どこだここ。
眠りから覚めるなり僕は目を疑った。コンクリート打ちっぱなしの壁、ベッドとモニターを除いては家具らしい家具も無し。広さは十畳ほどだろうか。ただ、ゆとりはあっても前述の通り彩りに乏しく、印象としては殺風景極まりない。当然ながら、僕の自室とは似ても似つかない部屋だった。
(昨日は確か)
珍しく残業して、退勤した頃にはひどく疲れきっていた。がら空きの車両に腰を落ち着け、三十分ほど揺られるうちに瞼が重くなってきて……多分、眠ってしまったんだろう。記憶にあるのはここまでだ。そのまま終点、すら過ぎて車庫送りになったとしても、こんな無機質な部屋に乗客を送り込むとは思えない。信じがたいが、まさかこれが駅員の仮眠室とでも言うのか?
「おはよう光忠、よく眠れたか?」
スピーカー越しの声が僕を呼ぶ。聞き覚えはない。おそらく僕と面識のない人物だ。だが向こうは僕を見知っているらしい。しぜん、脂汗が背筋を伝う。
「慣れないベッドの割にはね。ご丁寧な待遇どうもありがとう、と言いたいけれども君は誰で、ここはどこかな? ついでに言うなら時間も教えてほしいところなんだけど」
「せっかちだな。そう慌てるな、順番に答えていく。俺は長谷部国重。ここは趣味の投資で買い取った物件で、今日からはお前の家でもある。時刻は朝の七時だ」
簡潔かつ順番通りに答えてくれたが、衝撃のあまり内容がろくに入ってこなかった。いきなり引っ越しを告げられて驚かない社会人はいない。
「生憎と今まで無遅刻、無欠勤で来てるんでね。今扱ってる案件は結構面倒だし、チームの皆にも引き継ぎしないといけないんだ。冗談はやめて早くここから出してくれないかな?」
「冗談で拉致監禁ができるか。光忠は今日から俺に飼われるんだ。衣食住は保証してやる。もう早朝に一時間もかけて髪をセットする必要はなくなるぞ」
ああ、ストーカーの類か。女性には何度かやられたけど、さすがに同性は今回が初めてだな。冗談じゃない。司法社会の日本で、警察の捜査からそうそう逃れられるものか。
「ちゃんと職場にも退職届を出しておくからな。大丈夫だ、事故による退職と説明するから角は立たない。あと上司にパワハラの傾向が見えたので、その辺も然るべき機関に通報しておいた。証拠の動画もばっちり送ってあるから、安心してくれ」
最近ハゲ、もとい上役が大人しかった理由それか。溜飲が下がったことは事実なのでその点については感謝申し上げたい。かといって、愛玩動物に成り下がるのは御免なんだけどさ。
「……まあ、激務だったのは確かだけれども。やり甲斐を全く感じてなかったわけじゃあないし、僕は顔も知らない相手に尻尾を振る趣味はないよ」
「俺の顔なんて見ても面白くないとは思うが……まあ光忠たってのご希望なら、一考しよう」
そう言うなり、室内に再び静寂が訪れる。壁際の巨大なモニターに目をやってみたが、別に映像が流れてくる様子はない。代わりに靴音が遠くから響いた。
灰色の重苦しい壁に一カ所、アルミ製のドアが嵌められている。こちらは電子錠によって管理されているらしい。枠外に設えられたランプが点灯すると、白銀色の扉が左にスライドした。立っていたのは意外にも若く、そして端正な顔立ちの青年だった。
「お望み通り顔を見せに来てやったぞ。ついでに着替えも持ってきた。サイズが合うか不安だから、適当に見繕ってくれ」
声も、機械を通すよりずっと凛々しく、耳に心地よい。少し灰がかった茶髪は地毛なんだろうか。あるいはよく磨かれた鋼みたようで、時に砕けた硝子片より目映く光を散らしたりする。額を左右に分ける前髪の下には、不思議と澄んだ藤色が二つ。伸びた背筋や、首元まで締まったシャツの硬質さとは裏腹に、彼の持つ瞳はなんとも儚げに映った。
有り体に言ってしまえば、綺麗だ。その気がなくたって是非ともお近づきになりたくなる。そんな清廉で、どこか危うい魅力を持ち合わせていた。
「……えっと、長谷部くんだったっけ」
「ああ、好きに呼んでくれて構わない。着替えたいならいったん外に出るが」
「いや、男同士だし構わない……よ」
受け取った袋の中を吟味し、絶句する。サイズがどうとかいう問題じゃない。何だこのデザインは。極彩色をふんだんに用いつつ、ひよこをPIYOPIYO鳴かせたイラストは何のつもりだ。追撃とばかりに親子丼を裏面に描くな。さすがにこれはネタ枠だろ次。
一面に「運動」の二字を敷き詰めたTシャツ。どこで売ってんだ。はい次。
何でこんなに穴空いてるんだよ、乳首が見えるだろ。虫食いじゃなくてデザインなのが根本的に間違ってるよ。これでインナーなのは下着への冒涜だろ。以下、類似例が続くため割愛。
「なにこのクソダサセーターとインナーの協奏曲、福袋とかに入ってたけど着なかったやつの集い?」
「は? 俺とお揃いになるのがそんなに不満か」
「君も着てるのかよ。てっきり僕を辱める目的だと思った。素で貶してごめんね。僕には合わなかったけれど、地球最後の日には愛着が湧くかもしれないね、うん」
「半端な慰めやめろ。くそ、そこまで言うならAmaz○nで頼め」
「ええ、ネット通販はなあ……写真は良いように加工もできるし、着心地も試したいから服はショップに行くのが一番なんだけれども。いくつかのブランドは会員になってて割引利くし」
「Amaz○nなら他の消耗品も買えるからな。どうせコーヒーも豆からじゃないと飲まないとか言うんだろ」
「そんなことないよ。最近はドリップだって結構美味しいし」
「ドリッ……プ……?」
初めて感情を知ったロボみたいな反応をコーヒーから引き出せることあるんだ。この部屋が殺風景なのって演出じゃなく、単に無頓着なだけなんだろうな。間違いない。
「……コーヒーはさておき、家具がこれだけっていうのも寂しいんじゃないかな」
「そうか? 今時の連中はY○utubeさえ視聴できれば満足なんだろう?」
「限度ってものがあるよ。テーブルもなければ、クローゼットすら見当たらない。ただ眠るだけの部屋にしたってベッドはギシギシ鳴るし、枕も柔らかすぎる。どちらかといえば硬い方が眠れる方なんだよね、僕」
「……枕も布団も、柔らかければ柔らかいほど良いものなんじゃないのか」
「それも服と同じで個人差があるかな。睡眠の質は生活に直結するから、ちゃんと自分に合った寝具を選ばないとね」
と、くどくど説くうちに長谷部くんの顔が渋くなっていく。組んだ腕を指先で叩いている様子からして限界は近そうだ。
幸い手足を拘束されたりはしていない。この調子で面倒な注文を突きつけていこう。相手が暴力に訴えるようなら反撃を。向こうが要求を呑み、外に連れ出してくれるなら逃亡の芽もあるだろう。
「わかった。もういい、一緒に買い出し行くぞ」
遂に長谷部くんは音を上げた。狙っていたとはいえ、監禁相手に随分な譲歩をしたものだ。かく言う僕もすんなり事が運んで正直驚いている。
「あっさり外に出すんだね」
「拘りが強すぎて説得が面倒だ。無視してお前に過剰なストレスを与えるのは避けたいしな」
多少引っかかる物言いだが、進展には変わりない。
人混みなら十分に撒ける。僕の人生は僕のものだ。他者の手によって管理され、怠惰に過ごす日々など耐えられない。長谷部くんには悪いが、先に僕を陥れたのは彼の方だ。変に同情しては相手の思うつぼだろう。
「あ。このベッドなんか良いね。収納つきで、マットレスはポケットコイルだよ」
「ポケット……?」
「耐久性よし、振動にも強く、体圧分散性に優れたマットレスで、多くのホテルでも採用されてるんだよ。ボンネルコイルも僕くらいの体格だと悪くないんだけど、質を重視するならポケットコイルの方がオススメかな」
「布団の販売員でもやってたのか?」
「営業の話題作りで覚えただけだよ。せっかくだし君もマットレス新調したら?」
「俺は普段ソファで寝てるから関係ないぞ」
「関係大ありじゃないか。僕のお世話しようって人が自分の世話も焼けないんじゃ本末転倒だろう。ハイ、じゃあ枕とシーツも買ってこうね」
不服そうな長谷部くんの背を押し、あちこちの売り場を練り歩く。
家具を眺めるのは好きだ。意匠を凝らしたデザインを見るのはもちろん、オーク材の品の良い香りや、飴色の木目が目鼻を楽しませてくれる。それらを空想の自宅に招き、既存の凹凸に嵌まる場所があるか試行錯誤する瞬間がまた堪らない。
僕は当初の目的も忘れ、すっかり品定めに夢中になった。何しろ収納棚、食器、照明にテーブルと揃えるものが多い。家具の他にも服だって都合しないといけないから、果たして今日一日で済むかどうかも怪しいものだ。
「光忠……あと、何時間ぐらいかかる」
と、長谷部くんがグロッキーになるのも無理はない。僕は休憩もとらずに連れ回していたことを反省し、併設のカフェに憩いを求めた。
昼時はとうに過ぎている。すぐ席に案内された僕らは、後続の客を気にせずゆっくりメニューを吟味した。
「光忠はコーヒーに詳しいよな」
「全く飲まない人よりかはね」
「産地がつらつら並べてあるように見えるが、違いがさっぱりわからん」
「そうだね。豆や入れ方によって結構風味が変わってくるんだけど……長谷部くんは苦いのと酸っぱいの、どっちが苦手かな?」
「どっちも苦手だ」
「じゃあカフェラテにしよう。フレーバーも選べるから、気になった味があったら頼んでみるといいよ」
「わかった」
どうやら長谷部くんは甘党らしい。お腹も空いてるだろうに、コーヒーのお伴には林檎のタルトとバニラアイスを選んでいた。栄養バランスについては後で話し合うとしよう。ラテアートの幾何学模様にああも感動されてしまっては、食事の是非なんて到底説けやしない。
「美味い……!」
「それは良かった」
やはり本格的なコーヒー――今回はカフェラテだが――を飲むのは初めてだったようだ。新鮮な驚きを伴った感想は、自分がカフェラテを用意したわけでもないのに妙に誇らしく思える。コーヒーにさほど拘りはなかったが、この笑顔が見られるなら毎日豆を挽いたって構わないかもしれない。
……あれ、僕もしや絆されてる? 逃亡計画はどうした? 人混みを利用して雲隠れを図るんじゃなかったのか? なに普通に買い物を楽しんで、あまつさえコーヒーマシンの購入を検討してるんだ。正気になれ長船光忠。僕たちは誘拐犯と被害者の関係であって、それ以上でもそれ以下でもない。
「長谷部くんは、どこで僕のことを知ったんだい」
きっと一方的で身勝手な出会いが語られるんだろう。これまで糾弾してきたストーカーは皆、決まって似たような文句を吐いた。運命を感じた、お互いに一目惚れだった、前世での縁だ、云々。
自己の中でのみ完結した認識が他者に受け入れられるはずもない。僕は長谷部国重という人物を知らない。好意を持たれるほどの交流は二人になかった。拉致監禁なんて異常な行動に出られるのも、肥大した妄想が神経に巣くっていればこそだろう。理知的な答えなど、およそ期待できるわけがない。
「光忠は、俺を救ってくれたんだ」
ひとめぐりした匙が湯気を切る。エスプレッソの鈍い色味に、白い泡がじわりと溶け込んだ。
「駅の構内で人酔いした俺に、ペットボトルの水を差し出してくれてな。今にも吐きそうだったから、あのときは本当に助かったんだ」
はにかまれ、僕は言葉を失った。ペットボトル。駅の構内。そんなことも、いつかあったかもしれない。いやでも、長谷部くんほど際だった容姿なら僕の記憶にも残っているはずだ。急病人を介抱した経験なんて多くない。しかし、脳裏を掠めた面影に長谷部くんと合致する顔は、なかった。
「お前は覚えてないかもしれないな。出勤前だったみたいで、駅員を呼んだらすぐに行ってしまったから」
嘘か本当かくらい判断はつく。長谷部くんは適当を言っているわけでも、僕を騙そうとしているつもりもない。両者の齟齬を埋めるのに一番簡単なのは、勘違いだ。
「人違い、じゃないのかな……話してもらって悪いけど、やっぱり長谷部くんとは今日が初対面、だと思う」
揉み込んだ手は知らず強ばっていた。指の付け根を押し、骨の形を意味もなく確かめながら応えを待つ。共感を否定されてなお、長谷部くんの微笑は絶えなかった。
「いいんだ。光忠にとっては大した出来事じゃなかったんだろう」
「そんなわけ」
「困っている人を助けるのは当たり前で、大仰に言い立てることじゃない? そう思えるのはな、お前の人が良いからさ。事実、ホームは人で溢れかえっていたのに、俺を気遣ってくれたのは光忠一人だけだった」
あなたも私が特別だから優しくしてくれたんでしょう。他の人に近づいて私を焦らしたかったのよね。
狂人の視野は狭い。彼女たちの世界は常に自分と相手の一対一で、第三者の介入を容易に認めない。僕の善意や良心は、歪なフィルターを通じ、全て男女の駆け引きに捉えられた。
長谷部くんは違う。他者の行動にひとりよがりな思惑を付与せず、ただ自身の経験をあるがままに語っていた。先入観で一方的なレッテル貼りをしていたのは自分の方だ。情けない。申し訳が立たなくて、正面の視線から逃れるように俯いた。
「それから即仕事を辞めて、お前の通勤に使う路線を知るために朝早くからホームに貼りついて駅員の任意同行を回避しつつ、職場住所氏名交友関係趣味行動範囲などを調べ上げて光忠の生活を陰から見守っていたんだが、最近はストーカー被害に悩まされていると聞くじゃないか。恩人の一大事と来てはさすがに俺も黙っていられないので、手っ取り早く安全で住み心地の良い空間を提供することにしたんだ」
「ストーカーここです」
罪悪感は死んだ。たった十秒の命だった。ほんのり緩んでいた涙腺はもう乾ききっている。不毛の地に友情が芽生えることはなかった。
「俺はただ遠くから光忠を見守っていただけだぞ。変な手紙を出したり、ゴミを漁ったり、夜中につけ回したりはしてない」
「嘘だろ、別件なのか……いや罪状の別はともかく君も立派なストーカーだよ、自覚持ってね?」
「情報が集まってからは自家製ドローンを忍ばせたり、お前のマンションの向かいに部屋を借りて不審なやつがいないか見張ってただけだ。プライバシーには干渉してない」
「そんなに資金が潤沢なら生活の質を向上させようよ。優先順位がおかしい、いやそもそもストーカーするなって話なんだけどね?」
「そう言うが、昨日なんか紙一重だったんだぞ。お前が無防備に眠りこけるものだから、例のストーカー女が寄ってきて荷物を勝手に漁ろうとしたり」
「オーケー、助けてくれてありがとう」
公共交通機関だからって安全が保証されているわけじゃない。当然なんだけど勉強になったね。これに懲りて二度と電車で居眠りなんてしないよ。
食事を済ませた僕らはまたショッピングに戻った。大物は一通り片付けたので、次は服や小物の調達に入る。
実に前衛的な衣装群(あれらは服というより毛糸や綿製品の群れだ)を持ってきた長谷部くんだが、今は僕と同じくスーツを着用している。曰く、他に余所行きの服を持っていないらしい。自宅に替えのある僕より、こちらの方がよほど急を要する案件じゃないか。
「じゃあ長谷部くんの服も揃えようか。君は細いからIライン向きだけど、パーカーで柔らかい雰囲気を出すのもありだと思うんだよね」
「何がじゃあなのか知らんが、俺は基本外に出ないし部屋着さえあれば十分だぞ」
ストーカーが出不精を主張することあるんだ。あるか。今はネットさえあれば何でも揃う時代だしね、倫理観以外。
「それだと一緒に出かけられないだろう。これだけの素材を腐らせとくのは勿体ないよ」
「……わかった」
意外にも降参が早い。抵抗したところで僕が説得を諦めないと踏んだのだろうか。何にせよ大人しく着せ替え人形になってくれるのはありがたい。
職場にも長谷部くんほどの美形はいなかった。良質なモデルに加え、予算は度外視して構わないとくれば着道楽には垂涎ものである。およそ三時間、僕は服飾フロアの端から端まで見て回り、全ての店で長谷部くんに試着を迫った。帰りしな、彼のただえさえ細い身体が一回り萎んでいたように見えた。
「つかれた……」
項垂れる長谷部くんを隣に、次の電車を待つ。斜陽の差し込む構内は、柵も案内板も点字ブロックも一様に茜色を塗されていた。
「うんうん、付き合わせてごめんね。良い時間になったし、夕飯は贅沢しちゃおう」
「胃にはいる気がしない……」
「じゃあ、家でお鍋か雑炊にしようか。疲れてるからってご飯抜くのは良くないよ。残しても怒らないから、入る分だけでも、ね?」
「おかあさん……」
「誰が経産婦だ」
否定してはみたものの実際、僕らの関係は何なんだろう。友達、というほど親しくない。拉致被害者と加害者、正しいが別に僕は束縛されてはいない。知人? ただの知人が相手の服を選んだり夕飯を作ったりするだろうか。
ホームに速度を落とした電車が滑り込む。窓硝子を貫く西日が眩しい。長谷部くんを伴って鉛色の扉をくぐった。座席は空いている。網棚に荷を置き、二人揃って青いシートに背を預けた。
車内に人はまばらで、大半は手元のスマホに視線を落としている。僕らの奇妙な関係を知る者も、気にかける者もいない。つり革が揺れる。電車が動き始めた。向かう先に、僕が普段利用してる最寄り駅の名はなかった。
■
「ほら長谷部くん、朝だよ。顔洗ってきて」
こんもり丸まった布団を剥ぎ、カーテンを開ける。シーツの上はたちまち陽光で充たされ、部屋の主は呻き声をあげた。どこからか恨み節が聞こえるが無視する。僕はともかく、料理は冷めるまで人を待っていてはくれないのだ。
「おはよう、今日の朝ご飯はベーコンエッグだよ」
「かりかり……」
「うんうん、ご注文通りの焼き加減だよ。もう準備できてるから先に顔を洗ってこようね」
長谷部くんを洗面所に送り、その間にテーブルへ配膳を済ませる。
監禁生活四十日目、いつもの朝が始まった。
「うまひ」
かりかりに焼いたベーコンを食んで一言、煤色の眉が柔らかな弧を描いている。
まだ長谷部くんは半分微睡みの中にあるらしい。彼がトーストをゆったり咀嚼するたび、つむじの辺りに跳ねた癖っ毛もぴょこぴょこ揺れている。面白いので黙っているが、あちらは僕の視線に多分気付いていないだろう。
「長谷部くん、コーヒー入ったよ」
たちのぼる湯気が食卓にのぼる。匂いにつられたのか、長谷部くんは半ば閉じかかっていた瞼をかっと見開いた。観客が覚醒したのを機に、僕も仕上げに移る。
ミルクの浮いた表面にチョコソースで数重の輪を描き、匙で八方向に線を入れていく。さらに中央を上手いこと混ぜてやれば、フラワーのラテアートの完成だ。
「さすが光忠! 名誉バリスタ」
「やだなあ、褒めすぎだよ」
拍手を打つ長谷部くんは大げさだが、褒められて悪い気はしない。
あれからコーヒーマシンは即導入が決まり、専用の豆も併せて買うことになった。家ではドリップコーヒーばかり嗜んでいたが、自分で挽いてみるとこれが全く違う。まず香りが良い。挽きたての豆は癖になるほど香しく、味も濃厚だった。
長谷部くんも気軽に飲めるようにと、全自動のエスプレッソマシンにしたのでカフェラテを作るのも容易い。ただラテアートは全く経験がないので、完全に一から覚える羽目になった。最初は手こずったけれど、コツさえ掴んでしまえば応用が利く。今では基本のハート、リーフ以外にキャラものも描けるようになった。タルトを添えて撮ったおうちカフェ動画も好評なので、専用チャンネルを開設してもいいかもしれない。
「飯が美味いのはいいことだが、最近太ってきた気がする」
長谷部くんが自らの脇腹を撫でながら呟く。断言してもいいが杞憂である。そもそも三週間前なんて細すぎて肋が浮いていた。不規則な夜型生活に偏食を続けていたようだから、さもありなん。僕が徹底して一日三食、朝七時起床と十一時就寝を義務づけたのは言うまでもない。
「今までが細すぎたんだよ。肌艶も良くなってきたし、このまま規則正しく健康的な生活を送ろうね」
「グッ、俺を太らせてどうするつもりだ……!」
「健康にするつもりだよ」
現代にヘンゼルとグレーテルを持ち込む家庭があってたまるか。その姫騎士みたいなポーズやめなさい。
「お前を養うために拉致監禁したのに、俺がかえって世話されているなんて誤算だ」
「……それなんだけど、長谷部くん本当に監禁するつもりあった?」
「あった、じゃない。今でもある。お前から職も友人も住まいも奪って、光忠の全てを俺色に染める計画は絶賛進行中だ」
「普通に外出してるし、円満退職したし、友達とは普通に連絡とってるし、金に飽かして自分の理想の住居整えて、まるで不自由を感じていないんだけれども」
「配達は……全部俺の名義で届く……!」
「転居届出したから僕宛のも届いてるけどね。あ、これ高校の先輩からフランス土産だって。後で紅茶入れるね」
ちなみに先輩こと鶴さんからは結婚したと思われている。正確には同居人なんだけど、経緯をぼかした説明のせいで曲解された。訂正するのも億劫なので、長谷部くんには当分箱入りお嬢様のふりをしていてもらおう。
「いいじゃないか、今さら監禁なんて。始まりはどうあれ、僕はここの暮らしを気に入ってるし、長谷部くんとも仲良くやっていけてると思う。それとも現状に不満があるのかい?」
「不満は、ない」
「ならこの話題は打ち切り。部屋掃除するから、オンライン会議はリビングか僕の部屋でやってね」
「へ、部屋は自分で片付ける!」
「はいはい、余計なところ漁ったりしないから」
長谷部くんに任せていたら終わるものも終わらない。布団を干して、シーツとカバーも洗って、書類も用途ごとに分けておこう。
当初の監禁ルームも大概だが、家主の部屋も負けず劣らず私物が少ない。
ベッドに作業用のデスク、衣服を収納するワードローブが一つ。机は広々としているが、デスクトップの他は書類の束がまとめてあるぐらいで、生活感には乏しかった。
(なにか、長谷部くんのことが分かるものはないかな)
漁らないとは約束したが、目線はヒントを求め、あちこち彷徨う。僕は未だ、彼と出会った日のことを思い出せずにいる。
あれが作り話だったとは信じたくない。長谷部くんは僕を騙すような真似はしない。
少しズレていて、美味しいご飯に弱くて、ついでに朝にも弱くて、根は正直なくせに変に意地を張る子供っぽいところがあって、一度きりの出会いを後生大事にして、後先考えずに行動する。僕の知っている長谷部国重は、誰より真っ直ぐで純朴な青年だった。彼が出会ったというなら、それは僕が忘れているだけだと確信が持てる。
窓を開け、外の空気に触れる。青々と生えた芝生にシーツの影が落ちていた。一向に衰えない夏の日差しが肌を焼く。掃除機をかけようと踵を返し、僕はふと収納棚に目を留めた。
上にある白い箱は何だろう。単なる小物入れ、とは考えがたい。普段使いするならデスクの上に置く。不要なものなら、そもそも効率重視の長谷部くんが取っておくはずがない。
固唾を呑んだ。すぐさま良心と好奇心とを天秤にかける。まなうらに、部屋を探られたくないと焦る長谷部くんの姿が浮かぶ。一歩、また一歩と棚に近づく。腕を伸ばすと、指先に蓋が引っかかった。軽い。片手で易々と持ち上げられた箱は、埃もほとんど被っていなかった。
「……ごめんね」
伝わるはずもない謝罪を口にし、蓋を開ける。中には空のペットボトルが一本、収められているだけだった。
■
「大丈夫ですか?」
ホームに背を折り、蹲っているスーツの男性がいた。人の波を掻き分け、手持ちのペットボトルを差し出す。彼の顔はひどく青ざめていた。手も小刻みに震えている。僕は代わりに蓋を緩めて、飲み口を近づけてみせた。男性はおそるおそる水を呷り、何度か深呼吸を挟んでから、少しずつ容器を傾けていった。
背後でアナウンスが流れる。乗るはずだった電車が僕らを置いて加速していった。
余白の生まれた構内に雨の音が響く。梅雨時の通勤ラッシュほど堪えるものもない。彼も湿気と人の多さで気分を悪くしたんだろうか。スーツの背が汗でじっとりと滲んでいる。
「僕は駅員さん呼んできますね。お大事にして下さい」
軽く肩を叩いて、改札口へと一度戻る。彼を残していくのは気がかりだったが、僕も仕事があるので長居は出来ない。駅から走れば、まあどうにか間に合うだろう。
「社会人は大変だよね」
ああ、黒髪に眼鏡のふくよかな君へ、どうかお互い今日も無事に乗り切ろう。願わくば君の職場が、ハゲたクソ上司のパワハラ飛び交うブラックな環境じゃありませんように。
危うく遅刻しかけた朝。確かに僕は、見知らぬサラリーマンに声を掛けた。
髪色と体格は変わってしまっても、レンズの奥の瞳は、今も昔もずっと同じ藤色をしている。
■
「長谷部くん!」
無人のリビングを過ぎり、自室へと飛び込む。
長谷部くんはベッドに横になっていたようで、慌てて上体を起こしている。僕は立ち上がろうとする彼を制し、寝台の柵にもたれた。息が苦しい。興奮で喘ぐ僕を二つの藤色が不安げに見つめている。
「ど、どうした光忠! また新たなストーカーの気配を嗅ぎ取ったのか!」
「違う。思い出したんだ。君と、会ったときのこと」
ひゅ、と息を呑む音はどちらの喉から発せられたのか。愕然とする長谷部くんの手を取り、僕は喉奥まで迫り上がっていた衝動を舌に載せていった。
「あのときは最後までついてあげられなくて、ごめん。君が元気でいてくれて何よりだ」
「……見たのか」
何を、とは訊かない。僕は自らの非を認め、もう一度ごめんと謝った。
「きもち、わるいだろう。空になったペットボトルを、捨てもせずにずっと手元において」
「大切にしてくれてありがとう。その気持ちがもう嬉しいよ」
「れ、礼もいえないまま世話になりっぱなしで」
「うまく喋れないくらい疲れきってたんだ。仕方ないし、気持ちは今十分伝わってるよ」
「もういちど、会って礼をいいたくて、でも俺はあんななりで、とても光忠とはなせるからだじゃなかったから」
「姿形なんて関係ないよ。僕は、君が元気でいてくれたらそれで良かったんだ」
絡めた手の指は肉が薄く、ほっそりとしている。顎から頬にかけてのラインも、肩幅も、初めて会ったときとはまるで別人だ。僕に会うために、長谷部くんはどれだけの努力を重ねたのだろう。
「けいべつ、してないか」
「しない。僕が長谷部くんを嫌うなんてこと、今もこれから先もずっと無いよ」
長谷部くんは俯き、煤色の髪に視線を閉ざしている。言葉だけでは足りない気がして、繋いだままの手に唇で触れた。
「うわあぁあ!」
長谷部くんが勢いよく跳ね上がる。僕の腕は弾かれ、中空にぶらりと取り残された。五指のあわいから覗いた肌は、耳から首の辺りまで紅く色づいている。かわいい。
「おま、おまえッいきなりなんだ、監禁生活のストレスでとうとう気がくるったか!」
「僕の気持ちをわかってもらおうと思って」
「この恨み晴らさでおくべきか、ってことか……!?」
「すごいな、ミリも伝わってない。もっと直接的な手段に訴えた方が良いかな」
「エッ嫌がらせじゃないのか」
「よし、長谷部くんちょっと目を瞑ろうか。大丈夫、変なことしないから」
「変なことするやつ以外言わない台詞!」
じたばた暴れる身体を体重で押さえ込む。インドア派の長谷部くんが力勝負で僕に敵うはずもなく。とはいえ無理強いするのは僕の矜持が許さないし、本末転倒もいいところだ。
「長谷部くんは、僕に会えたらどうするつもりだったんだい」
抵抗が止んだ。長谷部くんはシーツに顔の右半分を埋めて沈黙している。白い額に乱れた髪がまばらに張りついていた。煤色の束は手で梳いただけでも真っ直ぐ流れていく。指にすんなり馴染む感触を楽しみながら、僕は答えを待った。
「あのときの、礼を言って」
「うん」
「俺にできることがあれば、力になりたいと」
「うん」
「本当に、それだけのつもりだったんだ」
またも二人の間にしじまが充ちる。続く言葉を長谷部くんは呑み込んでいる。間違いなく、それは僕が望んでいる響きのはずだ。
「今は? 長谷部くんはどうしたい?」
衣擦れの音が返ってくる。小さく首を振られた。答えたくない、と唇は頑なに引き結ばれている。
「僕は君に感謝してる」
前髪は左右に流し終えた。空いた手をなだらかな後頭部に浸し、うなじにかけて滑らせていく。
「お礼なんていくら言っても足りないくらいだ。でも、それとは関係なく僕は長谷部くんの傍にいたい。君のためにご飯を作って、家を綺麗にして、お仕事頑張ったねってたくさん労ってあげたい。それが当たり前に許される関係が、僕は欲しい」
「……それは、つまり友人、になりたいと」
「ううん、それも悪くはないけどね」
耳にかかった髪を除ける。剥き出しになった肌に頬を寄せ、すっかり熟れた色の耳朶を口に含んだ。
「できるなら、もっと深い関係を期待したいかな」
「ッ……!」
舌で入り組んだ凹凸をなぞる。組み敷いた身体を腕に抱くと、明らかに熱を帯びていた。耳を食んだまま、骨格を確かめるようにてのひらをそっと動かす。
「わあああああああああ!」
ここに来て長谷部くんが臨界点を迎えた。藻掻きに藻掻いて僕の腕から抜け出し、枕を二人の間に立ててくる。防波堤のつもりだろうか。かわいい。
「おっ、おちつけ光忠。お前のそれはストックホルム症候群だ。吊り橋効果だ。監禁による極度の恐怖や緊張、および歪んだ防衛意識が生んだ幻想だ。あるいは俺に媚を売ることで脱出への手がかりを探ろうとしてるに違いない。だが残念だったな、俺は色仕掛けなんかに屈しないぞ!」
「いつでも逃げられるガバガバ監視体制で恐怖する囚人はいないよ」
「正論やめろ。とにかく! お前のそれは勘違いだ、出来心だ。いったん頭を冷やせ」
「わかった。時間を置いたら口説いてもいいんだね」
「何を了解したんだお前は?」
しかし顔を真っ赤にして凄まれても全く恐くないな。ただひたすらにかわいい。長谷部くんはかわいい。真理。
「長谷部くんはかわいいなあ」
「お前のクールタイムは一分も保たないのか?」
おっと、考えてることをつい口に出してしまったようだ。相手も満更ではなさそうだし構わないだろう。長谷部くん自身も色仕掛けは通用しないと主張している。つまり、いくら口説いても問題ないということだ。ありがたい。
「長谷部くんは? 僕のことをどう思ってる?」
「……お、恩人」
「ただの恩人を監禁して、衣食住を管理して、自分色に染めると豪語するのが君のポリシーなのかな」
「やめろやめろ言葉の綾を広げるな。ああそうだよ下心ありました、あわよくばお近づきになりたいって考えてました、どうだこれだけ言わせたら満足だろう! 解散!」
「良かった、僕たち両想いだね。じゃあ膝の上にどうぞ」
「ンッギギ……! 打ち合わせ! してくる!」
まさに脱兎の勢い、長谷部くんはノートとスマホを引っ掴むなり、慌ただしく部屋を出て行った。
放り出された枕がベッドに転がる。元の場所に戻そうと拾えば、ラベンダーの残り香がほのかに匂った。長谷部くんに似合うと思って、僕が選んだシャンプーの香りだった。
洗髪料だけじゃない。服も、食器も、家具も、この家に僕の痕跡が刻まれていない場所はない。長谷部国重の生活に長船光忠はとっくに息づき、根を張っていた。
「自分色に染めるっていうのは、こういうことを言うんだよ長谷部くん」
僕の思い人は監禁のいろはも知らない。そのくせ人の心を掴むのは異様に巧みなのだから困ったものである。
さて遊んでばかりではご主人様の機嫌は直らない。折しも、名実ともに家事手伝いからは卒業したいと考えていたところだ。
「まずはとびきり美味しくて、見栄えのいいお菓子を作ろうかな。二人分のお皿を用意すれば勘違いする人も少ないだろうし」
レシピを選ぶかたわら、頭の中でカメラの画角や演出を構築していく。
僕は欲しいものを手に入れるためなら努力は惜しまない。そして手段も選ばない。もし二人の立場が逆転していたなら、僕が長谷部くんを監禁していた可能性は、否定できない。
「僕たち結構、気が合うかもしれないね」
監禁生活四十日目、いつもと同じようで違う昼下がり。
料理チャンネル開設まで三日、収益化まで一ヶ月。
そして僕らが籍を入れるまで、残り一年と半年を切っていた。
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