錬結を待つ刀 - 1/4

 

 

 ……い
 ……ない……

 

「何か言ったかい?」
「別に何も?」
 問われた加州の表情は胡乱げである。燭台切は同輩の反応が腑に落ちないようであったが、すぐに己の空耳ということで一切を片付けた。
 この本丸は六十振り近くの男士を抱えている。男所帯故に好戦的で血気に逸る者も少なくなく、彼らにとって喧噪ほど馴染み深いものは無かった。そういった環境に在ればこそ、この一角の静謐さが特別際立って見える。近くに男士の私室も無く、道場や食堂からも遠い。寂寞たる廊下の終着点には、雨露に濡れた紫陽花が咲くのみであった。

「ううん、幻聴が聞こえるなんて神経質になってるのかな」
「燭台切は苦労性だからねーストレスでも溜まってるんじゃない?」
「オンオフ共に充実してるし、その手の心配には縁が無いと思っていたんだけどねえ。嫌だなあ、このままだと頭頂部から円形に広がっていくタイプのハゲに……あ」

 資材を抱えたまま燭台切は走り出す。加州はその行く先を目で追い、寸秒経たずして得心の意を示した。開いたばかりの障子から紫色の長衣が顔を覗かせている。駆け寄る黒い刀に男は小言を以て出迎えたようだが、両者ともに頬を緩めているのでどうにも締まらない。
(確かにストレスなんて無さそう)
 とうに梅雨入りを果たし、日々地面をしとしと濡らす陰鬱な天候が続いているというのに、黒と紫の二振りは季節外れの桜を纏わせている。加州は呆れた様子で角を曲がった。目的地へは些か遠回りとなるものの、恋仲の二人に割って入るより幾分も気楽である。

「その様子だと概ね上手く行ったみたいだね」
「ああ、錬結手入れ共に問題無い。そういうわけだから明日はいよいよ出陣だ。主へ最良の結果を報告しよう、光忠」
「ああ。一緒に頑張ろうね、長谷部くん」

 初陣や共闘への期待に自ずと二振りの胸も膨らむ。彼らを取り巻く背景は少しばかり複雑だった。稼働から二年近く経つ本丸で、明日にようやく初陣を迎えるというのも事情有ってのことである。

 この本丸には燭台切光忠とへし切長谷部が二振りずつ居る。
 うち一組は普通に鍛刀されて顕現した二振り。もう一組は、錬結用の素材として捨て置かれていた燭台切光忠と、刀剣ではなく土塊の身体から成った長谷部、ねんへしと呼ばれていた人形のへし切長谷部である。

 本来三寸あまりの背丈しかないねんへしだが、今では男士の長谷部と寸分違わぬ体躯を獲得している。その身体を得るにあたって、また二振り目の燭台切と情を交わすに至るまでには多少の紆余曲折が有った。

 そもそも、この本丸は二振り目の顕現を暗黙の内に禁じていたのである。長らく倉庫で眠り、錬結される日をいつとも知れず待っていた燭台切であるから、戦陣に焦がれる気持ちは一等強かった。それは愛玩人形として顕現した長谷部も同様である。
 共に刀としての矜恃を強く持ちながら、戦場に立つことは許されなかった。その彼らが正式に男士として認められ、遂には出陣の誉れまで戴くことになった。その喜びがいかばかりであったか、第三者には到底推し量ることはできないだろう。

「しかしこれで念願の首級争いができるな」
「ふふ、楽しみだね。勝ったら何してもらおうかなあ」
「ははっ、今のうちにせいぜい淫語録を磨いておくんだな。俺も首輪と手錠を新調しておく」
「既に勝ったつもりで囚われの奴隷プレイを押し進めてくる長谷部くんすごいね、好きだよ」

 仲を深める前の関係が性生活に微細な影響を与えてはいたが、二振りは順調に交際を続けていた。なお囚人側に回るのは長谷部の方である。

 そわそわ。
 そわそわそわ。
「落ち着け燭台切、お前がここでいくら足掻こうと出陣先の連中には何も得るところが無い」
「正論で攻めなくても大丈夫だよ、長谷部くん。でもね、頭では理解していても身体は納得しないんだ。ああ、ねんくんが怪我して帰ってきたらどうしよう、そのときは二振り目のトリートメントで五虎退くんの虎をふわっふわにしてやるけどね……!」
 地味に同僚を巻き込みつつ燭台切はまた室内をうろつき始めた。例の二振りが出陣してからずっとこの調子である。長谷部は良人の過保護ぶりに呆れる思いであった。

 本丸に残った燭台切とねんへしとは主従の間柄である。男士の長谷部が非常に遅く顕現したため、その間一振り目の燭台切は散々に待たされることになった。長谷部への一方的な親近感はやがて妄執へと姿を変え、頼れる近侍燭台切光忠の理性を容赦無く崩落させていった。一向に顕現しない長谷部に燭台切の焦燥は日増しに募っていく。それを見かねた審神者が近侍に贈った人形こそ、彼の土人形ねんへしである。
 長谷部を溺愛する燭台切と、主には絶対の忠誠を誓うねんへしとの相性は抜群であった。君臣と言うよりは友人や親子の関係性に近かったかもしれない。一振り目の燭台切はそれこそ、ねんへしを我が子のように可愛がっていた。主従の親交は従者が二振り目の燭台切と懇ろになった今でも変わらない。それどころか、己と同じ顔をした男に愛息を奪われて、親馬鹿の度合いはますます凄みを増していった。

「あれは他ならぬお前の刀なんだぞ。臣下を信用してこその主だろう。どうせ待つなら、いつもみたいに取り澄ました顔で仁王立ちしておけ」
「何やら引っ掛かる物言いだねえ」
「なら表現を変えよう。お前の笑顔は胡散臭い」
「いよいよ慰める体すら装わなくなってきたね?」

 長谷部の背にずしりと体重が掛かる。前面に伸びた両腕は、成人男性としても立派な体格を持つはずの長谷部を収まりよく閉じ込めてしまった。

「僕の顔嫌いだっけ、長谷部くんは」
「嫌いじゃない、が、そういう意地の悪い質問ばかりする姿勢は正直どうかと思う」
「だって僕の笑顔は胡散臭いんだろう? 好きな子に良く思われてない部分が有るなら自覚すべきだし、直したいじゃないか」
「だから、本当は全部解ってるくせに、そうやって言葉尻を捕らえて責めてくるところが底意地悪いのだと」
「ええ、解らないなあ。僕がねんくんのことばかり気にするから、ついつい言い回しが刺々しくなってしまって、でも本音だから訂正する余地も無くて内心ぐるぐるしてる長谷部くんとか、僕に都合の良い妄想な気がするしねえ」
「お前なんてきらいだ」
 煤色で薄ら隠れていたうなじが赤く染まる。耳の端も同様で、柔く食んでやると長谷部の身体が大げさなまでに震えた。

「僕は長谷部くんのこと大好きなのになあ」
 襟足をどかした先に音を立てて口付ける。前のめりになりかけた身体は、燭台切の力強い腕で遮られた。
「ま、まだ明るいうちからなにを」
「大したことしてないし、しないよ。少しくっついて不安な気持ちを長谷部くんに癒やしてもらってるだけ」
「求めてるのは癒やしじゃなくて、いやらしだろうが……」
 何だかんだ言いつつ、長谷部は抵抗する素振りも見せようとしない。それどころか、己を抱える黒い指先に自分の指を絡めてすらいる。藤色の瞳は先の行為を期待して熱にとろけきっていた。

「はせべくん」
 手遊びに興じる腕とは別に、燭台切の指先が愛しい刀のおとがいを捉える。ぐいと振り向かされた長谷部は何も言われぬ先から目を伏せた。

「緊急事態だ光坊、長谷部!」

 前触れなく開いた障子に長谷部が機敏な反応を見せる。強烈な肘鉄を鳩尾に受け、燭台切は仰向けのまま白い太刀と相対した。

「鶴の肉って高級食材だったよね」
「本気で緊急事態だから勘弁してくれ。ねんへしが重傷を負って帰ってきた」

 衝撃の報告に二振りの眼が大きく見開かれる。
 梅雨時の重く、湿った空気が男たちの肌を舐め上げていた。

 手入れ部屋の戸が開く。黒い刀は沈痛な面持ちで首を横に振った。彼を出迎えた二振り──長谷部と二振り目の燭台切は、男の表情が意味するところを覚って愕然とした。手入れ時間は零を指し示したまま動かない。内に籠もる刀が運び込まれてから、その数字に変化が生じることは無かった。
「いくら神気を流しても傷が塞がらない。主にも見て貰ったけど結果は同じだった」
「そんなッ……」
 二振り目が自らの拳を強く握りしめる。唇の端からは赤い筋がつ、と流れ出ていた。その雫は床にこぼれ落ちる前に白手袋の染みとなって消えた。
「今度は俺が行く。あいつの身体を作り替えたのは俺だ。或いは燭台切や主より適任かもしれん。お前もこいつも、時間が経って少しは頭が冷えただろう。近侍に詳しいことを話してやってくれ」
 そう言って、長谷部は一人手入れ部屋に入った。残された二振りの間に緊張が走る。長谷部は彼らの仲違いを懸念したが、一振り目は自らと同じ姿を取る刀を責める気にはなれなかった。
 既に自責の念に駆られ身を震わせている男に、どうして勢い任せに非難を加えることができるだろうか。同じ燭台切光忠の名を戴く刀だからこそ解る。傍に侍りながら大切な者を守れなかった屈辱に比べれば、他者の加える罵声など都会の雑音にも値しない。誰よりも彼の腸を切り裂きたいと願っているのは、他ならぬ二振り目の燭台切自身なのである。

「話は近侍部屋で伺うよ。どうも、単なる経験不足から来た負傷ってわけじゃあなさそうだ」

 出陣部隊に選ばれたのは、蛍丸、小夜左文字、博多藤四郎、にっかり青江、へし切長谷部、燭台切光忠の六振りだった。このうち三振りは既に修行を済ませている。大太刀の中では最後に顕現した蛍丸だが、それでも練度は五十を超えていた。新入り二振りが仮に打ち漏らしても十分にフォローが利く編成だったと言える。

 また燭台切や長谷部に関しても、初陣ということもあって慢心とは縁遠かった。血肉を身に浴びて些か昂奮していたかもしれないが、それは経験の有無を問わず男士なら皆覚える感覚である。行軍は順調であった。奇襲に遭うことも、民間人を巻き込むこともなく、部隊は敵本陣までほとんど被害も出さずに駒を進めていった。

 瘴気を出す化生の頭上を矢嵐と鉛玉とが覆い尽くす。装甲の大部分を削られ、遡行軍が敵襲に気付いたときにはもう手遅れであった。得物を構える暇も与えられず、異形の首が胴体から切り離される。
 上がる血煙の中を小柄な影が二つ駆け抜けた。博多、小夜ら短刀に攪乱され、遡行軍は皆色を失っている。自軍を蹂躙する二振りに気を取られ、背後に迫る大ぶりの一刀にも気付かぬ有様だった。
 三尺を上回る白銀が骨ごと宿敵の身体を断っていく。蛍丸の存在はまさに台風の目である。唸りを上げて振るわれる大太刀の軌道は、もはや敵味方問わず脅威となり得た。
 当然敵も黙ってはいられない。これ以上の被害を食い止めるべく、蛍丸の短躯目掛けて白刃が迸った。金属同士が触れ合い、耳障りな音を立てる。起死回生を狙った一撃はしかし、深緑の髪を持つ大脇差に遮られた。彼の号を彷彿させる微笑は、戦場において挑発以外の何者たり得ない。そのまま刀身を滑らせた青江は、敵の脇から肩に掛けて斜めに切り上げた。

 古参が切り拓いた道を長谷部と燭台切が急ぐ。本陣の奥深くに控えている首魁こそ二振りの本命であった。長谷部が速攻を仕掛けて相手の気勢を殺ぎ、怯んだ敵の懐を燭台切の一閃が薙ぎ払う。これらの連携に迷いは一切見られない。初めて背中を預け合った二振りは、互いの弱点を補いつつ前線を押し上げていった。
 遡行軍の大将も追い詰められれば一介の兵士に過ぎない。二対一という数の不利を覆すほどの実力を持たぬ首領は、最後に破れかぶれの反撃を行った。勢いだけの踏み込みである。燭台切ほどの膂力を持たずとも、長谷部が軽く受け流すだけで対処できる一撃だった。

「え――」

 その呟きを漏らしたのは一体どちらなのか。敵大将を挟み、藤色と琥珀の瞳が同時に驚愕に染まった。隙だらけの背中を燭台切に斬られ、大太刀の巨躯が沈む。その先に腹を貫かれた長谷部が佇立していた。
 装束を赤黒く染めていく男の両腕は、だらりと垂れ下がっている。戦場にあるまじき無防備な体勢に違和感を覚えたのは、燭台切だけではない。当の長谷部すらも、何故己が迎撃しなかったのか理解できずにいた。
 倒れ込む紫の刀を逞しい腕が支える。長谷部くん、と大音声で呼ばわる男の叫びが戦場に木霊した。

「長谷部くんも、どうして自分が斬られているのか解っていない様子だった」
 それでも僕が彼を守れなかった事実に変わりはないけどね、と付け足す二振り目の口元は自嘲に歪んでいる。男の語り口に一振り目の燭台切は黙考するのみだった。
 燭台切光忠が何よりも嫌うのは無様を働く自分である。こと己の失態について言い訳をするような真似をするはずがない。つまり、二振り目の説明した一部始終は真実に他ならないのだろう。そうなると話を聞くべきは、二振り目より寧ろ長谷部本人である。

「君の話は解った。ねんくんの身に何が起きたかは解らないけど、何分あの子を取り巻く事情は少し特殊だ。初めての出陣で何かしらの不具合が起きていてもおかしくはない。原因については追々考えよう。とりあえず今は……」
 面を伏せる男の口許に黒手袋が伸びる。二本の人差し指が唇を割り開き、口角を無理矢理吊り上げさせる形を取った。
「ねんくんが起きたときに、そんな情けない顔を見せないよう頬の筋肉を解しておこうか。せっかくの男前だ、眉間に皺寄せてばかりじゃ勿体ないだろう」
 見本とばかりに一振り目が片えくぼを寄せる。その表情と遠回しな自画自賛は、二振り目の強ばった肩から力を抜くのに十分だった。

 すっかり冷めきった茶を互いに咥内へ運ぶ。そうして俄に訪れた静寂を破ったのは、廊下を慌ただしく駆ける足音だった。

「あいつが目を覚ましたぞ!」

 長谷部から容態の回復を聞き、いてもたってもいられなくなった男たちは手入れ部屋に直行した。特に二振り目は愛しい刀の顔を見た途端、その身体を腕に引き入れ無事を言祝ぐ気満々だったのだが、その願望は想定外の理由から泡沫と消えた。

「ねんくんがねんくんになってる」

 急に燭台切の言語能力が不自由になったわけではない。一振り目の動揺を判りやすく示した一言は、実のところ現状を端的に言い表していた。これまで男士の長谷部と同等の体格を保持していたねんへしが、本来あるべき掌サイズに立ち戻っている。これには図太さに定評の有る燭台切も、回復を喜ぶべきか変化に戸惑うべきか反応に困った。

「は、長谷部くん……?」
「光忠」
 人形の潤んだ瞳が二振り目の困惑極まる容子を映し出す。愛しい男の指先に頬を擦り寄せた小人は、
「すまない。お前の魔羅より小さい身体に戻ってしまった。当分光忠の鞘を務めることはできそうにない」
 と、どこかずれた発言をして燭台切たちを一層混乱に陥れた。