ただいま、おかえりなさい - 1/2

【一】???の場合

 

 

 時間遡行軍との戦いは長期化の傾向にある。膠着状態を打破するべく、放棄された世界へと男士たちを派遣した日も記憶に新しいだろう。

 その先駆けとなったのが聚楽第への出陣である。しかし、この任務は多くの審神者たちに不信感を与えた。敵の手に落ちた時代が有ったこと、その存在を放棄して長らく隠蔽していたこと。果ては特別任務に際し、監査官まで派遣する始末である。

 あといくつ政府から見捨てられた時代が有るのだろう。誰もが疑問に思いながらも決して口にはしない。
 審神者が特別な力を行使できるのも、政府の助力あってのことである。触らぬ神に祟りなし。そうして無力なヒトの子らは今日も臭い物に蓋をする。いくら中で腐敗が進もうと為政者には関係ない。先送りされた問題に向き合うのは、いつだって無辜の民と相場は決まっているのだ。

「充実した地方遠征でしたね!」
 篭手切の弾んだ声と共に、手にした籠が振動で揺れる。目一杯まで資材を詰め込んだ荷は、今回の遠征が大成功であることを示していた。

「ああ、やっぱ遠乗りは気持ちいいよなあ。土産もできたし、今日の飯は期待できそうだぜ」
 同意する豊前江の表情もまた晴れやかである。仲間内でも、馬を自在に駆る豊前の手管は群を抜いて鮮やかだった。事実、今回の遠征が上手くいったのも、件の技量によるところが大きい。もっとも当の刀にその自覚は無かった。彼は風を突っ切り、思う存分走れればそれで十分なのである。

「そうだねえ。珍しい植物もたくさん採集できたし、僕も満足だよ」
 豊前と篭手切を挟む形で歩いていた桑名江も頷く。馬より手綱を握るのが難しい豊前を導き、効率的に資材を調達できたのは桑名の采配の賜物だった。のほほんとした印象に反して、農業を得意とするこの刀は理詰めに強い。その点が衝動的な豊前に苦手意識を持たれる理由なのだが、組ませてみれば互いの長所と短所とを補える良き相方である。仮に揉め事が起きたとしても、二振りの弟分たる篭手切が自ずと緩衝材になった。
 こうして意外に盤石な体制である三振りは、審神者の期待通りに任務を終え、無事に帰路についている。

「そうだ、今のうちに明日の予定決めておこうぜ」
 豊前の鶴の一声に他の二振りが足を止める。明日は揃って非番の予定にされていた。個人主義の多い江派だが、それだけに互いの意見はよく尊重する。三振りのうち誰も欠けない休日など全く以て珍しい。その好機を活かさない手は無かった。

「じゃんけん」
 ぽん、の合図で一斉に手が出される。グー、篭手切。チョキ、豊前と桑名。末っ子まさかの一人勝ちである。

「やりましたああああ! お二方の貴重なおふを独り占めです!」
「おっ一発たあやるじゃねえか。よしよし、明日はとことんれっすんに付き合ってやんよ」
「音楽は植物の成長に良いって俗説も聞くしねえ、デマらしいけど検証してみる価値は有るかな」
 三者三様の反応を見せつつ、話は早々にまとまっていく。今回は篭手切の案が採用されたが、豊前や桑名が勝っていたとしても大した違いは生じないだろう。誰の要望が通ったところで、彼らが休日を一緒に過ごす事実に変わりないのである。

 和気藹々と明日の予定について話し合ううちに目的地に着く。本丸に連絡し、帰還ゲートを開くための交信が何度か行われた。
 確かに彼らは新入りの部類に入るが、顕現してから日は浅くはない。幾度も出陣や遠征をこなし、いわゆる修羅場とて経験している。帰還装置の扱いも手慣れたものだ。若干の時間を経て、三振りの周囲に光柱が立つ。その輝きに触れた途端、男士たちの身体が粒子となって消え失せる。拡散した光が夕闇に溶けた後には、人影一つ見えなくなっていた。
 忘却していた五感が少しずつ戻ってくる。時間も空間も超越した場所では、人の身体など意味を為さない。知らず張り詰めていた息を吐いて、ようやく男士らは自らに四肢が有ることを思い出した。
 始めに覚えたのは違和感だった。秋も深まってきたというのに、湿った空気が肌に纏わり付く。漂う黴臭さに豊前は思わず眉根を寄せた。おかしい、と理性よりも先に本能が訴える。男士たちがようやく瞼を開いたときには、信じがたい光景が眼前に広がっていた。

 泥濘で塗り固めたような暗雲、苔むした庭石、日に焼け雨風に曝され、もはや原形を留めているところが少ない壁面。絵に描いたような廃墟とはまさにこのことだろう。人はおろか生物の棲まうべき場所ではない。
 もっともヒトと違い、数百年という時を過ごした江の刀たちである。世はめまぐるしく栄枯盛衰を繰り返している。朽ち果てた武家屋敷など、彼らにしてみれば珍しい代物ではなかった。
 豊前たちが目を疑っている理由は一つである。明らかにここは自分たちの知る本丸ではない。未知の場所と時代に飛ばされた衝撃が、三振りに少しく言葉を忘れさせた。

「ここ、どこだ」
 皆の心中を代弁するかのように豊前が呟く。当然ながら望ましい答えが返ってくるはずもない。
 最初に行き着いた仮説は転送ミスだった。機械を操作していた篭手切が慌てて画面を確認する。機器はひたすらに砂嵐を流すのみで、どれほど弄っても反応しない。

「あわわ、こ、故障でしょうか」
「故障ぉ? 叩いたら直るんじゃねえ?」
「お願いします桑名さん」
 手遅れになるより先に篭手切は行動に移した。既に豊前は素振りを始めていたので間一髪である。
 機械を託された桑名は矯めつ眇めつ異常が無いか確かめた。一通り調べたところで静かに首を振る。結論としては、機械側の問題ではないらしい。

「残念だけどお手上げかな。でも、ここに来る前に主には連絡しておいたし、しばらく僕らが帰ってこないようなら何かしら手は打ってくれると思うよ」
 桑名の冷静な状況判断に、篭手切だけでなく豊前もほっと息をつく。いっそ形勢不利な戦いを強いられた方がこの二振りは安心しただろう。頭脳労働に強い兄弟が、彼らにはいつも以上に頼もしく見えていた。

「しかし、ただ助けが来んのを待ってるってえのも性に合わねえな」
「言うと思った。でも僕も気になるし、賛成」
「りいだあらしいですね! 私ももちろん賛成です!」

 豊前の思いつきに桑名と篭手切も同意する。好奇心の強い江の刀は、得体の知れない廃墟の捜索を少しも躊躇わなかった。

 広縁に上り、木枠と桟だけが残った障子をずらす。分厚い雲に遮られ、日差しはほとんど室内に届いていない。あまりの薄暗さに、庭に面した部屋はともかく、内部の探索には難儀しそうだった。

「思ったより、汚れてはいませんね」

 先行する篭手切が座卓の表面を撫でて言う。その指先は埃一つ掬っていない。

「畳もほつれてねえし、変な感じだなあ。手入れしちょるやつでもいんのか?」
「それなら障子くらい替えても良さそうですが……」
「なー、わっけわかんねえよな。桑名はどう思う?」
「そうだね……庭は随分と荒れていたし、壁や外廊下は破損が目立った。多分おかしいのは室内の方だね。でも掃除や手入れでこの状態を保ってるわけではないと思う。どちらかというとこれは」

 部屋の中だけ時間が止まっているみたいだ。
 桑名の仮説に二振りが目を白黒とさせた。呆気にとられているわけではなく、寧ろ感心した、腑に落ちたという反応の方が正しい。一見して突拍子もない発想のようだが、妙に納得させられるのである。いかに気をつけようと、家具の経年劣化は手入れで防げるようなものではない。調度品や内壁の色合いは、まだ築十年に達していない家屋のそれだった。

 個人の部屋だったろう六畳間を抜け、本格的に屋敷内へと足を踏み入れる。視界がおぼつかないため、壁に沿うようにして移動した。先行は脇差である篭手切が務め、次いで豊前、桑名が続く形となっている。暫く歩くと大広間らしき場所に出て、多少なりとも外の光が拝めるようになった。

「俺さ、なんっかこの感じ見覚え有るんだよな」
「りいだあもですか?」
「あっ、これは揃って同じこと考えてるぱたぁんだねえ」

 おおよそ把握できた広間の大きさと、そこに至るまでの道程。光源の少なさ故に確信こそ持てないが、屋敷の構造は彼らにとって馴染み深い場所によく似ていた。

「うちの本丸のつくりとそっくりだよな、偶然か?」
「どうかなあ。ひょっとして未来の本丸の姿だったりして、これ」
「本当にそうなら諸行無常を噛みしめますね」

 広間には横幅の広い卓がいくつも並べられている。住人が思い思い好きな場所に陣取り、雑談に耽る様が豊前たちには容易に想像できた。不意に懐かしさに襲われて、篭手切は軽く自分の頬を張った。
 まだ帰れないと決まったわけではない、弱気になるのは早いぞ。そう自らを叱咤しながら、脇差の青年は周囲を事細かに観察し始める。
 篭手切の足下で何かを踏みつぶすような音がした。足を上げると潰れたメモ用紙が転がっている。拾って皺まで丁寧に伸ばせば、表に何か書かれているのが判った。

「そこから出られるのはひとりだけ」

 驚いたのは豊前や桑名だけでなく、読み上げた篭手切も同様だった。
 この廃墟に飛ばされたのは事故ではない。一行が第三者の存在と害意とを認めたときには手遅れだった。耳を劈くほどの破裂音が外から鳴る。その正体を確かめようとして、真っ先に豊前が障子に手を掛けた。

「いつっ!」
 見えない壁に拒まれ、豊前が慌てて腕を引く。直前に走ったのは、熱した金属に触れたような痛みだった。

「豊前、大丈夫!?」
「あ、ああ。別に何ともない、ちっと指先が痺れただけだ」

 駆け寄った桑名に手を取られ、豊前は反って冷静に無事を告げた。弾かれた指先は白く、怪我らしきものは見受けられない。安心した桑名はすぐさま事態の究明に当たった。記録用に携帯していたボールペンを障子紙の穴に通す。予想した通り、外へ突き抜けようとするペンの先端で火花が散った。

「出してくれる気は無さそうだねえ」
「なら敵の大将をさっさとぶっ飛ばすだけだな。正直こっちのが話が簡単で助かるねえ」

 差した刀の柄巻をなぞり、二振りが不敵に笑う。罠に掛けられたことすら、彼らの中では敵の懐に入ったという認識だった。

「お、おふたりとも! これ見て下さい!」
 篭手切が上擦った声で兄たちを呼ぶ。その手元では無用となったはずの帰還装置が、ピーピーと無機質な音を立て続けていた。
 二振りが篭手切の両隣から覗き込むように画面を見る。表示された内容に、大抵のことでは動じない豊前や桑名も知らず息を呑んだ。

「帰還プログラム 人数 1 実行待機中」

 篭手切の指が何度も液晶の上を滑る。奮闘虚しく、機械は一切の操作を受けつけずに固まったままだった。唯一試していないのは「実行」のボタンだけである。
 そこから出られるのはひとりだけ。メモ書きの文句を反芻し、三振りは互いを見渡した。
 豊前は日頃の剽軽さを捨てた真顔に、前髪に隠れた桑名の表情は明らかでないが、兄弟からは落ち着き払って見えた。対する篭手切は眉を八の字にして、困惑を露わにしている。自分だけが動揺しているようで、篭手切は恥ずかしくなった。つい兄たちの視線から逃れるように俯いてしまう。その垂れた頭を、ごつごつとした男の手が撫でた。

「そう心配しなくてもでーじょーぶだって、なあ桑名」
「うん。ひとりだけすぐに帰るか、後でみんな揃って帰るかの違いだよ。大して変わらないよね」

 篭手切を宥める兄たちの声音は優しい。ああ、この二振りがいるならどんな窮地だろうと必ず生きて帰れるだろう。勇気を奮い起こした篭手切は、礼を言おうとして顔を上げ――色を失った。

「先帰ってれっすんの準備とか色々頼むぜ」
 いつの間にか豊前の手にあった機械が点滅を繰り返している。「実行中」の三字の上には、篭手切江の名が挙げられていた。
 篭手切が必死に腕を伸ばす。彼の手は何者をも掴むことなく、電子の波に浚われていった。

「本当に帰しちゃってよかったの?」
「よかったんだろ? 俺は桑名みたいに理屈こねくり回すのは苦手だけどな。でも俺たちのどちらかを選べねえ篭手切と違って、俺たちの答えは決まってる。ならやることは一つだ」
「うん。貴重な戦力を削ぐのは痛いけど、敵将を倒しても帰れるかどうか判らないなら、篭手切を通して主に直接状況を伝えた方が確実だと思う」
「はーなるほど、そういう考えも有るんだな」
「僕も豊前の発想には目からうろこだったよ」

 向き合った二振りが破顔する。思考や着眼点がこれほど違っていても、何故かこの刀たちの結論は常に一致した。日常であれば諍いの原因にもなりかねないが、こと前線においては頼もしい限りである。孤立無援の劣勢を強いられながら、豊前も桑名も不思議と負ける気がしなかった。

 広間を抜けて、再び廊下に取って返す。相変わらず周囲は暗闇に覆われており、視界から得られる情報は微々たるものだ。残った感覚を研ぎ澄ませ、敵が潜んでいないか最大限に警戒する。座敷を一部屋ずつ入念に探るが、これといった収穫は見られない。ただ二振りを取り巻く悪意だけは着実に強くなってきている。
 いくつの襖を開け、何度空振りに終わった頃だろうか。半ば期待を捨てて入った部屋は、それまでと随分趣が変わっていた。
 静謐な空気が身を包む。中央に陣取る卓上には、微かな光を提供する行灯が置かれていた。お陰で部屋の四方が書架で埋まっていることにも気づかされる。豊前は拍子抜けしたといった体だが、桑名は警戒心よりも好奇心が勝ったらしい。ざっと辺りを見回すや、目に付いた本を抜いては中を流し読みし始めた。

「おいおい、読書なら帰ってからにしろよ」
「ん、もうちょっとだけ」
「お前、それ言えば俺が引き下がると思ってないか?」
「ないないー」

 否定する桑名だが、普段の間延びした口調が戻ってきている辺り信用ならない。手持ち無沙汰となった豊前は、活字だらけの空間に嫌気が差して本棚から目をそらした。そうなると安全圏は天井か照明の置かれた長机に限られる。積み上げられた書籍の山を何とはなしに眺めた豊前は、ふと冊子の間に筆記用具が有るのを目に留めた。
 昔ながらの筆墨と一冊の古ぼけたノート。もし日記だとしたら、この屋敷の現状についても何か書いてあるのではないか。可能性としては薄いが、暇をもてあますよりは良いと豊前が帳面を手に取る。果たして予想した通り、その冊子には本丸の活動記録が綴られていた。

「激しい戦闘の心配は無いと言われていた遠征先にも遡行軍が出現するようになって久しい。巴形の懸念が当たったようだ。我々は追い詰められている。強力な付喪神を味方にするのは良いが、彼らの存在を保つには一定以上の資材が必要である。個の能力を過信した結果がこれだ。資源が枯渇する日も近い、至急政府に救援を求めるべし」

「襲撃される本丸の数が増えてきた。結界の強度は男士の数やその練度に比例する。発足したての本丸は格好の餌食だ。戦力の補強が難しくなっている。刀剣を他の本丸に譲渡できない決まりがここに来て仇となった。錬度の上限に達した男士を燻らせている陣営も多々有るだろうに、彼らを派遣できないばかりにこのざまだ。未だ政府はこの状況を打開する一手を見出せていない。嘆かわしいことである」

「宗三が折れた。旧知が斃れるのは薬研に次いで二度目か。貴方に看取られるのだけはごめんですね、なんて軽口を叩いてくれたことを思い出す。有言実行にも程が有る刀だった。せめてもの嫌がらせに墓でも拵えてやろう。俺の愚痴を墓前で毎日聞かされる栄誉に泣き咽ぶといい」

「不動、鶴丸、厚、愛染、次郎太刀もいなくなった。こいつらの破片を持ち帰った俺に待っていたのは敗戦の報せだ。もう戦う必要は無い、この本丸は封鎖される、今まで頑張ってくれてありがとう、最後まで君たちの主でいられなくてごめんね。主が途切れ途切れに男士たちへと謝罪する。俺たちに残されたのは刀解か、遡行軍に与して同胞を狩るかの二択だった」

「主は審神者の任を解かれ、本丸を去った。俺たちは彼の霊力を介して顕現していた。遅かれ早かれ、肉の器を保てず皆物言わぬ鋼に戻ることだろう。同胞狩りを拒んだ刀に残された道はいずれも死だ。どうせ散るなら戦場で散るが武士の誉れよ、とは誰の言葉だったか。今となっては思い出せないが、黙ってやられるのは確かに癪である。どうせなら相手に一矢報いるぐらいはしてやろう」

「追い詰められた政府は最後の手段に出た。遡行軍の手に落ちたこの時代を、失敗した世界線として処理したのだ。封鎖された世界は時が進むことも戻ることもない。しかし遡行軍もせっかくの戦果をみすみす逃すような真似はしないだろう。政府の悪あがきはいつの日か破られ、再び季節のめぐる時が必ずやってくる。俺もまた、その日まで死ねない」

「日は昇らず沈まない。餓えない身体は睡眠という欲も忘れてしまったようだ。こうなるとただ人の形を保っているだけで、鋼だった頃とほとんど変わらないな」

「何日経った」
「八万と六千回くらい呼吸したら一日、それを区切りに印をつけていこう。一」

「正」
「正正正正正正正正正正正正正正」

「正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正正」

(続く頁は正の字を書き込みすぎてほとんど黒く塗り潰されている)

「外が荒れてきた。何かが起きている。遡行軍か、あるいは政府の逆襲か。どちらでもいい、はやく肉がきりたい」

「久しぶりに肉をきった。気持ち良い。もっと、もっときりたい」

「最近は小物ばかりだ。つまらん、もっと歯ごたえの有る相手がほしい」

「外に逃がしたひとりは、仲間をいっぱいつれてきてくれるんだろうな?」

「肉はたくさんあって損はない、たのしみだたのしみだたのしみだ!」

 読み終えた豊前の背筋に怖気が走る。穢れたものに触れたがごとく本を投げ捨て、納刀していた得物に手を掛けた。刹那の攻防だった。床に叩きつけられる寸前に、開かれた頁から黒い影が伸びる。豊前の切っ先が日記を両断するのと、影が豊前の口内に侵入するのとはほぼ同時だったと言っていい。

「ぐっぇえ……!」
「豊前!」

 背後の異変を桑名も覚り、抜刀する。上体を屈し、体内を犯され苦悶する兄弟を前に、桑名は全身が沸騰する感覚を覚えた。気持ち悪さのあまり口元を押さえる豊前を制し、指を差し入れ内部を漁る。豊前が嘔吐くのも構わず、桑名は潜伏する化生の尾を追った。

「こ、んの……ッ! うざっこいわ、おたんこなすがぁ!」

 より深く突き入れた二指がのたうつ異物を掴み取る。無理やりに喉元から引き抜き、逃れようとする胴体を桑名の足が踏みつけた。蛇を思わせる影はひどく暴れたが、その中心を白刃に貫かれ、二、三度痙攣した後にやっと絶命した。

「豊前! 豊前!」
 泡食った様子で桑名が床に伏せた豊前を抱え込む。げほげほ、と咽る豊前の身体は常になく熱っぽい。
「くわ、な……」
「大丈夫!? 息できる? 薬飲めそう? あっそうだ先に口ゆすごう、ね!?」
 返答も待たず、桑名は豊前の口元に携帯していた水筒を近づけた。豊前はされるがままで、指先一つ動かせないでいる。概ね汚れを拭い去ったところで、桑名は所持していた薬草を並べて一考し始めた。
 さて今ある組み合わせで作れる薬はどれが適当か。レシピに集中していた桑名の裾がくいくいと引かれる。流石に意識をそちらに移せば、桑名と豊前の視線がかち合った。普段は燃えるような豊前の紅眼が、どことなく濁って見える。
 やはり本調子には程遠いのだろう。熱を測るつもりで桑名は豊前の額に手をやった。その手首に、豊前の指先が絡みつく。弱弱しい触れ方だった。多少身動げばすぐと振り解けそうにもかかわらず、桑名は蛇に睨まれた蛙のように硬直してしまっている。

「ぶ、ぜん、どうしたの」
 おそるおそる尋ねる桑名の心臓は早鐘を打っていた。グローブ越しに豊前の熱が伝わる。澱んだ柘榴色の瞳には己だけが映っていて、それが一層桑名の心を掻き乱す。こうなると普段から晒されている首筋も目に毒だった。浮かぶ汗が流れて黒子の近くを濡らすと、もう舐め取りたくて仕方がない。

 桑名は以前から豊前を好いていた。それこそ顕現する前からの執心で、人の身を得た後には肉欲に繋がった。言葉にこそしていないが、隠すつもりも無かったから敏い刀は桑名の本心を察していただろう。当の豊前は持ち前の大らかさで近すぎる距離感を許してくれるものの、親友の慕情には気付く素振りすら無かった。
 ただ豊前が桑名を特別に信頼していることは誰の目にも窺えた。桑名としてはそれで十分満足できたのである。

 豊前は何も答えず、桑名の胸に飛び込んだ。予想だにしない行動に受け身も取れず、桑名は床にしたたか頭をぶつけてしまう。場所が場所だから痛みも長引くだろうに、桑名がそれを認識できたのは一瞬だった。
 分かれた前髪の隙間から有り得ないものが見える。豊前が自分に覆い被さり、物欲しそうに息を荒げる姿だ。これが己に都合の良い妄想でなければ何になる。桑名は必死に現実を否定した。その努力を嘲笑うがごとく、豊前は組み敷いた男の胸板に頬を押しつける。そのまま熱い吐息を漏らすせいで、桑名の下腹部はずくりと重くなった。

「だめ、だよ豊前……このままじゃ薬が作れないよ」
 何とか引き剥がそうとするも力が入らない。内心離れがたく思っているせいか、豊前を押し退ける手はほぼ添えられているだけだった。寧ろ自ら触れたことで、布数枚隔てた先の肌を嫌でも意識してしまう。いっそ身を起こせば豊前も自分の上からどいてくれないだろうか。この試みも豊前が体重を掛けたせいで敢えなく失敗に終わった。

「ぶぜ」
「なんで、はなれていこうとする」

 沈黙を貫いていた豊前がようやく口を開く。縋るような声音だった。およそ友人らしくない嘆願に、桑名も反って冷静になる。

「ここにいろ、おれからはなれるな」
「豊前……?」
「ずっとそばにいろ、もういやだ、もうさみしいのはいやなんだ」

 今度こそ桑名は渾身の力で上体を起こした。後方に傾ぐ豊前の腰を支え、桑名は再び愛しい刀の飢えた双眸と相対する。
 ――なるほど、見覚えの無い色が混じってるのも当然だね。
 やっと得心のいった桑名は放りっぱなしの薬草を一瞥した。目的のものを見つけるなり、自らの口に含んで細かく咀嚼する。この間も豊前は抵抗を続けていたが、桑名の体幹はびくともしなかった。

「よくも寂しいなんて豊前に言わせてくれたね。誰だか知らないけど、僕の友達の中から早く出てってくれないかな」

 喚く豊前の顔にふと影が落ちる。呪詛を吐き出す唇は塞がれ、悲鳴どころか声一つあげられなくなった。無遠慮に侵入してきた舌が我が物顔で咥内を蹂躙する。息もままならなくなって、豊前は唾液の他に流し込まれたものを飲み下してしまった。
 長い口吸いが終わり、互いの唇が離れる。すっかり力の抜けた豊前は、桑名にもたれ掛かって浅い呼吸を繰り返した。

「っはァ、はぁ、は。あー……んだこれ、頭ガンガンする、ちょおいってえ」
「ん、おつかれさま」
「さっきのにげえの何だよ、正直あれが一番きつかったぞ」
「気付けに利く薬草だよお。目覚めすっきり、後味ばっちり」
「ばっちり苦味が残るんだな、にゃろ、覚えとけよ……」
「うん、覚えてたら覚えとく」

 憎まれ口を叩く豊前だが、その体重は桑名に預けたきりである。まだ身体を乗っ取られた後遺症が残っているのだろう。水筒を傾ければ、豊前は素直にその中身を飲み干した。
「まだ飲む?」
「いや、もうでーじょーぶだ。悪い、世話を掛けさせちまったな」
「いいよ。豊前にならいくらでも世話を焼くよ」
「……前から思ってたんだけどよ、桑名って何か俺に甘くねえか?」
「だって豊前は僕の特別だからね」
「は?」
「好きだよ、豊前」

 ずっとずっと前から好きだったんだ、と桑名は悪びれもせず告げる。荷物を置き、自由になった手が豊前の頬を撫でた。愛おしむような手つきは、或いは言葉よりも雄弁に桑名の心情を物語っていたかもしれない。豊前の見上げた先にある稲穂色は、蜜を溶かしたと思えるほどの甘さだ。さしもの豊前も、先の告白を信じざるを得ないほどに、桑名の瞳には熱意が籠もっていた。

「俺だって、桑名のことは好きだぜ」
「友達として、だよね」
「何か違うのか、それ」
「違うよ。豊前はほら、僕を見てここがこんな風になったりしないでしょ」

 腹に回った腕に引き寄せられ、豊前の背と桑名の腹とが密着する。膝だって気軽に貸す間柄である。抱擁の一つや二つでは今さら豊前も驚かない。ただ慣れ親しんだ体温とは別の、腰の辺りに押しつけられた熱は例外だった。唐突に向けられた欲に豊前の身体がびくんと跳ねる。

「無理にどうこうしようって気持ちは無いけど、僕が豊前をそういう目で見てるってことは覚えておいて」

 言うだけ言って桑名はすっくと立ち上がった。暫し呆気にとられていた豊前も、一拍置いて桑名の後を追う。

「桑名はそれでいいのか」
「うん。待つのは嫌いじゃないしね」
「……口を吸われんのは、別に抵抗無かったけど」
「んー六十点」
「何基準だよ」
「聞きたいのは「されてもいい」じゃなくて、「してほしい」だからね。残りの四十点はそれまでお預けかな」
「そういうもんか」
「そういうものだよ」

 納得のいかない豊前だったが、それ以上の追究は避けた。今の自分が何を言おうと、おそらくこの刀は動かない。実のところ、桑名江が穏やかなのは口調や物腰だけである。自身の兄弟が、一度決めたことを容易に曲げない、相当に頑固な刀であることを豊前はよく知っていた。

 書庫を出る。やはり照明の生きていたのは先の部屋だけらしい。廊下はなおも暗澹としていて、壁伝いで進む他なさそうだ。先行していた桑名が支点を求めて腕を彷徨わせる。迷子の手は背後から伸びてきた手に絡め取られた。

「こっちだ」

 桑名の手を引き、誘導する豊前の歩みに躊躇いは無い。障害物を躱し、分かれ道を恐れず進む。豊前はまるで知り尽くした道を行くように桑名を導いた。事実、彼の刀には屋敷の構造が手に取るように解った。言うまでもなく、豊前の記憶によるものではない。

「どこに向かってるの」
「多分、親玉がいるところだな」
「そっか。いよいよだね」
「ああ、それなんだが桑名……大将首は俺に譲ってくんねえか」
「いいよ。露払いは任せてね」
「おう。あとできれば手出し無用で頼む。折れる一歩寸前までは見逃してくれ」
「んー最後のはちょっと約束できないかな。豊前が傷つくのは嫌だ」
「そこを何とか。今回ばかりは俺の手で白黒つけてえんだよ」

 懇願する豊前だが、親友から返る声は渋い。断る理由が理由なだけに、豊前も強くは出られず反論に窮した。素より弁舌で桑名に勝てるはずがないのである。癖の強い前髪をわしゃわしゃ掻き毟り、豊前は必死に交渉材料を探す。何か、この農業系理屈おばけを説き伏せる奇策は無いか。にわか軍師は低く唸りながら起死回生の妙案を探した。

「わあった。じゃあ代わりに、桑名の言うこと何でも一つ聞いてやっから今回はそれで手打ちにしてくれ」

 そして豊前が提唱したのはまさに苦肉の策である。一蹴されるとばかり思った条件だが、提案を受けた桑名の身体は明らかに強ばった。

「何でもいいの」
「お、おう」
「ふーん。そっかあ、何でもいいんだあ」

 念を押して満足したらしい桑名から力が抜ける。それとは入れ替わりに今度は豊前がびくりと肩を竦めた。グローブを嵌めた手のひらの上を、複数の指が悪戯に滑る。

「じゃあいいよ、約束する。ぎりぎりまで見守ってるから、豊前も覚悟しておいてね」
「お、お手柔らかにな……?」

 優しい友人から覚悟なんて言葉が飛び出すとは。少し早まったかもしれない、と戦く豊前だが全ては後の祭りである。しかし流石に迅さを求める男は切り替えも早かった。せっかく桑名がお膳立てしてくれた舞台だ、これで己がしくじっては意味が無い。
 豊前は破れた障子紙の隙間から中庭を眺めやった。生い茂る雑草の合間より、地面を掘り返したような跡がちらほらと散見される。何が埋められていたのか、何故再び日の目を見たのか、解るのは豊前江だけだった。

「壊れたのは腹じゃなくて、頭の方だったみてえだな」

 誰に向けるわけでもない独り言を最後に、豊前は庭から目線を外した。桑名も敢えて豊前から呟きの真意を聴き出そうとはしない。
 二振りは黙々と進み続けた。外界より隔絶した屋敷の内部は、時折走る稲光の轟音にも無縁である。静寂の支配する世界では、階段の軋む音すら妙に響いて聞こえた。

 二階に上り、並ぶ小部屋には見向きもせず、豊前は奥の間を目指す。長く真っ直ぐ伸びる廊下の端々には、砕けた白骨がいくつも転がっていた。ヒトやケモノの遺体ではない。その正体に思い至り、桑名はここがどういった場所なのか確信を深めた。

 花鳥風月をあしらった襖が開け放たれる。往時はさぞ清浄な空間だったろう大広間は、瘴気に覆われ大部分が黒ずみ腐り堕ちていた。異様な光景である。その異様さをさらに際立たせるのが、積み上がった木片の山だった。数えれば八十近くに上りそうな札には、例外なく何かしらの文字が刻まれている。
 一に山姥切国広、二に獅子王、三に日向正宗。いずれの名も、審神者らに力を貸す刀剣たちのものだった。

「よお、借りを返しに来てやったぜ長谷部」

 豊前の呼び掛けに、最奥に控えていた人物が口角を歪める。紫の長衣と青朽葉の布をなびかせ、男は恭しく立ち上がった。

「ははっ、今度の肉袋は随分と懐かしい面構えをしているな。ちょうどいい、骨ばかりの雑魚を斬るにも飽きてきたところだ」

 高慢かつ不遜な物言いと共に鯉口が切られる。幾千、幾万の敵を屠り、なおも輝きを失わぬ皆焼の刃は、間違いなく名物へし切長谷部のものだった。歴代の主たちの影響だろう、神父調の装束も豊前たちの記憶と相違ない。ただ一点、その身に纏う神気だけが男を異常たらしめていた。
 身の毛もよだつような遡行軍の気配、志を同じくした男士たちの匂い。相容れぬはずの両者が、たった一振りの内で奇妙な同居を果たしている。

 男は敵も味方も関係無く、その屍を喰らった。もはや豊前たちが対峙しているのは長谷部であって長谷部ではない。何よりの証左として、畳に落ちた影から蛇や蜥蜴とも似つかない異形が顔を出していた。豊前や桑名とも因縁浅からぬ風貌である。長谷部に砕かれた遡行軍の成れの果ては、仇敵の眷属となって再びその牙を男士たちに向けていた。

「ゲテモノ食いにも程が有んなあ。かるしうむ摂りすぎなんじゃねーの?」
「はっ、土を食む貴様の相方も大概だろう」
「それについちゃぐうの音も出ねえ」
「あれは食べてるんじゃなくて土の味を見てるんだよお」
「どちらでも構わんさ。最終的には食われるだけの、獲物の嗜好なぞ知ったことか!」

 長谷部が吼える。主の意向を受け、影から数十の尖兵が飛び出した。短刀の群れが二振りの四肢を狙う。一斉に躍りかかった攻め手は、瞬きの間に走った閃光に打ち払われた。

「豊前の踏み込みより全然遅いねえ。これなら僕ひとりでも大丈夫そうだよ」

 桑名の足下に両断された敵の骸が転がる。ゴーグルの奥に潜む稲穂色は、戦を好まぬ刀にしては珍しく昂揚に濡れていた。

「ふん、速さ自慢の御刀様は高みの見物か。猪武者らしく一番に大将首を狙ってくると思ったんだが拍子抜けだなァ」
「肉を斬らせて骨を断つ戦法ってえならお互い様だろ? 俺も真っ先にお前とやり合えると期待してたのにがっかりだぜ」
「俺に斬られる資格が貴様に有るとでも?」
「そんなん知らんちゃ。俺はただ、くっそにっげえ草食う羽目になったお礼をしてやりてえだけだよ!」

 豊前の踵が床から離れる。爪先が畳を蹴った直後には、既に彼の刀が長谷部の腹を薙ごうとしていた。鋼同士がぶつかる。ただの一足で目前まで迫った鋒を、長谷部は事も無げに受け止めてみせた。
 純粋な力勝負では分が悪い。有効打を与えられないと見るや、すぐに豊前は距離を開けた。その無防備な背中を蜘蛛の足が襲う。先端に生えた刃が肉を抉るより早く、脇差の身体が左右に割れる。血煙の向こうに立っていたのは桑名だった。
 豊前は後ろを顧みることなく簡潔に礼を言う。血振りする桑名も心得たもので、すぐに第二、第三陣の迎撃に当たった。

 豊前はただ長谷部だけを、前だけを見据えていれば良い。背後を気にする必要が無いことは、始めから解りきっているのである。

「ってえわけだ、俺たちに小細工は通用しねーよ。一対一、真っ向勝負といこうじゃねえか大将」
「よくも仲間の功績をさぞ自分のことのように誇れるな。貴様はまだ俺に一太刀も浴びせていないのだぞ」
「一太刀でもお前を倒すには十分なんだろ、もろすぎ長谷部」
「くらすぞきさん」
「おう来いよ。長谷部とは一度、どっちが速いか勝負してみたかったんだよなあ!」

 互いに駆ける。白銀が交差し、耳障りな音を立てた。数合打ち合い、飛び退き、また飛び掛かっては距離を詰めていく。
 豊前に長谷部、双方ともに速攻に重きを置く刀である。防御を捨て、ひたすら相手の肌を割くことに全霊を注ぐ。まさに薄氷を踏むがごとき闘いぶりだ。
 豊前の刀が長谷部の前髪を掠め、空振りに終わった敵の懐に長谷部が入り込む。勢いのままに胴を圧し切らんとすれば、割り入ってきた鞘に押し止められた。
 長谷部は相手の視線や筋肉の動きから次の一手を予測する。対する豊前は最大の武器たる機動力を活かし、死角を攻めては奇襲に応ずる。長谷部は自身の計算を狂わす豊前に手を焼き、豊前も豊前で搦め手の多い長谷部を難敵と判じていた。
 息を荒げる二振りだが、死合に厭いた様子は無い。寧ろ体力が削られるほど反って全身に気力が溢れてくる。かりそめの心臓があげる悲鳴すら今の豊前らには心地よい。彼らを突き動かしているのはもはや刀の本能だけだった。

 消耗するに従い、回避までもが疎かになっていく。致命傷こそ負っていないが、豊前も長谷部も身体のそこかしこから血を滲ませていた。豪奢な装備が赤黒く染まる。もっとも出血のために視界が霞み始めようと、彼らの斬撃が衰えることは無かった。
 観ている方が余程気を病みそうな闘いである。事実、桑名は何度飛び出しそうになったか判らない。紙一重の攻防はいつ均衡が崩れてもおかしくないのだ。他ならぬ豊前の願いだからこそ桑名は耐えているが、内心は怒りで煮えたぎっている。それは長谷部にというより、軽率な約束を交わした己に向けたものという方が正しいだろう。対豊前に集中する長谷部は、桑名に手勢を差し向ける余裕など無い。役目を終えた桑名にできるのは、ただ親友が本懐を遂げられるよう祈るのみである。

「ははっ愉しいなァ、貴様もそうだろう豊前江!」
「ああ、俺が全力で走っても食らいついてくるやつは貴重だ! どうせやり合うんなら別の形が良かったけどな!」
「何を言う、手合わせや演練といった中途半端な真似でこれほど昂ぶれるものか。俺たちは人を殺すための道具だぞ、肉を斬らずしてどうして互いを知れる」
「俺はそうでもねえと思うけどな。生憎、こっちは人の真似事もそれなりに楽しんでんだよ」
「やはり貴様も江の刀だな。俺の知っている豊前もそうだった。遠くに行きたいなどと日々嘯いて、内番を放り出すことすらまま有った」
 そして、あいつは二度と帰ってこなかった。

 呟くように付け足し、長谷部は両腕をだらりと下げた。刃が深々と肉に突き刺さる。胸を貫いた豊前の方が戸惑ったのも無理はない。決定的な一撃を受けたにもかかわらず、長谷部は戦場には不釣り合いな微笑を浮かべている。口の端からは赤い滴が垂れ、畳の上に小さな水溜まりを作った。
 ひとまず刀を抜こうとした豊前の腕に何かが触れる。白い手袋が、その身に聳える凶器が離れるのをやんわりと制していた。

「長谷部……?」
「逃がした篭手切は、今頃お前たちを必死に探しているのだろうな」

 先刻別れたばかりの弟分に言及され、豊前は自ずと本丸に思いを馳せた。
 今頃あの刀は涙目になって審神者に事情を説明し、出陣の下知が来るのを今か今かと待ち構えているのだろう。伝えるべきことを伝えたら、一刻も早く帰って安心させてやらねばなるまい。
 郷愁にも似た感情が込み上げ、豊前がふっと目を細める。弟を想う優しい兄の表情である。殺伐とした闘気はもうなりを潜めていた。決着はついた、と誰もが思ったことだろう。その認識こそ、長谷部が狙っていた千載一遇の好機であった。

「ッァア!?」

 豊前の左肩が急激に熱を持つ。感覚は激痛に取って代わり、正常な思考を尽く奪い去った。

「豊前!」
 桑名が危うく倒れかけた豊前を抱き留める。患部を押さえ、痛みに呻く豊前の疑問は言葉にならない。
「はァ、ハ――ああ、やはり食らうなら生の通っている肉が一番だ。骨や鋼とは比べものにならん」
 恍惚とした様子で長谷部は胸を穿った刀を引き抜く。その唇は紅を差したように赤い。豊前から奪った血を舌で転がし、まるで美酒のごとく味わう。一通り堪能した後に嚥下すれば、みるみる胸の傷が塞がっていった。

「長谷部ぇッ……!」
「は、仇討ちか。いいぞ、今の俺は最高に機嫌が良い。くだらん感傷ごと貴様を切って捨ててやろう」

 桑名の拳がぶるぶると震える。八つ裂きにしても収まらぬだろう怒りに堪えかね、駆け出そうとしたときだった。

「ま、て……!」
 辿々しい声が僅かに残った桑名の理性に響く。振り返れば、刀を支えに立ち上がろうとしている豊前がいた。

「無茶はだめだよ豊前、後は全部僕がやる。約束はもう十分果たしたよね」
「じょ、うだんじゃねえ……まだ俺はやれる。良い子だからもうちょい待ってろ」
「冗談言ってるのはどっちなのさ。立つこともままならないくせに」
「しゃーしい、折れんには早すぎんだろ……借りも増えたしなぁ、あいつには言ってやりてえことが色々あんだよ」
「それで僕を納得させられると思ってる?」
「納得してくれ、相棒」
「…………それで折れたら泣くからね」
「泣かせねえよ」

 よろめきながらも、豊前は再度己の足で戦場に立った。正眼に構え、長谷部と視線を合わせる。
 おそらく全力で走れるのは一度きりだろう。十分だ、と豊前は密かに笑った。後先など考えずとも良い、自分が為すべきはただ疾く、真っ直ぐ前へと進むだけだ。

「行くぜぇ長谷部!」

 豊前が馳せる。手負いであることも忘れるほど、否今まで以上の速度で間合いを詰めていく。長谷部は動かない。これが最後だと解っているからこそ、冷静に豊前の一撃を捌くことに専念した。尋常であれば決して間違ってはいない判断だったろう。ただ、敵は尋常の相手ではなかった。
 豊前が急に体勢を崩す。その腕から武器が離れ、単身風を切りながら長谷部に迫った。投擲された刀は当然弾かれ、勢い壁際へと叩きつけられる。長谷部が返す刃で次なる脅威を除こうとしたが既に遅い。彼が腕を振り抜くより先に、豊前はもう拳を長谷部の腹に突き立てていた。

 床に倒れ伏した長谷部に豊前が馬乗りになる。勝敗は決した。先のような奇襲は二度通用するものではない。長谷部は大人しく畳に身を預け、執行の時を待った。

「ひっさびさに肉斬れて満足したか」
「ああ……そうだな、負けるのは気に食わんが退屈はしのげた。ここで折れたとしても後悔はしないだろうな」
「それ本気で言いよんか」
「何故そう思う」
「人ん身体使って、寂しいだの離れるなだの言ってたやつが、ここでひとり折れて満足できんのかって話だよ」

 豊前が長谷部の胸ぐらを掴む。勝ち気な藤色の双眸が初めて恐怖に歪んだ。

「長谷部がやりたかったことは単なる斬り合いなのか? 違うだろ? 言っとくが誤魔化しは利かねえからな。こっちは何でお前が敵の屍体を食って、自分で作った墓をわざわざ掘り返したかも知ってんだよ」
「や、やめ……」
「待っていたかったんだろ。誰かが本丸に帰ってくるのを」
「やめろ」
「そのためには絶対に死ねなかった。審神者がいないんじゃ手入れもできねえ。だからお前は敵の鋼を喰らって生き長らえた。遡行軍が侵攻を再開して、外の時間も動き始めた。放っておけば庭に埋めた連中の形見も風化する。いやそれ以上にひとりでいるのに耐えられなかった。だから仲間の欠片も自分の中に取り入れた」
「やめろッ……!」
「そこまでして守ってきた本丸を今更どうして捨てられるっちゃ! 素直になれよ長谷部! まだ折れたくない、昔の仲間にまた会いたいってなあ!」
「うるさいうるさいやめろそれ以上口を開くなァ!」

 髪を大きく振り乱し、喚き叫ぶ。長谷部は癇癪を起こした幼子も同然だった。腕で覆われた目元からは湿った音が聞こえる。

 時代が凍結され、森羅万象から全ての成長と退化とが失われた。ひとり遺された長谷部は、そのときある可能性に気づいてしまった。死を忘れたのは自分だけでなく、ヒトである審神者も同様である。もし、後に政府がこの時代を奪還する気になったならば、或いは主との再会も叶うのではないか。霊力が尽き、男士として顕現できなくなった仲間たちとも、再び言葉を交わせる日が来るのではないか。
 長谷部は俄に兆した希望に胸を膨らませた。孤独に苛まれ、異形と化し、変わり果てた己の姿を嫌悪しようと、それでも嘗ての賑やかで騒々しい日々が忘れられなかった。
 どれほどの時間が経ったか知れない。本丸を敵以外が訪れることは無かった。長谷部はもう、自分が何を待っていたのかも曖昧になってしまった。きっと大事なものだったはずだけど、思い出せば辛くなるのは判りきっている。なら忘れたままの方が良い。それなのに何故この男は、かさぶたを剥がした上に傷口に塩を塗り込むような真似をするのか。

 すすり泣く長谷部の頭を誰かの手が撫でる。記憶していたものより掌は大きく、やや荒っぽい手つきだったが、長谷部は確かに懐かしいと感じていた。

「会いたいなら、会いたいって言やあいいんだよ」
 先ほどの叱声とは打って変わり、優しい声音で豊前は語りかけた。

「長谷部がここから出られねえっていうなら、代わりに俺たちがお前らの主を探してきてやる。何も諦めんのまで早い必要はねーだろ」
「お前たちが、そこまでする義理もないだろう」
「義理とかそんなん関係ねえよ。友達のやりてーことに協力すんのは当然っちゃ」
「ともだち……?」
「おう」
「俺と貴様は会うなり殺し合いを演じた間柄だったと思うのだが」
「知らねーのか、男は拳で語り合うもんらしいぜ。武器の俺たちもさっき刀で十分語り合ったろ? これはもう友情が芽生えるしかねーよな」
「本気か」
「俺はいつだって本気だぜ。嘘つけるほど器用な質じゃねえんだよ」

 歯を見せて豊前は笑う。男の言葉に嘘偽りが無いことを、長谷部は嫌でも理解させられた。何年、何十年、あるいは何百年ぶりかにできた彼の友人は、誰より真っ直ぐで眩しく、温かい刀だった。

「りいだああああ! 桑名さああああん! よくぞ、よぐぞごぶじでえええ」
 帰還するなり篭手切は涙目で二振りに走り寄った。しっかりしているようで、やはり脇差らしく篭手切も幼い一面が時折見え隠れする。おんおん泣き崩れる弟分を前に、豊前は大げさだなあと溢しつつ、帰ってきたことに安堵した。
「先に豊前は手入れ部屋に連れて行くけど、その後で篭手切にちょっと頼みたいことが有るんだ。時間、大丈夫かな?」
「はひ! なんなりとおもうじづげぐだざい!」
「うん、頼もしいけど先に鼻かもうか。はいちーん」
 鼻紙を弟分に託し、桑名は豊前を背負ったまま広縁に上がった。なお豊前は頑なに自分で歩こうとしたが、一足目からふらついたので実力行使させられた。

「わりーな桑名」
「言ったでしょ。豊前にならいくらでも世話を焼くって」
「お前なあ、そんなんだから俺が調子乗るんだぞ」
「いくらでも乗っていいよ。ちゃんとふぉろーはするからねえ」
「お前は今後、豊前江を駄目にする刀を名乗れ」
「駄目じゃないよ。豊前は格好いい。毎日惚れ直すことばかりで困っちゃうくらい」
「……あー」
「豊前? もしかして熱ない? 大丈夫?」
「でーじょーぶ……じゃねーかもしんねえから、迅速に手入れ部屋へごーだ」
「はいよーしるばー」

 豊前が桑名の肩口に頭を垂れる。火照った額をぐりぐり押しつけ、熱をやり過ごそうとするが上手くいかない。
 今になってどっと疲れが襲ってきたのだろうか。桑名や篭手切には悪いが、報告は彼らに任せて自分は暫く休むことにしよう。長谷部との約束を果たすのは、この動悸が収まってからだ。

 

 

 その本丸は政府から打ち棄てられて久しかった。
 敵の侵入を防いでいた封鎖も解かれ、止まっていた時はゆっくりと動き始めている。長谷部は誰もいない大広間から、荒れ狂う空と鬱蒼とした中庭を見つめていた。
 審神者との繋がりが絶たれた以上、あまり活発に動き回ることはできない。襲撃する敵を迎え撃ち、その屍を喰らわねば本丸はおろか肉体の維持も叶わないのである。穢れた鋼を内に取り込めば取り込むほど、長谷部は自分が正気を失っていくのが解った。
 狂気に囚われそうになったときは急いで服の内を探る。一枚の紙切れを取り出し、広げれば何となく心が安らぐような心地がした。

「またな」

 お前意外に忘れっぽいみてえだからな。そう言って、最後に訪れた友人は長谷部の日記に書きつけを遺していった。
 ここと友人の世界とでは時間の流れが異なるかもしれない。あれから何日が過ぎたかも解らないが、長谷部が彼を案ずることは無かった。友人がどれだけ無鉄砲だろうと、彼には支えてくれる仲間がいるのである。諦めの悪さも相当なものだから、長谷部がいいと言っても必ず約束は守るだろう。
 長谷部にはずっと待っている人がいる。もう顔も声も思い出せないけれど、大切な人たちだった。
 久々に座卓に刀を数口並べる。この本丸では塵や錆といった概念とは無縁だが、豊前たちと会って以来、長谷部はたまに仲間たちの手入れをするようになっていた。

「最後の方のお前は大活躍だったなあ。天井や押し入れから飛び出しては敵を屠る姿は惚れ惚れとしたぞ」
 これは秋田藤四郎に向けて。
「腹など空かんが、お前の料理が恋しいなあ。今食べたいのは、そうだな筑前煮だな」
 これは燭台切光忠に向けて。
「主が戻られたら庭の改修に取りかからないとな。また節約が続くと思うから、そのときは頼むぞ」
 これは博多藤四郎に向けて。
「そういうわけだから酒も当分控えてもらうぞ。有無は言わさん、黙って遠征先で小判を稼いでこい正三位」
 これは日本号に向けて。

 それぞれに声を掛けながら、長谷部は在りし日とこれからを想う。返事が無いことも今は気にならない。座卓の埋まる日は遠からず、己はただ座して為すべきことを為すのみである。

 ふと風が長谷部の前髪を揺らす。信じがたいことだった。外界と隔絶した屋敷の内側に風が吹き込むはずがない。有り得るとすれば長谷部の施した結界が破れたか、或いは――

 一目散に縁側から飛び出す。手にした本体で生い茂る雑草を掻き分け、長谷部は最短で正門まで辿り着いた。

「ただいま、長谷部」

 白髪頭の好々爺然とした男性が、杖突いて玄関の前に立っている。封鎖が解けてから数十年の時は経っていたのだろう。別れたときは青年だったはずの彼は、腰も曲がり、声も随分としゃがれてしまっていた。
 それでも、近侍に向ける柔らかな笑みだけは昔と少しも変わっていない。
 堪らずこぼれた涙を手袋に吸わせる。話したいことはたくさん有る。詫びたいことも数え切れない。しかし、長谷部はどうしても最初に言いたかった言葉を口にした。

 

「お帰りなさいませ! この長谷部、主の帰還をお待ちしておりました!」