ノンケ台切 VS 抱かれたい部の仁義なき戦い - 4/4

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 長谷部くんと別れて数十分。神社に戻った僕を迎えたのは、予想通り昨日会った例の二人組だった。

「おかえり、みっちゃん!」
 手を大げさに振る貞ちゃんと、視線を寄越しながらも無言のままの伽羅ちゃん。いっそ微笑ましくなるほど対照的な二人に自ずと頬が弛んだ。どうしてか彼らと話していると、郷愁にも似た感情を覚える。

「本当に来てくれたんだね。嬉しいなあ」
「当然! 男と男の約束だからな」
 突き出された拳に軽く拳を合わせる。
 はしゃぐ僕らを伽羅ちゃんが遠巻きにできたのはものの数分だった。何だかんだ返事は欠かさない辺り、彼も律儀な性分である。

「ハセベくんは今日も大学なのか?」
「残念ながらね、あと二時間もすれば切り上げてくるだろうけど」
「おっ、じゃあ今日は朝帰りしないんだな!」
 ご年配の口は軽い。たかが外泊ごときで長谷部くんとのあれこれを想像できるはずもないが、平静を装う僕の背筋には脂汗が流れていた。

「じゃあ、ハセベくんが帰って来たら二人で食べてくれよ! 生ものだから早めにな」
 そう言って貞ちゃんがはなだ色の包みを差し出す。聞けば中身は手製のずんだ餅らしい。味は保証する、と得意げな相棒の言葉に伽羅ちゃんも頷いていた。
 昨日会ったばかりの関係にしては、随分と手の込んだ贈り物である。奇怪に思わなくもないが、二人の人柄は知れている。ここは素直にご厚意を受け取るが吉だろう。

「ありがとう。せっかくだから長谷部くんにも写真送っておくね」
 結び目をほどき、透明なプラスチックケース越しに仙台銘菓を撮影すること数枚。適当に明るさ等を編集して、甘味に目の無い友人宛てに送りつけた。

 美味しそうなお菓子貰ったから早く帰ってきなよ、というメッセージを付け足して返信を待つ。既読は中々付かない。
 忙しいのか席を外しているのか。二人に長谷部くんの反応を見せたいところだが、今日のところは難しいかもしれない。

 感想はまた後日、と断って四方山話に興じる。
 貞ちゃんや伽羅ちゃんと過ごす時間は、長谷部くん相手とはまた別の心地良さが感じられた。

 どれほど三人で語らっていたのだろう。さらなる来訪者に気付いた時分には、西の空に藍色が混ざり始めていた。
「お、ヨシムラ」
 ばさばさと音立てて、白い鳩が石畳の上に降り立つ。ヨシムラ、と呼ばれた鳩の足首にはくちなし色のリボンが結われていた。だから貞ちゃんは他の鳩と見分けがついたのか、なんて考えられる冷静さはこのとき無かった。

 純白と思われた羽毛は、その半身が赤黒く染まっている。鼻につく鉄臭さも僕らの動揺を誘うのに一役買っただろう。
 怖気が走る。粟立つ肌を服越しに擦った。

 見る間に皺の寄る袖をくいと引かれる。貞ちゃんだった。僕を見上げる彼からは、人懐こい少年の面影が一切失せている。

「みっちゃん、このヨシムラは鶴さんの鳩なんだ」
 貞ちゃんの一言に、昨日、一昨日と会った美丈夫の姿を思い起こす。固く口元を結んでいる伽羅ちゃんも含め、彼らが何を危惧しているのか手に取るように解ってしまった。

「鶴さんと、連絡は取れないのかい」
 貞ちゃんが黙って首を横に振る。伽羅ちゃんが無言でスマホを僕に向かって突き出した。鶴丸国永、と表示された画面は一向に通話中にならない。

 忌々しげにディスプレイから目を離せば、季節外れの花嵐が頬を叩いた。
 散り散りに乱された前髪が視界を覆う。息苦しさすら覚える旋風が収まるや、僕は目を疑った。

 パーカーやコート、確かに現代の服に身を包んでいた客人らの出で立ちが瞬く間に様変わりしている。
 一見して学生服のように見える衣装の上には、篭手や草摺といった防具が見受けられた。

「探し物なら俺の方が適任だ。みっちゃんのこと頼んだぜ、伽羅」
 水色の外套が僕の傍らを駆けていく。貞ちゃんはまさに目にも留まらぬ速さで境内から去った。その足運びはとても人の為せる業ではない。
 残された僕は当然伽羅ちゃんに説明を求めた。馴れ合いを好まない彼も、始め僕の要望に応えようとしてくれたが、生憎とそれを許す余裕は与えられなかった。

 火花が散る。金属同士のぶつかる、不快な音が耳を劈いた。
 秀麗な若武者と異形のつわものが剣戟を交えている。鍔迫り合いを制したのは、倶利伽羅竜の彫られた刀の方だった。

 押し負けた異形の胸に斜線が刻まれる。一呼吸置いて血煙が上がった。
 目の前の脅威を排した青年はそれでもなお警戒を緩めない。
 勝者である伽羅ちゃんと、傍観者である僕を囲む気配は刻一刻と数をいや増していった。

「単刀直入に訊くよ。この状況で、勝機はある?」
「俺ひとりだけならどうにでもなる」

 遠回しにお荷物だと言われたが、それも仕方ないことだろう。先の立ち回りを見る限り、伽羅ちゃんも 相手も双方共に人の則を超えている。視力を失う前ならいざ知らず、今の僕があれらに空手で立ち向かったところで胸を一突きされるのが関の山だ。

「助かりたいなら本殿まで走れ。それまで俺の傍を離れるな」
 言いながら色黒の青年は襲いかかる火の粉を振り払う。

 浮遊する骨のみの化生、烏帽子を戴いた鎧武者らは執拗に僕らの行く手を塞いだ。
 時折隣から、しゃがめ、右に跳べ、といった簡潔な指示が飛ぶ。その通りにすれば、僕の肌すれすれに白刃が迫り、追っ手の四肢が空に舞うのだからぞっとする。

 まさに紙一重で死を逃れ続けて、いよいよ神聖不可侵たる本殿が目前となった。
 さりとて敵も一筋縄ではいかない。ここが最後の砦と踏んでいるのか、今まで以上の戦力を投入して僕らを待ち構えていた。
 特に鬼に似た風貌の巨人は、見た目からしても相当な膂力の持ち主だろう。流石の伽羅ちゃんでも苦戦は避けられまい。

「せめて」
 この場に竹刀があれば、僕の右目が健在ならば、話が違ったはずだ。

 しかし益体も無い仮定を持ち出して何になるというのか。無力な今の己にできることは、せいぜい達人である同行者の邪魔にならぬよう逃げ回るくらいだろう。

「ぐッ……!」
 落ち着き払っていた青年が始めて苦悶の表情を露わにする。身の丈で言うなら、伽羅ちゃんは僕より小柄だ。そんな彼が二メートルを超すだろう大男と打ち合えば、どうしても力負けしてしまう。
 飛び出したのは計算尽くでのことではない。手練れ同士の立ち合い、遙かに実力の劣る己が介入したところで助太刀になるはずがなかった。それと解っていながら身体は勝手に動いた。

 巨人の腰目掛けて体当たりをする。野武士は微動だにしない。縋り付く僕を、それこそ片手間で地面に叩きつけた。
 光忠、と彼らしくもない感情的な叫び声が上がる。僕の身を案じようと身を翻す暇はなく、伽羅ちゃんはまた別の刺客に襲われて、そちらの対処に精一杯だった。
 影が落ちる。重くなった瞼を無理矢理に開けた。
 例の巨人が体躯に似つかわしい長物を振りかぶっている。大太刀の軌跡を辿れば、それは僕に真っ直ぐ向けられていた。

 肉片の雨が降る。その受け皿となった僕は、紅い線条の先に藤色の光を見ていた。

「はせべ、くん――?」
「ああ、遅くなってすまないな光忠」

 カソックとストラ、神父を彷彿させる装束に、黒い袖を纏った幼馴染みが微笑する。ところどころに血肉を浴びた彼は美しいが、ひどく背徳的に映った。
 白い手袋に包まれた両掌が僕の頬を包み込む。優しい手つきだった。慈しむような視線も含め、恋人に向ける態度としては完璧と言える。

 ただ、これを甘受できるほど今の僕は脳天気ではいられない。

「お前は何も知らないままでいいが、秘密を守りたいばかりに光忠を殺しては本末転倒だ。全く、血の巡りが悪い連中ばかりなのは考え物だな」
「どういうことだい、長谷部くん」
「言っただろう、お前は何も知らなくていいと。俺が全て決着をつけてやる。ふふ、大丈夫だ。何も変わらないし、光忠は何の心配もしなくていい」
 恍惚として語る長谷部くんに安堵できるはずもなく、寧ろ不安だけが募っていく。
 両膝を立てた彼の傍らには日本刀が転がっていた。化生の血糊に塗れた白刃は、これから何者を切り裂くというのだろう。

「長谷部」
 どうやら付近の敵を一掃したらしい。ひとまず無事を祝おうと伽羅ちゃんの方を見るが、窮地を脱したにしては顔つきが険しかった。まだ敵は残っていると言わんばかりに、化け物を何十と屠った刀が煌々と輝いている。
 両頬に宛がわれていた熱がすっと引く。長谷部くんは立ち上がり、僕を挟む形で伽羅ちゃんと相対した。

「あんたはどうやって、その刀を手にした」
「どうやって? 知っているくせに当然のことを訊くな。俺が俺を持っていることの何がおかしい」
 伽羅ちゃんの問いも、長谷部くんの答えも僕には意味不明に聞こえる。理解出来るのは、両者の間に張り詰めたような空気が流れているということだけだ。

「鶴丸は、どうした」
「ああ、あいつなら」
 疾風が吹く。忽然と姿を消した長谷部くんの姿を追えば、重なる紫と黒のシルエットがあった。

「斬ってやった。丁度こういう感じになァ」

 胸を斬り伏せられた伽羅ちゃんが蹲る。彼の口元から垂れた紅玉が地に吸われるのを見て、全身が沸騰するような感覚に苛まれた。

「長谷部くん、君は」
 一体何をしたか解っているのか。そう続けるはずの言葉が、怒りのあまり出てこない。

 僕は憤っていた。友人を傷つけられたことか、恋人がとんだ愚行を働いたことにか、或いはその両方かもしれない。

 打ち身に戦慄く両脚を叱咤し、ふらふらと立ち上がる。そんな無様な僕を前にして、長谷部くんは相好を崩した。
 向けられた憎悪を意にも介さず、彼はただ慈愛の眼差しだけを僕に注いでいる。己の優勢を疑わない、強者の傲慢さがそこにはあった。

「もう少し待っていてくれよ光忠。鶴丸と大倶利伽羅、この二振りを退ければ俺の邪魔をする輩はいなくなる」
「邪魔だって……? 僕を守ってくれた伽羅ちゃんを、君は邪魔だと言うのか」
「良心に訴えかけようとはするなよ。俺は俺を慮った鶴丸すら斬ったんだ、とうに覚悟は決めている。後悔なら五年前にいくらでもしたさ。だから今度こそはお前を守ってみせる。全てが上手く行ったら、そうだな、右目にキスでもさせてくれ」
「……君の目的が何なのかは知らない。けど、もしこれが僕のためだって言うなら、僕は絶対に君を止めてみせるよ」
「ふ、はは、はははは! 未だにヒトの真似事しかできない身でよく囀る! 最高だ光忠! お前に惚れて良かった! 今改めてそう思ったぞ!」

 愛しい人が哄笑し、友の血を吸った刃を僕にも向ける。勝ち目など無い。それでも何故か、僕は負ける気がしなかった。
 打ち捨てられた竜の刀を拾う。竹刀とは比べものにならぬ重量感が伝わった。これを軽々振り回していた持ち主の屈強さには恐れ入るしかない。

「構えるだけで精一杯に見えるが大丈夫か?」
「ふ、心配には、及ばないよ」
「この格好つけめ」

 五年ぶりの仕合が幕を開ける。いつだって仕掛けるのは、長谷部くんの方からだった。

 一気に間合いを詰めた彼が僕の胴を薙ごうとする。友人の攻め口を熟知しているからこそ凌げた一撃だった。
 両腕がじいん、と痺れて思わず刀を取り落としそうになる。たった一度切り結んだだけでこれか。
右目のハンデや五年のブランクなど問題にならない。僕たちの間に横たわる実力差は、それらの有無で縮まるほど容易なものではなかった。

 それでも僕の気力は萎えたりしない。汗で滑る柄を握り直し、荒れた息を整える。
 真正面から相手を睨め付けるも、長谷部くんは怯むことなく悠々刀を振るうのみだ。

「妬けるな」
 悋気の告白にしてはいやに冷静な声色である。菫よりも淡いまなこが見つめる先は、僕が両の手にある倶利伽羅竜だった。

「そんな風に俺以外の刀を頼るとはなァ。以前は新しい彼女ができたと報告されるたびに苛立ったものだが、今思えばそれも可愛い方だったのだろう。この漁色家が! 貴様の手が何を握るためにあるのか今一度考えてみるがいい!」
 叱声と共に長谷部くんが跳ぶ。勢いのままに打ち払われ、限界の近かった僕の十指は唯一の得物をあっさりと手放してしまった。
 白刃が空を舞う。その刃先が貫いた先は本殿の戸板だ。刀の行方を追う僕の脳裏に、ふと友の言葉が蘇った。

 地を蹴る。疲労も忘れて走った。
 再び刀を手に取ろうとする僕を、長谷部くんが見逃すはずはない。僕より後から動いたにもかかわらず、前方を塞ごうとする彼を青光が押し止めた。その正体を知るより先に、伸ばした僕の指先が柄巻に触れる。

 後は力の限り、レバーを引く要領で刀を引き倒した。

 破られた扉の内より静謐な空気が流れ出る。
 さほど広くない室内の中央には白い祭壇が設えられていた。最上段には古ぼけた桐箪笥、吸い込まれるように抽斗を開ける。
 嘗て鬼を屠った鋼が一対、刀とも槍とも言えぬ半端な代物。ご神体として百年以上、崇められた燭台切光忠の依り代があった。

「ナイスタイミングな助太刀だったと思わねえ? みっちゃん」

 己より大柄の刀を押さえ込んだ短刀が朗と笑う。その様子から、彼の同志は九死に一生を得たのだろう。
 僕は霧が晴れたような気分で、外界に繋がるきざはしを下りた。

「ああ、格好良かったよ貞ちゃん。僕も負けちゃいられないなあ」

 腰に佩いた太刀を引き抜く。本来の姿を取り戻した光忠が一振りを、百年の年月を共にした同胞に突きつけた。

「仕切り直しだ、長谷部くん。君が望んでいた五年前の決着をつけようじゃないか」

 竹林を駆ける。鬱蒼と茂る山中で、僕らは文字通り、しのぎを削り続けた。

 身軽な長谷部くんが避けるせいで何本の灌木が犠牲になったことだろう。彼が樹上を飛び交い、僕に散々枝葉を落としてくるものだから、こちらも幹ごと足場を崩さざるを得ない。
 落下の勢いを利用した攻撃を受け流す。僕の刃は彼に届かないが、あちらも僕に決定打を与えられていない。

 一瞬の油断が敗北を招く状況下にありながら、僕らは揃って満面に喜色を湛えていた。

「ハハッ、埒が明かないなあ! お仲間の力を借りなくていいのか伊達男?」
「人数での不利を負けたときの言い訳にしたいのかい、まさか君がそんな保守的な刀だったなんてねえ!」
「踏ん切りつかず五年もノンケを自称していた男よりはマシだろう? そのくせ開き直った途端に人を喰らい尽くすのだから、とんだ親友もいたものだなァ! 昨晩で俺の中に何回出したか言ってみろ!」
「さてねえ、長谷部くんの具合が良すぎて覚えてないし、これからも数え切れないほど君を抱くつもりだから考えるだけ無駄ってものだよ!」

 下卑た応酬を続ける最中も攻め手は緩めない。遮蔽物が失せるうちに曲芸じみた真似も減って、ただ純粋に力と力をぶつけ合うようになる。

「そもそも、好き合うふたりの語らいに第三者を連れてくるなんて無粋だろう。何より、君の腸を好きにしていいのは僕だけだ」
 そうだとも、あの白くて薄い腹を僕以外の刀が掻き回すなんてあってはならない。長谷部くんの暴走を止めるのは僕の義務であり、権利だ。

「本当に、お前とは気が合う」
「なのに話は合わないよねえ、昔から」
「現在進行形でな、紛うことなき両想いでここまで拗れるのも珍しいんじゃないか?」
「しかも気持ちを確かめ合った翌日にね。一体何が不満なのかな、僕のお嫁さんは」
「不満を持っているのはお前の方だろう。いや不安と言った方が正しいのか。なあ光忠、俺はどんなお前でも好きになる自信があるぞ。その右目が見えようが見えまいが、俺の気持ちは変わらない。口から出任せではない。それを証明するために、俺は過去に飛ぶ」

 青朽葉の長帯が翻る。長谷部くんが僕から大きく距離を取った。
 落陽が彼の頭髪を照らせば、その輝きが抜き身の刃と同じであることがよく解る。人の姿も、刀の君も、等しく美麗にして気高いことには変わりない。これらは皆、五年前に己がこの身を擲って守ったものだった。

「君が飛ぼうとしているのは、五年前のあの日か」
「ああ。俺は五年前の光忠を救い、互いを縛る約束など無かった未来を作る。その世界でも俺が光忠を好きになれば――罪滅ぼしだ何だと気にする必要も無くなるだろう? いつまでも好意を疑われたままでは胸もすかんからなあ!」

 再び鋼同士がぶつかり合う。先はいつ足を浮かせたかも判らなかった彼の踏み込みも、今は少し体勢を変えるだけで対処できた。
 踊るように敵に斬りかかる長谷部くんの太刀筋は見るだに惚れ惚れする。しかし、手数こそ多けれどその一撃は僕と比べれば軽い。
 腕力の差を向こうも認めているのだろう、いつしか斬撃の他に足技を交えてくるようになった。
 飛び退き、転倒を狙った蹴りを紙一重で避ける。踏み散らされた枯れ葉が乾いた音を立てた。

 濃くなった陰影が土と草木の境目を曖昧にする。日没まで間も無い。太刀である僕としては夜戦は避けたいところである。一方で長谷部くんの体力も限界に来ている。未だに闘志こそ失われていないが、僅かに聞こえる呼吸の間隔は明らかに狭まっていた。決着の時は近い。

「右目を失って暫くは、距離感を掴むのに苦労したっけなあ」

 階段で足を踏み外すことは数知れず、物に触れては指先が空を切った。
 文字通り自立もままならぬ我が身に幾度唇を噛みしめたか知れない。それこそ褐色の朋友に戦いを委ねた先刻においても、せめて自分が五体満足ならば、と悔やんだばかりだ。

「君に手を引いてもらって、落としたものを拾ってもらって、僕は今までどれほど長谷部くんに助けられてきたんだろうね。君には感謝しても、しきれないよ」
「お礼は、両の眼を取り戻した身体で結構だ」
「あっはは、そいつは聴けない相談だね」

 中段に構えた鋒が相手の眉間を捉える。見れば、汗と返り血が晒した額に煤色を貼り付けていた。

「君が僕の右目を守ろうとするなら、僕は右目を失った自分のこれからを守る。だって納得できるはずないだろう? ここにいる燭台切、いや長船光忠は右の目が見えないからこその長船光忠だ。好意も責任も、全て引っくるめた上で長谷部国重を好きになった長船光忠だ。いいか、僕がこれから君と築いていく未来は、五年前の事件あってこそのものだ! あのとき生まれたしがらみを無かったことにすれば、それはもう今の僕たちじゃない! 君が何と言おうと知ったことか! 僕は今日も明日もずっと君と生きる! それを邪魔するなら、たとえ長谷部くんだろうと容赦はしない!」

 ああ、負い目で彼を拒み続けた自分こそが愚かだったのだ。傍に居てくれる理由が真に恋情であるかどうかなんて関係無い。
 五年前に言ったではないか、卑怯者や外道の誹りを受けてなお、長船光忠には長谷部国重が必要であると。

「光忠」

 愛しい刀の紫眼が微かに揺れる。一瞬だけ彼が見せた困惑は、決定的な隙となって僕に懐を晒す羽目になった。
 投げ出された金属が持ち主の手を離れ、黒土の上を転がる。地に突き立てた本体を杖のようにし、僕は呆然とする友人を組み敷いた。

「僕の勝ち、だね」

 戦意を喪失して身動ぎすらしない頬を撫でる。
 あれだけの大立ち回りを繰り広げたせいで、長谷部くんは顔のそこかしこに切り傷、擦り傷を作っていた。

「これで僕の五勝三敗、で合ってたっけ?」
 記憶の棚をひっくり返し、更新された戦績を確認してみる。長谷部くんはその問いに答えるより先に、両腕を僕の後頭部に伸ばした。
 かちん、と金具の外れる音がして眼帯が彼の鎖骨あたりに落ちる。
 僕の視界に変化は無い。ただ見えない右目の瞼を、優しくなぞられる感触だけが伝わった。

「正解だ、この負けず嫌い」

 生温い水が長谷部くんの眦から零れ落ちる。
 泣きながら笑うなんて器用だな、と密かに感心しつつ次から次へと溢れる雫を舐め取った。

□□□

「長谷部さん!」
 帰還した俺を見つけた途端、後輩は子犬のように駆け寄ってきた。周囲に鎧武者や異形の類は無い。あれらを指揮する権利は一時俺に委ねられていたから、当然と言えば当然だろう。

「帰ってこられたということは上手く行ったんですね、ああこれで貴方は私の刀になって下さるんですね」

 過去の改変に協力する代わりに、今後は私の刀として仕えてほしい。
 霊力も持たぬ小娘は、あろうことか口約束で付喪神を使役しようとした。それに意気揚々頷いた俺も間抜けであるが。

「悪いが計画はご破算となった。俺にもう歴史修正の意志は無い」
 縋り付く女の首筋に白銀を突きつける。触れずとも脅威は感じるのか、愉悦に染まっていた顔からみるみる血の気が失せていった。

「え、あ、うそ、だって長船さんの右目は、あなたのせいで」
「ああ、光忠の怪我は紛うことなく俺のせいだ。今だって後悔の念は尽きやしない。いや生涯消えることはないだろう。しかしなァ、あの趣味が悪い刀、その罪悪感ごと俺が欲しいんだと。そこまで求められては、俺も応えないわけにはいかんだろう。そもそも敗者の俺に選択肢などありはしないがな」

 刀を握る腕をゆったり下ろしていく。
 娘は噛み合わない歯の根をがちがち鳴らしているが、素より俺の方に殺意は無かった。

 訣別の挨拶代わりに抜いた刀を再び鞘に収める。それを好機と見たのだろう、なりを潜めていた影がやにわに俺の背に飛びかかった。
 死の気配が濃くなる。足下に斃れ伏した肉塊から生々しい血汐が迸っていた。

「五年前の借りは返させてもらったよ」

 影を斬り捨てた男が俺の隣に立つ。ようやく讐敵を討てたというのに、光忠の隻眼は感情らしい感情を一切有していなかった。
 人の姿を模していた鋼のばけものが塵となって消える。残されたのは、同じく人の姿をした刀が二振りと、紛れもなく人である娘が一人。

 距離にすればたかが数歩の隔たりだが、俺たちと彼女との間には埋まりようもない絶対的な溝があった。

「今までのことは悪い夢を見たとでも思って忘れてくれ。お前は真面目だし、尽くす質だから、きっと他に良いやつが後々現れるに違いない。先輩として保証する」

 かりそめの大学生活にふと想いを馳せる。いつだって主軸になるのは光忠だったけれども、他の連中と過ごす時間だって俺は、嫌いじゃなかった。
 狂人ならぬ凶刃に唆され、多少おかしくなってしまったが、彼女は今も俺の自慢の後輩である。

「もう二度と変な連中に惑わされないようにまじないを掛けてやろう。こう見えて百年くらい厄除けの神様をやっていたからな。きっと効果は抜群だぞ」

 ――御身に降りかかる、ありとあらゆる災いを断ってご覧に入れましょう。

 抜いた本体で仰々しく空を切る。
 今この瞬間だけ、確かに彼女は俺の主だった。

 幻の花弁が舞って、二振りの刀は人の子の前から姿を消した。慌てながら付喪神を探す娘の目は、もう濁ってはいない。

「頼む長谷部、かくまってくれ! お八つをつまみ食いしたのが俺だと歌仙にばれた!」
「頼む長谷部クン、押し入れ貸してくれ! 伽羅の動物コレクションをゾンビ映画とすり替えたのが俺だってばれた!」

 歩く騒音が立て続けに自室を訪れる。俺は無言で奥を指さし、逃げ惑う二振りに避難場所を提供してやった。
 それから幾ばくもしないうちに新たな客人が框を叩く。借金の取り立てもかくや、という剣幕で迫る歌仙と大倶利伽羅に、俺はまた黙って部屋の奥を指さした。

「長谷部ええええきみってやつは薄情の極みだな!」
「ひどいぜ長谷部クン、初めてここに来たときに「この恩は決して忘れない」って言ってたくせにいいい!」

 確保された二振りがわんわん嘆いているが、俺は全く聞く耳を持たない。
 彼らに恩があることは確かだが、それは伊達の三振り全員に言えることである。転じて、鶴丸、大倶利伽羅、太鼓鐘の間で特別誰かを優遇することは無い。

 鶴丸と太鼓鐘が匿えと言うなら匿うし、大倶利伽羅が下手人を出せというなら俺はただただ従うのみだ。

「助かったよ長谷部、仕事中に騒がしくしてすまなかったね」
「別に構わん。どうせ時間だけはあるからと、かなり先の案件に手を付けていた」

 肩を鳴らす俺を見て歌仙が苦笑する。計算は不得手だという初期刀に代わり、この本丸の事務はほとんど俺が見るようになっていた。無論、始めから適材適所という理由で彼の作業を引き受けていたのではない。
 刀であるにもかかわらず机仕事ばかりしているのは、この本丸に来るまでの経緯が原因だった。

 本来歴史を守るべき刀剣男士が、一時とはいえ宿敵たる時間遡行軍に与したのである。その際に伊達の刀と派手にやり合い、うち二振りには重傷を負わせるに至った。
 いくら改心したとて、何のお咎めも無しでは示しがつかない。鶴丸たちの意志というより、俺自身の主張で、へし切長谷部は出陣、遠征を半年の間禁じられていた。
 刀にとって戦場から離れることがどれほどの苦痛であるかは言うまでもない。
 戦えぬからといって、謹慎中に暇を持て余すわけにはいかないから、男士たちが倦厭しがちな細々とした経理は俺の担当になったのである。

 結論を述べるなら、この選択は最適解だった。
 既に触れた通り、この本丸の初期刀は歌仙兼定である。さらに初鍛刀は派手好きな太鼓鐘貞宗だった。この時点で懐事情とその管理がいかほどのものか、想像して頂きたい。

 ここはまだまだ駆け出しの陣営だけあって、刀の数は少ない。打刀は俺を含めて三振り、短刀は五振り、太刀に至っては鶴丸、光忠のたった二振りだ。
 しかも鶴丸は主が酔った勢いで偶然鍛刀したため、直後にはなけなしの資源が底を突いたらしい。節約に節約を重ね、ようやく新たに顕現させたのが俺と光忠だった。

 新たな仲間の登場に期待を膨らませていた主たちは大層驚いたという。
 無理も無い。刻限を迎えたというのに、鍛えていたはずの刀がどこにも見当たらなかったのだから。

 この異様な事態に主はすぐさま調査を進めた。
 本丸に張り巡らされた結界を思えば、盗難の可能性は限りなく低い。では刀が肉の器を得るなり、その足で自ら行方を眩ませたというのか。鍛錬所の周辺を窺うも、既存の刀以外の足跡は発見できなかった。
 この奇怪な現象をどう説明づけたものか、皆して数日悩み続けた。しかるに、解決の糸口は思わぬ形で見つかることとなる。

 新たな時間遡行軍の気配が二百年前の片田舎で確認された。鍛錬所での件もある。本丸を手薄にするわけにもいかず、出陣はひとまず索敵程度にと人数を抑えられた。そこで選ばれたのが伊達の三振りである。
 過去に飛んだ彼らだが、あまりの平和さ加減に毒気を抜かれる思いだった。この地で歴史的に重要な事件が起きたという記録も無い。

 敵の目的が掴めず悶々としていたところで、鶴丸が辿り着いたのが例の神社である。誰もが気に留めぬ伝承に彼が目を奪われたのは必然だろう。看板が語る神社の成り立ちは、どう考えても遡行軍と刀との戦いを描いたものだった。鶴丸が光忠と出会ったのは、その昂奮冷めやらぬ数分後の出来事である。

 刀の記憶を忘れていた俺でさえ、鶴丸と会ったときには強い親近感を覚えた。男士としての自覚がある鶴丸なら、尚更同胞の気配には敏いだろう。それから起きた一連の事件は、まあ言及するまでもあるまい。

 俺と光忠が百年もの間、付喪神としての意志も持たず、ご神体として眠っていたのは理由がある。
 本来なら刀剣男士として覚醒するはずだった俺たちは、鍛刀の最中に主に喚ばれて過去に飛んでいた。 その主とは、今この本丸を経営している審神者ではない。主のご先祖にあたる、神社の創始者こそが事の発端だった。

 彼は並々ならぬ霊力の持ち主だったのだろう。少なくとも、遡行軍の開けた次元の裂け目より、遠い未来の刀を召喚する程度の力は持ち合わせていた。
 未だ刀としての形も整っていない俺たちを喚んだのは、審神者との繋がりが正規の男士より弱かったためと思われる。

 しかしながら、時間遡行軍の存在を知る者が三百年前の日本にいるわけがない。それは無我夢中で俺たちを喚んだ主も同様である。
 自らが審神者という意識も無いが故に、霊力の供給もままならない。そうして、俺たちは刀として完成されることなく社の中に封じられた。九十九の時を経て、再び神として世に顕れるまで眠り続けた。

 そして、男士としての役割を忘れて受肉し、人として二十年あまりの年月を過ごすことになった。
 伝承の鬼――遡行軍の大太刀が主を狙ったのは、対抗勢力たる本丸の消滅を目論んでのことである。それが俺たちの介入で失敗に終わると、今度は未覚醒の男士を自軍に引き込もうと考えたようだ。
 回りくどいことを、とも思うが実際に効果はあったのだから安易に否定することもできない。

「そろそろ遠征部隊が帰ってくる頃だね」
 歌仙の言葉につい筆を持つ手が止まる。顔を上げれば、初期刀の底意地悪い笑みとご対面を果たしてしまった。
 あれが奴の言う雅な笑いというなら、俺は喜んで無骨者の名を頂戴しようと思う。

「残念なことに、君の分のお八つはどこぞの鶴が食べてしまったんだ。こうなると、彼らの手土産に期待するしかないだろうね」
「最初からそのつもりで、俺の分は作っていなかったと言うんじゃないだろうな」
「まさか、そんな意地悪はしないよ。犠牲が一振り分だけなら追及の手は緩めようとは考えるけどね」

 襟首を掴まれた白い太刀が茶目っ気たっぷりに舌を出す。あれは引っこ抜いてくれという合図だろうか。ご希望なら俺は喜んで謹慎中の本体を取り出す所存である。
 あと細川の刀はこれだから信用ならん。小夜は可愛いから許すが。

 中庭の方角から鈴が鳴る。それを耳にするなり、俺は客人などお構いなしに廊下へと躍り出た。
 天まで伸びていた光が収縮する。部隊の帰還を告げた鈴の音は已み、桜並木に囲まれた庭園には大小の歪な影が五つ出現した。

「ただいま、やれることはやって来たよ」
 光忠が持ち帰った資材を上機嫌に掲げる。俺は遠征の成功を称えつつも、その逞しい胸板にちらちらと視線を寄越した。

「良い子でお留守番していた長谷部くんには、お土産があるよ」
 俺の催促に気付いたろう伊達男が懐に手を差し入れる。
 さて此度の菓子はどんなものだろうか。胸弾ませる俺が見たものは、慎ましげに花咲かせる菫が一輪だった。

「藤もいいけど、思った通り菫もよく似合うねえ長谷部くん。あとあからさまに残念そうな顔しない」
「ひとを散々餌付けした張本人がそれを言うのか。この溜まった唾液をどうしてくれる」
「僕が呑もうか」
「昼間だぞ」
「半分冗談だよ。はい金平糖、きらきらしてて綺麗だろう? まるで君みたいで」
「台詞だけで腹一杯にさせる作戦はやめろ。お前の身内によるやらかしのせいで、俺は糖分抜きでの頭脳労働を強いられているんだ」
「僕も君抜きでの肉体労働を強いられてるから、お相子だよ」

 はい、と取り出した糖花を光忠は俺の口に投げ入れた。咥内で少しずつ溶け出す甘みが疲労に心地良い。
 土産を堪能する俺を光忠は慈しむように見つめている。なお、その温度は恋仲というより飼い犬に対するそれに近い。やはりこの男、俺を躾け直す気などさらさら無いのだろう。

「美味かった、ありがとう」
「どういたしまして。さて立ち食いはあまり褒められたものじゃないし、続きは部屋に帰ってからにしようね」

 促され光忠ともども広縁に登る。俺は自室に、光忠は遠征の結果を報告に行くだろうから行き先は別だ。
 また後でね、と告げて光忠が背を向ける。見送ろうとして、忘れ物があったことに気付いた。
 慌てて黒衣の裾を掴み、踵を伸ばす。狙った通り、唇は振り返った男の眼帯の上に落ちた。

「おつかれさま、光忠」

 離れてから菫の花弁を口元に寄せる。本当は菓子でなくても全く構わなかった。光忠から貰ったものなら何でも嬉しいし、大切にしたい。

「……今度のお土産は虫除けの御守りにするよ」
「御守りならお前が守ってくれた例のあれだけで十分だ」
「あれ厄を払うどころか寧ろ引き寄せてたような気がするんだけど」
「何を言う。ちゃんと効果はあったぞ、恋愛成就のな」

 そっと懐に指を這わせる。固い感触を伝える御守り袋には、今も小さなボタンが一つ収められていた。

 あのときの願掛け通り、光忠の傍らは今も俺の定位置のままである。

 

 

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