あいに金を散らして隅田川 - 3/3

 

■■■

 

 僕が目覚めるのは、いつも夜だった。
 まだ意識が夢と現とをさまよう中、右手を動かす。痛みはない。芯金ごと折られ、二度と刀を振るえぬはずだった身体は壮健そのものだった。

 寝台から身を起こし、窓の前に立つ。記憶していたより月は右側を欠いていた。彼が飛び降り、僕が斃れてから数日は経過している。
 奇妙なことに、浅草の投身自殺が紙面を騒がせることはなかった。
 そもそも、××××の死は報道されていない。店は畳まれず、プランターの花はいよいよ瑞々しく軒先を飾り立てている。階上の家も誰か出入りしているようで、冷蔵庫の中身は増減を繰り返していた。

 友人は、生きているのかもしれない。
 確かに僕は彼の死を見届けた。しかし、同じ日に破壊されたはずの僕がこうして生きている。
 歴史は歪められた。渦中にありながら、力及ばず、後手に回ってしまったのは情けない限りである。

 再戦を望もうにも、相手の目的も規模も掴めていない。友人の死が否定されたなら、糸口はきっとそこにあるのだろう。漠然とした言い方にもなる。目覚めてから、僕は一度も彼と出会っていない。ここは他ならぬ彼の家だというのに、住人の姿はどこにもなかった。

 東京の灯は絶えない。この時代は昼夜を問わず様々な娯楽を楽しめる。言い換えれば、いつどこで誰の目が光っているか知れたものじゃない。
 歩くたびに草摺や袖が鳴る。見るからに異容な風体をしながら、大通りを行く僕は誰にも咎められなかった。

(まるで幽霊みたいだな)

 我ながら笑えない冗談である。敷石に影一つ落とさず、夜ごと自分を殺した相手を探す。なるほど怪談としてはありふれている。足りないのは悲鳴をあげる一般人くらいだ。
 飲み歩く社会人、刹那の刺激を楽しむ若者。彼らの肝を冷やすには及ばず、僕はそっと踵を浮かせた。
 街灯を足がかりに、高所から高所へと移り、風を切る。すこぶる動きやすい。ただ索敵にのみ集中できる環境もさることながら、手足が異様に軽く思えた。

 ガラス張りの斜面を駆け、やっと平地に立つ。地上より約四百メートル、東京を一望するのにこの塔ほど適当な場所はない。
 微風が髪を散らす。大気は生温く、ほのかに湿っていた。おそらく雨が近い。降り出せば視界も足場も悪くなる。今晩は早めに切り上げるべきだろう。焦ることはない、時間だけは有り余っている。

(どうも浮き足立ってるな)

 理屈を捏ねて自分に言い聞かせているのが何よりの証左だ。僕は苛立っている。敗北を喫したこともそうだが、あの夜から続いている、帰巣本能にも似た衝動が今の僕を突き動かしていた。
 未だに仲間の顔も本丸の名も思い出せない。確かなのは僕が歴史の守り手であったこと、誰かと交わした約束の二つだけだ。
 あくまで前者は情報としての認識だが、後者は違う。記憶の片鱗に触れるたび、胸の奥底がじんわりと熱を持つ。きっと僕は約束の相手を特別に想ってたんだろう。内容も定かでないのに、妙な自信があった。
 絶対に帰る。帰らなければならない。

 拳を握って都市の残り火を検める。鼻先を雫が叩いた。地表にまだら模様が広がり、やがて隙間なく灰色に染めていく。一帯を白い線条が覆い尽くした。
 文字通り決意に水を差されてしまった。それでも歯痒さに足を止め、未練たらしく仇の姿を追い求める。
 祈りは通じた。身を捩り、背を狙った奇襲を躱す。
 長い尾が雨を薙いだ。刃を咥えた異形の刀は宙を舞い、こちらから距離を取る。

(苦無か)

 できれば日中に遭遇したかった。宵闇を味方につけた彼らの一撃は容易く急所を突く。
 再び骸の身体が迫る。しなる鞭が頭上を過った。屈んだ姿勢のまま鞘を払う。刃先は肉を掠めず、互いの間に飛沫を散らして終わった。
 暗雲が天上を覆い、敵影も闇に溶ける。それでも白刃ばかりは雨を弾き、都市の光を健気に照り返した。切り結ぶ軌跡はなお明るく、相手の位置を見誤ることはない。
 幾度かの打ち合いを経て、また十歩の距離が空く。近く、靴底が水溜まりを叩いた。

「新手ッ!」

 咄嗟に退き、中空に逃げる。僕の首があっただろう場所に別の、打刀が一閃を加えていた。
 雨と並行し地上を目指す。二振りもまた僕を追って塔から下りた。
 苦無はもちろん、援軍の刀も十分に速かったが浅草は今や僕の庭だ。数の不利は地の利で補うとしよう。捲いたところで各個撃破、向こうが追撃を諦めるようならそれも良し。

 時間遡行軍が現れた。つまり敵は未だ目的を果たしていない。いずれあの太刀と相見える機会もあるだろう。借りは必ず返す。さらに交戦を繰り返せば、その記録は本丸にも届くはずだ。
 道は定まった。××××の安否を確認し、敵を駆逐しながら迎えを待つ。
 もし友が生きているなら、なんと声を掛けるべきなのか。息子の死は彼と彼の家族の問題で、門外漢が立ち入ることはできない。ただ一枚噛んだ身として、新メニューの完成だけでも見届けたい。
 彼のお陰で料理をする楽しみを思い出した。刀以外にああも握り心地がしっくりくる道具があったなんて驚きだ。

 きっと僕も誰かのために料理を作ってたんだろう。人の身を得て、できること、やりたいことがたくさん増えた。そのうちの一つだって諦めるつもりはない。
 ぬかるみを超え、歩を緩める。仮住まいは雨垂れに打たれるまま、沈黙を保っていた。

 七月も下旬、雨期を経た東京は日増しに暑くなっていく。
 ふと街角の電光掲示板を見上げる。画面の端に、祭典の日時を告げる文句が踊っていた。
 数年ぶりの開催になるせいか、隅田川の花火大会は例年以上に注目を浴びているらしい。誰よりもその日を楽しみにしていた友は、未だ行方が知れなかった。

 代わりに再会を果たした人物がいる。
 へし切長谷部。彼の信長公に号を与えられ、黒田官兵衛に下賜された長谷部派を代表する刀。
 つい先日、彼と対峙した。長谷部くんは敵と、時間遡行軍と行動を共にしていた。歴史を守る刀剣男士にあるまじき振る舞いである。あの潔癖で、真面目で、一本気な刀に背信という言葉は似合わない。
 ただ主に忠実な彼のこと、事実を知らされず造反に加担しているとすればさもありなん。

 再会とは言ったが、彼とどんな関係を築いていたか記憶に無い。しかし僕が長谷部くんを、あの刀を好ましく感じていたのは確かだ。
 傷つけたくはない。刃を交えずとも解る。今の僕は、彼より強い。だが手加減していなせるような相手でもない。自衛で刀を振るえば、長谷部くんは折れてしまうだろう。
 とはいえ、あまり彼にかまけていれば敵に足を掬われる。軽く脅しつけて、前線から退いてもらう。今はその手に頼る他ない。

 長谷部くんを斬った。軽く肩を裂いた程度だが、続けて戦場に立つのは厳しいはずだ。明くる夜、彼の姿は見えなかった。安堵し、偵察に努める。その晩の東京は静かだった。
 収穫を得られず、店に戻る。僕を迎える声はない。家主はいったいどこへ消えたのだろう。彼が自宅以外に身を寄せるとしたら、実家か或いは別れた妻の下か。
 友が自死を選ばずに済んでいるなら、もしや彼の息子も健在なのだろうか。
 調べようにも活動できるのが夜間のみ、しかも一般人に視認されないのではお手上げである。

 長谷部くんのこと、友人のこと、懸念すべき事項は多い。本丸からの便りが恋しいが、まだ皆は僕を見つけられていないようだ。
 次に「おかえり」と言ってもらえる日が来るのは、いつになることやら。

 いつになく安らかな夜だった。微睡みが心地良い倦怠感をもたらし、覚醒を遠ざける。名残惜しいが、真夏の太陽は気が早い。渋々と上体を起こし、瞼を軽く擦った。
「……は」
 もう一度擦る。指の合間から有り得ないものが見えて、深く息を吸った。

 白い。軽く曲げ、やや窮屈そうに寝台に収まっている脚は夜目にも白かった。しなやかな肢体を隠す衣服はなく、生まれたままの姿を晒している。
 あちこちに情痕の散らばる肌を眺め、横たわる彼の顔に恐懼した。
 どうして、長谷部くんがここにいるんだ。眠りに就く前、間違いなく他に人はいなかった。当然ながら彼を褥に連れ込んだ覚えもない。心を許しきった、これほど穏やかな寝顔を僕は知らない。

「はせべくん」

 剥き出しの肩を掴み、揺さぶる。いくら熟睡しようと戦場に慣れた身は危機に敏い。長谷部くんは獣じみた動きで身を起こし、鞘を払った。
 神速で放たれた一刀を躱す。飛びのきフローリングに膝突いた。刃先を掠めた紐が一房、遅れて床に落ちる。
「貴様」
 ひどく荒々しい声が僕を呼ばわった。武器を構える腕の付け根、長谷部くんの左肩は包帯で覆われている。怪我の報復に燃えているのか? いや違う。負傷したへし切長谷部は嗤う。一対一の応酬で憎悪を持て余すような刀じゃない。

「光忠をどうした」
 血を吐き出さんばかりの詰問が肝を潰す。あらゆる五感が遠のき、血潮という血潮が凍えた。
 光忠。みつただ、その名は、刀は誰のことだ。長船光忠の打った刀は枚挙に暇がない。逸話に富み、へし切長谷部と縁ある刀も少なくないだろう。
 頭が痛い。皮膚の下、灼けた鉄を直接ねじ込まれるような苦痛が渦巻く。

「折ったのか。貴様が、あいつを二度までも!」
 大喝を喰らい、知らず胸を押さえる。一度風穴を空け、塞がったはずの肌から何かが漏れた。

 そうだ、僕は二度折れた。
 一度目は××××の自殺に初めて出会したとき、二度目は友を救おうとした未来の自分に襲われたとき。

 不意打ちを受けた燭台切は寸でのところで踏み止まった。最期の力を振り絞り、急襲した苦無をすかさず討ち取った。
 しかし戦果を挙げたとて相当な重症である。帰還を選択した燭台切の判断に非はない。ただ機器は指定された時代へ彼を送り届けなかった。誤作動の原因はおそらく、同一の刀が同じ時間、同じ場所に存在していたためだろう。
 転送を待つ間に力尽きた太刀は、刀身の半ばほどで二つに折れてしまった。御守りが発動し、転送の処理が済んだタイミングはほぼ同時だった。
 破片の先端は過去に飛び、残りの半分はその場に留まった。治療の途中で別れたためか、いずれの燭台切も自己および他者への認識能力が著しく損なわれた。
 過去に飛んだ僕の大きさは、刀種でいうと短刀ぐらいの長さだったのだろう。妙に身体が軽く感じたわけだ。修行を経た太刀を一撃で追い込んだのも頷ける。
 問題は留まった方の僕だ。柄を含む残りの刀身と、破壊した未来の自分の断片。歪な鉄塊を繋げるのに、御守りは世にも悍ましい仕業を見せた。託された店を守らねば、という想いに反応してか、肉の継ぎ目に友の遺骸を用いた。

 今こうして長谷部くんと向き合っているカラダは、××××の屍肉が混じっている。

「長谷部くん」
 返事の代わりに切っ先が踊った。どうにか鞘で受けて十字に組み合う。

「長谷部くん、僕だよ」
 刀越しに呼びかける。勢いは些かも削がれず、殺意はより烈しく鋭くなっていった。
 相手の息遣いすら届く距離。本丸で過ごした日々のうち、これほど彼と近づけた時間があっただろうか。

「うるさい、光忠は、俺の光忠をどこにやった……!」
 眦を決し、歯を食いしばり、長谷部くんは激情のままに叫んだ。彼我の差も弁えず、無為に刀を振るう姿が痛々しい。

「僕はここにいる!」
 声高に主張してみせても剣勢は衰えない。きっと僕の告白は化生の咆哮にしか聞こえないんだろう。長谷部くんの攻撃を凌ぎきれなくなったが最期、武器を抜けばどちらか一方は折れる。

 じゃあ諦めるか? 冗談じゃない。自分の不始末を好きな子に押しつけ、死などと安易な解決に縋ってなるものか。
 そもそも半分では片手落ちだ。腹を切って詫びるなら、何も知らず寝こけている自称店主にも話を通すべきだろう。

 攻防の間隙を縫って窓辺に近づく。長谷部くんから視線を逸らさぬまま、ベランダに転がり出た。
 屋根を駆け上がり、暫し待つ。一拍置いてすぐに濃紫の戦装束が目に入った。
 東の空はまだ昏い。夜明けまで猶予はあるが、目指す先はなお遠かった。それでも彼の脚なら十分間に合うはずだ。

 月を遮る雲は薄い。この分なら明後日の花火大会も期待できるだろう。
 浅草で過ごす最後の夜だ。どうか晴れますように。

 

□□□

 

 好いた男の腕を枕にし、後朝の余韻に浸る。夢想していた悦びは、光忠の蒸発という形で水泡と帰した。
 成り代わるように現れた宿敵をどうして疑わずにいられようか。何事か喚き散らす短刀に斬りかかったが、全て受け流されてしまった。
 忌々しい。反撃の一つもしてみせれば良いのに、相手はのらりくらりと躱すばかりで守勢を崩そうとしない。

 治りたての左肩が疼く。あの苦無が本気を出せば、俺を斥けるくらい造作も無いだろう。
「馬鹿にしてるのか貴様ッ……!」
 渾身の力で骸の腹を狙う。剣圧と夜風がぶつかった。開いた窓の外、長い胴体が振り子のごとく揺れている。武具を纏い、急いで後を追った。
 やつは屋根の頂にいた。俺を認めるなり尾を翻し、またどこぞへと去ろうとする。逃すものか。あの無防備な背、へし折ってやらねば腹の虫が治まらない。

 川を下るように標的は南行する。地上に降り、無人の沿岸をひた走った。
 対岸の車を追い越し、二百メートルほど置いて蔵前橋のアーチが迫る。緻密な骨組みは煌々と照らされ、直視するには些か眩しい。追われる立場になればなおさら、意識を背後に取られ、頭上を警戒する余裕など失せるだろう。

「上から来るぞ、気をつけろってなぁ!」
 飾り羽根を中空に散らし、太刀が異形を絡め取る。路面を貫く衝撃がこちらにも伝わった。白くゆったりとした袂が敵ごと包み隠す。暴れる苦無の首根っこを抑えつけ、鶴丸は俺に目配せしてみせた。

「おいおい長谷部、一対一での戦闘は御法度だって主にも言われてただろ? きみひとりの身体じゃないんだ、自重してくれよ」
「突出した件については謝罪する。が、どうしてここが解った」
「なあに。たまたま光坊の店近くを偵察していたら、たまたま奴さんが現れたってだけだぜ」
「最初から俺を張っていたと。数で劣っているなら弱卒、もしくは手負いから攻めるのが効率的だものな」
「やめろやめろ、俺がひとでなしみたいじゃないか。怪我してるきみを心配してたんだぞ~逢い引きの最中に襲われたら事だと思ったんだぞ~」
「安心しろ、その懸念は杞憂じゃなかった。ついでに言わせてもらうなら手遅れだとも」

 目を丸くしている鶴丸の元に一歩一歩近づく。あの短刀の首を落とし、光忠の無念を晴らす。目の前で凶事が起きているにもかかわらず、のうのうと寝過ごしていた己の何と不甲斐ないことか。せめて仇ぐらい討たねば地獄であいつに合わせる顔がない。
「光坊は、どうした」
「姿が見えない。一緒にいたはずなのに、目覚めたときにはその化物が我が物顔でふんぞり返っていた」
 刀をふりかぶる。途端に苦無がのたうち回り、捕縛の手を逃れた。構わず踏み込んだが、遅い。刃先は鉄の表層を掠めるに留まり、無防備な懐を晒してしまう。

「ぐっ……!」
 首周りから胴にかけて棘が纏わりつく。引き剥がそうと試みるが、体躯に見合わず異常なまでに力強い。俺の窮地を見かねてか、街路樹の陰から太鼓鐘、大倶利伽羅も飛びだした。
 敵は盾である俺から離れない。計算通りだ。此度の遠征に際し、主から新しく御守りを賜っている。後は俺ごと苦無を貫けば不毛ないたちごっこからは解放されるだろう。

 やれ、と目で合図する。応じた大倶利伽羅をしかし、鶴丸が押し止めた。何のつもりだ。この作戦は皆で話し合い決めたことで、いまさら哀れみだの同情だので刃を鈍らせてもらっては困る。

「光坊が目的なら襲う機会は腐るほどあったはずだ。長谷部を折るつもりなら、寝ている間に仕掛ければ良かった。なあ、きみはいったい何がしたいんだ」
 言葉が通じるはずもない畜生に、鶴丸は滔々と語りかける。動揺か、困惑か、身体を縛る枷が少し和らいだ。

「この時代で発見できた時間遡行軍はきみだけだ。お偉いさん方を狙うでもなく、夜に単騎で迎撃を繰り返すだけ、ってのも腑に落ちない。この状況、どっちが優位かなんて説くまでもないよな? 長谷部はとうに覚悟ができてる。だが手品の種は明かしたくなるものだろう。どうだ、ここは一つ腹を割って話そうじゃないか」
 言うなり、鶴丸は本当に武器を収めた。他の二振りにも退くよう静かに訴えている。俺は、ほとんど力が入らない身ながら、やはり得物を捨てられなかった。

「長谷部クン」
 いつも快活な太鼓鐘が妙にしおらしい。大倶利伽羅は何も言わない。ただ敵との心中を申し出たときと同様、微かに眉を曇らせていた。
 解っている。今こいつを折ったところで光忠は帰ってこない。己の失態を挽回できるわけでもない。仇を討とうと躍起になっているのは、単なる八つ当たりに過ぎなかった。光忠を二度も失った事実に耐えられなかった。現実から目を背け、喪失感を忘れさせる口実が欲しかったんだ。
 拳から力が抜ける。刀が滑り落ちるのと前後し、拘束が緩んだ。俺を解放した苦無はつかず離れず、傍らに佇んでいる。

「頼む」
 俯き、頭を垂れた。

「お前が仇じゃないなら、何か知っているなら教えてくれ。俺はどうしても光忠を諦めたくない」
 藁にも縋る思いで懇願する。足下まで連なった骨がじわりと滲み、視界から失せた。
 一度瞬きを挟んで面を上げる。苦無は逃げず、橋のたもとで後続を待っていた。

 夜通し駆け続け、とうとう東京の郊外に出る。水先案内人の足が落ち着いたのは、高尾山の麓辺りだった。古くから霊山として敬われただけあり、随所に人の手が入っている。観光地化されて久しい町だが、日の出前はさすがに森閑としていた。
 大路を横切り、畦道を行く。瓦葺きの家が増え、夏草が香りだす。山際に東雲の色合いを見た。のっぺりと影絵じみた住民が一人、また一人と田畑に出てくる。
 どうにか人目を避け、苦無に付き従う。空はすっかり暁を払い、夜が明けた。
 引き戸の格子が鮮やかに浮かび、その上に貼られた用紙をことさらに目立たせる。

「忌中」

 表札に掲げられた名字には見覚えがあった。
 光忠が扮する店の主、××××氏の妻は健在である。彼女の生家は都心から約三時間ほどの、片田舎に位置していた。流行病のために父子は長らく会えず、遂に今生の別れとなった。
 子息の夭折については、先日の調査で既に聞き知っていた。肝心の光忠がそれを知らないのに矛盾を覚えつつ、真実を伝えるのは憚られた。敵の挙動を探る意図もあったが、何より光忠を戸惑わせたくなかった。
 文字が踊るとは、まさにあのことだろう。花火大会の日時を丸く囲み、待ち合わせに備えるカレンダーの記述は、赤の他人でさえ感じ入るものがあった。

 俺の懸念は、光忠自身の手によって現実となった。
「……光忠」
 矛を交えた旧敵の姿は既に無い。一晩行方を眩ましていた男は、ずっと俺たちの近くにいた。

 

■■■

 

 全てが白昼夢の出来事だった。
 目が覚めたら外にいて、鶴さんたちも一緒で、妻の実家まで来ていて、息子はとうに死んでいた。
 僕と初対面のごとく接する妻も、仏壇の前で手を合わせる自分も、まるで現実味がない。
 突然の弔問に驚いていた妻だが、××××の友人と知ってからは細やかな応対をしてくれた。夫婦仲は冷めても家族としての情は残っているらしい。元夫の話題となると熱心に耳を傾けた。涙ながらに息子の事故死を語る様を、僕はどこか他人事のように聴いていた。

 事実、他人だった。僕は××××のふりをしていただけで、彼自身ではない。線香の煙が遺影を別ったとき、ようやく思い至った。

 電車に揺られ、遠ざかる山稜を望む。よほど疲れていたのか、貞ちゃんたちは二駅目を過ぎたあたりで寝入ってしまった。平日の午前、東京行きの車内はがらんとしている。起きているのは、僕と長谷部くんだけだった。
「一日」
 僕の呟きを拾い、隣り合っていた肩が身動ぐ。

「一日だけ待ってほしい。やるべきことを終わらせたら、必ず本丸に帰る」
 ああ、と短く応えが返る。詳細も尋ねず、一切を委ねてくれる姿勢に信頼を感じた。

「それともう一つ。明日、夕方までには店に来てくれないかな」
「……こいつらもか?」
「勿論、君ひとりで」
 息を詰めた気配がする。しばらく沈黙が続き、車輪の枕木を踏みしめる音が間を繋いだ。そっと隣を盗み見れば、煤色の頭は項垂れ、スラックスの生地をいたずらに引っ掻いている。

「蔵の中で想像するだけだった隅田川の花火大会、初めて見るなら君とがいい」
 こんな願いを抱いたせいで、二度も折れて浅草に留まる羽目になったのだろうか。胸中の疑問に答えられる者はいない。いずれにしろ、僕が今欲しているのは真実ではなく別の答えだった。
 くい、とシャツの裾を引っ張られる。長谷部くんは俯いたまま何も言わない。紅潮したうなじが上下に、僅かに揺れた。小さな、それでいて確かな肯定に愛しさが募る。

 これで恐れるものは何も無い。僕が惚れた刀はきっと最後までやり遂げてくれるだろう。

 

□□□

 

 本丸への定期連絡を済ませ、帰還の準備を進める。伊達の面々に「滞在は明日まで」と告げると、一振りを除き不満たらたらであった。

「まだ夢の国に行ってないし、ハチ公の鼻を撫でてもいないぞ!」
「俺も原宿や渋谷をもっと見て回りてぇな~ほら皆へのお土産も買ってないし」
「観光に来たわけじゃないんだが」

 地図を広げ囃したてる連中を尻目に、淡々と荷を片していく。こうして見ると、行きより随分と私物が増えた。その多くは昨日購入したばかりの、光忠に選んでもらった服が大半を占める。
 ふたりで浅草を歩き、買い物をし、料理をし、恋仲になった。そこから一悶着あって、敵の正体が判明し、光忠の記憶も戻った。
 これら全てが一日のうちに起こった出来事とは未だに信じがたい。終わってみれば己に都合が良い話ばかりなのも疑惑に拍車を掛けている。やはり俺は夢でも見てるんじゃなかろうか。

「だがまあ、主に贈り物をするのは賛成だ。燭台切を迎えに行くまで時間はあるし、夜までたっぷり吟味するとしよう」
「は? 長谷部クンは別行動だろ。明日は浅草どこも混んでるだろうし、移動するなら早めがいいぜ」
「えっ」
「見物客が多すぎて飲食店は軒並み予約制か休みになるらしいからな。いっそ昼も向こうで食べたらどうだ? その方が確実だし光坊も喜ぶぞ」
「……」
 寝たふりか。そうか聞いてたのか。じゃあ昨日あったことは紛れもなく現実で、光忠との仲は既に皆の知るところになっているわけだな。憤死案件だが?

「少し外の空気を吸ってくる」
「エアコンが恋しくなったら帰ってくるんだぞ~」
 野次めいた声を背に受け、ベランダに出る。建物がひしめきあう都心の空は狭い。手すりにもたれたところ、暖色と寒色のせめぎ合いは後者に軍配が上がりつつあった。

 夕焼けは少しだけ、あいつの眼に似ている。燃えるような火の色、燭台に据えた明かりは穏やかでもあり、時に激しく映った。
 仲間を気遣える優しさを尊敬した。食べる側に配慮した料理が好きだった。添えられた手紙に「長谷部くんへ」と宛名があるのが嬉しかった。他の誰でもなく、俺を選んで花火に誘ってくれたことが、どうしようもなく喜ばしかった。
 避け続けてきた約束も、今なら果たせるかもしれない。たとえ修行で得た答えが望ましいものでなかったとしても、光忠がくれた誓いを俺は信じていたい。

「長谷部」
 窓が開く。室内の涼気が一瞬だけ足を浚い、すぐ霧散した。大倶利伽羅の方から話しかけてくるとは珍しい。明日は雨か。花火大会の当日じゃないか、勘弁してやってくれ。

「どうした、お前も夕涼みか」
「違う。御守り、まだ持ってるか」
「ああ。任務も終わった今となっては無用の長物だがな」
 また特攻でも仕掛けると思っているのだろうか? 大倶利伽羅は最後まで囮に反対していた。一匹狼を気取ってはいるが、こいつはこいつなりに仲間を慮っている。光忠が認めた友は、良い刀ばかりだった。

「心配せずとも帰城したら主に返すさ。修行も終えてない俺には、身に余る代物だ」
「そんな心配はしていない。持ってるならいい、しばらく手放すな」
「もう戦闘を行わないのにか」
「刀が折れるのは、何も戦闘に限ったことじゃない」
 不吉なことを。今日明日で東京全土を巻き込む大禍でも起こるとでも言うのか。そのような規模の災害は後世、記録されていない。刀剣男士を破壊する規模の脅威なら、一朝一夕で準備できるものではないだろう。
 勝って兜の緒を締めよ、とは聞くが大倶利伽羅のこれは行き過ぎている気がする。

「誤解するな、あんたが下手を打つとは思ってない。気がかりなのは、光忠の方だ」
「まさか自害でも疑ってるのか? 俺よりお前たちの方が余程長い付き合いだ。ならそんな馬鹿げた真似する刀かどうかも解るだろう」
「ああ、何度も同じ戦場に立ってきた……光忠はろくでもないことを考えついたとき、ああいう目をする」

 手すりが軋む。微風を受けた茶褐色の髪が泳ぎ、大倶利伽羅の横顔を覆った。この打刀は表情こそ乏しいが、感情の機微には存外富んでいる。数週間とはいえ、同じ釜の飯を喰らい、起居を共にした。先刻の眼差しに虚偽が含まれていなかったこと、今の俺が見落とすはずがない。

「面倒だろうが付き合ってやってくれ。この仕事は多分、あんた以外にはできない」

 ベランダにひとり取り残される。黄昏は既に儚く、地平との境目に追いやられていた。

 

■■■

 

 晴天で迎えた大会の直前は相も変わらず蒸し暑い。空調を効かせた店内でも、火を扱っていれば当然汗ぐらい掻く。
 とはいえ、普段は鬱陶しい熱気も祭りの前だけは妙に憎めなくなるから不思議だ。窓の外から届く声はどれも楽しげで、たまに下駄の音が混じるのも趣深い。
 つられて僕のフライパンを操る手まで軽くなってしまう。宙を舞ったレタスとパプリカを揚々と受け止め、塩コショウを振った。
 熱したトマトとチーズが絡み、溶け合う。蓋を開けた途端に芳しい匂いがより濃くなり、空きっ腹の期待を一層煽った。

「お待たせ、今日のディナーは鯵のピザ風チーズ焼きだよ」
 長谷部くんの片眉がぴくりと上がる。最近できたお得意様は反応が実にわかりやすく、調理から給仕までやり甲斐しか感じない。
 遠く合図雷が上がる。大会開催まであと五分、続く号砲を耳にしながらビールを注いだ。

「花火を見ながら酒か。任務中には過ぎた贅沢だな」
「まあまあ、ちょっと早い帰還祝いってことで。それに長谷部くん行ける口なんだろ? おかわり沢山あるから遠慮せず飲んでほしいな」
「俺の酒量なんてどこから仕入れてきた」
「さて、織田かな? 黒田かな? 好きな方を選んでいいよ」
 掲げたグラス越しに向かいの席を覗き見る。気泡弾ける琥珀色の中、長谷部くんが唇をへの字に結んでいた。

「一度くらい君と飲んでみたくてね。どうにも機会を得られないままだったけど、事前知識を活かせる日が来て良かったよ」
「……お前、いつから」
「飲みの誘いって意味なら君が独り立ちした頃から、好意を自覚した時期ってことなら浅草で、君と戦ったときから」
 本丸で初めて会ったときから関心は抱いていた。それを強く意識したのは例の約束を交わした日で、慕情に繋がったのは敵として対峙した夜だった。執着自体は、もう少し早く始まっていたように思う。

「花火に誘っておいて鈍い男だな」
「気を揉ませてごめんね。で、長谷部くんはいつから僕のこと見てくれてたのかな? てっきり嫌われてるかと思っていたからさ」
「お前が折れてから」
「めっちゃ最近じゃん」
「自覚は俺の方が早い。何だったら修行の前から気になっていたし、胃はとっくに掴まれてたし、視界に入れば嫌でも目に留まったが?」
 負けず嫌いかよ可愛いな。この刀が僕に惚れてる事実を噛みしめていきたい。

「じゃあ改めて。長谷部くん任務お疲れさま、と花火大会の開催に乾杯!」
 互いの杯をかつんと合わせる。ちょうど窓の外で歓声が沸き、一発目の打ち上げを報せてくれた。青黒い空に光の輪が弾ける。先発が尾を引いていくのも待たず、矢継ぎ早に放たれた火が隅田川の水面を彩った。
 テーブル近くのライトを除き、部屋の照明は全て落としてある。それでも窓辺の席は月明かりをよく採り入れ、手元に困ることは無かった。
 赤光が華々しく散るたび、薄暗い室内も一瞬だけ鮮やかになる。花火のおこぼれを受けて青、赤、緑と染まる肌を見るのも楽しい。長谷部くんはすっかり浅草の空に釘付けだった。
 酒精を浴びつつ懐かしさに耽る。あの夜もそうだ。僕から誘ったのに、花火に夢中になっていたのは寧ろ長谷部くんの方だった。
 外が落ち着いて正面から長息が漏れる。やっと僕を視界に入れた長谷部くんは、ばつが悪そうにビールを呷った。

「楽しんでくれてるようで何より」
「綺麗だから仕方ないだろ」
「責めてないよ、誘った側としては嬉しい限りさ。さて今のうちにご飯食べておこう、料理が冷めると勿体ないからね」
 素直に箸をとった長谷部くんの眉間から皺が消える。一切れ、二切れと手付かずだったピザが瞬く間に消費されていった。ビールは側面に僅かな泡を残すのみである。出来は尋ねるまでもなさそうだ。

「デザートも用意してるから、甘いものが欲しくなったら言ってね」
 二杯目を注ぐさなか、再び極彩色の雨が隅田川に降る。窓と僕とを交互に見遣り、微笑む長谷部くんの姿に多少気が咎めた。

 二十時を回った。卓上のつまみもほとんど片付いて、お酒の減り具合もだいぶ緩やかになりつつある。
 大会も束の間の休憩に入ったようだ。次のプログラムが始まる前に空いた皿を下げ、予告していた涼菓と差し替える。三層の羊羹はしっかり固まっており、切り口も崩れず綺麗なものだった。

「お、前に持って来てくれたやつだな」
「ああ。お陰様で大会に間に合ったよ」
「……そうか、息子さんに出すつもりだったんだな」

 子供が喜ぶようにと、××××くんは和洋中問わず色んなレシピを試していた。結局彼は新作を完成できず、志半ばで自ら命を絶ってしまったけれど。
 ただ未来を捨てた友人にも未練はあったのだと思う。へし切長谷部の刀身を目にしたときの高揚感は、僕の執心とは別に、芸術を賛美する職人の叫びが混じっていた。翌る日に堪らずレシピ帳を開いていたのは、燭台切光忠の感傷のみで構成された衝動ではなかったはずだ。

「長谷部くんのお陰で完成したんだ。君に食べてもらえれば、彼も納得してくれると思う」
「大げさだな、単に味見しただけだぞ」
「それが違うんだよ。この羊羹はね、君の刀身から着想を得たんだ。炎にも雪にも見える、皆焼の刃文。あれを美しいと感じたのは、僕だけじゃなかったって話」

 天の川を模した羊羹は数多い。夜空を錦玉羹で表現してしまえば残りは作り手次第で、牛乳やレモンを使って層を分ける人もいる。
 僕が敢えて小豆と味甚粉を使ったのは、へし切長谷部の刀身を再現したかったからに他ならない。上から散らした金箔は星でもあり、花火でもあり、刃文でもあった。

「俺を参考にした菓子を俺が食べる。それで本当に故人の供養になるのか?」
「勿論」
 自信を持って頷く。長谷部くんは物言わず羊羹を見つめて、徐に楊枝をとった。友人の形見が小さく切り取られ、ゆっくり静かに咀嚼されていく。

「美味いよ」
 柔らかい笑みが金色で縁取られる。窓の向こう、閃光が役目を終えた白煙を追い越し、繰り返し花開いた。破裂音とはしゃぐ子供たちの声が交錯する。ああ、心の底から清々しい。

「その言葉が聞けたなら、もう思い残すことはないね」
 席を離れ、部屋の中央に立つ。花火は止まず、しばしば長谷部くんの背に光を投げかけた。陰で見えなくなった彼は今どんな表情を浮かべているのだろう。

「今の僕じゃあ本丸に帰ることはできない」
 確信だった。記憶が戻ってなお、僕は自らの意志で刀を喚ぶことすらできない。眠れば戦闘こそ可能になるが、帰還装置は僕を燭台切光忠とは認めないだろう。
 折れた刀の破片を人の身で無理矢理に繋いだ紛い物、それが今の僕だ。元に戻るためには継ぎ目の異物を除かなくてはならない。

「過去の自分を折ったとき、僕は友人の血肉を使って傷を癒やした。××××はもうこの世にはいない。僕は、僕たちはこの場にいるだけで誤った歴史を歩むことになる」
 どうして皆の姿が敵にしか見えなかったのか、今なら解る。歪んだ歴史を体現した己はその実、時間遡行軍と変わらない。狂っていたのは相手ではなく、僕の認識の方だった。

「帰還するには彼と別れる必要がある。文字通りね」
 胸のあたりに手をやり、介錯人にまなざす。もはや消えてしまった古傷をなぞり、幾度となく思い描いた願いを口にした。
「どうか君の手で、僕を殺してほしい」

 夜空が豊かな光点で塗される。花火が人々の熱狂を煽れば煽るほど、長谷部くんのかんばせは闇中に呑まれていった。

「本気で言ってるのか」
「本気だよ」
「ただ死体が増えるだけかもしれない。上手くいく保証なんて無い。それにもかかわらず俺に、お前に惚れているやつに、自分の首を跳ねろと言うのか」
「ああ」
「ふざけるなよ!」
 拳がテーブルを叩く。こぼれた酒が卓上を濡らし、布を伝って床に垂れた。広がる水溜まりから飛沫が散る。長谷部くんは僕の胸ぐらを掴み、激情も露わに言い募った。

「俺の知らないところで折れて、俺のこと忘れたくせに告白してきて、記憶が戻ったと思ったら今度は殺してくれだと!? そんな身勝手が許されると思うのか!」
 返す言葉もない。弁明せず沈黙を寄越せば、長谷部くんはますます憤って舌鋒を鋭くした。

「なにを黙っている……言い訳の一つもしてみせろ、自分で自分を折って皆に要らぬ心配を掛けて、全てをやりきったような顔でひとり納得して死ぬなんて認めないぞ。その半端な姿のまま主の前に引っ立てて、説教をくれた後に手入れ部屋へ押し込んでやる!」
 服を握る拳は震えている。長谷部くんも本当は解っているんだろう。戦場で拾う刀は敵を倒さなければ入手できない。穢れを本丸に持ち込むのは御法度だ。禊ぎを経ずして敗兵に居場所があろうか。
 僕に与えられた選択肢は二つ。この浅草でかりそめの生を過ごすか、本丸に帰るために三度目の死を受け容れるかだ。

「主なら、君を折らせまいと必ず御守りを渡すだろう。それを使えば、今度こそ僕は完全に復元できる」
 我らが主はどの刀に対しても分け隔てなく、平等に慈しみ、愛してくれている。修行を終えてない長谷部くんを出陣させるなら、事前に策を講じているはずだ。
「……俺を選んだのは、そのためか」
「まさか」
 友の意向を無視すれば、決行は別に今晩でなくとも構わなかった。僕以外の刀は帰還できるのだし、御守りの有無はさして問題じゃない。

「僕も、彼も、へし切長谷部に切られるなら本望だと思ってるんだよ」

 長谷部くんが初めて店に訪ねてきてくれたときから、僕らはずっと同じ考えだった。あの美しい刀に貫かれ、事切れるならば、それ以上の最期はない。
 肌をひりつかせていた怒気が失せる。すぐに息苦しさも遠のいて、長谷部くんの腕が力なく垂れた。

「お前たちは最低だ」
 直截な痛罵が胸元に落ちる。服に吸われた当然の文句を、寄りかかる体重ごと受け止めるのは、ほとんど義務に等しかった。

「俺のきもちを無視して、かってに期待して、聞こえのいい言葉ばかりならべて、こちらをだます。とんだ詐欺師だ」
 胸に埋まった煤色の髪を撫でつける。弱々しくなる語尾を励ますように、或いは宥めるように抱いた背を叩いた。

「これで俺にした仕打ちを、またきれいさっぱり忘れたら、二度と戻ってこれないよう念入りに叩き折ってやる」
「それは恐いなあ」
「ほんきだぞ、笑うなこら」
「そりゃあ笑うさ。僕はこう見えて約束は守る質なんでね」

 確かに今回の失態は言い訳のしようもないけど、自分に対して切った啖呵を忘れるほど僕は馬鹿じゃない。
 好きな子のためなら何度だって命を賭けてみせる。汚名返上を遂げず退場なんて無様はごめんだ。

 長谷部くんが僕から離れ、虚空を軽く薙いだ。鞘が床を転がり、抜き身の刀が一度だけ振るわれる。忽ち尋常でない熱が全身を巡り、見慣れた天井が白く染まっていった。
 冷たい枕を頭にし、やっと自分が倒れていることに気付く。一秒ごとに手足の感覚が薄らいで、もはや頬に当たる雫さえ拭えない。

「ああ……」
 花火はまだ続いている。星屑に紛れて天を輝かす光を想い、僕たちはそっと目を閉じた。
「今年の花火大会も、綺麗だったな――」

 令和五年七月三十日。
 早朝、浅草の飲食店にて店主の遺体が発見された。店内の一部は荒れた様子で、他殺の可能性が疑われたが、検死の結果死因は心臓麻痺であることが判明した。三階の自室から遺書らしきものが見つかっており、警察は自殺の方向で調査を進めている。

 

□□□

 

「貞ちゃん! 長谷部くん見なかったかい」
「見てないぜー」
「そう、ありがとう!」

 どかどかと慌ただしく足音が去っていく。息を潜め、出て行くタイミングを窺っていると先に襖の方が開いた。
「みっちゃん行ったぞ長谷部クン」
「恩に着る。助かったぞ太鼓鐘」
「いやま、俺は面白いからいいけどよ。いい加減みっちゃんが可哀想に思えてきたし、仲直りしたら?」
「まだ三日しか経っていない」
「もう三日だろ。食事や風呂の時間までずらしてよくやるぜ」
 呆れた様子で太鼓鐘は手元の機器を弄う。素より、この短刀は自他ともに認める光忠の相棒である。事情を汲んで協力してもらってはいるが、本来なら親友の肩を持ちたいところだろう。

 遠征から戻って六日、互いの手入れが済んで三日。先の指摘通り、俺は光忠を避け続けていた。
 理由は語るまでもない。俺は怒っている。他に適当な手段は無かったし、××××氏の件もあったし、無事に皆で帰還できたとはいえ、惚れた弱みに付け込まれた気がしてならいないのだ。

「大人になれ、って外野が雑に宥めるもんでもないしなあ」
 と、鶴丸某にも匙を投げられている。放任主義の大倶利伽羅は言わずもがな。浅草の騒動を終えてなお、俺たちは追いかけっこに勤しんでいた。

「で、実際どうするわけ? このまま二振りして偵察と隠蔽をガシガシ磨いていくわけにもいかねえだろ?」
「……一応、考えてはいる」
 そのためにも主にお目通り願いたいのだが、政府への報告で今は留守にされている。戻ってくるのは午後、その時分には光忠も厨に詰めているはずだ。この機を逃す手はない。

「へえ~みっちゃんしつこいし面倒くさいからいずれ捕まるだろうけど頑張れよ!」
 お前の相棒はホラーゲームの怪異か何かか?
 礼を告げて太鼓鐘の部屋を辞す。あと三時間ほど置いたら主を訪ねよう。それまでは織田を買収するなり、粟田口に頭を下げるなりして、当面の安全を確保するとしよう。

「突然すまない、博多か薬研はいるか」
「僕がいるよ」
 初っ端から選択を誤ったらしい。粟田口を頼ったつもりが、彼らが利用している広間にはラスボスしかいなかった。いやおかしいだろ。リポップの位置ミスってるぞ調整しろ開発。

「粟田口の皆なら庭でヌン茶を満喫してるんじゃないかな。たまたま、お茶とお菓子をたくさん貰ったんだって」
 お前の仕業だな? 薄々勘付いてはいたが、さてはこいつ目的のためなら手段を選ばない質だな?
「謝る機会すら与えてくれないんだから仕方ないだろう」
「思考盗聴やめろ」
「長谷部くん結構顔に出てるからね、そういうところも可愛いよ」
 ひとの手首を掴んで言う台詞ではない。あとさすがに太刀だけある。力を入れてみても全く振りほどける気がしなかった。

「顔が見えてなくても根が素直だから解りやすいけどね。あのときも泣かせてしまって、ごめん」
 余裕ぶった態度から一転、光忠の声色が硬くなる。あれほど腹に据えかねていたのに、男の下がった眉を見るや、滾っていたはずの怒りが萎えていく。だから会いたくなかったんだ。正面きって謝られたら、俺はどうしたって光忠を許してしまう。
「……お前に当たるのはお門違いだと、理解してはいた」
 確かに惚れた男を切るなんて金輪際お断りだ。とはいえ、介錯を俺以外の刀に頼んでいたら、それはそれで複雑だっただろう。矛盾極まる本心を自分でも扱いかねて、つい光忠に恨み節をぶつけてしまった。鶴丸の言う通り、なんとも大人げない話だ。

「自分の中で折り合いがつかないからとふて腐れて、子供みたいな態度を取ってしまった。俺の方こそ、すまない」
「いいんだよ。君が怒るのは当然だし、迷惑掛けてばかりの僕が悪いことには変わりないんだから」
「光忠……」
「長谷部くん」
 近づいてきた顔に頭突きで応ずる。それなりに有効だったようで、光忠は額を押さえて悶絶していた。

「良い雰囲気だったと思うんだけどなぁ……仲直りには絶好のタイミングだった気がするんだけどなぁ……!」
「いやすまん、嫌だったとかそういうのではなくて、話! まだ大事な話があるから待ってくれ」
 ここで口を吸われようものなら当分は舌が回らなくなる。下手すれば主に会うどころではなくなり、せっかくの計画が水の泡だ。俺は絶対伊達男の誘惑なんかに屈したりしない。

「浅草の一件で、俺は自分の力不足を痛感した。もし光忠が戦場で危機に陥ったとして、今の俺では救助はおろか援軍に向かうことすらできない」
 捜索隊も情に訴えての同行であり、実力を評価されたわけではない。特殊な背景のない、いつもの時間遡行軍が相手であれば、俺は仇も討てず破壊されて終わっていた可能性もある。

「俺はずっと逃げてばかりだった。光忠との約束からも、己の不甲斐なさからも。だが他ならぬお前が、光忠が俺を選んでくれるなら、現状に甘んずるわけにはいかないだろう」
 もっと強くなりたい。主のために、皆にとって背を預けるに足る仲間に、光忠の隣に立っても恥ずかしくない刀になりたい。

「俺は修行に出たい」
 真っ直ぐ、金のまなこを見据えて、宣言する。

「己自身を見つめ直し、強くなって、改めて光忠の覚悟と向き合いたい。そう思って、修行の許可を頂くまでは接触を避けたかったんだ、が」
「僕に一言もなしに修行に出るつもりだったって……? へええ……」
「真顔やめろ怖い。会ったら絆されるのが目に見えてたし、それで決心が鈍ったら困るだろ」
「君がその程度で意志を曲げたりするもんか。長谷部くんはもっと自分に自信を持ったっていいんだよ」
「……会ったら、修行でしばらく離れるのが寂しくなるな、と……」
「ちょっと三日ぐらい予定延期しない? 僕たち一度じっくり話し合った方が良いと思うんだよね、ふたりで休みとってお互いのことを知る時間を設けようそうしよう優しくするから」
「帰ってからのお楽しみだな」
 ぎゅうぎゅう抱きしめてくる怪異、もとい彼氏をあやしつつノーを叩きつける。押しの強い男に主導権を渡してはいけない。肝に銘じておこう。

「修行を終えたら、今の俺とは随分変わっているかもしれない。それでも、お前は待っていてくれるか」
「愚問だね」
 屈託のない、明瞭な言葉が最後の気掛かりを一蹴する。

「僕は仙台で自分の在り方を見直し、目指すべき形を学び、志を新たにした。でも燭台切光忠としての根幹は今も昔も変わらない。へし切長谷部への印象もそうだった」
 黒い指先が俺の手を取る。焦がれて久しい唇が己の武骨極まりない甲に落ちた。

「きっと全ての燭台切光忠はへし切長谷部を好ましく思い、そこに何らかの意味を見出す。導いた答えが友情か恋慕かはたまた愛憎かは、各々が積み上げた関係によるんだろうね。つまり僕が得た答えは僕だけのもので、君以外のへし切長谷部には当てはまらない。必ず長谷部くんはもっと魅力的になって帰ってきて、僕は間違いなく君に惚れ直す。だから、安心して行っておいで」
 ああ、俺はいったい何を怖がっていたのやら。もっと早く約束を果たしていれば、馬鹿みたいに悩むこともなかっただろうに。

「羊羹」
「ん?」
「帰ったら羊羹が食べたい」
 破顔して応える男に身を寄せる。かつてはひどく傷ついた記憶も、光忠となら意味ある過去に変えられるだろう。誰かを想って作った料理が血生臭い思い出に塗り潰されるのは勘弁願いたい。

 俺を慈しむきんいろを見上げ、藍色に散った金箔を回顧する。季節外れの花火は、そう遠くない。

 

いいね! 0

小説一覧へ