「こうして手紙を交わすようになって五年か。
老いると時の流れを早く感じると言うが、心だけは若くありたいものだな。
しかし最近のきみの活躍と来たらどうだ。
逞しいというか頼もしいというか、また一つ事件を解決したんだって?
のんびりできない探偵がいる世は生きづらいが、光坊の成長は素直に喜ばしいもんだ。
長谷部もさぞ驚きっぱなしだろう、会うたび弟子自慢されて耳にたこができそうだぜ。
早くも免許皆伝の噂が立っているそうで何よりだ。
急かしているつもりはないが、こりゃ独り立ちもそう遠くなさそうだな?
勉学に打ち込みすぎて身体を壊したりしないように。鶴さんとの約束だぞ」
義父からの手紙を封筒にしまう。僕と師を結びつけてくれた恩人は、今も世界中を飛び回っているらしい。
鶴さんと僕は二回り近く年が離れている。逞しい義父は、今も昔も冒険を職とし生計を立てていた。下手すれば大学の友人より若々しい。老いたなんてどの口が言ってるのやら。
「あれは元気にしてそうか」
背後から涼やかな声が飛んでくる。義父をあれ呼ばわりする彼は両手にカップ を携えていた。淹れたてのコーヒーの香りが鼻腔を操る。 料理の腕はともかく、豆の扱い方は未だ長谷部くんには敵わない。
「ああ、今度はインドネシアだって」
「前の手紙ではトルコと書いていた気がするんだが、忙しない男だな」
軽く礼を言ってマグカップを受け取る。白い湯気を散らし、一口だけ中身を啜った。今日も変わらず、美味しい。
隣に座った師も同じようにカップの底を傾けている。彼の視線は知己の手紙に注がれていた。
「何が免許皆伝だ。 まだ学生のこいつに看板を許すほど俺は甘くない」
「弟子自慢については否定しないのかい」
「親御さんにご子息の生活ぶりを報告しているだけだ。学業面は間違いなく優秀だと成績が証明している。探偵としてはまだ半人前だぞ、調子に乗るな」
「手厳しいなぁ」
苦笑いを浮かべつつ、素直じゃない師の胸中を推し量る。自慢じゃないが、人の心理を見抜くのは小さい頃から得意だった。五年前から意識的に洗練しようと努め、それなりの成果を挙げたとは思う。
探偵なんて仕事をしてるが、長谷部くんは結構わかりやすい。本人の言い分と鶴さんの印象、どちらが真実に近いかと言われたらおそらく後者だろう。このお師匠様は弟子に甘い。本来は後見人の代理という立場なのに、雑用係という名目で仕事を教えてくれる時点で疑いようもなかった。
長谷部くん、長谷部国重と出会う切っ掛けになったのは両親の死だった。
巷を騒がせた猟奇殺人、その何番目かの被害者に長船夫妻は選ばれた。
直接の死因は毒殺だが、見つかった遺体はいずれも陵辱の限りを尽くされている。四肢を切断されたり、皮を剥がされたりと、その残酷さから犯人の異常性を言い立てるニュースが後を絶たなかった。
僕はたまたま修学旅行中で家を空けていた。天涯孤独となった中学生を世間は哀れんでくれたが、手を伸ばしてくれた人は少ない。その数少ない例外が鶴丸国永と、長谷部国重だった。
顔の広い鶴さんは父とも縁があったらしい。遺された僕を誰が預かるのか、親戚たちの議論が紛糾していた頃にふらっとやって来て、たちまち話をつけてしまった。
当時の僕は疲弊しきっていて、親切にしてくれた鶴さんにも容易に心を開かな かった。ただ家族に理不尽を強いた、猟奇殺人犯への憤懣だけが燻っていた。
思春期の少年が復讐に駆られるのを見かねてか、鶴さんは一人の探偵を紹介し てくれた。それが長谷部くんで、僕の師匠だった。
犯人の手がかりが掴めたら教える、という文句に惹かれ僕は事務所に入り浸った。勿論、荒んだ少年を落ち着かせるための方便だったろうけど、僕はその口実を大いに利用した。
両親の仇を討てるなら手段は選ばない。 がむしゃらに働き、技術を盗み、少しでも犯人に近づこうとした。必死だった。長谷部くんは焦る僕をしばしば窘め、その都度、ミルクのたっぷり入ったコーヒーを入れてくれた。
「ブラックで構わないんだけど」
「成長期の子供にカフェインは早い。せめて俺の身長を超してから生意気言うんだな」
わざと反感を煽るような物言いに膨れていた日々も懐かしい。 長谷部くんの背を追いかけ、傍で学び、温かいコーヒーを飲むたび、師の印象は塗り替えられていった。
鶴さんは職業柄留守がちで、僕の保護者としての役割はほぼ長谷部くんが担っている。とはいえ、僕が彼に向ける熱はおよそ家族愛とは言いがたい。
初めて長谷部くんにブラックのコーヒーを渡されたとき、彼の目線が己よりも低いと気付いたとき、僕はやっと自分の歪さを理解した。
「先日の調査では世話になった。不倫の証拠をあそこまで揃えられたのは、ひとえにお前の女性遍歴のお陰だ」
「その言い方で君の女性遍歴も何となく察したよ」
ひねくれた賞賛が身の内に火種を撒いていく。淡い紫色の瞳がふと綻んで、僕を映している事実が何よりも狂おしい。
長船光忠の執心は少しずつ形を変えた。 怨恨はなおも深く、心の底に根を下ろ していたが、恋の悦びが目を眩ませた。 探偵業で培ったノウハウを活かし、長谷部国重の全てを知ることに注力した。
長谷部くんが愛用しているブランド、料理の好み、生活習慣、靴から服のサイズ、過去の交友関係、学生時代に所属していたクラス、部活、就寝時間の傾向や栄養の摂取状況まで、事細かに調べ上げる。多くの時間と体力を消耗したが、一切苦に思わなかった。
長谷部くんは懐に入れた人物には優しい。 僕の行動に何か勘付いていても、 きっと実害が出るまでは言及しないだろう。その手のラインを見極めるのは慣れている。
「お前、もしや九州育ちだったりしないよな」
「仙台生まれ、東京育ちだけど」
「がめ煮が完全に博多の味なんだが……? 福岡で板前修業でもしてきたのか……?」
「遠出するときはいつも報告してるだろう。最近のレシピ本は出来が良くてね」
おかわりを快く引き受けながら、自分が長谷部くんの生活に溶け込んでいることを意識する。胃袋を掴むだけでは足りない。もっと彼の奥底に触れ、身も心も明け渡され、唯一無二の男になりたい。
(存外ガードが堅いな)
カップの中の黒々とした水面を眺める。ほどよい酸味は舌を喜ばせはしても、 蝕んだことは一度もない。
この頃は長谷部くんがコーヒーを入れるたびに期待している。 喉を潤した途端、胃が爛れ、全身から汗が噴き出し、床をのたうち回る己の姿を彼に見られるのではないかと。
生憎と僕はまだ長谷部国重のお眼鏡には適っていないらしい。残念だと思う反面、まだ口説く猶予があることに感謝する。なにしろ全く脈が無いわけではない。これは強がりではなく、しっかり物証もある。
この探偵事務所は長谷部くんの自宅も兼ねている。当然ながら彼の私室もあり、依頼人を通さない空間は社長のプライベートに充ち満ちていた。巧妙にフェイクを施された本棚や床下には、長谷部国重の知られざる性癖が秘匿されている。
人目に晒さない嗜好とは、大抵世間の風当たりが厳しいか、倫理観の欠如が疑 われるものが多い。自身の異常性を強く認識している者ほど表向きは清廉に振る舞い、徹底して秘密の漏洩を防ぐものだ。
つまり、鍵が開いていた時点で僕は許されていた。
長船光忠のプロフィールを知る彼がこの選択をした意味を考えよう。長谷部国重の弟子は、両親の仇を執念く追い、猟奇犯への報復を事毎に誓っていた。もし機会に恵まれ、事件の真相に辿り着いたならば、 長船光忠は必ずや犯人に制裁を加えるだろう。
長谷部くんは最悪の結末を見据えながら僕に生死を委ねた。ある意味では究極の告白とも呼べる行為だ。
罪を糾弾されることもなく、変わらぬ日常が続いているのを長谷部くんはどう受け取っているのだろう。 断罪を望んでいたとしたら拍子抜けだったかな。鎌を掛けているなら、尻尾を出さない僕に焦れているかもしれない。
どういう感情であれ、長谷部くんの中で僕の占める割合が大きくなっているのなら幸いだ。口封じに毒を盛られる未来もまあ悪くない。
ただの好奇心で人の身体を解体していた昔と違い、長谷部くんが僕を殺すのは一種の敗北宣言だ。自身の今後を託した男に袖にされ、待てなくなった結果の凶行は虚しさを募らせるに違いない。
(心配してくれる鶴さんには申し訳ないけれど)
警告を忍ばせた手紙を思い、息をつく。全くとんだ親不孝者もいたものである。せめて彼の心労を少しでも和らげるべく、最低ながらも誠意ある返信を心掛けねばなるまい。
「しってたよ」
「秋雨の候、日増しに寒いこの頃でございますが、インドネシアではいかがお過ごしでしょうか。
月見団子はそっちだと食べられないだろうし、日本で過ごす秋も乙なものだろう?
手に汗握る冒険譚もいいけれど、たまには直接土産話を聞かせてほしいな。
溜まり溜まった日本のスポンサーへの返答や挨拶回りもかねてね。
予定が決まったらご連絡下さい。長谷部くんと一緒に出迎えに行ける日を心待ちにしています」
