仲間はずれの蝙蝠とひとりぼっちの聖職者 - 1/7


 花弁と青葉に覆われた門柱を男がくぐる。足を踏み入れた先には、煌びやかなアーチに負けず劣らずの絶景が広がっていた。赤や白、黄色や桃色といった暖色の飾りが見る者の目を喜ばせる。鮮やかに咲き誇る薔薇たちはよほど丁寧に世話をされているのだろう。軽く首をめぐらしてみても、萎びた花は一輪たりとも見当たらない。匂い立つ香りで肺を満たし、客人は恍惚とした笑みを浮かべた。その後に長い脚を折って、革手袋に包まれた指先を赤薔薇へと伸ばす。

「食べたくなるほど綺麗に育ったね……良い香りと、色をしているよ」

 艶を帯びた声が折り重なった紅色に注がれる。男の整った造形と色香を纏った雰囲気も相俟って、どこか淫蕩で耽美な光景が繰り広げられた。つむじから爪先まで黒一色の彼だが、その出で立ちに反して肌は異様なほど白い。血が通っているのかすら疑わしい顔色は、しかし男の尋常ならざる美しさを一層浮き彫りにしていた。
 夕暮れ時、日が沈むにつれ影はその色合いを濃くしていく。それにも関わらず、黒衣の男は夜闇に溶けるどころか、己の輪郭を余計に際立たせていった。前髪に隠れていない左目が光る。金の灯を宿した瞳は、いよいよ彼の魔性を露わにした。

「不法侵入ゥ!」

 荒々しく開け放たれた扉から尖り声が飛ぶ。それと前後して無数の影が庭園の上空を駆った。男の額を貫くはずだった弾丸が植え込みに風穴を開ける。標的の姿は既に無い。襲撃者は俄に広がった暗雲を睨め付けた。ざわめき蠢くそれは、蒸気ではなく獣の群れである。

 不愉快さに銃を持った青年は舌打ちをした。百を優に超える数の蝙蝠こうもりが自分を見下ろしている。まるで飛行手段を持たぬ己を嘲笑っているようだ。苛立ちを隠さず青年は懐に手を差し入れる。取り出された小瓶は投擲されて、その中身を空中で四散させた。硝子片もろとも聖水が地面へと降り注ぐ。庭園の土を潤すより先に、彼の水は不浄の魔物を祓い清めたはずだ。確かな手応えを覚え、青年は怨敵の最期を見届けんと一歩踏み出す。結論から言えば、彼の宿願は果たされなかった。

「もう長谷部くんたらひどいなあ。折角セットした髪が崩れちゃったじゃないか」

 わざわざ都から取り寄せた特注品。大教会お墨付きの聖水は、憎き妖魔の髪を乱すに留まった。長谷部と呼ばれた男が項垂れるのも無理は無い。消えた財布の厚みは、一朝一夕で戻りはしないのである。

 吸血鬼と聞けば大半の者が次のようなイメージを抱くだろう。血を好み、陽の光に弱く、銀と流れ水を厭う。また生前の信仰により十字架を恐れるというのが一般的な認識だ。これらを加味した上で、長谷部が不倶戴天と意気込む男を検めてみたい。

 燭台切光忠。齢五百年に達した吸血種であり、ヴァンパイア・ロードとも呼ばれている。彼は生まれついての妖だった。神を畏れる気持ちなど少年は持ち得ず、ヒトの文化をもっぱら知識として吸収する。
 要するに燭台切にとって教会は忌み地でも何でもない。長谷部が住まいとしている聖堂で、夕餉を作りながら鼻唄まで歌っているのがその証左である。
 なお彼は料理を配膳するにあたって平然と銀の食器を使う。本人曰く、「手袋越しなら触れても問題ないよ。まあ撃たれたら痛いし、治りも遅いけどね」とのことである。
 またニンニクも平気らしく、時に餃子すら食卓に並ぶので長谷部は愕然としていた。

 当たり前がごとくヒトの料理を作り、食す。浮き世離れした美貌と見え隠れする牙の存在さえ無ければ、誰も燭台切が吸血鬼とは信じないだろう。最大の特徴たる「血を啜る」という習性さえ男はトマトで代替していた。

「最近の子はどうにも栄養が偏っていて吸っても美味しくないんだよね。ドロッドロの血を飲むくらいなら、調理し甲斐が有るだけトマトの方がマシかな」

 そう嘯いて、男は自家製トマトをふんだんに使った手作りピザを披露した。渋々頬張った長谷部が、その出来映えに舌鼓を打ったのはつい先日のことである。宿敵に胃袋を掴まされる屈辱に喘ぎつつも、長谷部はおかわりを求める右手を止めることはできなかった。

 伝承と一致するのは太陽に弱いこと、時に霧と化し、蝙蝠を操り、強力な再生能力を持つことぐらいだろうか。なお日中の活動はせいぜい貧血気味になる程度である。弱点ばかり無効化して、特殊能力だけはしっかり扱えるのだから長谷部にとっては堪ったものではなかった。

「今日はオムライスとコーンスープだよ。サラダは二人分ちゃんと分けてあるから、残さないように」
「いちいちうるさい。お前は俺の何だ、母親か」
「君がお望みの肩書きをどうぞ? 敵に栄養管理されたくはないだろうしね」
「最近はサプリという便利なものが有ってだな」
「あれは健康的な食生活を送って初めて効果が出るんだよ。はいはい、文句言わずに野菜も食べる」

 そう言って燭台切は手つかずの皿をぐいぐい押しやった。不服丸出しの顔で長谷部は匙を手に取る。料理人自体は気に喰わずとも、やはり美味いものは美味い。一度口に運べば長谷部も開き直ったもので、次々と卓上の料理を平らげていく。燭台切謹製ディナーは今宵も十数分足らずで二人の胃にすっかり収まってしまった。

「ごちそうさま」
「お粗末様でした。ふふ、いつも思うけど長谷部くんって何だかんだ律儀だよねえ」
「美味い飯に罪は無いからな」
「お皿もちゃんと洗ってくれるし」
「当然だ、ここは俺の家だぞ。何故か毎日のようにアポ無しで侵入してくる不審者が居るがな」
「そりゃあ僕は正式に招かれた客人だからねえ。でないと君にこうして毎日料理作ってあげることだってできないんだよ」
「そういう変なところだけ吸血鬼ぶりやがって腹立たしい」

 招かれたことの無い家に吸血鬼は入れない。メジャーな弱点をほぼほぼ克服しながら、何故か燭台切はこの制約にひどく縛られていた。能力的な都合というよりは感覚的な問題らしい。それまでは見向きもしなかった荒ら屋ですら、一度招待されると何となく興味がそそられてしまう。燭台切がわざわざ教会なんて場所に足を運ぶのも、件の特性が関係していた。彼が言うように、この聖域の主は天敵たる吸血鬼を招き入れていたのである。

 その頃の長谷部は幼く、本棚の最上部に手が届かないぐらいの背丈だった。急ぎ足で廊下を行く少年は懐に古ぼけた冊子を抱いている。もう神父の仕事は終わった頃だろう。早く二人になる時間が欲しくて、長谷部は忙しなく首を左右に動かした。

 厳かな講堂の中央を緋色の絨毯がひた走る。その両脇には信者が祈りを捧げるための長椅子が数十と並べられていた。無地と木目の調度品は、西日を受けたステンドグラスによって複雑な幾何学模様を描いている。多くの者が感嘆を漏らすだろう光の芸術も、長谷部にとっては一風景に過ぎない。つまり彼が足を止めたのは別の要因だった。

 夜空みたいだ、と幼い長谷部が捉えたのは的確な表現だったかもしれない。烏の濡れ羽より深く、艶の有る黒髪に金色の瞳。常闇を纏った男の中で、一つきりの月だけが明るく冴え渡っていた。

 長谷部は瞬きも忘れて男に見入った。視線に気付いた美丈夫が聖書から顔を上る。小さな観察者を上から下まで眺め、夜の化身はうっそりと微笑んだ。

「はじめまして、一人でお祈りかい?」
 美しい男は紡ぐ声までも心地良かった。不意に胸がざわつくのを覚え、長谷部は縋るように懐の本を抱き込んだ。脈拍は勢いを増し、身体は俄に熱を帯びる。少年は己の変化に戸惑いながらも、返事をしようと言葉を探った。

「ちがう。俺は、あるじをさがして」
「主? ああ、もしかしてここの神父さんかな。彼はお茶を淹れに行ってるから、もう少しで戻ると思うよ」
「そうか。なら、もう少し、待つ」
 そう告げて長谷部も長椅子に腰掛けた。通路を挟んで男とは隣同士、近すぎず遠すぎない位置取りである。二人の他に黄昏時の聖堂には誰もいない。痛いほどの静寂が余計に長谷部の焦燥を募らせた。

 話しかけたい、嫌われたくない、もっと見たい、見られたくない。相反する欲求が小さな身体の中で鬩ぎ合い、長谷部は俯いたまま口を噤んだ。会ったばかりの見知らぬ男に何故このような感情を抱くのだろう。訳も判らないまま長谷部は主が戻るのを待った。

「ねえ君」
「ひっ!」
 突然声を掛けられた長谷部が大げさに竦み上がる。あまりの反応に呼び掛けた男まで目を丸くしていた。
「驚かせてごめんね。僕は怪しい者……じゃないとは言い切れないけど、君を痛い目に遭わせたり、苛めたりはしないから安心してほしいな」
「その説明で安心できると思うのか」
「難しいよねえ、でも言っていることは本当だよ。苛めるどころか君とは仲良くなりたいぐらいだ。そうだ、良かったら隣にお邪魔してもいいかな?」
「となりっ!? は、話すなら今のままでも十分だろ!」
「話すだけならね。ううん、君の髪は綺麗で柔らかそうだから触ってみたかったのだけれど、そこまで嫌がられるとなあ。しょうがない、今日はこの距離で手を打つよ」
 あっさりと引いてみせる男に長谷部は胸を撫で下ろす。一抹の寂しさを覚えたはしたが、それを口にする勇気など少年に有るはずもない。いつまでも続く熱視線に堪えかね、長谷部はまた膝元の本に目線を落とした。

「それ聖書だよね。例の神父さんに講義してもらうのかな」
「そのつもり、だが」
「何なら僕が代わりに見てあげようか。専門家ではないけど、長生きだけはしてるからズブの素人よりは読めるはずだよ」
「い、いい。遠慮する」
「そう言わずに。たまには指南役を変えてみるというのも悪くないよ」
 先とは打って変わって男は妙に食い下がってくる。
 そもそも経典の教授など、長谷部にとっては主と話す切っ掛けに過ぎない。少年は真面目で勤勉ではあったものの、社交性には乏しかった。そんな彼が敬慕する神父と話題を共有するには、聖書が必要不可欠だったのである。こうした事情を男が知るはずもない。

 黒革の手袋が羊皮紙をなぞりあげる。追って読み上げられた聖句は朗々と響き、長谷部の思考を奪った。眠気を誘う日曜のミサとは雲泥の差である。
 男の朗読がすっかり気に入った長谷部は、警戒心も忘れて続きをねだった。自分と男の聖書を突き合わせるのも面倒になり、神父が来る頃には一つの長椅子に二人分の影が収まっていた。

 これが燭台切光忠と長谷部国重との出会いである。未だ情緒の育ちきっていなかった少年は、後に最悪の初恋だったと当時を振り返った。

「あの頃の長谷部くんは素直で小さくていじらしくて、とっても可愛かったのになあ」
「あの頃の俺は可哀想だったな。貴様の本性も知らないまま、甘い顔と声に騙され続けていたのだから」

 追憶から戻った吸血鬼と退魔師が各々の所感を述べる。男の声が胸を震わせたのは昔のこと、今や長谷部の対面に座っているのは祓うべき化生でしかなかった。
 思えば燭台切はあの頃から吸血鬼らしくなかった。教会の孤児相手に聖書の手解きをする魔物なんてどうかしている。厄介なことに男の指導は的確で、本職である神父よりも解りやすかった。その事実がまた長谷部の癇に障るのだが、教会との交渉には欠かせないので不問にしている。

「まったく、主が何故貴様のような男を招き入れたのか不思議でならない」
「さあ? 相当な変わり者だったしねえ、単なる気まぐれじゃないかな」
「油断した隙に後ろから刺すつもりだったとか」
「面白い解釈だけど、敬愛する神父様がそんな外道で君はいいのかい」
「少なくとも貴様よりはマシだろう。その無駄に回る舌は一度でも真実を口にしたことが有るのか?」
「やだなあ。僕は長谷部くんに嘘をついたことなんて無いよ」
「そうか。次に死合うときは真っ先にその無意味な舌を抜いてやる」

 物騒な返しにも燭台切は笑って取り合おうとしない。この男はいつもそうである。応戦するのは得物を持っているときだけ、それ以外は丸腰の長谷部がいくら煽っても受け流すばかりだった。己の至らなさに退魔師の青年が歯噛みする。確かに長谷部の力量は未だ燭台切を仕留めるには至らない。
 二人の小競り合いはもう十五年ほど続いている。幾度矛を交えたかなど互いに把握していないが、燭台切が長谷部を傷つけたことは一度も無かった。長谷部が銀のナイフで足を貫いたときも男は抵抗しなかった。

「僕はそれぐらいじゃ死なないよ。彼の仇を討ちたかったら、もっと強くなるんだね長谷部くん」

 初めて肉を穿った感触に少年は震えている。本能的な恐怖を覚えてか、噛み合わない歯ががちがちと鳴った。それでもナイフは固く握りしめたままでいる。彼を突き動かす情念が並大抵でないのは明らかだった。藤色の双眸を涙で曇らせ、指先を流れる化生の血で濡らし、少年は復讐を決意する。

 長谷部は孤児だった。物心つく前に神父に拾われ、彼を親と慕い、主と仰ぎ、今まで生きてきた。主以外要らないと思っていた少年は、燭台切と出会って恋を知った。大切な人が二人になり、そうして二人とも失う羽目になった。

 神父が死んだ。人の肉を喰らうおぞましいグールとなって長谷部を襲った。燭台切に助けられた長谷部は、命の恩人から信じがたい告白を受けた。神父を食人鬼にしたのは己の血だと男は語った。嘘だ、そんなはずない。長谷部は癇癪を起こし、ひたすらに愛しい男の潔白を訴えた。

「彼はねえ、長生きしたかったんだって。自分は老い先短い身体で、どうしても大切な息子を一人置き去りにしてしまう。身寄りが無く彼を託せる相手もいない。どうしたらいいか、という相談をされてね――だったら死なない身体になればいいんじゃない、って返してあげたのさ」

 月明かりで鋭利な牙を照らし、鬼が嗤った。その切っ先が黒ずんで見るのは錯覚ではない。男の足元に縋っていた長谷部がおそるおそる、事切れた神父の屍体を見遣った。

 死臭を漂わせつつある翁の襟は鮮血でべっとりと濡れている。燭台切は長谷部を誘って屍体の傍にしゃがみこんだ。少年の視線は男の大きな掌で固定されてる。さほど力は入っていなかったが、長谷部が神父から目を逸らすことは許されなかった。

 やがてカソックの首元が寛げられ、真新しい傷痕が外気に晒される。並ぶように刻まれた二つの穴は、長谷部にとって最悪の真相を示唆していた。

「年寄りの血はやっぱり美味しくないねえ。それにグールになったときの見た目も悪い。不味くて醜いなんて最低だよ。君もそう思わない、長谷部くん」

 長谷部の視界が赤に染まる。肩に添えられていた手を叩き落とし、少年は男と距離を取った。ふうふうと息を荒げるヒトの子を吸血鬼の王が見下ろす。人好きのする笑顔ばかり浮かべていた男の口角は、歪に吊り上がっていた。

「おまえが、おまえが主を殺したのか」
「人聞きの悪いことを言わないでほしいな。僕は、君を置いて死にたくないという彼の願いを叶えてあげたんだよ」

 男の発言で長谷部の感情のスイッチは完全に入れ替わった。慕情は憎悪に、憧憬は失望に。長谷部の知っている優しくて頼りがいのある初恋の男はもういない。対峙しているのは自分と主を騙し、幸せな日々を踏みにじった外道でしかなかった。

「俺は絶対におまえを許さない。ころす……! 望み通り強くなってやろう! どれだけ掛かろうと、どこまで逃げようと、地の果てまでだって追いかけ! 必ず貴様の首を落とし主の墓前に添えてやる! いつまでも不死を気取れると思うなよ燭台切光忠ァ!」

 悲壮に満ちた叫びが聖堂に響き渡る。十五年以上に渡って続く因縁は、こうして形成された。

 

 くい、と袖を引かれて桑名は我に返った。時計の針は八時近くを指している。すっかり記録に夢中になっていたらしい。彼が助手の小夜と部屋に入ってから優に二時間は経過していた。確かに城の主がいつ戻ってきてもおかしくない時間帯である。メモに数行書き足したところで桑名はペンを置いた。

「もうこんな時間かあ。ごめんね小夜、晩ご飯も用意しないで」
「僕は平気ですが……桑名さんこそ、休憩しないと身体に悪いです」
「あはは、体力有るから僕は大丈夫だよお。すぐに支度、するのはお皿だけでよさそうかな」
 言いながら桑名は窓を眺めやる。つられて外に目を向けた小夜は、暗夜を自在に飛び交う影があるのに気付いた。窓を開けてすぐに一匹の蝙蝠が室内へと身を躍らせる。石畳に降り立った蝙蝠は音も立てずに霧散し、瞬く間にヒトの形を取った。大半が夢か幻かと疑う光景だが、桑名や小夜は驚く様子も無い。彼らからすれば、雇い主が帰ってきた、ただそれだけの話である。

「おかえり燭台切。帰って早々だけど、晩ご飯作るのを忘れたから頼めるかな」
「オーケー。こんなこともあろうかと出先で作ったご飯を持って帰ってきたんだ」
「流石できる男は違う。今日は血液ぱっく大感謝祭だねえ」

 翻る黒衣を追って二人は研究室を出る。天井は高く、幅も乗用車が優に通れる程の広さは有るが、廊下を照らす灯りは極端に少ない。日没から数刻、城内は既に足元すら覚束ないほどの暗がりに包まれていた。もっとも、それで不便を被るのは現状桑名や小夜といった奉公人だけである。

 パチン、と燭台切が指を鳴らす。それを合図と見た眷属たちが一斉に羽音を立てた。忽ち置物と化していた照明が本来の機能を果たし始める。食堂は見る間に日中の輝きを取り戻した。古いカンテラ一つに頼っていた桑名たちにはいっそ眩しいくらいである。

「好きに座ってくれてていいよ。すぐに準備するからね」

 上着を脱いだ燭台切がいそいそと厨に向かう。その間に小夜は食器を、桑名は主人のための「晩餐」を用意するのがお決まりだった。
 温め直した主食の隣に作りたてのスープが並ぶ。具材は桑名が日々丹精込めて世話をしているトマトがメインになっていた。生産者が見立てた通り、やはり味は申し分ない。それだけに、血肉でしか飢えを満たせぬ主人を桑名は残念に思っていた。

 燭台切はヒトの食事を作り、口にすることができる。しかし、それらが彼の身体を支え養うことは有り得ない。燭台切が空腹を忘れるのは唯一、鮮血で喉を潤したときだけだ。他者の生を貪る化物でありながらヒトの真似事をする。傍目にはさぞ酔狂に映るだろう。ただ桑名には、男の奇行に籠められた意味が理解できなくもなかった。

 桑名には双子の弟がいる。彼の名は松井といい、敬虔な信徒として日々を過ごしていた。
 教会は妖魔の類を不吉、災厄の象徴として忌み嫌っている。吸血鬼も多分に漏れないが、これらの物差しは権力闘争の色合いが濃い。死を呼ぶカラスも所違えば祝福を運ぶ御遣い様だ。都市部を離れればヒト以外の種族など珍しくない。しばしば地方の農村を訪ねる桑名からすれば常識である。

 兄に反して松井は人生のほとんどを教会で過ごした。聖書こそが絶対であり、教義に背くことは大罪に値する。盲目的なまでの信仰だった。故に彼がヒトの規を外れ、血を啜る悪鬼と化したときの狂気は尋常でなかった。

 祭壇を蹂躙し、聖像を破壊し、講堂を瓦礫で埋めてなお松井の暴走は止まらない。一度自害を試みた腹部は赤黒く染まっていた。致命傷になるはずの風穴はとうに塞がっている。松井がヒトの形を取り戻すたび、ヒトでは決して抱かぬだろう欲求が募った。飲みたい、飲みたい、飲みたい足りない血肉を寄越せ!
 上体を屈して松井は呪われた衝動に耐える。まだ自分は人間だ、血なんて美味しそうな穢れたもの誰が口にするか。松井の爪が己の膝に食い込む。皮膚を貫き、骨肉を断つ痛みすら吸血への訴えを却けることはできなかった。

「僕はヒトだ。豊前や篭手切や、桑名と同じ、ヒトなんだよ」

 そう言って家畜の血すら拒む弟をふん縛り、何度グラスを押しつけたか桑名は覚えていない。その暴挙に松井は毎度口汚く罵るのだが、兄の方はどこ吹く風である。

 大切な者と近しくありたい。このありふれた幸せのために松井は己の業と戦い続けている。毒にも薬にもならぬ野菜を食み、肌を傷つけてはヒトに戻ることを願う。何度言っても弟が瀉血を止めないので、桑名も攻め口を変える必要に迫られた。彼が人気の無い古城を訪ねたのは、こうした経緯有ってのことである。

 吸血衝動を抑えるための薬を作りたい。桑名の要望は燭台切にとっても都合が良かった。雇い主でありながら被検体に名乗り出て、資料が必要と知れば稀覯本だろうと取り寄せてくる。

 どうして彼はここまで親身になってくれるのだろうか。桑名が疑問に思うのも当然だが、燭台切が自身の事情を打ち明けることはなかった。
 そうは言っても、今晩のようなお土産は珍しくない。燭台切が外でヒトと過ごしているのは火を見るより明らかだ。その彼か彼女かを城に招かないのは、おそらく松井と似た理由だろう。
 だとすれば研究に協力的なのも頷ける。桑名は黙然として黄色い丘にスプーンを突き立てた。城の主があるヒトを想って作った料理は、変わらず今日も絶品である。

「美味しい、です」
「良かった。待たせちゃった分、いっぱい食べてくれ小夜ちゃん」
 好評を聞き、燭台切は鷹揚に微笑んだ。同時にグラスに注がれた彼の晩餐が波打つ。揺れ動く赤褐色から、桑名は何となく目を離せずにいた。

「ただいま帰りました……」
 小夜は恐る恐るといった体で玄関に立つ。食事を済ませてすぐに馬を走らせたが、帰宅する頃には日付が変わりかけていた。

 二人いる小夜の兄だが、揃いも揃って過保護のきらいが有る。変な人に声を掛けられませんでしたか、お菓子をちらつかされても付いて行ってはいけませんよ、等々。兄たちの気持ちは嬉しいが、己も外で働くようになって久しい。割の良い仕事が深夜帯に多いこともあり、小夜はそろそろ自立を申し出るべきか考えていた。

「おかえりなさい、ああ遅いから今日は戻らないのではないかと心配していましたよ。怪我は有りませんね?」
「大丈夫、です……今日は少し長く働いたので、向こうで夕飯をご馳走になってきました」
「そうだったのですか。職場ブラック説を兄様共々支持していたのですが、当てが外れたようで何よりです」
 小夜の兄、宗三は膝付いて家族の無事を祝った。ぎゅうぎゅう抱きしめられ、些か息が苦しいものの小夜も満更ではない。少し背を叩けば宗三もすぐに冷静になって、力を緩めてくれた。これでやっと落ち着ける、と考えた小夜に戦慄が走る。

 兄の肩越しに見えるは砥石に剥き出しの刃物。一般家庭の居間に置かれるには相当物騒な代物である。あと少し到着が遅れたら討ち入りが決行されていたかもしれない。挨拶したいという御者の桑名を帰して正解だった、と小夜は密かに安堵した。

「誤解です。皆さん良い人ばかりで、兄様が心配されているようなことは有りません」
「お小夜、真の鬼畜は外面だけは良いと相場が決まっているんです。貴方がそう言うなら信じますが、何か有ればすぐに頼って下さい。江雪兄様ともども僕たちが話し合いに伺いますから」

 話し合いとは凶器をぶら下げてするものではない。釘を刺したいのは山々だが、状況証拠しかない現状でははぐらかされて終わるだろう。何にせよ燭台切が小夜を騙すことなど有り得ないため、所詮は杞憂である。小夜は物分かり良く頷き、この場を流した。

 小夜が危惧していたより追及はずっと穏やかだった。気を張っていた少年はようやく肩の力を抜き、寝台に横たわる。日中干されていただろう布団はふかふかで、小夜が睡魔に身を任せるのはあっと言う間だった。

 実のところ、労働環境について保留になったと考えているのは小夜一人のみである。自室に戻るなり、宗三はまとめていた捜査資料をひっくり返した。黙々と文面を追う彼の形相は鬼気迫るものが有る。目的のものが見つかったのだろう。口元に三日月を描き、宗三はくつくつと忍び笑いを漏らした。その薄暗い喜びを言語化するなら次のようになる。丁度良い撒き餌が見つかった、と。

 瞼の裏に眩しさを感じ、長谷部は微睡みの中からゆっくりと覚醒した。上体を起こして欠伸を一回、未だに不明瞭な視界のまま時計を確認する。短針の先が7を指していると知って、長谷部は渋々ベッドから抜け出た。

 長谷部の一日はまずカーテンを開けることから始まる。陽の光を浴びて体内時計を云々、という理由ではない。光を遮っていた分厚い布を左右に除ける。長谷部が予想した通り、一羽の鳩が行儀良く窓際に佇んでいた。その足には手紙が結わえられている。差し出し人は判りきっているので、長谷部は迷わず結び目を解いた。

「依頼書ではなく呼び出しの指示か」
 詳細を知る前から長谷部は眉間に皺を寄せる。何しろ厄介事の予感しかしない。あの仲介人が家に呼びつけるときは、政治的な案件かとかく面倒な雑用かの二択である。しかし生活が懸かっているのだ。無視もできず、長谷部は沈痛な面持ちで支度を進めた。

「断る」
「返事は自分の懐と相談してからになさい。この間の聖水代だってまだ支払い済んでないんですよ」
「仕事を選り好みできる状況でないのは百も承知だ。しかしだな、弟のあとを尾けろとかまるっきり犯罪だろうが。俺だって聖職者の端くれだぞ。人の道に外れるような真似なぞできるか」
「弟を想っての行動ですよ。疚しい動機ではないのですから、堂々としてれば良いのです」
「愛でストーカーが正当化できるなら警察は要らん」
「長谷部のくせに正論で返すとは生意気な」
「そろそろパワハラで訴えてやろうか?」

 話し合いは先ほどから平行線を辿っている。人として最低限の矜恃を守りたい長谷部と、弟のためなら恥も外聞もかなぐり捨てる宗三とでは折り合いがつくはずもない。

 長谷部も小夜の人柄は知っている。真面目で大人しくて、心優しいけれど他人の悪意には十二分に敏い。宗三が懸念しているような事態が起きれば、すぐさま所轄の警備隊に駆け込むだろう。小夜とて成人の儀を迎えたのだから、必要以上に身内が干渉するのは控えるべきだ。という長谷部の主張はあっさり撥ねのけられた。

「事が起きてからでは遅すぎます。僕たちが欲しいのはあくまでも安心。一度無事が保障されれば後はもうお小夜の自由です。兄の我が儘であの子の自立を邪魔するわけにもいきませんからね」
「……いきなり殊勝なことを言い出したな」
「本心ですよ。仲介料は前払いとはいえ、今回は依頼の報酬を独り占めできるのですから貴方にとっても悪くない条件でしょう?」

 目の前でちらつかされた書類に長谷部は言葉を詰まらせた。上級ヴァンパイアの退治依頼、それなりに近場で報酬は高額。長谷部が望む条件そのままの内容である。退魔師は人気稼業というわけではないが、商売敵はごまんと居る。街から街へと渡り歩く冒険者などがその典型で、彼らとは現場で鉢合わせることだって珍しくない。相手がごろつき崩れだった場合は最悪同士討ちである。そうしたトラブルを防ぐためにも、大御所の承認印は非常に有効だった。

 宗三の兄、江雪は教会から印綬を預かっている。依頼書の発行は彼の裁量に任されているが、人選はもっぱら宗三の担当だった。つまるところ、堅実に仕事をこなしたいなら宗三を窓口にするのが妥当なのである。

「本当に今回限りなんだろうな」
「ええ、約束します」
「解った。江雪には世話になってるからな、借りを返すつもりで引き受けてやる」
「僕への日頃の感謝も込めて張り切って調査をお願いします」
 長谷部が紙面に羽ペンを走らせる。噛み合わないながらも契約は成立した。

 乗合馬車から下りて小夜が向かった先は酒場である。太陽が昇りきってから間もなく、立ち並ぶ店の多くは閉まっていた。裏手に回り込んだ小夜が扉を数回ほど叩く。中から人が出てくると思いきや、物音がしたのは小夜の背後からだった。土と石が盛り上がり、正方形の穴が庭に空く。面食らったのは様子を窺っていた長谷部だけで、小夜は平然と穴の近くにしゃがみ込んだ。

「おはようございます、桑名さん」
「おはよう小夜。ごめんね、準備はできてるから先に馬のところ行ってていいよお」
 桑名と呼ばれた男が文字通り地上に這い出てくる。荷物を運び出した後は、入り口となる部分に蓋をして再び土と砂で覆い隠した。長谷部は困惑しながら敷地内の三階建て家屋を見る。二階より上は宿になっていると案内の看板が出ていた。経済上の事情か趣味かは判らないが、長谷部が疑念を抱くには十分である。

 その後、小夜らは駅舎で合流し、体格の良い栗毛を選んだ。二人は相乗りに慣れているらしい。早々に手続きを済ませ、桑名が騎乗し小夜がその後ろにつく。手綱を引けば、馬は一気に街道の先まで駆け抜けていった。

 交易路として拓かれた道は走りやすく、障害物も少ない。身を隠すのに難儀しそうだと考えていた長谷部だったが、その予想は悪い意味で外れた。桑名たちが主要道路を進んでいたのは始めだけで、一度脇に反れてからは砂利道、獣道が大半だった。人里からは当然離れており、民家を見かけたのも三十分ほど前の話になる。

(これは宗三の心配を取り越し苦労と笑うこともできなさそうだ)

 茨を短鞭で払いながら長谷部は警戒を強めた。業務内容は農家の手伝いとのことだが、次第に深まる樹海を見るにこの先民家が有るかも怪しい。妙な真似をすれば即圧し斬る、と長谷部が腰の得物に意識を向けたときだった。前を行く桑名たちが忽然と姿を消した。あれほど草藪を掻き分ける音がしていたのだから見失うはずがない。長谷部は馬を近くの木に繋ぎ、歩行で周囲を捜索した。目視できた限りで二人が通った場所を探る。

 ぐにゃり、と長谷部の指先が沈む。虚空に伸ばしたはずの手は水中に在るかのように輪郭を歪めていた。異形と戦い続けてきた長谷部の勘が囁く。小夜たちはきっとこの先に居るだろう。刀の鯉口を切り、長谷部は虎口に挑むつもりで不可視の境界線を越えた。

「……何してるんですか、長谷部さん」

 鋭い碧眼が倒れ込んだ侵入者を見下ろしている。長谷部は俯せのまま小夜の両手を見た。軍手と草刈り鎌。ついでに隣に立つ桑名はじょうろを持っている。

「散歩と言ったら信じるか」
「医者ならこの辺には居ないよお」

 長谷部は諦めて身体を起こし土を落とした。尾行は失敗したが、調査自体は朗報を伝えることができそうである。唐突に開けた視界の先には、柵で囲まれた立派な畑と壮麗な城が待ち構えていた。

 大理石の床を踏み鳴らす音が異様に響く。城内は静まり返っており、自分たちを除いて誰もいないのだと長谷部は悟った。日中にも関わらずカーテンを閉め切った廊下は薄暗い。誰の目にも怪しい光景なのだが、長谷部は敢えて口を噤んだ。どうせ詳細は後に語られる。わざわざ立ち話をして、移動と農作業で疲弊した身体に鞭打つ必要も有るまい。収穫したてのトマトを抱えながら、長谷部は果実の出来映えに思いを馳せた。
 遅めの昼食が整い、ようやく三人揃ってテーブルに着く。無粋な暗幕を端に寄せた室内は明るく、途端に貴族の社交場として相応しい佇まいになった。

「それじゃあ質疑応答の時間だよ。答えられる範囲なら何でも教えるねえ」
 ライ麦パンを千切りながら桑名が切り出してくる。長谷部はこれ幸いと、いくつかにまとめた疑問点を順に尋ねていくことにした。

「外のまじないはお前が施したものか」
「半分は正解。元はここの城主が仕掛けてたんだけど、効果が薄いし獣除けにできなかったから改良しちゃった」
「城の中をカーテンで閉じきっているのも呪いの一環か」
「どちらかというと不正解。昼間くらい開けててもいいんだけど、基本は僕と小夜くらいしか居ないからね。開けるのも閉じるのも手間だし、なら閉じっぱなしでいいやってなったんだ」
 たまの大掃除には全部開けるけどね、と桑名は付け足す。納得できるようで納得できない。長谷部は杜撰な城の管理体制に物申したくなった。

「そもそも、これだけ大きい城で何故お前たちしか使用人が居ないんだ。掃除に手が回らないなら人手を増やせば良いだろう」
「昼間は僕らぐらいだけど、夜になったら城主とその従者も帰ってくるからねえ。掃除はそのときにやってるんだって」
「普通は主が居ない間に綺麗にしておくものだろう。どういうシフト管理してるんだ、ここの頭は」
「今の体制が一番人件費が浮くみたいだよ。お金には困ってなさそうだから、長谷部の意見も参考にするよう伝えておくねえ」
「ここの労働環境改善が目的なわけじゃないんだが……というか、それで真っ先に雇うのが小作人というのもどうなんだ。貴族の趣味と言ったら園芸じゃないのか」
「その小作人に手料理を振る舞う主だからねえ。見た目以外は全然貴族っぽくないよ」

 次々ともたらされる城主像に長谷部は頭を抱えた。呪いを扱う程度には魔術の素養が有るのだから、きっと頭の回転も悪くないのだろう。

 しかし話を聞けば聞くほど、労働力の分配が不可解すぎる。業務内容に偽りこそ無いが、長谷部は再び小夜の行く末が不安になった。世間ずれしたお坊ちゃまの雑な経営理念に振り回され、ある日突然クビにされる――想像するだけで悲劇ではないか。一言会って話をつけないと気が済まない。長谷部は早々に臍を固めた。

「その風変わりな主人に会ってみたい。夜まで待っていてもいいか」
「いいよお。やったね小夜、畑仕事を手伝ってくれる人が増えたよ」
「はい……長谷部さん、午後の仕事もお願いします」
「間髪入れずに労働力に組み込んできたな? 別に構わんが容赦無いなお前ら」

 素より二人でこなしていた仕事量である。長谷部の助力で余裕ができた桑名は、早めに作業を切り上げて書庫に籠もった。冒険譚から学術書まで種々多様な文献が揃っている。ここは畑同様に桑名の庭のようで、専門書を十冊ほど重ねるや、彼は活字の世界に入り込んでしまった。

「ああなると一、二時間は動きません」
「凄まじい集中力だな……小夜はその間どうしてるんだ」
「頼まれ事が無いときは……本を読んだり、収穫したトマトをすり潰したりしてます」
「潰す?」
「はい。その方が加工がしやすいからと」
「そうか、なら俺はそちらを手伝おう。ただ潰すだけでも力は要るだろう」
「それは……助かります」
 すり潰した後の加工は桑名の管轄である。いつ必要になるかも判らないため、作業スペースは書架から離れた場所に設けてあった。

 採れたての果実を押し潰す。すり鉢の中で弾け、次第に赤い水に変わっていくそれは血とは一線を画している。長谷部はふと自分が追い続ける仇敵を思い出した。吸血鬼のくせに血肉を拒み、野菜で代用する変わり者。ヒトの身ですら、トマトの赤が決して皮膚の下を流れる液体になり得ないことが解ってしまうのに、生来の魔性が両者をはき違えることなど有り得るのだろうか。

 疑惑が一つの仮説を導き出しかけ、長谷部は慌ててかぶりを振った。これ以上は考えてはいけない。燭台切光忠は長谷部の養父を殺した。こればかりは動かしようのない事実であり、彼の妖魔を滅ぼすべき理由としては十分である。

 長谷部は努めて無心になった。小夜も口数が多い方ではない。自ずとすりこぎの音が場を占めるようになったが、幸い居心地悪さを覚える者はいなかった。

 陽が落ち、夜を象徴する墨色が天穹を覆っていく。既にいくつかの小瓶は紅樺色で満たされていた。小夜によれば、これで三日分の備蓄にはなるという。他に作業はないか問おうとして、長谷部は今更ながらに夜の到来を知った。
 未だ主人は戻らず、桑名たち以外の使用人は現れない。もし彼らが一斉に帰城するなら、馬車の音がここまで聞こえてくるのではないか。

「うわっ!?」

 長谷部が窓を開けるなり小さな影が室内へと転がり込んだ。咄嗟にのけぞって衝突を避けたが、鳥か虫であれば追い出さねばならない。長谷部が慌てて振り返ると、今まで無かったはずの黒い壁にぶつかった。

「何だこれ……?」
 正体を確かめるより先に後頭部を掴まれ、長谷部の視界が再び黒一色になる。押さえつける力は相当なもので、荒事を生業とする長谷部の抵抗すら寄せ付けようとしない。

「昨日ぶりだね長谷部くん」

 囁かれた低音に長谷部はつい暴れるのを忘れた。大人しくなったと見るや、彼の自由を奪っていた五指が力を抜いて、代わりに優しく髪を梳き始める。面を拝む必要もない。長谷部は一度離れかけた距離を自ら埋めた。壁と思っていた黒衣に鼻先を寄せれば、微かにだが薔薇の匂いがする。相手も気をよくしたと見え、髪を弄うのとは別の手で長谷部の背を抱いた。花の残り香がさらに濃くなる。その芳しさに長谷部は目を細めた。男にしては婀娜っぽい表情で黒と黒の境界を見つめる。身を預ける男の中で唯一白い首筋目掛け――長谷部は思いきり歯を突き立てた。

「いったああ!?」

 予期せぬ攻撃に長谷部を拘束していた腕が緩まる。すかさず黒い囲いから逃れた退魔師は既に懐に手を忍ばせている。抜き身の短剣は空を切り、変化した蝙蝠は小夜の周囲でぱたぱたと旋回していた。

「小夜から離れろショタコンバット」
「人聞きが悪い。ああもう、五百年は生きてるけど吸血鬼の首筋を逆に噛んでくるニンゲンなんて初めて見たよ」
「冥府に持って行く土産話が増えて良かったじゃないか」

 おどける燭台切は人型に戻っている。二人の間合いは十歩ほど開いた。俊足を誇る長谷部とて一足で詰めるのは難しい。小夜に被害が及ぶ可能性を考慮すると、余計に戦術の幅は限られてくるだろう。

「危ないから小夜は下がっていてくれ」
 長谷部は構え直した白銀を見せつけるように振るう。丸腰の上に小夜の体格はかなり小柄な方だった。多少脅せば退いてくれるに違いない。こうした長谷部の期待に反し、小夜は燭台切を庇うように前へ出た。

「何の真似だ」
「燭台切さんは、悪い人じゃないです」
「小夜の前でだけ良い顔をしているだけだ。それぐらいの知恵は回る」
「お二人の間に何が有ったのか、僕には解りません。でも、燭台切さんにはとても良くしてもらってるから、こちらも譲りたくありません」

 小夜の決意は揺らがない。指先が僅かに震えていても、剥き出しの刃に怯んでも、少年は燭台切の前から離れようとしなかった。ふう、と長谷部が息をつく。友人の弟に身体を張られたのでは矛を収める他無い。気を殺がれた長谷部に対し、燭台切は普段の柔らかな表情を棄てて真顔になっていた。

「気持ちは嬉しいけれど、小夜ちゃんを危ない目に遭わせるわけにはいかないよ。宗教勧誘や危ない人の対応は僕がやるって話だっただろう」
「でも」
「大丈夫だよ、長谷部くんとはいつもこんな感じだからね。僕たちなりのコミュニケーションと思ってくれればいい」
「激しすぎやしませんか」
「今のところ僕の全戦全勝だから安心してくれ」
「余計なことを言うな。あとさり気なく俺を危ないやつ扱いするな」

 死合いが禁じられたのだからこれくらい、と軽口の応酬が続く。二人の子供じみたやり取りをしばらく聞いて、小夜は無茶をした甲斐が有ったと胸を撫で下ろした。