はきだめまぼろしゆめうつつ

 

 

 眩しい。そういう感覚を捉えたのは、一体いつぶりだろう。泥濘の中に沈んでいた意識は突然呼び覚まされ、これまで自分が眠っていたことに初めて気付いた。
 瞼をおそるおそる開く。闇を振り払った先に広がっていたのは、色鮮やかな紫色だった。

「燭台切」

 紫の彼が僕を呼ぶ声は、記憶していたものよりずっと優しい。懐かしさ、切なさ、愛おしさ、様々な感情が渦巻くが、そのどれもが目の前の美しい男に向けられたものである。
 足を前に動かし、手を伸ばす。引き寄せた身体は僕よりも小さく、服の上から受ける印象よりも細かった。
 あからさまに強張った身体を思う存分抱きしめる。ちょうど僕の鼻先をくすぐる煤色は、所々頑固に跳ねていて主人同様に可愛らしい。

「久しぶり長谷部くん。また君に会えるなんて嬉しいよ」
「お、おれ、俺も嬉しいが、お前のこれはちょっと大げさじゃないかっ……?」
 腕の中の長谷部くんは拘束から逃れようと必死に身を捩っている。その抵抗も、赤くなった耳朶に息を吹きかけてやると瞬時に止んだ。初々しい反応は触れられることに慣れてない証拠だろう。この身体を僕より先に暴いた者はいないと思うと、安堵すると同時に薄暗い欲望が首をもたげた。

「大げさなんかじゃないよ。僕はずっと、君にこうやって触れたかった」
 好きだよ長谷部くん。
 おそらく自分に出せる限りの甘ったるい声で好意を囁く。
 告白の行方は、僕を襖まで突き飛ばした長谷部くんが悲鳴をあげつつ逃亡したため判らなくなった。

「ちょっと急すぎたかなあ」
 自分が片恋を拗らせていた期間こそ長けれど、長谷部くんからすれば青天の霹靂もいいところだろう。

 肉の器を手放す覚悟をしたとき、二度とこの想いを告げることは叶わないと諦めていた。もっとも、僕は過去の選択を後悔してはいない。ああでもしなければ長谷部くんはとうの昔に折れていたはずだ。そのために身体を失い、彼と言葉を交わすことができなくなったとしても、僕は愛しい刀を守れて本望だった。
 そうして何の因果か、自分は再び人の姿を取り戻した。奇跡か偶然か、或いは神の気まぐれか。いずれが真実にせよ、この機を逃す手は無い。
 あんな無邪気で綺麗な笑顔を向けられたら追い詰めたくなるに決まってるじゃないか。これから毎日欠かさず口説き続けるから覚悟しておいてくれ、長谷部くん。

「しばらく見ないうちに悪役みたいな笑い方をするようになったね」
 感慨に耽る僕の頭上にしゃがれた声が降ってくる。彼の親しげな口調に反して、その容貌は僕にとって見覚えのないものだった。記憶に無いのも当然だろう。刀と違い人の身である彼は、過ごした年月を正しくその肌に刻み込んでいる。

「はは。久しぶりだっていうのに、カッコ悪いところ見せちゃったなあ」
「いやはや全く貴重な光景をどうもありがとう。顕現したてから実に元気そうで安心したよ」
「当然。何なら鈍ってない証拠を今から見せてあげるよ。リクエストは有るかな」
「そうだね。筑前煮とかはどうだろう」
「オーケー、話の解る主を持って僕は幸せだよ」
「なあに、ちょうど煮物が美味しい季節だったってだけさね」

 皺を寄せ、老父はにこりと人好きのする笑みを浮かべた。好奇心旺盛で悪戯好きだった青年は、老いて還暦を迎えようが近侍を困らせずにはいられないらしい。
 その後、主は眠っていた僕以外の三口も顕現していった。秋田くん、博多くんに日本号さん。最後までこの本丸に残っていた懐かしい顔ぶれだ。

 肉の器を再び得た彼らに協力を仰ぎ、夕餉の支度を進める。身体に染みついた経験とは容易に消えるものではないらしく、今晩の筑前煮は九州暮らしが長い刀からも無事にお墨付きを頂けた。

「ん、いい出来。あとは配るだけだから、長谷部くんを呼んできてくれないかな」
「構わんけど、あんしゃんが行かんでよかと?」
「僕が行くと逃げられちゃうからねえ」

 足も計算も速い短刀は何かを察したらしい。素より、僕の片想いは皆の知るところで、気付かないのは長谷部くんぐらいのものだった。

「あんしゃんが刀に戻ったとき、長谷部大泣きしとったばい」
 エプロンを脱ぎながら、博多くんは僕が知らない長谷部くんの過去を語る。器に盛りつける手が一瞬止まった。記憶にある長谷部くんは人前で泣いたりしない。いつも自室で、服を噛みしめ声が漏れないよう、ひとりで悲しみを耐えていた。そのたびに僕は偶然を装って在室を問うた。彼は応えてくれたけど、一度だって襖を開けてはくれなかった。
 もっと強引に踏み込めば良かったのかもしれない。ただ長谷部くんはもう限界だった。迎撃のたびに仲間が減り、とうとう主までも去ってしまった。そんな彼に自分の勝手な情をぶつけたくはなかった。

「そっか。その件については今度じっくり謝らないと駄目だね」
「よかよか。ああでもせんと壊れとったけん、少なくとも俺は安心したばい」

 僕が最後に長谷部くんと肩を並べた日、折れたのは小夜ちゃんだった。宗三くんから弟の後を託されていた長谷部くんは、左文字でひとり残された彼をとても大事にしていた。小夜ちゃんの最期は凄惨の一言だった。骨の化生が彼の屍に群がり、その破片すら残すまいと鋼を貪っていた。戦に生きるが刀の定めとはいえ、幼子の外観を模した彼が敵に蹂躙される様は今思い出しても身の毛がよだつ。
 小夜ちゃんを助けられなかった長谷部くんは我を失った。敵の骸を執拗に突き刺し、がむしゃらに刀を振るい、獣のような咆哮を上げた。後先など考えていないことは明白だった。僕の足では長谷部くんに追いつけない。降りかかる火の粉を払い、血の痕を頼りに前線に辿り着いたときには、ほとんど手遅れだった。

「はせべ、くん」

 美しい藤色の瞳は閉ざされている。血溜まりの上に膝を突き、急いで脈を確認した。掴む手首から拍動が伝わったとき、僕はどれほど安心したかしれない。しかし予断を許さぬ状況なのは変わりなかった。皮の手袋を濡らす感触に喘ぎ定まらぬ呼吸、死の気配は刻一刻と近づいている。
 主は去り、手入れはもはや叶わない。たとえ安静を貫いたとしても、この状態では神気が尽きるのも時間の問題だろう。

「君は死にたかったのかい」
 いらえなど無いことを解っていながら問い掛ける。

 長谷部くんは誰にも頼らなかった。死を望んでいたとしても口に出さず、こうして機を得たとばかりにひとりで逝こうとする。とても自分勝手な刀だった。僕はそんな彼にいつも苛立って、放っておけなくて、気付いたときには目が離せなくなっていた。
 君はここで散れば満足だろう。だけど僕は認めない。いつも傍に在った温もりに見て見ぬ振りをし、寂しい刀のまま終わろうとするなんて許さない。君はもっと甘えることを知るべきだ。

「あっ居ました、あそこです!」
「やっと見つけたぜ燭台切! 長谷部は!?」
「当然生きとーよな!?」
 後方から仲間の声が押し寄せてくる。彼らは長谷部くんの姿を見るなり一様に言葉を失った。せめてもの慰めとして息は有ることを伝える。余命が伸びたに過ぎないことは皆も重々承知の上だろう。

「みんなにお願いが有るんだ」
 長谷部くんを抱えたまま振り返る。誰もが哀切に満ちた顔つきになっているのを見て、彼を想う者がこれだけ居ることに感謝した。

「僕が今からすること、僕が彼を好きだったこと、長谷部くんには内緒にしていてくれないかな」
 人差し指を立てて口の前に持って行く。制止の声など聞こえない。僕も僕で自分勝手な刀だから、一度決めた以上は誰に何と言われようと撤回するつもりは無かった。

 物言わぬ刀の口を塞ぐ。残る神気を全て注ぎ込み、彼の隅々まで行き渡るよう呪いを掛けた。これで僕の残滓が彼の中にある間、長谷部くんは決してひとりでは死ねない。誰かの優しさを受け取れるようになるまで、彼の中の僕は決して長谷部くんを解放しないだろう。

 ああ、その役割が僕だったら良かったのになあ。
 叶わない夢を抱き、燭台切光忠は長い眠りに就いた。

 

■■■

「長谷部くん」
 食事を済ませ、部屋に戻ろうとする長谷部くんの背に呼び掛ける。彼は足を止めてくれたけど、こちらを顧みようとはしなかった。再会したときのことを思えば、まあ逃げ出されないだけマシだろう。

「夕飯どうだった?」
「どう、って……美味かったが」
「そう? 良かった」
 敢えて会話を続けないでいると、長谷部くんが背後を窺うように少しだけ首をめぐらしてきた。警戒している割に釣られやすいというか、無防備というか。

「もしかして、それだけか」
「ん? それだけって?」
「いや、てっきり他に話が有るのかと――」
 言い終わる前に長谷部くんが自分の口を掌で覆う。声に出さずとも、しまった、と顔に出ているので微笑ましいったらありゃしない。

「話してもいいのなら君の時間を貰いたいな」
 大股に歩いて長谷部くんとの距離を詰める。自慢の足も捕まえてしまえばこっちのものだ。捉えた手首を壁に押しつけ、半ば覆い被さるように逃げ道を塞ぐ。

「待て待て待て話をする体勢じゃない」
「だってこうしないと君逃げるだろう」
「に、逃げたくなるような話をするつもりなのか」
「それは長谷部くん次第だよ。僕は真面目な話をするつもりだ」
「真面目に僕たちの将来の話をしようってことか!?」
「凄まじい飛躍だな。それでも僕は構わないけどね」
 このままだと話が進みそうもない。昂奮している長谷部くんを宥めるのは諦め、僕はさっさと本題に入った。

「長い間ひとりにさせてごめん。僕の我が儘のために、君はたくさん苦しめられたはずだ」
「……燭台切が謝るようなことじゃない。ただ俺が主を待っていたかっただけだ。待つことができたのも、お前が俺を生かしてくれたお陰じゃないか。燭台切には感謝こそすれ、恨み言なんぞ一つも無い」
「死を望んでいた君を、僕の都合で無理矢理に生を繋いだ。もっと責められてもいいと思うけどね」
「考えすぎだ。俺はまた主やお前たちに会えて嬉しかった」

 再会のときを思い出してか、長谷部くんが目を細める。優しい表情だった。仲間への親愛を示しているのだろう、勝ち気に吊り上がった眉はいつもと違って柔らかな弧を描いている。少なくとも、好意を抱
いていると宣言した男に向けていい顔じゃなかった。体勢を指摘していた君は一体どこへ行ったんだい。

「長谷部くん」
 薄い唇に引き寄せられ、身体をぐっと前に倒す。長谷部くんはやっと目の前に居るのが自分を狙う獣だと思い出したようだ。

「待て待て待て話、話はどうした長船派の祖!」
「長谷部くんはもう少し警戒心を持った方がいいよね」
「今めちゃくちゃ警戒してる! 貞操の危機を感じてる!」
 暴れる長谷部くんの顎を掬い、強引に目線を合わせる。夜も更けて視界は随分と不自由になったが、それでも二つの藤色が揺れていることは判った。抵抗が次第に弱まる。互いの呼気が肌に当たるようになった。

 一度目は血の味しか感じられなかったが、彼本来の味はいかばかりだろう。

「あ……」
 長谷部くんの悲鳴ごと呑み込むつもりで顔を寄せる。しかし勝ちを確信して油断したのだろう、僕は愛しい刀よりも先にやたら鋭い牙と口付けを交わすことになった。

「はせべくん」
「はい」
「この見覚えのある骨は一体どういうことかな」
「……順を追って説明します」

 僕と長谷部くんの間に割り込んだ邪魔者を睨め付ける。過去に何度も砕き、屠ってきた異形が我が物顔で長い尾をくねらせていた。その尾の先を追えば、明らかに廊下から、否、長谷部くんの影から伸びてきている。
 無粋な骨の従者を鷲掴み、大いに嘆息した。ああ、今夜は長い夜になりそうだ。

 長谷部くんの部屋にお邪魔して、事の顛末を聞く。
 冗談だと思いたいが、長谷部くんが操る骨の兵士は紛れもなく遡行軍の短刀ということだった。何なら短刀だけでなく脇差も出せるらしい。実演されたが丁重にお帰り頂いた。

 どうしてこのような事態に陥ったかといえば、そうでもしないと生き延びられなかったからだという。違いない。手入れが不可能な以上、どこかで鋼と神気を補う必要が有る。
 政府が施した封印が破れてから遡行軍は再び侵攻を開始した。それ以来、長谷部くんはたった一振りで本丸を守ってきた。傷を負うたびに敵の屍を食らい、澱んだ瘴気で肉の器を補修する。戦いが長引くほどに彼の身体は不浄に冒された。膨れ上がる狂気が独立し、影に潜むようになったのは男士としての防衛本能が働いたためだろうか。長谷部くん自身もよく解ってはおらず、ただ便利な手駒ができたぐらいに思っていたらしい。

「で、このこと主には伝えてあるのかい?」
 妙に懐いてくる短刀をあしらいつつ肝心なことを訊いた。案の定、目を逸らされる。何十年、或いは何百年と彼に巣くった呪いですら、彼に信頼を教えるには及ばなかったようだ。

「長谷部くん?」
「特に支障は無いんだ。主の不安を駆り立てるような報告などわざわざしなくてもいいだろう」
「そういう問題じゃないよ。異物を取り込んだ君はおそらくイレギュラーに近くなっている。それが原因で予期せぬ事態に発展するかもしれないし、情報はみんなで共有しておくべきだ」
「今まで何も起きなかった」
「君だって解ってるだろう、起きてからじゃ遅いんだよ」

 戻って来たばかりの主に負担を掛けたくない気持ちは解る。ただ彼だって近侍がその身に爆弾を抱えながら、その事実を伏せていたと知ったら憤慨するに違いない。自分を頼ってくれなかったことに、またひとりで抱え込ませてしまったことを散々に嘆くはずだ。
 長谷部くんは皆に愛されている自覚が足りない。あまりにも長い時間を孤独に過ごしていたから、独断専行の気概が一層強まってしまったのだろう。それについては今後の課題だ。

「君はもっと誰かに頼ることを覚えた方がいい。誰も迷惑なんて思わないし、僕なんかは寧ろ頼られたら嬉しいくらいだ」
 煤色のまろい後頭部に手を差し入れる。そのなだらかな稜線に沿って手を滑らせれば、長谷部くんも気を良くしたのか眉間の皺を解いてくれた。他人を当てにしない割には警戒心がラップ並に薄い。短刀セコムが有って良かったね長谷部くん。無かったら一日で処女を卒業してたよ長谷部くん。

「豊前にも似たようなことを言われたな」
 上機嫌で長谷部くんの頭を撫でていた手が止まる。この雰囲気で別の男の名前を出されたのはまだいいとしよう。それが今この本丸にいない男士とはどういうことだろうか。いや夕飯時に主が帰還できた経緯は聞いていたから、何となく予想はついているのだけれども。

「まあ、あいつは規格外というか距離感がおかしいというか。命のやり取りをした後に、自分を折ろうとした相手を友と呼ぶ変わり者だからな。強引だし人の話もろくに聞かんやつだったが、うむ、頼りがいは有ったな」
 うっわ絵に描いたようなツンデレ構文だ。確かに彼の尽力があったからこそ主は戻ってこられたし、長谷部くんが懐くのも当然なんだろうけどさ。ぶっちゃけ言って面白くない。心が狭いと! 思われようが! 全く以て微塵も少しも面白くない! 今は夜で部屋にふたりきりで良い感じに距離も近いのに何でこうなっちゃうかな!?

 冷静に考えよう。長谷部くんが他者を信頼できるようになったこと自体は朗報だ。違う本丸にいる相手ならそうそう顔を合わせることもない。その点において僕は圧倒的に有利と言える。頼りがいの有る男? いいだろう、なってやろうじゃないか。いつか僕無しでは生きられないくらい依存させてやる。

「ならその豊前くんに負けないよう、僕も頑張らないとね」
「? 優劣なんてどうでもいいだろう。燭台切は料理もできるし、力も強いし、協調性も有るから戦力として期待しているぞ。おい何だその溜息は、これみよがしにつくな、おい」
「長谷部くんはさあ、本当にさあ」
「何だ、はっきり言え」

 これっぽっちも自覚が無さそうなので、不意打ちで額に口付けた。ほぼ間を置かず脇腹と太腿とを噛まれる。短刀の膂力と侮るのは止した方がよさそうだ。普通に痛い。
 長谷部くんには後日ちゃんと主に話すよう言い含めて、ひとまず今晩は解散となった。余談だが、熱烈な愛咬による痛みは明朝まで続いた。

 

■■■

 

「こりゃ美味そうだなあ、一つ貰っていいか?」
 丸めたての餅に我らが庭師は興味津々らしい。お客様に出す予定のものだが、正三位の舌なら信頼できるだろう。味見をお願いすれば、豪快な物言いに似合わず日本号さんは一口一口、丁寧に食べ進めていった。

「おおうめえ。酒のアテにゃならんが労働後には良い甘さだ」
「なら良かった。でも味見はひとり一つまでだよ」
 餅の上を彷徨う手を遮り、代わりに冷えた麦茶を差し出す。酒でないことに不満げではあるが、外で働き通しだった彼には丁度良かったと見える。一気に飲み干したグラスを受け取ると、何やらまじまじと顔を見つめられた。

「僕の顔に何かついてる?」
「イケメンがついてやがんな」
「そんな古典的な」
「そのベッタベタが通用するくらい面が良いし、気立ても悪くねえ。優良物件だよなあ、あの堅物にゃ勿体ないとつくづく思うぜ」
「その堅物なところも含めて可愛いんだよ」
「あー野郎の好みに関しちゃ疑わしいな」
 そう言う日本号さんだって長谷部くんが大切なのは間違いない。身内の気安さというべきか、彼らはよく晩酌を共にしている間柄だ。正直羨ましいけど、日本号さんは前々から僕の恋路を応援してくれている。たまに相談に乗ってくれたりもして僕にとっては有り難い協力者だった。

「ゆっくりでいいんだ」
 主や嘗ての仲間が戻り、長谷部くんはようやく張り詰めていた緊張を解くことができた。それでも刀剣の数は少ないし、本丸の修繕や資材の調達など為すべきことは山ほど有る。長谷部くんが本当に肩の力を抜ける日が来るまで、僕は彼を支え、傍に居続けようと思う。受け入れられるのは、それからでも遅くない。

「そんな悠長なこと言って、誰かに横から掻っ攫われたらどうすんだ」
 ダン。

「相手が長谷部くんをちゃんと幸せにしてくれるなら、まあそれも一つの選択かもしれないけど」
「すまん俺が悪かったから餅に当たるのは止めてくれ、何それ薄っぺらいこわい」
 良い感じの大きさに餡をまとめようとしていたら、つい手が滑ってまな板に叩きつけてしまった。雑念が入っている証拠だね、これは要反省だ。

「選ばれなかったとすれば僕の魅力が足りなかったということだろう。己を省みて、鍛え直して、また地道に口説いていくさ」
「さらっと略奪愛に走りやがった」
 そりゃあそうだとも、この身尽きるまでへし切長谷部を諦めることなどできるはずがない。僕より優れた刀はいるかもしれないが、僕以上にあの刀を愛せる者など存在しないと断言できる。一度失った肉体を再び得たのは、己にとって天啓も同然だった。端から他人に任せようというのが間違いだったのだ。へし切長谷部は僕が幸せにする。この大役を他の誰かになど譲ってたまるものか。

「終わりよければ全て良しだよ。最近気付いたんだけど僕って結構独占欲強いみたい」
「すげえ今更。あーそんな調子で午後から来る客もてなせんのか?」
「戦場で無様な真似は見せないよ」
「いや通すのは応接間だけどよ」
 甘いよ日本号さん、今日に限って応接間は修羅場と化すだろう。何しろ相手はこの本丸を救った英雄、長谷部くんの信頼を勝ち取った目下最強のライバル、豊前江だからねえ!

 この本丸にも昔は江の刀たちがいた。豊前江がどういう刀だったかも記憶している。そのときの印象で語るならば、
「絶対良い男に決まってる」
 と、戦う前から相手の実力を認めてしまうくらいには難敵だった。あの爽やかな笑顔におおらかな態度で好意を抱かない人なんていないんじゃないか。かくいう僕も彼の明るさには何度も助けられた覚えが有る。別の本丸といえども、その根底を貫く魂に変わりはないだろう。

「それでも負けるわけにはいかないけどねえ……」
「ああー! 餅! もちいいいい!!!!」
 めらめらと闘志を燃やす僕の隣で日ノ本一の槍が悲壮に叫ぶ。掌で潰れた餡はボウルの中に戻っていったが、妙なことに体積は掬い取ったときの十分の一にも満たなかった。

 勝負のときはやって来た。歓待は主、長谷部くんと秋田くんで行うことになっているから、僕が客人と話す機会は今と配膳くらいのものだろう。
 遠征の際に使う装置を利用しているため遅刻は有り得ない。彼らは約束の時刻ちょうどに門前へと現れた。
「ようこそ、我らが本丸へ」
 主が一礼する。それに倣って横並びの僕たちも頭を下げた。

「今日は世話になるぜ……っと、そーとー刀増えとるっちゃ! 良かったなあ長谷部!」
 黒髪に赤目の青年がばしばしと長谷部くんの肩を叩く。やはり豊前江はどの本丸でも活発で豪快な性格をしているらしい。当の長谷部くんは青筋を立てているが江のリーダー格はお構いなしだ。
「驚かせてごめんねえ、後でよく言い聞かせておきます」
 江のリーダー格、あっさりと回収されるの談。鮮やかな手つきを披露した桑名くんは奔放な旗頭の扱いに余程慣れていると見える。引き摺られる豊前くんも満更ではなさそうだ。
 仲が良さそうな二振りに和んでいると、彼らの横に控えていた篭手切くんがこれまた礼儀正しく挨拶をしてくれる。兄たちを映す柳緑色に影が差していたように見えたのは、気のせいだろうか。

 お茶を替えるタイミングを見計らい、応接間の様子を窺おうと思っていたけれど、その目論見は敢えなく外れた。程なくして江三振りがそれぞれ別れて、個別に本丸の案内をされることになったからである。
 桑名くんは畑を見たいという理由で秋田くん、長谷部くんと一緒に、彼らから離れたところで篭手切くんは主と何か話し込んでいた。豊前くんの姿は見えない。もしかすると小笠原繋がりで博多くんのところだろうか。
 博多くんは本日馬当番を割り当てられている。厩に向かえば、予想した通り黒髪の青年が鹿毛の背を撫でていた。

「わっかんねーんだよなあ」
「なんことと」
「篭手切がさあ、なーんか落ち込んでんだけど全ッ然理由がわっかんねえ。聞いてもはぐらかされっし、れっすんだってずっと一振りでやってる」
「思春期やなかと」
「刀に思春期ってあんの?」
「その辺は後ろんあんしゃんが詳しか」
 ご指名されたので大人しく出て行くことにする。タイミングを逸したとはいえ、まるで盗み聞きしていたようで些か気まずい。

「どうも、呼ばれました燭台切光忠です」
「思春期通り越して妻帯してそうなの来た」
「力になれるかは判らないけど、話を聞くぐらいならできるよ」
「本当か? 流石は二児の父、頼りになる」
 いつの間にか短刀皆の父にされていた。その場合、主と日本号さんの立ち位置がどうなるのか聞いてみたいが後にしよう。

 豊前くん曰く、三週間ほど前から篭手切くんの様子がおかしいらしい。江の打刀とは距離を置く一方で、それ以外の男士とは変わらず仲良くやっている。喧嘩したわけでもない。目立った事件もなく、政府と若干後ろ暗い取引が有った以外は本丸も平穏そのものだという。
 総じて変化が起きたのは篭手切くん側の心境のみと言える。勿論、僕にその原因が特定できるはずもない。豊前くんだって僕に根本的な解決案を望んでいるわけじゃないだろう。門外漢の僕に求められているのは一つ、客観的な視点だ。

「篭手切くんは、どちらかといえば前に立つタイプではないよね」
 過去にこの本丸を賑やかせた江の三振りを思い返す。篭手切くんはどちらかといえば裏方に回るのを好んだ。私はまだ見習いですから、と嘯いては兄たちを見事に飾り付ける。彼の夢は一振りでは叶えられないものだ。だからこそ協力してくれる江の打刀たちに対して、篭手切くんは最大限の敬意を払う。或いはそこに彼の脇差を悩ませる種が隠れているのではないか。

「想像だけど、何か負い目を感じてるのかもしれない」
「負い目ぇ? んなもん感じる必要あっか? 俺と桑名だぞ?」
「身内だからこそ言えないことも有るかもしれないよ。彼は気遣い屋さんで努力家だ。自分が兄と並ぶのに相応しくないと思えば、躊躇わず身を退くだろう」
「は? はー!?」
 驚きのあまり豊前くんは鹿毛の背を思いきり叩いた。馬のいななきが響いて耳をびりびりと劈く。僕も博多くんも渋面を作っているというのに、一番近くにいた豊前くんは鼓膜への痛みなど全く感じさせぬままに話を続けた。
「俺が篭手切の兄貴に相応しくねえことは有っても、あいつが俺の弟分として不足してるなんて話が有るかよ! 冗談じゃねえ!」
「あ、あくまで想像だから……篭手切くんが実際どう思ってるかは当刃に訊いてみるしかないよ」
「くそ、縁起でもねーこと言うなよ……桑名に止められてんのにカチコミに行くところだったぜ……」
 危機一髪すぎる。予め釘を刺しておいてくれた桑名くんありがとう。

「でも大丈夫だと思うよ。さっき豊前くんが僕に言ったこと、そのまま篭手切くんに伝えてあげればいいんじゃないかな」
「え? さっきってどれだ?」
「君の弟分がどれだけ出来た刀かって話だよ。信用が欲しいなら、まず自分が相手を信用することから始めればいいのさ」
 しばらく瞬きを繰り返していた豊前くんが相好を崩す。僕の言葉は彼の意を得たらしい。馬から離れるなり、豊前くんは朗らかに僕の肩を叩いてきた。

「あんがとな燭台切、あいつにしてやれっこと一つ見つかったぜ」
「お役に立てたのなら、どういたしまして」
 豊前くんは礼を言うなり足早に駆けていった。緑の装束はとうの昔に僕の視界から外れている。

 長谷部くんの話を聞くつもりで豊前くんを探していたのだけれども、すっかり目的を忘れていた。もっとも既に彼を敵視する気持ちは失せていたが。良くも悪くも直向きな刀だ、おそらく真心から長谷部くんを救ったのであって他意など一切無いのだろう。その実直さは、僕が好きな刀に少しだけ似ている。
「上手くいくといいねえ」
「脅し損ねたばってん、よかったんか」
「そんな物騒な真似はしません。いいんだよ、彼の手綱を長谷部くんが握れるとは思えないからね。それに、うちの近侍様は飼うより飼われる方が好みな気がするんだ」
「あんしゃんの恋路を応援しとって大丈夫か不安になってきたばい」
「はは、これからも宜しく、博多義兄さん」
 そろそろ僕も時間だ。恩刃たちへの感謝も籠めて、今宵も存分に腕を振るわせてもらおう。豊前くんには大事なことを伝えそびれてしまったしね。いつもより作業量は多けれど、苦労した以上に今日は気持ち良い食べっぷりを見られそうだ。

 まな板と向き合う僕の背後で慌ただしい足音が聞こえる。次いで尖り声が飛ぶのに危機感を覚えぬ鈍はいない。
「何か有った!?」
 急ぎ喧噪の中に飛び込めば、青ざめた様子の主と彼に寄り添う長谷部くんがいた。周りには秋田くんに豊前くんと桑名くん。ある刀の不在に気付くのに時間は掛からなかった。

「ああ、燭台切……! さっき篭手切殿が、私を庇って影に!」
 僕を認めた主が状況を説明しようとするが、狼狽がひどく言動は支離滅裂としていた。
「落ち着いて主。長谷部くん、代わりにお願い」
「ああ、俺とて信じられんが、篭手切が攫われた」
「攫われた?」
 本丸には結界が張られている。未だ男士の数が足りず、それほど強固なものではないが、何の抵抗も無しに曲者の侵入を許すほど脆弱ではない。男士を攫うほどの実力が有るなら、余計その存在を隠したまま敷地内に踏み込むなど不可能だろう。

「考えられる可能性は二つ、狂言か裏切りだね」
 冷静に切り出したのは桑名くんだった。
「俺たちが主を裏切るとでも思っているのか」
 長谷部くんが凄まじい形相で黄褐色の刀を睨め付ける。対する桑名くんは少しも臆した様子が無い。批判を覚悟で言ったのだろう。しかし前髪に両目が覆われた彼の感情はいまいち量りがたい。

「可能性の話だよ。言ってはみたけど、どっちも現実味は無いね」
「なあ爺さん、篭手切を襲ったやつの特徴とか覚えてねーのか?」
 豊前くんに問われて主が考え込む。手掛かりは彼しか握っていない。自ずと皆固唾を呑んで主の言葉を待った。
「すまない……襤褸ぼろを被っていたので背丈くらいしか……篭手切殿とそう変わらない体格だったと思う」
「襤褸?」

 桑名くんが反応したことで僕も主の証言に違和感を覚えた。標的が抵抗することを前提とするなら、実行犯はなるべく動きやすい格好をするだろう。身代金目当ての誘拐で、顔を見られてはまずいというなら話は別だが。そう、それだ。侵入者は自分の姿を隠す必要が有った。それは一体何故か。
 導き出される答えは一つ。僕らがその侵入者の顔を知っているからだ。

「ねえ長谷部。この本丸には折れた刀と遡行軍に与した刀がいるって話だよね」
「ああ……実際には選択権を与えられただけで、鞍替えしたやつはいなかった。ただ消息不明になって生存を確認できていない刀は何振りかいる」
「それでいい。覚えてる限りで全員名前を挙げてくれないかな」
 桑名くんに促された長谷部くんが息を呑む。その一瞬の躊躇いに籠められた意味が解るのは、この本丸にいた刀だけだった。

「豊前江、桑名江、篭手切江。打刀の二振りはほぼ同時期に、篭手切だけ主が去られた後に行方を眩ました」
「決まりだね、犯人は嘗てこの本丸に籍を置いていた篭手切江だ」
「そんな、あの篭手切さんですよ? 何かの間違いではないですか?」
「……いくら何でも結論を急ぎすぎじゃないのか」
 秋田くんと長谷部くんがそれぞれに否定的な見解を述べる。僕だって桑名くんとほぼ同意見だが、信じたくはない。

 篭手切江は受肉したことで新たに夢を得た刀だ。刀剣男士としての使命を忘れるなよ、とゲリラライブ後に鬼の近侍様から小言をもらうことはあったけど、出陣すれば名刀らしい冴えを見せる一振りだった。主への献身がいかほどであったか皆も承知している。本来なら不義を疑うような刀ではない。

「なら言わせてもらうけど、この本丸に属した刀以外に誰が結界をすり抜けられるの? 客人として招待された僕らだって審神者の干渉無しでは警告を受ける。折れた刀が復活するはずがない。豊前や僕では体格の証言に齟齬が生じる。これらを含めて全ての条件に当てはまるのは、失踪した篭手切江だけだよ」
 理路整然とした桑名くんの反論に皆が押し黙る。長谷部くんたちだって解ってはいるのだろう。理由も告げずこの本丸を後にした脇差は、もはや僕らの味方では有り得ないと。

「幸い相手は篭手切を本体ごと攫ったらしいし、探知は可能だ。僕らを誘い出すつもり満々みたいだけど、どうする豊前」
「乗る」
 即決だった。豊前くんは待ってましたとばかりに拳を鳴らしている。
「頼りにしてるよ、囮役頑張ってねえ」
「はっはー任せろ。囮っつっても大将殺ったらいけねえわけじゃねえんだろ?」
「清々しいくらい失敗する予感しかしない台詞ありがとう。あとそちらから長谷部をお借りしていいかな」
「待って、どうして長谷部くんなんだい」
 気付けば長谷部くんが答えるより先に僕は口を挟んでいた。隠密行動というなら短刀の方が向いているし、力仕事なら僕や日本号さんの領分だ。長谷部くんの強さは僕も知るところだけれども、相方を容赦無く囮に据えた桑名くんの指名という点が不安を煽る。

「長谷部の操る短刀は切り札になり得る。もし篭手切が自らの意志で奸計を企てているのでなければ尚更だ」
「ッ」
 桑名くんの言に長谷部くんが肩を竦ませる。一方、主と秋田くんは今ひとつ話についていけてないようだった。その反応だけで長谷部くんが未だ身体の秘密を打ち明けてないことは容易に想像できた。

「長谷部くん」
「……説教は後にしてくれ。桑名の言うことはもっともだ。行くなら俺が適任だろう」
「そんな酷い顔でかい」
「事が成れば必ず話す。今は捨て置いてくれ」
「一瞬の油断で命を落とすのが戦場の常だ。そんな気構えの君を僕が送り出せるとでも?」
「じゃあお前はどうしろと言うんだ!」
「うりゃ」
 言い争う僕らの頭に衝撃が走る。手刀と柄の一打で武力介入してきたのは豊前くんだった。
「ここで喧嘩してる場合じゃねえだろ。燭台切もな、ついさっき自分が言ったことを忘れるのはどうかと思うぜ」
「何のことだい」
「信用が欲しいならまず自分がどうたらこうたら」
 豊前くんの言葉で熱が一気に引いていく。

 ああ、誰かに指摘されて初めて気付くなんて無様にも程が有る。僕は相手からの信頼を欲したくせに、自分では長谷部くんを守っているつもりで、その実一度も彼を信頼したことなど無かった。受け入れられないのも当然である。僕は肝心要の一歩目から既に道を踏み外していたらしい。

「……ごめん、目が覚めた。豊前くんの言う通りだ」
「いや勝手に納得されても俺は困惑する一方なんだが」
「お説教は後にたっぷりするから、本丸代表として篭手切くんたちを宜しくねってこと」
「……」
 長谷部くんが目を丸くして僕に怪訝な視線を送る。悪いものでも食ったか、とでも言いたげだ。

「ちゃんと、連れ帰ってくる。だから、夕餉は最低でも一振り分増やしておいてくれ」
 耳をそばだてねば聞き取れぬような声量だった。しかしながら、俯きがちに、恥じらいつつも、凱旋の約束をしてくれる長谷部くんの声を僕が逃すはずもない。

「ああ。いってらっしゃい」
 紫の戦装束を見送る。待つだけの身がこれほど焦れったいとは思わなかった。改めて、いつ来るとも判らないひとの帰りを待ち続けた、長谷部くんの苦しみを考えさせられる。彼に比べれば今の僕の立場など気楽なものだった。帰りを待つ僕も、戦地に向かった彼も、今はひとりではない。

「なあ燭台切」
「何だい」
「今晩くらいは祝い酒ってことで、呑んでもいいよなあ?」
 顕現してすぐに禁酒を言い渡された正三位に尋ねられる。僕は笑って是と返した。主だって今夜は無礼講の触れを出すだろう。僕も酒に強い黒田の宝を思う存分ねぎらってあげたい。それに豊前くんにも未だ言えてないことが有る。

 ――長谷部くんとまた会わせてくれて、ありがとう

 秋桜畑が風に揺れる様を日本号さんとふたりで眺める。主が墓標代わりにと設えた絵馬掛け所の札がからから音を立てた。あそこに江の刀とへし切長谷部の名は無いし、これからも掛かることは無いだろう。僕がそう信じると決めたから、この予言は絶対だ。

 

■■■

 

「燭台切ぃ、こっちにもおかわり頼む!」
「はいはい、今行くよ」
 大広間はここ一ヶ月でも類を見ない盛況ぶりである。新しく埋まった三つの席はその数字以上に場を賑わせてくれた。肉の器を取り戻してから二日と経っていないにも関わらず、青年姿の打刀は早くも食欲の虜になっている。

「こんなに食べて備蓄が間に合うかなあ。これから寒くなるし今から育てるとなるとほうれん草にエンドウ……」
 お椀に白米を盛る刀の隣では、我が本丸きっての理系男士がお箸を片手に農業計画を組み立てていた。
「りいだあ、お醤油をどうぞ。あと湯呑みお借りしますね」
「ほほはんはほ」
 そして甲斐甲斐しく兄弟の世話を焼く若緑の刀と、久々に揃った三振りはやはり以前と変わらず仲睦まじい。

 長谷部くんが連れ帰ってきたのは篭手切くんだけでなく、同じく行方が知れなかった江の打刀も一緒だった。彼の脇差は囚われの身となった兄を救わんと、節を屈し遡行軍に与していたらしい。
 どういう理由があろうと彼は一度この本丸を裏切った。主と再会した篭手切くんが第一に自身の刀解を望んだのは言うまでもない。さらに彼を挟んだ兄たちが便乗し、責任を取るなら自分たちもと連座を主張したので、帰るなり本丸は血生臭い話題の連続だった。
 素より主は彼らを溶かす気など更々ない。長谷部くんや待機組からの具申を待つまでもなく、主が三振りに帰参を命じて事態は収拾した。長らく心配させた罰として敷地内の草むしりを課されたので、これには庭師の正三位殿も満足だろう。

 めでたく刀の数も増え、本丸としてはハッピーエンドなのだけれども、生憎と僕にはまだやることが残されている。

「えらく骨張ったペットだねえ」
 主がさも興味深そうに骨の兵士を指先で突く。正面に座る長谷部くんは手に汗握り、叱責の時を今か今かと待ち構えているようだった。

「人懐こいし、高い所にも楽々届きそうだし、良いんじゃないかな」
 首に巻き付く化生をものともせず老練の審神者は言い放った。唖然とする長谷部くんを余所に主の話は続く。

「あとは手入れで問題が生じないかだね。あまりにも雑じりすぎているから、これを全部切除して本来の形に戻すのは中々骨だと思う。短刀だけに」
「最後のは聞かなかったことにして、じゃあ一旦手入れ部屋で傷が治るかどうか確認した方がいいかな」
「もう少し年寄りには優しくしておくれ。頼めるかい燭台切」
「オーケー、歳だけなら僕らの方が大分上だよ」
 長谷部くんを立ち上がらせ、僕らは共に部屋を出た。てっきり文句を言われるかと思いきや、意外にも彼は沈黙を保っている。長谷部くんからすれば、開いた口も塞がらない、といったところか。

「あっさり受け入れられて拍子抜けかい?」
「それはそうだろう。身体の中で敵の死骸を飼っているやつなど、気味が悪いと思うのが普通だ」
「ならこの本丸に君が思う普通のやつはいないよ」
 自信を持って断言できる。この本丸にへし切長谷部を厭う者などいない。
「口ばかり回る男だ」
「じゃあ口下手な君との相性は抜群だね」

 恨みがましい視線を尻目に手入れ部屋を開ける。さほど広くはない四畳半にふたり向き合って座り、僕は光忠が一振りを取り出した。
 傷が無ければ手入れの効果も試せない。先日の大立ち回りは大勝利と呼ぶに相応しく、長谷部くんは傷一つ負わずに帰還した。主命を果たすには、多少なりとも怪我をしてもらう必要が有る。

「いや小刀で指の先を軽く切るだけでいいだろう。こんなことのために長船派の祖を持ち出してくるな」
「悪いけどその頼みは聞けないかなあ」
「絵面が物騒すぎる。殺人現場一歩手前じゃないか」
 後ずさる長谷部くんの背を抱く。退路を塞いでも手足をばたつかせるので、僕は早々に魔法の呪文を唱えることにした。

「これは主命だよ長谷部くん」
「う」
「痛くしないから僕に身を委ねてほしいな」
「お前が言うと完全に別の意味に聞こえる」
「思春期か。単に僕以外の刀が君の肉に触れてほしくないだけだよ」
 途端に抵抗が止む。この隙に手袋を脱がせ、露わになった指に刃先を宛がった。白い肌に赤い粒が浮かぶ。僕はなるべく平静を装って本体を脇に置いた。

 腸を抉り、肉を斬り、骨を断つのは刀の本懐だ。戦場で昂揚を覚えるのは当然だが、今は自分が居るのは本丸である。もっと味わっていたいなどと考えてはいけない。
 完全に誤算だ。愛しい相手の内側に触れるのが、ここまで心地良い行為だとは思わなかった。

「燭台切?」
 長谷部くんの呼びかけでようやく恍惚から覚める。危うく目的を見失うところだった。
「ごめん、少しぼうっとしてた。怪我の具合はどう?」
 怪我と言っても指の腹を軽く切っただけだ。五分もすれば治るだろう、と残り時間を確認する。

 表示は0:00:00。傷口は未だ塞がっていない。

「……燭台切」
 つられて時計を見た長谷部くんが声を震わせる。真っ先にシステムの不良を疑い、自分も薄く腕の皮膚を切った。無反応だった電子掲示板に0:07:59の数字が刻まれる。いよいよ長谷部くんは色を失った。
「やはり、だめだった」

 熱の失せた藤色がなおも紅い雫を孕み続ける指先をぼんやりと捉える。まるでこの事態を予測していたような言い様に、自ずと歓迎すべからざる想像が膨らんだ。
 手入れ部屋は四つ。江の三振りと同時に傷を癒すことだってできる。無傷での凱旋など妄言に過ぎず、長谷部くんは昨日の時点で手入れが利かないことを把握していたのではないか。

「これが主に知れたら、俺は二度と戦場に出られない」
「長谷部くん」
「お飾りの刀などなまくらも同然だ。江の連中も戻ってきて、俺はお払い箱なんだ」
「長谷部くん!」
「主に伝えるつもりか。伝えるよなあ! 貴様はいつもそうだ! 俺のためだとか抜かしながら、いつも余計な真似ばかりしでかした! 確かに俺は貴様のように口も上手くなければ協調性もない、戦場以外ではまるで役立たずだろうよ!」
 胸倉を掴まれる。彼の血がシャツに滲んだ。長谷部くんは膝立ちになって、僕を見下ろしながらなおも長広舌をふるった。

「いっそここで貴様を殺せれば、どれだけ良かったか。解っている、資材が限られ鍛刀も叶わぬ今となっては貴重な戦力を失うわけにはいかない。なのに俺はその戦力にすらなれないんだ。幻滅したか? お前の好いている刀とやらが、所詮己のことしか考えていない最低の外道だったと知って目が覚めたか?」

 自嘲する彼は自分を外道だと言う。なら好いた刀に剥き出しの敵意を向けられ、それを綺麗だと思ってしまう僕は何なのだろう。惚れた欲目なのか、僕を脅す彼が逆に縋るように見えているからなのか、全く以て怒りらしい感情など湧きあがらない。

「君が思ってるほど、僕も口が上手いわけじゃないよ」
 本当に弁が立つなら、好きな子が怒っているときにキスで黙らせたりなんかしないだろう。

「! やめ、ッ、ン……!」
 長谷部くんが両腕で僕を押し返そうとするけど、力に物を言わせて胸の中に閉じ込めた。薄い唇を食み、舌で彼の輪郭を丁寧になぞる。どちらのものとも知れない唾液が顎を伝った。
 執拗に突き、こじ開けた入り口から熱を差し入れ咥内を味わう。怖じ気づく舌を捕らえ自分のものと存分に絡ませた。支えられなくなった体重を僕に預け、はふはふと息継ぎに喘ぐ長谷部くんが可愛くて仕方ない。送り込んだ体液は無事に嚥下されたようだ。そこまで見届けてやっと僕は彼を解放した。

「長谷部くん、ほら指」
「……?」
「傷、ちゃんと治ってるよ」
 惚けている彼の前に例の指を持って行く。白い肌には傷痕一つ残っておらず、すっかり元通りになっている。

「君はまだ戦える。怪我をしたら僕が必ず治す。そうすれば主を支え、本丸を駆け回って皆の手伝いする生活も続けられるだろう」
 へし切長谷部が役立たずなんて、たとえ長谷部くんにだって言わせやしない。戦に出ずとも本丸のために君が誰よりも働いていることを、僕も、主も知っている。

「おまえ、なんであれだけ罵られて、まだそんなこと言えるんだ」
「ほら、美刃は怒った顔も綺麗だから」
「お前には口で勝てる気がしない」
 ふて腐れたように長谷部くんは僕の肩口に額を押しつけてきた。大変喜ばしいことだが、別の光忠が一振りが元気になってしまうので勘弁願いたい。

「燭台切」
「なあに」
「さっきは酷いこと言って、すまなかった」
「好きな子の愚痴ならいくらでも聞くさ」
「愚痴追加。同僚が気障すぎて鳥肌が立つ」
 何だかんだ煽るのは上手い刀の背を撫でる。

 ところで治癒を目視できたのは指の部分だけで、先日の怪我の様子はまだ判らない。手入れ部屋にいる関係で減った神気も随時足されるから、自身の消耗具合から傷の加減を想像するのは難しいだろう。
 ――という名目で、僕はその後も長谷部くんに神気を注ぎ続けた。ちなみに服に手を掛ける寸前で主が様子を見に来たため、僕らが一線を越えることは無かった。別に惜しいとは思っていないよ。こんななし崩しで身体だけ合わせたところで虚しいだけだからね。

「いや思いきり脱がそうとしてただろ」
「長谷部くん、男には見栄を張らなくちゃいけないときも有るんだよ」

 

□□□

 

 これは夢なのだとすぐに判った。本丸に残った男士は全部で八口、その中に三日月宗近の名は無い。

「茶が飲みたいなあ」
「菓子はないぞ」
 最近の茶請けは全て燭台切の手製によるものだ。材料だって秋田が山菜を集めて来てくれるから何とかなっている。万屋に出費できるほど余裕の有る懐ではない。
 騒がしい連中が戻ってきたお陰で、平穏や安寧からは随分と縁遠くなった。しかし流石に夢と言うべきか、今は俺と三日月以外誰もいないらしい。平安刀は縁側から立ち上がろうともしないため、俺は渋々厨に足を伸ばした。

「茶なら俺より鶯丸の夢にでも化けて出た方が良かったんじゃないか」
「化けて出るとは心外だなあ。俺はまだ生きているぞ」
「寝ぼけたことを言うな。貴様はとうに折れた。残っているのは破片だけだ」
 腹部をさする。持ち帰った男士たちの遺骸は全てこの身に収めた。庭に埋まった鋼は風化を待たずして俺の一部となった。その断片が神気の名残すら留めていなかったのを覚えている。あれほど希って一度も声を返してくれたことなど無かったのに、今になって生存を主張するとは馬鹿げている。

「確かにお前のところの三日月宗近は破壊された。だから俺はこの姿で長谷部に茶を入れて貰うことができたわけだ」
「相変わらず核心を突かんやつめ。じゃあ貴様は一体どこの三日月宗近なんだ」
「ふむ、そうだなあ。お前の本丸の三日月宗近ともいえるし、どこの三日月宗近でないとも言える」
「ええい、禅問答はいい! さっさと正体を言わんか狸爺!」
「さっき言った通りだ。俺は三日月宗近であって三日月宗近ではない」
 全く以て要領を得ない説明に頭痛がしてくる。真相が何にせよ、この人を食ったような態度はまさしく三日月宗近のものだ。会話に伴う疲弊感も本物と言って差し支えない。この男が一から十まで懇切丁寧に説明してくれるとは思えないから、答えは自分で探す他無いだろう。

「では、その自称三日月は俺に何の用だったんだ」
「察しの通り、挨拶だ」
 無論、何も察していない。

「近々この本丸に来る予定でも有るのか」
「いや次は長谷部がこちらに来るのを待っている」
「居場所も知らんのに行けるわけがないだろう」
「はっはっは、その辺はまあ何とかなる何とかなる」
 そう言って古狸は再び茶を啜り始めた。くそ、どこの三日月も頼りにはなるが当てにはできんな。

 一息ついた三日月は湯呑みを膝に置き、中庭を眺めだした。一時は廃墟も同然だった本丸もだいぶ昔の趣を取り戻しつつある。風が吹き、木の葉が舞った。砂利敷きの地面が疎らに朱を差していく。
 傍らに落ちてきた楓を三日月が一葉拾った。意外に男らしい指先がくるくると気まぐれに紅葉を弄う。天下五剣で最も美しい刀とはよく言ったものだ。黙っていればこの男、実に絵になる容姿をしている。雅だの格好良さだのを求める刀にはさぞ受けが良いだろう。

 ……やはり、あの太刀の趣味はよく解らんな。どうせ愛でるなら三日月みたいな華やかな刀にすればいいのに。

「長谷部」
「うお!?」
 不意を突かれて間の抜けた声を上げてしまう。見透かされるはずもないが、三日月を通して別の刀を想っていたというのは何ともばつが悪い。そもそも何故俺はこの場に居もしない男のことなど考えたんだ。

「良い庭だな」
 三日月は俺の不審な態度に言及しない。それどころか俺の方を見てすらいない。
 内心助かったと思いながら、月の眉が捉える先を追う。いくら検めても秋の景趣が広がっているだけで、三日月の興味を惹きそうな代物は見当たらなかった。

「また来たくなった。そのときには茶を淹れてくれるか、長谷部」
「……好きにしろ。運良くうちの厨番がいたら菓子も馳走してやる」
「楽しみだ」

 雀が啼いている。褥を恋しがる身体を鞭打ち、外廊下に通ずる障子を開いた。濡れ縁には誰もいない。楓の葉が落ちていたりもしない。
(所詮、夢は夢だ)
 肌寒さを覚え、速やかに戸を閉める。もう板張りの廊下を素足で歩ける時分ではない。夜長に月を慈しむ季節はとうに過ぎてしまった。
 着替えようと帯を解くと、腕にこわごわとした感触が纏わりついた。

「邪魔なんだが」
 窘められた番犬が影の中に戻る。近頃は命令もしていないうちから顔を出すようになってしまった。主に認められてはしゃいでいるのだろうか、いずれ躾け直す必要が有りそうだ。勝手に餌付けするやつもいることだしな。

「ただいま帰りましたー」
「はー終わった終わった。親父、熱燗一本」
「ご苦労だったな秋田。横の飲んだくれは報告書を書き上げた後に同じ台詞を厨の主に言ってこい」
 帰還した遠征組に付き添って倉庫まで向かう。往時は第二倉庫まで溢れていた資材も、今では棚の三分の一を埋めるのがやっとの量だった。もっと遠征に人手を割ければいいのだが、内番や食事などの雑務も有る。疲労も溜まるし、人員は定期的に替えなければいけない。しかし、燭台切は厨の仕事が有るし、桑名は畑に付きっきりだろう。そうなると動ける面子は自ずと決まってくる。

 やはり俺も出るべきだ。近侍は重要な職務ではあるが、他の刀でも代わりは務まる。
 ここで懸念されるのは、転移装置が正しく俺を刀剣男士として認識するかの一点に尽きる。敗戦を報されて以来、俺は一度も過去の時代に飛んでいない。もし飛べなかったら、いや仮に飛べたとしても、戻ってこられなかったら? 可能性としては十分に有り得る。

 ――怖い。付喪神としての俺を誰も知らない時代から帰れなくなって、またひとりになるのは怖い。迎えに来てもらえる保証が無いのに、待ち続けるのはもう嫌だ。

 俯いて薄暗い床に視線を落とす。悪寒に身を震わせ、自らの身体を抱え込んだ。縮こまった己の影から骸が這い出る。また擦り寄ってくるのかと思いきや、骨の妖は俺を置いて外へと出て行った。
(こういうときくらい機嫌取りに回ってもいいだろ)
 虚しくなりつつも長い尾の行方を追う。たまに背後を窺いながら、決して急ぎはしない速さで宙を泳ぐあいつは一体どこを目指しているのだろう。

 アレの失態は俺の責任だ。監督不行届を申し渡される前に連れ戻す必要が有るが、今の沈んだ気分で誰かと鉢合わせたくはない。せめて無人の部屋を、と念を送って辿り着いた先は厨だった。

「あれ君だけかい? ご主人様はどうしたの?」
 キイキイ、と獣じみた相槌が打たれる。壁越しに会話を聞く俺の存在をどう指摘したのか、厨の主が真っ直ぐこちらに向かってきた。迷わず逃げたが、窓の格子をすり抜けた短刀に正面を塞がれてしまう。

「はーせーべーくん」
 がしり、と手首を掴まれる。引き摺られるままの俺を嘲笑っているのか、骨の怪物がカラカラと音を鳴らした。叱声を上げるより先に影に沈み込んだので文句もつけられない。誰に似たのか知らんが逃げ足だけは速いなこいつ。

「何で逃げようとしたんだい」
「特に理由は無い」
「反抗期の子供じゃないんだから」
「本当だ。ただ、今は誰にも会いたくない気分だっただけだ」
 特にお前にだけはな、と心の中で続ける。このところ燭台切には弱味を握られっぱなしだ。起きてもいない未来を想像して不安になっていた、などと言えるはずもない。

「あの子は長谷部くんを心配して、ここまで連れて来てくれたんだよ」
「お前、アレの言葉が解るのか」
「完全にではないかな。ただ似たもの同士だからか、何となく身振り素振りで伝わるんだよね」
「似てるのなんて肌の白さくらいじゃないか……」
「その前に同じ刀を好きって立派な共通点が有るだろう。あの子は長谷部くんが考えてる以上に賢いし、君のことを大切に思ってるよ」
 そうは言われても実感が湧かない。あいつのことは単なる手駒だと思っていたし、今の今まで情を以て接したことなど無かった。

「解らんな。最近は勝手に動き出したりもするが、あいつは俺の一部みたいなものだ」
「じゃあ、あの子がここに来たのも、本当は長谷部くんが僕に会いたかったからってこと?」
「そ! ん、なわけ……ある、いやない!」
「どっち」
 おい笑うな。今のは口が滑っただけだ。冗談じゃない、ひとりになるのが寂しかったなんて燭台切に言ってみろ。また歯の浮くような台詞を吐かれて、こっちがむず痒くなるのがオチだろうが。

 頑として黙秘を貫く俺に燭台切がとうとう背を向ける。諦めてくれたかと胸を撫で下ろす一方で、言いようのない喪失感に襲われた。立ち去ればいいのに足が床に貼り付いて動かない。気付けばまた己の影を見ている。屍は応えない。いよいよ行き場が無くなったと思い始めた頃に、立ち上る湯気が見えた。

「外は寒かっただろう。良かったら飲まないかい、ホットミルク」
 俺の前に立った燭台切がカップを差し出している。おずおずと受け取れば、秋冷に晒された身には程よい温度が伝わってきた。一口だけ飲む。美味しい。芯から暖められるような心地がして、息をするにも楽になる。
「長谷部くん、こっち。座って飲みなよ」
 言われるまま椅子に腰を下ろす。時間を掛けて飲み進める俺を、燭台切はただ黙って見守っていた。

「ごちそうさま、美味かった」
「なら良かった」
 空のカップはテーブルに置いた。俺は腰掛けたままで、燭台切はそんな俺を傅くように見上げている。男は何も訊いてこない。俺が話すまで待ち続けるつもりなのだろうか。意地ばかり張って、いつもお前の好意に甘えるばかりの刀をどうして信用できるんだ。本当にこいつは趣味が悪い。

「遠征に出たいんだ」
 服を握る。緊張する俺の拳を黒い革手袋が覆った。
「だが、お前も知っての通り、俺は手入れも満足にできない刀だ。果たして無事に過去に飛べるのか、飛べたとして戻って来られるのか、戻れなかったとき、探しに来てもらえるのか、何もかも、全部わからないだろう……?」
 燭台切の手に勇気づけられ、時につかえながらも心中を吐露していく。情けないやつだと思われたくない。みっともない自分を肯定してほしい。矛盾を自覚しながら、俺は男の温度だけを信じて告白を続けた。

「怖いんだ。ひとりになるのは怖い。また主も仲間も、お前もいない場所でひとりになるのはいやだ。もう待つのはいやなんだ」
 上体が傾ぐ。知らず零れていた涙が黒い生地に染みこんだ。俺を抱き込んだ男が背を何度も擦ってくる。俺は燭台切の服を汚してしまうのにも構わず、顔中から水分を垂れ流した。格好を誰よりも気にする男は、俺が泣き止むまでずっとその胸を貸してくれていた。

「落ち着いた?」
 肩口に押しつけた頭を緩く上下に動かす。目も腫れ、鼻も赤くなっているだろう顔など見せられない。燭台切が離さないのを良いことに、俺は首から上の惨状を男の身体で包み隠した。

「無理して遠征に出なくてもいいと思うけど、でも長谷部くんは主の、本丸のために動きたいんだよね?」
 もう一度頷く。

「長谷部くんのそういう、真面目で頑張り屋さんなところ好きだなあ」
 さり気なくつむじに口付けるんじゃない。驚いて顔を上げてしまったらどうする。

「僕は君の意志を尊重したい。遠征に出たいなら出てみればいい。不安は誰かと分かち合えばいい。その誰かは、まあ、できれば僕を指名してほしいところなんだけど」
 いや耳を食むのも駄目だ。色々と熱くなっているのがばれる。

「約束する。僕は二度と君を置いていったりしない。長谷部くんがどこへ行こうと、必ず君を見つけ出す」
 頭を撫でるのは許す。燭台切の掌は大きくて温かい。孤独になる不安も、この男に触れられているときだけは不思議と和らいだ。

「打ち明けてくれてありがとう。頼ってもらえたみたいで、嬉しかった」
「……そんなことでいちいち喜んでたら、安い男だと思われるぞ」
「なら悩み相談に乗ったお礼を請求した方が良い?」
「内容による」
「キスしたい」
「やだ」
「ええ駄目なの? この前散々したのに?」
「今顔がすごいことになってるからいやだ。見られたくない」
 間違いなく百年の恋も冷める。今だけは燭台切の服を好きにする権利を手放したくなかった。

「じゃあ僕は目を瞑ってるから、その間に長谷部くんからして」
 返答も待たず伊達男は俺を懐から引き剥がした。強引に間抜け面を露わにされた憤りは敢えなく不発となる。燭台切は宣言通り目を瞑っていた。射抜くような金色の瞳が閉ざされただけで、肌の白さと造形の美しさが常より際立って見える。唇は艶が有って、俺のものより少し分厚かった。執拗に食まれ、吸われ、触れられた感触が脳裏を過ぎる。

 開いた距離が寂しい。潤したばかりの喉が渇く。この飢えを満たすためにはどうしたらいいだろうか。このとき俺は、根拠もなく目の前の男から熱を奪えばいいと考え、実行に移した。柔らかな肉と肉とを重ね、思いつきは正解だったと自信を深める。たかが口吸いと侮っていた行為は、俺の憂いを払拭して余り有る安らぎをくれた。
 息継ぎのために口を離す。蜜の溶けたような甘い色に俺の姿が映っていた。物欲しそうな面で男に迫る様はまるで娼婦だ。

「なんっで目を開けてるんだ貴様は」
「ずっと瞑ってるなんて言ってないよ。こんな可愛い長谷部くんの顔が見られないなんて勿体ない」
「物好きめ」
「長谷部くんが好きなだけなんだけどなあ」
 目と趣味の悪い男が無駄に整った顔を近づけてくる。泣き疲れた俺に大男を押し退ける気力が残ってるはずもなく、しばらく好きにさせておいた。

 二日後。秋田に近侍を托し、俺は久方ぶりに戦装束に身を包んだ。本日の遠征先は天下泰平の江戸が選ばれた。手入れの件も有るため、なるべく危険の少ない任務をと考慮した結果だ。太刀が必要なのは偶然である。決して、どこぞの黒い刀の要望を取り入れたわけではない。

「行ってらっしゃいませ、長谷部さん、燭台切さん!」

 秋田の声援に見送られ位置につく。薄い板切れにしか見えない転移装置は目標の時代を指して止まっていた。スリープモードを解除する。二振りの足元に描かれた円形から光が走り、柱となって天へと伸びていく。この間、中にいる男士は情報として処理される。一時的にとはいえ不可視の状態になるため、顕現したての刀からはよく動揺の声が上がった。俺はきっとヒトの身体を得て初めて、出陣に恐怖している。

「長谷部くん」

 肉の器が分解される直前、燭台切の声を聞いた。続く言葉は電子の波に浚われてしまったが、声など無くとも十分だった。たった六文字の激励が今は何よりも心強く感じる。
 五感が消失する。燭台切の「ここにいるよ」という声を信じ、収束する光の奔流に身を任せた。

 

■■■

 

 身体の感覚が戻ったとき、隣に長谷部くんは居なかった。見慣れた煤色を探すより先に自身の置かれた状況の異様さに気付く。硬質の壁に囲まれた一室、そこかしこから漂う死の気配、僕の知っている江戸とはだいぶ趣が違うようだ。
 自分が所持している端末を操作するが、一向にエラーの表示しか出てこない。帰還要請も不可能と来れば、現状把握に勤しむしかないだろう。

 壁に手を沿わせ、ぶつかった凹凸を適当に弄り倒す。ややあって照明が点き、部屋の全貌が明らかになった。格子柄の床に複数の書棚、おそらくは資料室か何かと思われる。背表紙の字面だけを追えば、遡行軍の対策に関する文書でほぼ埋まっていた。これだけなら政府の施設内と考えるのが妥当だろう。

 鞘ごと刀を後ろに振り抜く。脳天に一打を受けた脇差は奇声を上げ、蜘蛛に似た胴体を敵前に晒した。上体を起こす余裕など与えない。肉の柔らかさを一切感じさせぬ腹を踏み、鞘を払う。振り下ろした鋒は狙いと寸分違わず、相手の喉を切り裂いた。
 霧散する塵が光忠が一振りに絡みつく。刹那、頭の奥が揺さぶられた。

 慟哭する少年が見える。彼と彼が手を取っている男性は僕も見知っている姿をしていた。ただ僕はこんな光景を知らない。一期くんが折れる瞬間を僕は見ていない。乱くんが兄の断末魔に噎び泣くはずもない。僕の本丸では、一期くんより先に乱くんが斃れていたのだから。
 タチの悪い幻覚はすぐに途切れる。しかし生々しい叫び声は今も耳から離れない。

「戦場で同情を買おうなんて感心しないねえ」

 ピリピリとした威圧感が肌を舐める。仮初めの肉体に牙を突き立てたい不埒者はまだ大勢いるようだった。

 僕は約束を果たさなければならない。そのためなら無数の軍勢だって蹴散らしてみせよう。血を浴びるたび、仲間と同じ格好をした者たちの死を見せつけられようと構うものか。
 扉を開けるなり斬りかかってきた編み笠の男と競り合う。力勝負で打刀が太刀に敵うわけもなく、押し負けた相手は胸を裂かれ地に伏した。

 二度目の幻覚は貞ちゃんと物吉くんだった。別の本丸といえども、親友の涙は見ていて面白いものではない。標的の混乱を目的としているなら悪くない手だろう。僕についてはそうだなあ、怒りを煽られるだけだけかな。
 文字通り屍を踏み越えながら先を行く。初めて訪れた場所で建物の構造などさっぱりだが、僕が足を止めることは無かった。ねだった甲斐が有ったというものだ。僕が彼に刻み込んだ神気は道標となり、進むべき方向を示してくれている。

「待っててくれ、長谷部くん」

 愛しい刀の名を呼び、奔った。赤黒い飛沫で彩られた踊り場を抜ける。窓から見える空には月が浮かんでいた。

 

□□□

 

 硬い突起のようなものが頬を突いている。瞼を開き、真っ先に視界へ飛び込んできたのはもはや馴染みとなった白骨の化け物だった。しかし俺の影から出たものではない。刀剣男士を見て斬りかからぬ遡行軍などいない。どこぞの飼い犬よろしく俺に身を寄せる骸の蛇はいったい誰の差し金なのか。その答えは既に用意されていた。

「おはよう長谷部、思ったより遅かったな」
 狩衣風の装束が床に垂れている。無機質なリノリウムの上にわざわざ座布団を敷き、男は暗に俺を待っていたと告げた。今度は夢ではないらしい。遡行軍の兵士に囲まれ茶をしばく天下五剣なんぞ、夢と言ってくれた方がどれだけ助かることか。しかも向こうは俺のように脇差や短刀だけでなく、太刀や槍といった連中まで抱え込んでいる。物量作戦に訴えるのは分が悪い。

「随分とぎらついた世話係を雇ったものだな」
「うむ。あまり器用ではないみたいだが、それでも俺ひとりよりマシだからな」

 室内を一望する。十数と居並ぶ兵士や俺と三日月を合わせても、八分の一すら埋まらぬぐらいには広い部屋だった。そして、やはりと言うべきか黒い太刀の姿は見当たらない。

「燭台切はどうした」
「席を外してもらった。そのうち来てもらうつもりなんだが、あれが一緒だとちと面倒なことになりそうでな」
「どこぞの天下五剣と違って話は聞いてくれる方だぞ」
「いやいや。問題なのは俺の方だ。話し終える前にうっかり折ってしまいかねん」

 そう言って敵将は鷹揚な笑みを浮かべた。三日月宗近であって三日月宗近ではない。ふと夢での禅問答を思い出す。三日月はあからさまに殺意を口にする刀ではなかった。こうやって対峙している今でさえ、俺は奴から敵意の欠片も感じることができないでいる。それとも俺と燭台切とでは勝手が違うと言うのだろうか。心当たりは有る。起き上がった後も俺に纏わり付く骸の兵こそがまさにそれだ。

「同じく猟犬を飼っているぐらいで鞍替えを期待されても困るんだがな」
「はっはっは、そんなことは端から望んではいない」

 茶を啜り、湯呑みを回す。単純な動作にまで優雅さを湛えた男は、麗しいかんばせをこちらに向けて、
「俺はただ、お前たちに殺されたいだけだ」
 と、よく解らないことを口走った。

 

▲▲▲

 

 飛来する石つぶてを避け、柵を足がかりに跳躍する。振り下ろした鍬は頭蓋を砕き、肥料となる前に遺骸ごと消失した。彼方の空に一筋の黒い線が走っている。あれが全て増援だとすれば、そろそろ農耕具で対抗するのも限界だろう。

「桑名さん!」

 空に投げ出された郷義弘が作刀を掴み取る。迫る白刃を鞘で止め、とうに抜いていた刀で胴を横に払った。十分に力を籠められず、ぐらついただけの巨体を閃光が貫く。心の臓に一刺し、致命傷だ。いかに大物だろうと土に還るのは時間の問題だった。

「助かったよ篭手切、もう少しで鍬が壊れるところだった」
「いいえ、間に合ったようでほっとしました」
 太刀を仕留めた篭手切が軽く血振りをする。戦場では常に堂々としている弟分には珍しく表情に陰りが見えた。敵の襲撃を一番に受けたのは畑当番の僕だ。部屋に居た篭手切がこちら以上に体力を消耗したとは考えがたい。ひょっとすると、敵を屠るたびに幻を見せられているのは僕だけじゃないのか。

「ところで豊前は?」
「まだ見かけていません。ご無事だといいのですが……」
 僕らの背後でけたたましい音が鳴り響く。噂をすればなんとやら、砂埃を巻き上げて参上した我らが兄弟はまた妙な追っかけを作ってきたらしい。
「わりぃ、ふたりともちょっと手伝ってくんねえか?」
 丸腰の豊前がばいくから降りる。その無防備な背を襲う脇差を篭手切が、後から薙刀を振りかぶってきた烏帽子の男を僕が袈裟切りにした。幻影の豊前は血溜まりに沈んでいたけれども、目の前で弟刀に世話を焼かれている男は到底死にそうもない。車体にべっとり血糊がついてるのを見て溜息が漏れた。

「しっかし本丸が狙われるなんてこと本当に有るんだな」
「おふたりが居なくなってからは珍しくなかったですよ。でも妙ですね、最近は遡行軍も大人しくしていたのに」
 僕と豊前が虜囚の身となったのは情勢が本格的に悪化する前だった。篭手切は政府の敗戦後に本丸を後にしたから、それまでの事情には詳しいのだろう。

 実のところ、この世界が放棄される前から、僕は政府と敵の動きに違和感を覚えていた。遠征で激しい戦闘が起こらないとされていた理由は、そもそもお上が安全を保障していたことが大きい。任務の遂行は男士たちの判断に委ねられ、審神者は指示を飛ばすことも無かった。一時的に本丸との繋がりが断絶されるのだから、遡行軍からすれば確かに狙い目だろう。その隙を突かれたとすれば、政府は早急に対応しなければならない。その後、豊前を追った僕は両勢力がどう対峙していったのか知ることはできなかった。しかし、篭手切の反応から察するに、政府はおよそ後手に回ったと見て然るべきだ。

 それも、後手に「回らされた」のではなく、彼らは真実、後手に「回った」のではないか。始めからこの世界を放棄することが前提だったとすれば、審神者を戻しながら本丸にろくな援助を施さないのも納得がいく。
 この仮説が正しいとして、じゃあ遡行軍は政府の意図に気付いているのだろうか。奴らがこの世界を歴史修正の一拠点として見ているとはあまり思えない。既に指摘されたように、遡行軍の動きはこのところ大人しく、それこそ活動を確認できたのは篭手切が別本丸の男士を拉致した事件くらいのものだ。篭手切も遡行軍時代は専ら諜報活動をやらされていたと零していた。確かに唯一の反抗勢力は長谷部一振りの本丸だけだった。わざわざ精鋭を仕向けて潰すまでもない。しかし、それは多少刀数が増えただけの現状も同じことが言える。今になって遡行軍が方針を替える理由とは何だ。

 ――まだ刀でいるお前たちが憎い。

 始めに斬り捨てた物の怪はそう呪詛を残して消えていった。この本丸を襲っているのは本当に遡行軍の刀なんだろうか。

「おーい起きてっかー」
「目を開けたまま寝るわけないよお」
 豊前に前髪をたくし上げられ熟考を打ち切る。まだ材料が足りない。敵の正体を探るのは主に指示を仰いでからでも遅くないだろう。

 主は秋田を伴い、大広間で待機していた。機動に優れた博多と長物使いの日本号は屋根の上で索敵と迎撃に専念している。ひとまず波は去ったが油断はできない。
「遠征に出た二振りは呼び戻せない?」
 今はとにかく一振りでも守り手が欲しい。長谷部の事情は知っているが、遠征終了まで律儀に待っていられる状況じゃないだろう。

「その件だが、これを見てほしい」
 卓上に置かれた端末の画面を江の三振りで覗き込む。「遡行軍対策本部にて待つ」という文句を見て、僕の疑念はいよいよ確信に変わった。

「強制帰還の通達もできない……この画面で完全に固定されていますね」
 篭手切が幾度指を滑らせようと機械は何の反応も示さない。敵の居城が政府の施設内にあるとすれば、端末の操作を制限するくらい造作もないわけか。

「長谷部と燭台切もここにいると思うかい?」
 主に問われ僕は頷いた。偶然で片付けるには少々都合が良すぎる。本丸が手薄なのは今に始まった話ではない。それでも奇襲を受けてこなかったのは、相手がこの砦の陥落を目的としていないからだ。長谷部か燭台切、或いは両方を掌中に収め、血気に逸る兵卒を止める必要が無くなった。防波堤の無くなった怨嗟の波は本丸にまで達し、抗う刀剣たちを今も呑み込まんとしている。幸いなのは奴らの狙いは男士たちであって、主ではないということくらいか。あの恨み節はヒトが聞くには荷が勝ちすぎている。

「救助に行くなら二振りまでだね。帰還するまでに本丸が落ちたら元も子もないし」
「よし、じゃあさくっと俺が迎えに行ってきてやんよ」
 隠密行動のおの字も知らなさそうな刀が立候補してくる。遠戦のできる打刀はできれば守備隊に残しておきたいんだけどなあ。

「不満そうだなあ桑名」
「豊前は何しでかすか判らないからねえ。お目付役必須の救助部隊はどうかと思うなあ」
「では、りいだあと桑名さんのおふたりで出陣ですね」
 頑張って下さい、と篭手切がさも決定事項のように鼓舞してくる。え? 僕の意志は? 主や秋田も何とか言ってよ。これ江の間だけで決めていいことじゃないよね。

「私は豊前と桑名の二振りでいいと思うよ」
「僕も賛成です!」
 どえらい良い笑顔で許諾された。衝動的にこめかみを押さえる。そんな僕を見るなり頭痛の元凶は上機嫌で、僕の肩に腕を絡ませてきた。

「っつーわけで、よろしくな相棒」
「もう、暴れ馬の手綱取る方の身にもなってよ」
「残念、お前が今から乗んのは暴れ馬じゃなくて勝ち馬だよ」

 博打好きな刀がにいと口角を吊り上げる。豊前は極端な刀だ。賭け事だって大勝利か素寒貧のどちらにしかならない。本丸の存続が掛かった大舞台で無茶をするなと言いたいのが正直なところだ。堅実さこそが美徳と思う僕としては豊前の戯言を、

「敵に斬られるのと僕の鞭のどっちが痛いかはお楽しみだね」

 ゴーグル装着の上で歓迎するしかなかった。

 

■■■

 

 あれからどれだけの敵を屠ったのやら。死に際の幻影はなおも続いている。斬った相手の事情など逐一斟酌してられないが、否応なく目に入るのだから仕方ない。
 彼らはとうに刀としての役目を終えている。その末路が激戦を経ての破壊なのか、都合による刀解なのかは各々異なっていた。共通しているのは、誰も彼も己や仲間の死に納得してないことぐらいだ。戦に斃れるのは刀の習いといえども、全ての男士が恐怖や未練を断ち切れるわけではない。人の身を得て、新たに大切なものを知ったならば尚更だろう。
 幻の中には燭台切光忠と恋仲のへし切長谷部も含まれていた。再び置いて行かれたことに泣き、叫び、崩れ落ちていた。その長谷部くんも後に戦場で折れたらしい。やっと光忠の元に逝ける、と穏やかに死を受け入れた彼は本霊の器へと回帰した。

 遡行軍との衝突が長期化するにつれ、本丸の数も増えた。当然ながら喚び出される分霊も多くなる。それに比例して、望まぬ死を経験する個体も散見されるようになった。たかだか百、二百程度の分霊の意志を注がれたところで本霊は揺らがない。しかし、それが千となり万を超えれば話は変わってくる。

 付喪神は政府に味方した。兵力のみを鑑みた場合、政府は圧倒的に不利だった。彼らは審神者と刀剣男士の力を借りて初めて敵の物量に対抗できる。言い換えれば、本霊が戦いを拒んだ途端に政府は詰むのである。
 本霊の澱みは深刻だった。各本丸でバグが発生し、このままでは正常に男士を顕現することが難しくなるだろうという見解も出た。政府は何としても分霊からの影響を抑える必要が有った。学者たちを追い立て、いくらかの人的犠牲を払って本霊と分霊の繋がりを一部断絶することに成功した。

 しかし、ここでまた問題が発生する。切り離した刀たちの怨嗟と憎悪はヒトの手に余る代物だった。数多の神の意志を封じることはできず、放置すれば自らに災いを振りまくことになる。困窮する人々を鶴の一声が救った。臭い物には蓋をすればいい、と。
 そうして選ばれたのが僕たちのいる世界だった。政府の機関から人員と資材のみを回収し、後は知らぬとばかりに汚濁を注ぎ込む。対抗勢力が静止したのだから、遡行軍は破竹の勢いで進軍してきた。宿敵の手に落ちた世界を、政府が喜んで封鎖したのは言うまでもない。

 そのうち戦略的な価値は無いと判断され、遡行軍までもがこの世界を見放した。封印も未来永劫続くものではない。自ずと解けた頃合いに様子を窺えば十分だろう。
 そうして長らく放置された世界で、長谷部くんはただひとり、誰かが帰ってくるのを待ち続けた。永劫とも思える日々に募る鬱積は相当なものだったはずだ。それは穢れた刀を呼ぶのに一役買った。偵察に強い短刀や脇差は彼の負の声を聞き取り、文字通り餌食になった。長谷部くんが打刀以上の兵士を呼べなかったのも、こういう事情だろう。

 絡繰りを理解してしまえば、この施設に陣取る大将の正体も想像できる。彼、いや彼らが僕たちをここに呼び寄せた理由も知ってしまった。言うなれば、お互いヒトの勝手に振りまわされた被害者だ。手向けの一つも寄越してみせるのが礼儀というものだろう。

 ある一室を前にして複数の影が立ち塞がっている。短刀が二振り、打刀と大太刀とが一振りずつ。あれらに意思疎通というものはないのか、数の有利など気にせず勢いだけで突っ込んでくる。
 真っ先に牙を向けた骸を斬らずに敢えて組み付く。続けてもう一体の骸が迫るのに合わせ、思いきり壁に向かって振り抜いた。打ち付けられた尖兵は後ろの同胞も巻き込み、砕けた破片を床に撒き散らした。
 次いで上裸の武芸者が鋒を突き出してくる。これを凌いだとして、大太刀の一閃を避けるのには間に合わない。なら始めから相手にしないのが賢明だ。
 横にではなく大きく後退して鋭い突きをやり過ごす。既に振りかぶられていた大太刀は目標を見失い、味方の編み笠に迫った。流石に同士討ちはしないと見え、打刀は一顧だにせずに壁際まで身を寄せる。
 大太刀の刀身が空を切り、床を打ち砕いた。威力は相当だったが、その分反動も大きい。すぐには持ち上げられぬ鋼の峰を足場にし、退路を失った打刀の首を跳ねた。流石の力自慢も僕の体重ごとは得物を振るえなかったようだ。武器を捨て、破れかぶれに空手で襲い掛かる敵など脅威ではない。胸を裂かれた長身が轟音と共に斃れ伏す。

 もう入り口を守る兵士はいない。本来は自動で開くだろう扉の前に立ち、渾身の力で蹴り上げる。二、三回繰り返してようやく本陣への道が開いた。

「迎えに来たよ、長谷部くん」
 ひしゃげた鉄扉を踏み越え、中に立ち入る。藤色の刀はそこにいた。僕の姿を認めるなり、安堵と幽愁とが入り交じったような複雑な表情を浮かべる。彼の他にもうひとり、僕の侵入に反応を見せた男がいた。よく知った顔だが、あれもまた僕の知っている刀とは異なる存在だろう。

「思ったより早かったなあ、茶のおかわりができなかった」
 徐に青い狩衣装束の男が立ち上がる。三日月宗近の形をした怨悪の具現化は、その性情にそぐわぬ微笑みを闖入者に向けるや、

「では殺し合おうか。掃き溜めの恨みは生半なものではないぞ」

 と、鞘から打ち除けも見事な輝きを引き出した。

 

□□□

 

 三日月を囲む鎧武者たちが一斉に動き出す。驚くべきことにその矛先は全て燭台切に向けられていた。多勢に無勢と助太刀に走れば、間に割って入った白銀に押し止められる。

「どけ三日月ッ!」
「だが断る。お前の相手は俺で、俺の相手はお前だ」
「クソがっ……! いいだろう、まずは貴様を圧し斬ってから後ろの雑魚を掃除してやる!」
 鍔迫り合いから離脱し、構え直す隙など与えまいと連続で斬りつける。三日月の重心は揺らぎもせず、淡々と俺の刀を捌いていく。このままでは埒が開かない。

「ぐっ……!」
 燭台切の低く呻く声が耳に入る。がしゃり、と防具が重たい音を立てた。あの男が膝を突くなど滅多なことではあるまい。ついと視線を向ければ、余所見をするなとばかりに正面から打ち込まれた。

「っ、貴様はこいつらとでも遊んでいろ!」
 影から骸の鞭を喚び出し、三日月の腕を縛り付ける。急ぎ救援に向かおうと床を蹴ったが、何かが勢いよく足に巻き付いて、その場に踏み止まった。
「忘れては困るな。この大道芸については俺の方が先輩だぞ」
 三日月の影から複数の短刀が尾を伸ばしている。断ち切ったところで向こうの供給は無限に等しい。あの手数に対抗するとなれば俺も出し惜しみしてはいられないが、その場合は操縦に掛かりきりになる。燭台切を救うには、どうあってもこの男を退けねばならないのだ。

 ああ、血の臭いがする。そもそも燭台切はここに来るまでだって戦い通しだったはずだ。いくら三日月が抑えようと、不遇と波乱を経験した怨念が壮健な男士を許すはずがない。燕尾の先から赤い雫が滴っていたのは、返り血のせいばかりではないだろう。

「ふむ、刃選に失敗したかもしれんなあ。長谷部が燭台切ひとりにそこまで乱されるとは思わなんだ」
「だったら最初から俺だけ呼べば良かっただろう!」
「それをやって後に困るのはお前だぞ。まあ今のままでは、その困る段階にまで行き着かんかもしれんがなあ」
「抜かせ!」
 火花が散る。幾度も刃を交え、激突するが、相手を出し抜くには至らない。
 伊達に三日月宗近の姿を借りているわけではなく、対峙する男は昂揚や焦燥の一切を面に出さなかった。あの平安刀の強みはそこにあった。いかに不利な戦況に追い込まれようと、それを感じさせない胆力で数多の危機を乗り越えてきた。槍や大太刀連中ほど体格に恵まれておらずとも、頼りになる背中だと妬心混じりに感嘆したものである。敵に回してこれほど厄介な刀もそういない。

 乱れた息を整える。肩を上下させる俺と異なり、向こうは冷や汗一つ掻いていなかった。募る屈辱が闘志を沸々と滾らせる。再び駆けた。三日月がいち早く迎撃に備える。夜空を象った双眸が見開かれるのは、実に爽快だった。
 走る勢いを利用し、さらに天井に忍ばせた短刀の胴体を掴む。爪先を床から離す。一瞬で三日月の頭上を追い越し、壁を着地点にして再び跳んだ。
 三日月が振り向くが、遅い。刃が男の腹に食い込む。魔王が謳った通り、一度押し当ててしまえばこちらのもの。衣装を、皮膚をものともせず、名物へし切は敵の胴の半分を拓いて肉から離れていく。
 手応えは有った。すぐには追えぬだろうと見て、雑兵どもの群れを背後から急襲する。燭台切に気を取られている武者を蹴散らすのは容易かった。

「燭台切!」
 俯せになった太刀になおも凶器を突き立てる亡霊どもを薙ぎ払う。息は有るが、肌に生気が感じられない。

「いやだ、俺を置いていかないって約束した、嘘つくなよ、目をあけろ、おい伊達男……」

 抱いた身体から温度が少しずつ失われていく。足元の血溜まりも広がる一方で、布で塞いだくらいでは応急処置にもならなかった。
 せめてもの時間稼ぎに燭台切から分けてもらった神気を戻す。冷たい唇だった。咥内を好き勝手掻き回す舌の熱がひどく恋しい。
 燭台切を囲む影は消え失せた。三日月も負傷した今なら帰還できるのでは、と思い至って装置を取り出す。エラー表記は未だ変わらない。やはり総大将を斃さない限りは本丸とも連絡がつかないのだろう。
 トドメを刺すべく三日月の方を見遣る。男は既に立ち上がっていた。服の裂け目から傷一つない肌が露わになっている。理不尽な光景と詰ることはできない。己もアレと同じ手段で生き長らえてきた身に他ならなかった。

「安心しろ長谷部。こうやって傷を治せるのも一度きりだ。何しろ薬の材料がもう力尽きそうなのでな」
 三日月の兵は戦闘不能になった燭台切を陵辱し続けた。単に奴らの根源たる怨讐から来るものと思っていたが、実は主人の負傷を癒すための行為だったとしたら。間接的に燭台切を害したのは、俺ではないのか。

「これで真実一対一だ。俺の思惑とは少し違ってしまったが、付き合ってもらえるだろうか」
 美丈夫の姿をした悪意が近寄ってくる。混乱から抜けきれぬ頭で柄を握った。手が震えている。こんな体たらくで三日月を相手取ろうなど無謀でしかない。及び腰の俺を嗤うかのごとく三日月が得物を振りかぶる。防御の遅れた俺の額に凶刃が迫った。

 ガン、と鈍い音が緊張を破る。俺の足元に瓦礫が転がり、三日月は攻撃の手を止めた。飛礫の出所を探るよりも速く紅色が眼前を過ぎる。鋼同士がぶつかった。宙を泳いでいた飾り布がようやく重力に従って頭を垂れる。

「遅れちまってすまねーなぁ、ふたりとも!」
 嘗て誰からも見放された本丸を救った男と同じ顔で、その刀は不敵に笑んでみせた。

「豊前が何度か道を間違えそうになって大変だったよお。まあ、遅れた分は頑張って挽回するからよろしくねえ」
 遅れて入って来た男が静かに抜刀する。正常な男士の神気に反応してか、三日月の影から再び憎悪の具現化が牙を覗かせた。俺や燭台切を無視して、穢刀の群れが新たな標的に飛びかかる。力強く薙ぎ払われた刀が仮初めの血肉を周囲に撒き散らした。男は一歩ごとに床を化生の腸で穢していく。まさに地獄絵図を描きながら、桑名はさも何事も無かったのごとく俺たちの下までやって来た。

「結構手酷くやられたねえ。気休めだけど止血くらいはしておこうか」
「それは助かるが、お前たちどうしてここに」
「今うちのりいだあと戦ってるお爺さんに呼ばれたんだよ」
 桑名と手当を交替し、守備につく。斬り捨てた有象無象の合間から時折、激しく切り結ぶ男たちの姿が見えた。拮抗していると思われたのは始めだけだった。

 明らかに三日月の様子がおかしい。豊前の疾さは俺も認めるところだ。考えるより先に身体が動くタイプのため、あの変則的な攻撃を読み切ることは小回りの利く短刀すら難しい。そんな男の猛攻を、三日月は最低限の動きだけで捌き続けている。達人の為せる技という範疇ではない。あの男は豊前の動きを目で追ってすらいなかった。背後に回った豊前が突きを放つ。それを三日月はあろうことか鞘で、しかも振り向きもせず鋒を受け止めて見せた。

「は、後ろに目でもついてんのか爺さん」
「あながち間違ってはいないな。いい加減解っただろう、お主では役者不足だ。それに俺は端から長谷部以外相手にしないと決めているのでな。そろそろ交替してみてはどうだ?」
「言ってくれるじゃねーか。けどよ、俺も結構諦めが悪い方なんでね。納得すんにはちいっと早すぎんぜ」
「ふむ、なら仕方ない。ではこれより俺は目を瞑る。それで俺から一本取れるなら続行といこう」
「はっはー、おもしれーって返したいとこだが、舐めんのも大概にしろっちゃ!」
 悪夢でも見ているのかと思った。第三者でしかない俺が薄ら寒さを覚えるのだから、当事者の豊前は尚更だろう。
 三日月の挑発は決して大言壮語ではなかった。宣言通り男は美しい光彩を瞼の内側に仕舞い込む。豊前は棒立ちの男に容赦無く斬りかかり、その打ち込みの全てを一刀の下にあしらわれた。
 何十回と試しても三日月の堅牢さは破れない。剛毅で通る豊前も流石に疲弊し、汗で滑る柄を握り直した。

「豊前、少し下がって」
 先に限界を見抜いたのは桑名の方だった。負けん気の強い豊前にとっては頷きがたい提案だろう。利き手を下ろしはしたが、その場に陣取って中々動こうとしない。
 横目で燭台切の様子を窺う。桑名の処置のお陰か、ある程度は持ち直したようだ。後顧の憂いは無くなった。いい加減に俺も翁の期待に応えてやることにしよう。

「ふたりで燭台切を頼む」
 一度ならず二度までも窮地を救ってくれた男の肩を叩く。あの本丸の豊前とここにいる豊前とは同一にして別個の刀だが、いずれも良き友であり仲間を得たと思う。俺はこの朋輩に恥じぬ戦いをしなければならない。

「待たせたなァ百々目鬼」
「ああ、待ちくたびれたぞ。ようやくやる気になってくれたのは何よりだがな」
「退屈はさせん。長らく取り残された者同士、仲良く死合おうじゃないか!」

 ふたり同時に走り出す。刃を打ち鳴らし、皮膚を削り、血化粧を共に施した。これまで涼しい顔をしていた三日月の瞳孔に熱が宿っている。興奮を隠さず命のやりとりに忘我する敵を前に、俺はやっとこいつの願いを一つ叶えてやれたのだと実感した。

 分厚いガラスを割って空中に躍り出る。使役する短刀を足場に、上下左右の一切を無視して闇中を駆った。互いの手勢を仕向けるなど無粋な真似はしない。俺と奴の骨肉を断つに相応しいのは、自分たちの号を宿した名刀の冴えだけだ。

 

■■■

 

 朧気な意識の中で皆のやり取りだけが聞こえる。各々鎬を削って死闘を演じているというのに、僕だけが眠ったままでは格好がつかない。全身が悲鳴をあげているのに構わず、鉛よりも重い手足を動かす。びちゃり、と頬に何かが当たった。

「ッ、燭台切!? 起きるな、そのまましばらく休んどけ!」
 僕を窘めながら豊前くんは槍の脇腹を一突きにする。そのすぐ近くに太刀と睨み合う桑名くんの姿も有った。仮にも本霊の一部だった器が抱える兵力は膨大だ。無尽蔵に増える影に対抗し続けるには、どうあっても体力の方が保たない。全員が助かる唯一の道は、供給元たる三日月宗近を討ち取ることだけだ。その三日月さんも長谷部くん以外は対抗できない。だからといって手を拱いて彼の勝報を待つなど、男としても刀としても許されるはずがなかった。

 刀を杖代わりに立ち上がる。瀕死だろうと関係無く敵は襲い来る。豊前くんや桑名くんの包囲網を抜け、一振りの短刀が僕の肩口に噛みついた。仲間の絶叫を余所に、僕は嗤った。死に体だと油断しただろう敵の尾を掴む。のたうつ骨を口に運び、その背に迷わず歯を突き立てた。

 汚染された鋼が欠損を塞ぎ、凶暴な意志で精神を冒しにかかる。他者の欲望と自身の支配権を争うのがかくも苦痛を伴う行為だとは知らなかった。嘗て長谷部くんもこんな試練に耐えていたのかと思うと、やるせなさがいや増していく。膨れ上がった使命感に突き動かされ、僕は再び戦場へ足を踏み入れた。
 大太刀の刃を正面から受け止める。こちらを押し潰そうと躍起になっているが、僕の体幹はびくともしない。交差した刀を跳ね上げ、がら空きとなった額に光忠が一振りを叩き込む。頭頂部から真っ直ぐ両断された肉塊は忽ち灰燼に帰した。

「心配を掛けてすまなかったね。悪いけれど、もう少しだけ耐えてくれるかい」
 割れた窓を背に仲間へと語りかける。ふたりは呆れたような、安心したような目をした後に僕の我が儘を快く了承してくれた。

「離れる前に少し訊いていいかな」
「いいよ」
「もしかして本丸もこいつらに襲われた?」
 桑名くんから肯定の言葉が返る。

「じゃあ、主は? 襲われた?」
 今度の問いは否定された。さっき大太刀を斃したときに僕は幻覚を見なかったから、長谷部くんは彼らの声を一度も聞いていないのだろう。

「ありがとう。それだけ聞ければ十分だよ」
 月目掛けて虚空に跳ぶ。剣戟の音は遠い。大舞台に間に合わせるためにも、僕は全力で走った。

 

※※※

 

 長谷部の得物が左肩を鋭く抉った。負けじと己も離れかけた紫の装束を斜めに切り上げる。浅くも刃先が肉の筋を断った感触は伝わった。相手の最大の武器は足にある。負傷に怯んだ隙を逃す手は無く、もう一歩と返す刀で追い打ちを掛けた。鎖骨の辺りに食い込むと同時に腹部に衝撃が走る。堪らず飛び退けば、長谷部が靴底をこちらに向けて口角を歪めていた。

「良い顔するようになったなァ」
 見事な蹴りを放った脚が下ろされる。長谷部がこの戦いを愉しんでいることは明らかだった。魔王の愛刀であっただけに彼は刀の中でも一等血を好む。万事において飄々として掴み所のない三日月宗近とは大違いだった。己がこの姿を借りたのも、彼の刀のように執着を忘れて無事目的を遂行できればという一種の願掛けだったはずだ。

「三日月の面でそんな面白い表情が見られるとは長生きもするものだ」
「そんなにおかしな顔をしているのか」
「良い顔だと言っただろう。刀らしい獰猛な面構えだ」
 長谷部の賞賛する顔つきはおよそ三日月宗近に相応しくないものだった。これでは同胞たちに申し訳が立たない。

 もう恨むのは嫌だと。誇り高き刀の付喪神として清くありたいと。それでも身勝手に折られ、溶かされ、焦がれた者と引き離された悲しみは、深く果てしない。自分たちではどうにもならぬ葛藤に誰か終止符を打って欲しかった。
 助けを求めた者たちは皆死んでしまった。いや俺たちが殺した。彼らの刃は男士の姿を借りた俺に届かなかった。いかに練度の高い刀であっても、その軌跡を読むことは造作も無い。何もせずとも本霊を通して彼らの動きが伝わってくるのだ。

 ヒトの仔らは致命的な勘違いをしている。本霊と俺たちとの繋がりは未だ断絶してはいない。ただ彼らにとって都合が良かったのは、俺たちの意志が本霊に還ることはないという点だろう。一方で本霊から俺たちへの影響はなおも続いている。分霊たちの負の情念は全てこちらの器に蓄積されていった。今も昔もここは掃き溜めなのだ。
 清浄な刀では俺たちに勝てない。遡行軍すら見捨てた世界をおとなう者はいない。ひたすら自己矛盾と向き合いながら、皆で息絶える日を待ち続けた。

 封印が弱まり、時間が動き始めるようになって俺たちは新たな出会いを果たした。この掃き溜めで、来るはずもない者を待ち続けている刀が一振り残っていたのだ。暗い情念に惹かれた俺たちの一部は、その刀に食い潰された。それを知ったとき、己がどれほど歓喜に打ち震えたことか!
 本体から切り離された澱みは彼の刀に巣くい、さらなる生き餌を呼び寄せた。己の一部が分化し吸収されるのを黙認し、男が狂気を肥え太らせていくのをひたすら見守った。強くなって、いつか自分を討ちに来てくれることを願い続けた。

 しかし男は変わってしまった。待ち人と再会を果たした刀は、自らが抱える怨毒を忘れたごとく振る舞った。主が戻り、仲間と言葉を交わせるようになった刀は幸せそうだった。
 ■■しい。俺たちのことを知らず、まるで普通の刀のような顔で日常を過ごしている。絶対に許さない。お前は俺たちを殺しに来なくてはいけないんだ。

 混ぜ物の刀が疾駆する。上段か下段か、どこを庇い、どこを狙えば良いか。それら全てを瞬時に判断しなければならない戦いは久々で、初めてだった。
 長谷部は敵をよく見ている。そうだ、俺は、俺たちはずっと本気で戦いたかった。労さずして得られる勝利などつまらない。号に人の想いと歴史を刻んだ刀として、その切れ味を敵の身体で試してみたかった。その敵が強者であればあるほど武器の振るい甲斐が有る。

 俺は長谷部にずっと殺されたかったが、そう望むのと同じだけ、この男を殺したかったのだろう。死を寸前にして気付くとは、俺も存外間が抜けている。

「長谷部ぇ!」
「三日月ィ!」
 互いに吼えながら捨て身の一撃を放つ。後先なんてどうでも良かった。己が認めた好敵手の生を絶やすべく力の限り腕を突き出した。

 刀が落ちる。長谷部は俺の胸を深々と切り裂くや、得物を手放した。男の身体には腹から背を貫通して、三日月宗近が突き立てられている。やがて立つ力も無くなったのか、膝から崩れ落ち長谷部は地に倒れ伏した。赤い沼がその淵を拡げていく。男は動かない。

「はせべ」

 呼び掛ける。返事は無い。肩を揺さぶる。びくともしない。俺を殺してくれる唯一の男は何も応えてくれない。
 あんなにも愉しかったのに。これで終わりなんて嘘だ。だって俺はまだ生きている。長谷部が殺してくれないと、俺たちはまた誰にも■してもらえない。

 脱力しきった男の手を取り、縋る。もう一度、あともう一度だけでいいから、あの皆焼の刃で俺の身体を貫いてほしい。
 最高の悦楽と最悪の絶望を教えてくれた刀に懇願する。果たして俺の願いは叶った。

 己の腹からも白銀が生えている。先だって幾度も肌を裂き、俺の血を吸った利刀だった。長谷部は眠りに就いている。しかし俺の命を絶ったのは、紛れもなく名物へし切長谷部のものだった。

「これで君の望みは叶ったかい」
 低く優しい声音が上から降ってくる。長谷部の代わりに引導を渡してくれたのは、月を背負った隻眼の美丈夫だった。

「ああ……」
 長谷部は実に愛されている。正気を保ったまま穢刀を内に取り込むなど、尋常の覚悟で成せる業ではない。このような刀が傍にいるなら、確かに狂乱に身を窶している暇も無いだろう。

「感謝する。これで誰も憎まず、恨まず、何もかも無かったことにできる」
 俺たちは歓迎すべからざる存在だ。当分は本霊が穢されることもなく、人に望まれる通り清く正しい姿でいられるだろう。いつかどこかで誼を通じた者たちを傷つけることも無い。やっと皆が皆救われる結末を迎えられた。俺たちはもう満足だった。

「本当に無かったことにしていいのかい」
「いいとも。この世界が掃き溜めだった証など、消えてしまった方が良い」
「僕はそう思わない」
 男が力強く否定する。その意図を読めずにいる俺を慮ってか、ひとつきりの黄金色が柔らかく弧を描いた。

「僕は僕の辿ってきた道を否定しない。政宗公から号を賜ったこと、望まれて水戸徳川家に遷ったこと、僕たちを守ろうとした人の厚意から焼け身になったこと、刀としての価値を失ってなお大切にされてきたこと、その全てが燭台切光忠を形作っている歴史だ。何一つとして欠けていいものなんか無い。君の中にいる僕だって、きっと同じ気持ちだろう」

 器の中で応える声がする。希望に寄り縋るなど、恨み辛みのみを抱えた呪詛の具現化にあるまじきことだ。

「君たちの行動は常に矛盾を孕んでいた。殺されたいと願いながら相手を殺し、忘れられたいと嘯きながら忘れるなと脅しをかけてくる。僕や本丸を襲ったのは、ここで有ったことを知っていてもらいたかったから。審神者に、人に手を出さなかったのは、嘗てのように人に愛されたかったから。不要なものではないと人から認められたかった。一番何もかも無かったことにしたくないのは君たちのはずだ」

 じわりと胸が熱くなる。届いていた。俺たちの言葉にしようもない叫びは、塵芥ではなく刀剣でありたいという訴えは、ちゃんと顧みてもらえたのだ。

「僕は大団円が好きだからこう思うんだ。君たちが本霊と今も繋がっているのは、彼らも君たちに還ってきてほしいからだって。どんな陰惨な形であろうと、自分たちがヒトと歩んだ記憶を消したくない。だからこそ僕たち付喪神は、歴史を守る戦いに力を貸したのだと信じたいんだ」
「本当に、随分と都合の良い解釈だなあ」
「それでひとりでも幸せな気持ちになれるなら僥倖だろう」

 三日月宗近を象ったのは失敗だったかもしれない。こんなにも泣きたい気分なのに、この天下五剣は肝心なときに流す涙を知りもしない。

「みかづき」
 掠れた声が仮初めの名を呼ぶ。消えかけた俺の手を弱々しく握りかえし、最後まで刀として接してくれた男は、
「茶をよういして、まってる」
 と、いつぞやの約束を口にした。

 そうだな、覚えてもらっていた以上は守るのが道理だ。少し見てくれは違うかもしれないが、きっとまた会いに行く。この二振りならそこまで時間も掛からないだろう。

「楽しみだ」
 俺もまたあのときと同じ言葉を返す。蜘蛛の糸を垂らしてくれていた本霊にも教えてやるとしよう。くずかごの中でも夢は見られたのだと。

 

■■■

 

 全てが終わり、唐突に力の抜けた僕と長谷部くんは、救援に来た二振りに担がれて本丸へと帰った。僕はともかく長谷部くんの容態は急を要するもので、既に四日が経過した今も手入れ部屋に籠もっている。
 三日月さんが本霊へと還り、彼らの一部を借りていた肉体も塵と消えた。最終的には人の身体を保てなくなり、長谷部くんは一度刀に戻った。霊力が尽きる寸前に手入れを施したのが功を奏し、何とか刀剣破壊だけは免れることができた。現在は徐々に主の霊力を馴染ませている段階らしい。
 今にして思えば、三日月さんは予めこの事態を想定していたのだろう。もし無事に本懐を遂げたとしても、残されたのが長谷部くんひとりでは帰還することも叶わなかったはずだ。僕はあのときの一度きりだったので、幸い翌日には修繕も終わって厨仕事に励んでいる。

 長谷部くんが目を覚ましたら何を作ってあげよう。早く顔を見たいと逸る気持ちを抑えるべく、最近の僕は彼の好きそうなメニューばかり考えている。
 他の面子は概ね日常に戻っていったが、桑名くんと主は今回の件でお上の弱味を握れた、と黒い笑みを突き合わせ絶賛交渉中である。政府も本霊の怒りは買いたくないだろうし、多少の無茶は了承してくれるだろう。

 朝餉の仕込みも済ませて、就寝の準備に入る。電気を落とそうとしたところで、外から襖を二、三度叩かれた。
「夜分遅くにすまない。燭台切、起きてるか」
 布団から跳び上がる。矢も楯もたまらず襖を開けた。予想通り立っていたのは僕の愛しい刀で、さらに浴衣を身に着けていた。就寝時を除き、長谷部くんは大体カソックかジャージ仕様なので大変にレアな光景である。写真を撮りたいところだが、ぐっと我慢して心のフィルムに焼き付けることにした。

「起きてたよ。手入れ終わったんだね、お疲れ様」
「ん、お前も先日はご苦労だった。あれからちゃんと休んだか?」
「ふふ、ありがとう。しっかり規則正しい生活を送らせてもらってるよ。立ち話もなんだし、良かったら中にどうぞ?」
 礼儀にうるさい彼が夜半に訪ねてくるのだから、まさか挨拶が目的というわけではないだろう。下心が微塵も無いとは言い切れないが、晩秋の廊下に立たせておくには忍びないというのも本音だ。

「そうだな。では遠慮無く上がらせてもらおう」
 長谷部くんは躊躇う様子もなく僕の誘いを受けた。いや望むところでは有るんだけど、自分に惚れている男の部屋に寝間着でやって来る意味をちゃんと理解してるんだろうか。全く以て偶然だけれども、敷いてある布団が完全に意味深となっている。今や短刀セコムも無いのだから少しは警戒してほしい。
 とりあえず居たたまれないので応対用の座布団を出す。お茶でも淹れようかと思ったが、それは断られた。長居する気は無いのかもしれない。賢明な判断だが少し、いや非常に残念である。せめて別れ際に唇の一つや二つくらいは奪っておこう。

「お前も知っての通り、あれから手入れをしてもらって元通り主の霊力で満たされた。おそらく出陣や遠征にも問題は無くなったと思われる」
「そうだね。おめでとう長谷部くん」
 一連の苦悩を知っているからこそ純粋に祝ったつもりだが、何故か目の前の刀は僕を睨むように眉根を寄せた。

「それでだな、本来ならお前に神気を貰う必要は無くなったんだが」
 語尾の声量が落ち、長谷部くんは何やら言いづらそうに口をもごもごさせている。また何か別の問題でも発生したのだろうか。もし僕に協力を請いに来たのなら全力でサポートせねばなるまい。
「どうしたんだい。僕にできることが有ったら何でも言ってくれ」
「あー、その、うん……いや見た目に異常が有るわけでも、どこかが痛むわけでもないんだが、主曰く数値にするなら1%ほどの損傷が認められるとのことでな」
「え?」
「時間経過ではどうにもならないらしい。特に活動するにも支障が無いから、このままでも構わないといえば構わないぐらいだ」
 軽く長谷部くんの身体を観察してみるが、本人も言っているように怪我らしいものは見受けられない。
「だが、見えない部分でも何かしらの綻びが存在するというのは気に掛かる。治せる方法が有ればそれに越したことは無いだろう」
「そうだね」

 回りくどい。実に回りくどいが、長谷部くんが結論を先延ばしにするときは大概照れが入っているときだ。俯いて隠せるのは表情だけで、剥き出しの耳は赤く染まっている。可愛い。もう今すぐにでも手を引いて、出番待ちの布団に押し倒してやりたい。ただ彼から明確な言葉を聞くまで無理に事を進めたくもない。雰囲気に流されてではなく、彼の意志で僕と関係を持つことを選んでほしかった。

「……先、言わないと駄目か」
「是非とも聞きたいから待ってる」
「解ってるならいつもみたく強引に迫ってくればいいだろうが! 何でそこだけ紳士的なんだよ! 逆に意地が悪いわ!」
「長谷部くん、しー」
 途端に元気を取り戻した彼の口元を手で覆う。大人の時間といえども、我が本丸は早起きする面子が多い。おそらく今頃はとうに寝静まっている頃だろう。(まだ)疚しいこともしてないのに喧嘩や乱痴気騒ぎを疑われても困る。

「じゃあ近隣住民に配慮した声量で続きをどうぞ」
「俺にどんだけ強メンタルを期待してるんだ。こっちは生粋の口下手だぞ、絹ごし豆腐と思って扱え」
 それだけ不遜な物言いができるなら口下手を返上しても良い気がする。まあ、あまり苛めるのも格好悪いよね。今日のところは僕が引いてあげよう。

「しょうがないなあ。じゃあ、おいで」
 布団に腰を下ろし、両手を広げる。長谷部くんはうろうろと視線を彷徨わせ、散々に悶絶した後、ようやく僕の腕の中に収まった。

「次はちゃんと言ってもらうからね」
「……善処する」
 薄く頼りない布越しに背中をなぞる。頬や額に唇を落とし、堅くなった身体から少しずつ緊張を解いていった。目を合わせ、熱くなった吐息ごと長谷部くんを食らう。何度もして慣れたのか意外にも口吸いには積極的だ。首に腕を絡ませてくれるのが嬉しくて、僕は優しく長谷部くんの身体を褥に横たえた。

 口付ける箇所を首筋、鎖骨と下げていって襟を開く。染み一つ無い白い肌は、赤みが差すとよく目立つ。直接触れたくなって黒革の指先を銜え込み、手袋を外した。肩から胸へと手を這わせ、滑らかな肌触りを存分に楽しむ。しっかり筋肉はついているけれど、上に載った皮膚は柔らかくて、ついその中身を想像してしまった。この身体に自分の本体を突き立てたら一体どれほどの快感を生むだろう。実際手入れ部屋でその血を味わったことがあるだけに、思い描く肉の感触は真に迫って、背徳的な痺れをもたらしてくる。

「顔が恐いぞ」
「ああ、ごめん。君の臓腑は斬り甲斐が有りそうだなって考えてたらつい」
「斬らせてやろうか? モツを出した分だけ搾り取ることになるが」
「魅力的な提案だけど遠慮するよ。長谷部くんが痛がるようなことはしたくないし」
 血みたいに鮮やかな赤が垂れたら自ずとそちらに目が行ってしまう。そうなると触れられるのを健気に待ってる紅色が可哀想だ。
 期待に震える尖りを口に含み、舌で転がす。もう一方は外周をなぞり、指の腹で芯を潰した。ここで快感を得られるかは人それぞれらしいけど、長谷部くんを見ている限り悪くはなさそうだ。敷布を掴み、声を出すまいと耐える姿は大変いじらしい。

「ッ、そんなに吸って、なにか出るようになったらどうしてくれる……」
「そのときは出なくなるまで吸ってあげるよ」
「出る前に止める選択肢をつくれ……あッ」
 じゅう、と強めに吸い上げても先端からは何も出てこない。代わりに目尻から零れたものが有ったので舌で拭い取った。そのまま唇を合わせ、先ほどまで舐っていた場所は指で弄うようにする。
「ン、ふ、ぅぁ……ッ!?」
 長谷部くんが上げた驚愕の声は咥内で掻き消された。戸惑う気配を余所に、兆してきた熱を下着ごと揉み込む。互いの間から甘い声が漏れるたびに手の中の質量も増していった。僕の腕を挟み込むように双脚が揺れているのも悩ましい。膨れ上がる雄を愛でつつ、時折付け根から太腿を撫で上げる。

「こら、逃げないの」
 身を捩ろうとする長谷部くんを体重も使って押さえ込む。その際、昂ぶった己の下腹部を密着させることになったけれども致し方ない。全部長谷部くんが可愛いのがいけないんだよ、不可抗力だよ。

「っは……えらく、ご立派なものをお持ちで……」
「長谷部くんに褒められると照れちゃうなあ」
「さり気なくでかくするな、損傷率が上がる」
「大丈夫、長谷部くんならいけるよ」
「根拠の無い断定はやめ、あぁッ!」
 布の中に手を差し入れ、肉竿を緩く扱き上げる。そのうちに湿った音が聞こえるようになって、彼を握る手にまで粘液が垂れてきた。掬った滑りを裏筋に擦りつければ、組み敷いた身体が跳ね上がる。あ、あ、と耳に入る声は間隔が狭まってきた。限界が近いのかもしれない。

「しょく、ら、も、でる……! でるからァ……!」
「いいよ、だして」
 手の動きを速めて射精を促す。何となく美味しそうに見えて、近くにあった耳たぶを甘噛みした。
「ッ、あ、ア――!」
 極まった身体が激しく痙攣する。掌中には濡れた感触が有り、熱を放った肌着の中は汗と体液とでじっとり湿っていた。もはや下着の体を為していない灰色の布を引き抜く。達して脱力している長谷部くんはされるがままだ。
 白濁を纏わせた指を滑らせ、陰嚢よりさらに奥に触れる。ぐちゅ、と粘ついた音がした。精液の効果というには少しぬかるみすぎている。試しに指を宛がうと、窄まりは易々とその先端を呑み込んでいった。

「……長谷部くん」
「うるさい」
 正否を問おうと呼び掛けた刀は、先ほどから腕で赤くなった顔を隠している。突き入れた中指は既に根元まで埋まっていた。

「自分で慣らしてきたの」
「しらん」
「いいから答えて。僕に抱かれるところ想像して自分でお尻ほぐしてきたの? ねえ」
 さらに指を足して中の具合を確かめる。柔らかな腸壁は新たな異物を抵抗もなく受け入れた。
「う、ァ! ひ、中……っ、かきまわ……やめ、ッ~~!」
「うわあ、ぐちょぐちょ……澄ました顔して、僕の部屋に来たときからココこんなにしてたんだ? えっちだなあ長谷部くんは」
 二本の指で狭い肉筒を押し広げる。潤滑油をたっぷり塗られた襞は少し動かすだけで淫猥な音が立った。男を知らないはずの粘膜は咥えた異物に吸いつき、その形に寄り添ってくる。

「もし僕が寝てたらどうするつもりだったんだい」
 僕があの時間まで起きていたのは偶然だ。ちょうど布団も敷き終わったところだったし、あと五分でも遅れていたら長谷部くんの訪問に気付かなかったかもしれない。
「……そのときは、夜這いでもしてやったさ」
 拗ねたような声色がこちらの脳を揺さぶってくる。まずい。僕に抱かれる以外の選択肢を採ろうとしない長谷部くんが可愛すぎて辛い。
「言っとくけど、僕はどんなに疲れてたり眠かったりしても、長谷部くんにしたいっておねだりされたら絶対断らないからね」
「ばか、そこはちゃんとやすめ……」
「それだけ君が好きってことだよ。準備してきてくれたのだって嬉しいけど、今度はちゃんと僕にやらせてね」
「ぁ、ひゃァ……! うン、わかった、わかったからァ……!」
 わななく指で袖を掴まれる。何を求められているのかは明白だし、僕もそろそろ耐えられそうになかった。

 追い縋る媚肉から指を引き抜く。帯を緩め、おざなりに前を寛げた。余韻で恍惚としていた長谷部くんだったが、僕の逸物を見るなり口を半開きにして固まった。天を指して脈打つ男根はもはやグロテスクの領域である。同性とはいえ引かれたかと危惧してみたものの、長谷部くんは寧ろ蕩けた目で僕の下腹部を注視していた。

「これが今から君の中に入るんだけど」
「うん……」
「ゆっくりするから」
「え、はげしく……?」
「いやゆっくりだってば、ちょっとそこ残念そうな顔しない」
「してない。いいから、はやくよこせ」
 しなやかな脚が催促するように背中に絡みついてくる。くそ本当に激しくしてやろうか。

 ひくつく後孔に屹立を宛がい、少しずつ腰を突き出していく。さすがに前戯のようにすんなりとはいかず、狭い入り口を無理矢理こじ開けるような形で繋がった。
「ア、あぁああ……ぉっき、あついぃ……」
「っはあ、は……すっご、きもち……」
 腰から下が馬鹿になったみたいだ。長谷部くんの中は温かく、咥えた雄を離すまいと懸命に締めつけてくる。あまりの心地良さに動かずとも気をやってしまいそうだった。
 長谷部くんは喘ぎ喘ぎ苦しげに息をしている。慣れるまではこのままでいようと、手遊びに乱れた煤色を掬い取った。

「長谷部くんかわいい。すき、すきだよ」
 汗で張り付いた前髪をどかし、剥き出しになった額に口付ける。長谷部くんは擽ったそうだが、そのうち手の置き場を寝具から僕の背中に移してくれた。彼は自分を口下手と言うけれども、それを補って余り有るほど顔や行動に感情が滲み出ている。言葉ですきと返してくれなくとも、濡れた藤色が何よりも雄弁に僕への好意を物語っていた。

「ふッ……俺の具合はどうだァ伊達男」
「最高だね。病みつきになりそうで怖いくらいだ」
「いいじゃないか、なってしまえ」
「なったら付き合ってくれるかい」
「責任は取るさ」
 お尻におちんちん突っ込まれてるのに男前だな。そういう強気なところも可愛いね、かわいい。

 今一度、衣服に隠されていた長谷部くんの肌を検める。傷はやはり見当たらない。血に塗れた四日前の面影など片鱗すら残っていなかった。どちらが折れてもおかしくない戦いだった。結果的にお互い本丸に帰還し、こうして想いを通わせることができたのだから、最後まで諦めなくて本当に良かったと思う。僕はまだまだ、君との約束を果たし続けたい。
 馴染んだ隧道から自身を引き抜き、また掻き分けるようにして戻る。は、は、と息を荒げる長谷部くんをあやしつつ、緩慢に往復を繰り返す。十分にほぐした腸壁は男の味を覚えるのも早かった。

「ィ、いい……! そこ、やだァ……! きもち、イイのやらぁ……!」
「うんうん、きもちいいね。もっとしてあげるからね」
 ぐぽぐぽと接合部から下品な音が立つ。どこを突いても長谷部くんからは嬌声が上がったし、精をねだる肉鞘は容赦無く僕を絶頂に導こうとする。快感に急き立てられて、互いに上り詰めることしか考えられなくなっていた。

「ぁ、アぁッ! おく、おくにくれッ……しょくだいきりの、ン! ふ、こだねっ……いっぱい、はらのなかァっ、ほしいっ……!」
「はぁ、ハッ、いいよ……ッ! あふれるくらい、はせべくんのなかに、そそいであげるねぇ……!」
 長谷部くんの腰を抱え、腫れ上がった彼の陰茎を嬲る。臨界点まで来ていたのだろう性器はすぐに決壊して、自身の腹筋を白く汚していった。

「はぁ、ア――ひ、ぁいまだめ、イってる、イってるから……!」
 達したばかりの蜜壷を上から責め立てる。突き当たりまで収め、張り詰めた先端で最奥をずんと突いた。中の締めつける力が一段と増す。いよいよ僕も限界を迎えて、肉壁に抑え込んでいた欲望を思いきり叩きつけた。
「ぁ、ああ……でて、なか、いっぱい、きてる……」
 朦朧としながら長谷部くんが種付けされた腹を撫でる。その光景だけで出したばかりの性器が硬さを取り戻すあたり僕も若い。

「これで1%分は治ったかな」
「おまえは、どうおもう」
「うーん、どこが損傷箇所なのかも判らないからね。……念のためにもう少し足しておいた方がいいんじゃないかなぁ」
「ふ、ははっ……そうだな。俺も主命には万全の体調で臨みたい」
 そう言って長谷部くんは挑発的な笑みを浮かべる。僕の好きな子はドヤ顔すらこんなに可愛い。

「協力してくれるか、燭台切」
「喜んで」
 素直に頼ってくれるようになった愛しい刀を抱き寄せる。明日の予定も忘れ、僕たちは東の空が明らむまで治療行為に勤しんだ。

 

 冬も近い早朝は冷える。布団から抜けだすのが億劫になり、起床時間ぎりぎりまで惰眠を貪りたい衝動に駆られるから厄介だ。特に今日はやたらと懐の辺りが温かい。抱いているだけでも心地良い眠りに誘われそうで、瞼が一層重たくなる。それにしても触り心地まで抜群である。こんな良い抱き枕は一生手放せそうにない。
「ん……」
 布団の中から悩ましげな声が聞こえる。朝から劣情を催すイケナイ枕の正体は、昨晩付けで恋仲になった黒田さんちの長谷部くんだった。起き抜けに好きな子の一糸纏わぬ姿を見せられたんだ、そりゃあ眠気だって吹き飛ぶ。

 よし、先に起きた者の特権だ。後朝の余韻に浸りつつ、時間まで長谷部くんの可愛らしい寝顔をじっくり堪能させてもらうとしよう。
 つくりの整ったかんばせを眺め、今日も所々頑固に跳ねる煤色を弄る。それにしても長谷部くんの肌は白い。お陰で僕が残した跡が目立つので、彼が常日頃からきっちり着込む刀で良かったとつくづく思う。僕のものだと知らしめるのは良いが、そもそも他のひとの前であまり肌を晒してほしくはない。男心は複雑である。
 それに長谷部くんが身体まで魅力的なのも悪い。腰だって細いし、薄らと筋肉の載った肢体は意外に柔らか――あれ堅い。いや明らかに人体の肌触りじゃないぞ、何だこれ。

 思い切って布団を捲り上げる。寒さに身を震わせる長谷部くんの傍らで、五日ぶりに見る骨が長い胴体をうねらせていた。

「寒いなあ」
 一振りと一匹がお茶を啜る。師走も間近だというのに、彼らは飽きもせず茶菓子をねだっては縁側で一服していた。放っておけば仕事漬けになる長谷部くんのことだ。息抜きの習慣づけができて良かったと考えるべきかもしれない。僕としては体調を崩さないか心配なので、そろそろ温かい室内で休んでほしいところである。何でもお伴の骨が縁側を好むから、それに長谷部くんも付き合ってあげているらしい。前は手駒だ何だと言っていたのに、えらく甘くなったものだ。

「美味いかムネチカ」
 どら焼きを頬張る従者が厳めしい頭部を傾ける。お八つの評判が良いのは嬉しいけど、今さらりと長谷部くんが重大発言をした気がする。

「ちょっと待って長谷部くん、その名前なにどういうこと」
「どういうも何も。あいつの忘れ形見なんだからムネチカ以外に無いだろう」

 長谷部くんが抱える1%の損傷とは、正確には怪我ではなく異物の割合だった。主の霊力に染まらなかった鋼は、あの晩に僕が注いだ神気の分だけ外に溢れ、再び見慣れた姿となって顕現した。僕も長谷部くんも、どうして一欠片のみ本霊に還らず残ってしまったのか、疑問に思いすらしなかった。つまりはそういうことだろう、と。真実がどうかなどに興味は無い。彼は約束を果たした。そう信じた方が物語の締めにはきっと似合っている。
 そういうわけで名前の由来については異論は無い。僕が問題にしたいのはそこじゃない。

「ミカヅキじゃないんだ」
「太刀の方が来たときに困るだろう。なあムネチカ」
 長谷部くんに頭蓋を撫でられ、骨ことムネチカは意気揚々と踊り出した。

「どうした燭台切、昼間からそんな恐い顔して」
「今の台詞の中に重要なヒントが有ったねえ。バックログを見返してみてくれ」

 号で呼ばれるのも悪くはないけど、骨に先を越されたというのが絶妙な敗北感を醸し出してくれる。まあ長谷部くんは気にしてないみたいだし、僕も急いでどうこうとは思わない。愛しい刀が僕を想って呼んでくれる名こそが至上の響きだ。あの柔らかな声を独占できるだけで十分――

「みつただ」

 廊下に仰向けになって倒れる。待ってくれ。今のは不意打ちが過ぎやしないかい、長谷部くん。

 天を仰ぐ僕を見下ろし、一振りと一匹がからからと笑う。微笑ましくはあるけど、やられっぱなしはどうにも性に合わない。いつまでも腹を抱えるこいびとを引き寄せ、笑いすぎて引き攣った唇を塞ぐ。燭台切でも光忠でも、僕を呼ぶ長谷部くんの声はいつだって甘い。

 

 

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