「好きなやつが中々手を出してこないので彼ジャーで誘惑してみた」 - 2/9

 

 

 夜が明けた。日の出を長谷部が知ったのは鳥の囀りが聞こえたからで、瞼の裏に目映い光を感じたわけではない。
 燭台切の部屋を出て、自室に帰るや否や布団に包まった。それからは外界の情報を一切遮断し、どうすれば後腐れなく燭台切と別れられるかひたすらに考えた。枕を濡らし、ひどい隈を作っても答えは未だ出ていない。いくら頭をひねっても無駄だろう。たとえ相手が自分に飽きようと、長谷部は燭台切から離れたくなかった。

「燭台切……」
「はいはい。お呼びでない方の燭台切が来ましたよ」
「いや本当に呼んでないんだが。こら布団を引っ剥がすな!」
「アンニュイな気分に浸るのはいいけど、顔は洗って、服も洗濯に出して、ご飯はちゃんと食べようね。布団はしまっておくからその間に着替えなよ。んー隈もひどいなあ、後でタオル出してあげるね」
 二振り目は持ち前の要領の良さで長谷部の身支度をすっかり整えてしまった。馴染みである織田や黒田の刀すらここまでの強硬手段には訴えない。長谷部の性格から言っても怒声の一つや二つ浴びせそうなところだが、この男に限っては例外だった。

 自分の都合で顕現させた負い目からか、一月ほど世話を焼いていたせいか、長谷部は異様なほど二振り目に甘い。それこそ誰にも会いたくない今であっても、二振り目の訪問と来れば無視できないほどには可愛がっていた。
 そこまで贔屓しておきながら、目を掛けている自覚が無いというのだから驚きである。お陰で一振り目から非常に強い圧を受けているのだが、そうした燭台切間の軋轢を長谷部は知らない。

「お前から来るなんて珍しいな。ねんはどうした」
「今日は用が有って出かけてるよ。だから大きい長谷部くんに構ってもらおうかと思って」
「はっ、所詮俺は二番手か」
「一番だと困るのは君だろう? 万屋に行きたいんだけど、僕はまだ外に不案内だからね。長谷部くんとのデートの下見も兼ねて付き合ってほしいんだけど」
 離れに居を構えて一週間、二振り目とねんへしは仲睦まじくやっているようだ。一度床を共にして以来、特に恋仲らしい変化も無い自分たちとは大違いである。長谷部は実のところ少し、いや相当ふたりが羨ましかった。
「仕方ないな、気分転換のついでに連れて行ってやろう」
 渋々という体だが声色を聞く限り嫌がっている節はない。光忠は礼を述べつつ、計画が一段階進んだことに胸をなで下ろした。

 

 

 次元の狭間に作られた繁華街は今日も賑わっている。万屋はサーバーごとに複数店舗設けられており、審神者とは別に男士たちも利用する機会が多い。余所の刀と交流する貴重な場である。設立当初より出会いを求め訪れる者は後を絶たなかった。

「主のお耳に入れておきたいことがございます」

 そして、人の出入りが激しければ飛び交う情報量も盛んになる。店員の色恋沙汰から政府の裏事情まで、人々の口に上る噂は多岐に渡った。それらの大半が信憑性を欠く空想や作り話であることは言うまでもない。
 しかし、情報が時に千金の値を持つのは今の世も同じである。街中に溢れる玉石混淆の山の中には、確かに真実という名の玉が入り交じっていた。

「励起した付喪神たちを好事家相手に売り捌いている輩がいるとのことです」
「へえ、お上の方は?」
「捜査を進めていますが未だ尻尾を掴めず――ということになっています」
「うんうん、まあ稼げるだろうからねえ。まあ男士たちが顕現するシステムを知ったときから、こういうこと考える連中は絶対出てくると思ったよ」
 一振り目とその従者の語り口は世間話をするのとほぼ変わらない。ヒトと刀剣とが必ず分かち合えるものだと本気で考えている者は、童子か世間知らずか聖人のいずれかだろう。

 ブラック本丸を筆頭に、審神者と男士たちを巡るトラブルは少なくない。ねんへしとて過去に一度誘拐の憂き目に遭いかけた。従者を耽溺する一振り目が彼の狼藉に対し、どのような制裁を加えたかは割愛する。ただ確かなのは、その件以来男は外部へのアンテナを強化し、身に降りかかる火の粉を払うのに労を惜しまなかった。

 元来刀とは人の命を奪う道具だ。正義の味方を気取るつもりは無い。しかしながら、本丸の仲間に危害を加えようというなら容赦なく叩き潰す。近侍として本丸の安全を確保するのも仕事だ、と嘯いて燭台切はよく万屋に赴いた。
 これらの活動は伊達の刀はおろか主にすら秘匿されている。あくまでも一振り目と従者、ふたりだけの謀であった。

「君が二振り目を連れてこなかったのは、こういう理由か」
「主さえ宜しければ光忠には話しても良いと思いますが、今回の件は伏せておきたいのです。売られている刀はその」
「一度も戦場に出てないだろうね。愛玩人形に強さは必要ない」
 二振り目は本来錬結されるためにあった刀である。戦力強化に性処理という最終的な目的に違いは有っても、刀としての役割を期待されていないことは共通していた。
 ねんへしも二振り目も、戦場に出られぬ刀の悲哀を知っている。彼らを繋ぐ絆の根本は、そうした理不尽さから来るものだった。

 しかしながらヒトの能力には限界が有る。顕現する刀の全てを活用しようとするのは現実的ではない。錬結も刀解も、本丸を運営していく上では避けて通れぬ道である。溶けていく玉鋼に意志を思うのは、いたずらに心を磨り減らすだけの愚行でしかない。

「いいよ、二振り目が長谷部くんを引っ張り出すまで時間は有る。それまではお互い自由行動としよう」
「承知いたしました」
「いくら身体が大きくなっても君は荒事に慣れていない。手がかりを見つけたら真っ先に僕に報告してくれ」
「……はい」
 主命は絶対。土人形といえども彼もまたへし切長谷部である。主である一振り目の言葉に背くことなど考えられない。

 従者は自らの手を見つめる。刀を自由に振るえるようになったと暢気に喜んでいた日が懐かしい。主は愛玩人形に強さは必要ないと言った。それは、そっくりそのまま自分の身にも当てはまるのではないか。
 募る苦悩に蓋をし、従者はひとり雑踏に紛れていった。

 

 

「ちょっと中見てくるから、長谷部くんも好きにしてて」
 そう言って二振り目はさりげなく別行動を促した。後はねんへしに連絡を入れ、長谷部と一振り目を会わせれば任務は完了である。成否は当刃たちの努力次第なので部外者の出る幕は無い。端末の操作も終え、光忠は心置きなく物見遊山としゃれ込んだ。
 買い物を楽しむ二振り目と異なり、長谷部は店内の喧噪を遠巻きに見つめていた。気晴らしに案内役を引き受けたが、陳列された商品のいずれにも心惹かれない。虚しく目が滑るだけのポップを流し読み、長谷部は諦めて大通りに出た。

 ここら一帯は街道に沿って南北に商店が建ち並んでいる。屋外に出ても商いは盛んで、露店を通行人が囲んだり、移動販売に行列ができるなど、どこに視線を遣っても人で溢れかえっていた。
 何より目につくのはカップルの多さである。互いのアイスを食べ比べたり、ベンチで寄り添い写真撮影をしたりと、(長谷部目線で)傍若無人に振る舞う若者の周辺にはハートマークが乱舞していた。
 ここは地獄か。げんなりしつつ長谷部は落ち着けそうな場所を見繕った。

 どこまでも続く石畳には一定間隔でケヤキが植わっている。街路樹の前後にはベンチが設置されているが、意外に穴場のようで人影は疎らだった。
 早速腰を下ろし、二振り目が出てくるのを待つ。ようやく人心地ついた長谷部だが、依然として手持ち無沙汰は解消されなかった。仕方なしに鳩の散歩を眺めて時間を潰す。見ようによっては愛くるしいかもしれないが、長谷部の無聊を慰めるほどではなかった。

 その男が目に留まったのは偶然である。万屋の前を男士が通るのは珍しくも何ともない。彼の太刀は現世の文化に強く関心を示している。洒落っ気のない長谷部よりも余程繁華街を歩いて然るべき刀だろう。

 まず違和感を覚えたのは男の表情だった。長谷部の知る燭台切光忠は、いつも鷹揚に笑う刀だった。呆れ、怒り、焦りといった感情を人前に晒すことは少ない。負の一面を露わにするのは曰く格好がつかないそうだ。本丸で個性を発揮する一振り目や二振り目にあっても前述の信条は合致していた。その点、長谷部の目にした燭台切は異質である。彼は明らかに疲弊していた。
 壁に手をつき、男らしい眉を歪め、臓腑から重い息を吐き出す。足取りは酔漢か夢遊病患者かと疑わせるほどに覚束ない。今にも倒れそうな刀の同胞を前に、長谷部は考えるより先に身体が動いてしまっていた。

「なあ、大丈夫か?」
 不意に落ちた影の正体を探る。燭台切はふらつく視界の中に鈍色の光を見た。血色の良い肌、皺の目立たぬ衣服、何より纏う神気が清浄そのものである。

 顕現して間もない燭台切はこのとき初めて別本丸の刀を知った。あまりにも眩しい。袋小路で生きてきた彼は、まだ新人の域である長谷部ですら頼もしく思えた。
 黒手袋が長谷部の手首を捉える。打撃自慢の刀にしては弱々しく、少し力を入れるだけで振り払えそうな加減だった。

「協力してほしい」
 ひとつきりの蜜色が灯を宿す。燭台切の嘆願は切実さに満ちていた。
 何を、どうして、どのように。訊くべきことは山のように有った。仮に全ての事情を聞き届けたとして、長谷部が申し出を必ずしも受け入れなければならぬ道理はない。しかし頼られた側は端から選択肢に拒絶を含めていなかった。
 好いた男と同じ顔で、己を唯一のよすがとばかりに縋る刀を、長谷部は放っておくことなどできなかったのである。