだ、長谷部が買い出し行ってくれんのか~? じゃあ甘酒、よろしく~」
「いきなり湧いて出るな織田」

 会話を聞きつけ、宗三の左右から短刀が二口生える。ここで終わればまだ良かったのだが、廊下の喧噪はさらなる増援を呼んだ。松井に事務用品の補充を頼まれ、堀川からは洗剤、歌仙も調味料が残り少ないと手を合わせられる始末。
 冷静に考えろ、俺の腕は二本しかない。

「じゃあ僕が荷物持ちに立候補しようかな」
 買い出しの一覧にうんざりしたところで救世主が現れる。群がる悪漢どもを掻き分け、黒髪の美丈夫はあっさりと俺を外へ連れ出した。

「悪い、助かった燭台切」
「どういたしまして。と、言いたいところだけど実は僕も万屋に用があってね。長谷部くんの買い出しも手伝うから、お邪魔させてもらっていいかな?」
「も、もちろん」
 予期せぬ展開に、思わず手足が同時に出そうになる。
 燭台切とふたりきりで万屋、これは俗に言うデートというやつではないか。嬉しいは嬉しいが間が保たない。普段の社交辞令じみた挨拶だって、俺からすれば死地に赴くのと同等の覚悟が要るんだぞ。

「長谷部くんは何を買うんだい?」
「あ、ああ……その筆とか、枕とかだな」
「枕かあ。そうだね、夜更かし防止のためには身体に合った寝具を使った方がいいかも」
「もう徹夜はしてないぞ」
「本当かい? どれどれ」
 やや前屈みになった燭台切が俺の顔を覗き込む。香水でも使ってるのか、仄かに甘い匂いが鼻腔を擽った。
「ん、だいぶ血色も良くなったね。安心したよ」
 月を閉じ込めた一つ目が細められる。元の距離に戻ってなお、俺の逸る鼓動は落ち着きを見せなかった。

 近い。近すぎる。厚く柔らかそうな口唇が動くたびに後ろめたい欲に駆られた。一度、缶越しに触れて知った熱は今も俺の胸の内を苛んでいる。
 隣を歩いている男が自分に邪な想いを抱いているなど、彼は夢にも思っていないだろう。善意で接してくれる燭台切に申し訳なくなって、堪らず面を伏せた。
 口を吸いたいなどと望んではいけない。たまに本丸で世間話をし、時に戦場で背中を任せ合う。それだけで十分すぎるくらい、俺は幸せなんだ。

 新しく買ってきた枕に顔を埋める。弾力に富んだ素材は柔らかく、肌にぴたりと寄り添った。

 

□70/100□

 

「想う相手の精液を口にしなければ呪われる」

 雨粒が窓を叩く。とうに夜明けを迎えている時分だが、この天候である。旭陽は分厚い雲に遮られ、室内は暗がりに包まれたままだった。
 行灯の朧気な光が紙片を透かす。綴られた内容は、相も変わらず狂っていた。

 以前のように肉筆ではなく、明朝体で印字されてはいるが、明らかに同一人物の仕業だろう。こんな悪趣味な真似をする輩が複数いるとは思えない。
 下手人は未だ不明である。仮に正体が割れたとして、相手に対抗できるだけの力があるかは甚だ怪しい。向こうがその気にさえなれば、俺はとっくに折れていたはずだ。

 この場で唯一確かなのは、呪いを回避する方法だけだった。
(……無理だ)
 唾液や血液ならともかく、他人の精液を摂取できる機会などまずもって有り得ない。素直に打ち明けたところで、正気を疑われるのが関の山だろう。いくら燭台切でも気味悪がるに違いない。

「長谷部くんはいつも頑張ってるから」
 買い出しの途中、男はそう言って小包を渡してきた。
 何かにつけて如才ない刀だ。遠征先でも土産は欠かさないし、きっと燭台切からすれば大した意味はないのだろう。ただ俺には、瓶詰めの金平糖が宝石のごとく輝いて見えた。
 黄色の粒を取り出し、恋しい男の瞳と重ね合わせる。日常の中に、ささやかな楽しみがまた一つ増えた。
 もし呪いがこれに及ぶようなことがあれば。

 拳を握る。屋根を打つ音が先刻より強くなった。おそらく今日一日は降り続けることだろう。仕掛けるなら今晩をおいて他にない。

 息を殺し、障子をずらす。できた隙間に身体を滑り込ませ、後ろ手で戸を戻した。
 依然として庭先を濡らす雨音に混じり、微かな息遣いが聞こえてくる。穏やかに上下する胸元を認め、知らず喉を鳴らした。

 ああ、やはりこの男は眠っていても美しい。
 闇中に浮かぶ白皙の肌を視線で嬲る。晒された喉元に顔を寄せれば、期待通り例の甘い匂いが香った。
 布団をどかす。燭台切は起きない。俺よりも太い手首に触れた。燭台切はまだ寝ている。両手を胸の前で合わせるようにして、紐で結わえる。燭台切は目を覚まさない。袂をたくし上げ、肌着に手を掛ける。雨と心臓の音以外はしない。

「うわあ……」
 露わになった性器の全貌に言葉を失う。未だ兆してないうちから立派な逸物は、男としての自信を喪失させるに十分だった。しかし燭台切の隠れた一面にまた惚れ直したのも事実だ。
 これが完全に育ちきったら、どれほど凶暴な形になるのだろう。
 固唾を呑む。好奇心と肉欲の赴くまま、俺はおそるおそる男の中心に手を這わせた。

 未だ芯を持たない陰茎は柔く、弾力に富んでいる。精液を出すためには勃起させなくてはならない。頭では理解していても、自慰の経験すら乏しい俺には結構な試練だった。
 燭台切を起こさぬよう、慎重に、緩やかに竿を扱く。拙い技巧故に時間は掛かったが、手にした肉茎は着実に膨らんできている。
(これだけでかいと燭台切も苦労してそうだな)
 戦帰りはどうしたって身体が昂ぶる。好戦的か否かにかかわらず、男士ならば皆が悩まされる問題だろう。爽やかな好青年という印象が強い燭台切とて、おそらく例外ではない。

 想像する。壁に背を預け、ひとり熱を発散する燭台切の姿を。眉根を寄せ、外した手袋を噛みしめる男からは、温厚さの欠片も見当たらない。ひたすらに快楽だけを追い、利き手を忍ばせた下衣からは湿った音が鳴り響く。くぐもった声は低く、それでいてどこまでも艶やかだった。
 知らず溜まっていた唾液を飲み下す。淫靡な空想に励まされ、俺は大きく開けた口に肉棒を招き入れた。

「ぅぶ、ッ……」
 先端までを咥えたはいいが、すぐに限界が来た。これ以上はとてもじゃないが入らない。
 下手に姿勢を崩せば喉奥を突かれてしまう。慌てて歯を立てようものなら、精液より先に血を見る羽目になるかもしれない。肉体を得て初めて知ったことだが、男のここは存外繊細にできている。そして繊細な分、敏感でもある。試しに舌先で窪みを突けば、咥内を犯す質量がさらに増した。

(なんだ。意外に容易いな)
 燭台切が反応したことに気を良くして、舌を少し大胆に動かしてみる。凹凸をなぞり、張り出した傘を吸い、重たげな陰嚢を弄る。俺は夢中になって燭台切の雄にしゃぶりついた。そのうちに唾液以外の粘膜が局部を伝い始める。

(燭台切のあじだ)
 次々と溢れる先走りを逃すまいと、狭めた口唇で亀頭を戒めた。
 視界の端で男の内腿が跳ねたような気がするが、注意を向ける余裕はない。二度も味わえるはずのない甘露を前にし、余程舞い上がっていたのだろう。より濃くなった燭台切の味を知りたい一心で、熱く猛った陽物を強くすすり上げた。

「ッ――!」
 飛沫が咥内に迸る。頬張った男根が脈打ち、大量の子種を咽喉へと放った。舌に、口蓋に粘液がへばりつく。燭台切の濃厚な神気を浴びて、触れてもいない下腹部が頻りに疼いた。
「ン、ぐぅ……」
 息苦しさを覚え、危うく精液を溢しかける。寝床を汚す心配より勿体ないという感情が先立った。

 全部、全部俺のものだ。燭台切が俺で気持ちよくなってくれた証を、一滴たりとも無駄にしてなるものか。
 唇をすぼめ、残滓ごと先端を吸い上げる。独特の苦みが消えるまで口淫を続けた。やっと解放した燭台切の雄は俺の塗した唾液でてらてらと光っている。独占欲や達成感に浸れたのは束の間のことだった。

 忽然と現れた影が俺の視界を覆う。うつ伏せにされ、床にしたたか肩を打ちつけた。腕は一方をひねりあげられ、一方は重しを載せられ全く自由が利かない。必死に抵抗を試みるも、戒める力が苦痛とともに増すだけだった。

「……寝込みを襲うとはいい度胸じゃないか」
 冷えきった声が臓腑を刺す。静かなようで確かな敵意を含んでいる。この殺伐とした音を、俺は戦場で幾度も聞いた覚えがあった。
 藻掻く俺を軽々と押さえつけたまま、男が明かりを点す。縦長の箱から光が漏れ、室内の暗闇を一部切り取った。
 乱れた褥に拘束具のなれの果てが転がっている。無惨に千切れた糸の端を眺め、こんな子供騙しに頼っていた己が馬鹿らしくなった。

「はせべ、くん?」
 唖然とした声色が降ってくる。何もかも終わった。待っているのは自壊の道しかないと思えば、いっそ気も楽になる。

 向こうも動揺しているのか、拘束が多少緩んだ。今なら燭台切を撥ね除けられるかもしれないが、もう逃亡する気概もない。俺は処刑台にのぼった死刑囚のごとく、後に続くだろう叱責や侮蔑の文句を待った。
 樋から水が勢いよく落ちた。外はまだ雨が降り続いている。交わす言葉もなく、ただ沛然とした響きを遠くに感じていた。
 ふと背中が軽くなる。俺の上からどいた燭台切は、捉えていた腕を床にそっと下ろしてくれた。

「……どうして、こんなことを」
 燭台切が口にしたのは、当然の疑問だった。もっとも真実など話せるはずもなく、俺は黙秘を貫くしかない。

「もしかして」
 ――僕のこと好きなのかい。

 控えめに投げかけられた質問に目を瞠る。幸い敷布に顔を押しつけていたから、表情から図星を覚られることはない。

「……すまなかった」
 肯定も否定もできず、やっと返せたのは謝罪の言葉だった。

「訳は言えないが、お前の子種が必要で寝所に立ち入った。謝って許されるような行為ではないことは承知している。刀解も甘んじて受け入れる所存だ。お前が望むように、処分を決めてほしい」
仲間と思っていた同胞に襲われただけでも相当な恥辱だろう。一方的な恋慕を打ち明けて、さらに追い打ちをかける必要はない。
「……何か理由があったんだね」
「こちらの勝手な事情だ。情状酌量の余地は一切ない」
「それを決めるのは僕だよ。どんな理由だって構わない。こちらの望み通りにしていいと言うなら、事情を話してくれないか」
 仰向けにされ、燭台切と目が合う。俺を射貫く金のまなこに嫌悪の色は見られない。どこでも優しく、誠実な男は、信頼を裏切った刀にさえ情けを忘れなかった。

「……信じてもらえるはずがない」
「君が嘘を言うような刀でないことくらい知ってるよ」
 大きな掌が乱れた俺の髪を掬う。優しい手つきに絆され、自刃の覚悟すらしたというのに泣きそうになった。

「実は」
「うん」
「お前の、精液を口にしないと解けない呪いにかかってしまって」
「……うん?」

 柔らかい笑みはそのままに、燭台切の頭上に疑問符が舞った。至極真っ当な反応である。先程とは別の意味でコイツヤベエ、という印象を持たれただろうが、もはや後には引けなかった。
 石切丸に相談し、悪霊や不浄なもののの仕業ではないこと。呪いを無視して、部屋が荒らされ心身ともに疲弊したこと。指示通りに事を運べば、呪いは失せて一時平穏を取り戻したこと。新たに呪いを受けて、今はどうしても壊したくないものがあること。

 自身の恋心を伏せ、話せる限りを語り尽くす。途中何度か燭台切が筆舌に尽くしがたい表情をしていたが、さもありなん。俺だって同じ目に遭えば、似たような顔をしただろう。

「……そういうわけで、その、先程はご馳走様でした」
「あっ、いえ、どうもお粗末様でした」

 布団の上で互いに頭を下げ合う。緊張感は解けたが、どうにも締まらない空気が漂っていた。

 

■70/100■

 

 夜が明けると、すっかり雨は上がっていた。低く垂れ込めていた雲の裂け目から陽光が顔を覗かせている。
格好を整え、向かった先はいつものように厨ではない。

「長谷部くん、起きてるかい」
 濡れ縁を通り、部屋の外から呼びかける。応えはない。
 長谷部くんは僕に負けず劣らず早起きだが、昨晩は随分と憔悴していた。日が昇ったばかりの時分だ、まだ眠っていても別におかしくはない。無事を確かめるだけなら後でもできる。と、踵を返しかけて足を止めた。

 やおら開かれた戸の隙間から煤色が飛び出す。彼の直毛が朝焼けを照り返し、皆焼の刃文を彷彿させた。
「お、はよう」
 藤色の瞳がこちらを窺うように見上げてくる。昨日の今日である。いくら僕が気にしないでくれ、と断っても彼自身がそれを許さないだろう。口先で慰めるより、ここは態度で表した方が良い。

「おはよう。今朝はどうだった? 何か異常はなかったかい?」
「いや、特に不審な点はなかった」
「そっか。どうやらお役に立てたようで何よりだよ」
 長谷部くんの頬にさっと朱が差す。普段吊り上がっている眉は八の字を描き、唇が真一文字に結ばれた。
 常に凛々しい彼の初心な一面を見て、ふと鳩尾の辺りが苦しくなる。あれ、もしかして長谷部くんって実は可愛い……

「心配と面倒をかけた。もう大丈夫だから、この件に関しては忘れてくれ」
「いや、前も暫く落ち着いていたと思ったらまた復活したんだろう? 安心するにはまだ早いんじゃないかな」
「む」

 何やら言いたげな面持ちだが、反論は飛んでこない。僕の関与を避けたいだけで、慎重論には賛成なんだろう。
 おそらく術者の最終的な目的を知らない限り、根本的な解決には至らない。
 そもそも長谷部くんが主体になってはいるが、標的が真に彼なのかも疑わしいところだ。見方を変えれば、僕に敵意を持つ者の犯行で、長谷部くんは巻き込まれただけという線もある。少なくとも対岸の火事と手を引くことはできそうにない。

「例の呪詛が書かれた紙はまだあるかい? 第三者目線だと何か違って見えるかもしれない」
 何気なく尋ねたつもりだが、長谷部くんは紅潮した頬を今度は青白くさせていく。

「長谷部くん……?」
 強ばった肩、生気のない顔色、焦点の合わない目。
 明らかに様子がおかしい。意識の有無すら怪しく、再び呼びかけようと口を開いた。

「すまない。例の紙は指示された内容を実行すると跡形もなく消えてしまうんだ。もし、新たな呪詛が届いたらそのときは報告する」
 僕より先に長谷部くんの舌が回る。淀みなく淡々と説明する姿は、日々の業務をこなすときと何も変わりない。見慣れたものだというのに、どうして僕は一抹の違和感を拭えないのだろう。

「そっか、じゃあ仕方ないね。でも、また何かあったら遠慮なく言ってほしいな。僕は、君の力になりたいんだ」
 憶測でものを言うのを避け、自分のスタンスを明らかにする。僕の言葉に頷いた長谷部くんは、面映ゆそうに笑っていた。

 

■40/100■

 

 へし切長谷部が気になる。それは燭台切の号を持つ刀に共通した認識だった。
 由来が似ているから、政宗公が信長に憧れていたから、真っ直ぐ伸びた背筋に好感が持てるから、と理由を挙げようとすれば二、三は即座に思いつく。
 しかし僕が特別彼の刀に目を惹かれるようになったのは、もっと血生臭い事情故だった。

 長谷部くんは一度、折れている。とはいえ今の彼が二振り目というわけではない。
 鋼に戻る寸前、身につけていた御守りが効力を発揮した。ひび割れた刀身が光を宿し、薄れかけた肉の器が元の濃さを取り戻したとき、僕はどれほど安心したかしれない。

 断っておくが、我が本丸の審神者は健全な精神の持ち主だ。功を焦って、男士たちに無茶な進軍を強いたりはしない。要するに、今回の采配は完全に手違いから起きたことだった。
 西暦二二〇五年を迎えた今でも、異なる時代を行き来する技術は発展途上の段階にあった。機器の故障や連絡の不通はままあるが、これらの安定を待っていては遡行軍の物量に押し切られてしまう。かくして審神者と男士たちは、ひどく制限を強いられた環境下で敵と相対することになった。

 戦場において主の判断を仰げる機会は非常に少ない。進軍か撤退か、どの陣形をとるのか。前線に向けて審神者が送れる指示など、せいぜいそれぐらいだろう。この選択すら、肉声ではなく情報媒体を通じて文字で伝えられる。この命令が審神者の本心かどうかは、もっぱら男士たちの想像に委ねられる。時代を隔てた主従を繋ぐのは、信頼や絆といった不確かなものだけだ。
 そして、厄介なことに本丸との通信は頻繁には行えない。たとえ誤った情報が届いたとしても、男士たちに審神者の真意を確かめる術はない。

 皆が皆、重傷或いはそれに準ずる傷を負う中でそのメッセージは送られてきた。いつものように安全を採ると予測していた面々に緊張が走る。画面に浮かんでいたのは、進軍の二文字だった。
 重たい沈黙が場を支配する。実質折れろ、と命じられたようなものだ。既に敵陣深くに潜り込んだ以上、次に通信が可能になるまで逃げおおせるとは思えない。退路は既に断たれていた。

「斬られるより先に相手の首を落とせばいい」
 紫色の長衣が揺れる。勝ち気に告げた彼は、血塗れの脹ら脛をものともせず走った。

 誰よりも速く戦場を駆ける刀は、紙一重の攻防を知っている。確かに他の子と比べれば彼は軽傷だったが、あくまで相対的な評価だ。単身切り込み敵の注目を浴びれば、その末路は想像に難くない。それこそが彼の目的と判っていても、許容できるはずがなかった。

「長谷部くん!」
 自分の鈍足があれほどもどかしいと思った試しはない。
 迫る穢刀をすれ違いざまに切り伏せ、鞘で殴り倒す。剣戟の音が近づいてきた。半ば転がるように大広間へ入り、僕は仲間の背から刀が生えているのを目撃した。
 怒りに任せて得物を振るう。大太刀の胴が二つに分かれ、畳に赤黒い染みを作った。肉体が塵と化すにつれ、手にしていた刀も消失する。同時に長谷部くんの身体が宙に揺らいだ。床に衝突するより先に抱き留めたが、いざ支えた温もりはひどく、冷たい。

「……ょく……り」
「喋らないで。今頃は鶯丸さんたちが本陣を制圧しているはずだ。君がこれだけ敵を惹きつけてくれたんだ。向こうは相当手薄になってるはずだよ」

 口を挟む隙など与えない。ひゅうひゅう、と押し出される呼気は徐々に弱まってきている。僕は延命のためではなく、自身が狂わないために長谷部くんの言葉を封じた。手遅れだと、気付きたくはなかった。

「ひとりで格好つけるなんてずるいじゃないか。確かに先陣争いじゃ君には勝てないけれど、殿は僕の方が向いていると思うよ。背中を守る役目くらい任せてくれてほしかったなあ」
 矢継ぎ早に話す僕を、二つの藤色が穏やかに見上げている。

 この刀を堅物だ、手厳しいと評する声は多い。しかしながら、それだけではないと僕も皆も知っている。長谷部くんは、不器用なだけでとても優しい刀だ。だった、なんて言わせない。

「今回の誉は長谷部くんで間違いないだろうね。僕からも何かお祝いさせてくれないかな。ほら、君甘いもの好きだし、プリンとかシュークリームとかさ」

 握りしめた掌が微かに動く。驚きで息を詰めると、長谷部くんが声なき声を発するのを目にした。彼が紡いだらしい三字を問おうとして、手が虚空を掴む。
 芯鉄の折れる音が、間近でした。

 

■60/100■

 

 帰城した僕らは順繰りに手入れを受け、主に謝り倒された。
 起きてしまったことは仕方ない。こういうときのために御守りを預けてくれたんじゃないか。
 項垂れる主を五振りの刀がそれぞれ宥める。残りの一振りはまだ床に伏していた。

 札を用い、彼の肉体が無事に修復されたことはこの目が確認している。それでも長谷部くんは目覚めない。
 やはり一度折れたために審神者との縁が多少希薄になってしまっているのだろう。この本丸で他に破壊を経験した刀はいない。初めての事態故に、まずは様子を見ようと見守る形になった。
 果たして、東の空が白む頃に長谷部くんは意識を取り戻した。

「そんなことがあったのか」
 昏睡状態にあったことを、彼はまるで他人事のように語ってみせる。曰く、折れる前後の記憶はかなり曖昧らしい。自分が囮となったことも、部隊が壊滅状態に陥ったことも覚えてないという。

「何にせよ、君が目覚めてよかったよ」
「眠り姫なんて柄じゃないからな。王子様の口づけより朝餉の味噌汁の方がよほど気つけになる」
「オーケー、具のリクエストはあるかい?」
「鶏もも肉と三つ葉」
 よし来た、と腕をまくる。プリンやシュークリームはまた後に作るとしよう。病み上がりの功労者を讃えるべく、僕は枕元から腰を上げた。

「そういえば、あのとき何て言ってたんだい」
 桟に手をかけ、思い出したように尋ねる。
「……すまないが、覚えていない」
「だよね。ごめん、気にしないで」
 黎明の廊下に足を滑らせる。本丸は静まり返っていて、衣擦れなどの僅かな物音すら耳についた。
 開けた戸の隙間を顧みる。長谷部くんは再び布団に潜り込み、こちらに背を向けていた。その表情が気に掛かるのは、彼が遺そうとした言葉を二度と知ることができない悔しさ故だろうか。

 長谷部くんが折れてから早半月は経つ。あれ以来、僕は彼を見かけるたび、つい目で追ってしまう癖がついた。これが色恋に由来する習慣だったら良かったのだが、現実はそれほど微笑ましくない。
 僕がやっているのは監視だ。仲間の死を見届けるのはもう御免被りたい。
 その一心で、僕はなるべく長谷部くんの傍にいるようにした。

 

□80/100□

 

 二つ目の呪いから解放されて三日が経つ。あれから俺の周囲で特に変事は起きていない。いっそ平穏すぎて拍子抜けするくらいだ。

「今日も一日ご苦労様。何か異常はなかったかな?」
「強いて言えば、ここ最近快眠が続いているくらいだな」
「その異常はなくならないよう意地でも引き留めておいて」
 事情を打ち明けて以来、燭台切は何かとこちらを気に掛けてくれる。

 起床時と就寝前の計二回、顔を突き合わせて呪いの有無を報告する。多忙な男がわざわざ俺のために時間を割いてくれるのは嬉しいが、こうも空振りが続くと反って申し訳ない。
 燭台切からすれば、呪いは俺の証言以外に何ら根拠のない眉唾ものの話だ。一笑に付されてもおかしくないのに、あの刀は我がことのように真摯に耳を傾けてくれた。面倒見が良いにも程がある。
 俺にだけ特別優しい、と自惚れるつもりはない。あの冴え冴えとした金色が甘く蕩け、俺を映す瞬間を何度も夢見た。彼の隻眼は、戦場で白刃を振るうときのみ煌々と輝く。
 調和を重んじ、人の真似事にも精力的な男だが、燭台切光忠の本性はどこまでも刀だ。柔軟に立ち回りながらも、己の根幹は絶対に曲げない。その生き様が俺には大層美しく、愛おしく感じられた。

「じゃあ、おやすみ長谷部くん」
「ああ、おやすみ」
 挨拶を交わし、燭台切の背中を見送る。黒衣の裾が廊下を曲がりきると、高揚していた心がふっと冷めた。

 ただ仲間として傍にいられるだけで良かった。机上の金平糖を眺めるだけで十分だった。
 慎ましやかな幸せで満足していたはずの胸が不足を訴える。もっと話したい。呪いがなくとも毎朝毎晩会いに来てほしい。燭台切に触られたい。あの夜のように乱暴に手首を掴まれ、膂力の差を身体に刻み込まれたい。
 呪いが完全に消えれば、日に二度の逢瀬も当然無くなる。そうなれば俺はまた大勢いる仲間の一振りに戻ってしまう。

 金平糖の入った瓶を傾ける。琥珀色の粒が硝子の表面を滑り落ちた。
 いずれ失う男との時間と違い、この贈り物だけは俺の傍で残り続ける。何が起きようと守り抜かねばならない。たとえ呪縛からの解放が恋心に背くことだったとしても、俺は画餅を取るつもりはなかった。

「男に抱かれなければ呪われる」

 三度目の呪詛はこれまでと趣が変わっていた。暗に燭台切を指していた文脈は、今回同性であれば誰でもいいと解釈できる。
 花街に赴けば、衆道に応じた店も複数ある。わざわざ燭台切に頼む必要はない。彼に触れてもらう口実にはならない。いくらあの刀でも、単なる仲間と一線を越えるのは躊躇うだろう。

「長谷部くん、起きてるかい」
 昨日までは至福と思えた時間が地獄に様変わりする。咄嗟に忌まわしい紙片を袂に隠した。

「……おはよう燭台切」
「おはよう。あれ、また夜更かしした? 目に隈できてるよ」
「そうなのか? 俺としては割とぐっすり寝たつもりなんだが」
 指摘された目元に手をやる。触ってわかるものではないが、確かに瞼が少し重たかった。

「ううん、眠りの質の問題かな。リラックスできるようにアロマでも焚いてみるかい」
「俺に米と火以外を焚けと……?」
「そんな危ないものじゃないよ。僕もいくつか持ってるし、試してみるだけでもどうかな?」
「石鹸も洗剤も間に合ってるが?」
「新聞勧誘じゃないから。それとも万屋で自分好みの匂いを見繕ってくるかい?」
「……そうだな。参考までにオススメを教えてもらっていいか?」
「えっ」
 色好い反応が返ってくるとは思わなかったのだろう。格好に拘る伊達男らしからず、燭台切は口をぽかんと開けている。
 勿論、本当にアロマに興味を持ったわけではない。出不精の自分が外出しても疑われないためには表向きの理由が要る。行きがけに指定された商品を見てくれば嘘にはならない。

 どうせ歓楽街に明かりが灯る夕刻まで、たっぷり時間はある。見知らぬ男に抱かれた屈辱を、燭台切の好む匂いで紛らわせることができるなら、怪しげな勧誘に乗るのも一興だろう。

「リラックス効果ならラベンダーやミモザが定番かな。ほら長谷部くん、ここに並んでるの全部香りのサンプルだよ」
「……ありがとう」
 何故に燭台切が付いてきてるんだ。俺の悲壮な覚悟をどうしてくれる。ちゃんと断れよ一時間前の俺。

「気になるなら僕もお供するよ。良いアロマポットの紹介もできるしね」
「い、いや、燭台切の手を借りるまでもない。貴重な休みくらい自分のために使ってくれ」
「同好の士を増やす努力は惜しまないよ。僕も新しいアロマオイルが欲しいし、一挙両得ってやつだね」
「新聞じゃなく坊主の方だったか」
「宗教勧誘でもないから。そもそもアロマを勧めたのは僕なんだし、最後まで面倒を見るのは当然だろう?」
「いざとなれば店員に尋ねる」
「そっか、長谷部くんはそんなに僕と一緒に出かけるのは嫌なんだね……」
 男の眉がわざとらしくひそめられる。とんだ大根役者だ。演技なのを隠そうともしていない。

「……よろしく頼む」
 小人は往々にして目先の欲に囚われる。猿芝居と馬鹿にしてはいるが、俺は完全に燭台切の掌の上で踊らされていた。いったいどちらが猿なのか判ったもんじゃない。

 こうして経緯を振り返ってみても、自分があの台詞に抗えるとは到底思えなかった。惚れた弱みとはよく言ったものである。
「燭台切はどれを使ってるんだ?」
「そうだねえ、就寝時にはネロリを使うことが多いかな。柑橘系の爽やかな匂いで、他のオイルとも合わせやすいから気に入ってるんだ」
 渡されたサンプルの蓋を緩める。濃厚だが決してしつこすぎず、上品な匂いが辺りに香った。少し嗅いだだけでも緊張が和らぎ、肩が少し軽くなったような心地がする。

「うん、良い匂いだな。さすがは燭台切の見立てだ」
「お褒めに与り恐悦至極だよ。でも値段がそこそこ張るから、購入はお財布と相談してからが吉かな」
 言われて値札に視線をやる。数字の桁数と内容量の表記を見比べ、目を瞠った。富士札が何枚買えるか計算してしまった俺はきっと悪くない。

「最初は僕の手持ちを貸すから、まずは自分が気に入った香りを探すことから始めよう。効果も個人差があるしね」
「……何から何まで世話になってすまない」
「言っただろう? 同好の士を増やすための努力は惜しまないって。それに最近は色々あったからね。長谷部くんが心身ともに癒やされるための手伝いができるなら、僕としても本望さ」
 どくり、と体中の血が煮え立つ。

 温かい言葉。優しい笑顔。気遣いの窺える仕草。誰に対しても同様に振る舞うと知っているのに、愚かな俺はつまらない期待を抱いてしまう。
 もしかしたら燭台切も同じ気持ちなのではないか、と。

 斜陽が瓦葺きの屋根に降り注ぐ。石畳に落ちた影法師は昼間より随分と色濃い。夜の到来を前にして、屋号を記した行灯が方々で光を宿し始めた。
「もうこんな時間か。ごめん、長々と付き合わせてしまったね」
「いや、大変参考になった。お前が一緒で助かったと思う」
「はは、期待に応えられたのなら嬉しいな」

 燕尾が翻り、西日を背負う。二歩、三歩と進んで男の歩みが止まった。
 続くはずだった足音が聞こえず、不審に思ったのだろう。黄昏色の眼光が、背後の俺を顧みた。

「先に帰っていてくれ。俺はまだ別の用事があって遅くなる」
「今からって……急用か何か? できるなら日を改めた方がいいんじゃないかな」
「生憎と、今からでなければ間に合わなくてな」
「なら僕も付き合うよ」
「いや、俺ひとりの方が都合が良い」
 にべもなく断る。相手に付け込む隙を与えてはならない。毅然としろ。冷静であれ。

「僕には言えない用事ってこと?」
「ああ。誰だって秘密の一つや二つは持ち合わせているものだろう」
 一線を引く。分別を弁えている者ならこれ以上の言及は避けるに違いない。温和な燭台切ならなおさらだ。

「香料指南はまた後の機に伺うことにする。色々と気遣ってくれてありがとう、感謝する」
 踵を返し、一方的に話を打ち切る。大通りから路地に向かおうとして、身体が大きく後方に傾いだ。

「話はまだ終わってないよ」
 掴まれた腕が痛みを訴える。俺を引き留める燭台切の手は力強く、とてもじゃないが振り払えそうになかった。
「いったい何を隠してるんだ」
「は、いつからひとの秘密を探るような悪い趣味に目覚めたんだ」
「挑発しても無駄だよ。話してくれるまで君を放すつもりはない」
 脅す燭台切の声は低い。俺を睨みつける眼の鋭さも、自由を奪う腕の逞しさも、全てが先日の夜を彷彿させた。己を慰めるにあたって幾度も思い出し、恋い焦がれた熱がすぐ近くにあった。

「……色里に向かうと言えば、納得してくれるか」
「へえ、潔癖症の君が?」
「どういう印象を持たれていたか知らんが、男の肉体を得たからには人並みの欲だって持つさ」
「その割には慣れてなかったよね、君」
「何が」
「前に僕の部屋に来たときの話だよ。自分と同じものがついてるのに、手でするだけでも覚束ない様子だった」
 直截すぎる指摘に首の裏が俄に熱くなる。
 燭台切への片恋を自覚しても、罪悪感が先行して欲の発散に用いることは最近までなかった。想像の中ですら、この美しい太刀を穢すのは躊躇われたせいだ。

「性処理の経験に乏しい君が、自らの意志で他者に肌を許すとは思えない。何か理由があるんだろう。たとえば、朝起きたら枕元に見知らぬ紙が落ちていた、とかね」
 息を詰める。触れた場所から、燭台切にも俺の動揺が伝わったはずだ。

「忘れてしまったのかな。僕は、君の力になりたいと言ったはずだよ」
 叱責というには悲観的な響きがもたらされる。彼の声色は、心の底から俺を案じてくれているのだと、信じるには十分すぎた。

「男に抱かれないと呪われる、だそうだ」
 抵抗を諦めた指先が垂れ下がる。次に息を呑んだのは、燭台切の方だった。

「文面通りなら、お前に頼らなくても呪いは解ける。男の硬くて抱き心地の悪い身体に触れろ、なんて難題を押しつけられずに済むんだ。その方がお前も助かるだろう。解ったら、手を放してくれ」
 もう暫しの辛抱だと、解放のときを待つ。俺をこの場に留める五指は、なおも緩まない。

「男なら誰でもいいっていうなら、僕でも構わないはずだよね」
 耳の傍近くに吐息を感じる。寄り添った温もりからは、柑橘系の香りがした。

 

■80/100■

 

 宵闇を迎えた花柳街が本格的に睡りから覚める。蛍光色のネオンが明滅を繰り返し、周囲に下卑た煽り文句が飛び交った。
 前を行く男女は仲睦まじげだが、パートナーを抱く彼の左手には指輪が嵌められている。彼らが真に夫婦の契りを交わした仲かなど外野には確かめようがない。いっそ互いに好意を持っているだけ、僕らより幾分かましだろう。

 隣に立つ長谷部くんはずっと俯いたまま、先導する僕にただ従っている。会話はない。つい一時間ほど前までは雑談に花を咲かせ、話題もほとんど尽きることは無かったというのに。あまりの落差に乾いた笑いが漏れそうになる。
 あからさまな外観の建物を避けたのは、現状へのせめてもの抵抗だった。

 腰を下ろしたベッドは、成人男性が二人寝そべろうと問題ないくらい広い。安っぽいスプリングを軋ませながら、僕はシャワーの音が止むのを待った。
(長谷部くんはやり方、知ってるのかな)
 僕も彼も、衆道が盛んだった時代に使われた刀だ。歴代の主も色を好んでおり、その手の知識が皆無ということはないだろう。
 もっとも人の身を得て日の浅い彼が、我が身を拓かれる悦びを知っているとは思えない。この点は色恋沙汰にあまり興味がない僕も同様だった。

 男の身体は雄を受け入れるようなつくりをしていない。加えてどちらも初心者となれば、受け手である長谷部くんの負担は推して知るべしだ。男に抱かれるだけなら、色事に長けた玄人を頼った方が良いとは判っている。
 そのくせ僕は、長谷部くんが他の男に抱かれるのを拒んだ。嫉妬ならまだ救いがあった。僕が許せないのは、他の男が長谷部くんに触れることじゃない。僕以外を頼ろうとした、長谷部くんの選択に強い憤りを感じていた。
 君の力になりたい。何度もそう告げたにもかかわらず、長谷部くんが僕を呼ぶことはなかった。あまつさえ、顔を合わせたこともない他人の手を借りようとした。
 長谷部くんはいつもそうだ。ひとりで何でも抱え込んで、突っ走って、勝手に全てを終わったことにしてしまう。君が折れたとき、僕がどんな気持ちだったかも知らないで。

「……待たせた」
 シャワールームの扉が開く。バスローブから覗く肌は、湯上がりで仄かに赤く染まっていた。
 珍しく晒された喉元でつうと一筋、雫が垂れる。流れた水滴が鎖骨に溜まるのを見て、何故かひどく乱暴な気持ちになった。

「つ、次入るか? お前がシャワー浴びてる間に準備、しておくから」
「準備って、長谷部くんわかるの?」
「この手の施設には、まぐわいに使う道具も置いてあるだろう。そこから適当に見繕う」
「適当、ねえ」
 軽く探った抽斗の中身を思い返す。潤滑油はいいとして、一緒に入っていた手錠やバイブ、ブジーの類に気圧されないといいが。
「ひぇ……」
 懸念はものの数秒で的中した。未知の世界に固まる背に寄り添い、後ろから桃色の容器を指さす。

「無理しなくていいよ。僕も初めてだから、ゆっくり、丁寧に進めていこう」
 右手を滑らせ、いずれ僕を受け入れるだろう双臀を撫でる。掌で半ばを覆った丘陵は、意外に柔く小ぶりだった。

 

□85/100□

 

 ぽたり、と降ってきた雫が寛衣に吸われる。俺を見下ろす濡れ羽色は、毛先にいくつもの小さな珠を作っていた。
「髪が傷むからドライヤーは忘れないようにね」
 布で適当に拭うだけだった俺を窘め、熱風と共に髪を梳いてくれていた掌を思い返す。あの温かい手の持ち主が、濡れた髪を放ったまま仲間を組み敷くことになるなんて、過去の俺には想像もつかないだろう。

「髪、乾かさなくていいのか」
「いいよ、後で。そんな細かいこと気にするなんて余裕だね、長谷部くん」

 男の口元が薄く弧を描く。いつもの穏やかで優しい微笑とはまるで違う。眇められた金色は変わらず美しいが、今はその端々に獰猛な光が垣間見える。こんな目をした燭台切を、俺は知らない。

「今は髪より、こっちに集中して」
 服越しに燭台切の手が俺の皮膚を撫でる。ただ軽く触れられただけなのに、身体が大げさに跳ねた。情けなさに頬が熱くなる。きっと生娘だってもう少し落ち着いた反応をするだろうに。

「怯えなくてもいいよ。痛いことはしないから」
「っ、あ」
 服の上から胸を揉みしだかれる。タオル生地が肌を擦り、緊張で強ばった突端を掠めた。上擦った声を聞かれたくなくて口元を覆う。その反応を是と見たのか、燭台切は胸のしこりを執拗に嬲り始めた。
 触れられた箇所から得も言われぬ痺れが生じる。口を塞いでいる掌が熱い。指の隙間から漏れる息は自分でも判るほど濡れていた。

「長谷部くん、それだと息しづらいだろう。手、外した方がいいよ」
 黙って首を横に振る。俺の頑なな態度に呆れたのか、男の柳眉が僅かに吊り上がった。

「強情だなあ」
 言いながら燭台切は俺の衣服を剥いでいく。心許ない一枚の布でも、有ると無いのとでは大違いだった。脱がされても肌寒さは覚えず、寧ろ好いた男に全てを晒している羞恥心のせいか余計に体温が上がった。
 燭台切と比べれば貧相な体つきだろう。遠慮のない視線に耐えかね、瞼を閉ざす。暗闇の中で燭台切が身を起こしたのが判った。次いで蓋を緩めるような音が聞こえる。

「ひゃッ!」
 思わず手を放し、間の抜けた悲鳴をあげた。腹に降りかかった液体は冷たく、剥き出しの皮膚が自ずと粟立つ。目を開ければ、燭台切が薄く色のついた油を俺の肌に塗り込めていた。
「驚かせてごめんね。すぐ温めるから、もう少し我慢して」
「ン、いや温めるって、どうやって」
「それは勿論人肌で」
「人肌で」
 復唱してみても理解が追いつかない。思考停止する俺に構わず、燭台切は掌を滑らせる。粘液を纏わせた指がまた胸の先端に触れた。
「あッ、ぅぐ、ンんんッ!」
 自由になっていた口を今度は手の甲で抑える。弄られて久しい乳首は随分と過敏になっていた。そこに潤いを足され、赤く色づいた箇所が一層張り詰めていく。

 不甲斐ない。女でもないくせに、少し胸を責められた程度で喘ぐほど己が軟弱な刀だったなんて。
 でも仕方ないだろう、気持ちいいんだ。燭台切が触れた場所全てが火照って、どろどろに溶けてしまいそうな感覚に陥る。ああ、俺がこんな淫蕩な男だと知ったら、燭台切もきっと軽蔑にするに違いない。

「きもちよさそうだね」
 こちらを見下ろす男が薄く笑う。不意の揶揄に恥じ入る間もなく、燭台切は俺の下肢に右手をやった。
「ッ~!」
 緩やかに勃ち上がっていた中心を文字通り掌握される。にち、にちと湿った音が立つのは燭台切の手が濡れているせいだろう。
 かし、その言い訳ができるのも今のうちだけだ。はしたない俺の分身はただ掴まれただけで今までになく昂ぶっている。先走りや白濁で燭台切を汚すのも時間の問題だった。

「はは、耳まで真っ赤だ。えっちだねえ、長谷部くん」
「ひゃあッ!」
 耳朶を噛まれ、またしても抑えきれなかった声が漏れてしまう。顎先から浮いた手はたちまち敷布に縫い止められた。藻掻いてみても俺より体躯に恵まれた男はびくともしない。
「我慢しないで、気持ちいいことだけ考えよう?」
 歯を立てられた箇所を分厚い舌が舐る。息を殺すのも限界が来て、締まりのない口から媚びた声がひっきりなしに漏れた。
「やぁ、だめ、しょくらいきり、ッでる、もッはなしてぇ……!」
「イきたい? いいよ、僕の手にいっぱい出してごらん」
 裏筋を擦られ、瞼の裏で光が明滅した。迫り上がってきた熱が弾け、鈴口からびゅくびゅくと噴き上がる。俺の子種は寝床に散るより先に、燭台切の掌に余すことなく拾われた。
「は、ァ……ぁあ……」
 脱力し、全身をベッドに預ける。口端から涎を垂らし、首から下は自分の出したものやそれ以外に塗れている。鏡を見ずとも酷い有様だと想像がついた。

「いっぱい出せてえらいね、長谷部くん。でもまだ終わりじゃないよ」
 もうひと頑張りしてもらわないと、と不穏な言葉を突きつけられる。同時に膝裏を抱えられ、陰部を晒す体勢を強いられた。
「ここに入れないとダメなんだろう?」
 尻のあわいに指が添えられる。意外にも、精液でしとどに濡れた異物を後膣は拒まなかった。指の第一関節ほどが俺の中に埋まる。今度ばかりは快感ではなく、恐怖心や焦燥感が先立った。

「うぁ、あ、あ、ひぎッ……」
 腹の内側を犯され、艶も何もあったものではない呻き声が零れる。
 痛くはない。ただ生きて臓腑を掻き回されるような心地がどうにも落ち着かない。何かを掻き毟りたい衝動に駆られたが、両手はまだ燭台切に捕らえられている。

 せめてこの逞しい背中に縋れたら、多少は心が安らいだのだろうか。そんな真似が許されたのだろうか。俺は一度、こいつに振られているのに。

「……ごめん」
 下腹部の違和感が消える。燭台切が前戯を止め、俺の中から指を引き抜いていた。
 解せない。どうして俺は謝られたのか。謝るべきは、恋仲でもないのに同衾を強いた俺の方ではないのか。

「君の気持ちを無視して、僕の都合で事を進めてしまった。本当にすまない」
 燭台切の自省の言葉がそのまま己へと跳ね返る。呪いに託け、片恋の相手に触れてもらう好機だと喜んでいた胸中を責められている気がした。

「お前が謝る必要なんてない。勝手なのは俺も、同じだ」
「仮にそうだとしても、相手を泣かせていいわけがないよ」
 燭台切がふと俺の目元を拭う。その指先が水で濡れているのを見て、初めて自分が泣いていたことに気付いた。

「呪いとはいえ、好きでもないやつに組み敷かれるのは相当な屈辱だったろう」
「ち、ちがう。これは、慣れないことに身体がついていかなかっただけで。お前に抱かれるのが嫌だったわけじゃ」
「気遣ってくれてありがとう。でもいいんだ、代案や対抗策も練らないで相手の言いなりになるのは後ろ向きが過ぎる。諦めるにはまだ早いよね。呪いの正体を突き止めよう、長谷部くん。ふたりでなら、きっと別の道も拓けるよ」
 男が眉を三日月の形にして、そっと頬を綻ばす。この建物に入って以後、まるで本心の掴めない燭台切がようやく俺の知っている顔を見せた。

 俺を良き仲間としか思っていない、いつもの燭台切の笑顔だった。

 

■85/100■

 

 やるせなさを引き摺ったまま、僕らは本丸へと帰った。
 今晩は交代制で仮眠をとる。長谷部くんが夜を徹して見張っていたときには何も起きなかったそうだから、一時しのぎぐらいにはなるだろう。
 久々に長谷部くんの部屋を訪う。文机や寝具の他には何も置かれていない。彼が誇りを擲ってまで守りたいものとは何か、生憎とその候補すら見出すことはできなかった。

「例のものは隠してあるのかい」
「ああ……呪い相手にどこまで通用するかは怪しいがな」
 寝床の皺を伸ばす長谷部くんから詳細が語られることはない。まあ棚の一つも見当たらないのだから、隠し場所も自ずと限られてくる。要は何人たりとも部屋の中に入れなければ済む話だ。

「君が壊されたくないのは、やっぱり主関係のものかな?」
 僕の問いを受けてか、藤色の眸子が微かに曇った。些か踏み込みすぎたかもしれない。ラブホでの一件もある。今晩はいつにも増して引き際を見定めるべきだろう。

「いや、忘れてくれ。君の安眠のためにも黙って務めを果たすことにするよ」
 電灯を落とす。世界から色彩が失せ、陰影だけが残った。手元すらも不明瞭な視覚を補うように他の感覚が冴え始める。立ち回りの厳しい屋内に加え、夜という不利な条件が続くが、哨戒程度なら差し支えない。いざとなれば相方である打刀の力を仰ぐことだってできる。無論その方法は極力避けたいが。

 出入り口、或いは天井、床下にまで意識を巡らし、呪者の襲来に備える。どれほど気を張っていただろうか、すぐ近くで衣擦れの音がした。反射的に得物へ手を滑らせ、鯉口を切る。
 用心も虚しく、自らの刀身が映しているのは見慣れた煤色だった。布団から半身を起こした彼はやや俯きがちに頭を垂れている。
 喉でも渇いたのか、或いは単に寝つけないのか。いずれにせよ、見張りの交代時間にはまだ早い。

「長谷部くん? 眠れないならホットミルクでも持ってこようか?」
 尋ねても彼は口を開かず、また身動ぎもしなかった。
 不審に思って枕元を探る。行灯が淡黄色の光を宿し、失われた視界が再び色づいた。珍しく曲がった背中から始まり、薄紫の寝衣が包む輪郭を視線で辿っていく。高い鼻梁の付け根を追い、そのふもとに至って僕はやっと違和感に気付く。

「長谷部くん、君」
 本当に起きてるのか。と確かめようとするより先に長谷部くんが動いた。緩慢ではあるが足取りはしっかりしている。

 訝しむ僕など意に介せず、部屋の主は押し入れの前に立った。布団を仕舞っていただろう上段は空いており、その隙間に長谷部くんが身体を滑り込ませる。ややあって、襖に隠れた奥側から一個の段ボールが取り出された。
 彼が手にしている箱は小型のもので、寸法にして長さは二十、幅は十センチ強くらいだろうか。封を開けて最初に見えたのは新聞紙だった。これらは緩衝材の代わりらしく、本命となる中身はさらに小さい。
 入っていたのは瓶だ。掌に収まる程度の容器には、棘を無数に生やした球体が所狭しと詰められている。
 忘れるはずもない。あれは数日前、多忙な友人を労うために自分が贈った品だ。白、黄、桃と優しい色合いを持つ糖花は、購入当時からほとんど減っていないように見受けられた。

 長谷部くんは澱んだ瞳孔で箱を見下ろしている。そう、澱んでいる。彼の在り方を示すがごとく透き通っていた二つ目は、今や古井戸の底を思わせる濁りようだった。先刻覚醒を疑ったわけは他でもない。どう見ても長谷部くんは正気ではなかった。
 汗で滑る利き手を柄へと伸ばす。抜かずに済めという祈りも空しく、両者の白刃が虚空で重なった。

「……冗談だと言ってくれよ」
 切り結んでいる相手に良心を問うなど間抜けも良いところだろう。僕は混乱していた。現実と受け止めるにはあまりに残酷で、夢幻と思い込むには証拠が揃いすぎている。

 不浄なものの仕業ではない。侵入した形跡も見当たらない。カメラに収めようとしても砂嵐しか映らなかった。指示を達成すれば呪詛をしたためた紙は失せる。
 種さえ判ってしまえば簡単なことだった。これらの疑問を一挙に解決する方法が一つだけあるではないか。全ては長谷部くんの独り芝居だった。この仮説を否定しうる材料は、当事者である彼の証言以外に無い。

「長谷部くん! 僕が判るか、今君と刃を交えているのは燭台切光忠だ。この本丸で友として時に背中を任せた仲間だ。聞こえているなら、意識があるなら返事をしてくれ!」
 呼びかけが功を奏したのか、長谷部くんの唇が薄く開く。それに伴い、箱目掛けて振り下ろされた凶刃も引いた。
「長谷部くん」
 正気の是非はともかく、話し合いの余地はある。同じく刀を下ろし、僕は期待を以て相手の出方を待った。

「ああ、俺のことを友としか思えず、ご自慢の逸物を振るうには値しないと見做した仲間思いの燭台切じゃないか。同衾を断ったくせに、ふたりで一夜を明かそうとは趣味の悪い提案をしてくれる」

 麗しい面貌の中に歪んだ笑みが浮かぶ。遡行軍の槍に腿を突かれたとき、苦無の速攻で負傷したとき、似たような表情をしていたことを覚えている。敵を挑発する口調も、得物の構え方も、疑いようもなく、僕の見知っているへし切長谷部のものだった。

「今まで僕を騙していたのかい」
「まさか。呪いに向き合い、その根絶を真剣に求めた俺の言動に嘘はない。ただ絡繰りに気付いてないだけだ。次に目が覚めたときには、眠りの浅さに辟易しつつ無垢に立ち回るだろうよ」
 つまりは夢遊病の一種だと向こうは語る。自分を責め、僕を巻き込んだことを悔やむ長谷部くんは演技ではなかったらしい。

「じゃあ質問を変えよう。君の目的はいったい何だ。どうして自分を苦しめるような真似をする」
「ふん。逆に問うが、ここまでされてお前は気付かないのか」
「判らないよ。まさか長谷部くんに自傷癖でもあるって言うのかい」
「……は、鈍感もここまで来ると笑えんな。いや、お前はこっちが起きてる間も情報統制されてたから仕方ないか。じゃあヒントだ。俺が教えなかった一つ目と二つ目の呪いについて話してやろう」
 刀を鞘に収め、長谷部くんは自らの唇を挟むように指を二本立ててみせた。艶っぽい仕草はまるで普段の印象とそぐわない。仲間の知られざる一面を目の当たりにし、気が気がじゃなくなった。

「一つ目の呪いは、想う相手の体液を口にしなければ呪われる、だ」
 急に世界が揺らぐ。鯰が暴れてるかと思いきや、ふらついているのは僕だけだった。口元を抑え、腹の底から込み上げてくる衝動に耐える。

「二つ目は、想う相手の精液を口にしなければ呪われる、だ」
 ざく、と光忠が一振りが畳の目を貫く。刀を支えに、崩れそうな身体を何とか持ち直した。

「なあ燭台切」
 上体を屈する僕に友の姿をした呪いが寄り添う。

「あのとき俺を抱いてくれたら、きっと呪いなんて無くなってたと思うぞ」

 悪魔の囁きとはよく言ったものだ。真実を知った僕は、仲間を気遣うつもりで幾度となく彼を傷つけていたことに気付いてしまう。

 ――男なら誰でもいいっていうなら、僕でも構わないはずだよね。
 ――呪いとはいえ、好きでもないやつに組み敷かれるのは相当な屈辱だったろう。

 長谷部くんは、どんな思いで僕の言葉を聞いていたのだろう。この問いに対する何よりも雄弁な答えは、項垂れる僕の背を優しく擦っていた。