ノンケ台切 VS 抱かれたい部の仁義なき戦い - 2/4

□□□

「一本!」

 審判の宣言を機に静寂が訪れる。音も立てずにお互い引いて、一礼した。次いで湧きあがる歓声が沈黙を破る。観客席では我が校の名前を記した横断幕が揺れていた。

「おめでとう長谷部くん」
 所定の位置に戻り、笑顔の光忠に迎えられる。
 先輩たちにも様々に労われたが、やはり親友からの祝辞は違って聞こえた。

「先陣は切った。後は任せるぞ次鋒」
「ああ、格好良く決めてくるよ」
 俺と入れ替わりで光忠が試合場に立つ。百八十を優に超える長身だ、相手に与えるプレッシャーも相当なものだろう。

 両者共に構えてから、まんじりとも動かぬ状態が続く。その均衡を崩したのは、予想に違わず、他校の次鋒が先だった。
 小手を狙った一打を流し、光忠が前に出る。
 瞬きをする間に勝負は決していた。
 反撃に放った面が有効となり、次鋒戦も当校に軍配が上がる。ついでに黄色い声も上がる。剣道部期待の新人にして、我が幼馴染みは今日も女の影が絶えなかった。

 県大会が終わった。見事優勝を飾った我が部は、夏の間も剣道一筋の青春を送ることになるだろう。
 それは女子から激励の嵐を受け、ようやく解放された我が親友も例外ではない。

「ご苦労だったな、色男」
「待たせてごめんね、はいこっちは長谷部くんの分」
「ありがたく頂く。お、有名ブランドのクッキー。持つべきものは女受けの良い友人だな」
「よく言うよ、君だってしょっちゅう女子に呼び出されてるのにさ」
「誰かさんと違って愛想笑いは苦手なんでな。ろくに話したことも無い相手のために貴重な時間を割けるか」

 光忠ほどではないが俺も見目は良い方らしい。
 月に一度は名前も知らない女子に告白され、そのたびに同じ文句で交際を断り続けてきた。
 今は剣道に集中したい。半分本音、半分口実交じりの主張は涙ながらに受け入れられた。

 申し訳なくは思うが、同情で他人と付き合えるわけもない。機会こそあれど、俺は今だに童貞のままだった。
 清い身体のままでいる俺と異なり、光忠は既に片手で足りないほどの恋人を作っている。大抵は三月と保たず別れてしまうが、基本的には入れ食い状態だった。

「話してみると意外に気が合ったり、知らない世界に触れられたりで新鮮な気持ちを味わえるんだけどねえ」
「意外に気が合って最長記録が五ヶ月か」
「まあ、お互いに運命の相手じゃなかったということで一つ」
「鼻で笑っていいか?」
「既に口の角度が嘲笑のそれだよ、長谷部くん」

 とりとめのないやりとりを交わすうちに岐路に差し掛かる。つい先ほど昇降口で落ち合ったばかりに思えたが、実際には数十分ほど経っていたようだ。

 一人になって別れ際の光忠の言葉をぼんやり顧みる。
 間違いない、あいつは生来の人たらしだ。

「もし長谷部くんが女の子だったら、確実に僕の運命の人なのにね」

 温くなったスポーツドリンクを飲み干す。
 西日に照らされた世界は柑子色に染まっていた。同じ色をした目玉を二つ、俺は知っている。その持ち主は、いつまで友人と馬鹿騒ぎを続けてくれるのだろう。

 高校まではいい。しかし揃って地元の大学に通うことになっても、学部はおそらく別れるだろう。
 そして互いに違う将来を歩んでいく。遅かれ早かれ、光忠が隣にいない生活は必ず訪れる。
 理屈では解っていても、現実味は全く湧かなかった。

「勝利祈願、ひとつ」
「ん」
 小銭を受け取り、蝋色の勝守を渡す。
 久々に空白のできた箱には商売繁盛、学業成就、交通安全と多種多様な御守りが収められていた。
 由来からしても厄除けは理解できるが、安産祈願まで来ると訳が判らない。うちの神様は果たして何を司っているのだろう。
 神社の息子が効能に疑問を抱く傍ら、光忠はさも有り難そうに勝守を鞄に付けていた。

「意外に信心深いよな、お前」
「これでも次期神主の幼馴染みやって長いし、まあ多少はね?」
「生憎と俺の信仰心は年々薄らぐばかりだ」
「じゃあ鞄の中に入ってたやつは?」
「鞄?」
「内側のポケットに最近入れてるだろう。札が見えなかったから何の御守りか知らないけど」
「何で俺の鞄の中身を把握してるんだ」
「あっちょっとその目はやめて、人として最低限の礼儀は弁えてるから! 偶然ちらっと見えただけだから疑いの眼は向けないで!」

 光忠が慌てて釈明する。大げさに掌を振る姿は何だか滑稽だった。
 あれを見られていたことに一瞬肝を冷やしたものの、考えてみれば余程の無神経でもない限り、御守りの中身など他人が知れるはずもない。

「ガワを借りただけで別に御守りとかそんな大層なものじゃないぞ」
「へえ、じゃあそういうことにしておこうかな」
「含みのある言い方だなあ、おい」
「気のせい気のせい」
< em> 適当に流す親友の頬には薄笑いが浮かんでいた。へらへら、という擬音がこれほど似合う表情も珍しい。
 あからさまな挑発である。光忠の態度を追及したところで、己が持っている袋に話題が戻るだけだ。
 冗談ではない、この男にだけはアレの詳細を知られてなるものか。

「ついでに恋愛成就の御守りも貰っておこうかな」
「お前に一番不要な願掛けじゃないか。今の彼女で何人目だ、ええ?」
「何人目だろうと、長続きしなければ一緒だよ」
 結局、光忠が二つ目の御守りを買うことはなかった。その代わり、我らが厄除けの神に長々と願掛けをしていた。もし望み叶って災いから逃れられるとしたら、面倒くさい女に引っ掛かりませんように、だろうか。

 可哀想に、面倒くさい本当の敵はお前のすぐ傍にいるのにな。

 鞄から取り出した袋を一瞥する。その表側に何の札も見られないのは当然だった。
 中に入っているのは、有り難いお言葉でも神様の偶像でもない。数ヶ月前、中学を卒業する日に幼馴染みから貰ったボタンだった。

「お前の制服についてるボタン、ものによっちゃ万単位で取引されるらしいな」
「恐ろしい話だよ。別に何の御利益も無いっていうのにね」
「高校がブレザーで助かったなあ? いや、数が減った分だけ金額が跳ね上がるだけかもしれんな」
「楽しそうに言わない」

 式が終わり、体育館から卒業生が列を成して退場していく。すすり泣く者、開放感に浸る者、生徒が十人十色の面相を見せる中、光忠は俺の隣に駆け寄ってきた。
 出席番号の関係で、前を歩いていた光忠は逆走する形になったはずだ。話なら教室に戻ってからでもいいだろうに、何をそんなに焦る必要があるのか。
 事情を聞くより先に、ポケットの中に何かを放り込まれる。それを指先の感触だけで確かめた途端、俺は血の気の引く思いがした。

「お前、どういうつもりだ」
「不特定多数の間で売買されるくらいなら、いっそ君に持っていてもらった方が気が楽だと思って」
「女子が泣くぞ」
「一番大切な人にあげたんだ、って言えば納得してくれるよ」

 あろうことか、この男は「嘘はついてないしね」と、付け足してきた。小さな金属を握る拳に汗が滲む。
 お前、そういうところだぞ本当。文句を付けようにも、光忠はすぐ近くの女子に引っ張られて姿を消してしまった。

 長船光忠の第二ボタンが誰の手に渡ったのか。女子の間で相当物議を醸したらしい話題は、高校に進学する頃には皆忘れてしまった。
 真実は、扱いに困った俺によって勉強机の肥やしとなっていた、が正解である。
 これを欲していた女子は数え切れないほどいただろう。レートの数字が吊り上がるのを余所に、俺はその存在を頑として明かさなかった。

 彼の秘宝が蔵出しされたのは、四月も末である。切っ掛けは放課後、ちょうど剣道部が休みの曜日だった。
「今日は一緒に帰れないんだ」
 そう断ってきた光忠の後方、扉の付近に派手な髪色をした女生徒が控えている。スマホを操作する合間に、ちらちらと視線をこちらへ送ってきていた。

 別に珍しいことではない。俺は一言、そうか、とだけ返して席を立った。俺と別れた光忠は、予想通り例の女子と何やら話し合っている。

(相変わらず手が早いな)
 中学のときと比べて、高校は繁華街に近い。駅前には有名チェーン店が立ち並んでおり、制服姿のまま店内を賑やかす連中も少なくなかった。
 おそらくは、光忠もその喧噪を形作る一人だ。そして、男の隣に立っているのは俺じゃない。

「今度は何週間保つかな」
 生温い宵の風が剥き出しの頬を叩く。一人田舎の畦道を歩いて、考えるのは親友のことばかりだった。
 あいつが居ないと、たかだか四十分程度の距離も妙に長く感じる。

 竹刀も振っていないのに疲れた身体を引き摺って、俺は帰るなり机に突っ伏した。男の体重を受けた家具が少しく軋む。その内から聞こえた、かつん、という甲高い音が不思議と耳に残った。
 抽斗を開けて正体を確かめれば、いつぞやの贈り物が目に入る。
 気付けば、余っている御守り袋に幼馴染みのボタンを入れていた。別に何の御利益も効能も得られはしない。一切の神性を持たないはずの袋に、俺はつまらない願掛けをした。

 ――願わくば、あいつが誰と一緒になっても、俺を傍に置いてくれますように。

 五月に入り、仮入部期間が終わった。
 経験者ということもあって、俺と光忠は早いうちから試合形式の稽古を行っている。
 二人揃って一年レギュラーの肩書きを得たときは、それはもう周囲の反応が凄かった。主に光忠の席周辺を囲む女子の壁が。

「容姿端麗、文武両道、温厚篤実、ついでに家事万能。お前に欠点は無いのか」
「当人に訊かなくても知ってるだろう」
「実は寝癖が酷いこととか、髪を整えるのに小一時間は掛けるところとか、出かける服に毎回頭を悩ませているがどのみち黒だから意味が無いところとかか」
「あれは似てるようで全部違うからね、髪だってちゃんと時間には間に合うようにセットしてるし」
「ああ言えばこう言う、意外に負けず嫌いなところも欠点に挙げてやろう」
「長谷部くんにだけは言われたくないな。そんなに昨日一本取られたのが口惜しかったのかい?」
「抜かせ、今日の手合わせでどちらが上かはっきりさせてやる」

 県大会を経て、ここ二週間での光忠との戦績は三勝四敗。一進一退と言えば聞こえが良いが、うち二敗は負け越しているので俺としては面白くない。今日こそは伊達男の余裕を引っ剥がしてやりたいところだ。

「長谷部、ちょっと」
 いつも以上に意気込む俺に声を掛けたのは、部活の先輩だった。
 しかし、まだ互いに制服姿で袴に身を通してもいない。入部して日が浅いせいか、申し訳ないことに相手の顔と名前とは一致しなかった。
 その点にいくらか動揺を覚えつつも、俺は何でもない体を装って先輩の声に応えた。

「お疲れ様です先輩、どうかされましたか」
「ああ、実は竹刀の紐が何本か駄目になってきてしまってな。稽古前に修理の仕方を新入部員に教えるつもりなんだが、お前には道具の場所も伝えておこうと思って」
「俺だけに? 他の一年はいいんですか」
「そいつらには長谷部が説明してやってくれ。何人も引き連れて狭い倉庫に案内するのも面倒だしな」
「それもそうですね」

 頷き、先輩の後に続く。黴臭い倉庫の中には、三角コーンやハードルなど見慣れた道具が所狭しと置かれていた。授業に使うものはおろか、予備の電球や灯油のセットまで転がっている。どう見ても火気厳禁の場所なのに、随分と管理が杜撰なようだ。

 半ば呆れながら棚を眺めていると、先輩から奥の方へ来るよう促された。棚の上にあるプラスチックケースを指さされ、その中身を引き出す。竹刀を結ぶ紐の他に、ハサミやテープなどの文房具も仕舞われていた。

「とりあえず全部持っていきますか、せんぱ」
 修理に必要な紐の数を打診しようとして、背後を振り向く。視界に飛び込んできたのは、先輩の顔でも倉庫の全貌でもなく、高速で迫る鉛色だった。

「ア゛、ぐ……ッ!」

 がつん、と鈍い衝撃が体内を駆け巡る。
 本能が危機を察知したのか、僅かに身を捩らせたお陰で頭部への一撃は避けられた。それでも強打された肩は痛みを訴え、即座に立ち上がる気力を失わせる。
 膝を折り、息を詰めた。荒くなる呼吸を落ち着ける暇も無い。背を足蹴にされ、骨が軋む。
 痛覚が絶えず危険信号を上げ、主人を苛んでいる間に両腕を取られた。手首が紐状の何かで繋がれ、せめてもの抵抗にと暴れさせていた両脚も体重で押さえつけられる。あれよあれよと両手足の自由を奪われてしまった。

 唯一動かせる首を動かし、暴漢の顔を仰ぎ見る。野球のバットを手にした男は、紛れもなく俺をここに案内した先輩だった。

「はは、いい顔してるなあ長谷部ぇ」
 粘ついた視線に口調が男の狂気を彩る。窓を背に、逆光となって見えないはずの双眸は歓喜に震えていた。

「なんで、こんな」
「なんで? なんでだって? わざわざ説明するようなことか? お前だって薄々勘付いてただろ、部内での自分での立場ってやつをさぁ」

 持ち上がったバットの先が俺の頬を撫でる。金属の冷えた感触が恐怖心と危機感とを煽った。
 怯える獲物を前にして先輩は満足げに微笑む。人の形をした畜生はさらに右手に力を籠めた。それに従い、俺の頬肉も無様に形を変える。

「鳴り物入りの一年坊主が半年も経たずにレギュラー選抜、一年間掃除と基礎ばかりやらされた二年以上には面白くねえ話だよなあ?」
 昂奮を募らせる男と異なり、俺の心は次第次第に冷えていく。

 くだらない、まさか本当にそんな理由でこんな暴挙に至ったというのか。己の力不足、努力不足から目を背け、他者にその劣等感をぶつけ発散しようというのか。
 短絡的に過ぎる。事態をどう隠蔽するつもりか知らないが、感情に任せた凶行だ、表沙汰になるのも時間の問題だろう。俺だって口を噤んでいるつもりは無い。

「それで、怪我を負わせて俺をレギュラーから外そうと?」
「まさか」
 俺の想像を男は鼻で笑い飛ばした。
 肉体的な仕打ちでないとすれば、精神面から責めるに違いない。体育会系の私刑は存外に陰湿だと相場が決まっている。王道なのは、恥部を晒した写真をばら撒かれたくなければ言うことを聞け、とかか。
 確かに相当な屈辱だが、こいつを裁くために必要な犠牲と思えば覚悟もできる。

「なら何だ、俺の恥ずかしい姿でも撮って脅すつもりか?」
「ああ、そういう手もあるけど逆にそれ俺の弱味にもなるからパス」
 意外に男の思考は理性的である。そうなると余計に向こうの意図が掴めない。時間を稼ぐためにも、その胸中を尋ねようとして俺は目を瞠った。

 がらん、と手放された凶器が音を立てる。狂人が代わりに引っ掴んだのは、中身の詰まったポリタンクだった。男は躊躇いなく蓋を緩め、液体をそこら中に振りかけた。
 臭いで勘付く。中に入っていたのは灯油ではなくガソリンだ。いずれがより危険なのかなんて、素人でも判ることだろう。
 次いで男がポケットの中からマッチを取り出す。暗がりを小さな明かりが灯した。線香花火を思わせる儚い火が床に落ちる。
 小さな光源は忽ち燃え上がり、周囲を赤銅色に染め上げた。倉庫内が急速に熱を帯びだす。いち早く脱出しなければ、俺はおろか放火犯すらも黒焦げになるだろう。

「待て、お前本気か!」
「本気も何も既に事後だぜ? 今更俺に正気を問うのかよ」
「たかが部活のレギュラーごときで人を殺すつもりか、と訊いているんだ!」
 異常者に倫理を説くなど、俺も大分いかれていたのかもしれない。それでも問い質さずにはいられなかった。
 腑に落ちない。未だに俺は男の名字すら思い出せていなかった。殺人を犯してまでレギュラーに固執するほど部活に入れ込んでいるなら、印象に残らないはずがない。
 この男は、本当に自らの意志で俺を害そうとしているのか?

「人を殺すのは悪いことです、ってか」
 積まれていた古新聞が派手に散らばる。それらは広がる炎の舌に絡め取られ、みるみる塵となって消えた。灰と火の粉が舞う中で、狂人が白い歯を見せて嗤った。

「同じ人殺しにだけは言われたくねえなあ!」
 火柱が上がる。赤い波が四隅にまで至り、黒煙を吐いて部屋中を埋め尽くした。
 窓を除いた唯一の出入り口が開き、また閉ざされる。男は去った。最後に掛けられた言葉の意味を推し量る余裕も今の俺には無い。

 校内にまだ人は多く残っている。いずれ救助は来るだろうが、炎は秒ごとにその勢いを増してきていた。
 身に纏わり付く熱気が次第に痛みを伴い出す。もはや一刻の猶予も許されない。

「ふッ、く、このッ……! 外れろ、ォ!」
 拘束から逃れようと四肢を必死に動かす。きつく結ばれた紐は、弛むことも千切れることも無かった。
 いっそ火で焼ききれないだろうか。あれこれ考える最中、無機質な電子音が耳に響く。その発生源を辿れば、鞄から放り出されたスマホが光っていた。
 応答を求め、コールは延々鳴り続ける。
 誰からの着信かは見えなかった。それにもかかわらず、俺はそれが光忠のものからだと確信していた。
 床を這う。芋虫のような状態でじりじり移動した俺は、黒地の御守り袋を眼前に捉えた。

「みつ、ただ」
 紐を咥えて親友の名を呼ぶ。応える声は当然無く、俺は意識を虚しく手放した。

■■■

 懐に入れていたスマホが震える。画面を確認するも、知らない番号だったから始めは無視した。
 しかし、間違い電話や業者の類にしてはやけにしつこい。観念して通話ボタンを押すと、意外にも相手は部活の先輩からだった。
 連絡は大概グループラインを通して行われるから、個人の番号でやりとりすることは少ない。さらに、僕は彼の先輩にSNS以外の連絡先を教えていなかった。
 多少引っ掛かるものの、体育会系の上下関係は絶対的だ。敢えて深くは追及せず、先輩から用件を伝えられるのを待つ。

 そして、僕はこの電話をさっさと取らなかったことを今になって後悔した。

「長谷部くん、はせべくんッ……!」
 馴染みの番号に掛けるも、一向に繋がる様子は無い。それは取りも直さず、先の告白が真実であることを物語っていた。

「お前の友達は倉庫に縛り付けて寝かせてある。早くしねえと、親友が一人いなくなっちゃうかもなァ?」
 下卑た声が救出を急き立てる。怒りと嫌悪感で全身の血液が沸騰しそうになった。

 いや相手への報復など後からいつでもできる。僕は歯噛みしながらも、長谷部くんの安全を第一に考えた。
 靴を替える暇も惜しい。僕は上靴のまま校内を駆け回り、指定された倉庫の前にようやく辿り着いた。

 窓の奥でオレンジ色の光が見え隠れしている。それが室内灯でなく、火災によるものだと気付いたときは生きた心地がしなかった。
 鉄扉は固く閉ざされていて、こじ開けるのも現実的ではない。そうなれば突破口は窓しかないだろう。
 僕は迷わず石を手に取り、分厚いガラスを力任せに破壊した。

「長谷部くん!」

 噴き出す煙や灰に構わず、火の海の中に躍り出る。
 長谷部くんはマットの上に倒れ伏していた。返事もなく身動ぎもしないので焦ったが、どうやら気を失っているだけらしい。規則正しく聞こえる心音に安堵しつつ、僕は拘束はそのままに長谷部くんを抱え上げた。
 男二人して通るには狭すぎる入り口である。仕方なしに、長谷部くんを押し出すように窓から滑り落とした。

 これで最悪の状況は免れただろう。後は自分も脱出するだけだと、窓の桟に足を掛け、横目にそれを発見してしまった。
 一体何を祈願し、何を収めているかも知らない御守り袋。信仰心は薄いと自称する彼が、わざわざ鞄に入れて持ち歩いていた代物。
 素直でない彼は、大層なものではないと断じていたが明らかに嘘だろう。死の間際に立たされ、これの傍らで縋るように力尽きていたことが何よりの証左だ。

 たかが数歩の距離、引き返すのも無理は無いと判断して腕を伸ばす。
 限界を迎えた内壁が崩れ落ちたのは、まさにこのときだった。

 尋常でない痛みが腕に、目に走り、肌を灼く。手に掴んだ袋の、意外に固い感触が最後に残った記憶となった。

 瞼を開く。白い天井がやけに眩しく感じられた。世界の明るさに慣れてくると、今度は自身に起きた異常を否が応にも認識してしまう。
 僕の右目は布か何かで覆われていた。

「光忠」
 狭められた視界に煤色が映り込む。少し髪の艶は失われてしまったけど、僕は守りたかったものを守れたらしい。誇らしく思う僕とは裏腹に、長谷部くんは今にも泣きそうな表情を浮かべていた。

「元気そうで何よりだよ」
「ばか」
「火傷は? 縛られた痕とか残ってない? ご飯ちゃんと食べてる?」
「俺のことなんて、どうでもいい」
「どうでも良くはないよ。でなきゃ僕は何のために身体を張っ」
「だから!」
 凄まじい剣幕で長谷部くんは僕の献身を否定する。その手には、所々焼け爛れて散り散りになった御守り袋が握られていた。

「こんなものまで、守る必要は無かっただろうが……」
「だって、大切なものだったんだろう」
「お前以上に、大切なものなんてあるものか」
「熱烈な告白だねえ、参っちゃうなあ」
 茶化す僕の言葉に長谷部くんは反論しない。彼はただ、黙って袋の中身を取り出して見せた。
 友人の指が円い形をした金属を挟んでいる。数ヶ月前、僕が戯れに親友に贈った制服の第二ボタンだった。

「先に言った通りだ。お前以上に、大切なものなんて、ない」
「はせべ、くん」
「だから俺のために傷ついたりするなよ。勝負だってまだ着いてないのに、勝ち越しなんて許さない」
 僕の身体を避けるようにして、長谷部くんはシーツの上に頭を預けた。声を殺して泣いているのだろう。微かに震える背に僕は包帯だらけの腕を載せた。

 友人を宥めながら、長谷部くんの言う「勝ち越し」について思いを馳せる。なんとなく、大仰に巻かれた右目の下がその答えではないか、という気がしていた。

 じりじりと、真夏の目映い光がシーツを熱する。
 窓の外は相当の炎天下らしい。噴き出る汗を拭う者、襟元を忙しなく寛げる者、購入した飲料水を一気に飲み干す者、誰もが噎せ返るような暑さに辟易としていた。空調の効いた病室には縁遠い地獄絵図である。

 入院して三週間が経った。火傷も日を追うごとに癒え、身を覆っていた包帯の大半も外されている。
 それでもなお、僕の右目が光を捉えることは無かった。

 先日の火事は長船光忠の人生に大きな爪痕を遺した。まず神経を焼かれ、右目の視力を失った。
 大会に出るどころか、再び竹刀を握るのも難しいだろうと目されている。地味に入院生活で高校初の夏休みが潰れてしまったのも痛い。
 いや、こんな些末事より、もっと重要な変化が僕には訪れていた。

「あ、これ長谷部くんに似合いそう」
「そうか」
「君は上背あるし姿勢も良いから、スタイルの良さを強調する格好が向いてると思うんだよねえ」
「そうか」
「長谷部くん、話聞いてる?」
「そうか」
「清々しいまでに上の空だね?」
 僕の指摘を受けてなお、長谷部くんは気の無い返事だけを寄越した。

 曲がった背筋、生気の抜けた面容、昏く沈んだ双眸は僕を映しているようで何者も見ていない。
 己の知っている長谷部国重は、あの日から忽然と姿を消してしまった。あれほど執心だった剣道も止めてしまったらしい。見舞いに来た先輩が部の窮状を嘆いていた。

 剣道部だが、公式には退部した生徒は二名ということになっている。おかしなことに、僕らをこんな目に遭わせた男の名前は挙げられていなかった。
 僕も長谷部くんも奴の凶行を訴えたが、彼の名を覚えている者はいなかった。それどころか、男が在籍していた記憶すら誰も持ち合わせていなかった。携帯に掛かってきた番号を調べても、結果は空振りである。

「そんな部員は始めからいなかった」
 学校側はそう断じ、警察は部外者による犯行と推測した。僕らの証言は、災害時にパニックを起こし認識能力に問題があったと結論づけられた。

 深い絶望を味わったのは僕だけではない。
 友人に一生物の傷を負わせ、その元凶たる人物を幻覚扱いされた長谷部くんの精神は限界だったのだろう。
 彼は笑わなくなった。感情を見せなくなった。こうして言葉を交わしていても、実のところ意思疎通はろくにできていない。

「来週には退院するから、気晴らしにどこか遊びに行こうよ」
「ああ」
「どこか行きたい場所はあるかい」
「ああ」
「ああ、じゃ判らないよ長谷部くん」
「ああ」
 予想していた返しに面を伏せる。

 僕は何を守ったつもりでいたのだろう。長谷部くんの命を救えたことに満足していた自分が浅ましく思える。
 彼がここまで追い詰められたのは、他ならぬ僕の責任じゃないか。

「ずっと休んでばっかだったから、もうどこも痛くないんだ。長谷部くんの好きな甘い卵焼きだって作れるし、君を引き摺って海にだって泳ぎに行けるよ」
「ああ」
「君は前に、僕以上に大切なものなんてない、って言ってくれたよね。僕もね、長谷部くんが一番。一番大切な、僕の自慢の親友だ。そんな大事な友達が落ち込んでるのに、力になれないのは悲しいよ」
「……」
「どうしたら前みたいに君と話せるようになるんだい。教えてよ、美味しいご飯でも、珍しい本でも何でも揃えるからさ。ねえ、このままじゃ僕独り言ずっと喋ってるだけの変な奴だよ。何とか言ってくれよ、いつもみたいな憎まれ口だって今は歓迎するから」

 とうとう生返事すら聞こえなくなる。沈黙に堪えかねて、僕は長谷部くんの膝に置かれた手を取った。

「僕の右目や腕のために自分を責めているというのなら止めてくれ。それが君にとってどれだけ難しいことなのか、僕には想像もつかない。僕はただ君と、君の大切なものを守りたかった。そして、この怪我は僕が勝手に負ったものだ、君が責任を感じる必要なんて無いんだよ」

 指を滑らせ、滑らかな肌の感触を味わう。
 長谷部くんが負った火傷は軽傷で、幸いにも痕になって遺ることは無かった。この白く、綺麗な手の甲を守れたことだけは誇ってもいいだろう。

「もし、どうしても自分が自分で許せないと言うなら、君はこれから僕のために生きてくれ。君を縛るような真似なんてしたくないけどね、それで長谷部くんが納得するなら、僕は卑怯者にも外道にもなってみせるよ」

 撫で回していた手が微かに身動ぐ。顔を上げれば、虚無ばかりを湛えていた藤色の中に鈍い光が戻っていた。
 薄い唇が小さく開き、肯定の意を示す。何度も耳にした、ああ、という短い言葉に、僕は期待せざるを得なかった。

「釣りがしたい」
 翌日の出来事である。開口一番、スツールに腰掛けるなり客人は脈絡なき要望を述べた。
 展開の速さにいまいち理解が追いつかない。

「お前が、どこか遊びに行きたいって言ったんだろうが」
 呆気にとられている僕を見かねたのだろう。煤色の友人は唇を尖らせながらも、先の発言について補足してくれた。

「あ、ああ。そうか、釣り。うん、いいんじゃないかな。場所は? 海? それとも川?」
「ここは近場にしよう。自前の竿が使えるし、何より電車代が掛からん」
「あ、そこはケチるんだ」
「嫌なら止めてもいいんだぞ」
「行く行く、行きます。ちなみに天ぷらと塩焼きなら」
「塩。打点高めに頼む」
「オーケー、任せてくれ」
 とんとん拍子で話は進んでいく。親友との三週間ぶりの会話は時間を忘れさせ、気付けば窓の外に茜色が広がっていた。

 靴の先で軽く地面をならす。凹凸の少ない場所でないと安定しないのがアウトドアチェアの弱点だ。身を捩るたびに軋む椅子に体重を預け、僕らはひたすら獲物が掛かるのを待ち続ける。
 蝉の大合唱を覚悟していたのだが、意外に森の住人たちは大人しく川のせせらぎが耳に心地良いほどだった。

 釣れないな、釣れないね、などと益体も無いやりとりを時折する。
 川の流れに揺らされる釣り糸をぼんやり眺めていると、ポケットに入れていたスマホが軽く震えた。ロックも解除せずに通知を確認すれば、内容は想像した通りのものだった。

 先日の退院からひっきりなしにSNSのメッセージが届く。履歴には、快癒を祝う声の他に、景気づけと称して僕を誘う文句がいくつも並んでいた。それらに色好い返事を出すことなく、僕はこうして長谷部くんと二人で遊びに出かけている。火事の前から付き合っていた彼女とは、入院生活の間に疎遠になっていた。

「相変わらずモテるな」
「すぐ別れる率も高いから所詮上辺だけの人気だよ」
「単にそいつらの見る目が無いんだろう。お前ほど顔も中身も良いやつを俺は他に知らない」
「長谷部くんが褒め殺してくる」
「事実を述べたまでだ」
「いっそ君が付き合ってくれたら話は早いのにねえ」
「いいぞ」

 掌から携帯が滑り落ちる。首を回して見遣った先には、いつも通りの、澄ました親友の横顔だけがあった。

「光忠になら好きにされても別に構わない。俺は、お前のものだからな」

 長谷部くんが竿を引く。先端には一匹の小魚がついていた。
 口を忙しなく開閉させ、酸素を求めて喘ぐヤマメから何故か目を離せない。
 針から獲物を外し、バケツに放流した彼は今さっき己に何と告げたのだったか。

「聞かなかったことにして、いいかい」
「ご随意にどうぞ。機会があれば何度でも同じ台詞を言ってやる」
「僕がスルーした意味無くない?」
 軽口を叩く振りをしながら、僕は内心酷く動揺していた。

 長谷部くんは自分が僕のものだと言う。それは明らかに、僕のために生きてくれという、己の嘆願を受けての告白だ。
 友人を失いたくないばかりに口を衝いて出た、紛れもない僕の本心。彼はこれを糧に奮起してくれたのだろう。

 長船光忠は長谷部国重の生きる理由になった。そして、彼からありとあらゆる選択肢を奪ってしまった。

 耳元でけたたましい音が鳴り響く。反射的に腕を伸ばし、覚醒を促す機械を叩いて黙らせた。
 寸刻ほど間を置いて、畳に倒れた時計盤を確認する。時刻は六時半、普段なら幼馴染みが枕元で佇み、慈愛に満ちた眼差しを寄越してくれる頃合いだった。

(たまたま、なんてことはないか)
 呑気な想像を自ら圧し切る。僕が寝ている、起きているに関係なく、長谷部くんは毎朝僕の部屋に寄っていた。今になってその日課を止め、修行に専念してるとは考えがたい。

 二度寝を迫る睡魔を、冷えた水道水で無理矢理にねじ伏せる。
 朝方まで寝つけなかった。寝不足による頭痛のせいか、昨夕の出来事が嫌でも思い出される。

 衝動に任せて親友を腕の中に引き込んだ。恋仲になるのを拒んでいたのは他ならぬ自分のくせに、あの薄い唇をしゃぶりつくすことしか頭に無かった。すんでの所で止まれたのは、我ながら奇跡的だと言える。

(ちゃんと、話し合おう)
 顧みるに、僕は始めから長谷部くんの言葉を真面目に取り合わなかった。そうして親友の距離感に拘り続けること数年、彼もよく我慢してくれたものだ。先延ばしにするのもいい加減、限界だろう。

「長谷部くん」
 朝食を終え、片付ける友人の背中に呼び掛ける。何だ、と応ずる彼はこちらを一顧だにしなかった。

「少し話がしたいんだ。いつもの準備が終わった後でも構わないから、時間を作ってくれないか」
「悪いが、今日はゼミに用事があってな。いつもより早めに出ないとまずい」
「じゃあ帰ってからでも」
「論文の〆切が近い。当分は研究室に籠もることになると思う」
「そんなの、初耳だよ」
「今初めて話したからな」

 洗い終わった食器が水切りに置かれる。かちゃん、という音を合図に会話は途絶えた。
 呼び止める僕に構わず、長谷部くんは厨の暖簾をくぐる。最後まで彼は僕と目を合わせなかった。

 昔ながらの引き戸を横にずらす。格子柄の敷かれた玄関に、見知った友人の靴は置かれていなかった。
 帰宅して早々に溜息を漏らす。長谷部くんは頑固で、一度決めたことを容易に撤回したりしない。これは長期戦を覚悟した方が良さそうだ。

 からん、からん。
 遠くから鐘の鳴る音がする。参拝客の来訪を告げるそれは、この神社では滅多に聞こえない類のものだった。

 気晴らしに拝殿の方を覗いてみる。
 社頭に立つ青年と少年の二人組、驚くべきことにそれらの顔に見覚えは無い。まさかの二日連続、地元民以外の参拝である。
 あまりの珍しさに、不躾と思いつつも彼らの様子を遠目にまじまじと観察してしまった。

「伽羅は鳴らさねえの?」
「興味無い」
「なら俺が伽羅の分まで鳴らしといてやるぜ! うおお刻むぜ、魂のビート!」
「ちょ、ちょっと待ってそこの僕!」

 慌てて二人の前に飛び出していく。僕の必死さが伝わったのか、麻縄を抱く少年の動きがぴたりと止まった。
 危ない、あわや神社の鈴でパンク・ロックを奏でられるところだった。

「はあ、はあ……そ、その鈴はそんなド派手にかき鳴らすものじゃないから……神様もびっくりしちゃうから、お願いね?」

 少年と目を合わせるように屈む。どんぐりを彷彿させる大きな目は、日本人離れした琥珀色をしていた。どことなく既視感を覚えるのは、己も彼とよく似た色の瞳を持っているからだろうか。
 僕に頼み込まれた少年は二、三度その琥珀を瞬かせると、やにわに歓喜の表情を顔中に浮かべた。

「みっちゃん!」
「へ?」
 僕の肩をばしばし叩く少年は、頻りに「みっちゃん」と知るはずもない己の渾名を連呼する。
 元気そうで何よりだぜ、とか、背高いなー俺にも分けてくれよ、などと親しげに微笑まれるのだが、何度記憶を浚ってみても目の前の彼とは初対面だった。

「落ち着け貞」
 混乱する僕を救ったのは、少年に付き従っていた青年である。浅黒い肌をした彼は、僕や長谷部くんより少しだけ年下だろうか。
 慣れた様子で連れを窘めた青年は、何事か耳打ちすると二人して僕の方に向き直った。

「騒がしくしてすまなかった。俺たちは昨日ここに来た白い観光客の知人だ」
「ああ、鶴さんの?」
「そうそう。驚かせてごめんなぁ、みっちゃん。俺たち別に怪しい者とかじゃないんだぜ」
 淡々とした調子で佇む青年と、手を合わせ大げさに詫びる少年。静と動を体現したような凹凸っぷりである。その見事な対比に己の頬も自ずと緩んでいた。
 まあ、あの鶴さんの友達なら多少突飛なところがあっても仕方ない。

 名を尋ねてみると、青年は広光、少年は貞宗と名乗った。しかし、貞ちゃんは広光くんのことを広光ではなく伽羅と呼ぶ。何に由来した渾名なのか気になったが、妙にしっくりくるので僕も伽羅ちゃんと呼ぶことにした。
 聞けば彼らは仕事を兼ねて、この土地にやって来たらしい。確かにこんな寂れた田舎に好き好んで滞在するような人はそう居ないだろう。何やらこの神社も調査対象の一つらしいが、詳しいことは教えてもらえなかった。
 社の規定や方針もあるだろう。僕も強いて聞き出そうとは思わない。

「なあ、今日もハセベくんはいないのか?」
 鶴さんはどこまで話しているのか。予想外の人物から親友の名が飛び出て、僕は思わず息を呑んだ。
 何気なく訊いたつもりらしい貞ちゃんは、動揺するこちらの態度を訝しんでいる。

「長谷部くんのことまで知ってるんだね……彼は最近忙しいみたいだから、会うのはちょっと難しいかなあ」
「へー大学生ってシューカツとソツロンをやってるとき以外は暇だって聞いてたけどな」
「あながち間違ってないけど止めよう? 真面目な学生さんは常に忙しいよ」
「貞に付き合ってる余裕のあるお前は真面目な学生じゃないということか」
「伽羅ちゃん何気に僕に当たりきついね? 今はテスト期間だから僕も早めに帰って来てるんだよ」
「おっ? じゃあ明日もみっちゃんに会えるってことだな!」

 飛び上がる貞ちゃんの目は期待にきらきら輝いていた。肯定するとこれまた大げさに喜んでくれるので、僕の方までつい嬉しくなってしまう。
 明日は手土産持ってくるからな、と去り際に宣言して陰陽コンビは帰っていった。

 話し込んでいるうちに相当時間が経っていたのだろう、気の早い冬の陽はとうに地平線の向こうへと沈んでいる。
 引き戸を開け、再び上がり框を前にする。靴の総数はやはり変わっていない。

 携帯を取り出し、連絡用のアプリを立ち上げる。夕飯はどうするの、という問い掛けに対し、外で適当に食う、という素っ気ない答えが返ってきていた。
 少なくとも今日のところは帰るつもりなど無いのだろう。研究室の固い椅子に横たわり、気休め程度に仮眠を取る親友の姿が容易に想像できた。

(同じゼミの子にそれとなく、無理しないよう伝えてもらおう)
 学部こそ違うが、何度か長谷部くんを迎えに行った関係でアドレスを交換した子もいる。すぐ連絡のつきそうな子を探していると、先日登録したばかりの番号がふと目に留まった。

 ――私、長谷部さんと同じゼミに所属している者なんですが。

 画面をスワイプする指が止まる。暫く縫い付けられたようにその場から動かなかった両脚は、また踵を返して夜気の中に身を晒していた。