「好きなやつが土人形に夢中なので俺も二振り目顕現して囲ってやる」 - 4/7

 

 

 審神者が帰還した日は、朝から雨粒の屋根を叩く音が絶えなかった。
 本丸を長期留守にした場合、活動の一切を近侍がまとめて報告することになっている。燭台切の説明を受け、主はそれを踏まえた上で今後の方針を考える。そこまでは普段と変わらない。肝の太い燭台切を震撼させたのは、新戦力として打刀の修行を予定しているという主の発言だった。
 帰還した男士の能力向上に、大量の錬結素材を必要とすることは経験上解りきっている。肉体の有無を問わず、刀剣の所持数は存在する限り固定で、外部に持ち出されても変化することは無い。これまで二振り目の顕現が発覚しなかったのは、数字上の辻褄合わせによるところが大きかった。修行道具には余裕が有る。一振りが極めればまたその次へ、と主が間断なく男士たちを修行に送ることは火を見るより明らかだった。

 燭台切の脳裏を二人の長谷部が過ぎる。この事実をいずれの口から伝えるべきか考え、燭台切は真っ先に従者の下を訪ねた。
「新しい男士の修行が決まったんだ」
 予期せぬ告白に薄色の双眸が揺れ動く。主君の言わんとしていることが解らぬ臣下ではない。
 錬結か現状維持か。蔵に眠る二振り目、三振り目以降の数を思えば後者の可能性は著しく低いだろう。資材として備蓄するならともかく、恒常的に同一の男士を留めておくほどの余裕はこの本丸に無い。
 では人の生を謳歌する二振り目を鋼の身に戻すべきなのか。良心の呵責を除けば、その選択こそが本丸の運営にとって最善の道だった。審神者の留守中に許可無く二振り目を顕現したこと、その事実を長らく隠蔽した不忠すらも全ては三振りの胸の内に留められる。
 このような結末に終わっても、二振り目の燭台切は快く受け入れるに違いない。ただ全てが元の鞘に収まるだけ、おそらくはそう嘯いて何の躊躇いもなく刀の姿を取るのだろう。長谷部にはそれが歯がゆくてならなかった。

「行っておいで」
 ふわり、と人形の全身を菫色の外衣が包み込む。胸元に長谷部の紋をあしらった合羽は燭台切の手製だった。
「彼がどういう選択をするかはともかく、色々と話しておきたいことが有るだろう?」
「あるじ」
「いざとなったら主の一人や二人くらい説得してみせるよ。ほら早くしないと。この雨だし長谷部くんも今日は大人しくしてると思うけど、いつ修行の話を聞きつけるか解らないからね」
 ねんへしは一礼し、襟元のフードを手繰り寄せた。障子を僅かに開き、また振り返って頭を下げる。小さく泥の跳ねる音が聞こえなくなるまで、そう時間は掛からなかった。

 残された燭台切が優先すべきは長谷部の動向を窺うことである。
 ねんへしにはああ言ったが、彼の二振り目に対する執着を思えば悪天候すら障害になり得ない。本日の長谷部は内番で手合わせを宛がわれていた。おそらく今も道場で日頃の鬱憤を晴らしていることだろう。
 そう期待して訪れた稽古場には、長谷部はおろか一緒に組んでいるはずの宗三も居なかった。隅で鍛錬していた同田貫や蜻蛉切に聞いても収穫らしい収穫は得られない。嫌な予感を覚え、燭台切は左文字の私室を急ぎ訪った。

「長谷部ですか。はあ、主の話を聞いている途中、妙に顔を蒼くしていたので部屋に押し込んできましたよ。心配せずともいずれアレの出番も回ってくるでしょうに」

 審神者は次に誰を修行に送るのか始め考えあぐねていた。宗三は初期刀の次に顕現した打刀である。古参なことから主の信頼も厚く、確かに戦力強化の先陣を切ってもおかしくなかった。長谷部の前で敢えて修行の話をしたのは、今後打刀の育成に力を入れると間接的に伝えたかったのだろう。主の心遣いも解らなくはないが、何分タイミングが悪すぎる。
 想像に違わず、長谷部の部屋は既にもぬけの殻だった。縁側を駆けずる燭台切の横では線条となった雨が地上を延々潤している。裏手に回れば、ぬかるんだ地面に真新しい足跡がくっきりと残されていた。その行く先を目で追う。塀の向こうで揺れる煤色を捉えたとき、燭台切は濡れるのも構わず豪雨の中を突っ切った。

「長谷部くん!」

 呼ばれて背後を顧みた長谷部は目を瞠った。格好を気にする伊達男が、髪の手入れに何時間と掛ける刀が、雨風に全身を晒し泥水で衣服を汚してまでいる。濡れた呂色の髪先からはひっきりなしに雫が落ちた。長谷部は、その場に縫い付けられたように動けなくなった。

「こんな天気の中、どこ行くの」
「別に、どこだって、いいだろ」
「良くはないよねえ。少なくともこんな雨の中での登山はオススメしかねるよ」
 含み有る言い回しに長谷部が動揺の色を示す。いつの間にか両者の距離は一歩半ほどに縮まっていた。
「君の代わりに、ねんくんが全部説明してくれる。僕だって彼のことは悪いようにはしない。だから帰ろう? 僕も、このままだと風邪ひいちゃうかもしれないし」
「知ってて、今までずっと見逃してたのか」

 か細い、消え入りそうな声が長谷部の咽喉から絞り出される。その肩は悲しみではなく、怒りのために震えていた。
「同情のつもりか? 近侍にはなれず、戦場で誉れを穫ることもできない、そんな鈍が禁忌を犯すのがあまりにも惨めで見ていられなかったか!?」
 勢いを増す雨粒が二人のかんばせを容赦無く濡らす。興奮のあまり目尻に溜まった雫もすぐに洗い流され、一瞥した限りでは長谷部が泣いていることなど判らない。
 長谷部が憤慨しているのは燭台切に対してではなかった。最も憎んだのは、施しを受けておきながら、それに全く気付かずのうのうと日々を過ごしていた自分自身である。怒りに堪えかねているうちに、長谷部はふと鉄錆の味を覚えた。

「誤解だよ長谷部くん。僕はただ、君から言い出してくれるのを待ってたんだ」
 燭台切が雨に溶けた長谷部の血を拭う。その指は顎先から上に向かって、裂けた下唇を軽くなぞった。
「君だって、このまま隠し果せるとは思ってなかっただろう」
「……ああ」
「だから、これからのことを二人でそうだ」
「心配は無用だ。責任は全て俺一人で取る。雲隠れなどしないから、もう行かせてくれ」
 長谷部の足が再び傾斜を登り始める。その歩みは二、三歩と進むことなく止まった。
 背後から伸びた腕が長谷部の身体を強く抱いている。透明の合羽と衣服を隔ててなお、触れた部分からは燭台切の温もりが感じられた。幾度となく望んだ熱は長谷部の思考を容易に溶かしていく。
「っ、燭台切放せ! 燭台切!」
 心地よさに流されそうになる己を叱り、長谷部は燭台切の腕の中で懸命にもがいた。皮肉にも抵抗すればするほど長谷部を抱く力は強くなっていく。

「どっち」
「え」
「君の言う燭台切光忠はどっちのことを指しているんだい」
「今は、そういう問題じゃ」
「僕にとってはそういう問題なんだよ」
 言い切る燭台切の語調には微かに寂しさが滲んでいた。さらには鼻先を肩口に押しつけられ、長谷部の混乱はますます深まる。燭台切の縋るような仕草は、どこか意地が悪く己をからかってばかりいた男とは似ても似つかない。

「ねえ、二振り目を呼び出すほど君は僕のことが嫌いだったの」
「そんなことは、ない」
「じゃあどうして」
「言えない」
「教えてよ。今度ばかりはお前には関係ないなんて返しも使えないだろう」
 お前に好かれる自信が無いから、自分だけを見てくれる燭台切光忠を生み出そうとした。そんな邪で自分本位な理由を言えるわけがない。

「嫌だ、言わない、言いたくないっ……! 頼むから放してくれ! 俺は、あいつのところに行かなくちゃいけないんだ!」
 身を捩り、腕を振り回し、長谷部は幼子のように暴れた。逸れた拳が一瞬燭台切の頬を掠める。あ、と長谷部が気を緩めたときには手首を捉えられていた。
 次いで視界と口が塞がる。恐ろしく整った顔が長谷部の眼前に在った。雨露とは明らかに異なる液体が唇を濡らす。長谷部は暫く、好いた男に口を吸われている現状を認識できずにいた。

「ん、う、ぁめ、やっ……」
 やめろ、という制止の言葉も文字通り呑まれて声にならない。先頃唇に作った傷を舌先で嬲られれば、もう長谷部は立つのもままならなくなった。
 己に体重を預ける長谷部に気をよくし、燭台切はさらに密着を強いようと舌を相手の咥内に差し込んだ。夢中で歯列をなぞり、溜まった唾液を掻き出す。そうして好き勝手する燭台切の舌を突如鋭い痛みが襲った。予期せぬ衝撃に思わず顔の下半分を手で覆い隠す。その隙を見逃す長谷部ではない。勢い任せに拘束を振り切り、一目散に足場の悪い坂を駆け上がる。長谷部が燭台切の視界から姿を消すのはあっという間だった。
 染み出す血の味が燭台切の感情を冷ややかなものにしていく。長谷部は結局自分の問いに答えなかった。それでも彼が二振りのうち、いずれを選んだかだけは解る。

「あーあ、どっちにも振られちゃった……」
 独語する燭台切の呟きを拾う者はいない。冷雨はいつまでも男に降り注ぎ、白い飛沫を立てていた。

 以前、長谷部の後を追ったねんへしが、彼よりも先に燭台切と出会ったのは偶然だった。野犬の脚でリーチの差と土地勘を補っていたのだから、元来機動で男士の長谷部に敵うはずがない。主従の努力虚しく、先に山小屋へ辿り着いたのは刀の長谷部の方だった。
「長谷部くん、こんな雨の中どうしたの」
 肌寒さに囲炉裏を囲んでいた燭台切が立ち上がる。突然の来訪に二振り目以外の反応が無いのを見て、長谷部は捕虜の不在を覚った。
「二振り目、あのやかましい土人形はどうした」
「お昼寝中だよ。よく寝てるから、できれば静かにしてあげてね」
 男の口から淀みなく虚言が放たれる。その如才なさは以前の長谷部なら十中八九騙されていたことだろう。それも真実を知った今となっては茶番に過ぎない。

「誤魔化さずともいい。あいつは居ないのだろう」
「あれ」
「はっ、滑稽すぎていっそ笑えるな。お前の存在を隠し通せていると思っていたのは、俺一人だったわけだ」
「その件で僕を叱りに来たの? 長谷部くんったら律儀だなあ。でも大丈夫だよ、あの子は」
「近日新たな男士が修行に出される」
 燭台切の言を遮って本題に入る。先に捕虜の不在を指摘したときと同様、二振り目はこれといった反応を示さなかった。

「そっか。じゃあ素材は一本でも多い方が助かるね」
「お前は、それでいいのか」
「ああ、僕は元々そのための道具だったからね。それに、遡行軍に対する戦力の礎になるって意味ではこれも歴史を守ることに繋がるだろう? 斬れない刀に唯一できる戦い方とすら思えるね」
 これを達観していると言っていいのか。単に諦めているだけではないのか。倉庫に保管されていたときは、それで納得していたかもしれない。しかし肉体と精神とは切っても切れぬ間柄なのだと、長谷部自身も人の器を得て知ってしまった。たとえそれが一月に満たぬ時間だったとしても、二振り目が情動を育てるには十分な期間だったはずだ。それは他ならぬ本人が明言していた通りである。斬るだけが刃物じゃない、などと人としての喜びを知らぬ輩がどうして言えようか。

「お前は、俺の都合で呼び出された」
「そうだね」
「俺の我が儘で、余計な感情を知ってしまった」
「ご飯が美味しく思えるのは良いことだよ」
「生きたいとは、言ってくれないのか」
「前にも言っただろう。僕は、長谷部くんたちに会えて、美味しいご飯を堪能できた時点で十分幸せだったんだよ」
「嘘を吐け!」
 声を張り上げたのは男士の長谷部ではない。室内に木霊した一喝は、二振りの足下から発せられた。菫色の布袋からぼたぼたと水滴が流れ落ちる。降りしきる豪雨で冷やされた合羽も、小人の湧きあがる怒りを鎮めるのには至らなかった。

「飯だけで満足だと、錬結されても構わないだと、よくもそんな口が利けたものだなあ! 飢えた瞳で毎晩欠かさず本体を振り回している男が! 戦場に誰よりも焦がれている刀が容易に手足を棄てられるはずなかろう!」
 これまで平静を保っていた燭台切の顔に初めて周章の色が浮かぶ。毎夜の鍛錬もさることながら、その行為の裏に在る執着を見抜かれているとは思ってもいなかった。

「長谷部くん、それは運動不足の解消というか、別に深い意味が有ってやっていたわけじゃ」
「本気かそうでないかくらい人形の俺でも判る!」
 しどろもどろの弁解は敢えなく一蹴される。肩を上下させるねんへしは、男の黒い裾をぐいと引いた。

「俺も、俺もお前と同じだった」
 人形の長谷部と二振り目の燭台切が抱える問題は共通している。
 同情こそ、この人形が二振り目の燭台切に惹かれた最初の理由だった。

「ずっと刀を振るいたかった。この身で主をお守りしたかった。お前に背中を預け、首級争いをしてみたかった。でも、無理なんだよ! 俺はどこまで行っても紛い物で、本物の男士には、刀のへし切長谷部にはなれなかったんだ!」
 今度目を丸くしたのは男士の長谷部の方だった。普段他者を見下し、主以外には愛想笑いの一つも浮かべぬ人形が、密かに己を羨んでいたなどと想像できるはずもない。
 燭台切光忠の価値はあくまでも戦場において求められる。ねんへしは内務補佐のための道具に過ぎなかった。その彼に「主のために刀も振るえぬ出来損ない」とは残酷な当てつけも有ったものである。人形の身には、その謗言を否定できる余地が無かった。

「判らないはずがない……俺のような偽物ではなく、真っ当な燭台切光忠として呼ばれたお前なら、余計に戦場での誉れを欲するはずだ。なあ頼む……刀として在りたい自分を否定しないでくれ。俺の好きになった燭台切光忠を無かったことになんかしないでくれ。十分なんて、いわないでくれ。俺は、お前といっしょに生きていたいんだ!」
 燭台切の足首に縋り付き、ねんへしは堰を切ったように泣き出した。その感情は激流となり、男に慰められようと際限なく双眼から溢れ出た。
 燭台切のために憤る長谷部を燭台切が宥め支える。それは男士の長谷部が常に夢見ていた光景だった。皮肉である。刀である燭台切と長谷部は、彼らが望む全てを備えていながら、その関係性はまるで正反対だった。
 これまでは仲睦まじくする二振りが憎らしかったが、今となっては頼もしさすら覚える。長谷部は臍を固めた。一瞬のうちに浮かんだ黒い刀のことは、見て見ぬふりをした。


「二振り目、お前ちょっと向こう向いてろ」
「え」
「いいから」
 燭台切を後方に追いやり、泣きじゃくるもう一振りの長谷部と額を突き合わせる。今更ながらに、己と同じ顔をしてるのだと長谷部は密かに苦笑した。

「長谷部」
 初めての呼称に瞼をこする動きが止まる。充血した眸子から落ちる雫はまだ暫く已みそうにない。
「俺は今までお前を誤解していた。本丸に俺より先に来たというだけで、当たり前のように燭台切の傍に居る資格を得たお前が羨ましかった。でも、それはお前も同じだったんだな」
 菫のフードを取り去り、長谷部は髪から滴る水分を指先で丁寧に拭ってやった。燭台切以外の刀に頭を撫でさせた覚えはなく、人形の長谷部は何ともむず痒い気持ちになった。

「お前は俺よりよほど刀としての矜恃を持っていて、一振り目や二振り目の燭台切のこともずっと大切に想ってくれている。お前は、もう立派にへし切長谷部だよ」
 だから俺の代わりに刀を握ってくれ。
 その言葉と共に長谷部は人形の額に口付けた。

 どくん、と警鐘を鳴らすがごとく心臓が跳ねる。刹那、器の大きさに見合わない量の神気が土塊の身体に雪崩れ込んだ。その奔流は留まることを知らず、容量が足りなければ器を広げればいいとばかりに受取手の肉体を作り替え始めた。それに伴う苦痛は生半可なものではない。口を衝いて出そうになる叫びを、男士の長谷部は強引に掌で堰き止めた。
 明らかな異変を察し、燭台切も後方を振り返る。それに前後して桜吹雪が舞った。弾ける閃光が燭台切の目を眩ます。光の収束した先には長谷部が一人横たわっていた。一人だけだった。手に収まる大きさの、愛らしい姿はどこにも見当たらない。
「長谷部くん!」
 床に倒れ込んだ長谷部を抱き起こす。燭台切は男士の長谷部を介抱したつもりだった。しかし大きい方の長谷部とは感じる雰囲気がどことなく異なる。長谷部くん、と今一度呼び掛ける。それが切っ掛けとなったのか、瞼が薄くゆっくりと開かれた。

「みつ、ただ」

 熱っぽい藤色が燭台切の隻眼を見つめ返す。己への呼び掛けを以て、燭台切は男士の長谷部の消失を覚った。