「好きなやつが中々手を出してこないので彼ジャーで誘惑してみた」 - 3/9

 

 

 燭台切が初めて顕現した場所は、薄暗い座敷の一室だった。

 置き行灯が先客二人の輪郭をぼんやりと浮き上がらせる。どちらも女性のようだが、一方は神官服、一方は洋装に身を包んでいた。年齢も前者が二十代そこらに対して、後者は四十路を優に過ぎた風貌をしている。
 燭台切を鍛刀したのは若い女性の方だった。出で立ちからしても想像の範囲内である。彼にとって埒外だったのは、自らに期待された役割が武器でも美術品でも無かったことだろう。ヒトの身を得た付喪神は悪い意味で道具らしい扱いを受けた。手足の動かし方を覚えるより先に、彼らは女体の浅ましさを知ったのである。

 加齢により異性に求められなくなった人々は肉欲の捌け口を探した。遊郭のごとき施設はいつの世も需要が高い。時間遡行軍との戦いが始まった当初より、刀剣男士たちの見目麗しさはしばしば取り上げられていた。彼らの容姿に劣情を抱く者はごまんといる。神と交わる背徳感も謳い文句として刺激的だった。資産家は札束を積み、好みの男士を買い上げては、文字通り神をも畏れぬ暴挙を働いた。
 これらの行為は当然政府より禁じられており、過去に何度も摘発されたが未だ根絶には至っていない。燭台切が顕現したのは、監視の目をかいくぐった本丸の一つであった。

 燭台切は温和ながらに矜恃の高い刀である。このまま慰み者として終わるぐらいなら、いっそ裏切り者の汚名を被り徒花を咲かせよう。男が翻意を抱くのに時間は掛からなかったが、彼の目論見は早々に破綻することになった。
 刀たちは審神者に呼ばれるまでヒトの姿を与えられない。彼らが意識を取り戻したときには、薬と呪いによって不自由になった身体を客に好きにされているのが常だった。

 閨房に呼ばれるのは基本的に一振りである。男士たちが他の刀と親交を深めることは無く、恥辱から免れるために接客中はほとんど無心になっていた。要するに、燭台切が同じ本丸の長谷部と顔を合わせたのは全くの偶然だった。

 利用客の性癖は千差万別である。男士を裸に剥いて鑑賞する者、複数人を同時に愛でたがる者、異性装に興奮する者。その晩、燭台切と長谷部を呼んだ客は視姦を好んでいた。

 まぐわうよう命ぜられ、二振りは例によって機械的に事を進めた。燭台切は同性との経験が無く、必然的に長谷部が受け手に回ることになった。折角会えた仲間だというのに、苦楽を分かち合うこともできず肌を重ねている。
 焚かれた香で意識が混濁しているのも手伝い、燭台切は長谷部に覆い被さって謝罪を繰り返した。反応は無い。その一方的なやり取りに悲劇性を見出した客は大層喜んだ。この組み合わせが気に入ったらしく、何度も燭台切と長谷部を呼びつけては褥を共にさせた。

 幾度繋がっても二振りが会話らしい会話をすることは無かった。燭台切と長谷部には常に客の視線が注がれている。鬱積を吐き出すことも、有りもしない希望を語ることもできはしない。
 ただ異常な状況下に置かれて、狂気に染まっていない者と会えるのは確かな救いでもあった。いつしか二振りは互いの目を見つめ、名を呼べる夜に焦がれ始めた。

 彼らの変化を客は好ましく思わなかった。求めていたのは意に沿わぬ行為を強いられ、自らの不遇に嘆くヒトならざるものの悲哀である。想いを通じ合わせた者たちの情事など彼の望むところではない。客はこの窮状を審神者に訴え、迅速に改善するよう騒ぎ立てた。

 後日、燭台切が引き合わされた長谷部は、これまでの記憶を軒並み白紙にされていた。

「はせべくん……?」
「何だ。他の男士と会うのは初めてかもしれんが、そう驚くことでもないだろう。中には変わった趣味を持った客もいる」
 熱を失った藤色が燭台切を映す。指を絡め、口を吸い、身体の奥まで互いで満たす喜びを長谷部は忘れてしまった。

 男の哄笑が木霊する。恋仲のふたりが理不尽極まりない現実に引き裂かれる、これほど美しく狂おしい芸術が他に有ろうか!
 自らが導いた破滅に男は愉悦を噛みしめた。まさに人生の栄華を極めた心地だろう。彼は恵まれていた。頂きから転げ落ちる苦痛を知らず世を去るとは、幸せ以外の何者でもない。

 事切れた肉塊が畳に転がる。燭台切は肩で息をした。十指の合間から変な方向に首の折れた屍体が見える。臓腑を裂くのとは全く異なる感覚が掌に染みついていた。ヒトは簡単に死ぬ。わざわざ名刀を以て切り伏せずとも、力の限り首を絞めてやるだけで二足歩行の畜生は殺せるのだ。

「逃げよう」
 相手の返事を待たず、燭台切は長谷部の腕を取った。
 ふたりが六畳間を飛び出すと、警告音がけたたましく館内に鳴り響いた。「貸し出し」終了の際には特殊な手続きが必要になるが、知っているのは審神者と利用客だけである。

 脱走を図る男士を包囲すべく忽ち各出入り口に呪が施された。触れれば肌が爛れ、鋼を腐らせる不可視の毒である。男士にだけ有効となる罠の数々は一度たりとも破られたことはない。
 審神者には絶対の自信が有った。顕現して初日には、皆この呪の威力を身を以て思い知らされる。たった数秒で手首より先が崩れ落ちる光景は確かに衝撃的であった。矢面に立つことのない小娘には殊更残虐に映っただろう。恐怖による統治を有効とみなし、審神者は刀たちの監視を怠った。

 無我夢中で牢獄を駆ける燭台切は必死である。突き進む道のそこかしこに致死性の罠が仕掛けられ、それらを無意識のうちに破っているとは露も思っていない。
 ヒトの身である審神者が自分より上位の存在を縛れるのは、男士たちが彼の者を主と認めているからである。その繋がりを否定し、刀が霊力の供給を拒んでしまえば、ヒトが神に干渉できる余地は無い。長谷部を弄んだ審神者を、燭台切はもう二度と主と仰ぐつもりはなかった。

 最後の門が開く。燭台切はやはり何の抵抗も覚えずに外界へと足を踏み出した。振り返っても追っ手は見えない。今なら逃げられる。燭台切は緊張を保ちつつも、口元を綻ばせ愛しい刀の腕を引いた。長谷部は動かない。ちょうど戸口を境目に、二振りは建物の内と外とで向き合った。

「俺は行けない」

 燭台切は耳を疑った。たとえ近々の記憶を失おうと、長谷部とて苦界に留まるのを良しとはしていなかったはずだ。戦場での誉れを求めるのは男士の本懐である。ここではいかに汚濁に塗れ、審神者の懐を潤したとしても、刀としての価値を認められることは無い。出奔を拒むことで長谷部が何を得るのか、燭台切は全く見当が付かなかった。

「どうして」
「俺は主の刀だ」
「向こうは君のことを刀なんて思っていない」
「だろうな。だがいくら愚昧な主であろうと俺には見捨てることなどできない」
「ッ、それで折れたら元も子もないじゃないか! 君が何て言おうと僕はここから二振りで逃げ出すと決めたんだ。無理矢理にでも連れて行くよ」
 強引に掴んだ手首から雷火が迸る。燭台切は左の掌より零れ落ちる破片を呆然と見つめた。
 本丸に未練など無い燭台切と違い、長谷部はなおも非道の主を見限れずにいる。外郭に張り巡らされた結界は一段と強力で、これまでの罠のように破壊することは難しい。長谷部が主の刀であることを止めない限り、突破は望むべくもなかった。

「こういうわけだ。悪いが、行くならお前ひとりで行ってくれ」
 脂汗を滲ませながら長谷部は気丈に笑った。患部から伝わる激痛は相当なものだが、悲鳴をあげれば目の前の優しい男は必要以上に自身を責めるだろう。
 長谷部にとって燭台切は今晩初めて会ったばかりの仲である。相手が自分に拘る理由とは何か、掴まれた腕を振り払えなかったのは何故か、金の瞳に憂いが滲むと妙に胸が切なくなるのはどうしてか。長谷部には解らないことだらけだった。
 ただ、この美しい刀が折角手にした自由を己のために放棄することは有ってはならない。長谷部は残った片手を持ち上げ、見えない壁に寄り添わせた。

「俺はお前を止めない。この本丸のことも、俺のことも忘れて、外で新たな主を探すのもいいだろう」
「君を忘れるなんて、できるはずないだろう」
「そこまで想ってもらえるようなことをした覚えは無い」
「いいんだ。君が忘れても僕は覚えている」
「難儀なやつだな」
「絶対に迎えに来る。だから、もう少しだけ待っていてくれるかい」
「気が向いたらな」

 踏み越えた境界をまた一歩戻る。長谷部が掲げた手を自分のものとを絡め、燭台切は少しだけ身を屈めた。何も覚えていないはずの長谷部が目を瞑る。

 一瞬だけ重なった影はすぐに二つに別れ、次第に遠ざかっていった。