「好きなやつが中々手を出してこないので彼ジャーで誘惑してみた」 - 5/9


 政府が本丸へ法規的処置を行うには物的証拠が不可欠である。仮に燭台切が古巣の窮状を訴えたとしても、対策本部の設立から実働部隊の出動まで相当の期間が掛かることだろう。
 腰の重い政府を頼りにしていては間に合わない。主を失った燭台切は神気がいつ底を突くか解らず、長谷部は上客を見殺しにした咎を糾弾されているはずだ。救援を要請すると同時に敵地へ攻め込むぐらいの気概は必要だった。
 事態は逼迫している。助力を請われた長谷部は、ひとまず通報の材料が整うまではと護衛を買って出た。自分の手に余るようなら本丸に応援を頼めば良い。長谷部も己が戦慣れしていないことは重々承知していた。現状の戦力で勝負を仕掛けるのは無謀の一言である。

 増援に誰を呼ぶべきか考え、長谷部が真っ先に浮かべたのは一振り目の燭台切だった。短刀や脇差、本丸で修行から帰った男士は少なくない。極めた彼らがいかに強力かは長谷部とて十二分に理解している。それでも近侍を務める男を差し置き、他の刀に救いを求めようとは思えなかった。
 長谷部の知る限り、およそ一振り目ほど手段を選ばぬ刀はいない。練度や能力値だけでは量れぬ恐ろしさが彼の太刀には有った。

 懸念となるのは、果たして男が長谷部の救援に応じるかどうかである。昨晩の一振り目は明らかに様子がおかしかった。行為を中断した理由は解らないが、長谷部は自分の振るまいが原因だったと考えている。
 この仮説が正しければ、確たる証拠も無いのに一振り目へ協力を仰ぐのは避けるべきだろう。ただえさえ不興を買っているのに、余所から厄介事を持ち込んで良い顔をするはずがない。長谷部が光忠へ子細を伝えなかったのは、一振り目を憚ってのことだった。

 乗っていた昇降機が止まり、地下世界への扉が開く。常夜の街はネオンに煌々と照らされ、極彩色の箱が立ち並んでいた。直方体のシルエットが続く中で、四隅が反り返った瓦葺きの屋根はよく映える。そのうちの一角を指さし、燭台切が告げた。

「あれがうちの経営している廓だ」
 ふたり揃って歓楽街に聳え立つ楼閣を眺めやる。見ているだけで首の疲れそうな建築物は、高さ以上にその前時代的な外観で周囲に華やかさを印象づけていた。
「他の店は管轄外と思っていいのか?」
「ああ、うちは間借りさせてもらってる身だからね。ただ探られて痛い腹を持ってるのはどこも似たようなものだと思うよ」
「はは、規模が大きすぎていっそ笑えてくるな。一斉摘発なんてやろうものなら圧力が掛かりそうだ」
「そうだね、潰すならうちの本丸だけに留めておいた方が良い。深追いは禁物だ」
 大通りを抜け、楼閣を大きく取り囲む城郭まで近づく。各階層を支える柱は朱色に塗られていた。双喜紋の手すりも同様で、最低限の灯りを除けば他に装飾らしいものは施されていない。要するに、三階の欄干に結ばれた紫の布は嫌でも目に付いた。

「長谷部くん……!」

 革の手袋がきしきしと音を立てる。いち早く薄汚れた垂れ幕の正体を察し、金の隻眼が憎悪に濡れた。男の視線の先を追い、長谷部もまた燭台切が激昂した理由を知る。
 ダクトからの送風に時折揺れている件の布は、へし切長谷部が身に付けているカソックの一部だった。遠目にも汚れが判る上に、引きちぎられたのかもはや衣服の体を為していない。持ち主が一体どのような目に遭ったのか、無残な仕打ちを想像するには十分な仕掛けである。

 止める間もなく黒い太刀は塀を越えた。男士としては未熟とはいえ、燭台切の身体能力はヒトとは桁違いである。壁を蹴り、三メートル前後の障壁を軽々と超えた男は単身敵地へと乗り込んでいった。
「待て、このッ……馬鹿!」
 急ぎ長谷部も燭台切の後を追う。練度や機動の差を以てしても、一瞬目を離した隙は大きく埋めがたい。姿を消した仲間を探すのに躍起になって、長谷部は応援の要請を完全に失念してしまっていた。

 嘗ての拠点とはいえ、刀たちは施設内を歩き回る自由を認められていない。燭台切も構造を把握しているわけではなく、ただがむしゃらに上階を目指した。
 やがて目的の三階に到達し、燭台切の足が止まる。少し進んだ先の十字路で蹲る人影が有った。カソックに破れこそ認められないが、苦しげに息をつく男は疑いようもなく燭台切が焦がれて已まない刀だった。
 別れ際に失った右手は復元されている。釣り餌に使われた布地は血糊が染みて見えたが、再会した長谷部は無傷であった。いくら詰問しても口を割らなかったので、ひとまず客の相手を優先させたのだろうか。仮に治療が済んでいるとすれば、今の長谷部を苛んでいる原因とは何なのか。

 腑に落ちないことばかりだが、長谷部の保護は他の何にも勝る。敢えて疑問を頭の片隅に追いやり、燭台切は愛しい刀に手を伸ばした。

 一閃。空と袖を裂いた白銀が長谷部の右手に収まっている。力任せに振るわれた軌道の先には、奇襲に面食らう燭台切が佇んでいた。差し出された黒革の手袋を取ることなく、長谷部はゆらりと立ち上がる。俯き見えずにいた面輪が明らかになった。

 意志の強そうな双眉は八の字を描き、その合間には皺が寄っている。歯を食いしばる長谷部は未だ身中の毒から解放されていないのだろう。長谷部が戦う姿など燭台切も知らない。しかし、信長への憧憬は元主の政宗を通じて燭台切にも受け継がれている。第六天魔王に愛された刀の化身が、震える手で柄を握るはずがない。

「しょく、だいきり」
 呪いに抗えぬまま長谷部は嘗ての同胞に刃先を向けた。主に縛られた刀はいかな人道に悖る命令であろうと拒むことはできない。

 命を賭してまで守ろうとした相手に破壊される。裏切った男士の報復として、ここの審神者は考え得る限り最も酷薄な手段をとった。長谷部の意志とは関係無しに、皆焼刃の鋒が燭台切の血肉を求める。
 欄干から垂らされた布も、長谷部に施された手入れも、全てはこの対立を導くための措置だった。罠は承知で虎穴に入った燭台切も、まさか長谷部と事を構える羽目になるとは想定しておらず開いた口が塞がらない。

 戦場においては致命的な隙である。絶好とも言うべき機を敵が逃すはずはなく、頭目の意志を受けて長谷部の踵が浮いた。