ただいま、おかえりなさい - 2/2

【二】桑名の場合

 

 

「今日も一日お疲れ様でした!」
 篭手切が礼儀正しく二振りに頭を下げる。れっすんの終わりを告げる恒例行事だが、疲弊しきった豊前や桑名は「おお」や「うん」といった相槌しか打てない。奇妙なことに、三振りの中で最も体力が無いはずの篭手切だけが平然としていた。恐るべし末っ子。渡されたスポーツドリンクを飲みつつ、豊前は弟刀の底力に舌を巻いた。

「今日は一段とはーどだったねえ」
 豊前の隣に座り込んだ桑名も汗だくである。やんぬるかな、篭手切が兄たちと揃って歌や踊りを練習できたのは実に二ヶ月ぶりのことだった。
 例の事件から一月、豊前たちは休み返上で長谷部の本丸について調べ続けていた。本来、放棄された時間軸は政府の許可無しに干渉できない。無論、豊前たちの帰還トラブルは報告されていたから多少便宜を図ってもらことはできた。それにしたって限度が有る。彼の世界線は政府にとって敗北の象徴であり、隠蔽、ないしは箝口令を敷きたいというのが本音だろう。捜査の続行は歓迎されなかった。もっとも、その程度で怯む豊前江ではない。
 幸い豊前の本丸には、山姥切長義、肥前忠広、白山吉光が顕現していた。この三振りは政府との繋がりが比較的強い。彼らから抜け道を聞き出すのは容易だった。もっとも、その手段は非合法すれすれだったため、綱渡りを強いられた回数も相当なものだった。お陰で審神者はここ暫く胃腸薬と懇意になっている。
 そういった事情で、篭手切との約束も延びに延びたのである。ここまで面倒事になるとは思っていなかったにしろ、快く協力してくれた篭手切に豊前は頭が上がらなかった。久方ぶりのれっすんに篭手切が張り切ったのも無理は無い。

「最近は文字とばっか睨めっこしてたもんなあ。身体が鈍ってたのかもしんねえわ、情けねえ」
「豊前は四割くらい頭から湯気出して手止めてたけどね」
「適材適所って大事だよな」
「そうだね。豊前はあの本丸でいっぱい頑張ってくれたし」
「それを言ったら、桑名なんて向こうでもこっちでも働きっぱなしだったろ。でーじょーぶか? ちゃんと休めてっか?」
「大丈夫だよお。休むときにはちゃんと休んでるから」
 こうやってねえ、と桑名はごく自然に豊前の膝へと頭を寄せる。長い前髪で両目が見えずとも、綻ぶ口元から桑名が上機嫌なのは明らかだった。顕現して以来、豊前の膝はすっかり同派の指定席である。

「そうだ、豊前って次の非番は何か予定入ってる?」
「今んとこは何もねーな」
「そっか。明後日だったよね、じゃあ僕に一日付き合ってくれないかな」
「おう。何かやりてーことでも有んのか?」
「うん。前にした、僕の言うこと何でも一つ聞いてくれるって約束、そろそろお願いしようかなって」

 やにわに豊前の肩が強ばる。忘れていたわけではない。しかし、桑名が何も言ってこないので豊前も油断していたのだ。手遊びに桑名の髪を弄っていたのもまずかった。普段は隠れている稲穂色が、さも愛おしげに豊前を見上げているのである。

「い、いいぜ。明後日な、わかった。どんと来いよ」
「やったあ。豊前にはいっぱい頑張ってもらうよお、ふふ楽しみだなあ」

 ――頑張るって何を? さりげに俺の腰を撫でさすってんのもまさか関係あんのか? 教えてアルムのもみの木よ。

 次々と疑問が生じるのに何一つ答えは出てこない。豊前は珍しく悪態をつきたくなった。ただえさえ心臓がうるさいのだから、頭まで酷使させるのはやめてくれ。豊前の嘆きなどつゆ知らず、桑名は疲れに任せて静かに寝息を立てていた。

 

「あ、豊前。そっちに雑草生えてる、ちゃんと見ないとだめだよ」
「……」
「ここ終わったら次はあっちを耕そうねえ。それが一段落したら休憩するから、もうちょっと頑張ろう」
「……おー」

 付き合うって畑仕事かよ!!!!!!
 渾身の力を以て鍬を振るう。豊前は行き場の無い怒りをこれでもかと農具にぶつけた。なお妙に気合いが入って見えるため桑名は喜んでいる。
 確かに約束の一つも無ければ、豊前が進んで畑仕事に精を出すはずがない。だからといって、手出し無用の誓いと引き替えに土弄りというのはどうなんだ。労力と見合ってなさすぎじゃないか。他にしたいことはないのか桑名江。

「こんの農業馬鹿が……」
「豊前、もしかして今僕のこと褒めてた?」
「そうだな褒め言葉だな……」
「えへ、ありがとう」

 素直に喜ぶ桑名に豊前はがくりと肩を落とした。他にしたいことなんてないんだろうな。ここまで来るともはや尊敬に値する。
 豊前は自らの頬を張った。そうとなれば、いつまでもふて腐れている場合ではない。畑仕事は得意ではないが、ご指名とあらば全力を尽くすのみである。
 早々に気持ちにきりをつけ、豊前は休憩までよく働いた。秋の気配も色濃くなってきたとはいえ、日中の農作業はやはり体力を使う。流石に喉の渇きを覚えて、豊前は一言断り厨に向かうことにした。

 喉を潤し、土産に桑名の分の茶も携えて豊前は廊下を取って返す。その途中で足下に数枚の紅葉が転がっているのが目についた。涼しげな風が吹いている。歌仙ほど風流を愛でる刀ではないが、豊前も美しい風景を見るのは好きだった。とりわけ、遠乗りをして、己の足で辿り着いた先に広がる絶景はたまらない。慣れない作業に従事したこともあってか、豊前はまた遠くの地に思いを馳せていた。

「ぼうっと突っ立ってどうした」

 呼び掛けられて、ようやく豊前は意識を本丸に戻した。傍らには長谷部が立っている。小言の多い鬼の近侍として恐れられる刀だが、豊前は先日からこの顔に妙な親しみを覚えるようになっていた。

「いや、何でもねえっちゃ。それより骨を食わねえ方の長谷部」
「骨を食わない俺の方が多数派だと思うんだが」
「じゃあ多数派長谷部、ちょっと聞いておきたいことが有るんだがいいか?」
「まあ、構わんが。込み入った話か」
「それほどでもねーよ。ま、立ち話も何だし座ろうぜ」

 豊前がグラスを置いて縁側に腰掛ける。促された長谷部もその隣に座り込んだ。

「長谷部はさ、自分だけが本丸に取り残されて、主や他の刀が戻ってくるかどうかも判らないって状況になったらどうするんだ」
「……ああ、例の本丸の話か」

 突拍子の無い問い掛けにもかかわらず、長谷部はすぐに豊前の意図を汲んだ。この刀も先の調査に協力した一振りである。外部との交渉事が多かったため、いずれにせよ近侍の助力は欠かせなかっただろう。それを踏まえても、長谷部はよく動いてくれた。やはり本丸は違えど、同じへし切長谷部のことなれば他人事には思えないらしい。彼の本丸から頼りが届き、元気そうにしていると報されたときも嬉しそうにしていた。
 若干の間を置き、長谷部が豊前から庭先へと視線を移す。赤と黄色の絨毯にまた一枚、青丹色の葉が落ちて交ざった。

「解らんでもない。帰ってきてくれる可能性が零でないのなら、へし切長谷部はいつまでも主の帰還を待ち続けるだろう」
「探しには行かねーの?」
「叶うならそういう選択をするかもしれん。だが俺は迎えに行くより、主の帰るべき場所を守っていたい。久方ぶりに帰られたのに、肝心の本丸が荒れていては顔向けできんだろう」

 長谷部の口元が柔らかな弧を描く。主の刀としての在り方を語るとき、この男はいつも優しい眼差しをした。この直向きに過ぎる忠誠心こそが、へし切長谷部の強みであり歪みでもあるのだろう。その危うさは、おそらく長谷部ひとりではどうにもならないことだ。

「よし、じゃあ主がどっか行っちまったときは俺が迎えに行ってやんよ。誰だってひとりになりたいときは有るだろうが、それで多数派長谷部が骨喰長谷部になっちまっても困るからな」
「粟田口一派が困惑しそうな号をつけるな。そもそも、主より貴様の方がよほど遠くに行って帰ってこなさそうだ」
「信用ねーな」
「ははっ、冗談だ。少なくとも桑名がいるうちは心配していない」
「なんち?」
「そのままの意味だ。桑名がいるなら、お前は必ずここに帰ってくるだろう」

 考えてもみなかった。豊前の心中を説明するならこの一言に尽きるだろう。本丸で過ごした時間を考慮すれば、桑名が顕現していない期間の方がまだ長いくらいである。それでも桑名が傍にいない自分などもはや想像もつかない。
 豊前は戸惑った。桑名の存在の大きさにではなく、そこまで大事に思っていながら第三者に指摘されるまで気付かなかった自身の間抜けさにである。

「だから俺も、当分は安心して主を待つことができそうだな」

 言い置いて、長谷部はひとり立ち上がった。話にきりがつけば多忙な近侍様である。書類をまとめるなり、早々に執務室へと引き上げてしまった。
 残された豊前はまだ思考の渦に囚われている。彼が正気に戻ったのは、グラスの中身がすっかり温くなってしまった後だった。

 

「わりぃ、遅くなった」
「おかえり。大丈夫? 何か有った?」
「有ったちゃあ有ったが大したことじゃない。遅れたのは単に俺がぼうっとしてたせいだ。あとこれ土産」
「わあ、ありがとう豊前」
 渡されたグラスを桑名は一気に傾ける。相当に喉が渇いてたのだろう。入れ直した茶を桑名が飲み干すのに時間は掛からなかった。

「遅れた分は今から取り戻すよ。どこやりゃーいい?」
「畑に積極的な豊前なんて珍しいねえ。やりたい作業は大体終わったから、後は今日の分を収穫するだけだよ」
「よし、それなら細かいこと考えなくていいな。任せろ、音速で終わらせてやんよ」

 秋の日没は早い。汗に泥にまみれ、籠をとりたての野菜で埋め尽くす頃には、山稜の間際にのみ朱色が見えるようになっていた。
 収穫した作物を厨に運び、一風呂浴びて汗を流した後のことである。少し部屋で待っててほしいんだ、なるべくひとりでね、と告げるなり桑名はどこかへ行ってしまった。

 元々豊前は一日桑名に付き合うつもりだったので、この後も特に予定らしいものは無い。大人しく自室に帰ってみたのものの、豊前は暇を持て余すことになった。考えてみれば、遠乗りやバイクの整備で普段から部屋を空けることの方が多い。試しに雑誌を広げてみたが、既に目を通した内容ということもあってすぐに飽きが来てしまった。
 ひとりでいる時間を豊前は不快に思ったことは無い。それこそ暇さえ有れば外に飛び出して、風の中を思いきり駆けていった。豊前のやりたいことは常にこの六畳間の外側に在ったのである。誰か話し相手がいれば別だが、当の桑名が留守にしているのでどうしようもない。
 ひとりで、と指定された以上は篭手切を呼ぶのも憚られる。豊前は唐突に課せられた、何もしない時間という難題に向き合う必要に迫られた。

(ただじっとしてるだけなんて拷問だぜ……)
 何もしていないのに不思議と気疲れして、豊前は畳に寝転がった。天井の格子模様を見上げながら考える。そういえば自分は誰かを待つという経験をしてこなかった。だからこそ長谷部と話したときも、主を探しに行かないのかと尋ねたのである。少なくとも自分ならじっとしてはいられない。今この瞬間だって、桑名の様子を見に行きたいのを必死に堪えているのである。

 ――だが俺は迎えに行くより、主の帰るべき場所を守っていたい。
 ――うん。待つのは嫌いじゃないしね。

(俺にはぜってー真似できねえな)
 目を瞑る。幸い畑仕事の疲労感はまだ抜けきっていない。自身の寝つきの良さを利用して、豊前は早くも暇つぶしの最終手段に打って出た。

 

「……ぜん、ぶぜん」
 揺さぶられて豊前は重たげな瞼をゆっくりと開いた。ぼやけた視界に見慣れたシルエットが浮かび上がる。それが桑名だと判るやいなや、勢い込んで上体を起こした。

「おはよう豊前」
「……はよ、俺もしかして爆睡してたか」
「うん、気持ちよさそうに寝てたよ。気の毒とは思ったけど、冷めるのは嫌だったからごめんね」
「冷める?」
「そう、さっき採った野菜で作ったご飯だよ」
 言われて初めて、豊前は部屋に芳しい匂いが漂っているのに気付いた。桑名の斜め後ろにふたり分の食膳が用意されている。湯気を立てる白米に味噌汁、かぼちゃの煮物に各種天ぷら、野沢菜のお浸しと、結構な量だった。これを今の今まで作っていたとすれば、時間が掛かるのも頷ける。空腹なのを思い出すように豊前は生唾を呑み込んだ。

「桑名が作ったのか」
「うん。歌仙や燭台切にも手伝ってもらったけどね」
「いやでも、普通にすごいなこれ。うまそうちゃ」
「本当? じゃあ早く食べてみて、野菜も料理も新鮮なのが一番だよ」
「おう、食べる食べる。ちょい待ち」

 隅に追いやられた座布団を引っ張り出し、二振り揃って手を合わせる。揚げたての天ぷらは衣もさくさくで、油っぽさも感じられない。そこに白米を掻き込むと絶妙な味わいになった。煮物と同じくかぼちゃを使った味噌汁も絶品である。使っているのが米ではなく麦味噌という点も豊前には有り難かった。野沢菜のお浸しもさっぱりとした後味で、かぼちゃの甘みの後に食べると余計に箸が進んだ。総じて、桑名丹精の晩餐は豊前の舌をいたく満足させた。

「ごっそさん。はー、ほーとうまかった。桑名料理できたんだなあ」
「前から少しずつ練習はしてたんだ。誰かに食べさせるのは今日が初めてだよ」
「そっか。自信持っていいぜ、これなら毎日食べてえぐらいだわ」
「豊前にならいいよお、頑張るね」
「いやいや、毎日はさすがにきついだろ。たまにでいいよ、料理で時間取られたら畑見に行けねえだろ」
「なんだ、ぷろぽおずかと思ったのに」
「は」

 豊前は笑い飛ばせなかった。桑名を伴侶として共に在る生活を想像し、悪くないと思ってしまったのである。
 こうした豊前の心情を知ってか知らずか、桑名はいつものように相方の膝に頭を預けてきた。仰向けになって腕を伸ばし、少し癖の強い豊前の黒髪を弄う。別に初めてされることでもないのに、どうしてか身体は火照って豊前はますます落ち着かなくなった。

「意識してくれてるんだ、嬉しいなあ」
「っ、くわ、な。わり、そのまだ頭ん中、整理が追いついてないけぇ」
「うんうん待つよお。ゆっくりで大丈夫だからね、豊前」

 またも待つ、である。豊前はたまらなくなって、ずっと抱いていた疑問をぶつけた。

「わっけわかんねえ……お前も長谷部も、何で大人しく待ってられるんだよ……俺は、さっき桑名が来るのだって待ちきれなかったってえのに」
「何でって言われても……」
「帰ってくるかどうかわかんねえなら、こっちから迎えに行った方が早いだろ。待ってるだけで何もできないとか考えるだけでぞっとする。俺は、桑名に我慢なんかさせたくねえっちゃ」
「大丈夫だよ。待ってる間にできること、僕は見つけるの得意だからね。それに」
「それに?」
「豊前が好きに走って、好きなところに出かけて、帰ってきたときに「おかえり」って言えるの、僕はすごく嬉しいよ。だから待つのは本当に嫌じゃないんだ」

 桑名の手が滑り、豊前の頬を撫でる。心臓が跳ねた。それが何を意味するかを考えるより先に、豊前は桑名の手を取って上体を屈した。肌が触れ合い、吐息が交ざる。己の意志で重ねてようやく、豊前はヒトの唇が柔らかいのだと知った。

「え、ぶぜん、今のなんなん、どういうこと」
「したくなったからした」
「したくなったから……?」
「ああ。そっか、俺も桑名のこと好きだったんだな」

 今度は豊前が顔を綻ばせ、桑名が頬を赤らめる番だった。日頃より冷静で慌てふためくことなど滅多にない相方が、自分のことで一喜一憂している。その事実に豊前は気をよくして、桑名の髪をわしゃわしゃと撫で回した。

「よしよし、これでお預けになってた四十点も足してくれるよな」
「追加で二十点あげても問題ないよ。はあ、本当豊前はずるいねえ」
「なしか。したらいけんかったん?」
「ううん。もっとしてほしい」
「はっはー、任せろ」

 豊前が再び前のめりになる。微かな水音を立てて唇が重なった。距離が無くなったことで互いの存在が一層身近に感じられる。豊前は呼吸も忘れるほど口吸いに夢中になった。土の香りがいつもより強い。豊前にとって何よりも安心できる桑名の匂いだ。

「んぅ、んん!?」

 豊前が喉の奥で驚きの声をあげる。入り口を二、三突かれたのも束の間、咥内にぬるついた肉が割り入ってきた。舌の表面を舐め上げられ、未知の感覚が豊前の背筋を突き抜ける。身悶える豊前に構わず、 桑名の舌が歯列や口蓋を行き来する。溜まったふたり分の唾液がこぼれて、互いのおとがいを濡らした。
 舌を取られ、先端を甘噛みされ、豊前はもう訳が分からない。気付けば背に手を回され、視界が反転していた。豊前と桑名の上下が入れ替わる。押し倒された後はされるがままだった。さらに積極的になった舌が豊前の思考を蕩かす。あつい、くるしい、きもちいい。豊前はひたすら与えられる感覚に従順になった。ずる、と長らく豊前を味わい続けた舌が這い出る。やっと解放された頃には息も絶え絶えだった。豊前は喘ぎながら新鮮な空気を必死に取り込む。文句を言ってやる余裕も無い。
 もっとも肩を上下させているのは桑名も同様だった。豊前が己に組み敷かれ、息を乱し、柘榴色の瞳を潤わせている。どこか批判的な視線すら今は愛おしい。戦場にいるときに近い、凶暴な気持ちが俄に芽吹いた。衝動のままに桑名は豊前の首筋に吸いつく。黒子の辺りは敏感なのか、豊前はくすぐったさについ身を捩った。

「ちょ、こちょばい……! くわな、そこやめえ」
「ん、もうちょっとだけ……」
「おま……それ言ったら俺が引くってぜってー味占めてんだろ……」
「だめ?」

 顔を上げた桑名がじっと豊前を見つめる。自覚する前から豊前は桑名のこの仕草に弱かった。

「わぁーった。桑名のしたいようにしろ」
「ありがとう。豊前だいすき」
「おう、俺もだよ桑名」

 告白しあって口づけを交わす。そのうちに桑名の手が服の中に入り込んできたが、豊前は止めなかった。

 

 敷き布団の上に転がされ、豊前は天井の染みをぼんやりと数える。すぐに集中が切れてしまうせいで、一から何度も数え直していた。不毛な取り組みだが、それ以外に気を逸らす方法が思いつかなかったのだから仕方ない。己のあらぬところからあらぬ音が聞こえてくるのである。豊前でなくとも逃避したくなるのは当然だろう。

「な、なぁ、まだなのか」
「うん、まだだねえ」
「案外さあ、気合いでどうにかなるんじゃねえ……?」
「気合いでお尻の統率は上がらないよお」
「もう二本は入ったろ」
「二本しかの間違いだよ。何でもかんでも早ければいいってわけじゃないんだからね」
「っぁ、らって、もどかし、っちゃ……」

 二本の指が豊前の体内をまさぐる。油を塗りたくられた皮膚は、始めの頃と比べて随分と柔らかくなっていた。それでも桑名を受け入れるには足りないだろう。少し指を動かすだけで豊前は息を詰めている。自分だけが気持ち良くなっても意味が無い。桑名は豊前にも感じてほしくて、ことさら丁寧に触れていった。

「ひ、ぁ、ア……でねえ、そっからはなんも、でねーってぇ……」
「んぅ、豊前ならいつか出せるんじゃないかな」
「おまえ、あれか。牛か、牛が好みなのか……俺ぁ、どっちかっていうと馬派だ……」
「牛耕は嫌いじゃないけど、それよりは豊前の胸の方が好きだよ」

 抵抗のつもりか、胸を吸われた豊前が桑名の髪を掻き乱す。最初に触れられたときはくすぐったいだけだった。執拗に可愛がられた今では、新たな性感帯になりつつある。その証拠に、先ほどから触れられてない豊前の中心は緩やかに立ち上がっていた。刺激を望む陰茎が桑名の手に包まれる。上下に扱かれて、豊前から鼻にかかった声が漏れ出た。
 鍛えられた白い腹筋が痙攣するのを見て、桑名の昏い欲が首をもたげる。早くこの皮膚の下に自分を埋めたい、思うまま揺さぶって、豊前を身も心も自分のものにしてやりたい。下腹部の昂ぶりが硬度を増すにつれ、桑名の征服欲も募っていった。それら全てを理性で以てねじ伏せ、無心で指の数を増やしていく。

「くわなぁ……」
「ん……? えっちょ、豊前、なにしとん」
「すっげ、がっちがち」
 伸ばした手で豊前が愉しげに桑名の股間を揉み込む。ただえさえ張り詰めているというのに、加えて好いた相手に触れられては堪ったものではない。止めようにも身体は正直で、桑名は暫し豊前の好いようにされていた。

「もういいだろ。っつーか俺が限界なの。お前が何て言おうと、これ以上焦らすなら跨がってでも突っ込むぞ」
「うわあ、絶対本気だ」
「本気も本気さ。どうすんだ? 俺は別にどっちだっていいんだぜ」
「僕がするよ。豊前は自分が初めてだってこと忘れてないよね」
「お前だって初めてだろ?」
「そうだよ。だから無理したくないし、させたくなかったのに……豊前は本当、優しいなあ」
「惚れ直したか」
「うん。今日ののるま達成だね」

 起き上がった豊前は優しく押し倒されて、再び布団に沈んだ。腰の下に枕を差し込まれて自ずと身体が上向く。桑名は前を寛げ、散々にほぐした場所に自身を宛がった。
 軽く息を吸い込み、吐く。肉の先端が狭い入り口を突き、その淵を無理矢理に押し広げた。豊前の全身に緊張が走る。桑名は前戯で知った、豊前の弱いところを愛撫しながら、少しずつ腰を進めた。あ、あ、と声にならない悲鳴が桑名の鼓膜を震わす。最も太い部分を通過すれば後は楽なもので、ややあって桑名は豊前の中に全てを納めきった。

「ぁ、は……豊前、ぜんぶ入ったよぉ」
「はぁ、はぁ、まじか……ちょっとこれは、想定外だった……腹ん中がすげーずっしり重てぇ……」
 ここまで、と豊前が自身のヘソの下を指さす。あまりの生々しさに流石の桑名も絶句した。当の豊前は達成感も相俟って無邪気な笑顔を見せているのが憎らしい。

「苦しいけど、まあ悪くねーな。後は好きにしていいぞ桑名」
「豊前こそ桑名江を駄目にする刀を名乗った方がいいんじゃないかな」
「駄目になっても構いやしねえよ、俺が面倒見てやる」
「わあい安心して駄目な子になるねえ」
 桑名は言葉に甘えて緩やかに動き始めた。窮屈だが温かい豊前の内側は、単純に抜き差しするだけでも心地良い。腰から下が溶けてしまったような気さえする。初めての行為は桑名を溺れさせるのに十分だった。
 ふたり分の体温が交ざって、逞しい身体に汗の玉をいくつも浮かばせる。桑名からこぼれた雫が豊前の肌を伝う。それを見て、豊前は自分を組み敷く男が余計に愛おしくなった。
 あの桑名が畑仕事以外に没頭して、汗だくになるほど自分を求めている。そう思うと腹の奥がじくじくと疼いた。中を満たす桑名を締めつけ、もっと激しく犯せと内壁がねだる。唐突に強すぎる快感を与えられ、桑名は危うく達しそうになった。下腹に力を入れて何とか逃れたものの、この調子では射精まであまり保たないだろう。
 まだ味わい足りない。豊前の中に思う存分自分の種を注いでやりたい。相反する欲望を抱えながら、桑名はまた豊前との繋がりを深くしていった。不意に最奥に至る途中で豊前の脚が跳ね上がる。同時に男を受け入れた場所が激しく収縮を繰り返した。

「ッ、なに、どうしたの豊前」
「や……んだいまの……なんか、びりって」
「びり……? よくわからないけど、もう一回試してみていい?」
「え、うそ、いやまてくわ、アァっ」

 同じ箇所を擦り上げると豊前はやはり甲高い声で啼いた。薄ら目尻に雫を湛え、制止の声を無視した桑名を睨み付けている。拳で訴えようにも力が入らないのか、手足は褥の上に投げ出されていた。なるほど、と桑名はひとり納得する。

「まてっつったろ……さっきの、頭がおかしくなるけ、いかん……」
「大丈夫だよ豊前」
「何が」
「さっきのは前立腺って言って、豊前が僕とまぐわうときに気持ち良くなれる場所だから。もう覚えたし、これからいっぱい突いてあげるね」
「おいひとの話をきけ桑名、桑名江、桑名くん? ひっ、アァ!」

 宣言通り桑名は豊前の前立腺を容赦無く責め始めた。今までのゆったりとした交合とは違って、ぐちゃぐちゃと淫らな音が絶えず部屋に響く。ただそれも豊前の艶声に掻き消されてほとんど聞こえない。
 おかしくなる、という予想は正しく、豊前は突き上げられるたび気が狂いそうになった。気持ち良すぎてこわい、とける、おれる。それほど性感を極めておきながら、豊前の性器は一向に射精に至る様子がない。いっそ出して楽になりたいと思い、震える手で自身を握る。少し動かすだけでいいのに、おぼつかない手つきでは後一歩の刺激すら叶わなかった。いよいよ壊れる、と覚悟した豊前の手に桑名の手が重ねられる。節くれ立った指先が解放を求める熱に触れ、力強く責め立てた。

「ああァあぁ、くわな、でる、でるぅ!」
「うん。出していいよお」

 嬲る手つきとは裏腹にのんびりとした声が豊前の耳元で囁かれる。その口調に安心して、豊前は燻っていた欲望を無事に吐き出した。達成感に豊前が浸れたのは一瞬だけで、すぐさま再開された律動に思考が根こそぎ持って行かれる。意味を為さない豊前の喘ぎ声に紛れて、桑名が一瞬低く呻いた。下生えが豊前の肌に触れるほど突き入れ、奥の壁に白濁を叩きつける。中に出される感覚に慣れず、豊前は思わず敷き布に縋りついた。男の欲を受け入れた腹筋が荒い呼吸と共に上下する。桑名は自ら種付けした腹を撫で、うっそり微笑んだ。早く芽生えないかな、という独り言は豊前に届かなかった。

 

「起きろちゃ桑名!」
 布団を剥がされ、桑名は未明の肌寒さに身を震わせた。寝ぼけ眼のまま時計の文字盤を確認する。針は四時半を指していた。畑仕事の支度には丁度良い頃合いである。それを見越して起こしてくれたのか、豊前は優しいなあ。と、桑名が内心感謝しているところに何かが差し出された。暗がりの中ではよく見えないが、大きくて丸々としたもののようだ。豊前が照明のスイッチを入れる。明らかになったモノの正体は、どこからどう見てもヘルメットだった。

「行くぞ桑名、そろそろ出かけねえと見逃しちまう」
 武装した豊前が右の親指で外を指し示す。つい数時間前まで桑名の下で乱れていた男と同一人物とは思えないほど、爽やかな笑顔だった。

 山道を一台のバイクが疾走する。ろくに舗装されていない道にもかかわらず、豊前は巧みにハンドルを操って危なげなく走行を続けた。対する桑名は振動の激しさに酔いかけている。それでも音を上げなかったのは、ひとえに豊前を信じているためだった。
 豊前江は当人の意志を何よりも重んずる。相手が本当に望まないことであれば、決して押しつけがましくしたりしない。その彼が強く推す何かがこの先に在るのなら、それはきっと素晴らしいものだろう。桑名は豊前に回した腕に力を籠めた。

 やがて道が開け、視界を黎明の空が埋め尽くす。二振りを乗せたバイクがようやく静止した。
 たかだか三十分ぶりなのに地面に立つ感覚が大変懐かしく思われる。感激する桑名が周囲を見渡していると、豊前が腕を引いてきた。危ないからあまり動き回るな、と釘を刺される。言われて桑名は黒ずんだ大地の終着点に気付く。相当高所まで上がってきたと思ったが、まさか崖の近くまで来ていたとは。感心している桑名の肩を豊前が軽く叩く。豊前の指先は東の空を向いていた。
 薄明が夜の終わりを告げる。少しずつ色付いていく世界は確かに魅力的だった。豊前は自分にこれを見せたかったのだろうか。しかしながら夜明けの空なら、早朝の畑仕事で桑名はもう何度も目にしてきている。綺麗とは思うが些か新鮮さに欠けるのではないか。豊前の意図を量りかねていた桑名だが、その疑問はすぐに氷解した。

「海だ」

 木々の稜線を越えた遙か向こう、水面に旭陽を照らして輝く大海原が在った。ただの刀であった頃はおよそ縁の無かった景色である。

「いいだろ、道に迷ったとき偶然見つけてさ。いっぺん桑名にも見せてやりたかったんだよな」

 前髪を風に揺らしながら、豊前は生命の故郷を見下ろす。触れられないからこそ余計に焦がれるのか、鉄を錆びさせる海は刀にとって何よりも雄大で美しく見えた。

「うん、素晴らしい景色だ。連れてきてくれてありがとう豊前」
「どういたしまして。まあ、見せたかったってのもそうなんだけどよ、もう一つ言いたいことが有ってな」
「言いたいこと?」

 桑名の視線を感じ、豊前もまた相棒の前に向き直る。曙光よりも目映い紅の瞳は、決意を湛えた眼差しをしていた。

「俺はきっとこれからもひとりで旅立つだろう。何日、下手すりゃ何年経っても戻ってこねえなんてことも有るかもしれない。主や篭手切たちには悪いが、これは豊前江って刀の性分だからな。大人しく一所に留まってなんかいられねえんだよ」
「そうかもね。まあ、みんなには僕から言っておくから大丈夫だよ」
「はっはー、解ってんな相棒。それでだ。俺の放浪癖は他の連中にゃ困りもんだろうが、ここみたいに遠くに行かなきゃ見えねえもんだって有んだろ? 俺は、そういう場所をみんなにも教えてやりたい」
「短刀たちが豊前の運転に耐えられるかなあ」
「ああ、ありゃお前限定の特別仕様だ。他のやつらならもうちょい安全運転を心掛けるって」
「ひどいことを聞いた。明日の朝食は豊前の嫌いな食材入れてもらうからね」
「やめろちゃ。話続けっぞ。見つけた場所だが、桑名、俺は一番にお前を連れて来てやりたいって思ってる。行った先で見たこと聞いたこと、楽しかったこと苛ついたこと悲しかったこと、全部ぜんぶ、桑名に伝えたい。きっとそれが、帰りてえなあって気持ちに繋がっからさ。だから」

 暁が二振りの鋼の合間に差し込む。一拍置いた豊前は、相棒を真っ直ぐ見据えて続く言葉を口にした。

「俺の帰る場所になってくれ、桑名江」

 地を蹴る。桑名は愛しい刀を掻き抱き、その温もりを胸の中に収めた。

「いつでも帰っておいで。僕はずっと待ってるからね」
 毎日お前の料理が食べたい、よりもずっと彼らしい告白に桑名は安堵した。
 ああ、豊前はこうでなくてはいけない。好きに走って、好きなところへ出かけて、好きなときに帰ってくる。誰よりも迅く突き進む刀だから、寂しいや離れるなとは決してこぼしたりしない。会いたくなったら会いに行く。桑名が愛した豊前江とは、そういう刀だった。

 これから何度でも二振りは同じやり取りを繰り返す。「ただいま」と「おかえり」を交わせることが、彼らにとって何よりの幸せだからだ。

 

 

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