ただいま、おかえりなさい / 後日談

【三】籠手切の場合

 

 

 第二部隊が遠征を終えて戻って来た。時刻は午後一時を回ったぐらいである。御手杵隊長の意向で部隊はそのまま遅めの昼食を取り、帰還から一時間ほど後に解散した。
 戦装束を脱ぎ、内番着に身を包む。本日、篭手切に課せられた任務は午前中の遠征のみだ。当番に組み込まれているわけでもなし、残りをどう過ごすかは篭手切の自由である。そうなると一番に思い浮かべるのは、やはり歌や踊りのれっすんだった。

(りいだあや桑名さんは非番だったはず)

 同派の予定はしっかり確認している。暇さえ有れば豊前はバイク、桑名は畑を見に行くため、三振りが揃う機会は意外と言っていいほど少ない。
 篭手切のれっすんは、その貴重な例外の一つなのである。ここ二月ほどはご無沙汰だったが、先週になってようやく活動を再開することができた。歌や踊りを身につけるには相応の回数をこなす必要が有る。篭手切は駄目元で兄弟刀たちの姿を探すことにした。

 まず篭手切が向かったのは納屋だった。豊前は普段ここでバイクの整備をしている。しかし今回は空振りだったらしい。誰もいない納屋の戸を閉め、次に篭手切は畑へと向かった。
 八十口もいる男士たちの食糧を賄うだけあって、本丸の畑は広大である。虱潰しに見て回るのは効率が悪い。とりあえずと篭手切は縁側に沿って移動した。紅葉のカーテン越しに大ぶりに実った野菜の数々が見える。昼餉から間もないというのに、篭手切は早くも夕飯のラインナップが楽しみになりつつあった。
 角を曲がること数回、篭手切の目的は畑に入らずして達成された。

「やっぱりこの時期は大根だねえ。おろして旬の秋刀魚と一緒に頂くのが王道だよ」
「いいな、想像するだけでよだれが出る。寒くなってきたし、ネギで鍋もおつだな」
「鍋と来たら白菜だね。人参も追加しよう」
「そんでラーメンで締めると。完璧っちゃ」

 中庭を挟んで正面、コの字を描く廊下の先に江の打刀たちはいた。縁側に腰掛ける豊前と、その膝を枕にして寝転がる桑名。秋の味覚を話題に語らう様子は実に仲睦まじい。同じ江の刀である。特に遠慮する必要も無いはずなのに、篭手切はなんとなく声を掛けるのが躊躇われた。
 一週間ほど前からだろうか。豊前の桑名を見る目に熱が籠もるようになったのは。透明感の有る彼の柘榴色は、兄弟を映すとき、特別多くの信頼や友好の色を滲ませる。それが篭手切には密かな自慢だった。

「うっし決めた、今夜は鍋だ。采配は任せたぜ相棒」
「いいよお。豊前が生煮えのまま食べようとしたらすぐに止めるね」
「頼もしいけど素振りはやめろ。完全に腕へし折る気で来てんだろそれ」

 口調だけなら呆れたようにも聞こえるだろう。しかしながら、切れ長の瞳は柔らかなカーブを描いて、慈愛に満ちた眼差しを兄弟に降り注いでいる。その甘く優しい光は、篭手切さえ向けられた試しの無いものだ。

「豊前はせっかちだからねえ。下拵えはしっかりしないと駄目だよ」
「逆に桑名は丁寧っつーか、ねちっこすぎんだよ。昨日俺何回もういい、っつったか覚えてねーわ」
「んー七回かな。出した数も七回だから結果トントン」
「どういう計算? つーか数やべえな。こんな調子でやってたら来月には俺干からびてんじゃね?」
「じゃあ鍋でたくさん精をつけておかないとねぇ」
「加減する気さらさらねーのな。ま、いいけど」
 桑名の左腕が豊前のうなじに伸びる。引き寄せられたのか、自ら屈んだのか、豊前の上半身が前に傾いだ。
 ふたつの影が重なる。驚きが極限に達したとき、ヒトは声が出せなくなるのだと篭手切は身を以て知った。足がふらつき、近くの柱にもたれ掛かる。木目に滑らせた手はがくがくと震えていた。

 それからどうやって自室に戻ったのか、篭手切自身も覚えていない。照明もつけず、布団の中にくるまり、一切の情報を遮断した。
 目を閉じ、ひたすら眠り続けたいと思うも、興奮する身体はそう易々と安寧をもたらしてはくれない。寧ろ外界からの刺激を失った分、先の記憶がより生々しく脳裏に蘇ってきた。

 知らなかった。気付かなかった。教えてもらえなかった。胸がぎゅうぎゅうと締めつけられる。二振りが恋仲であったことが悲しいのではない。関係を打ち明けられなかったことが、何よりも近しい存在と思っていた兄弟に一線を引かれていた事実が身を焦がすのである。
 篭手切は先日の騒動について思い返していた。出られるのはひとりだけ。その文面を見て、豊前たちは迷わず篭手切を本丸へと帰還させた。
 あれは彼らなりの気遣いなのだと解ってはいる。それでも篭手切は、三振り揃って凱旋する未来を選びたかった。
 敢えて考えぬよう、避けていた疑惑が再び浮上してくる。己は兄弟らに認められていない、だから背を預けるにも値しない。豊前には桑名が、桑名には豊前がいればそれで良いのだ。
 俯せになり枕に顔を押しつける。頬を伝った水は、篭手切の頬だけでなく寝具まで濡らしていった。

「どうだった」
 問われ、豊前は何も言わず首を横に振った。快活な彼らしくもなく、その表情には陰りが見える。ただ夕餉の誘いを断られたにしては様子がおかしい。
「具合悪いんだってよ。食欲も湧かねえから、今は寝ることにするって」
「そっか。残念だけど仕方ないね」
 納得してみせる桑名だが、本心では先の説明を鵜呑みにする気は無かった。
 豊前江は隠し事のできる刀ではない。兄弟が体調不良と来れば、気落ちするより先に差し入れの検討に勤しむだろう。その豊前が、桑名を前に滋養の有る薬草の相談すら持ちかけずにいる。こうなると篭手切の不調もどこまでが真実か怪しいところだ。

「今日は予定変更してお粥にしようか。鍋はいつでも食べられるしね」
 追及するのは容易だが、それは篭手切の部屋の前ですることではない。桑名は豊前の肩を叩き、厨へと歩を進めた。促されて、豊前は珍しく先行する親友の後を追う。紅い瞳が己よりも幾分か広い背中を捉えた。戦場で何度も見たそれは、豊前が何よりも頼りにしているものだった。

「泣いてたんだ、篭手切」
 歩きながら豊前は友の背中に語りかける。
 意気揚々と弟を誘いに来た豊前は出鼻をくじかれた思いだった。夕餉前だというのに室内は暗く、部屋の主は床に伏せている。篭手切に事情を聞けば体調が優れないらしい。
 無論、豊前は直ぐに看病を買って出た。欲しいものはないか矢継ぎ早に尋ね、忠犬のように返答を待つ。普段であれば篭手切にやんわり窘められているところだろう。

「寝ていれば治りますのでお構いなく。鍋はどうぞお二方でご堪能ください」
 本調子でないとはいえ、いつになく棘のある返しだった。豊前だけでなく、当の篭手切までもが目を瞠る。頭まで布団の中に潜り込み、篭手切は消え入りそうな声で謝った。
 何と言葉を掛ければ良いのだろう。篭手切の語尾は湿り気を帯びていた。生半な慰めは彼の矜持を傷つけることになる。豊前は口の上手くない己をこのときほど悔やんだことは無い。

「起こしてごめんな。ゆっくり休んで、早く良くなってくれよ」
 定型句だけを口にして豊前は立ち上がった。押し引きの判断も有事には肝要である。後は時間が解決するのに任せようと、豊前は襖に手を掛けた。部屋を辞する前に、一度後ろを顧みる。膨らんだ布団はまんじりともせず、兄弟を慕う二つの柳緑色は隠れたままだった。

「俺何かやっちまったのかな」
「昨日までは普通にしてたし、その線は薄いと思うよ」
「……これから、どうすりゃーいいんかね」
「いつも通りでいいんじゃないかな。篭手切が話してくれるなら応ずるまでだし、そうでないなら改めて手を考えよう。焦りは禁物、だよ」
 焦燥感に駆られる豊前に反し、桑名は泰然としている。相棒がどっしり構えていてくれるお陰で、豊前も胸のわだかまりを多少落ち着かせることができた。待つのは得意ではないが、桑名が手を引いていてくれるなら間違いは起こさないだろう。
 いい加減に廊下を歩くのに素足は冷たい。冬の到来を肌身に感じながら、豊前は鍋の季節はこれからだなと思い直した。

 それから二日、三日と過ぎ一週間が経った。結論として、篭手切は未だ兄弟たちとの距離を測りかねている。日常の挨拶や事務連絡などは欠かさないが、隙間の時間を共有することがほとんど無くなった。
 食事は脇差仲間と共にし、れっすんは個人で行い、畑や納屋にも寄りつかない。篭手切が豊前や桑名を避けていることは明白だった。
 堪らず豊前がれっすんの予定について問いかけたことも有る。そのときは、練習したい曲がまだ決まらないので、とはぐらかされた。編入された部隊がバラバラなのも厄介である。腹を割って話し合う場を設けようにも、中々時間が取れないのが現状だった。
 そろそろ豊前の忍耐が限界に達しかけていた頃合いである。転機は思わぬところから訪れた。

「ようやく修繕も一段落ついて形だけは整ってきたところだ。大したもてなしはできないが、是非ともお前たちを主に紹介したい。都合はそちらに合わせる故、色好い返事を期待している」

 とある本丸から届いた便りに豊前は心躍らせた。送り主である長谷部が息災なことは言うまでもなく喜ばしい。同時に篭手切を誘う絶好の口実になるとも思えた。審神者は快く外出の許可をくれたし、桑名も否とは言わないだろう。こうなれば後は篭手切を頷かせるのみである。豊前は久々に機動の限りを尽くして弟分に会いに行った。
「篭手切!」
 人気のない裏庭に豊前の大声が響く。個人練習の最中だった篭手切は、勢いも殺さず角を曲がりきった闖入者に絶句した。砂埃をもうもう立ち上げ、足の筋力だけで立ち止まる男は靴底の悲鳴などお構いなしらしい。さらにこの台風の目は、前置きも無しに手紙を一通、篭手切の前に差し出した。

「長谷部からだ。いつでもいいから遊びに来いって連絡が来た」
 挙げられた刀の名に篭手切はまたも息苦しさを覚えた。彼のことを思い返すたび、ひとり蚊帳の外にされた記憶が蘇る。
「私は」
「頼む、一緒に来てくれ。誰があいつの主捜しに一番貢献したって、そりゃ篭手切お前だろうよ。真っ先に礼を言うべき相手を連れて行けなかった、なんてことになったら長谷部に圧し切られちまう」
 返答を聞くより先に豊前は頭を下げた。敬愛している相手にここまでされては、篭手切も断れるはずがない。
 観念したように篭手切は了承の意を告げる。途端に豊前は目を輝かせ、弟分の肩をばしばしと叩いた。そのまま「約束だからな!」と言い置いて去って行く。豊前という名の嵐が過ぎて、ようやく篭手切は一息をついた。

 彼の刀は篭手切こそが審神者捜索の功労者と言う。朝な夕な電子画面と向き合い、膨大な資料を読み漁り、遂に例の本丸の主を突き止めたのは確かに篭手切だった。ただ、貢献の度合いで言うなら桑名や長谷部とさほど変わらないだろう。彼らが集めた資料を、彼らが指示する通りに確認していたら、たまたま有力な情報を篭手切が発見した。少なくとも篭手切の認識としてはそうである。
 他にも篭手切は決戦に同行できなかった負い目が有った。足手まといだと思われたくなくて、捜査している一ヶ月はもうがむしゃらだった。結果的にそれが長谷部を救うことになったとしても、およそ手放しに喜べるものではない。
 鬱々とした気分で篭手切は渡された手紙を開いた。几帳面な字で書き連ねられた文面からは、感謝の念と親愛の情とが否応なく伝わってくる。
 果たして己はこれらの好意を向けられるのに相応しい男士であろうか。篭手切は鬱屈した思いを抱えながら自問自答に耽る。

 乾いた風が吹き、枯れ葉が舞い上がった。黄金と紅緋の装飾が剥がれ、寒々しい大地の色が露わになる。青年は未だ動かず、楽曲に混じって葉を踏み鳴らす音が聞こえることは無かった。

 

「本日は遠いところをご足労頂き誠にありがとうございます」
 老父が客人たちに向かって深々と一礼する。同席している長谷部、秋田の二振りも主に倣い平身低頭した。まさに下にも置かない歓待ぶりである。もっとも篭手切は恐縮し、豊前は辟易とするなど、受け手側の反応は今ひとつだった。

「私が再びこの本丸に戻れましたのも、ひとえに貴方がたの温情有ればこそです。このご恩に一体どう報いれば良いか見当も付きませぬが、せめて心ばかりの礼を尽くしたくお招きした次第で」
「あーあー、そういう堅苦しいのは無しで。美術品として崇められるならともかく、殿様扱いってえのは尻が痒くなっちまう。俺たちとしては友人の家に遊びに来たぐらいの感覚なんだ、その辺容赦してくれっと助かる」
 なおも続きそうな口上を豊前は慌てて遮った。不躾なのは重々承知の上だが、遠慮していては極上の煎茶も冷めかねない。人のできた翁は面倒な顔一つせず、豊前の嘆願を聞き入れた。

 新たに嵌められた硝子戸の向こう、実を付けた楓が枝葉を揺らし、複雑な輪郭の木陰を地に描いている。剪定の進んだ庭は雅趣に富んでおり、荒れ放題だった嘗ての面影は無い。
 桑名が木々の瑞々しさに言及すると、秋田は喜々として日本号の名を口にした。いかな天下三名槍だろうと働かざる者食うべからず。酒を人質にされた正三位は、庭師として日々本丸の景観に気を配っているらしい。
 他にも茶請けに出された草餅は燭台切の手製で、材料のよもぎは秋田が採集してきたものである。色々と立ち行かないことも多いが、経理面は博多が管理しているため問題は無い。
 人手が足りなかろうと、この本丸はいつも賑やかで活気に満ちているのだろう。長谷部や秋田に挟まれ、現状を語る主人は肌の色艶も良く、良い意味で老いを感じさせなかった。

「やはり江の刀はどの本丸でも個性派揃いだね」
「ですね、うちの篭手切さんも「げりららいぶ」をよくやって、鶴丸さんや子竜さんから拍手を貰ってましたよ!」
「やるのは構わんが、あれの見学で職務放棄するやつも多かったのがな。そもそも歌ってる刀の中にも内番をサボっている男士が一振り交じっていたが」
「そんで長谷部が毎回しょっぴいてたってわけか。はっはー、お疲れさん」
 長谷部からの突き刺さるような視線も意に介せず、豊前は呵々と笑った。自分と同じ刀を指しての発言とは露とも思っていないようだ。大物である。

「そちらの篭手切さんたちもすていじをやられるのですか?」
 秋田から話を振られるも、篭手切は咄嗟に言葉を返すことができなかった。
 二月ほど前の篭手切なら堂々頷いていただろう。江の刀と出会ってからは、仲間と共に観衆を沸かせることが彼の夢だった。その切望から目を逸らしたのは、他ならぬ篭手切自身である。
 秋田にとっては何気ない質問のつもりだった。長谷部や彼の主も同じ認識である。事情を知らぬ三者は押し黙った篭手切を案じ、揃って眉を八の字にしていた。
 気まずい沈黙が続く。広間にあって聞こえるのは、時を刻む秒針の音だけだ。重苦しさにいよいよ耐えられなくなり、秋田や豊前が口を開く――よりも先に動いた者がいた。

「もうだめだ」
 限界を訴えたのはまさかの桑名である。篭手切や長谷部たちはおろか、豊前までもが相棒の行動に面食らっている。皆の注目を集めた打刀は、物憂げな溜息を吐き出し、
「いい加減にここの畑が見たい」
 期待されていた内容とはまるっきり異なる方向に舵を切った。

 うろこ雲が淡い空色の中をゆったりと泳いでいる。踏みしめる土は耕したばかりで実に軟らかい。冬場に向けて畝が多く作られており、中には頂きに小さな双葉を抱えているものも有った。それら一つ一つに、桑名は愛らしいと言葉を掛けていく。傍から見れば異様以外の何者でもない。
 もっとも大なり小なり、桑名江と交流の有る面々である。別の本丸の長谷部たちもさして驚くことはせず、秋田に至っては桑名の隣で同じく野菜を慈しんでいた。
 先の緊張が嘘のように弛緩した空気が流れている。どこまでが天然で計算なのか定かではないが、篭手切は正直兄の奇癖に感謝していた。

「うちの畑を桑名殿も気に入って頂けたようで何よりです」
「はは。桑名さんのあのはしゃぎよう、おそらく収穫も期待できますよ」
「おお、それは僥倖です。長谷部たちが頑張ってくれた甲斐が有りました」
 畑を遠巻きに、篭手切は老父とふたり並んで話し込んだ。長谷部は桑名に助言を請い、豊前は巻き込まれるのを恐れて厩の方へと避難している。今日の馬当番は博多というから、今頃は旧家の誼で盛り上がっているだろう。残された篭手切は必然的に審神者の話し相手を務めることになった。

 違う本丸の主ではあるが、嘗て八十以上の刀を従えた実力者だけあって随所に貫禄が感じられる。しかし落ち着いた物腰のお陰か、相手も萎縮せずに遠慮無く言葉を交わすことができた。篭手切も例外ではなく、強いられているわけでもないのに自ずと口が軽くなる。
「篭手切殿さえよろしければ、鬼の居ぬうちにこっそり抜け出しませんか」
 悪戯めいた笑みを浮かべ、翁は篭手切にそっと耳打ちをした。視線の先には、熱心にメモを取る長谷部の姿がある。返事をする暇も与えず、審神者は客人の背を押して移動を促し始めた。
 篭手切が苦笑する。往年の長谷部は主の気まぐれに相当振り回されたに違いない。悩みの尽きぬだろう近侍に同情しつつ、篭手切は老父の案内に従った。

 畑から離れ、開けた場所に出る。いかにも日本庭園といった趣のある中庭と異なり、灯籠や庭石といった意匠は見られない。代わりに大輪の秋桜が四方に咲き誇り、その中心には絵馬掛け所のような場所が設けられている。ただ吊されているのが絵馬でないことは明らかだった。数多の木片には、世に名高き刀剣らの号や紋が刻まれている。

「彼らの欠片はもう有りませんが、人という生き物はどうにもこうにも形に拘りたがる。私みたいな俗物なんかは特にね。これは、うちの金庫番を口説きに口説いて、なんとか作ってもらった自慢の逸品ですよ」
 風に揺れる札を翁がひとつ、掬い取る。表面には江雪左文字と記されていた。今この本丸に暮らしている、五振りには含まれない刀である。

「いつかまた彼らの二振り目を顕現する日が来るかもしれません。しかし、同じ名を冠し、同じ姿を得たとしても、以前共に戦った刀たちが帰ってくるわけではない。一振り目は一振り目です。既に散ってしまった彼らに、私ができることとは何でしょう。大志を遂げるというのが最高の餞とは存じますが、これは一朝一夕で叶えられるものじゃない。ならばせめて、草葉の陰から見える景色くらい華やかにしてやりたいと思いましてね」

 薄桜と紅色の花弁が時に重なっては離れる。刀折れし後の付喪神がどうなるのか、篭手切には未だ解らない。ただ、仮に志半ばで斃れたとしても、秋桜畑に囲まれた墓に入ると思えば悪い気はしなかった。
顕現順に並んでいるらしい札を篭手切も手に取る。馴染み深い男士の名を眺めながら、篭手切はあることに気付いた。
 篭手切、豊前、桑名。話題にも上った刀たちだが、江の木片は誰ひとりとして掛けられていない。

「あの、この本丸にいた江の刀たちは」
「ああ、やはりお気付きになられましたか。彼らは他の者と違い、戦場で折れたわけではなく、ある日忽然と姿を消したのです。始めに豊前が、それを追うように桑名もいなくなりました。長谷部から聞いた話では、私が去ってから篭手切も行方を眩ましたそうです」
「何でまた」
「それは彼らにしか解らないことでしょうな。逆に、同じ江の刀として篭手切殿は何か思い当たることはございませんか」

 問われて、篭手切は黙考する。同じ刀工に打たれたといっても、その思想や言動を必ずしも酌み取れるわけではない。現に篭手切は、兄弟が夜ごと睦み合う仲になっていたことすら勘付かなかった。
 ヒトが思うより、鋼同士の繋がりは弱いものなのだろう。悩んだ末に篭手切が口にしたのは、どうでしょうね、という毒にも薬にもならない一言だった。

「りいだあも桑名さんも自由な御仁で、私ごときが推し量れるような刀ではありません。或いは先の二振りが失踪したのも、余人には想像も及ばぬ深謀遠慮が有ってのことかもしれません」
「ほほう。桑名はともかく、豊前はそういう器用な真似ができる刀ではないと見ていましたが、篭手切殿はそう思われますか」
「あくまで可能性です。私に判るのは、こちらの篭手切江もまた、兄たちに置いて行かれたということだけですよ」
 自嘲めいた口調で篭手切が断ずる。もし己が同じ立場なら、豊前の捜索に自分も連れて行くよう桑名に縋っただろう。しかしながら、三振りが消失した時期はそれぞれ異なる。
 提案の有無はさておき、篭手切の同行は叶わなかった。たとえ時や場所を違えようと、篭手切江が迎える結末は変わらないらしい。

「篭手切殿」
 翁は相手が何百年の時を過ごした神の一柱ということを重々承知していた。それでも悲痛な面持ちで、砂利に視線を落とす篭手切は、外見相応の少年にしか思えない。
 嘗て短刀たちに喜ばれたように、藍墨の色をした頭髪へと手を伸ばす。老いた指先が篭手切に触れる寸前、辻風が吹いて草花を薙ぎ倒した。
 それから僅かな間も置かず、胸に衝撃を受けて老体が地に尻をつく。彼を突き飛ばした篭手切は、自らの得物を掲げ、不意打ちの一刀を受け流していた。

「手荒な真似をして申し訳ございません。不届き者の誅伐は承ります故、審神者殿はどうか安全な場所までお下がり下さい」
 鞘を払った篭手切が、距離を取った影と改めて対峙する。
 敵は襤褸ぼろに身を包んでいて、その全貌は知れない。もっとも、この距離まで気取られることなく、敵地への侵入を果たした時点で只者でないことは確かだ。相手にとって不足なし。先の鬱積も忘れ、篭手切は敵の身体を裂くことにのみ意識を集中させた。

 切り結ぶこと数合、篭手切は影の動きに妙な違和感を覚えていた。
 腕を狙った一撃を払いのける。灰黒の刀身が装甲の表面を微かに削った。この表現は比喩でない。篭手切の皮膚を幾度も掠めた刀は、およそ尋常の鋼とは思われぬ色合いをしていた。切っ先からはばきの手前まで、その身は墨で染めたように黒ずんでいる。焼身や塗料によるものでないことは切れ味が保証していた。

 篭手切が予想していた通り、実力は五分と五分である。一進一退の攻防が続くのも道理なはずだが、篭手切はどうにも不安を拭えなかった。敵の得体が知れないのも要因ではある。しかし篭手切を苛むのはもっと根源的な、本能が鳴らす警鐘のようなものだった。
 影が跳躍し、秋桜の海に沈む。がさがさと掻き分ける音は次第に篭手切から遠ざかっていく。逃すまいと篭手切も薄紅色の畑に身を投じた。

 秋桜の全長は青年の腰にも届かないぐらいである。いかに小柄といえど、侵入者の身を隠すには及ばない。篭手切が標的を見失うことは無かった。
 それまで駆け続けていた敵が突如として足を止める。篭手切が襲撃に備えると、つと視界が暗くなった。見れば襤褸が天上を覆っている。目眩ましに投げつけられた布は敢えなく切り裂かれ、迫る凶刃も鞘で受け止められた。奇襲を見事防いだ篭手切だが、そのかんばせは驚愕の色で染まっている。

 外套を棄てた男の容姿がここに来て明らかになる。あにはからんや、艶やかな黒髪に新緑を彷彿させる双眸、幼さを残した顔立ちは篭手切と瓜二つである。
 衝撃のあまり、篭手切は一瞬とはいえ致命的な隙を晒した。血飛沫が男の頬を叩く。袈裟切りにされた篭手切は、受け身も取れず土の上にどうと倒れ込んだ。

(ああ、そうだったのか)

 薄れ行く意識の中、篭手切はようやく事の絡繰りを知った。実力が伯仲するのも、戦い方にどこか既視感を覚えるのも道理である。自分が矛を交えていた相手もまた、郷義弘が作刀、篭手切江だったのだから。

 

 石筍から雫が滴り落ちる。皮膚を伝う冷たさに身を捩るも、何故だか満足に動くことができない。はっと目を覚ます。両目を見開いた篭手切は、自らが緊縛の憂き目に遭っていることを察した。
 手足の自由が利かないならせめて、と篭手切は視線をめぐらせる。壁や天上は凹凸も疎らで、おそらく天然の洞窟だろう。基地として利用し始めたのはつい最近なのか、無造作に積み上げられた荷が周囲に散らばっていた。
 どうやらここは突き当たりのようで、道は篭手切の前方にのみ続いている。遠くからはヒトならざる者の気配が複数感じられた。目視するまでもない。宿敵たる時間遡行軍の刀たちだ。
 不揃いな足音が近づいてくる。禍々しい異形が居並ぶ中に、一人完全なるヒトが混じり込んでいた。左右に化生を侍らせた男は、捕虜となった篭手切を見下ろすや、醜悪な笑みを顔に貼り付けた。

「気分の方はいかがかな篭手切江」
「お陰様で最悪の一言です」
「それはそれは申し訳ない。色々と急拵えなものだから、座り心地の良い椅子の一つも用意できない有様でね」
 男がわざとらしく首を竦める。やたら仰々しい態度は、自らの有利を疑わない姿勢から来るものだろう。彼の脇を固める兵のみを数えても十は下らない。何より男は、既に同じ篭手切江を手中に収めている。戦い方すら互いに熟知しているのだ。隙を突いて逃げるという考えは、端から捨て去っておくべきだろう。
 忌々しいとばかりに、篭手切は自らと同じ姿形をした刀を睨め付ける。再び襤褸を纏った青年は眉一つ動かそうとしない。大義を捨てながら平然としている同胞を前に、篭手切は腹の底で沸々と激情が煮えたぎるのを感じていた。

「同じ篭手切江として私は貴様の存在を情けなく思うぞ。自らが肉体を得た理由も忘れ、かような卑劣漢を主に戴くとは蒙昧の極み。いっそ折れてしまった方が救われるだろうに、そうまでして生にしがみつくのはどういう了見だ」

 およそ同族嫌悪ほど根の深い感情は存在しない。篭手切は憤りに任せ、舌鋒鋭く裏切り者の不明を詰った。弁明の言葉は返ってこない。
 開き直ったか、と歯噛みする篭手切だが、その認識はすぐに改まることになった。全身を覆う布の下、俯く青年の面差しには微かに悲哀の色が浮かんでいる。その表情が意味するところは一つだ。冷や水を浴びせられたような心地である。怒りの矛先を見失い、篭手切は戸惑った。
 狼狽する刀を余所に、どこからか忍び笑いが聞こえてくる。遡行軍を束ねる男は、捕虜と配下のやり取りを前に恍惚にも似た笑みを浮かべていた。

「そう手厳しいことを言うものではないな。君と一緒で、こちらの篭手切江も中々に夢見がちでね。たとえ意に沿わぬ命だろうと、希望を見出した以上は縋らざるを得ない。なんともまあ、いじましい性格をしているじゃないか」
 迂遠な言い回しである。篭手切は苛々しながら、芝居がかった台詞の続きを待った。焦れる神の醜態が余程気に召したのだろう、男の肌が興奮で赤らんでいく。
 次に男は側近に目配せをして、奥に控えていた兵を呼び寄せた。編み笠を被った武芸者が前に進み出る。主に命ぜられ、姿を現したのは敵の打刀だった。
 見慣れたはずの宿敵を目にするなり、篭手切は声にならぬ叫びをあげる。彼の人外が掲げるは江の刀が二振り、豊前と桑名に他ならない。

 

+++

 

 ある日、遠征部隊の一振りが重傷を負って帰ってきた。つい先日顕現したばかりの刀である。まずは人の身に慣れてもらおうと、審神者は短期間で終わる遠征を彼に命じた。経験を積ませるつもりなら妥当な采配だろう。目付役に練度の高い刀も同じ部隊に組み込んだ。盤石の態勢で臨んだつもりが、結果は散々なものだった。
 条件が容易な遠征先には、遡行軍も斥候程度の兵力しか送らない。だからこそ新入りが経験を積むのに適当なのである。しかし実際に男士たちが遭遇したのは、修行した刀ですら苦戦するだろう精鋭部隊だった。三振りのみで構成された遠征組は、まさに命からがら本丸に帰還した。もしや違う時代に飛ばされたのだろうか。一瞬脳裏を掠めた疑問を、町並みや道行く人々の格好が否定していく。以前調査したときと何一つ様子は変わっていない。変わったのは、男士たちを取り巻く戦況の方だった。
 本丸全体が俄に慌ただしくなる。担ぎ込まれた仲間を案じる者は多く、手入れ部屋の前はいつにない混雑を見せた。

 篭手切の見舞いを終えた桑名が廊下へと出る。首を左右に振って目的の刀を探すも、兄弟の姿は見当たらなかった。暫し考える。桑名の爪先は私室でも大広間でもなく、屋敷の外に向けられた。
「豊前」
 桑名がくたびれた背中に呼び掛ける。果たして尋ね人が居たのは、喧噪より離れた納屋の奥だった。

 本日、遠征に出ていたのは三部隊である。第二部隊が歌仙、篭手切、桑名、蜻蛉切。第三部隊が蜂須賀虎徹と源清麿に水心子正秀、そして第四部隊が豊前江と秋田藤四郎、それに不動行光だった。
 第三部隊の一報を受け、他の部隊にも急ぎ帰還命令が発せられた。しかし、部隊の全員が常に行動を共にしているわけではない。単身調査をしていた男士は、例外なく遡行軍の脅威に曝された。
 秋田も不動も既に修行を終えている。滅多な相手ではおよそ太刀打ちできまい。彼ら自身が望んでいた節も有ったが、最終的な判断は隊長である豊前が下した。幸い秋田への救援は間に合ったものの、不動とは合流できず仕舞いだった。
 強制帰還プログラムの発動により、豊前は秋田と二振りで本丸の門をくぐることになった。豊前が回収できたのは、不動明王の彫られた短刀のみである。
 彼が持ち帰った刀はすぐに手入れを施されたが、付喪神である不動が帰ってくることは無かった。こうして刀身が無事である以上、肉の器を持った彼も健在なはずである。その憶測は、豊前の心を慰めるには至らなかった。

 豊前は埃っぽい床に蹲ったまま、微動だにしない。肩を震わせているわけでも、鼻を啜る音が聞こえるわけでもないが、桑名は親友の頬が濡れていることを察していた。
 理論立てて不動の安全を説こうと、豊前は納得しないだろう。桑名は兄弟の性分をよく知っていた。上っ面だけの言葉は意味を成さない。桑名は膝を抱える豊前の背に回り、黙ってその身体を後ろから抱きしめた。豊前は桑名の腕を拒まなかった。寧ろ己以外の温もりに安堵したのか、ややすると声をあげて嗚咽を漏らすようになった。

「ふ、どう、ごめん、ごめんな……!」
 一度堰を切ってしまえば後は止まらない。豊前は頑是無い幼子同然に泣き腫らし、桑名はそんな友の髪を撫でやり、一晩中傍に居続けた。

 旭陽が畳の上に格子柄の影を落とす。夜が明け、豊前は親友の腕の中で目を覚ました。
 畑仕事の関係で桑名は朝に強い。寝坊とは到底縁が無く、豊前より遅く起きることは稀だった。その桑名が朝餉の時刻近くになってなお寝息を立てている。豊前が布団から抜け出しても起きる様子は無い。
 ぐずる友を部屋まで連れ、豊前が寝入るまで、いやその後も見守っていたのだろう。親友の面倒見の良さに豊前は感心すると同時に驚愕した。

「あんがとな、桑名」
 まだ夢の住人である兄弟に語りかける。桑名は口元をもごもごと動かすだけだったが、豊前は意気揚々と広間に向かって行った。

 悪い意味で盛況だった廊下の渋滞も今では落ち着いている。人気の無くなった手入れ部屋を覗き、豊前は弟分の回復を知って一息ついた。不動のことは気掛かりだが、引き摺ったところでどうにもならない。豊前江は切り替えも早い刀である。篭手切の快気祝いと桑名への礼を兼ね、食事を終えた足で万屋まで赴くことにした。

 土産を見繕い、人混みの中を行く。日夜戦に明け暮れる付喪神と違い、町の中は平穏そのものである。昼下がりから刃傷沙汰が起こることはまずなく、帰路につく豊前も肩の力を抜いていた。
 有り体に言えば油断していた。機動に優れた刀らしからず、男とすれ違うまで豊前はその違和感に気付きもしなかった。
 慌てて振り返る。全身が沸騰したように熱い。豊前は決死の形相で目的の人物を探した。

 戦場で幾度となく刃を交えたからこそ判る。先ほど行き違った男はヒトの仔ではない。同じ鋼より生まれながら、志を異にする不倶戴天の敵。見間違いようもなく遡行軍の刀が一振りである。
 幸い見失うほど遠くには行っていない。豊前は人通りの多さを利用し、男の動向を追った。暫くして路地に入るのを目撃し、やや間を置いてから自らも建物と建物との間に身体を滑り込ませる。男は狭い通路に立ち止まっていた。尾行を撒くつもりなど毛頭無かったのだろう。寧ろ豊前は誘い込まれた。現時点で得物を抜かれていないのが不思議なくらいである。

 ふたりの間は十歩ほど、豊前なら一足で詰められる程度の距離だ。いつでも奇襲に応じられるよう気を張る。警戒する豊前を嘲笑うかのごとく、男はひたすら緩慢に振り返った。一括りにされた黒髪が揺れる。その根元を縛る葡萄色の紐は、豊前にとっても見覚えの有るものだった。

「きさん、それを、どこで手に入れたッ!」
 豊前の怒号が空気を震わす。血走った目を向けられ、殺意を露わにされながら男は泰然としていた。憎悪を嗤笑で受け流し、遡行軍の刀が紐の先を口元に運ぶ。

「その気迫、表情。貴様の方が不動明王の刀に相応しいのではないか?」
 黒血が周囲の壁を千々と穢す。一刀の下に斬り伏せられ、男は舌を出した犬のような格好で絶命した。

 息を荒げ、豊前は屍体の前に立ち尽くす。仇討ちしたという達成感も無い。虚しさばかりが募りながら、ひとまず不動の髪紐を拾おうとしゃがみ込む。その無防備な背を複数の影が襲った。
 地面に叩きつけられ、豊前の口からくぐもった悲鳴がこぼれる。激痛に苛まれてなお豊前は激しく抵抗したが、数の暴力の前には為す術も無かった。

 豊前が帰らぬまま一夜が過ぎる。素より二日三日留守にすることが多い刀だった。彼の練度が上限に達していることも有って、大事に捉えている者など片手で足りるだろう。その数少ない例外が、同派の篭手切と桑名、先日部隊を同じくした秋田である。探しに行った方が、と懸念する二振りを桑名は優しく諭した。

「心配しなくても大丈夫だよ。何も言わずふらっと出て行って、気まぐれに帰ってくるのは豊前の悪い癖だからねえ。ふたりはでんと構えて、ハラハラさせたお詫びにお土産をたくさん貰っておけばいいんだよ」
 そう言われてしまえば篭手切たちは待つしかない。こと豊前に関して、桑名ほど扱いに長けた刀は居ないのである。
 しかし口先では杞憂を謳いながら、桑名も負けず劣らず兄弟の行方が気掛かりだった。大抵の物は自作で賄える彼が、珍しく万屋に足を運んだのも仄かな期待を抱いてのことである。これといった品も無く、桑名は手ぶらのまま店を出た。
 行き交う人は多く、町中は活気に満ちている。豊前は江の中でも一等華やかで目立つ男だ。たとえ雑踏の中でも歩いていれば自ずと目に付く。桑名はそれとなく周囲を見渡したが、慣れ親しんだ神気は終ぞ感じられなかった。

(そう美味い話は無いかあ)
 見つかれば儲けもの程度である。さほど落胆することもなく、緩めた歩調を戻しかけたときだった。
 桑名の視界を鮮やかな紅色が過ぎる。見間違えるはずがない。誰より迅く駆ける彼に従い、風に靡いていた布は桑名にとっても印象深いものだった。布の先端が角を曲がる。豊前の手掛かりを桑名は迷わず追いかけた。続く足音を聞き、影が微笑する。暗がりに潜む悪意は、餌につられた獲物が近づくのをじっと待ち続けた。

 

「知らない人に付いて行ったらだめだよお豊前」
 間延びした親友の声が耳を打つ。憔悴し、朧気だった豊前の意識は急に浮上した。覚醒したての五感で真っ先に機能したのは、視覚ではなく嗅覚である。
 豊前を迎えに来た兄弟は、その左手に新鮮な肉塊を引き摺っていた。見れば衣装にはたっぷりと血化粧が施されている。豊前は思わず敵に同情した。戦は好きではないと公言するこの男は、一度箍を外してしまえば自分より余程容赦が無いのである。

「結構な色男が迎えに来たと思ったら、台詞が母ちゃん丸出しで笑うわ」
「そういう豊前もいつも以上に男前になってるねえ。ぷろでゅーすしたのは誰かな、是非お礼をしないと」
 豊前は返り血を浴びた桑名を、桑名は痣だらけの豊前を見て軽口を交わす。
 奇妙な光景だった。とある高層建築の地下フロア、居並ぶは鎧武者と動く骸の軍団、それらに取り囲まれるようにして豊前は床に倒れている。どう考えても桑名に勝機は無い。多数の敵に対し単騎、加えて仲間は敵の手中に在る。
 それにもかかわらず、侵入者は武器を構えたまま悠々と佇んでいた。何かしら策が有ってのことか、或いは単に気が違ってるだけなのか。敵の底知れ無さに、遡行軍の兵たちも固唾を呑んだ。

「単刀直入に言うよ。そこで転がってるうちのりいだあを返してくれないかな。君たちだって頭数が減るのは困るよねえ」
 桑名が一歩踏み出す。案内を務めていた化生はあっさり手放され、床に崩れ落ちた。臓器の潰れる嫌な音が響く。人を模していた身体は土に還ることなく霧散した。
 鬨の声が周囲に反響する。同志の死を切っ掛けに、張り詰めていた遡行軍もいよいよ迎撃に出た。

 翡翠色をした蜻蛉玉が激しく舞う。その小さな飾りに映る様相は、ヒトが想像する地獄によく似ていた。
 胴体から離れた四肢が赤黒い染みを広げていく。ぐちゃぐちゃに踏み潰された肉片は、もはや手だったのか足だったのかも判断がつかない。たとえ自分の身体を構成していた部位だったとして、彼らは気にも留めないだろう。鮮血で出来た滑りに足を取られたが最期、瞬きをする間には白刃が我が身を断っているのだから。

 恐慌が漣となって兵士に伝播する。蹂躙されているのは単身敵地に乗り込んだ愚か者ではない。淡々と敵を屠り、その屍を足蹴にする悪鬼を誰が弱者と誹れようか。侵入者とて手傷は幾つも負っている。ただ腹を切られ、胸を突かれようと男は決して怯まなかった。痛覚など忘れたように猛然と得物を振るう。
 気が違っている、という相手の予想も強ち的を外してはいなかった。己の進退すら構わぬ桑名の攻勢は、狂人の振る舞いと何ら変わりない。
 がむしゃらに突っ込んでも被害が増えるだけである。流石に学んだ遡行軍は桑名から距離を取った。円陣を作り、その中に侵入者を閉じ込める。一斉に攻める機を窺っているらしい。たったひとりの敵に対し、随分とまあ及び腰なことだ。桑名は呆れたように溜息をついた。

「まだやるつもり? 烏合の衆で掛かっても無意味だって解ったなら、さっさと豊前を解放してほしいんだけど」
 虚空を軽く薙ぎ、刀身の穢れを振るい落とす。ゴーグルの奥に潜む稲穂色は、自らを囲む軍勢に対しまるで無関心だった。とうの昔に良心を捨てた外道者すら、悠然と歩く今の桑名には恐怖を覚える。遂に限界に達した兵がひとり愚行に走った。

「ぐぅ……!」
 無理矢理に顔を上げさせられ、豊前が低く唸る。一点の黒子を宿す首筋には、ぴたりと抜き身の刃が突きつけられていた。次いで、動くなというお決まりの文句が続く。豊前を人質にとった兵士は勝利を確信し、不格好に嗤った。

「それで?」
 死すら厭わず助けに来るくらいだ、それほど執心の相手をまさか見捨てるはずがあるまい。そうした淡い期待を、桑名の一言は敵の腸ごと斬り捨てた。

「殺したいなら殺せばいいよ。残された僕は君たちを大地に還し、豊前の欠片を持って本丸に帰るだけだ。ハッタリかどうかは――試してみれば判るんじゃないかなあ?」

 桑名の提案に応と返す者はいない。試さずとも目の前の刀が本気であることは明白だからだ。
 交渉の道具にならない人質など単なる足手まといである。豊前はあっさり手放され、遡行軍は一丸となって侵入者の排除に当たった。先ほど以上の混戦が展開される。長槍が桑名の脇を貫き、桑名の刀が敵を袈裟切りにすれば、血飛沫の合間から骨の怪物が飛び出した。
 鉄錆の臭いが一段と濃くなっていく。それが死臭とほぼ同義であることを、豊前は本能で感じ取っていた。仮にこの場にいる遡行軍を駆逐したとして、帰還まで桑名の身体が保つとは思えない。このまま身動きとれず、親友の死をただ眺めているだけでいいのか。豊前江は、そのような仕打ちに耐えられる刀では無い。

「桑名ァ!」
 豊前が唯一自由となる口を動かす。雄叫びと金属音が入り交じる中、渇いた喉から絞り出された声を、桑名は聞き逃さなかった。

「いいか、俺は今から無茶苦茶なことを言う! 足りねえ頭で必死で考えて出した結論だ! どうにもできねえと思ったら忘れろ!」
「は、豊前が無茶苦茶言うのは、今に始まったことじゃないよっ! ちゃんと聴くから、できるだけ、手短にお願いねぇっ!」
「努力はする! 桑名がそうやって気張ってくれってとこ悪ぃけどよ! 俺は! お前のいない本丸になんて帰るつもりはねーぞ!」
「ふふ、ほんっと無茶苦茶言うねえ! それって僕が土に還ってないことが前提?」
「ったりめえだろ! 俺だけ帰るなんて真似したら篭手切から何言われっか判ったもんじゃねえ!」
「ああ、篭手切は怒らせたら恐いよねえ……それで? 具体的にどうすればいいの、りいだあ」
「そこは桑名お得意の弁舌で、なんつうか、上手いこと言いくるめてくれ!」
「あはは、清々しいほど人任せだねえ! 結果、どうなっても文句言わないでよお?」
「はっ、それで全員揃って帰れるならめっけもんだよ」
「言ったね。約束、忘れないでよ」
 迫り来る凶刃を捌き、桑名は丹田に力を入れた。もう一滴たりとも無駄な血は流せない。我が身と引き替えに豊前を助けるつもりだったが、状況は変わった。

 桑名の頭部に影が落ちる。振りかぶられた大太刀が緑褐色の毛髪を散らした。虚しく空を切った鋼の間合い より内側、敵の懐に入り込んだ桑名が自らの鐺を巨躯に突き立てる。渾身の力で腹を撲たれ、さしもの大太刀も足元をふらつかせた。後方に傾いだ身体はそのまま床へと斃れ伏す。その上半身と下半身は繋がっていなかった。
 これが最後の長物だったようだ。残る短刀や脇差たちは桑名を遠巻きにして近づいてこない。

「さて交渉と行こうか。お互いにとって良い妥協点が見つかるといいねえ」
 柔和な笑みを浮かべ、桑名は何十もの敵を屠った白銀を鞘に収めた。
 おそらく、あと一太刀でも浴びせれば桑名江は折れる。それと気付きながら、遡行軍の残党は誰もこの男に刃を向けなかった。追い詰められた死兵が窮鼠の比でないことを、彼らは身を以て知ってしまったのである。

 再び夜が明けた。眠れぬまま隈のできた目元を擦り、篭手切が布団から上体を起こす。
 豊前どころか桑名までもが帰ってこなかった。思慮深い兄のことだから、外泊する際には必ず一報入れるだろう。早朝から審神者を訪ねるも未だ音沙汰無しらしい。
 気晴らしを兼ねて、篭手切は箒片手に門を開けた。落葉の季節だ、掃除し甲斐だけは有る。地面を掃こうとして視線を下に遣ったときだった。門柱の陰に隠れ、倒れている不動行光を篭手切が発見したのは。

 意識を取り戻した不動は、遠征から後の記憶が曖昧になっていた。
 相次いで失踪した兄弟の手掛かりを尋ねたが、篭手切が望む答えは返ってこない。不動の帰還と二振りの消失は別の事件なのだろうか。それにしてはあまりに出来過ぎている。疑惑に駆られる篭手切だったが、切迫する世の動向は彼に思索する余裕を与えなかった。

 遠征部隊が奇襲を受けたのは篭手切の本丸だけの話ではない。熟練、駆け出しを問わず、各地で遡行軍の活性化が報告されていた。こうなると部隊の編成にも気を遣わねばならない。資材確保のために、高練度の男士を多く遠征先に送り出す。本来前線に割くべき戦力を分散させたのである。敗走や撤退が相次ぐのは自明の理だった。
 傷を癒やすために資材が要る。資材を調達するために遠征に赴く。出先でまた負傷する。打開策は浮かばず、悪循環は続く。聚楽第や土佐藩の前例を持つ政府である。時代の放棄という選択を採るのに、それほどの抵抗は覚えなかった。
 止まった世界では、微かな希望に縋る者も居れば、使命に殉じて徒花を咲かせる者も居た。篭手切はそのいずれでもない。彼の刀に選択肢は用意されなかった。

 

+++

「貴様ッ! その二振りに一体何をしたぁ!」
 怒りも露わに篭手切が叫ぶ。尖り声を浴びせられた男は、さも愉快そうに口角を吊り上げた。これを笑わずして何とする。捕虜の疑問は、その一字一句に至るまで自らが従える篭手切の発したものと同じだった。

「見ての通り、うちで大事に管理させてもらっている。まあ、そう凄まないでくれたまえ。これは彼らから言い出したことで、我々はその提案に乗っかっただけなんだ。不動行光を還す代わりに、江の二振りはこちらに留まるというね。その後の処遇は好きにしろという話だったから、篭手切江の協力を仰ぐのに一役買ってもらったよ。はは、君の敬愛する刀は些か猪突猛進が過ぎるようだ。一振りの無事を確保するのに、二振りの犠牲を払い、あまつさえ兄弟刀まで巻き込むのだから性質が悪いとしか言い様がないよ」
「き」
 貴様ごときに何が解る。そう続けようとして、篭手切は言い淀んだ。

 自分の本丸に顕現した身内のことすら把握しきれていないのに、どうして別の本丸の江を弁護できるというのか。もしかしたら、彼の豊前と桑名は互いさえいればそれで良く、残された兄弟がどうなろうと関係無いのかもしれない。男への憎悪で忘れていた、捨て鉢な気持ちが篭手切の胸底に蘇る。

 ――己は兄弟の信も得られず、宿敵に捕縛されるような無能である。このまま生き恥を晒し、仲間に不利をもたらすくらいならば折れた方がましだろう。

 篭手切は浅く呼吸を繰り返した。手足の使えぬ今となっては、舌を噛むより他に自決の方法は無い。溜まった唾を嚥下する。張り付いた喉を潤し、いざ実行せんと篭手切が臍を固めたときだった。

「きさんに俺と桑名の何がわかるっちゃ道化!」
 一陣の風が吹く。音より迅く振るわれた凶器は、連なる白骨を砕くのに十分だった。異形の集う洞穴にあって、その刀は場違いに美しく、神々しい。

「りいだあ!」
「おう、遅くなってすまねーな篭手切!」
 血糊を飄々と払いつつ、豊前は篭手切の呼びかけに応じた。
 地に伏した兄弟、殺気立つ妖、小汚い外套に身を包む青年。これらを順番に眺め、最後に紅い眼が捉えたのは、この場における唯一のヒトの子だった。

「逃げてえなら逃げてもいいぜ皮下脂肪。ただし背を向けたが最後、その首が胴体と繋がっていられるとは思うな」
「やれやれ、所変われば品変わるというが刀の場合は当てはまらんらしい。江の刀は盲揃いか? どうしてこの戦力差を一振りで覆せると思う」
「は、簡単な話じゃねえか。そんなもん俺が強いからに決まってるだろ。っつーか、さっきも言ったけどよ――きさんごときが俺たち江を語るな、三下ァ!」
 言い切る頃には豊前の刀が男の喉笛から三寸の距離に迫っていた。刃先は肉に届くことなく、硬質の壁に遮られる。割り入った影は強引に豊前を押しのけるや、荒い息をついた。

「なんつう顔してやがる篭手切」
 豊前が語りかけたのは本丸を同じくする刀に対してではない。侮蔑とも憐憫ともつかぬ彼の感情は、仇敵に与する江の脇差に向けられていた。

「ちけっとがご用意されなかったときのうちの弟分だって、そんなひっでえ顔はしねえぞ。そこまで不満丸出しにするぐれえなら、さっさと後ろにいる豚のなり損ないを斬っちまったらどうだ?」
「りいだあ、彼は」
「ああ知ってんよ、やれるならとっくの昔にやってるってな。不甲斐ない兄貴たちでわりい、って代わりに謝ってやりてえぐらいだ」
 視線のみを動かし、豊前は元凶たる二振りを見遣る。同じ号を持つ刀といえども、彼らが何を思って虜囚の身に甘んじたのかは知れない。困った連中だと嘆きたいのは山々だが、しかし豊前には一つの確信が有った。それは共に生きることを誓った刀も同様らしい。もし囚われた二振りも同じ考えの下に行動したのであれば、豊前は彼らを責めることはできなかった。

「これ以上江の風評被害が広まんのは見てらんねえからな。篭手切、お前の悩みは俺が、いや俺たちが何とかしてやる。だからな、もうちょい肩の力抜いて過ごせ。歌って踊るときは、いつだって笑顔でなくちゃいけねーんだろ?」

 虚ろだった若草色に鈍く光が宿る。敵対する男が寄越した言葉は、嘗て自分が兄弟に投げかけた文句と何ら変わらなかった。
 篭手切が胸を焼く痛みに気付いたときにはもう遅い。豊前の飾り布は大将の脇をすり抜け、得物は切り札を持つ兵士に肉薄していた。首を落とされた切り口から鮮血が立ち上る。ぐらつく屍体は足下の砂埃を巻き上げることなく塵と化し、手にしていた二本の刀を宙に投げ出した。

「もらい――!」
 地に転がった刀を拾わんと豊前の指先が伸びる。柄巻のこわごわとした感触が伝わるより先に、豊前の全身を激痛が駆け抜けた。
「ガッ、ぐァ――!」
 長谷部の本丸で脱出を拒まれたときの比ではない。血液が沸々と燃えたぎり、幾度も串刺しにされたような痛みまでもが続く。さしもの豊前も膝を折り、整った顔立ちを苦痛に歪ませた。
 取りこぼした二振りの刀は雷火を迸らせている。よく見れば鞘の所々にひびが入っており、その僅かな隙間からは二色の噴煙がたちのぼっていた。赤と黄、豊前と桑名を象徴する色合いは、彼らの神気が漏れている証だった。

 豊前を呪った刀もまた呪われている。術者である男や彼の傘下である遡行軍の刀以外に、彼の二振りに触れられる者はいない。その条件は、節を屈し主を替えた篭手切にも該当した。
「無駄な抵抗はお止めください。呪いと張り合って壊れるのは貴方ではなく、私の兄たちの方だ」
 豊前の焼け爛れた肌を篭手切が優しく撫でさする。その甲斐甲斐しい手つきとは裏腹に、利き手にある凶器は闖入者の喉笛に据えられていた。

「おっと……? いいんか篭手切、自分んとこの大将ほっぽり出して俺みてえな一兵卒を深追いしちまってよ」
「今この場に貴方以外の脅威は無い。たとえ背後の捕虜が解放されようと、桑名江や篭手切江が豊前江を見捨てるとお思いか」
「だってよ桑名ぁ。あっさり見つかってんじゃねえか、頼むぜ」
「見つかるところまでは想定内だよお。豊前こそ勢いよく飛び出していった結果が人質とか迂闊にもほどが有るんじゃないかな」
 味方の揶揄を受け流しつつ、桑名は指を動かした。数分足らずの攻防の合間に、篭手切を縛る縄もほとんど用を為さなくなっている。桑名の小刀が最後の一本を断つ。篭手切が縄目から逃れると同時、豊前の肌に脇差の刃が食い込んだ。

「脅すんだったら、もう少し演出にも気を配った方が良いんじゃないかなあ。雨に濡れた子犬みたいな目を向けられても困るよお」
「減らず口を叩いたところで、この状況はひっくり返りませんよ」
「生憎と豊前からも許可は下りてるからねえ。武具を手にした時点で、戦場で散った仲間の欠片を持って帰る覚悟はできてるんだよ。後は君の度胸の問題だ」
 宣言通りに豊前を交渉の材料にされ、桑名が返した答えは否だった。唖然したのは非情の選択を突きつけられた豊前ではなく、二振りの篭手切の方である。

「見損なった。見損なったぞ桑名江……! 同じ号を冠していても所詮は違う刀か、私はともかく豊前江まで己の勝利がために切り捨てようというのか!」
「それって脅迫している張本人が言う台詞かなあ。もしかして笑うところ?」
「桑名さん、まさか本気ですか! だってりいだあは貴方と」
 恋仲、と続けようとした篭手切を桑名がやんわりと制す。

「ああ安心したよ篭手切。見損なったということは、少なくとも君は今の今まで桑名江を、兄弟たちを信じてくれていたんだねえ。それと知れただけで、この窮状を救う価値が有る」
 挑発的な物言いから一転、桑名の口調は弟を案ずるそれに変ずる。隣に立つ篭手切の髪を撫で、桑名は彼にだけ聞こえる声量で続けた。

「開墾は得意だからねえ、道は切り拓くよ。でも最後の仕上げはお願いしたいな。あの子を助けられるのはきっと篭手切だけだ」
 ひゅ、と息を呑む。桑名の言葉に籠められた感情を理解して、篭手切はじわじわと胸の内を熱くしていった。

 他ならぬ兄弟が己を頼み、後事を託してくれたことが、篭手切には何よりも嬉しく誇らしい。そこに在るのは確かな信頼である。
 もう悩む必要は無かった。篭手切は密かに渡された己の得物を握り直し、同じ号を持つ刀へと突進していく。もう一振りの篭手切が迎撃に回るのと、桑名が忍ばせていた草笛を吹くのとはほぼ同時だった。

 合図を待ちわびていた骨の妖が暗影の中から躍り出る。地面すれすれを滑空する伏兵の目的に気付き、狼狽したのは高みの見物を決めていた男だけだった。顎が二振りの刀を掴み、長い尾を揺らして主人の下へと帰参する。

「穢れた身体もたまには役立つものだな。骨を喰らい、生を貪った甲斐が有った」
 白い手袋が頭蓋を愛でるように触れ、従者の労をねぎらう。聖職者然とした格好の青年は、自らの影から殺生を糧とする化け物を生やしていた。
 持ち帰った刀を検分するや、また新しく伸びた手足が古ぼけた札を剥がす。拒まれるはずがない。青年が操る異形の兵は、嘗て遡行軍に籍を置いていた短刀だった。呪いは効力を失い、負傷に倒れていた豊前もやにわに立ち上がる。彼を押さえていた篭手切は、もう一振りの篭手切と揉み合ううちに外へと戦いの場を移していた。

「あんがとなあ、長谷部。お陰で後は好き放題できそうだ」
「なに、以前の借りを返したまでだ。それにこちらも身内の不始末を解決できそうで助かる」
 神気の流出が収まった二振りを手に取り、長谷部は軽く頷く。何の反発も生まないのを確認して、豊前と桑名にそれぞれ同じ神を宿す刀を投げ渡した。

「もののついでだ。生憎とそいつらの体力は限界らしくてな。代わりに振るって、鬱憤晴らしに付き合ってやってくれ」
「はっはー望むところだ。なあ桑名?」
「そうだねえ。ひとりで頑張ってくれた篭手切のためにも、ここでたっぷり借りを返しておかないとねえ」
 豊前と桑名は示し合わせたように抜刀し、折れる寸前の鋼に自らの肌を当てた。流れ出た血がひび割れた箇所を埋め、その神気を馴染ませていく。
 在りし日の輝きをようやく取り戻し、江の二振りは肉の器を持った刀に語りかけた。

 ――さっさと斬らせろ。

 好戦的な豊前だけでなく、穏健な桑名までもが敵の血肉を欲している。ああ、向こうの相棒も相当お怒りらしい。豊前はひとり笑ったが、桑名の様子を窺ってすぐに考えを改めた。
(いや、こいつは元から結構物騒な刀だったな)
 桑名の方は既に同胞の声に応え、屠った敵の血を頬に散らしている。負けじと豊前も逆襲に燃える刀を振るった。

 

 上下左右となく岩肌を蹴り、刀を交え、離れる。
 激しくぶつかる篭手切らは、手狭な洞窟を抜け出し、山中で鎬を削り合った。藪深い森林で剣戟を打ち鳴らす音が響く。鳥のさえずりも川のせせらぎも届かないのに、相手の脈拍だけは聞き取れた。
 戦況が膠着するにつれ五感はますます鋭さを増す。いかに声を潜め、樹木を盾にしようと索敵に支障は無い。それは双方共に言えることで、しかも彼らは正しく同一人物なのだから、条件はほとんど一緒だった。
 先の戦いと違い、互いの正体は既知である。攻めあぐねる二振りの緊張は最高潮に達していた。技量や知識で差がつかなければ、後は精神面の問題になる。

 その点、遡行軍に身を置く篭手切は冷静でいられなかった。あの場に残してきた桑名は仲間すら手駒扱いする冷血漢だ。本丸の異なる江の刀に配慮などするはずがない。一刻も早く戻らねば恥辱に塗れた日々が全て無駄になる。兄弟のためにも、自分のためにも、己と同じ姿形をした刀を疾く却けなければ。逸る気持ちが太刀筋を単純なものにしていく。そうと自覚はしていても、桑名の毒は遅効性のごとく今になって効いてくる。

「篭手切江」
 同じ篭手切が自らを呼ばわる。あれは真に先刻まで囚われの身だった男だろうか。絶望に浸っていた目は打って変わって強い意志を湛えている。この戦いを制した後の未来を信じて疑わない眼差しだ。それがひとりとなってしまった篭手切には気にくわない。
 あの男にはまだ背中を預ける兄弟たちがいる。それにもかかわらず、置いて行かれたなどと、別の本丸の審神者に、嘗て自分が仕えていた主に嘯いていた。いけ好かない上役の命令さえ無ければ、確実に叩き折っていたことだろう。自らがどんなに恵まれた存在かも知らないで悲劇を謳おうとは笑止千万である。

「君は君の兄弟たちが帰ってきたら、どうするつもりなんだ」
 投げかけられた問いは、篭手切が何度も夢想しては打ち消してきた希望そのものだった。豊前と桑名の生還は篭手切の悲願である。その目的が成された後、彼らと共に自分が生きていけるかと言えば答えは否だろう。

「また三振り揃ってすていじを目指したい。貴様が求めている答えとはそれか」
「私だったらそう答える」
「そうか。生憎、私は貴様ほど恥知らずではない。身内可愛さに怨敵に頭を垂れた裏切り者が、おめおめと元鞘に収まれるものか」
「恥を忍び生を選べと、他ならぬ兄たちが望んでいても?」
「居ない者の声を聴けるはずがない。それとも何か? 背を預けた兄たちすら信じられなかった貴様が、よもや別の本丸にいた江の真意を推し量ろうというのか?」
「まさか。そんな芸当ができるなら先刻のように頭を悩ませてはいない。今だってりいだあたちの考えていることが理解できているわけじゃないさ。当然だろう、私は豊前江でも桑名江でもない。二振りの心意は二振りから伺う。その権利を私は、篭手切江は与えられている。尋ねもしないうちから彼らを知った気になるなど、それこそ傲慢でしかない。ああ、私は! そんなことにも気付かなかった! 確かに君の言うとおり、私は! とんだ恥知らずだったようだ!」

 自虐する篭手切の二つ目は爛々と輝いている。己の非を認めながら、その四肢は末端まで活力が漲っていた。対峙している方の篭手切が気圧される勢いである。
 葉が散った。息もつかせぬ踏み込みに、背筋を冷や汗が伝う。問われた側の篭手切は力任せに相手を押し退け、再び敵との距離を取る。無理な姿勢からの迎撃が祟ったのだろう、後退した篭手切の息は明らかに乱れていた。

「勝負有ったようだな」
「っ、首も篭手も奪わぬうちから勝利宣言とは、愚かな」
「勝ったも同然だろう。戦いの果てに死のみを見据えている君に、これから続く未来を信じている私が、負ける道理など有りはしないからな!」

 篭手切の視界が揺らぐ。追撃を躱し損ねた身は重力に従い、その身体を地面に横たえることになった。

 梢の合間から青天が顔を覗かせている。仰向けになった篭手切は、全ての境界線が曖昧になった世界を前に敗北を悟った。弾き飛ばされた眼鏡を取ることは叶わないだろう。自らを見下ろす讐敵は僅かな身動ぎすら認めようとしない。最も負けてはならぬ相手に組み敷かれた篭手切が覚えたのは、懊悩や絶望ではなく虚脱感である。

(ああ、これで何もかも終いなのか)
 雪辱を晴らすことも、大願を成就させることもなく死を迎える。己の無力さを嘆く一方で、罪を重ねる日々からやっと解放される喜びは否定できなかった。瞼を閉じる。篭手切は静かに訪れるだろう終焉を待った。

「よっ、と」
 篭手切が目を見開く。変わらずぼやけた視界の端では、戦いを制した男が荷物でしかない己を抱えて歩き出そうとしていた。

「何の、つもりだ」
「そろそろ中の決着も着いているはずだ。私と君の兄弟を迎えに行こう」
「私には、迎えに行く兄弟など」
「あの桑名さんが何とかすると言ったんだ。きっと悪いことにはなってないさ」
 道すがら飛ばしてしまった眼鏡を拾いつつ、篭手切らは砦へと取って返した。

 洞窟の中は静寂そのものだった。詰めていた兵の数や、一触即発だった侵入者たちとの攻防を思えば不自然なほどである。捕虜よろしく連れて来られた篭手切が見たのは、壁にもたれて休む豊前、桑名の二振りと嘗て根城を同じくした刀が一振りだった。

「久しいな篭手切」
 以前よく目にした皮肉めいたものではない、純粋に旧知との再会を喜ぶ笑みを湛え、長谷部は口を開いた。その身が纏う雰囲気は正常の男士としてはどこか異質で、そして篭手切にとっては馴染み深くもある。彼の違和感の正体に気付き、長年耐え続けて来た脇差は「あ」と、小さく声を漏らした。

「全く江の連中は個人主義が過ぎるな。俺が言えた試しではないが、一振りでどうにもならんなら相談くらいしろ」
「本当、長谷部が言えた台詞じゃねえな」
 長谷部の小言にすかさず豊前が反応する。口の軽い友人を横目で睨みつつ、長谷部は勿体ぶったように咳払いをした。

「あーつまりだな。説教は後でいくらでもしてやるから、今はお前以上の問題児である二振りに積年の恨みをぶつけてやれ」
 長谷部の影から骨組みの従者がずるりと這い出る。魚が水中を行くように、長い尾はその身を以て篭手切の視線をあるべき場所へと誘導した。

「代弁なんて無粋な真似はしないよ。文句も恨み辛みも、寄越すなら張本人に向けてじゃないとねえ」
 豊前と桑名がそれぞれ鞘に収められた刀を差し出す。彼らと根源を同じくしながら、異なる肉の器を持っていた二振りは、何の抵抗も生まずに弟刀の手に渡った。もう支える必要は無いだろうと、寄り添っていた篭手切は同胞から離れる。

 気の遠くなるような年月を経ての再会である。次に言葉を交わしたとき、まず何を告げるべきか散々胸を膨らませておきながら、篭手切は何も言えずにいた。こういうとき、いの一番に口火を切るのはいつだって速さ自慢の刀だった。

 ――なげえこと心配かけてすまなかったな、篭手切。
 見えずとも、刈り上げた後頭部を擦り、苦笑いを浮かべる豊前の姿が篭手切にははっきりと浮かんだ。

 ――よく頑張ったね。篭手切ならきっとやってくれるって、信じてたよ。
 不可視の手が篭手切の髪を撫でる。兄弟の中でも体格に恵まれた彼は、いつも大きな掌で愛情を示してくれていた。

 両の手で握りしめた二振りの鞘を温んだ水が濡らす。大きな二つの若草色は次々と雫を孕んで、せっかく拾った眼鏡の表面を曇らせていた。

 ――ただいま、篭手切。

 なんてずるい刀たちだろう。そんな言葉を掛けられては、到底別れを告げることなどできやしない。もう自分は彼らと共に在る資格は無いというのに、仮初めの肉体を手放さなければいけないのに、さようならと返すべきなのに、己の唇はあろうことか理性を、これまでの苦労を裏切ろうとしている。

「おかえり、なさい。ふたりとも」

 篭手切は泣き続けた。思い描いていた結末とは違う、想像よりもずっと優しい着地点に、ただただ声を震わせる。

 日が沈む。黄昏を受けた薄紅色の畑が風にそよいでいた。秋桜に囲まれ、客人らと近侍の帰りを待つ翁の表情は晴れない。彼の傍らで主君を慰める秋田や博多も、縁側に腰掛ける燭台切や日本号も、少なからぬ焦燥に駆られている。彼らの愁眉が揃って開き、歓喜と驚愕の入り交じる声をあげるまで数刻。

 以後、この本丸では陽気な歌声が毎日のように響くことになる。その中心となる三振りから笑い声が絶えることは無かった。

 

+++

「人参頂き!」
「はいお手つき、それ生煮え」
 ぺしん、と手首を箸で叩かれた豊前が大げさに呻く。厳格な鍋奉行ぶりを見せる桑名だが、その打撃が猛威を振るうのは専ら相方に限られた。同席している篭手切がタイミングを見誤ることなど無いので、当然と言えば当然だろう。

「白菜やネギは良い感じになってきましたよ。はい、りいだあの分です」
「おお、あんがと! 持つべき者は気の利く弟分だなあ!」
「もう、篭手切はそうやってすぐ豊前を甘やかす。たまには待ても覚えさせないと駄目だよお」
「完全に犬扱いじゃねーか……」
「犬は鼻が利くから食べ頃を間違えたりしないよ」
「むしろ犬の方が上じゃねーか……」
 桑名の言い様にさしもの豊前も項垂れる。もっとも、煮えた野菜や肉を忙しくなく口に運ぶ姿を見るに本気で落ち込んではいないらしい。多少辛口な応酬は、篭手切にとっても見慣れたものだった。改めて、帰ってきたという実感が湧く。つみれを味わいつつ、篭手切はほうと一息ついた。

「桑名さんって、意外と好きな子はいじめちゃうたいぷだったんですね」
「ええ、僕は篭手切のこといじめたりしないよ」
「私とりいだあじゃ勝手が違うでしょう」
「どうして?」
「どうしても何も。りいだあと桑名さんは恋仲で、私はただの兄弟刀ではないですか」
「それって大した違いなのかなあ。せいぜい閨事をするかしないかの差だと思うよ」
 予想を斜め行く回答に、篭手切は危うく箸を取り落としそうになった。動揺しているのは一振りだけのようで、豊前も桑名の認識を否定しようとはしない。

「お、お二方の考えはそうでも睦み合う時間は必要でしょう。というか本当に恋仲になってたのなら教えて下さい。褥を共にした翌日は、その、体調だって思わしくないでしょうし、れっすんも控えませんと」
「あれ? 俺たちズコバコやらかしてるって報告してなかったっけ」
「してませんし、そういう報告されても間違いなく反応に困ります」
「豊前が意外と翌朝もピンピンしてるから僕もそこまで気にしてなかったよ。じゃあ遅れたけど僕たち突き合ってます」
「つきあうのにゅあんすが違って聞こえましたが気のせいですか、りいだあもその手つき止めて下さい」
 拳の間で抜き差しされる親指に侮蔑の眼差しが注がれる。大人しく手を下ろす豊前だったが、何故咎められたのか今ひとつ納得がいっていないようだ。

 それにしても頭が痛い。この二振りは関係を隠す気はおろか、報告の必要性すら感じていなかった。ここまで来るともはや信用云々以前の問題である。せっかくの慰労会だというのに、篭手切は疲労がどっと押し寄せてくるような心地がした。

「はあ……私は……何のためにあそこまで悩んで……」
「何だあ? ここんとこ様子がおかしかったのって、俺たちが寝たのを言わなかったせいなのか?」
「そういえば篭手切の気遣い屋さんなところを計算してなかった。これは失策だったねえ」
 種明かしを経てもマイペースな兄たちに構わず、篭手切は台上に突っ伏した。この間も鍋はぐつぐつ煮えている。早く取り出さねば、水菜や豆腐が悲惨なことになってしまうが、篭手切にそれらを掬う余裕は無かった。

「篭手切」
 ことり、と小さな物音が篭手切の傍近くで立つ。物憂げに首だけを動かせば、湯気を立ち上らせる陶器が置かれていた。桑名が指示し、豊前が盛りつけた具材だ。この二振りが協力して食べ頃を逃すはずがない。豊前が手ずから弟分に差し出した鶏肉からして、その味は保証済みである。

「俺たちはさ、好きなこともやりてーこともバラバラで、一緒に居ないことも多いよな。でも全員が全員、お互いのことが大切なのは確かだ。だから誰かが欠けそうになったり、折れそうになったら、とことん足掻くしえげつねえ手段だって使う。主に桑名が」
「否定しないけど、そういう手段を使わざるを得ない原因の半分は豊前にあったりするんだよねえ」
「信頼してんだよ知恵袋」
「信頼と投げっぱなしは違うからね切り込み隊長」
「あーもー混ぜっ返すな。つまりだ篭手切、こまけーことは気にすんな! お前がいなかったら誰が桑名を抑えて俺を甘やかしてくれるんだ」
「別にりいだあを甘やかす予定は有りませんけど」
「こ、篭手切さん!?」

 当然に味方だと思っていた弟分まさかの離反宣言である。豊前の顔面は蒼白となった。言うまでもなく、篭手切は最初から最後まで中立のため、裏切られたと思っているのは豊前のみである。
茶番を交えながら三振りの食事は進む。皆で揃って突く鍋は、誰もが想像した通り最高の晩餐になった。

 

+++

 

 泣き疲れた篭手切は、嘗てのように兄弟の膝を枕にして眠った。懐かしい重みと幸せそうな青年の寝顔に、豊前も相好を崩す。呼吸に合わせて上下する篭手切の黒髪を、桑名はその指先で梳いては慈しんだ。
 こうして弟を可愛がることができるのも、再び肉の器を得たからに他ならない。何十年、或いは何百年ぶりに手に入れた身体で、豊前と桑名は安息の時を過ごしていた。

「やっぱ篭手切は怒らせるとこえーよなあ」
「じゃあ僕の口車に乗ったこと後悔してる?」
「まさか。結果は上々だぜ、流石は桑名だ。お陰でまた皆揃って帰ってこられた」
 豊前と桑名の二振りと引き替えに、不動を本丸に返す。一見して男士らに不利な条件に思えるが、桑名の狙いは寧ろ自分たちが捕虜になることに在った。

 ――どうせ手負いの刀だ、放っておいても戦力にはならない。ならばいっそ縁有る男士を寝返らせるのに使ったらどうだ。人質としての価値は保証する。

 まさに舌先三寸。戦況が傾きだしたとはいえ、余計な交戦は控えたい遡行軍の上役は、桑名の提案を快く受け入れた。破壊寸前の刀が、よもや兄弟を負け戦から救い出すために講じた一手だとは思いも寄らなかっただろう。
 敢えて本丸に連絡を付けず、桑名が単身敵地へ赴いた理由の一端はそれである。仮に豊前を救えなかったとしても、彼の刀を留めておけば兄弟想いの篭手切は必ず誘いに乗るだろう。

「あんがとな、桑名。今回ばかりは、感謝してもしきれねえ」
「ううん、こっちこそありがとう。豊前が止めてくれたから、僕も折れずに済んだんだよ」
「何だよ、俺は自分のやりてーことを言っただけだぜ」
「僕のいない本丸に帰るつもりは無いって言ってくれたよね。その言葉が聞けたから、土に還るのを先送りにしたんだよ」
「そっか。じゃあ今後桑名が出陣するたび言ってやんよ。いいか、ちゃんと俺が帰る場所を守れよ」
「うん。頑張るねえ」
 ふと豊前の視界が暗くなる。照明を落としたわけではない。その証拠に、一瞬だけ落ちた影は遠ざかって、光は元の明るさを取り戻している。

「は」
 鏡を見るまでもなく、豊前は今の自分が呆けた顔をしていると確信した。少し濡れた唇が、先の感触が夢でなかったことを物語っている。
「この身体を失ってから、ずっと考えてたんだ。触れられるうちに、いっぱい豊前に触れておけば良かったって」
 少し前まで篭手切を撫でていた掌が、今度は豊前の頬を滑る。悪戯に動き、時折耳朶や前髪を弄う手つきは、およそ兄弟に向けるものではなかった。

「別の本丸の僕に聞いて知ったよ。こうして豊前に触れたい、肌を重ねたい、口を吸いたいって思うのは、ヒトで言うところの恋なんだってさ」

 桑名の告白に、驚きばかりが優先していた豊前の顔に朱が差した。どくどくと脈打つ鼓動は常より速い。横から抱き込まれ、豊前は果たして激しくなる動悸がどちらのものなのか判らなくなった。
 以前に納屋で慰められたときとは全く違う。桑名に触れられた箇所のどこもかしこも熱く、心地良い。
 身を捩り、豊前は相方のかんばせの半ばを覆う前髪を掻き分けた。滅多に見られぬ稲穂色には愛しい刀だけが映っている。その小さな姿見を豊前が見ていられたのも束の間のことだった。

 桑名の目が細められる。同時に近づく影を、豊前は今度も拒まなかった。

 

 

 

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