テセウスの船に名は要るか

 青年はくの字になって悶絶した。
 臓腑に纏わりつく不可視の暴力に堪えかね、幾度となく咳き込む。彼の努力に反し、吐き出されるのは呼気と粘性の足りない唾液くらいのものだった。
 口内から侵入した異形が若者を傷つけることはなかった。一時は成人男性の上背よりも膨れあがって見えたというのに、圧迫感や質量をまるで感じない。青年を脅かしているのは苦痛ではなく恐怖であった。

 彼の中には化け物がいる。比喩ではない。
 琥珀色をした不定形の流体は意志を持ち、人語を解し、青年――長谷部国重へと接触を試みた。およそ数分前の出来事である。

「情報では知っていたけれど、本当にヒトは自死を選択する生物なんだね」
 身投げを図った長谷部は有り得ないはずの声を聞いた。踵はとうに屋上を離れ、全身で風を切っていた。予想していた衝撃はなく、それどころか柔らかく奇妙な感触に包まれている。
 動画を逆再生するように、地上の灯がゆっくり遠ざかっていく。長谷部は己の正気を疑った。四肢に、背中に、首に巻きついた触腕がネオンに照らされる。優しくも力強い運び手は、数十メートルに高さを苦ともせず長谷部を引き上げてみせた。

 そして交流の第一声として発したのが、先の台詞である。かの生物は容姿、思考、常識、全てが人類の埒外にあった。

「君たちの文化だと初めまして、が適当な口上なのかな。挨拶したいところだけど、僕は固有の名詞を持たない。こちらの言葉にならって宇宙人とか、UMAとか、好きな呼び方をしてくれて構わないよ」

 言葉だけをなぞれば友好的な態度に思える。しかし、自殺という行為を忌避せず、むしろ珍しがるような言動に長谷部は強い抵抗を覚えた。
 あれほど焦がれた死を、人外のたかが好奇心で奪われた事実が、余計に青年の怒りを増長した。

「うるさい」
 握手のつもりか、差し出された触手を長谷部は払いのけた。

「お前が何者だろうが、地球を侵略しに来たとか、ヒトを研究したいとか、目的なんてどうでもいい。俺は死ぬつもりだった。あいつのいない世界で、これ以上生きていて何になる。自殺を止めて恩を売ったつもりだろうがはっきり言って迷惑だ! サンプルなら他のやつを当たるんだな!」

 怒声を受けて蜜色の膜が震える。微かな振動にも波打つ肉体には、感情を表す器官が何一つとして備わっていない。目鼻や口を持たない有機体の塊は、肌に夜空と街の光を散らして佇むばかりだった。

「あいつ。なるほど、特定個体の再生が実現できれば、君は生存する意志を持つんだね」
「は……?」
「僕らが把握している銀河系の中でも自死を選ぶ生物は稀少だ。ことに高度な精神活動を可能とする生命体になると、もう天文学的確率になる。この貴重な機会を逃すのは宇宙の損失と言っても過言じゃない。なら協力しよう。君にとっても得になる選択を」

 ぼこ、と滑らかだった粘膜に気泡が生じる。瞬く間に表面は無数の凹凸で埋め尽くされた。煮え立った溶岩のごとく皮膚を弾けさせ、徐々にその体積を嵩ましていく。
 長谷部が逃亡に思い至るまでには僅かに間があった。相手の常軌を逸した発想と、悍ましく理解しがたい光景につい足がすくんでいた。萎えた勇気をどうにか奮い、ドアノブに走る頃には既に手遅れであった。

「ゲぇ……ッ! ひッ、ぇう゛ォ……!」

 急に喉奥の不快感が増し、長谷部は勢いよく胃の中身を吐き出した。
 ほとんどが透明の液体だったが、その一部は天に向かって腕を伸ばし、次第に色さえ含んでいった。
 ようやく解放された長谷部は涙混じりに息を整えている。酸っぱさが残る口内がひどく不愉快だった。唇を手の甲で乱暴に拭うと、視界の端に黒い柱が見えた。その輪郭は、長谷部のよく知っているものだった。

「よく出来ているだろう? ええと、長船光忠。君とは非常に親しい……ああ、番だったんだね。死因は交通事故か。肉体の構成要素から言って、どうやら地球人は非常に脆いつくりをしているらしいな」

 風貌、声色に表情、話し方すら記憶と違わない。死に別れたはずの恋人とうり二つ、いや外見だけならば全く同じ男が長谷部の前に立っていた。

「君ですら忘れている記憶も厳密に抽出した。長谷部国重が把握しうる限りでの、完璧な長船光忠のトレースだよ。どうだい、気に入ってもらえたかな長谷部くん

 光忠の姿を模した男の笑顔はまさに完璧だった。それ故に長谷部の絶望はますます深刻なものになった。
 長谷部くん、と呼びかける声は愛情など微塵も孕んでいない。月色の左目が甘く弧を描いているのは、長谷部の記憶を再現しているに過ぎない。
 理性は目の前の男を偽物だと断じているのに、本能は恋人の帰還を認めてしまっている。あの逞しい腕の中に飛び込みたい。たくさん呼ばれて、貪るように口を吸われたい。

 長谷部は自身の欲に気付き、噛み合わない歯をがちがち鳴らした。外見が同じだけで、中身は心ないバケモノをかつての恋人に重ね合わせる。これほど光忠を侮辱する行いはない。罪悪感と自己嫌悪に塗れ、長谷部は無気力に天を仰いだ。

「ほら長谷部くん。ここにいても仕方ないだろう? 家に帰って、温かいお風呂に入って、美味しいご飯を食べようね」
 男のてのひらが再び長谷部へと差し出される。握り返す気力もないまま、視線だけがぼんやり交わった。やがて光忠が歩み出て、座り込む長谷部を促し、強引にその手を取った。

 触れあった体温がまた懐かしく思えて、長谷部は静かに頬を濡らした。


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