ノンケ台切 VS 抱かれたい部の仁義なき戦い - 1/4

 

 

 パン、パン。

 柏手の音が境内に響く。三が日を過ぎた神社はいつも通り閑散としていた。
 一月中旬である。人事を尽くした受験生が訪れても良さそうなのに、授与所に置かれた御守りは少しも減っていない。

「いつも熱心だなァ、色男」
 揶揄いまじりの声に目線を動かす。
 すらりと伸びた背筋、灰よりも少し明るい髪色に端整と言って差し支えない顔立ち、およそ同性として文句の付けようのない青年が僕を見下ろしていた。

「今年に入って何人目だ?」
「人聞きの悪い。言っておくけどまだ一人目だからね」
「確か冬休みに入ってから付き合ったんだよなァ。そのペースなら、今年の暮れには両手の指じゃ足りないぐらいにはなってるだろ」

 男は見目麗しいかんばせに、これでもかと嘲笑の色を滲ませてくる。恵まれた容姿のせいか、その高圧的な態度すら様になって見えた。
 もっとも僕は彼の物言いには慣れていたし、特に反論する気も無い。青年の指摘通り、昨年の自分が十数人の女性と良い仲になっては別れ、を繰り返していたことは紛れもない事実なのである。

「ここの神様が中々お願い事を叶えてくれないせいで、僕の連敗記録も延びそうだよ」
「神様のせいにするつもりか? 格好悪い」
「はは、冗談に決まってるだろ。やり直そうと提案する気も起きないんだから、僕も彼女のことそこまで好きになれてなかったんだよ。次こそは死んでも手放したくないくらい、夢中になれる恋人に出会えるといいなあ」
「彼女ねえ」
 拝殿の廊下に居た彼がひらりと欄干を越える。その身軽さに感心する間も無く、僕の顎先に不埒な指先が纏わり付いた。

「別に女に拘らなくてもいいんじゃないか。ほら昔から青い鳥だの、灯台もと暗しだの言うだろう」
 吐息がはだに触れる。眇められたの藤色は妖しく光っていた。
 男を喰らうつもりで近づいた唇は、今日もまた僕の掌で遮られる。

「残念ながら拘ります。長谷部くんには悪いけどね、僕は君とはずっと親友のままでいるつもりだから」
「チッ」
「あからさまな舌打ち止めようね?」
 手を離し、解放してやれば、いかにも不服そうな目と対面する。
 彼、長谷部くんとこの手のやりとりをするのは、一度や二度じゃない。だから今の僕が考えることと言えば、夕飯は彼の好きな茶碗蒸しにするかあ、というちょっとしたご機嫌取りの計画だけだ。

「光忠の魅力は俺が一番よく解ってると思うぞ」
「それは素直に嬉しいよ。僕も長谷部くんのことは好きだからね、友達として」
「最後らへんは聞かなかったことにしておく」
「都合の良い耳だなあ」
 呆れながらポケットの中身を探る。目的の物はすぐに見つかった。常備している小さな筒を取り出すなり、僕は距離を取ったばかりの友人を引き寄せた。

「み、光忠? なんだ前言撤回にしては随分と早かったな、いや俺としては大歓迎なわけだがむぐ」
「冬は肌が乾燥しやすいから、ちゃんとリップクリーム塗ろうね、って僕毎年言ってる気がするんだけど」
 折角の美貌も本人が頓着していなければ意味が無い。かさついた肌に潤いを足しながら、僕は頬を赤らめる幼馴染みに目を遣った。その艶っぽい表情は、男と解っていても心臓に悪い。

 何しろこの長谷部国重という男、下手な女子より余程綺麗なのである。本人が唆すように、女に拘る必要性を見失うくらいには美しいのである。
 その麗人が自分の一挙一動を意識し、熱を上げていると知れば、男の承認欲求が満たされるのも当然だろう。

「僕が気付かなかったら絶対に唇切れてたからね」
「お前が気付かないことなんて無いだろう」
「なにその全力すぎる他力本願」
 役割を終えたリップクリームを仕舞う。何か期待しているらしい親友を尻目に、僕は再び賽銭箱の方へと向き直った。

「今度こそ、運命の人が現れますように」
 この神社に通い続けて数年、僕の願いは変わらない。僕か長谷部くん、そのいずれかに運命の人が現れたならこの不毛な連鎖も終わる。
 気心知れた幼馴染みで、掛け替えのない親友。僕らの関係はこれが全てであるべきだ。

□□□

 入浴を済ませた後は何となく居間に集まるのが定番となっていた。
 炬燵に籠もり、特に目的もなく民間放送を垂れ流す。卓上中央に陣取る蜜柑の山は、今晩も順当に崩されていった。

「光忠」
 あ、と口を開ければ剥きたての果実が舌に落ちる。
 子供じゃないんだから、とお決まりの小言が続くが、大して気に留める必要は無い。本当に駄目だと思うなら、そもそも分け与えなければいい話だ。全く以て光忠は俺に甘い。

「長谷部くん、僕が居なくなったら日常生活も送れないんじゃないかい」
「そうだ、と言えば俺を甘やかした責任を取ってくれるのか」
「君が独り立ちするまで躾け直すことが僕なりの責任の取り方かな」
「ペット扱いだと、それはそれで滾る」
「人としての尊厳は保ってほしい」
 舌先で転がしていた果肉を潰す。途端に広がった酸味が咥内を蹂躙した。
 外れを引いたらしい、俺は今度こそ自分の手で新しい蜜柑を山から取り分けた。口直しである。

「あ、長谷部くん、こっちのは甘いよ」
 同じく新規開拓に勤しんでいた光忠から声が上がる。俺が剥いた蜜柑の傍らに、筋まで綺麗に取られた橙色が転がり込んだ。
 酸っぱいものを食わせた詫びのつもりかもしれないが、どの口が躾け直すなどと言ったのやら。そういう態度が俺をつけ上がらせるのだと、果たしてこの男は気付いているのだろうか。

「お前、今回の彼女にはどっちの理由で振られたんだ。愛が重すぎて耐えられそうにない、か、私じゃ光忠くんには釣り合いそうにない、のパターンか」
「後者。格好良くありたいのは僕の都合なんだから、彼女まで無理に合わせようとしなくてもいいんだけどね」
 と、我が幼馴染みは物憂げに眉をひそめる。細められた蜜色の隻眼は、近づくのも憚られるほどの魔性を秘めていた。これで俺と同じ二十一というのだから、世に詐欺が横行するのも頷ける。

 俺と光忠は兄弟同然に育った。それもそのはず、俺たち二人はこの神社に、鎮守の森に打ち棄てられていたのである。
 襁褓むつきすら身につけぬ赤子だった。身を証明するものは何一つなく、さりとて施設に預けるには忍びない。苦慮の末、彼らは神主と村長とにそれぞれ引き取られた。
 何故に二家に別れたかといえば、単純に経済上の問題である。日常から信仰が離れて久しい昨今、田舎の寂れた一寺社では二人の赤子を養いきれない。

 そうして俺たちは長谷部国重、長船光忠として生きることとなった。
名を頂戴して以来、俺は神社を継ぐための修行に余念が無い。息子夫婦に上京され、後継者を探しあぐねていた神主は俺に目を掛けた。
 期待に応えるのは好きな性分だったから、俺もそれを苦と思わず勉学に励んだ。
 ただ同世代の子供と比べて、遊びの無い性格に育ってしまったのは確かだろう。そんな俺が唯一、 無邪気に接していた相手こそ光忠である。

「長谷部くん、遊ぼう」
 開いた障子から濡れ羽色が覗く。参道に至るまでのきざはしを制した額は、いくつもの雫を浮かべ、前髪をべっとりと貼り付かせていた。俺は迷わず差し出された手を取る。息を切らした光忠の肌は、いつだって熱かった。

 日が暮れるまで始まりの森を駆け、覚えたての祝詞を意味も解らずに光忠と口ずさむ。俺の青春はいつだって光忠と共に在った。一緒に居ることが当たり前だと互いに信じてもいた。事実、俺たちが離ればなれになったのはあの一ヶ月だけだった。

 男のうつくしい顔を横切る二本の白い紐。長い前髪に隠されてあまり目立たないが、その右目は医療用の眼帯で覆われている。興味本位の連中はおろか、光忠は身内にすら滅多にその下を見せようとしない。
 俺は知っている。眼帯が何を隠しているかも、隠すほどの何かが刻まれた理由も、全部、全部知っている。
 それらを思い返したとき、俺の出す結論はいつも一点に帰着した。

「光忠、好きだ」
「また唐突だね」
「フリーのうちに口説けるだけ口説いておかんとな」
「はいはい、一番の親友として今後もやっていこうね」
「つれないやつ」
 拗ねる俺を適当にあしらい、光忠は新たな蜜柑に手を付け始めた。黒い革手袋が器用に皮や白い筋を取っていくのを見つめる。

 眼帯と手袋、光忠が普段の生活でそれらを外すことは非常に稀だった。確かに透き通るような白い肌に、爛れた火傷の跡は一層目立つだろう。格好を気にする伊達男らしい理由と言ってしまえばそれまでだが、俺は世間体だけが全てではないと踏んでいる。

「お前になら何をされても構わんのだがな」
 俺のために、その目と腕に一生消えない痕を負わせてしまってから、長谷部国重は長船光忠に生涯を捧げると決めていた。

■■■

 爪先を錐のような冷気が刺す。まだ閉じたままの瞼の裏にも、朧気ながら光が差し込んできた。
 どうやら夜明けらしい。目覚ましは鳴っていないはずだが、神社の朝は早い。居候の身であることを考慮しても、僕一人寝転けているわけにはいかないだろう。

「おはよう、光忠」
「――おはよう、はせべくん」
 枕元から己を覗き込んでいるのは、他でもない僕の幼馴染みだった。白い上衣に水色の袴は、彼が既に日課の清掃を終えたことを示している。

「まだ髪を整えてないから、まじまじと見つめられるのはちょっとなあ」
「安心しろ。多少前衛的な髪型になっていても、今日もお前は格好いい」
「了解、急いで直してくる」
 起き上がるついでに時計を確認する。時刻は六時半を回ったばかり、朝食までに身支度が済むかどうかは努力次第といったところか。
 顔を洗い、髪を整え、大広間に顔を出す。朝餉が揃う頃には、長谷部くんもパーカーにジーンズとラフな格好になっていた。

 炬燵で二人のんびりする時間とは違い、長谷部くんの祖父母も交えた朝食の席は厳かなものだ。
 口に物を入れたまま喋るなどはしたない、という考えを地で行くように皆口を閉ざしている。
 しかし嫌な沈黙ではない。長年の付き合いで彼らの人となりは知れている。社交的というには若干気難しいが、一度懐に入れた相手には優しい人たちだった。

「みっちゃんは今日大学に行くのかね」
「はい、二限目から」
「もし帰りが早いようなら小松菜買って来てくださいな、みっちゃん」
「構いませんよ。間に合えば夕飯は手伝いますね」
「みっちゃんの手料理か、期待してるぞ結婚してくれ」
「オーケー任せてくれ、あと現在募集中なのは彼女のみです」
 長谷部家怒濤のみっちゃん三連呼に応えるうちに団欒の時間は終わる。
 朝食を済ませた後は祭祀の準備が控えていた。いつもなら学生の長谷部くんが手伝うのはこの準備までだが、今日は余裕があるのでお供え物の受領まで付き添うかもしれない。

 さて出発まで些か手持ち無沙汰である。学期末の試験も近い。友人が働いている中、一人だらける気にはなれず、自室で復習でもしようと考えたときのことだった。

 目映い白が立っている。比喩ではない。その男性は肌から髪から、何もかもが白かった。
 何より不思議なのは、あちこち雪化粧が施された境内に在って、彼の白さは溶け込むどころか、一層存在感を増して見えるところである。

 色彩に奪われがちだった目が、ここで始めて男の麗容を捉えるに至った。
 幾分線が細いものの、なるほど美しい。造作は言うまでもなく、儚げな立ち姿もまた芸術品と評して然るべき高貴さを湛えていた。
 総じて人間離れした風貌である。出来の良い人形かとも思えたが、男の視線は何かを探すように周囲を彷徨っていた。

 世話になっている家に対して何だが、この神社に目を惹くような名物は奉られていない。地元以外での知名度は皆無に等しく、観光客が数十段もの長い階段を上って来るほどの価値があるとは思いがたかった。
 では男はいったいこの神社に何を求めてきたのだろう。御朱印でも集めてるのか、相当な寺社マニアなのか。
 あの青白い肌だ、ひょっとすると難病を抱えての神頼みかもしれない。勝手な想像だが、それが一番しっくりくる。
 瞼を閉じる。僕は久方ぶりに恋愛成就以外の願掛けをした。どこの誰だか知らないが、あの病弱そうな青年の望みが叶いますように。

「お」
 金色の瞳と目が合う。その猫のような双眸は、こちらを認めるなり見開かれて真円を描いた。薄幸の美青年が雪を踏み荒らし、全力疾走してきたのはその直後も直後である。

「おおおおおおおおお!? きみ! そこのきみ、名前は何て言うんだい!」
 あまりの勢いに僕は壁際まで後ずさってしまった。

 鼻息荒くして僕の名を問うてきた彼からは、第一印象から受けた儚さを微塵も感じさせない。
 誰だ、勝手にこの人を病弱キャラ認定していたのは。どちらかというと地球最後の日になってもしぶとく生き残るタイプの御仁じゃないかこれ。

「お、長船光忠と申しますが、貴方はどこのどちら様でございましょうか」
「俺か? 俺は鶴丸、鶴さんとでも呼んでくれ。ははっ職業? どこにでも居る清く正しい観光客さぁ!」
 親指立てる鶴さんの目は爛々と輝いている。出会って数秒、僕は厄介な人に目を付けられたことを確信した。

「残念ですが、この神社は名物らしい名物も置いてないので観光向けとはあまり……」
「何を言うんだ光坊! この神社の由来を知るだけでも十分収穫はあったぞ! そんな風に卑下する必要は無いだろう、地元の風習や言い伝えは大切にしていこうな」
 そう諭すや、鶴さんはすかさず人好きのする笑みを浮かべた。得体の知れないところはあるが、その言葉には大層な含蓄を感じられる。こう見えて結構年上なのかもしれない。

「まあ建立百年あまりっていうのは、神社にしちゃ最近も最近だけどな」
「住んでいる側からすると、もう色々とガタが来てますけどね」
 どうやら鶴さんが観光客と言うのは本当らしい。地元民でも、この神社の成り立ちを学ぼうという者は少ない。ほとんど風景と化していた案内の看板は、今日に至ってようやく本来の役割を果たしたようだ。
 この神社の始まりは鶴さんの言う通り、百年ほど前に遡る。長谷部家のご先祖が山菜採りから帰る際の出来事だった。

 まだ未の刻だというのに、前触れもなく空から日が消えた。おそらくは日食か何かだろう。天変地異や災害の前触れとされる現象を目の当たりに、身分の上下問わず人々は恐慌に陥った。
 暫くして、太陽は何事も無かったかのように再び顔を出す。多くの者たちが安堵する中、彼のご先祖様だけは別の恐怖を味わっていた。

 伝承によれば、それは今一般に想像されるところの鬼に近かったらしい。筋骨隆々の肌、天を突く二本の角、口から漏れる瘴気、手にした得物は三尺を超える。
 ようやく出でた日光を遮ってあまりある巨躯が、殺意を以て青年を睥睨していた。

 別にその山は神域でも何でもなく、また忌み地として避けられているわけでもなかった。怪異の噂などは終ぞ聞いた試しはなく、彼は何故自分が化生に狙われているのか理解ができなかっただろう。
 もはやこれまで。死を覚悟した青年の前に、突如閃光が走った。鬼の身体がゆっくりと前のめりに崩れ落ちる。その背には二対の「するどきもの」が突き刺さっていた。

 新たに生えた角は鬼の臓腑を深く穿っている。それは異形を絶命させるに十分だったのだろう。地に伏した鬼の屍は徐々に塵となって消えていく。
 残されたのは青年と血を吸った鉄塊だけ。槍か刀か。それすら判然としない利器はどこから来たのだろうか。
 度重なる怪奇、募る疑問について、答えてくれる者は居ない。ただ一つ確かなのは、己の命はこの鋼に救われたということだけである。
 青年が、件の「するどきもの」に神性を見出したのは当然だろう。厄除けの神器として崇められたそれは、以降百年もの間小さな神社の中で眠り続けることになる。

 ――という、誰も見向きもしないような看板まで読み込んだ鶴さんは只者じゃない。
 狛犬と睨めっこしてる現状も中々だが、あの人からは妙な底知れなさを感じる。そして、それ以上に不思議と強い親近感を覚えた。

「光坊はここの跡取り息子なのか?」
「いえ。ただその息子さんと親しい関係で、大学に通う間だけお世話になっています」

 高校時代、養父の母――僕からすれば義理の祖母――が農作業の最中に腰を悪くした。
 祖父は既に亡い。さらに言えば養父は一人っ子である。彼女を介護できるのは息子である彼しかいなかった。
 村長の任期もとうの昔に終えている。引っ越しは概ね問題が無いと思われた。拒んだのは僕だけだった。

 どうしても村から離れたくない。これは幼少の頃より抱いている、一種の強迫観念のようなものだった。
 長谷部くんも同じ思いだったようで、僕が村に残ることができたのは、彼の説得が大きかったと言える。

「息子さん、ねえ。俺も今度会ってみたいもんだなあ」
「もう少しすれば来ますよ」
「いや、今度は今度さ。今日は光坊で、じゃない、光坊としこたま遊ぶことに決めたからな!」
「僕の了承は?」
「無論オーケーだろう?」
「大学に行くまでの時間なら付き合いますよ」
「よっ男前! 格好いいぞ伊達男!」

 囃し立てる鶴さんを抑え、一旦自室へ戻る。
 雪の塊がまた屋根から落ちた。吐く息は白く、指先はかじかんで冷たい。客人を長く待たせるのは頂けないな、と僕は急いでコートにマフラーを身につけた。

□□□

 荷を受け取り、必要な分だけ車に詰め込んだ。残りはもう祖父の仕事になるから、俺は晴れて学生に戻ることができる。

 今日は珍しく光忠と登校する時間が被った。
 あれで真面目な男だから、今頃は部屋で試験対策でもしていることだろう。
 腕時計に目を遣る。長針は九のやや手前を指していた。出かけるには少しだけ早いし、差し入れにコーヒーでも持って行ってやるとするか。

「おつかれさま光忠、入るぞ」
 障子の前で入室の断りを入れるが、返答は無い。片手に盆を掲げたまま戸を開けると、中には誰も居なかった。
 綺麗に片付けられた座卓を見るに、おそらく朝食の後から戻って来ていないのだろう。
 試しに自分のスマホを確認したが、先に行く等の連絡も来ていなかった。
 二人分のコーヒーから湯気が立ち上る。トークアプリを起動して、「温かい飲み物が欲しければ自室へ戻れ」とだけ送った。
 燻る白煙は上空で忽ち霧散する。ソーサーをそれぞれひっくり返し、カップの口を覆った。

 待つこと数分、光忠は随分と慌てた様子で自室に駆け込んできた。散歩でもしていたのか、その肩やつむじは雪で大胆に彩られている。

「おかえり光忠、朝から雪遊びとは余裕だな優等生」
「そんなんじゃないよ。はぁ、寒っ」
 腕をさする光忠にコーヒーを差し出す。革の黒手袋はその熱を有り難そうに受け取り、震えて暖を取った。
「ああ、極寒の外気に晒された後のコーヒーの温かさと長谷部くんの優しさが身に染みる……」
「惚れたか」
「僕の恋心安く見られすぎだろ。でもありがとう」
 険しげな表情から一転、相好を崩した男はいつもより何だか幼げに見える。常に大人の色香垂れ流しの美丈夫だからこそ感じられるギャップだった。おのれ長船光忠、格好いいくせに可愛いとは卑怯である。

「お礼は身体で」
「はいはい、じゃあ君の分の荷物も運びますねえ」
 俺の猛攻をあっさりと躱し、幼馴染みは用意していたらしい鞄を手に取った。不満が無いわけではないが、確かに時刻も塩梅である。既に支度を済ませた光忠を伴い、俺も自室に戻ることにした。

 鳥居を抜け、人の通りも疎らな道路を歩く。
 田舎故に、ガードレール付きの歩道なんて気の利いたものは敷設されていない。壁と言えば、車の跳ねた雪が隅に凝り固まっている程度だろう。その頼りない塀を間に挟み、俺たちは横並びで坂を下りていった。

 雪、でふと思い出す。この律儀に俺の荷物まで持っている幼馴染みの奇行について、まだ尋ねていなかった。
「さっきの話だが、外で気分転換でもしてたのか?」
「いや、ちょっと厄介な観光客に捕まってね」
「観光客? それこそ夢か幻じゃないのか?」
「幻覚相手に雪山を連れ回されちゃあ堪らないよ。イケメン、というよりは美形といった方がしっくり来るかな。とにかくやたら顔の良い観光客が参拝に来ててね。うちの神社の由来まで読み込むわ、遠目でもいいから本殿が見たいとか言い出すわ。それに付き合ってたら、中庭で唐突に雪合戦始めるから驚いたよ本当」
 長々と愚痴をこぼし、最後に光忠は大きな溜息を一つついた。

 賭けても良い。この色男、口では疲れた面倒だったと称しているが、内心は相当楽しんでいたのだろう。
 俺という我が儘フレンドを持ったお陰か否か、長船光忠は気付かず厄介な性癖を抱えてしまっている。 そう、何かと世話の掛かるタイプに惹かれる傾向にあるのだ。その筆頭たる俺には全く靡かないくせに、老若男女問わず、その手の輩を見ると率先してお節介を焼きに行くのである。

 光忠くんっていつも貧乏くじ引いてるイメージある、可哀想――なんて女子の戯言は勘違いも良いところだ。
 こいつは故意に貧乏くじを引いて、それを大吉と本気でのたまう強者である。奉仕精神の塊や、被虐趣味の豚などでは断じてない。

 要するにその観光客、光忠の好みど真ん中ストレートの可能性大である。形而上のアラームが俺の中で盛大に鳴り響いた。
 まずいまずい、これはまずい。何がまずいって、格好を人一倍気にする光忠が容姿までベタ褒めしていた。美にうるさい男最大のハードルまでクリアされたら、俺のつけ込む隙が完全に無くなってしまう。

「それは、随分と、お楽しみだったようだなァ?」
「なにやら棘のある言い方」
「黙れ自称ノンケ。同性もイケるようになったなら俺を拒む理由は無いだろうに、というか彼女と別れて一日でこれか。足は遅いくせに青春の乗り換えは都会の地下鉄がごとしだな?」
「いや自称も何もノンケのままだから安心してよ」
「ハッどうだか。本当にノンケなら男相手にあーんだの、リップクリームを塗るだのやらかさないだろ」
「そんなの長谷部くん限定に決まってるだろう。いくら僕でも他の男友達にそんな真似したりしないよ」

 つい足が止まる。光忠は佇む俺に気付かず、一人先に行ってしまった。足は遅いが、歩幅の大きい親友が振り返ったときには、十メートルほどの距離ができていた。

「長谷部くん?」
「お」
「お?」
「おれだけにしか、しないのか」

 頬にじわじわと熱が集っていく。
 俺は昔から「特別」だの「一番」だのといった響きに弱い。それに通ずる文句を他ならぬ光忠から寄越されたのだ。動揺しないわけがない。

「あのさあ、長谷部くん」
 踵を返した光忠が再び坂を上ってくる。俯く俺の目に入るのは、幼馴染みの長い脚と、拘り抜いたらしい靴の外観だけだ。

「普段人のこと散々口説いてきて、隙あらば身体の関係も持とうとするくせに、たまにそういう初々しいところ見せるのは何なんだい? それも作戦のうち?」
「あ、そ、そうだ! たまには貞淑な一面でも見せて、ギャップで、その堕とそうとだな」
「無理しなくていいよ。長谷部くんにそんな器用な芸当できると思ってないし」
「なんだと」
 挑発的な物言いに勢い顔を上げる。向こうはさぞかし意地の悪い面をしているだろうと推察するも、事の正否を確かめることはできなかった。

 押さえつけられた前髪で視界が覆われる。頭を撫でられていたと気付いたのは、生憎と男の手が離れていった後だった。
 色々と処理しきれていない俺を放って、またも光忠は一人歩き出した。その背を慌てて追うも、やっと覗いた男の横顔は無表情そのものだった。

「なあ、さっきのはどういう意味があったんだ」
「ちょっと君に顔を見られたくなくて」
「何だそりゃ」
「君は解らないままでいいよ。そんなことより急ごう、思ったより時間押してるみたいだ」
「あ、ああ」
 促されるまま歩調を速める。幼馴染みの、どことなく冷めた声音に違和感を覚えながら大通りに出た。
 光忠があのときどんな顔をしていたのか、急に機嫌を損ねたのは何故か。次々と浮かぶ疑問に、何一つ答えを見出せないまま、俺は大学の構内へ足を踏み入れていた。

■■■

 授業の終了を告げるチャイムが鳴った。昼休みである。ブラインドの隙間から外の様子を窺えば、学生食堂にはもう長蛇の列ができ始めていた。
 寒空の下でいつ来るとも知れない順番を待つのは得策じゃない。僕は迷わず構外まで足を伸ばし、焼きたての惣菜パンをいくつか買って文学部へと戻った。

 各学部には小規模ながら談話室が設けられている。
 食事をするスペースもあるし、何より教室から近い。生徒からの人気も上々なのだが、これで昼休みに限っては意外な穴場と化す。
 僕は隅の誰もいない席に腰掛けた。人通りは少なく、近くに置かれた観葉植物と仕切りで僕に気を留める者もいない。久々に昼食をゆっくりと楽しむことができそうだった。

 長谷部くんは今頃ゼミの研究室でお昼だろうか。
 僕たちは専門どころか学部も違う。選ぶ授業の傾向もバラバラで、学年が上がるにつれ二人で行動することが減っていった。今朝のように、登校時間が重なることも滅多に無い。高校までの僕らでは考えられないことだ。

 数年前はそれこそ朝から晩までずっと一緒だった。
 同じクラス、同じ部活、最終的には帰る家まで同じになったのだから当然だろう。

「光忠くん、私といるときより長谷部くんと一緒のときの方が楽しそう」
 という理由で彼女から別れを切り出されたこともある。否定できなかった。僕に告白してくる子は、往々にして長船光忠に「理想の彼氏」を夢見ている。
 その幻想は己の行動理念にも通ずる部分があったから、僕も喜んで彼女たちの理想を体現した。
 しかし女性とはやはり勘の鋭い生き物らしい。どこか気負って彼女と接する僕と、肩肘張らずに長谷部くんと話す僕とを見比べ、全てを覚ってしまうのである。

 仮に恋人と長谷部くんとの二択を強いられたならば、僕は迷わず後者を選ぶだろう。それだけ長船光忠の中で、長谷部国重という存在は大きい。

「おれだけにしか、しないのか」

 あのとき、長谷部くんは満面に朱を注ぎ、僕の言葉を反芻していた。不覚にも、その姿に胸の内がざわついたことは忘れたい。
 長谷部くんは僕の幼馴染みで親友だ。たとえ彼が自分の中で一等特別な存在だとしても、友情の域を超えてはいけない。己を戒めるように眼帯で覆われた右目に手を遣った。

「あの、長船さん、で合ってますか」
 頭上から声が降ってくる。黒髪に眼鏡、小綺麗かつ、真面目そうな印象の女生徒が立っていた。
 面識はおろか見覚えも無い。やたらと顔だけは知られ渡っている僕の名前を確認したということは、別の学部の生徒だろうか。

 僕の疑問を肯定するように、彼女はおずおずと自己紹介を始めた。
「突然すみません。私、長谷部さんと同じゼミに所属している者なんですが」
 この時点で何となく察しがついた。中学時代から似たような経験は何度もしている。

 彼も罪な男だ。おそらく日ごと遠回しに誘われているだろうに、その言葉の裏にある好意にはとんと気付いてないと見える。
 僕は幼馴染みの朴念仁ぶりに呆れながら、それでいて目の前の彼女には少しも同情を覚えなかった。

 曰く、ゼミの課題を手伝ってもらった、必要な資料がどこにあるか教えてくれた、ついでと言いながら自分の分までコーヒーを入れてくれた。
 長谷部くんとの交流を彼女は実に楽しげに話す。
 紅潮した頬、甘くなる声、熱を帯びていく語り口に、僕の予想は確信へと変わっていった。

「いつも世話になっているお礼に、長谷部さんが好きなものをプレゼントしたいと思って。別の学部の友達から、長船さんは長谷部さんの親友だと聞きました。その親友に協力して貰えれば確実だと思って」
「なるほど、そういうことなら喜んで力を貸すよ」
 薄っぺらい笑顔を貼り付けて、僕は彼女の依頼を快諾する。眼鏡の下にある双眸が喜色で染まった。

「あ、でもね」
 アイボリーの椅子から身を起こす。もう昼休みも残り僅かだった。
「長谷部くん、好きな人いるみたいだから。深入りするなら覚悟は決めておいた方がいいと思うよ」
 それだけを耳打ちして、彼女と別れる。すれ違い様に一瞬だけ見えた横顔は、白蝋のように青ざめていた。

 やってしまった。
 ずしり、と大した重量もないエコバッグが僕の双肩に負荷を掛ける。内訳は小松菜の他に大根、春菊に加えて人参までおまけしてもらった。
 あらあらみっちゃんどうしたの暗い顔して。伊達男が台無しよ。地元のアイドルには笑っていてもらわなきゃ困るわあ。これとこれも付けたげるから早く元気出してね、と馴染みの店主に捲し立てられた結果である。

 考える、いや反省する時間が欲しい。
 夕飯の支度を手伝うだけ手伝うと、自室に戻ることもせず、僕は裏庭へと足を運んだ。
 夜気が剥き出しの肌を舐め上げる。服越しにも伝わる瓦の冷たさは相当なものだ。夕闇を点々と照らす景色は魅力的だけど、長居するのは厳しいかもしれない。

 白い呼気を掌の中に吐き出し、僕は昼間の行動を振り返った。
 長谷部くんに好きな人がいることを教えて、いったい僕は何がしたかったのだろう。
 見るからに消極的で、話しかけるに及んでも逐一理由を作っていそうな子だった。僕の言葉で彼女が二の足を踏むことはまず間違いない。

 僕はそうなることを予想した上で、あの忠告をした。それは果たして親切心から来た行動か。いや純粋な厚意だという自覚が少しでもあるなら、始めから屋根の上で黄昏れたりなどしない。

 あれは牽制だ。僕は彼女が長谷部くんに近づくことを未然に阻止しようとした。
 日頃、長谷部くんに運命の人が現れるようにと祈っておきながら何たる矛盾。

 僕は想像した。彼女と仲睦まじく並んで歩く親友の姿、その柳眉は優しく撓められて三日月の形を描いている。
 気にくわない。今まで僕のみに向けられていた熱が、眼差しが、彼のことを何も知らない赤の他人に注がれるなんてあってたまるものか。
 沸々と、腹の底で得体の知れない感情が渦巻いている。この凶暴な衝動に名前を与えてしまっては引き返せない気がして、僕はその正体に目を瞑った。

「夕涼みには随分と早い季節だと思うが」
 屋根の突端から煤色が顔を出す。はしごに足を掛けたままの彼は軒先に頬杖ついていた。
 整った顔立ちを彩る眉や口の角度は、僕がついさっき思い描いていたものと相違ない。

 ああ道理で想像が容易なわけだ。長谷部くんが好きな人の前でどういう顔をするのか、僕は毎日のように見ているのだから。

「頭を冷やすのにはこれくらいの気温が反ってちょうどいいのさ」
「何だ、柄にもなく喧嘩でもしてきたのか」
「してないよ。大体、僕の喧嘩を買おうとするのなんて君くらいじゃないか」
「だろうな、この八方美人」
「お」
 同じ台詞を返してやりたい、という文句を慌てて呑み込む。言い淀む僕を前にして、長谷部くんは首を傾げた。
 階段を登り切った彼が隣に座る。気遣わしげにこちらを見上げる様が、妙に艶っぽく映った。

「俺の前で取り繕う必要は無いだろう。悩みがあるなら聞く。言いたくないなら、まあ言わんでも構わんが、俺は光忠の力になりたい」
 相談を促す彼の言葉はひたすらに真摯だった。親友としてこの上なく誠実な態度に、僕の焦燥感は余計に駆り立てられる。
 考えるより先に、身体が動いていた。

「みつ、ただ?」

 抱きすくめられた長谷部くんから戸惑いの声が上がる。
 彼が今どんな顔をしてるかなんて判らない。僕は骨張った、同性の肩に頭を預けて、ただ項垂れていた。

 温かい。硬い。息をしている。長谷部くんは、生きている。そんな当たり前のことを、僕は自らの全身で感じ取っていた。

 押し当てた鼻先が芳香を吸い込む。香水なんて洒落っ気のあるものを好む友人ではない。そのくせ汗臭さや、むさ苦しさとは縁遠く、寧ろ仄かに漂う甘い香りは花の蜜を彷彿とさせた。
 花は花でも、どこで嗅いだ匂いだろう。そうして思考を巡らせていると、旋毛の辺りに視線を感じた。
面を上げる。月光を照り返す藤色が、揺れていた。

(ああ、そうだ。藤だ、藤の香り)

 得心がいって、己を見つめる双眼を注視する。
 長谷部くんは目尻から耳の付け根まで、真っ赤にしていた。薄く開かれた唇は、冬の空気に晒されてまた酷く乾燥している。

(リップクリーム、はコートのポケットに入れっぱなしだったな)
 半ば友人のために常備していた道具だが、生憎と今は手持ちに無い。
 早く湿らせないと唇が切れてしまう。これまで背に回していた腕を引き、桜色の頬に手を添えた。

「ンッ」
 僕の掌が相当冷えていたのか、長谷部くんが身を強ばらせる。つい瞑ってしまっただろう紫眼が、ゆっくりと見開かれ、再び閉ざされた。
 ごくり、と唾を呑み込む。僕は潤いが足されるのを待つ口唇に近づき、触れ合う寸前で友人の肩を押しのけた。

「……だめだ」
 かぶりを振る。暴れる心臓を無視して、僕はお決まりの文句を続けた。

「僕は、君とそういう関係になるつもりは、ない」
 自ら迫っておいて何という言い様だろう。事実、愛欲に蕩けていた友人の目は、打って変わって峻烈な怒りを燃え滾らせていた。

「どの口で、そんなことを言う」
「すまない」
「さっきのは何だ。恋仲になる気は無いと宣言しながら、無駄に期待させるような真似をして、俺をからかってるのか」
「違う、違うんだ」
「何が違うんだ、説明しろ、でないと納得できない。俺が、お前に抱きしめられたとき、どんな気持ちでいたか考えてもみろよ!」

 率直かつ切実に過ぎる叫びが胸を突き刺す。詰られて当然の行動だった。

「本当にごめん」
 もはや僕は謝ることしかできず、ひたすらに頭を下げ続けた。

 不甲斐なさのあまり己の拳を握りしめる。手首から先を覆う黒い手袋が、爪が皮膚を苛むのを防いでいた。
 これさえ無ければ僕は素直に友人の想いに応えていただろうか。いや、そもそも手袋と眼帯をつけない自分を彼が好くとは考えがたい。

 僕はただ、長谷部くんの大切なものを守りたかっただけなのに。
 高校一年生の夏、僕は右目の視力と、親友と紡ぐべき未来とを同時に失った。