あいに金を散らして隅田川 - 2/3

 

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 掃除は完璧だし、ディナーの仕込みも終えた。時刻は十七時を回ったばかりで、観光客や退勤後のリーマンが押し寄せてくるのはもう少し後になる。
 たまに通る屋形船を眺めつつ、古ぼけたノートにペンを走らせる。
 夏の新作に迷って二週間は経った。約束の日も近いし、試作の手間を考えると余裕はない。悩んだ時間の分だけ良案に繋がる……なんて上手い話はなく、ここ最近は生みの苦しみに喘いでいた。
 転機が訪れたのは昨日のこと、刺激を欲していた僕にとってまさにあの出会いは天恵だった。

「綺麗だったなあ……」
 鈍色の肌に雪化粧を施したような刀身を思い出しては惚れ惚れする。映像や写真でしか触れてこなかった日本の美は技術の粋を極めていた。千年以上に渡って連綿と文化が受け継がれてきたのにも納得する。
 刀と料理とでは畑違いもいいところだが、感銘を受けたことに変わりはない。あの衝撃を形に起こしたくて、あれから暇を見てはレシピ帳を広げていた。

「頼んだらもう一回見せてくれないかな、長谷部くん」
「そいつは新手のプレイか何かか?」
「いかがわしい言い方はよしてくれ」
 思わず背面の硝子に後頭部を打ちつける。カウンター越しに怪我を案ずる声が聞こえてきた。この声の主こそ、僕が壁の存在も忘れて後ずさった原因でもある。

「確かに驚かせたいとは思ってたが、そこまで気持ちいい反応してくれるとは俺としても予想外だぜ。湿布要るか?」
「結構です。申し訳ありません、お客様がいらっしゃるのに気付かず」
「こちらこそすまんな。俺が忍び足を相当頑張ったばかりに」
 忍び足ぐらいでドアベルが鳴るのは防げないと思うが、僕が不注意だっただけだろう。まさか妖怪・物の怪の類じゃあるまいし。

「しっかし本当に俺のこと覚えてないんだなあ。悲しいぜ、伊達のプリキュアともあろうものが」
 魑魅魍魎ではないけど人でもなさそうだ。言動はともかく、雪片のごとく儚い容貌に白い肌、猫のように輝く金の瞳は尋常のものとは思えない。
「二度目の自己紹介と洒落込もうか? 驚き求める五条の最高傑作! キュアホワイトこと鶴丸国永とは俺のことさ」
 初めに会いに来てくれたのが長谷部くんで本当に良かった。警察に通報せずに堪えた僕の胆力を誰か褒めてほしい。世の中にはいくら顔が良くても許されないことがある。ポーズつけんな。

「一番高いメニュー頼むから胡乱げな目で見るのはやめてくれ、お兄さんからのお願いだ」
「失礼しました。ただいまお席にご案内いたします」
 顔では許されなくても金銭で許されることはある。経営者の性である。

「というわけで紹介するぜ。こっちがきみの相棒、太鼓鐘貞宗だ」
「どうもどうも、噂の貞ちゃんだ! 記憶の件はさておき、無事で良かったぜ、みっちゃん!」
 あれから一名様増えて、テーブル席を見目麗しいふたりが囲んだ。鶴丸さんの正面に座る美少年は、見てくれこそ十五歳くらいだが、彼もまた付喪神なんだろう。艶めく髪は川蝉色で、どんぐりみたいに丸い瞳は先客と同じく金に染まっている。
 どちらも僕を愛称で呼んでいるあたり、燭台切とはかなり親しい関係だったようだ。光忠の名に望郷の念を駆られることは未だ無いが、ふたりのあだ名は不思議と耳に入る。

「随分と光忠……燭台切とは仲が良さそうに思えるけど、みんな長い付き合いなのかな?」
「伊達でお世話になってた頃からの縁だからな! ま、一緒にいた期間は割と短かったけどこういうのは時間じゃないだろう?」
「そうだ、良いこと言うなあ貞坊! ちなみに俺は貞享の頃に伊達入りしたから、光坊とは会ってないぜ! でも友情ってのは時間じゃない、密度さ……」

 なるほど二振りは伊達家所有の縁なのか。伊達者の由来になったらしい政宗公の家だし、刀剣も派手な出で立ちになるのは納得が行く。この一角だけさっきから眩しいんだよね。片や五分袖のパーカーにクロップドパンツ、片やTシャツにショートパンツで、共に白が基調の服なのに顔面が強すぎる。雑踏に紛れても確実に浮く。隠密には向いてなさそうだ。

「お、伽羅坊もこっちに来られるみたいだ。マスター、一名追加で頼む」
「構わないけど、君たち何人で東京に来てるんだい?」
「長谷部含めて四振りだ。まあ帰るときにはもう一振り増えるんだがな」
 語尾にウインク(に失敗して両目瞑っていた)を添えられ、些かたじろぐ。

 こうして談笑に興じてはいるが、彼らの目的は燭台切光忠の回収だ。今後も店を続けていきたい僕と、仲間と共に帰還したい彼らとでは根本的に相容れない。
 もしずっと記憶を取り戻さずにいたら、みんな僕のことを諦めるんだろうか。戦力外の仲間を連れ帰ったところで穀潰しにしかならない。戦況のほどは不明だが、配下のひとりは一時お冷やで粘ろうとしていた。懐具合に期待するのは止めておこう。ここへの滞在も時間制限が設けられていたっておかしくない。

「では当店で一番高いメニューを三人分お持ち致します」
「貞坊はお子様ランチでいいよな?」
「男らしくねえぜ鶴さん」
 いつまで続くかはともかく、当分は売り上げと女性客には困らずに済みそうだ。お姉さんたち、詳しい訳は言えませんが、そこのお二人は観賞用にしておくのが無難ですよ。異類婚姻譚は悲恋の宝庫だからね、僕もあまり得意じゃないな。

 ローストビーフ、茸と海老のアヒージョに、サラダを所狭しとテーブルに並べていく。付け合わせのバゲットに白ワインもあって、卓上は随分と賑やかだ。他二名が目に見えて沸き立つ中、新たに加わった青年は一言も発さない。褐色肌に刺青という厳つい外見ながら、彼はかなり物静かで穏やかな人柄のようだった。
「さっすがみっちゃん、盛り合わせまで完璧だぜ! ほら伽羅、写真! 良い感じに映えるのを頼む」
「何で俺が」
 知人の無茶ぶりに苦言を呈しつつも、伽羅と呼ばれた青年はカメラをしっかり受け取っていた。見た目で誤解されるけど付き合いは良いタイプらしい。クラスで飼ってるメダカを放課後にひっそり世話してそう。是非そのまま健やかに育ってほしい。

「その生暖かい視線をやめろ」
「仲がよろしいんですね」
「敬語もやめろ。光忠に畏まられるとむず痒い」
「伽羅坊の言う通り、俺たちの仲じゃないか。もっと胸襟開いていこうぜ。支払いも友人価格にしてもらって構わない」
「じゃあお言葉に甘えて。友人間でお金の貸し借りをなあなあにしていった結果が現代日本には溢れているからね、先人の轍を踏むつもりはないよ」
「記憶が無くても光坊は光坊だなあ。伽羅坊、きみ今いくら持ってる?」
「貞から鶴丸の奢りだと聞いて来た。察しろ」
 黄昏れる鶴丸さんを余所に、若い二人はどんどん料理を消化していく。良い意味で全く遠慮がない。少し掛け合いを聞いただけでも彼らの親密さは十分窺えた。かつては僕もこの輪の中に入っていたという。
 せっかくの機会だ、燭台切について詳しく訊いてみよう。自分がどういう刀で、どういう立ち位置で、誰とどういう仲だったのか。

「燭台切光忠ってどんな刀だったんだい」
「みっちゃんか? それはもう、格好良くて強くてノリが良くて優しくて、たまに怖い、めっちゃ頼れる俺の相棒よ!」
 フォーク片手に貞宗くんが力説する。身内の贔屓目が入ってそうだが、随分と評価が高い。途中小声になった箇所が聴き取れなかったのが悔やまれる。

「一言で言うなら、デキる男ってやつだな。よく周囲を見てるからか気遣い上手で、口もよく回る。ちょっと拘りが強すぎるきらいがあるが、まあ無関心なのよりずっと健康的だ」
 これは腕を組んで尤もらしく頷く鶴丸さんの言。またしても絶賛が続く。ただ自由人を地で行く御仁にここまで言わせるとは燭台切光忠、侮りがたし。結構押しの強い刀だったんだな。

「伽羅くんは」
「ちゃん付けすると喜ぶぜ、みっちゃん」
「じゃあ伽羅ちゃん、意見をどうぞ」
「……やたら形に拘る。面倒見は良いが、たまに口うるさい。貞や鶴丸と一緒になって面倒事に巻き込むのはやめろ」
 気怠そうにしつつも具体的なコメントをくれる伽羅ちゃん。面倒事とやらも毎度最後まで付き合っていたに違いない。良い子だ。

「大事な仲間だったんだね」
「だった、じゃないな。今もきみは俺たちの大事な仲間さ」
 純然たる好意にありがとうと返せぬ我が身が嘆かわしい。
「長谷部くんも、そう思ってくれているかな」
 この場に集まった面子と接して、改めて彼の異質さに気付く。

 どうやら鶴丸さんを始め、三人は日頃から燭台切とよく行動していたらしい。付き合いある友人が行方不明になれば、捜索隊に名乗りを上げるのは当然だろう。
 じゃあ長谷部くんは? 彼は燭台切との関係について良し悪しすら語っていない。呼び方にしたって、長谷部くんだけは燭台切と号で呼んでいた。伊達のみんなが僕を光忠や愛称で呼んでる以上、どちらが近しい呼び名かは想像がつく。
 長谷部くんは何を想って僕を探しに来ているんだろう。初めて会ったときに泣いた理由も知りたい。

「本刀が言うとは思えないんでネタばらしするが、長谷部は捜索隊に自ら志願した。きみが大事でなければ、主に頭も下げる必要も無かっただろうよ」
「……長谷部くんが」
「そうそう。愛されてるなあ伊達男」
「人望のある刀だったんだね、燭台切って」
「そんな何もかもフラットにする解釈で留めていいのか? 向こうは連れ合いが自分のことを忘れて相当落ち込んでるかもしれないぞ」

 ――連れ合い。行動を共にすること。配偶者。

「待った。長谷部くんも燭台切も男性なんだよね」
「ははは、鎌倉生まれの実戦刀が何をいまさら。今も昔も衆道なんて別に珍しくないじゃないか」
 白皙の美青年が自ら作った指の輪に人差し指を突き入れる。同行者二名に目線で訴えるも、貞宗くんは忍び笑いを浮かべ、伽羅ちゃんは変わらずの無表情でいた。嘘だろ、誰も否定しないのか。

「いやいやいや、長谷部くん自身が別に燭台切とは仲良くも悪くもなかったって」
「そりゃあ初対面で俺たち実は恋仲でした、なんて主張したら引かれるだろう。長谷部なりに配慮した結果だ、いやあ全くいじらしいね」
 鶴丸さんが全く濡れてない頬をペーパーナプキンで拭う。白々しい態度からして冗談のはずなのに、所々辻褄が合うあたり始末が悪い。

「……伽羅ちゃん、鶴丸さんの言ってることは本当なのかい」
「気になるなら自分で確かめろ」
 にべもない返事に肩を落とす。真面目そうな伽羅ちゃんなら教えてくれると思ったのに!

「今から長谷部クンも呼ぶか、みっちゃん!」
「ありがとう貞宗くん、修羅場に期待する目が隠せてないね」
「貞ちゃんでいいって。ほら、火事と喧嘩は江戸の華って言うじゃん?」
「対岸の火事を見世物にするのはどうかなあ」
「そうだぞ貞坊。これはふたりの問題だ、馬に蹴られる前にクールに去るのが一番だ」
 燻る火種を掘り起こした鶴が何か囀っている。気が重い。これからどんな顔して長谷部くんに会えと言うんだ。

 募る懊悩を多忙さで誤魔化し、ディナータイムを捌ききる。ラストオーダーも近づいて、店内の人影は疎らだ。長谷部くんはまだ来ていない。
(何かトラブルでもあったかな)
 普段から真剣で命のやり取りをしているんだ。今も丁々発止の闘いに身を投じ、しのぎを削っているかもしれない。仮にそうだとして、今の僕にできることは何一つとして無かった。
 お客様を見送るついでに店頭に立つ。ちょうど屋形船が横切った。溢れた光彩が夜の隅田川を染め、道行く人々を影絵のように仕立てている。店の明かりが届かない範囲では、誰の顔も判然としない。近づいてくる彼を認めたときには、軒先から幾ばくもなかった。

「……もしかして、待たせたか」
 首を横に振る。密かに胸を撫で下ろした。眉をひそめる長谷部くんの肌には傷一つ見受けられない。
「ううん。僕が待っていたかっただけだよ。来てくれてありがとう」
 ドアを開き、待ち人を店内に招き入れる。戻る前にプレートを引っくり返し、クローズにしておいた。
 本日最後のお客様にはメニューも敬語も要らない。適当に、というオーダーを受け、意気揚々と厨に詰める。こんなにも腕の振るい甲斐がある注文は久々だった。

 炒めたチキンライスを黄色い皮で包み、緩やかな隆起にソースを垂らす。甘みのあるトマトから作ったケチャップは実に濃厚だが、スパイスのお陰でくどさは感じない。言うまでもなく卵との相性は抜群だ。ひとたびフォークを入れれば、柔らかい壁が崩れてライスとよく馴染むことだろう。
 自信はある。料理以上に蕩けた面差しを見れば、手応えが僕の勘違いでないことは明らかだった。
「美味しい?」
 問いかけに頷いて返す姿がなんとも可愛い。いやあくまでも小動物を愛でる感覚であって、断じてやましい気持ちは無い。鶴丸さんのせいで変に意識してしまうけれど、だからこそ白黒ははっきり付けておくべきだろう。

「夕方に君の仲間が来たんだけど」
「ああ聞いた。騒がしくしてなかったか?」
「心配してるようなことは全く。燭台切光忠のこと色々教えてもらったよ。結構慕われてたみたいだね」
「貴重な協調性のある刀だったからな。古参でよく周囲に頼られていたし、主からの信頼も厚かった。あいつを悪く言うやつはいないだろう」
「長谷部くんは? 君にとって燭台切は、どんな刀だった?」
 空のスプーンが空中でぴたりと静止する。その後、銀の軌跡は軽く弧を描いてプレートの木目を叩いた。三分の二ほど残ったオムライスの一角がまたも削られる。

「良い刀だった」
 沈黙を挟んだにしては素っ気ない回答だった。まだ続くと思われた文言は、長谷部くんが幾度料理を嚥下しても語られる様子はない。

「それだけ?」
「それだけだ。大喜利でもなし、おおよその話は伊達の連中から聞いたんだろう? 俺が掘り下げる余地など残ってないさ」
「その伊達の刀が、燭台切と君とは良い仲だったと証言してたんだけど」
 あ、噎せた。
 突っ伏す長谷部くんの背を撫で、息が整うのを待つ。ピッチャーを手にし、なみなみと注いだ水はすぐさま飲み干された。

「白いのか? それとも青い方か? 享楽主義の愉快犯どもめ、帰ったら棚の代わりにしてやる……」
 棚の代わりが何を意味するかは知らないが、心の中で合掌した。ごめん鶴丸さん、半ば自業自得とはいえ謝っておきます。頑張って。

「驚かせてすまんな。昼にも言ったが、燭台切とは特別仲が良かったわけじゃない。完全なる捏造だ、ゴシップだ、陰謀論だ」
「そ、そう」
 捲し立てるような勢いにやや気圧される。実は燭台切のことを良く思ってなかったのでは? という疑念を先日の涙で以てねじ伏せた。嫌ってる相手を人に扮してまで探しに来るはずがない。多分。

「じゃあ、長谷部くんはどうして捜索隊に加わったんだい」
「……一つ、約束をしていた。果たせないうちに先立たれるのは、目覚めが悪い」
 さらに足した水を煽り、長谷部くんが目を眇める。約束を重んずるのは、いかにも律儀な彼らしい動機だった。

「どんな約束? 今の僕だと難しいかな」
「ああ無理だ。気になるなら頑張って思い出してくれ」
 例のごとく催促されても苦笑しかできない。
 義理堅い知人の願いを叶えてあげたいとは思う。ただ彼が燭台切との誓いを守ろうとしているように、僕にも大切な、数年前からの約束があった。

 隅田川の花火大会に息子を連れて行く。別れた妻に頼み、心待ちにしながら数年も叶わなかった願いだ。
 鶴丸さんの冗談が冗談で良かった。もし本当に長谷部くんと恋仲だったのなら、彼には二度と顔向けできない。
 ××××にとっての家族はかつての妻子だけである。燭台切光忠と仲間たちとの絆がどれほど強固なものであっても、僕だってこの件ばかりは譲れない。

「努力はしてみるよ」
 虚飾に塗れた己に辟易とする。今の生活を捨てられないくせに、目の前の青年に幻滅されたくなくて聞こえの良い台詞を吐いた。
 奇縁を運んできた燭台切光忠を恨みもし、また拝みたくもある。彼の刀がいなければ、へし切長谷部と出会うことはなかった。あの美しい刀身に相見えた僥倖だけは他の何物にも代えがたい。
 もし僕が人でも刀剣男士でもなく、彼らの敵だったとしても本望だろう。へし切長谷部に、あの皆焼刃に斬られる最期なら、それは考え得る限り最高の散り際だった。

 

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 僕の記憶はやさしい匂いから始まる。
 梅干しを載せたお粥にトマトとツナの塩昆布和え。傍の小鉢にはじゃがいもの煮っ転がしが添えられていた。
 どうやら僕は怪我をしているらしく、手足もろくに動かせない。ただ彼の用意した食事はどれも美味しそうで、差し出された匙を拒む理由は無かった。

 腹を満たし、彼の素性を聞き、そして僕は自らの欠陥を知る。奇妙なことに、怪我の理由はおろか、家族や自分の名前すら思い出せなかった。
 混乱する僕を前にして、彼はとんでもない提案をした。行く宛てが無いならここに住めば良いじゃないか、と。
 おそらく一般人ならば真っ先に警察に連絡する。どこの馬の骨ともわからぬ輩を好き好んで世話したがる者は少ない。極度のお人好しなのか、或いは何かしら裏があるのか。後者を疑って過ごすうちに、彼の事情は読めてきた。

 同居人は東京の下町で飲食店を営んでいる。一家の大黒柱であった彼は、最愛の妻と息子のためによく働いた。
 心優しい主人だが酒癖はかなり悪い。新人スタッフの歓迎会で飲まされているのを見たが、あれは酷いものだった。妻子に逃げられた、と語っていたのも頷ける。
 要するに、僕は居なくなった息子の代わりなのだろう。今でも連絡は取り合ってるらしいが、ここ数年は顔を合わせていないと聞く。花火大会の日に会おう、という約束は未だ果たされていない。

「隅田川の花火大会はそれはもう綺麗なんだ。人混みに揉まれずあれを楽しめるのは、近所に住んでいる者の特権だよ」

 久々の開催と聞いて主人は張り切っている。僕も純粋に楽しみだった。とはいえ、家族水入らずの邪魔はしたくない。しかし彼は頑なに僕の外泊を認めようとしなかった。
「大事な友達を家族に紹介して何が悪いんだ」
 激しい論戦を繰り広げ、折れたのは結局僕の方だった。

 カレンダーに×印が増えるたび二人して口角を上げる。祭りの夜は近い。揃って新作メニューをあれこれ考え、息子さんに披露する日を指折り数えた。
 受話器が床に落ちる。蒸し暑い夕暮れに届く報せなんて、全くろくなものじゃない。
 息子の死。久方ぶりに妻が寄越した電話は、夫から気力の尽くを奪うのに十分過ぎた。

 

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 船は陸に繋がれ、夜も更けた。都民の多くが眠りに就いても、東京の灯は朝まで続く。スカイツリーから見下ろす街は、今宵も十分すぎるほど明るい。
「まーだ怒ってんのか長谷部クン?」
「偵察に集中しているだけだ。主犯と違ってお前に恨みもないしな」
 天色の外套をたなびかせ、太鼓鐘が俺の隣に立つ。大倶利伽羅と違い、この短刀は鶴丸の悪ふざけに便乗していた可能性もあるが目を瞑った。やり口はともかく、三振りとも俺を気遣ってくれていることに変わりはない。鶴丸にしたって、無視よりは説教を垂れてやった方が喜ぶ。俺なりに伊達の刀には感謝しているんだ。

「まあ鶴さんの言い方は大げさだったけどさ、実際脈はあったと思うぜ。修行の前日だって、わざわざ軽装着込んで長谷部クンに会いに行ったわけだし?」
「……大した話はしてなかったが」
「あー……月が綺麗ですね、って言われて額面通りに受け取っちゃうクチ?」
「指を差すな。ろくに話したこともない相手に惹かれる道理は無いだろう」
「めっちゃブーメランじゃん」
 致命傷やめろ。俺だって自分の単純さには驚いている。

「別に好きなら一目惚れでも何でも良くねえ? 前向きに考えようぜ。あまり話したことないのに興味持ってくれたってことはさ、記憶が無い今も攻め時ってことじゃん?」
「それはないな」
「何でよ」
「あの店の主についても調べた。××××には別れた妻子がいる」
「別れたなら合法っしょ。っていうか、××××ってみっちゃんが勝手に名乗ってるだけじゃ」
「事務室のカレンダーに書いてあった。十一時、駅まで迎えに行くと」
 多弁な太鼓鐘も閉口する。事務所には他にも家族写真が飾られていた。書類や法律上の体裁など後付けに過ぎない。××××の中で彼らは今も家族なんだ。

「もう一つ面白い事実がある。××××は既にこの世にいない」
 本丸に問い合わせ、数日前の新聞記事を確認してもらった。結果は黒。燭台切の破壊信号を受け取った前後で、訃報一覧の内容に変化が認められた。
 これまで敵の目的は不明瞭なままだった。しかし燭台切自身が改変に巻き込まれているなら話は早い。遡行軍の出現地点も隅田川周辺に偏っている。あの店が何かしら関わっているのは明白だ。

「歴史の大勢に影響はない一般人だが、主命は主命だ。燭台切の観察ついでに、引き続き店主周りも警戒しておくとしよう」
「……おう」
 同意する太鼓鐘の声は渋い。激励はありがたいが、私情を挟んで調査を疎かにはできない。
 仮に遡行軍の目的が店主かその縁者にあるなら、燭台切の記憶は失ったままの方が好都合だろう。敵が尻尾を出すまで××××はなるべく泳がせておきたい。下手に近づいて刀剣男士としての意識が浮上したら面倒だ。俺のちっぽけな恋心なんて、この際捨て置けば良い。

「! 長谷部クンあぶねえ!」
 いち早く接近を察した太鼓鐘が鞘を払う。組み合う二振りから距離を置き、自らも得物を抜いた。
 敵影は一体。後続、増援は今のところ視認できない。ならば数で勝るこちらが断然有利だ。

 短い刀身同士が交わり、火花を散らせる。骨の化生は長い尾をしならせ、時に鞭のごとく太鼓鐘に迫った。棘の生えた一打は強烈だが、標的の装甲には掠りもしない。
 夜戦での太鼓鐘はことさらに俊敏で、それなりに足には自信のあった俺も目で追うのがやっとだ。伊達に前線を任されているわけではない。此度の捜索隊で長を務める短刀は、紛うことなく本丸の最強戦力の一角だった。
 強者同士の戦いは均衡が崩れたときに雌雄を決する。実力で劣る俺でも不確定要素にはなるだろう。
 狙いを定め、隠し持っていた飛礫を放つ。当然、敵は身を捩らせる。その僅かな隙すら太鼓鐘は見逃さない。体勢が整う前に相手の顎へ切っ先を向け、空を薙いだ。

「はせっ……!」
 左肩に衝撃が走る。一拍遅れて、破けた膚がじわりと熱を帯び始めた。

 最初から向こうは迎撃など考えていなかった。あの苦無は投石をものともせず、真っ直ぐに俺を狙ってきた。
 血糊が指先を伝い、床に落ちる。駆け寄る太鼓鐘の顔は、重たくなった瞼のせいで見えなかった。

 

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「……え?」
 滑りかけたペンを持ち直す。まともに相槌も打てなかった僕を見かねてか、鶴丸さんが再度口を開いた。

「長谷部は怪我で療養中だ。なに、そこまで深刻な具合じゃない。念のため今日一日は様子を見るってだけさ」
「怪我の、原因は」
「そりゃあ、文字通りの真剣勝負をしてるわけだからな。俺たちからすれば切った張ったは日常茶飯事。おまけに人よりずっと頑丈だ、心配は無用だぜ光坊」

 何でもないように鶴丸さんは語る。メニューから目を離さない彼を見るに、長谷部くんの容態も刀剣男士の在り方についても、虚偽や誇張は一切含まれてないんだろう。いくら人の姿に似せていても、彼らの本性は刀で、神様で、人じゃない。
 腹の底で重く、濁った塊が渦巻いている。彼らの境遇に憤りを覚えたところで、向こうからすれば見当違いも甚だしいだろう。まずもって生きる世界が違うんだ。僕の同情は戦いに生きる刀たちにとっては滑稽極まりなく、ひいては侮辱に当たるかもしれない。

「……長谷部くんって、今どこに住んでるんだい」
 だからって相手の矜恃や常識など知ったことか。負傷した友人の身を案じて何が悪い。そもそも長谷部くんたちは燭台切の捜索のために東京に来た。怪我の原因だって本を正せば僕にある。部外者じゃないなら責任を感じたって構わないだろう。

 店を閉め、手土産を持って電車に揺られること数分。最寄りからたった二駅の距離に、長谷部くんたちの仮住まいはあった。
 待ち合わせた鶴さん(この呼び方がしっくり来ると訂正された)に案内され、歩いた時間もそう長くない。築年数もそこそこなウィークリーマンションに入り、エレベーターで五階まで上る。外廊下の柵向こうではより近くなったスカイツリーの威容が坐していた。

「ただいま諸君! 宣言通り食後のおやつをデリバリーしてきたぞ!」
 白い背中に続く形で新居にお邪魔する。どういう形で僕の来訪を伝えていたのかは知らないが、貞ちゃんも伽羅ちゃんも一様に目を白黒とさせていた。

「みっちゃん! みっちゃんじゃないか!」
 夜遅くの訪問にもかかわらず、住人は嫌な顔一つせず僕を歓迎してくれた。キッチンには水に浸かったお皿が複数見える。おそらく四人分は沈んでいるのを確認し、一息ついた。
 食欲があるなら結構、どうやら見舞いの品も無駄にならずに済みそうだ。
「二人ともこんばんは。長谷部くんは? 寝てる?」
「ああ、長谷部なら」
 伽羅ちゃんの声と扉の開く音とが重なる。次いで廊下の方から寝癖のついた煤色が顔を出した。

「おい、夜中にあまり騒ぐと近所迷惑に……」
 シャツにジャージ姿の長谷部くんと視線がかち合う。元気そうな姿に安心したのも束の間、彼は伽羅ちゃんの腕を取るや、再び奥へと引っ込んでしまった。そして何故か二人とも出てこない。え? 僕挨拶すらできてないんだけど?
「……僕なんかした?」
 尋ねるも、鶴さん貞ちゃんは揃って肩を竦めるばかりだった。その慈愛に満ちた目は何だ。説明求む。

「先程は失礼した。来てたんだな燭台切」
 黒のバンドカラーを羽織り、下もテーパードパンツに履き替えた長谷部くんが戻ってくる。その後に続く伽羅ちゃんは何だかげっそりとしていた。

「リラックスしてるところにごめんね、お邪魔してます。怪我は大丈夫かい?」
「問題ない。鶴丸、どうせお前が大げさに吹き込んだんだろ」
「僕が無理を言って連れてきてもらったんだよ。大丈夫とは聞いていたけど、心配になっちゃってね」
「そ、そうか。店もあるのにすまなかったな」
「無事ならそれでいいんだ。ちょうど試作品の感想も聞きたかったし」
 テーブルに置いたままだった袋を寛げる。保冷剤はふやけているけど、容器は十分に冷たい。蓋を開けて透けるような藍色が覗くやいなや、わっと感嘆の声が上がった。

「うお、めっちゃくちゃ綺麗だなあ!」
「こいつは錦玉羹きんぎょくかんか? 粋だねえ、やるなあ伊達男」

 夏場の和菓子と言えば、見た目にも涼しげなつくりを求められる。そこで活躍するのが寒天だ。特に水に溶かし砂糖で煮詰め、冷やして固めたものを錦玉という。
 今回の新作は三層に分けて作ってある。上半分は夜空を模した錦玉羹、下半分はお馴染みの小豆羹、その間には味甚羹みじんかんを挟んだ。藍に始まり青、水色と明るくなる寒天の空には、さらに金箔も足してみた。大小もまちまちな金細工は、打ち上げ花火の散る様を表している。
 天蓋と地上とを別つ白い層は薄い。半ば溶けかけて二層に跨がる線条は、十分に天の川らしく見えた。

「何だか綺麗すぎて食べるのが勿体ないな」
「味も気に入ってくれたらまた作るよ。さあ召し上がれ」
 躊躇う長谷部くんに切り分けた羊羹をよそう。伊達の面々にも二切れずつ渡して、各々の評価を待った。眉尻を下げて頬を緩める貞ちゃん、こりゃ美味いと唸る鶴さん、黙々としながら消化が早い伽羅ちゃんと、反応は三者三様だが判りやすい。長谷部くんはというと、フォークに刺した断片を矯めつ眇めつして未だ口に運んでいない。

「どっちもガン見しすぎじゃね?」
「あ、すまん。今食べるから待て」
 指摘されてやっと長谷部くんに熱視線を送ってることに気付いた。いや違う。最後の一人だから余計に気になっただけなんだ。深い意味はないし、造形の良さに感じ入ってたりはしてない。

「ん、美味い……」
 赤い舌が下唇をちろと舐める。何とはなしに居住まいを正した。腰の辺りが妙にぞわぞわする。ひとまず用意してもらった麦茶で咥内と思考を浚う。よし僕は正気に戻った。
「味も見た目も良いし、いいんじゃないか? 俺ならまた食べたいと思うぞ」
「任せてくれ、何ダースくらいがご希望だい」
「単位」

 終電が迫り、名残惜しくも楽しい一時に別れを告げた。そして僕は見送りに来てくれた長谷部くんと二人で帰路に就いている。怪我人にやらせることじゃない、という弁は神々の集中砲火を受けて斥けられた。曰くリハビリだという長谷部くんの歩みは確かに淀みがない。

「こんな夜遅くまで出歩いて、店は大丈夫なのか?」
「勿論。明日は店休日だからね、少しくらい夜更かししたって問題ないよ」
「そうか。なら存分に羽を伸ばしてくれ」
「長谷部くんは? こっちに来てる間、ちゃんと休めてる?」
 療養していた今日はともかく、先日まで長谷部くんの肌は土気色をしていた。平穏な現代の東京も、彼らにとっては戦場と同義である。常に気を張っている必要があるとすれば、疲労が溜まっても致し方ない。
「心配せずとも、俺たちは人と違って丈夫にできている。軽く睡眠を摂れば十分に活動が可能だ」
「なるほどねえ」
 月の他は夏の大三角形くらいしか目立たない空を眺める。日本一高い電波塔はまだ明るく、街灯の少ない路地でも行く先を照らしてくれた。

「じゃあ明日は僕とデートしようか」

 

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「店を頼む」
 二階の屋外席で、僕は友と対峙していた。
あまりにも早い。葬儀を終え、店に戻ってきた夜にはもう彼の決意は固まっていた。
 街灯がバルコニーの木枠とその上に立つ人物の影を濃くする。僕の説得は夕闇に虚しく溶け、彼を踏み止まらせるには至らなかった。
 睨めつけていた身体が傾ぐ。僕が手すりに辿り着くより先に、肉と骨の砕ける音がした。
 背筋を伝う汗がひどく冷たい。眼下に映る友の末路を信じられず、膝を折った。

 救急車。まだ助かるかもしれない、この高さなら希望はある。早く店内に戻れ。電話をかけろ。
 すべきことが解っていても混乱が手足を鈍くさせる。この間も赤黒い染みは徐々に石畳を汚し、死の臭いを漂わせつつあった。
 友人の惨たらしい姿に影が差す。そいつを認めた途端、後頭部を叩かれたような衝撃に襲われた。

 身の丈三メートルはあろうかという巨体に、烏帽子を被った戦装束の男。腰の下辺りからは尾のように長い骸が伸びている。
 仮装の類だとは思わなかった。奇天烈な風貌を訝しむ心など、本能が鳴らす警鐘によってとうに掻き消されている。
 あれは敵だ。目的も正体も掴めない。ただ体中を巡る血が沸騰し、彼の脅威を声高に叫んでいた。
 友が危ない。怪物は今まさに倒れ伏した彼を覗き込んでいる。店内を経由していては間に合わない。

 柵を飛び越える。落下の勢いが耳を塞いだ。静かだった。異形の雄叫びも靴底が地面を叩いた音も、まるで聞こえない。唯一確かなのは、刃先から伝わる骨の感触だけだった。
 再び腕を振るう。黒い飛沫が散るのも構わず、手負いの腹に再び切っ先を宛がった。二度、三度と急所を狙う。腰の得物を抜くことすらできず、烏帽子の男は死に絶えた。

 知らず握っていた刃越しに惨劇の跡を見る。宿敵は黒い瘴気を放ち、徐々に肉の器を崩壊させつつあった。人の身である友と違い、僕たちの死骸は残らない。
 あの太刀を折り、ようやく僕は自らの在り方を取り戻した。
 そうだ、まだ使命も約束も果たしていない。××××くんを助けたら、どうにかして帰る方法を探さなければ。

 帰る? いったいどこに?
 なおも朧気な記憶の糸を辿るも、ぷつりと途切れた先端は迷宮の出口を示してはくれなかった。未だに僕は自らの物語も、約束を交わした相手のことも思い出せていない。
 とはいえ、こうして人の身を得て顕現しているからには、どこぞの本丸に所属していたんだろう。遅かれ早かれ捜索隊が出されるはずだ。もどかしいが今は迎えを待つ他ない。

 ぱきん。
 微かな破裂音に続き、閃光が一時視界を奪う。白んだ世界で何かが動いた。周囲が再び夜の色に染まる頃には、手遅れだった。

「ぁ――」

 喉から空気の塊が押し出される。袈裟斬りにされた身体が後ろに傾いだ。噴き上がる血煙の向こうに立っていたのは、討ち果たしたはずの太刀。
 刈り取られた僕の意識はここで潰える。まだ死ねない、生きたい、という願いは言葉にならず、亡者の勝ち鬨に呑まれていった。

 

■■■

 

 平日でも浅草の雷門は観光客で賑わっている。さっきから大提灯に興奮する外国人たちを何度見送ったことか。
 午後を回り、境内から香ばしい匂いが漂ってきた。屋台ものから老舗の寿司屋に洋食店まで、選択肢は豊富にある。
 長谷部くんは何が食べたいかな。約束の時間まであと十数分、人混みにそれらしき影は見当たらない。

 煤色の髪求めて視線を彷徨わせる。たまに道行く女性と目が合って些か気まずい。平々凡々とした僕に注目が集まる理由なんて限られている。見目麗しい御刀様じゃあるまいし、少なくとも良い意味ではないだろう。鏡は入念にチェックしてきたけれども、寝癖でも付いてやしないかと気が気がじゃない。

「すまん、遅れたか」
 髪を弄っていると、待ち望んでいた声が耳を撫でた。白シャツに黒のボトムス、首元のプレートネックレスと、今日の長谷部くんはシンプル路線らしい。そして癖のないデザインだけに素材の良さが際立つ。

「大丈夫、待ち合わせまでかなり余裕あるよ。はは、デートが楽しみで少し早く来すぎちゃったみたいだ」
「その誤解を招くお題目は何とかならないのか」
「え、僕はデートのつもりで来たけれど長谷部くんは?」
「現地人の案内つきで前線の哨戒」
「そんな格好良く決めておいて?」
「しゅ、周囲に溶け込める服をと頼んだんだが、変だったか?」
「いやだから格好いいって……頼んだ?」

 先日、先々日の記憶を掘り起こす。およそ長谷部くんの趣味とは思いがたいアロハ、ジャージから一転して垢抜けた部屋着、毎日変わる衣服のジャンル。なるほど、ヒントはそこかしこ散りばめてあった。

「……恥ずかしながら、俺はジャージ以外の私服をろくに持ってなくてな。遠征中は鶴丸か大倶利伽羅に借りて何とかしている」
 俯いた長谷部くんのつむじから爪先までひとしきり眺める。他人の服とは思えない着こなしに感服しつつ、食事後のプランをばっさり切り捨てた。
 モノトーン越しに浮かべた顔ぶれに罪は無い。このままじゃ互いに不便だろう、時間を割いて貰った身だしお礼くらいは、と心中でもっともらしい言い訳を並べる。

「そっか。じゃあ、お昼食べた後は服を見に行こう」
「えっ」
「この暑さだし、替えの服はいくらあっても困らないよね。長谷部くんも借りっぱなしは気が引けるだろう?」
「そ、それはそうだが。お前はどこか行きたい場所があったんじゃないのか」
「長谷部くんと行きたい場所が今日の目的地だし、うん問題ないね」
 おっと口をへの字にされた。とはいえ、難色を示せど反論は飛んでこない。渋る長谷部くんの肩を叩き、移動を促す。

 足の赴くまま、気の向くまま、浅草の町をぶらりと歩く。数多くある食事処の候補から選ばれたのは、最寄りの蕎麦屋だった。
 のれんを掻き分け、茹だるような暑さからやっと解放される。昼時だけあって席は埋まっているが、この手の店は回転も早い。さほど待たずに席に案内され、名物の天ぷらを二人して突いた。
「美味しいかい、長谷部くん」
 緩みきった頬を見るに答えは一目瞭然である。それでも敢えて尋ねると、穏やかな藤色の眼差しがさらに和らいだ。

「ああ。さすがは燭台切のオススメだ」
「長谷部くん、光忠」
 あ、と間の抜けた声が箸の近くでこぼれる。その場では指摘しなかったけど、昨晩も長谷部くんは同じように僕を燭台切と呼んでいた。慣れないのは解るけれど、この調子では先が思いやられる。

「これは今日一日掛けてたくさん呼んでもらうしかないねえ」
「わざわざ呼ばなくても、近くにいるんだから「なあ」や「おい」で通じるだろう」
「それじゃあ練習にならないだろう。よし、今から三十分くらい語尾を光忠にしてみようか」
「体操のお兄さんみたいな口調で寸劇の導入をするな光忠」

 乗ってくれる優しさ。そりゃあ天ぷらを割く手つきもご機嫌になるというものだ。
 ふやける前に揚げたての海老を口に運ぶ。小気味良い音を立てて衣が砕けると、今度は弾力に富んだ身が舌を喜ばせる。暑気に倦んだ胃も鰹だしの匂いには甘く、するすると麺を受け入れていった。
 これは美味しい。和と洋という違いはあれど、老舗の味はやはり学ぶところが多かった。

「光忠」
「なんだい長谷部くん」
「練習」

 呆ける僕を余所に、長谷部くんは美しい所作を崩さず食事を続ける。
 定番とはいえ、冷麺を選ばなかったのは失策だったかもしれない。すっかり引いたはずの汗がまた背を濡らした。水を煽る。喉を潤しても、しばらく渇きは癒えなかった。

「……っ光忠、もういい加減に」
「ごめん。あと一回だけ付き合って」
「それさっきも聞いたぞ……」
「はは。長谷部くんがあまりに魅力的だから、つい……ね?」
「溜めを作るな。しなも作るな。わかった、あと一回だぞ」
「ありがとう長谷部くん、じゃあ試着よろしく」

 更衣室の青いカーテンがまた閉じられる。この店だけでも二回目、別のショップも合わせれば試着の回数は二桁に上っただろうか。
 何しろ相手が顔良し、スタイル良しの逸材だけあって選び甲斐がある。さらに柄物からモノトーンまで容易に着こなすのは立証済みだ。別に衣装道楽というほどではなかったはずだが、長谷部くんを着飾るのは楽しい。つい時間も忘れて、あれこれと吟味してしまった。

「……着た」
 ぶっきらぼうな声を伴い、厚手の布が端に追いやられる。思い描いていたシルエット通り、いや想像よりずっと現実は洗練されていた。
 白のカットソーにネイビーのオープンカラー、黒のスラックスはゆったりしているようで裾に近づくほど細くなっていく。履き心地よく、かつ緩すぎないバランスを目指した結果だ。
 モノトーンも似合っていたけれど、長谷部くんには別の色彩を足したかった。真っ先に浮かんだ紫は手頃な服が無くて断念。次善策として選んだ濃紺だが、中々どうして仕事してくれるじゃないか。

「自分で選んでおいて真顔はやめろ。似合わないならハッキリ言ってくれ」
「え? 長谷部くんに似合わない服がこの世にあるとでも?」
「こわい」
「君は上背あって姿勢も綺麗だからね。同じ男として憧れるよ」
「嫌味か?」
「うーん、ひねくれてるなあ。素直な感想だよ、とてもよく似合ってるし格好いい」
 ひねくれてはいても褒め言葉には弱いらしい。購入が決まった服は包装されず、めでたく長谷部くんのお召し物に選ばれた。

 無事に目的を済ませたところで時刻を確認する。もうすぐ十八時、ビルの外はまだ明るいが夕飯や帰宅を考える頃合いだろう。
「長谷部くん、夜は何が食べたい? ここ駅も近いし、和洋中何でも揃ってるから遠慮しなくていいよ」
 足を伸ばせばスペイン、トルコ料理といった変わり種だって案内できる。口惜しいが、浅草に戻るよりは今いる有楽町の方が選べる店は多い。これといった希望がないなら、近場かつ個室でゆっくりできそうな店を探せば良い。

「そうだな、麺類以外なら何でも」
「昼はお蕎麦だったからね。オーケー、じゃあまずはビル内に入ってる店を調べて」
「あっ」
 フロア案内を目指しかけた歩を止める。振り返れば、躊躇う声そのままに眉をひそめた長谷部くんがいた。
「どうしたんだい、長谷部くん。嫌いな食べ物でもあった? それとも時間が押してるとかかな」
「取り立てて好き嫌いはない。時間も、大丈夫だ」
 不安要素を一蹴しながら、まだ先に続くはずの語尾は弱々しい。長谷部くんは見るからに浮き足立った様子で、目線を左右のあちこちに巡らせていた。意を決したのか、藤の瞳がようやく一所に定まる。それでもなお開かれた唇は重たげだった。

「どうせ食べるなら知らない店より光忠の料理が良い、と。そう、ちょっと頭に過っただけだ」
 忘れてくれ、と無責任極まりない文句が放たれる。

 これは天然か? いっそ計算と言ってくれた方が助かる。目と鼻の先に華の銀座を据えながら、敢えて浅草の寂れたカフェをご所望だって? 無知とは時に恐ろしい。素材も設備も向こうの方が数段上だと説明するべきだろうか。
 生憎と、僕はそれほど人ができていない。

「……ご指名とあらば」
 勝手に緩みだす頬の肉を戒める。見る間に相好を崩した彼は、自分がどれだけ罪深い告白をしたか気付いてやしないんだろう。

 冗談めかして正視を避けていた靄が晴れかける。慌てて息子との約束を思い起こし、あらぬ考えを上から塗り立てた。
 大事な大事な、僕の生きる意味にして糧。たかが数年のブランクにもかかわらず、何より大切なはずの思い出はひどく曖昧な像を結んでいた。

 鍵を回し、客人を中へと通す。玄関に自分以外の靴が並ぶのは、いったい何年ぶりだろうか。
 買い足した食材を並べ、思案する。作るメニューは決まっているが、米から炊くとなると時間がどうしても掛かる。効率を求めすぎては質が落ちる。しかし、味に拘って長谷部くんを待たせてしまうのは本末転倒ではなかろうか。
「手伝うぞ」
 正直なところ、この申し出はありがたかった。せっかく家に招待しておきながら、客人を放置するのは心苦しい。あとは、単に長谷部くんと並んで料理をしてみたかった。
 食事は食べる以外に作る喜びもある。同じ厨房に立ち、協力し合うことで初めて見えてくるものもあるだろう。
 たとえば包丁捌き。てっきり料理に関心が無いと思いきや、長谷部くんの手つきは意外にそつなく、指定通りの厚さ・形で切ってくれた。

「大所帯だったからな。食事当番は何度も回ってきた」
「それは作るのも片付けるのも大変そうだ」
「ああ。俺はあくまで作業をこなすだけだったが、献立を考える連中はいつも大変そうにしていたぞ。やれ栄養だ、やれ種類が、と会議はいつも紛糾していた」
「身につまされるなあ。見栄えもそうだけど、最近はカロリーや糖質を気にするお客さんも増えたから」

 ごぼうをささがきにし、水にさらす。小麦粉を練り、たまに柔らかさを確認する。
 話しながらも互いに手は止めない。一人では手間な作業でも、二人で分担すればあっという間だ。
 今日一日で随分打ち解けたのか、長谷部くんはいつになく饒舌だった。彼から語られる情報の断片を繋ぎ合わせ、料理さながら本丸なる場所を思い描く。

 第一に食材。皆の暮らす本丸には何十口もの刀があり、皆が皆男児の姿を模しているという。その賑やかさといったら週末の浅草寺に引けを取らないとか。
 第二に調理。様々な時代の刀剣が集うだけあって、誰も彼も一筋縄ではいかない。癖が強く、時に意見を衝突させるが、主を慕い歴史を守る心は共通している。
 第三に配膳。戦場で背中を預ける仲間たちだ。気質の違いこそあれど、彼らの絆は固い。食事時は広々とした居間をも喧噪で埋め尽くし、そこかしこで談笑が飛び交う。

 きっと伊達の刀たちは向こうでも同じ座卓を囲んでいるんだろう。鶴さんが突拍子のない話題を振り、貞ちゃんが盛り上げ、伽羅ちゃんがしめやかに流す。その輪の中にかつて燭台切光忠もいた。ただ、今こうして僕の隣に立っている刀はいない。
 大して仲は良くなかった、という証言を鵜呑みにすれば、長谷部くんが同席してるとは考え難い。想像の中の二人は視線すら交えない。どういう経緯で彼らは約束を結んだのだろう。しかも長谷部くんは、その履行のために命まで賭して、現に負傷している。

 ずだん、と刃先がまな板を叩く。遅れてかぼちゃが左右に開いた。
「次はどうすればいい、光忠」
 指示を仰がれ、ふと我に返る。幸い長谷部くんに気にした様子はなく、取り繕うのは簡単だった。
 割れたひょうたん形を見下ろす。柑子色の断面に不格好な穴が二つ三つ、空いていた。

 立ち上る湯気を避け、釜にしゃもじを入れる。器にご飯を盛りつけたら、後は三つ葉を載せれば完成だ。
「お待たせ長谷部くん。温かいうちに召し上がれ」
 主菜、汁物、と卓上が豊かになるたび長谷部くんの目は輝く。一緒に作っていたはずなのに、こうも喜んでくれると張り切った甲斐もあるというものだ。

 メインは人参、ごぼう、椎茸の入ったかしわめし、おかずは牛肉とブロッコリーの中華炒めに、かぼちゃの団子汁を添えてみた。もっと時期が遅ければ魚を主菜にする選択肢もあったが、無い袖は振れない。
 さて味見したとはいえ、福岡縁の御刀様に認められるかどうか。何分今回は初めて作る料理が多い。いただきます、と音頭を取っても箸は動かず、つい相手の反応を目で追ってしまった。

「食べづらい」
「見て見ぬふりをしてほしいな。ほら僕のことは置物だと思って」
「置物から視線を感じたら坊主案件だろ」
 注視を止めない僕にとうとう長谷部くんの方が折れた。鶏肉の絡んだ米粒が咥内に消える。ばつの悪そうな顔はたちまち喜色に取って代わった。尋ねるまでもなく上出来だと判り、やっと肩の荷が下りる。
 落ち着いたら食欲も戻ってきた。汁椀を啜り、一息ついて具を噛みしめる。かぼちゃは煮崩れしていないし、団子も弾力があって面白い。素朴な味わいだが、中華炒めが濃いめだから釣り合いは取れている。作り置きのひじきとの相性も抜群だ。

「うん、中々よくできたかな」
「これで中々とは謙虚なことだ」
「かしわめしと団子汁は初挑戦だったからね。要点は掴んだし、次からはもう少し手際よく作れそうかな」
「初挑戦? 俺が言うのも何だが、突然の訪問だったろう? どうしてそこで冒険心を出したんだ、そこで」
「それはもう、君が泣いて喜んでくれると思って」
「料理番組の審査員ばりの情緒を期待されてもな」
 茶化してはいるけど嘘は吐いていない。
 へし切長谷部の名を聞いてから、僕は彼の刀について調べた。その由来を、逸話を、所在を知り、博多の海を想った。

 料理を美味しくする方法は色々ある。それでも一番の近道は――これは僕の持論だけれども――食べてもらう相手をどれだけ大切に思えるか、に尽きる。
 長谷部くんが福岡の味に郷愁を抱くかは解らない。僕の自己満足に終わる可能性だって十分ある。でも彼のために費やした時間は、努力は、必ず皿の上にも現れているはずだ。

「光忠の料理は、いつも誰かのための味がする」
 長谷部くんが持ち上げた茶碗をゆるりと回す。器の熱を一周分てのひらに吸わせ、また中身を口に運んだ。

「出陣で疲弊した仲間には楽に食べられるよう握り飯を、飲んだくれが二日酔いを訴えたときにはしじみの味噌汁を、黒田縁の刀にはかしわめしと団子汁を」
 食器が置かれる。空になったお椀には、米粒一つ残っていない。

「常に食べる相手を思いやっていて、だからだろうな。お前の料理は、一等美味く感じられた」
 次いで箸が小鉢を突く。洗練された所作に魅入ってか、或いは話の続きを焦がれてか、僕は夢中で彼の語りに耳を傾けていた。

「成り行きとは言え、こんな風に独り占めするのは他の連中に申し訳ないが」
「ここに来てくれれば、いつだって君の好きなものを作ってあげるよ」
 長谷部くんが気後れする必要なんて無い。
「筑前煮や水炊き、それ以外でも君が望むならどんな料理だって用意しよう。燭台切光忠はどうか知らないけれど、僕は、僕なら長谷部くんのためだけにいくらでも腕を振るえる」
 未だに面影すら掴めない、己と瓜二つらしい刀への反発心がむくりと頭を擡げる。
 確かに僕は戦えない。しかし、約束の一つも守れない男より、君をただの仲間としか見ていない刀より、僕の方がずっと長谷部くんに優しくできるはずだ。

「正直なところ、本丸のこと、燭台切光忠のことは全く思い出せていない。本当に皆の言う通り、自分が刀の付喪神だったのか今も疑ってる。でもこれだけは断言できるよ。消えた燭台切より、一から君を知った僕の方が長谷部くんを大切に想っている」
 腹の底で渦巻くものの正体にやっと合点がいく。
 馬鹿馬鹿しいほどに答えは単純だった。僕は燭台切光忠に嫉妬している。長谷部くんを泣かせ、怪我を負わせ、それでもなお彼に執着されている男が心底疎ましい。

「僕じゃあ君の光忠にはなれないのかな」
 恭しく跪いて、懇願する。仰ぎ見た唇は固く結ばれていた。厚かましい態度に出た僕を嫌うでもなく、受け入れるでもなく、紫陽花色の瞳は静かに揺れている。

「そんなことを問われても、困る。そもそも俺たちは、お前を探しにこの時代に来たんだ。だから以前の燭台切と、今の光忠とを切り離して考えるなんてできない」
「じゃあ君は燭台切にデートに誘われたら断らないんだね」
「ばっ……あいつが俺を誘うわけないだろ。繰り返し言うが、そういう仲じゃなかったんだ」
「じゃあ今日一日僕に付き合ってくれたのは? 燭台切への好意が無かったとしたら、純粋に僕に時間を割いても良いと思ってくれたのかな」
「それは、記憶の具合を確かめようと思って、深い意味はない」
 反駁はすれど長谷部くんの語勢はどんどん弱々しくなっていく。
 共に過ごした時間が短くとも解る。長谷部くんは嘘をつくのが下手だ。僕が本当に見当違いなことを言っているなら、爪を拳に食い込ませたり、視線を逸らす必要は無い。

「もし燭台切としての記憶が戻ったとして、今の僕の経験や知識が残るとは限らない。君は、それでもいいのかい」
「ハッ、もしや脅迫のつもりか? 買いかぶりすぎだ。主命を果たすためなら、一時は友として過ごした相手だろうと俺は容赦なく切り捨てる。多少気心の知れたやつが、ただの同僚に戻ったところで別に困りはしないさ」
「君にできるものか」
「たかが数日の付き合いで俺の何が解る」
「たかが数日の付き合いでも解ることはあるよ。長谷部くんは不器用で、美味しいものに目がなくて、ひねくれ者で、そのくせ真っ直ぐで、自分で思ってるより顔に出やすい」
 長谷部くんは明らかに虚勢を張っている。片眉をつりあげ歪め、尊大な物言いをしても、まるで動揺を隠せていない。

「君は、燭台切のことが好きだったんだろう」
 茶碗が倒れる。空の器がむなしく踊り、左右に弧を描いた。立ち上がった長谷部くんはすっかり覇気を失い、怯えた様子で僕を見ている。

「初めて会ったときに泣いたのも、さほど親しくなかった相手のために命を賭けるのも、デートに付き合ってくれたのも、わざわざ僕の料理を指名してくれたのも、そういうことなら全部納得がいく」
 内心面白くないと思いつつ、腑に落ちている自分に嫌気が差す。
 皮肉なものだ。悋気を認めた途端、相手の心が既に恋敵のものであると知ってしまうなんて。

「料理の話や燭台切の呼び方から察するに、恋仲じゃないという話は本当かな。つまり君は片想いをしていた。たとえ相手が記憶を失い別人になったとしても、恋心を捨てられないぐらいには惚れていた」
 殴れるものなら殴ってやりたい。ここまで想われておきながら、何も返せず彼に負担ばかりかける不届き者を。
「君の一途さが報われないのは、不快だ」
 目線を合わせるべく、膝を伸ばす。戦く長谷部くんに構わず、震える彼の手を取った。

「さっきはああ言ったけど、僕は君を忘れるつもりなんてない。仮に記憶が戻っても、この気持ちだけは絶対に譲らない。長谷部くんを幸せにするのは、僕の役目だ」
 指と指とを絡ませ、てのひらを合わせる。抵抗はない。体格とは裏腹に、今にも折れそうな身体を引き寄せた。

「どうして」
 ぽつりと胸元に呟きが落ちる。されるがまま僕に抱かれている、長谷部くんがようやく重い口を開いた。

「どうして今になって、そんな優しくするんだ。俺は諦めたのに、諦めるつもりだったのに」
 くぐもった告白が肩口に吸われる。か細い声だった。一言一句、聞き漏らさぬよう神経を尖らせる。

「俺は、料理を褒めることすらろくにできなかった。好き、なんて余計言えるはずなくて、ずっと視線で追うだけだった。お前が折れて、いなくなって、はじめて後悔した」
 記憶にある長谷部くんは、いつだって満足げに料理を平らげてくれた。美味いと端的に、素朴ながらに感想を伝えてくれた。燭台切も知らない、長谷部くんの一面に僕はとうに触れていたんだ。

「約束のことも、それを果たせばもう燭台切との繋がりがなくなると思って、こわくて、ずっと逃げていた。こんな臆病者が、誰かに好かれるはずなんかない」
 長谷部くんが少しずつ抑えてきたはずの言葉を口にする。幾度かつっかえる彼の背を撫で、僕は辛抱強く続きを待った。

「今のお前はまっさらで、格好つけた俺しか見てないから、それで変に勘違いしてるんだ。あるいは突然泣きだした俺に同情したか。いずれにしろ、お前のそれは一時限りの衝動だ。考えなおせ」
「長谷部くんの方こそ、とんだ勘違いをしてるようだね。燭台切はともかく、僕の決意まで疑われるのは心外だ」
「そんなの、どう信じろっていうんだ」
「当然、行動で示すさ」
 左手を滑らせ、後頭部に添える。襟足の下にある膚も唇も、今の長谷部くんはどこもかしこも熱っぽかった。
 不意に詰めた距離を戻す。長谷部くんは口を薄く開き、頻りに目を瞬いていた。やがて理解が追いついたのか、白い頬がみるみる朱に染まっていく。

「もし僕が今のキスを忘れるようなことがあったら、突き殺してくれて構わない」
 長谷部くんのてのひらを借り、自らの胸に宛がう。
 惚れた男のために身を投げ出す刀を欲するなら、己の命ぐらい賭けなければ釣り合わないだろう。
 見つめた先の双眸が潤い、雫を孕んだ。長谷部くんの顔がくしゃりと歪む。そこに悲痛な色はなく、ただ恋の喜びに満ちていた。

 再び顔を寄せ、目尻に口づけを落とす。案の定、しょっぱい。長谷部くんは軽く身動ぎ、くすぐったそうにしながらも僕の好きにさせていた。
 涙を舐めとり、滑らかな頬にも触れていく。そのうち、当たり前のように唇を合わせていた。
「ん、ぅ」
 微かに漏れる甘い声が耳を蕩かす。まるで性を知りたての子供みたいだ。まだ呼吸も覚束ない長谷部くんの腰を掴み、口唇を割り開く。驚く舌を捉え、容赦なく貪った。
 たまに息をつく暇を与えては、また長谷部くんに食らいつく。温かい咥内は二人分の唾液が混じり、時に彼の口端から伝い落ちていた。呑みこむこともできず、僕に応えるので必死な長谷部くんが可愛い。おずおずと伸ばされた舌先を軽く吸う。途端に眉をひそめ、長谷部くんが小さく鳴いた。
「部屋に行こう」
 気付けばそう誘っていた。僕に体重を預けきっていた長谷部くんが静かに頷く。服の下の昂ぶりを、互いに誤魔化せなくなっていた。

 男が好きな相手に服を贈るのは脱がせるためだ、という風説がある。即物的なパートナーを揶揄する俗言は別に珍しくない。僕は否定も肯定もせず適当に流していたように思う。当時から性に淡泊な自覚はあった。例のジョークだって正直、他人事のつもりだったんだ。
「僕が脱がせるから、長谷部くんはそのままで大丈夫」
 非難がましい視線がちくちくと刺さる。長谷部くんは意外に照れ屋さんなので、愛情表現がちょっぴり過激なんだろう。

「むっつり……」
「純愛だよ」
 訝しげな面持ちに負けじと笑みを返す。どうやら僕の主張が通ったらしく、長谷部くんは渋々と服から手を離した。誠実さの勝利だね。

「ん……」
 ベッドに腰掛ける長谷部くんに覆い被さり、腰をゆるゆると撫でつける。薄い布越しにも鍛えられていることが判る身体は、思いの外硬さを感じない。
 緊張をほぐすよう優しく触れつつ、合間にやわらかな唇を舐る。長谷部くんは僕の首に手を回し、すっかりキスに夢中になっていた。少しでも中断すると物足りなさそうにこちらを窺う。その仕草だけで腰の奥がじんと痺れて痛い。
「みつただ、もっと」
 濡れた唇が辿々しく続きを誘う。いっそ噛みついてしまいたい。暴力的な衝動をどうにか抑え、長谷部くんを抱き寄せた。熱っぽい呼気を食らいつつ、紺色のシャツを剥いでいく。残るカットソーはそのままに、裾から直接長谷部くんの肌に指を這わせた。

「ッ、ぁ」
「くすぐったい?」
「こそばゆくはない、が……変なかんじだ」
「具体的に言うと、どのあたりが?」
「えっと……脇腹と、背中と、あと胸……」
 うん、全部だね。実に愛で甲斐がある。将来有望だよ長谷部くん。

 目の前の肩を押して共にベッドに沈み込む。驚く長谷部くんの服を捲り上げ、胸を外気に晒した。平たくて筋肉の載った上体は疑いようもなく、立派な男性の形をしている。一度も同性に興奮を覚えた試しなんて無いのに、長谷部くんの裸はどこもかしこも色っぽい。引き寄せられるように両手を伸ばし、胸を揉み込んだ。
「楽しいか光忠……?」
「めちゃくちゃ楽しい……」
「その余韻で本気なのはわかった。楽しいなら、いい」
 長谷部くんの反応から察するに、快感より困惑が大きいらしい。開発に未練はあるが、一旦責め方を変えてみるとしよう。
 指を滑らせ、まだ柔い突起をつまみあげる。脚と腰が跳ねたのを一瞥し、引き続き乳首を可愛がることにした。

「ん、ぅうっ……」
 捏ねて潰し、吸って舐めとる。硬くなった先端を押しやると艶めかしい声が漏れた。胸に限らず皮膚全体がしっとり汗を帯びて、触れるほどに手が馴染んでいく。周辺の肉ごと揉んでやれば、先より明らかに反応が良い。

「い、いつまで赤子になりきるつもりだ」
「そういうプレイがご所望かい? 上級者だなぁ」
「おまえが胸ばかり触るからだろッ……や、いじるなァ……!」
 抗議もそこそこに長谷部くんはのけぞり、歯をくいしばった。耐えて刺激をやり過ごすつもりらしいが、結果として僕に胸を突き出している。これは吸えというお達しだろう。間違いない。
「~~~~ッ!」
 ほとんど悲鳴じみた嬌声がてのひらに吸い込まれる。長谷部くんは自らの口を押さえ、荒い息ごと甘い波に耐えた。
 僕を挟む双脚がシーツを滑る。びくびく痙攣する足の付け根は、いかにも窮屈そうに膨らんでいた。右手を胸から離し、そっとスラックスの中央を擦る。掠めたに等しい接触にもかかわらず、長谷部くんは今までで一番激しく身を捩った。

「ふぅ、う゛ぐ……ッ!」
 目尻を赤くし、自らの手を唾液まみれにしても、長谷部くんはまだ耐え忍ぶ気でいるらしい。宜しくない傾向だ、このままだと指や舌を噛んだりしかねない。
「長谷部くん、手どけて」
 首を横に振られる。
「長谷部くんの声が聴きたいな。ね、お願い」
 青筋の浮かぶ腕に口づけ、軟化を待つ。長谷部くんは物憂げに、おそるおそるといった体で僕を見上げた。

「……声きいても萎えないか」
 愁眉の理由を知り、得心がいく。僕は前を寛げ、既に兆しつつある性器を引き出した。
「ひぇ」
「これでも不安かな」
「別の不安がこみあげてきた」
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと慣らすから」
 というか長谷部くん抱かれる側だって自覚あるんだ、へえ。良いね、とても良い。

 興奮でまた少し硬くなった中心を眼前の腹に押しつける。好奇心で割れ目に沿って先端を擦りつけると、長谷部くんは面白いくらい動揺した。
「うわ、わ……ひぃッ!?」
 油断してる隙にと長谷部くんの下着に手を這わせる。勃起した形をなぞり、竿をゆるやかに扱いてみた。
「ぁ、やぁ、イッ……! みつただ、それ、やぁ……!」
 萎えるなんてとんでもない。欲に駆られた声を耳にするたび、僕の逸物は嵩を増していった。今すぐにでもこの腹の下に突き入れ、奥まで満たして、ぐちゃぐちゃに掻き回してやりたい。
 灰色の布地にじわりと染みができる。自分から腰まで振って、長谷部くんはもう射精したくて堪らないんだろう。

「はぁッ、やァ、ぅう゛~ッ……!」
 息を継ぐのもやっとのようで、長谷部くんは舌を突き出し喘いでいる。その薄い紅色の肉を食み、垂れそうな唾液を啜った。
「イきたい? いいよ、もっと気持ちよくなってたくさん出しちゃおうね」
 張り詰めた雄を下着ごと嬲り、容赦なく責め立てる。長谷部くんは身悶え、低く呻いた後に気をやった。どろりと粘ついた感触が掌に伝わる。スラックスごと肌着を下ろすと、萎えた男根の先から白濁の名残がつうと糸引いて、ひどく淫猥に映った。

「ちゃんと出せたね、えらいね」
「ママか……?」
「そんな冗談言う子にはご褒美あげないよ」
「ママだ……」
「残念だなあ、長谷部くんはこれが欲しくないんだ」
 呆けてる顔の前にいきりたった屹立を差し出す。長谷部くんの痴態に煽られ、僕の一部はほぼ触っていないのに完全に上向いていた。
 長谷部くんが息を呑むのが判った。蕩けた目が逸物を捉え、ますます恍惚となる。長谷部くんは僕の竿を掴み、あろうことか頬擦りを始めた。初めて直接的な愛撫を受け、ぐぅと呻いてしまう。拙いが、長谷部くんの整った顔立ちにグロテスクな肉棒の組み合わせは、その絵面だけで刺激が強い。
「ほしい、光忠これ欲しい」
 僕は今きっと悪い顔をしている。長谷部くんを促し、彼の肌を守っていた最後の服を取り去った。
 そして今まで見えてなかった包帯を目にし、嗜虐的な思考が一挙に吹き飛んだ。長谷部くんの左肩を覆う布地は、小さいとはいえ、赤い斑点を滲ませている。

「あ、ああ、これか。気にしなくていい、昨日の時点で痛みも感じなかった」
 気にするな、というのは無理だろう。僕は長谷部くんを傷つけたいわけじゃない。

「本当に大丈夫なんだが」
 念を押されても、すぐ切り替えられるわけではなく、やはり躊躇ってしまう。逡巡する僕を見かね、いや痺れを切らしたのか、今度は長谷部くんがこちらを押し倒してきた。

「こんなに腫らして今さら止めるも何もないだろう。ほら、しゃんとしろ。でないと俺が挿れてしまうぞ」
 僕に跨がり、長谷部くんはわざとらしく自らの恥部を晒した。尻のあわいに雄を招いて、慣らしてもいない後孔に先端を擦りつけている。彼の先走りが垂れていたのか、怒張が掠めた窄まりはやや滑っていた。狙いをつければ、本当に入ってしまうかもしれない。一歩間違えれば出血沙汰だ。僕は慌てて長谷部くんの膝を掴み、この暴挙を押し止めた。
「なんて誘い方をするんだ君は……」
「お前が変な気遣いするからだろ。いいか、俺たちはヒトと比べてずっと丈夫に出来ている。ちょっとくらい手荒に扱ったって問題はない」
「あるよ。僕が、君に優しくしたいんだ」
 変な扉を開きかけていたのはひとまず忘れる。怪我が無くても初物の身体だ。時間をかけて、じっくり丁寧に拓いていってあげたい。

「う゛、ぁッ……! もういい、光忠もういいからぁ……!」
「でも本来は入れるところじゃないし、丁寧にほぐさないと」
「丁寧にもほどが、ァあっそこ、しつこ、あッあぁ……!」
 三本の指を咥えた肉壁が小刻みに蠢動する。最初よりだいぶ柔らかくなってきた。長谷部くんの男の子の部分も力づいて、身動ぐたび僕のお腹に当たっている。中のしこりが要所らしく、弄ると目に見えて反応が違った。
 指を引き抜き、びくりと跳ねたお尻を愛でる。長谷部くんは僕の上に寝そべり、はっはっと荒い呼気を首筋に投げかけた。
 怪我に障らないよう、慎重に位置を入れ替える。枕を腰の下に据えて、長谷部くんの左脚を担いだ。

「痛かったらすぐ言ってね」
 散々に滑りを足した場所に昂ぶった半身を宛がう。入り口は含みきれなかった潤滑油をこぼし、ひくついていた。押し当てると柔軟に沈み、雄の形そのままに輪を広げていく。
「ひ、ぁ゛、あッ……!」
 長谷部くんは痛みを訴えず、ただ上擦った声だけをあげる。多分このまま最後まで泣き言を伏せるつもりだろう。彼の気丈さには恐れ入る。予想通り、突き当たりらしい深さまで収める間、長谷部くんは一度も制止を求めなかった。
「はァっ、すご……長谷部くんのナカ、あったか……」
 入り口の強固な締めつけに反し、中は優しく寄り添うように肉芯を労ってくる。そのくせ呼吸のたび腸壁が収縮するから気が抜けない。本音を言うとすぐにでも腰を振って子種が溢れるぐらい注ぎ込みたいが、長谷部くんが落ち着くまでは我慢だ。我慢。

「ふッ……はは、伊達男が台無しだなァ光忠」
「なんだいその伊達男って」
「お前の他に誰がいるんだ、男前の店長さん……ひやぁ!?」
 うん、落ち着いたみたいだし再開しよう。全く、その煽り癖はどうにかしないと将来えらい目に遭うよ長谷部くん。ちゃんと僕が傍で見張っておかないと。

「あッや、ふぁああ……! みつた、ンぅ、あ゛ぁっ」
 粘膜を掻き分け、隘路を何度も何度も犯す。とりわけ指で確かめた一点、前立腺を狙って執拗に穿った。
「あぁ、きもちいい……長谷部くんもこっち元気になってきたね、お尻でされるの好きになっちゃった?」
「う゛ぅ……! そ、そんなのいえるか……ァんッ!」
「後ろは嫌かな。じゃあさっきみたくおちんちんだけ弄ろうか?」
 律動を止め、長谷部くんの勃ち上がりかけた前を弄ぶ。砲身を擦れば素直に硬くなった。ただ長谷部くんは快楽を得てるにもかかわらず、何故か困ったような、悩ましげな表情を浮かべていた。何故だろう、不思議だなあ。

「ぅ……みつただ……」
「うん?」
「はぁ、おまえは、動かなくていいのか……」
「ああ。まずは長谷部くんが気持ちよくなってからね」
 喜々として答える僕とは裏腹に、長谷部くんの顔はますます曇る。
「……いい」
 か弱い。下腹部から聞こえる水音よりも、その声は小さかった。
「おしり、きもちいぃから……いっしょに、して」
 涙ながらに請われ、胸の辺りがぎゅうと締めつけられる。僕は馬鹿みたいに腰を振って、望んでいた通り長谷部くんの腹を蹂躙した。

「ああ、ぁ゛ッこれ、すきッ! 中めちゃくちゃにされるの、すぎぃッ……!」
 顎をそらし、長谷部くんはとうとう恥も忘れて欲に溺れた。男を知ったばかりの後膣は慣れないなりに健気で、受け入れた異物の凹凸全てに応えてくる。
 僕も余裕なんて一切ない。往復するたび熱が増して、絡みつく肉襞に精子を叩きつけることしか考えられなくなった。

「長谷部くんッ、ねえッ……中と外、どっちに出せばいいッ……?」
 奥まった壁を突きながら長谷部くんに選択を委ねる。もはや母音を連ねるだけになっていた彼だが、途切れ途切れになりつつも答えを振り絞った。
「なかッなかァ……! ぬくな、ぁッ、なかに、ぜんぶよこせ……!」
 抱えていない、長谷部くんの右脚が腰に纏わり付く。欲しい言葉を貰った僕は一心不乱に肉壺を抉った。うなじの裏あたりが燃えるように熱い。

「はあ、ぜんぶ、のみこんでねッ長谷部くん……!」
 限界を悟り、腹の奥に付け根まで全てを収めきる。精液が迫り上がるのと同時に、長谷部くんの裏筋を一際強く嬲った。
「ッ! ぁ、ひぁ……あッあぁぁ……!」
 中に出されながら長谷部くんも背を反らし、二度目の絶頂に至った。極めて悶絶する腸内は容赦なく男の種を搾り取っていく。こんな長い射精は初めてだった。未だ吐き終わらず我がことながら呆れていた矢先、長谷部くんと目が合った。

「……はぁ、まだ出し足りないのかすけべ」
 本当に、この悪癖は何とかしないと手遅れになる。再び力を得た分身と共に、必ずやへし切長谷部なる青年をわからせてやることを誓った。