「好きなやつが中々手を出してこないので彼ジャーで誘惑してみた」 - 6/9

 

 

 先行する燭台切を追い、長谷部は楼内を駆け巡っていた。迷うほど複雑な構造ではないが、守備部隊と立て続けに交戦して一向に進む気配がしない。
 既に長谷部が打ち倒した男士は八口に上る。繰り出される動きから、敵がろくに鍛錬も積んでいないことは容易に窺えた。肉の器を得て半年足らずの長谷部といえども、決して後れを取るような相手ではない。

 ただ彼らを操る審神者は尋常の者ではなかった。腕だけならば天才と呼べる彼女は、器が壊れるのも構わず、練度に見合わぬ力を男士たちに注ぎ込んだ。結果として、この本丸は一時的に歴戦の軍隊と変わらぬ兵力を有することになった。未だ手練れとはいえぬものの威力だけは侮り難く、一撃でも貰えば破壊されるのは長谷部の方である。

「ちぃっ……!」
 舌打ちしつつ踊り場まで一度退く。階段での立ち回りは当然、上方に陣取った方が有利になる。それが一方向の攻撃に強く、間合いも広い槍ならば厄介なことこの上ない。長谷部は立ち塞がる御手杵、蜻蛉切の二口に苦戦を強いられていた。

 打撃も強化されている以上、正面から競り合うのは避けるべきだろう。しかし頼みの機動力を発揮するには足場が悪い。大柄の男士がふたり詰めているために道幅も不十分である。攻撃をやり過ごしながら先に上階に達する手法とて現実的とは言えなかった。

 二対一で何とか膠着状態に持ち込んだものの、敵方のさらなる加勢を認め、長谷部は死のとば口を垣間見た。普段なら虚ろな目で戦いに臨む旧知など一笑に付したところだろう。これまでの相手と同じく、覇気を欠いた日本号は自慢の槍を振りかざし、長谷部の臓腑目掛けてクロガネを突き出してきた。

「ッ、この、酔っ払いが……!」
 鋭い一撃を鞘でいなし、長谷部は力で押し負けるより先に一太刀振るう。腰を薙ぐはずの軌道は、寸でに避けた日本号の脇腹を軽く割くに留まった。
 長谷部、日本号共に速攻を重んずる刀剣である。得意の俊足で圧倒するには難しく、さりとて攻略に時間を掛けては燭台切の身が危ない。長谷部は厳しい局面に立たされていた。

(せめて)
 日本号の刺突を優にあしらうか、一撃を受けても微動だにしない膂力が有れば話は違ったかもしれない。無いものをねだったところで仕方ないが、長谷部は自身の力不足を痛感した。

 前方から日本号、後方から御手杵が長谷部へと迫る。同時に捌くのは無理だと悟り、長谷部は半ば捨て身で一方の迎撃に集中した。
 槍の軌道を読むぎりぎりまで目を見開き、紙一重で日本号の攻撃を避ける。傾いだ体は重力に従い、急速に床へと吸い寄せられていった。背が叩きつけられるより速く白刃を振るう。皆焼の刃は今度こそ日本号の腹部を裂いて、中空に鮮血を撒き散らした。

 無理な体勢から放った一撃は当然に反動も大きい。長谷部は受け身も取れずに身体を強か打ち付け、暫し苦痛に喘いだ。間髪入れず心臓を狙いに来た御手杵の穂先を避ける余裕など有るはずもない。
 死を直前にしたヒトは時間の流れが異様にゆっくりに感じられるらしい。受肉した長谷部も同様で、折れる今時分になって、自らの過失とそれに起因する確執を思い起こしていた。

 ――このように弱い刀だから、主は俺を出陣させず、燭台切も離れていったのだろう。折れる前に一度くらいは、あの男と同じ戦場に立ってみたかった。

 目を伏せ、襲い来る激痛に備える。長谷部が瞼の裏で感じたのは、胸を焼くような熱さではなく反響する金属音だった。

「足だけでなく諦めまで早いのは君の悪い癖だねえ。あと二重の意味でほうれんそう嫌いはいい加減直した方が良いよ」

 黒色の燕尾が長谷部の前で揺れている。自らの身体を跨ぐ長い両脚の先を追えば、槍と矛を交える太刀の姿が有った。

 審神者の傀儡といえども、細かな分析や判断は男士たちに委ねられている。御手杵は乱入者が並の使い手でないと肌で感じ、すぐさま距離を取って仕切り直しを図った。離れてしまえば長物である槍の方が場を制しやすい。定石である。改めて敵の間合いの外から御手杵は攻撃を加えた。
 本来なら相手は防戦一方になるだろう。御手杵の考えは的を射ていたが、ただ敵との力量差を大きく読み違えていた。
 ヒトの目では捉えられぬ速さの突きも、最高練度に達した太刀には児戯に等しい。身を捩るのみで回避を済ませた燭台切は、相手が体勢を整える間も与えずに懐に飛び込んだ。御手杵の腹部に鐺がめり込む。斬られずに済んだとはいえ、渾身の力で殴られた身体の内側は肋骨が何本か砕けたことだろう。御手杵にもう武器を手にする余裕は残されていない。

 三名槍最後の砦はなおも段上で門番を務めている。防衛線の死守を命じられた武人は、一騎打ちの名誉よりも主君への忠節を選んだようだ。打って出ようとしない蜻蛉切に、燭台切は何ら気負った様子も見せず近づいていく。堂々と階の中央を歩く侵入者を貫くべく大槍が空を走った。

 その後はもはや曲芸の域である。槍の柄を片手で掴んだ燭台切は、そのまま後方に飛び退き、落下の勢いを利用して蜻蛉切まで地上に道連れにした。着地するより先に槍から手を放す。始めから落ちるつもりだった燭台切は難なく受け身を成功させる。対する蜻蛉切は急に負荷の消えた武器に戸惑い、勢いを殺せぬまま床に倒れ伏した。

 あれよあれよという間に強敵が片付き、長谷部は完全に放心していた。連絡をしてもいないのに何故燭台切がここにいるのか。どうして飽いたはずの自分を助けたのか。気になることは山ほど有ったはずだが、燭台切の戦いぶりの前では全てが些事に思えてくる。

 練度差の関係で、長谷部は燭台切と同じ部隊に組み込まれたことはない。書類仕事や厨で包丁を握っていることの方が多い男が、実戦でこれほど荒々しく大胆に戦うとは知らなかった。長谷部の心臓が早鐘を打つ。いっそ御手杵に貫かれた方が楽だったのではないかと思えるほど、胸が騒いで動悸も激しくなった。

「長谷部くん」

 いつの間にやら接近していた男に顔を覗き込まれ、長谷部の頬に熱が集まる。呼び掛けにも応じられず、ひたすらに吃音だけが長谷部の口から漏れ出た。

「お説教は後でたっぷりしてあげるよ。今はお互い為すべきことをしよう」

 返事を待たず、燭台切が長谷部の手を取る。身を起こすと共に腰砕けとなった身体を支えられ、長谷部はいよいよ夢である可能性を疑い始めた。