あいに金を散らして隅田川 - 1/3

 

「おつとめご苦労だったなあ、店長!」

 コーヒーから燻る白煙の向こうでふくよかな頬が揺れている。
 アメリカンにエッグサンド、付け合わせのサラダは日替わりで、今日はトマトと胡瓜のスライスにサニーレタスを敷いた。ドレッシングは僕のオリジナルで、和風をベースに味つけしている。もちろん栄養やカロリー計算も怠っていないが、十年来のお得意様である彼の体型を矯正するには至らなかったようだ。

「検査入院で済んでほっとしたよ」
「今年は花火大会やるみてぇだからな。坊ちゃんも楽しみにしてんだろ」
「そうだね、後は当日晴れてくれたら万々歳かな」

 最寄り駅から徒歩五分、隅田川の右岸にこの店はある。チェーン店が溢れる昨今、個人経営の飲食店に厳しい情勢が続くけれども、うちはまだ恵まれている方だ。数度のリニューアルを挟みつつも、どうにかリピーターを繋ぎに繋いで、来年で創業三十年を迎える。
 この頃は中止が続いていた花火大会も近い。当日は会場どころか周辺道路まで人でごった返して、交通網がまるで機能しなくなる。飲食店は軒並み予約制か、臨時休業にするかの二択だ。
 うちは先代の頃から予約制にしていたけれど、今年は休む予定でいる。何しろ全国的に有名な隅田川の花火大会、それが数年ぶりの開催と来れば混雑も例年の比じゃないだろう。
 以上は表向きの理由、いわば体裁というもので、僕が休業を決めたのは別に理由がある。毎年、花火大会の夜には特別なお客さんを招いて、二階のバルコニー席を貸し切っていた。
 一年に一度だけ許された逢瀬こそ、僕の心のよすがと言っても過言じゃない。花火大会が中止になった去年まではさながら生き地獄だった。久々の開催決定の報を聞いた日は、年甲斐もなくはしゃいだものだ。

「しかし何でまた外でぶっ倒れてたりしたんだ? 飲みすぎか?」
「うーん、自分でもその辺曖昧で困ってるんだよね。外でお酒は控えてるし、過労になるほど忙しいわけでもなかったし」

 店の前で倒れているところを近所の人に発見され、のち救急車で運ばれる。気付いたときには病院のベッドの上で、搬送された経緯すら看護士さんから聞いて知った。外傷はほとんど無く、多少の打ち身が認められたくらい。それよりも衰弱が酷く、僕は三日ほどろくに食事も摂れず点滴生活を送る羽目になった。
 幸い後遺症は認められず無事に退院できたはいいものの、原因が解らないのは薄気味悪い。一人で悩んでいても鬱憤が溜まるだけだし、こうして雑談の種にできるのは正直ありがたかった。持つべき者は幼少の頃からの顔見知りである。
 久々に店を開けて一時間足らず、快気祝いにと足を運んでくれる方もちらほら居て嬉しい悲鳴をあげた。
 卵を焼き、パンをトーストし、豆を碾く。すっかり手に馴染んだ動きは効率を求めるけれども、あくまでも仕事は丁寧にこなす。いつもよりは忙しなく、昼前後のピークよりは穏やかな時間が良い緊張をもたらした。
 どうにか波を捌いて一息つく。次に混むまで幾ばくかの猶予はあるだろう。その間にテーブルを磨いて、ランチの準備も済ませておきたい。考えながらオーク材の板目を拭いていると、来店を告げるベルが鳴った。
 外の熱気がほのかに腕を掠める。予報では今日も三十度を超えるらしい。七月の陽光に晒された客人を労うべく、僕はことさらに明るく振る舞った。

「いらっしゃいませ」
 一礼し、迎えた青年と目が合う。有り体に言って、綺麗な子だった。
 アッシュグレーの髪に、すらりと伸びた背筋。吊り上がった眉に反し、目尻は少し垂れ気味で若干あどけない。二つの瞳は菫より淡い紫で、澄みきった色をしている。顔かたちの造りもさることながら、体格のバランスも素晴らしい。一見細身な印象を受けるが筋肉はしっかり載っており、それでいて男性特有の骨太さをあまり感じさせない。
 学生、よりは歳がいっているだろうか。僕とあまり離れていないかもしれない。客層が壮年以降に偏りがちな当店において、彼の容姿は際だって瑞々しく映った。
 青年の美しさに呆気にとられていた僕はともかく、あちらも何故か目を丸くしている。一名様でしょうか、と人数を確認しても返事はない。対応に困る僕を余所に、青年は肩をいからせ距離をぐっと詰めてきた。

「やっと見つけた」
 安堵をしのばせた語尾が僕を捉える。けぶる睫毛の下は透明な膜が張られ、今にも決壊しそうだった。

「ずっと探してたんだぞ。何だその格好、いや似合ってはいるんだが」
 紛れもなく彼とは初対面だ。再会を喜ばれる謂れも、青年との因縁も、何一つとして思い出せるところはない。
「恐れ入りますがお客様、どこかでお会いしたことがございましたか?」
 暗に人違いだと告げる。なるべく優しい声色を心掛けたものの、青年の期待を裏切るには十分だったらしい。親しい者に向けられただろう笑みが途端に強ばった。

「冗談はよせ燭台切。俺だ、長谷部だ。何回か話したことがあっただろう」
 驚愕と恐怖を綯い交ぜにしたような声が僕を責める。心苦しいが、やはり長谷部という名に心当たりはなかった。そもそも、彼はいま僕を何と呼んだ? 少なくとも、二十数年親しんできた自分の姓名とは似ても似つかない響きだったのは確かだ。

「その燭台切、ってあだ名でしょうか? 僕は××××と申しますが」
 僕が名乗るなり、青年の顔は忽ち蒼白となった。誤解が解けたと胸を撫で下ろす暇はなかった。
 床の木目に円い染みが一つ、二つと広がる。歓喜のために潤んでいた双眸は、先とは打って変わって失望のために頬を濡らしていた。

「……ッ」

 歯を食いしばり、青年は声もなく静かに泣いている。慰めようにも言葉が浮かばず、手持ちのタオルは油汚れを拭ったりしていて渡せない。
 せめておしぼりでも、と視線を外せば通行人と目が合う。慌てて去って行く女性を視線で追い、僕は密かに肩を落とした。

 急に倒れたり、見知らぬ友人が訪ねてきたり、善からぬものでも憑いてるんじゃなかろうか。青年の背を押し、厄介事にやたら好かれる我が身を思う。
 せめて花火大会までは安らかに過ごしたい。数年越しの約束を叶えるべく、僕は普段祈りもしない神に無事を願った。

 昼から入るスタッフに店のことを任せ、事務室の扉を叩く。予想通り沈黙が返ってくるだけだったが、彼は変わらずソファに身を預けていた。
「ごめん、待たせたね」
 おそらく年下だろうと見込んで口調を砕けたものにする。少しでも彼が話しやすくなるよう計らったつもりだが、青年はすっかり平静を取り戻していた。唯一、注視しなければ気付かない目元の腫れだけが先刻の名残を留めている。

「いや、こちらこそ取り乱してすまなかった。さっきも名乗ったが、俺は長谷部。へし切長谷部だ」
「長谷部くん」
 確認のつもりで呼ぶと、微かに長谷部くんの眉が跳ねた。気を悪くした、わけではなさそうだ。膝上に置かれた拳は、小さく開いたり閉じたりしている。

「えっと、へし切が名字? で長谷部が名前なのかな?」
「へし切は号。長谷部は刀工の流派だな。燭台切は、俺を長谷部と呼んでいた」
 号って、芸術家がつけるペンネームみたいなものだっけ。いずれにせよ、へし切とは変わっている。さっき挙がった燭台切も大概だけど、もし彼の知る僕がそれを名乗っていたとしたら複雑な気分だ。どうせならもっと格好いい名前で呼ばれてみたい。

「その、燭台切というのも号なのかい?」
「……小姓を手打ちにしたら近くの燭台まで一緒に斬れた。それが燭台切光忠の由来だ。お前にこの手の講釈をするなんて、本来なら釈迦に説法なんだがな」
 軽い気持ちで訊いてみたら存外に物騒な答えが返ってきた。燭台ごと斬ったから燭台切なら、へし切はいったい何を斬ったのだろう。それにしても号といい、流派といい、刀周りの話題が続く。もしや長谷部くんは鍛冶屋勤めなのだろうか。

「俺たちは刀の付喪神で、審神者の霊力により人の身を得て現世に顕現した。手足を得た付喪神は、刀剣男士として歴史を守るため日夜奮戦している」
 まさかの戦う側だった。オカルトじみた世界観の中にSF要素まで入っている。ちょっと要素を盛り込みすぎなんじゃないか。とりあえず設定が渋滞しているから待ってほしい。
 付喪神? 審神者? 刀剣男士? どう好意的に解釈しても妄想、作り話としか思えない。あまりに長谷部くんの態度が堂々としているし、会話も普通に成り立つから油断していた。適当に理由をつけて本日はお帰り頂いた方が良い気さえする。

「信じてないだろう」
 鋭い指摘が逃げ腰な姿勢を打ち据える。自分がどこまで愛想笑いを維持できていたかは怪しいが、正面に座る長谷部くんの表情は硬い。下手な誤魔化しは反って我が身を危うくするだろう。落胆とも呆れともつかない溜息がより一層、無言を重々しくさせた。
「構わん。今のお前には荒唐無稽が過ぎる話だ。口頭だけの説明で解ってもらおうとは端から考えていない」
 長谷部くんがソファから腰を浮かす。凛とした立ち姿は絵になるが、前置きのせいでどんな行動を取るのか気になって仕方ない。僕の不安を尻目に、長谷部くんは自らの掌を合わせた。境目を失った指と指との間に空白が生じる。その間隙を埋めるように光が走り、僕の左目を灼いた。

 眼前に突きつけられた白銀しろがねの正体を探る。緩く反った刀身、肉を容易く貫きそうな切っ先、散る火の粉を纏った刃文の輝きと来たらどうだろう。触れただけで指を落としかねない迫力を備えながら、手を伸ばさずにはいられない魔性がそこにはあった。
 固唾を呑む。緊張を強いているのは刀だけではない。神々しい鋼の刃を我が物として、悠然と構える青年の稜線がまた僕の心をひどく惑わせた。
刀の付喪神という口上も今なら信じられる。この奇特な立体美は只人の為せる技ではない。得物と同じく鈍色に照り返す髪を仰ぎ見て、全てが腑に落ちた。

「綺麗だ」

 久しく見惚れて、言葉を失っていた口がようやく声を発する。僕の素朴極まりない一言は、妙技を披露した神様の動揺を誘った。翳した掌は刀に触れること能わず、虚しく空を掴む。長谷部くんはといえば、空手になった両腕で自らを抱き、どこか恨めしげに僕を睨んでいた。

「抜き身の刀に触ろうとするなど正気か」
「ごめん。いやでも本当に綺麗だったから、つい」
「つい、で指先数センチ失ったんじゃ世話ない。だがこれで解っただろう。俺は人じゃない。無論、お前もだ燭台切」

 矛先が自分に向くとどうしても言葉に窮する。僕の意識はやはり東京の地に根ざしており、三十年近く人として過ごした記憶も判然としている。試しに念じてみても、手から鋼の塊が出てくる気配はない。

「こちらとしても、すぐに思い出せるとは考えていない。お前が記憶を取り戻すまで通い詰めるとしよう」
「えっ……売り上げにご協力感謝いたします?」
「ちなみにお冷やでどれだけ粘れる?」
「訊いてどうするつもりかな、その情報」

 長谷部くんを見送り、自分も店に戻る。それからは普段とまるで変わらない一日を過ごした。日が暮れ、ラストオーダーも終わり、クローズの札を下げる。
 照明を落とした軒先で隅田川を臨む。対岸のビル街はなおも明るく、黒々とした水面に光の柱をずらりと並べていた。東京の夜は目映い。密集する高層建築は我が物顔で星や月を押しのけ、街から睡りを遠ざけている。箱形に灯る光を眺めていると、自分だけが不夜城の祝福から取り残されたような気さえした。

「……?」

 目を擦る。どうやら見間違いだったらしい。白く輝くスカイツリーを裾から頂まで一望する。誰もいない。確かな事実がにわかに膨れ上がった困惑を徐に解きほぐしていく。
 考えてみれば当たり前の話である。天望デッキですら地上から何百メートルと離れている。さらに人の立ち入りを考慮していない、不安定な骨組みの上を誰が足場として利用とするというのか。

 僕が見たのは人影ではなく、鳥か何かだった。取るに足らない真実を結びとし、片付けを終える。
 どうも疲れているようだから、今夜は早めに寝るとしよう。朝も早いし、都会の夜は僕の出る幕じゃない。

 

■■■

 

 生温い風が燕尾を揺らす。日中より涼しいといえども、纏わりつく湿気は深夜でも健在だった。
 人ならざる身はこういうとき便利だ。頑強で丈夫なからだは、厚手の装束に重々しい防具を重ねていても平然としている。汗で手が滑るようでは刀を持つことも敵わない。まさに、この姿は戦うために作られた器なのだろう。
 眼下に広がる東京の街を見渡す。日付も変わり、さしもの都会も灯りが減った。赤い光点が広がっていなければ、黒塗りの壁と空との境目すら曖昧になる。
 しかし悲しいかな、夜陰に乗じて奇襲を謀るには昏さが足りない。背中を狙う一太刀を避けるべく、僕はスカイツリーの縁から身を投げ出した。
 地表に辿りつくまで十秒そこら、刃を交えるには十分な時間だった。

 落下する烏帽子の武者は骨組みを蹴り上げ、重力にさらなる加速をかける。こちらは白刃を撥ねつけた勢いで身を翻す。僕と相手との上下が入れ替わった。相手の間合いはこちらより広い。一撃を躱した今、有利なのは彼より小柄な僕の方だ。
 だというのに、実際には懐に入れず、守りも削れず、攻めあぐねている。二合、三合と打ち合い、相手の老獪さを肌身に知った。突きを躱し、切れば防ぎ、退けば力で押してくる。刹那の攻防は迫る地面によって打ち切られた。
 着地を機にお互い仕切り直す。強い。全力を発揮できない夜でこの立ち回りなら、昼はよほどの豪傑だろう。斥けるなら今を措いて他にない。
 橋梁を駆け上がり、内地へと誘う。もっと狭い、入り組んだ路地で戦えば、あの太刀を振るう余裕もなくなるだろう。

「っ、危なっ!」

 ひりつく気配を頭上に感じ、壁を走る。すぐさま前方に飛びのくと、空中で編み笠の男とすれ違った。袋小路の戦場に新たな刺客が立つ。右腕に骸を巻いた打刀は、億劫そうにこちらを顧みた。
 白骨の眼窩が鈍く光る。半裸の男が得物を大上段に構えた。掲げられた刀の乱れ刃を睨めつける。忽ち強烈な既視感が僕を襲った。

 知っている。僕はあのすがたを、皆焼の刃文を知っている。
 認識に障りが生じ、対峙する化生の輪郭にひびを入れていく。やがて亀裂は打刀の全身に行き渡り、とうとう鉛色の肌を瓦解させた。

「はせべくん」

 剥がれた幻影の下より紺藍の長衣が露わになる。気難しく結ばれた唇、強い意志を秘めた藤の眸、そして鍛えた玉鋼と同じ輝きを有する煤色の髪。
 見誤るはずがない。こんなうつくしい刀が世に二つとあってたまるものか。いま僕の首を狙っているのは他でもない、あのへし切長谷部だ。
 地を蹴る。既に二対一、数の上でも不利を強いられながら無謀な賭けに出ようとは思わない。左右に迫る壁を交互に跳び、急ぎこの窮地を脱する。

 名など呼ばなければ良かった。僕が切るのはただ動くだけの鉄塊であってほしかった。
 脇目も振らず夜を駆ける。僕を追う二口の影は、次第に遠ざかっていった。

 

■■■

 

 お店を再開して二日目。看板を出しに行けば、既に入り口で待っているお客さんがいた。
「おはよう長谷部くん」
 律儀というか、本当に通ってくれるつもりらしい。おはよう、と返す声は一日ぶりに聞いても涼しげで耳に心地良い。
 しかし、アロハシャツに白のトップスとスキニーとは意外な趣味だ。昨日はワイシャツにチノパンで、上下ともに淡いカラーを選んでいたから余計に驚かされる。発想が少し物騒ではあるけれど、根はかなり真面目そうだし、服装もかっちりしたものを好むと思っていた。とはいえ、顔が良いからカジュアル系も普通に似合う。

「待たせてごめんね。いらっしゃいませ、どうぞお好きな席に座って下さい」
「特に拘りはないからオススメで頼む。あと朝餉も済ませていない。まあ適当に見繕ってくれ」
「まさかの全投げ。いいよ、席は奥の窓際で、そこそこ量多めのメニューにしておく。コーヒーは砂糖とミルクどうする?」
「両方欲しい」
 なるほど甘党か。新たな常連様の好みは知っておいて損は無い。この機会に色々と長谷部くんについて教えてもらおう。

 フォークを入れるなり熱された肉汁が溢れる。垂れたグレイビーソースが断面に染みこみ、さらにその下の白米にも馴染んでいった。恐る恐るといった様子でハンバーグが口元に運ばれる。一回、二回と咀嚼して、藤色の目が大きく見開かれた。
「うまい」
 素朴にして最大の賛辞を受け、密かに拳を握る。長谷部くんはあからさまに頬を緩め、初めてだというロコモコの味に感じ入っていた。
「目玉焼きと一緒に食べても美味しいよ」
 僕の勧めに従い、長谷部くんは素直に半熟の黄身を割った。ソースと卵が絡み合い、肉と米をより一層結びつける。煤色の吊り眉はすっかり険を失い、目尻につかんばかりに弛んでいた。

「相変わらずお前の料理は美味いな」
「えっと燭台切、だっけ。その刀も料理をするのかい?」
「ああ、一時は刀より包丁を握っていることの方が多いくらいだった。和洋中に限らず、菓子作りにまで手を出していたらしい」
「飲食店のオーナーとしては気になる話題だね。どんな料理作っていたか覚えてないかな?」

 肉を分けていたフォークが止まる。思案する長谷部くんに期待を寄せるも、返ってきた答えはあまり芳しいものではなかった。
「すまないが料理には疎くてな。知りたいなら記憶を取り戻した方がきっと早いぞ」
「無茶を言うなあ」
 サラダを食むたび、薄紅色の唇が艶めかしく動く。角切りにしたトマト、アボカド、サラダチキンの一角が削れ、下地のロメインレタスが顔を覗かせていた。
 思うに、コブサラダも長谷部くんは初めて食べるんじゃないだろうか。一口目を掬う手前、暫しフォークが迷っていたように見えた。

 長谷部くんは燭台切の腕前を知っている。燭台切はジャンル問わず色んな料理に挑戦していた。長谷部くんはあまり料理に詳しくない。
 わざわざ迎えに来て、再会を喜び、仲間の記憶喪失を知って涙した。てっきりふたりは親友か、それに準ずる間柄だと思っていた。しかしながら、長谷部くんの話を聞く限り、両者の交流はあまり多くはなかったのかもしれない。現に燭台切の菓子作りに言及したときは伝聞形だった。

「長谷部くんは、僕……燭台切とは仲良かったのかな」
 フォークの先がプレートを小突く。米も肉もあと僅かで、食器には卵混じりのソースが広がるばかりだった。
「別に。普通だった」
 長谷部くんがコーヒーを呷る。卓上の皿はどれも綺麗に平らげられていた。カップ以外を片付けに入ると、静かだったドアベルが久々に来客を告げる。雑談に興じるのもここまでのようだ。
「いらっしゃいませ」
 案内のためにテーブルから離れる。案内が終わってから窓際を覗くと、席にはもう誰もいない。長谷部くんは既にレジ前にいて、財布を寛げていた。

「コーヒーのおかわりは良いのかい?」
「他の客もいるのに長居するつもりはない。また夕餉のときにでも立ち寄らせてもらう」
「うん、たくさん来てくれると嬉しいな」
「……燭台切光忠だな」
 随分と含みのありそうな一言はさておき、後方からの視線が気になる。
 見ない顔、しかもこれほどの美形と来れば注目を浴びるのは当然だ。長谷部くんは自ずと女性客の関心を集めてしまう。彼と会話する際は、誰がいつどこで聞き耳を立てているか判らないと肝に銘じておくべきだろう。
 さて今の僕には燭台切光忠とは別の名がある。お客さんは僕を店長としか呼ばないし、スタッフも下の名前まで覚えている子は多分いない。となると、採れる手段は一つか二つだ。

「長谷部くん。その燭台切はあまり人の名前っぽくないから、できれば光忠の方で呼んでくれないかい」
「みつただ」
「そう。××××って名前だと君に馴染みがないだろうし、折衷案ってことで」
「……わかった。じゃあ、また後でな光忠」
「ああ。楽しみにしてるよ長谷部くん」

 カードでの支払いを終え、アロハ模様が扉の向こうに消える。一抹の寂しさを覚えながらも、現実は感傷に浸る時間を与えてくれない。注文を求める声に呼ばれ、僕は再びホールに戻った。

 

□□□

 

 燭台切光忠と交わした会話は少ない。仮に数えたとしても両手の指で事足りるだろう。
 仲が良いか尋ねられて正直困った。向こうからすれば、俺などきっと大勢いる仲間の一振りに過ぎない。好悪の判断ができるほどの接点を、俺たちは持ち合わせていなかった。
 全くとんだうつけである。俺はろくに知りもしない相手に、燭台切光忠に懸想をしていた。

 顕現した直後に本丸を挨拶をして回ったことがある。
 刀剣男士としては向こうが先輩で、無愛想な新入りに対しても燭台切は終始笑顔を崩さなかった。
 光忠といえば、あの男が贔屓していた刀である。俺は品定めするような視線を隠そうともしなかった。

「長谷部くんだね。君とは結構、気が合いそうだと思うんだ」
 いったい何を根拠にこんな世迷い言を抜かしたのか、未だに燭台切の真意は解らない。
 ただ友好の証にと、握られた手の温もりだけを覚えている。手袋越しにも伝わってきた熱は、その後もしばらく尾を引いた。

 一度目の邂逅を経てからは、顔を合わせることも稀だった。
 古参の燭台切は既に修行を待つ身で、俺は連日のように出陣して本丸を留守にしている。あれとの繋がりといえば、戦帰りに食す夕餉ぐらいのものだった。
 元主の影響なのか、燭台切はとても筆まめな刀である。たとえば出払っている部隊に用意する食膳、燭台切が厨当番のときは必ず書き置きが付されていた。
 男士の数が数だから、文章は大して長くない。それでも、誰かに一言でも「お疲れ様」と労ってもらえるのは、悪くない心地だった。
 燭台切の文は全て残して手箱にしまってある。始めは何となく気が咎めて、捨てられないだけだった。いつしか字体の微妙な違いを楽しむようになり、たまに読み返しては男の顔を思い浮かべていた。

 大所帯の本丸では、自室や厠以外でひとりになることすら難しい。まして誰が通るともしれない廊下は、出会い頭の事故が絶えなかった。

「わっ長谷部くん」
 危うくぶつかりかけたのを寸でで避ける。曲がり角の向こうでは軽装姿の燭台切が目を瞠っていた。濡れ羽色の下地に、竹文様の意匠がとてもよく似合っている。

「すまない、不注意だった」
 伊達男の着こなしに感服している場合ではない。慌てて我に返るも妙に間が空いてしまった。不審がられていたらどうしよう。

「いや、こっちこそごめん。大丈夫? 足ひねったりしてないかい?」
「問題ない。何ならこの場でスクワットしてみせてもいいが」
「体育会系の証明は控えてもらうとして、長谷部くん今時間あるかな?」
「特にやることは無いな」
 満足いく答えだったのか、燭台切の口元がぱっと綻んだ。黒い指先が俺の手を掴み、明かりも乏しい夜の庭へと誘う。同行を認めた覚えはないが、燭台切は制止の声も「まあまあ」と流して、まるで取り合わなかった。

 気長な夏の太陽も沈んで久しい。点々と置かれた石灯籠を頼らねば視界も覚束なかった。蛍をともがらに夕闇を進んで、そのうちに朱塗りの橋に差し掛かった。
「そろそろ始まるよ」
 欄干にもたれ、燭台切が空を仰ぐ。わけもわからず隣に倣い、墨色の天蓋を見上げた。

 さほど時を置かずして光が弾ける。立て続けに華が咲いた。遅れてやって来た破裂音の後に、また星の海が閃光で塗り潰される。
「綺麗だね」
 同意を求める声に、俺はちゃんと相槌を打てていただろうか。昂揚を言葉にする術も忘れ、ひたすら明滅する空を眺めるのに夢中だった気もする。

「昔お世話になっていた邸の近くで、大きな花火大会があったんだ」
 ぱらぱらと地上へ墜ちる火の粉を追う。足下を流れる川はただ光の雨だけをつぶさに捉えている。花火を背負うふたりの影はのっぺらぼうも同然だった。
 燭台切の語りを機に面を上げる。俺はここに来てやっと、傍らに立つ男の横顔を見た。

「蔵の中でただ音を聞いているだけではあったけど、喧噪と活気が壁越しにも伝わってきてね。とても楽しそうだったのを覚えている。だから花火にはちょっと思い入れがあるんだ」
「念願の光景を堪能するのに連れが俺で良かったのか?」
「勿論。長谷部くんが良かったんだよ」

 剥き出しの腕を意味もなく擦る。浴衣に簪まで差した色男と、シャツにジャージ姿の俺とではどう見ても釣り合っていない。

「生憎と花火に関する逸話は持ち合わせてないな。すまんが期待には応えられそうにない」
「験を担ごうとしてるわけじゃなくてね?」
 赤に、緑に、降りしきる火花の余波を受けて、互いの色彩も目まぐるしく変わる。眇められた黄金の一つ目にふと紫が混じった。
「明日から修行に出るんだ」
 唐突すぎる。話題回しにしろ、内容にしろ、この場で噛み砕くには些か荷が重かった。数度目の何故、が脳裏を過る。

 俺たちにとっての修行とは磨上のようなものだ。より主に相応しい刀になるために、己の過去や起源と改めて向き合う。多かれ少なかれ、今までの自分を保ってはいられまい。
 今夜は、俺の知る燭台切が燭台切でいられる最後の夜になる。ますます以て不可解だった。古馴染みである伊達の刀や、古参の面子と過ごすなら納得行く。どうして、どうして仲が良いわけでもない俺を選んだ。

「より強くなりたいという気持ちに嘘はない。でも、今の僕が抱く感傷は今だけのものだ。花火を楽しむ自分も、長谷部くんと気が合いそうだと感じた自分も、消えてしまうとは思わないけど、後悔はしたくない」
「初めて会ったときも言っていたが、俺のどこを見て気が合いそうだと思ったんだ。号の由来が似てるからか?」
「それも当然あるよ。でも他にもきっと、理由があるはずなんだ」
「自分のことなのにふわっふわしてるな」
「自分でもそう思う。けれど君が本丸に来るより前、僕が顕現した時点で、既にへし切長谷部という刀には親近感を覚えていたんだ。この印象は僕が燭台切光忠であるために欠かせないものなんだろうね。まあ曖昧なのは性に合わないし、追究は修行での課題にしておこうかな」

 全く以てろくでもない。より鋭く、より主の形に添うための修行ではないのか。旅の最中に考えるべきことは多々あるだろうに、酔狂が過ぎる。
「帰ったら、僕の出した答えを聞いてくれないかい」
「前向きに検討しておく」

 結論から言う。俺は未だに燭台切が出したという答えを知らない。
 仙台で政宗公の生き様を学んできたという男は、初の頃より一層美しさに磨きが掛かった。素より良い刀だったが、力強さに厚みが増したというべきか。明朗だった声はさらに快活に、格好に拘る姿勢はそのままに、万事においてますます精力的になった。
 まだ修行の申し出も叶わない新参者に、あの刀は遠い。経験の差と部隊の別を良いことに、俺は燭台切を避けるようになった。

 花火の夜から幾月と経て、庭の木々はすっかり色づいている。練度が上限に達し、主から修行のお声掛けを待つようになってなお、俺は夏の約束を履行せずにいた。
 燭台切は戦線に復帰し、日々出陣を繰り返している。本丸で留守役を務める俺とは、すっかり立場が逆転してしまった。

 たまに手箱を開けては、増えることのない文束をひっくり返す。
 この頃の燭台切は、俺との間に言い知れぬ縁を覚えていた。勘違いか、気の迷いか、いずれにせよ修行の間に何かしらの答えは出したことだろう。
 聞けば、認めざるを得ない。燭台切が俺への興味を無くし、全ての関心を過去にしてしまったとしても、俺には受け入れる以外の選択肢は用意されていなかった。
 燭台切との繋がりを失いたくない。そんなつまらない意地のために、俺は最後まで逃避を選び続けた。この執着が恋心に由来すると自覚したのは、ある報せを耳にした直後だった。

 ――令和の世において燭台切光忠の破壊信号を受信。のち御守りの発動が認められるも、未だ応答無し。霊力感知による追跡は困難、彼の刀剣の行方は杳として知れず。

 いまさら胸の内に巣くう感情に名を見出そうと、伝える相手はいない。
 我ながら惨めだった。吐き気がぐるぐる渦巻き、胃の腑をずしりと重くさせる。卓上にある女郎花柄の箱を見た途端、後悔の念が堰を切って顔中をしとどに濡らした。
 己はなんと愚かだったのだろう。近付くのを恐れるあまり、俺は一度たりとも燭台切に自分の言葉を伝えてこなかった。穴が空くほど見つめていた文への返事も、花火に誘ってくれた礼も、帰還後の料理をいつも楽しみにしていたことすらも、俺はずっと心に秘めて口にせずにいた。

 幾度となく嘔吐き、畳を湿らせ、ようやく流す涙も枯れ果ててくる。
 死を想いがちな夏季でなかったのが幸いしたかもしれない。雁渡しに障子を叩かれ、俺は久しく袖を通していなかった戦装束に身を包んだ。

「どうかお頼み申し上げます」
 無理を承知で主に頭を下げる。
 第一線で活躍する太鼓鐘を筆頭に、伊達の旧知で固められた捜索隊は手練れ揃いだった。修行に出ていない俺は戦力としては心許なく、燭台切との縁も決して濃くはない。難しいと解っていながら、平身低頭し、彼らの末席に加えてもらえるよう懇願した。

 交戦の可能性は否めないが、まずは調査を最優先とする。燭台切をも斥けた相手に一対一での戦闘は仕掛けない。以上を条件に俺は参陣を許された。
 主の信頼に応えるためにも、快く受け入れてくれた鶴丸たちのためにも、何より燭台切の死を否定するためにも、必ずや手がかりを掴んでみせる。不退転の覚悟を決め、俺たちは令和の世に跳んだ。

 記録媒体に富む時代に遡行軍が出現するのは稀である。その定石を嘲笑うかのように、浮遊する骸が東京の空を闊歩していた。
 始めに太鼓鐘が発見し、大倶利伽羅と組んで追うも逃亡を許してしまう。次いで出現地点を予測し、予め張っていた鶴丸が奇襲を試みるも失敗。俺も合流し、挟撃を狙ったが取り逃がしてしまった。機動に優れた短刀が相手とはいえ、連日連夜この調子では焦りも出る。まだ俺たちは敵の目的や規模すら掴めていない。
 ただ後手に回ってはいるが、それでも希望は失わず済んでいる。何せ当初の目的である燭台切の生存は確認ができた。仲間の無事を知れただけでも先行きは明るい。刀剣男士としての記憶をまるっきり失い、人として振る舞っているのは問題だが、破壊を免れてるだけ良しとしよう。

「綺麗だ」
「できれば光忠の方で呼んでくれないかい」
「ああ。楽しみにしてるよ長谷部くん」

 緩みそうになる頬を叩く。
 楽観視するにはまだ早い。遡行軍の狙いを絞り、燭台切を正気に戻す手段も講じなければならない。浮ついた気分で主命に当たるなど以ての外だ。

「みつただ」

 許された呼び名を舌に載せ、慣れぬ響きを噛みしめる。
 親しみからではなく、世間体を配慮したに過ぎない。伊達の刀剣と同じ土俵に上がったわけでもないのに、喜んでしまう己はまこと浅ましかった。
 つい軽くなる足取りに任せ、拠点に戻る。今のところ敵の出現は夜半にしか確認できていない。夕餉まで時間はたっぷりある、人目のつく日中は頭脳労働に費やすとしよう。