「好きなやつが土人形に夢中なので俺も二振り目顕現して囲ってやる」 - 2/7

 

 長谷部が本丸に顕現する頃には、男士の数も六十近かった。戦力は充実し、近侍を始めとした内務も半ば固定化されている。常に不足していると言えるのは食糧ぐらいのものだろう。既に短刀の何振りかは修行に出ている。今後への期待を込めて、出陣の誉れは彼らに融通されることが多かった。

 要するに、遅参した長谷部の居場所など、本丸のどこにも無かったのである。

 彼を気に掛ける男士は少なからず居たし、共同生活において孤独を覚えることは無かっただろう。しかし知己の刀に童子扱いされるのは彼の矜恃が許さなかった。へし切長谷部は旧交を温めるのに満足する刀ではなく、最たる望みは主の一番であることに他ならない。
 現状を打破すべく、長谷部はすぐさま近侍、燭台切光忠に出陣を掛け合った。
 近侍といえども編成は主の意向に沿って行われる。短刀の育成が方針として掲げられている以上、その中に打刀の長谷部を組み込むのは難しい。正論である。長谷部の懇願を袖にしたところで燭台切が気負う必要は無かった。長谷部もまた燭台切の立場を重々理解していた。それでも遣りきれない怒りというものは有る。

 長谷部は近侍である燭台切が誰よりも羨ましく、そして妬ましかった。古参であるというだけで主の信頼を得、傍近くに侍る権利すら手中に収めている。それだけでも許し難いのに、男は自分を象った人形を溺愛して已まなかった。この土人形は主と慕う燭台切以外の男士に一切靡こうとしない。加えて、同じへし切の名を戴く長谷部に向ける舌鋒はとりわけ鋭かった。
 誰かが同族嫌悪、と二振りの関係を端的に評したが間違ってはいないだろう。男士の長谷部は主の役に立ちたいがために近侍の燭台切を疎み、人形の長谷部は燭台切を慕うが故に主を憎む長谷部を許すことができない。渦中の刃物である燭台切がいかに仲裁に努めようと、両者の距離が縮まることはなかった。

 主従に対する長谷部の鬱憤は次第に募っていく。それが目に見える形で表面化したのは、手合わせにおける掛け合いだった。

「俺が一本取ったら近侍の座を譲ってもらおうか」
「僕の一存で決められるようなことじゃないんだけどなあ」
「はっ、勝つ自信が無いのか。戦場から退いて久しい近侍殿ならば慎重になるのも頷けるがなァ」
「言うねえ。じゃあ僕が全勝したら君は何をしてくれるのかな?」
「土下座でも何でも。ご随意にどうぞ?」

 結果は言うまでもなく、長谷部の全戦全敗だった。自慢の機動も動きを読まれていては活かしようがない。そうやって彼我の差を散々見せつけられてなお、長谷部は踏み込むのを止めなかった。
 一本だけなら或いは。実力に開きが有ることなど始めから解りきっている。それでも諦めぬ限り活路は見出せると、負傷を押して木刀を握り直した。

 頭の下に柔らかい感触が有る。妙に重い瞼を開けると自室の天井が視界に広がった。自分が布団に横たわっていることに気付き、長谷部は乾いた笑いを零した。
 意固地になって挑戦し続けた結果がこれか。近侍になどなれなくて当然、己はそれに相応しい力量を備えていなかった。現実を認めようともせず燭台切に当たるなど逆恨みも甚だしい。
 生温い液体が頬を伝うのに気付き、ますます長谷部の鬱屈は酷くなった。もう何も見たくないし聞きたくない。俯せになった長谷部は枕に顔を押しつけた。ぐしゃり、と何かを押し潰したような音がする。枕の下に手を差し入れてみると、予想通り一枚の紙片が挟まっていた。

「賭けは僕の勝ちだから、明日一日付き合ってね」

 端に描かれた眼帯男らしいイラストと目が合う。途端に長谷部の全身を疲労感が襲った。己の敗北を文字に起こされた悔しさからか、はたまた脱力するしかない近侍の画風故かは判らない。とにもかくにも、その夜長谷部は珍しく日付が変わる前に眠りに就いた。

「じゃあ、この表の数字が先週とどれくらい違ってるかチェックよろしく」
「おい」
「なに長谷部くん、電卓なら机の上だよ」
「違う。貴様、俺に情けを掛けたつもりか」
「寧ろ扱き使ってるように見えるけど」
「これは近侍の仕事だろう。賭けに負けた俺を気遣っているつもりなら今すぐ止めろ。つまらん温情を施される方が余計惨めになる」
「惨めになるなら罰ゲームとしては成立してるよね。問題なーし」

 伊達男が心底愉快そうにけらけらと笑う。真剣に取り合うつもりは無いと知れて、長谷部は苛立ちまじりに男に背を向けた。
 もういい、さっさと仕事を終わらせればこいつとも関わらなくて済む。退出したい一心で長谷部は作業に打ち込んだ。積み上がった書類はみるみる崩されていく。ゴールも間近とほくそ笑む長谷部は忘れていた。燭台切の寄越した紙切れには「一日」という指定が有ったことを。

「お疲れ様、長谷部くん。じゃあ次は備品チェックに行こうか」

 告げられた一言に忽ち長谷部の顔面が蒼白となる。燭台切は地蔵のように固まっている男の腕を取り、宣言通り一日中同僚を引き摺り回した。業務内容よりも話の通じない相手と長時間共に過ごした苦痛の方が大きい。疲弊しきった長谷部は、その夜も睡魔に抗うことをしなかった。
 長谷部が審神者に呼び出されたのは翌日のことである。近侍との軋轢を窘められるかと思いきや、長谷部を待ち受けていたのは賛辞の言葉だった。

 ――お前の報告書は見易いし、仕事も丁寧にやってある。出陣はもう少し先延ばしになるかもしれないが、長谷部さえ良ければ今後も近侍の補佐を続けてほしい。燭台切に余裕ができれば、高練度をもう一振り遠征部隊に組み込めるからな。

 長谷部が二言返事で了承したのは言うまでも無い。初めて賜った主命にいつになく気分も高揚していた。廊下を行く足取りも実に軽い。普段なら素通りする庭の景趣も、どことなく今の長谷部には輝いて見える。

「おはよう長谷部くん、今日も仕事手伝っていくかい」

 庭先からねんへしを肩に乗せた燭台切が近づいてくる。あからさまに機嫌の悪い従者と違い、主人の方は屈託の無い笑顔を湛えていた。

「ああ、その件だが先ほど近侍補佐の任を賜った。正直お前と組むのは不本意だが、主命である以上全力で勤め上げよう」
「オーケー、今後も容赦無く仕事を押しつけるからそのつもりでいてくれ」
「ふん。貴様のいびり程度に屈する俺だと思うなよ」
「頼もしいなあ。じゃあ、改めてこれからもよろしく」

 自身に向かって差し出された掌を長谷部は訝しげに見つめた。さて、この手は何を意味するのだろう。何とはなしに指先を伸ばすと、がっしりとした男の手が長谷部の掌を捉えていた。

「握手、友情の証だよ」

 触れた先から男の体温が伝わる。身を灼くような熱さが長谷部の胸中を蝕んだ。心臓は早鐘を鳴らし、咥内はいやに乾いて声もろくに出てこない。
 そうだ、この男には礼を言わねばならなかった。燭台切が先端を拓いてくれたこその近侍補佐である。主よりお褒めの言葉を頂けて嬉しかったと、それだけでも伝えなくては男の迂遠な親切に報いることはできない。たった一言、ありがとう、と言うだけでいいのに、どうしてこの口はあ、あ、と空気を押し出すことしかしないのだろう。

「おいへし切、主は貴様と友誼を結びたいと仰せなのだぞ。いつまでも間の抜けた面を晒していないで、返事の一つもしたらどうなんだ」

 燭台切の肩から抗議の声が上がる。正気に返った長谷部は乱暴に握手を解くや、形振り構わず廊下の向こうへ姿をくらました。

「長谷部くん!?」

 困惑混じりの呼びかけが長谷部の心を追い打つ。矢も楯もたまらず逃げ出したが、その心中は本人にも理解できるものではなかった。顕現して間も無い長谷部が、その感情に名の有ることを知るのは暫く先の話である。

 経理、伝達、資材の確認、近侍の仕事は多岐に渡った。特に好戦的な男児が六十人近くも生活をしていれば喧嘩沙汰も珍しくはない。その都度双方の間に立って和睦に努めるのだが、口は回れど折衝役には向かない長谷部には易からぬ仕事だった。
 その点、燭台切はやはり手慣れている。互いの利害を調整することにかけて男の右に出る者はいなかった。
 燭台切の手腕を間近で見せつけられるたび、長谷部は若干の嫉妬とそれ以上の法悦を覚えた。あれほど固執していた近侍の座も、以前ほどの焦燥に駆られることは無くなっている。

「みっちゃんみっちゃん! 今大広間で百人一首やってるんだけどさ、すっげえぜ! のの字と江雪さんの一騎打ち! まだ間に合うし、どっちが勝つかみっちゃんも賭けようぜ!」
「燭台切くぅん、おつまみ切れたーお酌してあげるから、なんかかるーくおつまみ作ってくれなーい?」
「あ、あのこっちに虎くんたち来てませんか……ああいえ、大丈夫です自分で捜せます! え、その……ありがとうございます」

 燭台切が一所に留まっていることは基本、少ない。トラブルが起きずとも、その刃望の高さから何かと声を掛けられる彼は、近侍部屋よりも寧ろ誰かの私室を訪れていることの方が多かった。

「鶴丸が中庭で芋を焼いているとのことです。主を誘うよう言われましたが、いかがなさいますか」
「焼き芋かあ。まだ肌寒いし悪くないよね。ねえ長谷部くんも」
「お前だけ行って来ればいいだろう。生憎、甘味はさほど得意じゃなくてな」
「そう? 残念だなあ」
「本当にそう思ってるなら腹に入れてすぐに戻ってこい。白紙の報告書はまだまだ有るぞ」
「行って来まあす」

 ねんへしを抱え燭台切は逃げるように近侍部屋を飛び出していった。その背中が見えなくなるまで見送って、ふと嘆息する。
 長谷部は別に甘いものが苦手というわけではない。それどころか数字と睨み合っていたせいで、普段よりも糖分が恋しく思えて仕方なかった。
 仮に参加したところで燭台切は他の面々と交流を深めることだろう。積極的に話の輪に入っていける性格なら違ったかもしれないが、長谷部は対人関係においては殊に不器用だった。
 多くを望んでもろくな目には遭うまい。嘗ての失敗から学んだ長谷部は、何につけても慎重になっていた。
 だから、それはほんの気まぐれだったのだろう。

 出陣した先で何となく見つけた花を、何となく摘んで持って帰った。茎から別れた二輪の花弁は歩くたびに揺れている。
 似たような花は本丸の敷地にも多く咲いていた。もの珍しくもない野草のどこに惹かれたのか、長谷部自身も説明のしようがない。敢えて言うなら、男の黒装束に白い花冠はさぞ映えるだろう、という思考が頭の隅を過ぎったぐらいか。
 いずれにせよ、深い意味は無かった。せいぜい雑談の切っ掛けにでもなればいい。普段世話になっている礼と言って渡せば目的は達成される。
 逸る胸を押さえ、長谷部は燭台切の部屋を訪った。いざ声を掛けんと口を開き──中から聞こえてきた会話に意識を奪われた。

「主、主! 今日はこんな花が咲いておりましたよ!」
「お、今度のはギンランだね。毎日よくねんくんは色んな花を見つけてくるなあ」
「主のお部屋の景観に気を遣うのも臣下の務めです」
「うん、偉い偉い。そんな主人思いのねんくんにはご褒美をあげないと駄目だよね」
「お気遣いなく、主。俺は当然のことをしたまでです」
「変な遠慮しないの。じゃあ、お八つ取ってく……あれ長谷部くん」

 障子を開いた先には長谷部が立っていた。帰還から真っ直ぐこちらに来たのか、戦装束も解いていない。出陣した先で何か不測の事態でも起きたのだろうか。面を伏せたままの長谷部に燭台切も内心不安を隠せずにいた。

「どうしたの、出陣先で何か有った?」
「別に。たまたま通りかかっただけだ」
「たまたま、って……完全に僕の部屋を訪ねる体勢だったろう。何か言いたいことが有るなら言ってもらわないと僕だって解らないよ」
「本当に何も無い。会話が聞こえたから、自然と身体も部屋の方を向いていたんだろう。俺のことは構わず厨でもどこでも行って来い」
「はあ、何だか知らないけど随分とご機嫌斜めみたいだね。明日には直しておいてくれないと困るよ?」

 とりつく島も無い。燭台切は言われるままに長谷部の脇を通り、厨の方へ足を進めていった。

「何様のつもりだ、へし切」
 一部始終を見ていた忠臣がとうとう尖り声を上げる。主人の前では自重していたものの、今回ばかりは口を挟まずにはいられなかった。

「主は純粋に貴様を案じておられたのだぞ。普段あれほど懇意にしてもらいながら、それに報いることもできぬとはな。謝意を示せるだけ犬畜生の方がマシではないか」
「はっ、愛玩人形風情がよく吼える。主従ともども恩着せがましい連中だ。そんなにご主人様のことが心配なら貴様が慰めてやれば良かろう」
「言われるまでもない。ああ、いつまでも上げ膳据え膳の箱入り息子に振り回される主がお可哀想だ。そうやって相手から施しを受けるばかり、自分から愛される努力を一切放棄していれば、また誰ぞに下げ渡されるだろうよ」
「貴様ッ、言わせておけば……!」
「おやあ、愛玩人形風情の言葉を真に受けるのか。つくづく滑稽で憐れな男よ」
「黙れ!」

 己を模した人形を長谷部が一掴みに握りしめる。人の業では為し得ない力に圧され、小人の矮躯がみしみしと悲鳴を上げた。身動きは取れず、呼吸もままならない。
 激痛に苛まれながら、人形は歪む視界に己と同じ藤色を見た。羨望、憎悪、嫉妬、あらゆる感情がない交ぜになった双眸は鈍くくすんでいる。


「なんなんだお前は、まるで自分のことのように知った口を利いてッ……! 己こそが本物だと! 土人形ごときが、主のために刀も振るえぬ出来損ないが! へし切長谷部を名乗ろうと言うのか!」

 障子が乱暴に開け放たれる。それから寸秒と置かず、長谷部の右腕を強い衝撃と痺れとが襲った。次いで何かの咳き込む音。束縛から解放された従者は、主人の腕に抱かれて忙しなく呼気を吐き出していた。

「君は、こんな小さい子相手に、何をしているんだ」

 男のものとは思えない声音に長谷部の肩が戦慄いた。己を睨め付ける玉容には表情らしい表情は見受けられない。その振る舞いが余計に男の底知れない怒りを想像させた。常は陽気に輝く黄金色も、およそ味方に向けるものとは思えぬ光を宿している。
 長谷部は完全に萎縮してしまった。手足は竦み、背筋は絶えず悪寒が走っている。喉元に白刃を突きつけられる心地とはこのようなものだろうか。男の問いに長谷部は何も答えられず、ただ上下の歯ががちがちと噛み合うだけであった。

「確かに同じ名を戴いた以上、互いに思うところは有るかもしれない。でもねんくんだって君と同じ本丸の仲間だ。僕の大事な友達だ。喧嘩するなとは言わないが、体格に任せて暴力に訴えるような真似は見過ごせないね」

 従者を奪取するのに、叩かれた腕が痛みを訴える。冷え切った眼光と合わせ、燭台切がいかに友人である長谷部を大事に想っているかが伝わってきた。その長谷部とは、己ではない。
 本丸に顕現する男士は一振りずつ。始めから解りきっていたことである。自分が顕現したときにはもう、「へし切長谷部」の椅子は埋まっていたのだ。

「久々の出陣で疲れてたんだろう。今日はもう休んで、明日からまたいつも通り、一緒にお仕事頑張ろう長谷部くん」

 軽く肩を叩くつもりで伸ばした指先に痛みが走る。和解の手を拒んだ長谷部は、俯いたまま主従に背を向けた。

「お前たちとよろしくする気なんて、今も昔も無い」

 捨て台詞めいた文句を吐き、長谷部は駆け出した。咎め呼び止める声も男の耳には一切入らない。

 この本丸にはへし切長谷部が二振り居る。
 うち一振りは燭台切光忠にとって掛け替えのない存在であり、もう一振りは審神者の刀にも、燭台切光忠の友人にもなれなかった負け犬である。

(そうだ。そもそも数の前提からしておかしかった)

 夜間は閉ざされた資材置き場に黒い影が蠢く。そのシルエットが錬結用の刀をまとめた箱に伸びたとき、影の揺らぎは一層大きくなったように見えた。

(俺があいつの長谷部になれないなら、俺だけの燭台切光忠を作ってしまえばいい)

 長谷部が山を下りた頃にはとうに日が落ちていた。
 裏門から出入りしているところを見られては厄介である。扉に耳をそばだて、周囲に誰も居ないことを確認してから中に入った。
 敷地内であれば誰と遭遇しようと不審に思われることは無い。それでも長谷部は自室に至るまで人目を憚らねばならなかった。結局持ち帰った竜胆の花が素知らぬ顔で長谷部の肌を撫で上げる。

(短刀やどこぞの雅じゃあるまいし、こんなものを持って歩いていたらいい笑いものだ)
 この場合、同じ長谷部でもねんへしは短刀枠に分類されるだろう。己も主への手土産を理由にしたいところだが、折り悪く審神者は本丸を留守にしていた。次の帰還がいつになるかも解らないのに、今にも萎れそうな野草を摘む謂われは無い。

「別に花をそのまま渡さなくてもいいだろう? 贈り物が被ったなら、少し時間を置いてから栞にでもしてあげれば良かったんだよ」
「もう過ぎたことだ。別に花に拘る必要も無い。小さいのが毎日せっせと取り替えてるらしいからな」
「でも僕は欲しいなあ、栞」
「自分で作ればいいだろう。材料ならそこら辺にいくらでも転がってる」
「押し花を作れそうな良い重しと、そもそも栞を使えるような本が無いんだよねえ」
「……俺のラインナップは兵法書と会計ソフトの指南書だけだぞ」
「君は本当に期待を裏切らない刀だよ」

 花を持ち帰る経緯を思い出し、長谷部の口から溜息が漏れた。道具の不足という事情から、栞は長谷部が作って二振り目に渡す流れになったのである。いいように使われている気がしないでもないが、長谷部も彼に不自由を強いている自覚が有った。
 顕現された事実をひた隠しにし、知己の刀とも会うことは許されない。話し相手と言えば朴念仁で融通の利かない男が一人だけ。二振り目の境遇は決して恵まれているとは言い難い。多少の我が儘は聞いてやらねば釣り合わないだろう。それに長谷部自身、二振り目と過ごす時間は嫌いではなかった。

「長谷部くん」

 長谷部の肩がびくりと震える。
 振り向けば予想通りに黒い太刀がこちらを睥睨していた。最悪だ。未だ自室に辿り着いていないのに、よりにもよって今一番会いたくない男に見つかってしまった。

「こんな時間までどこ行ってたんだい」
「俺がどこに行こうが、お前には関係ない」
「またそんな伽羅ちゃんみたいなこと言って。なに、色街にでも行って来た?」
「その下衆な発想は伊達男として有りなのか」
「あっはは、言いにくそうにしてるからさ。冗談だよ、いくら長谷部くんでもそのジャージで色街には行かないだろう。それに君は真っ当な意味での花を愛でてきたみたいだしね」

 燭台切の視線が長谷部の胸元に向かう。薄い紫がかった花弁は晩刻の暗がりにあってよく目立った。摘んでから多少くたびれた花をさっと後ろ手にやる。今更隠してどうなるものでもない。相手からすれば余計に興味を惹かれるだけだろう。それでも長谷部は二振り目に繋がる一切をこの男から遠ざけておきたかった。

「部屋に飾るの?」
「そんな、ところだ」
「見に行っていい?」
「そんなに見たいなら今存分に見ろ。満足か、ほら」
「そんな花の愛で方って有る? 大体もう結構萎れちゃってるしさ。僕はこの子がポテンシャルを最大限に引き出した姿を見てみたいよ」
「お前野菜だけじゃなくて花も口説く気なのか。根がついてるなら何でもいいんだなデンドロフィリア」
「長谷部くん、そんな性癖よく知ってるね。どういう状況で身につける知識なのそれ」

 どうでもいいだろ、と強引に会話を切り上げる。この調子で話していれば男のペースに呑まれかねない。長谷部はやや早足気味に部屋へ向かった。
 両脚を素早く入れ替えて進む紫の後に、一歩一歩の間隔を大きく取る黒色が続く。苛立った長谷部が足を速めても後続はしぶとく追い縋った。

「何で付いてくるんだ」
「その子の花瓶デビューを見届けようと思って」
「俺は許可してない。大体花なら例の土人形で間に合ってるだろう」
「綺麗なものはいくつ有っても困らないよ。まあ花は口実で、単に長谷部くんの部屋に遊びに行きたいだけなんだけど」
「は?」
「少しくらいならいいだろう? 見られて困るものが有るなら別だけどね」

 見られて困るものは無い。この場合、無いことが長谷部にとって最大の問題だった。花瓶の一つも置いていない部屋を見られたらどうなる? 飾る場所も無しに野草を持ち帰った間抜けと自ら吹聴するつもりか?
 そもそも昨晩の諍いでは絶縁したも同然の物言いをした。あれから関係の改善に努めた覚えはない。それにも関わらず距離を詰めてこようとする燭台切は、一体何を考えているのだろう。男の腹が読めない以上、長谷部は燭台切の言動を素直に喜ぶことはできなかった。

「それとも、花を飾ると言ったのは方便で、本当は誰かにあげるつもりだったのかな」

 囁かれた低音が核心を突く。突然胸を強く押されて燭台切が後方に軽く仰け反った。またも開いた距離の先で長谷部が息を荒げている。吊り上がった目尻の端には薄く膜が張られていた。

「俺はっ! お前の、そういう不躾なところが嫌いなんだ!」
 絶叫と共に長谷部が走り出す。今度は燭台切も後を追わなかった。

「長谷部くん」
 誰も居なくなった廊下で燭台切が一人呟く。誰に聞かせるつもりもないそれは、まさしく独り言だった。
 ――僕は君よりずっと長くこの本丸にいるんだよ。庭に生えている花の種類だって大体把握してる。ねえ、その竜胆の花を君は一体どこで摘んできたのかな。

 慌てて駆け込んだ自室の障子を後ろ手に閉める。長谷部はその場に崩れ落ち、己の右耳に手をかざした。心音はいまだうるさく、顔は確かめるまでもなく火照っている。
 追って去り際の一言を思い返し、長谷部は強い自己嫌悪に襲われた。覆い被さるように近づいた身体が頭から離れない。接触を拒んだくせに男の熱を求める自分が浅ましくてたまらなかった。

「本当に嫌いになれたら、苦労しないのにな」
 竜胆を床に投げ出し、下腹部に手を伸ばす。情欲にだけ素直な身体はすぐに反応を示した。