仲間はずれの蝙蝠とひとりぼっちの聖職者 - 2/7

 

 

 休戦が決まり、夕食を終えた小夜たちは行きと同じく相乗りして帰っていった。桑名が騒動の最中に一切口出ししてこなかった理由だが、本に夢中になって気付いていなかっただけらしい。
 とんだ集中力だが、彼が小夜に指示を出す立場であることを思うと長谷部としては不安である。宗三への報告も、燭台切の存在により問題なしと判定するには厳しくなってしまった。

 現状で言えることは、とにかく様子を見る、である。そのためにも数日は調査を延長する必要が有るだろう。こうした方針を城主に伝えると、

「だったら長谷部くんは当分この城に居た方がいいね。いちいち街に戻るのは面倒だろう? 畑仕事を手伝ってくれるなら、食事や洗濯の世話くらいするよ」
 と、決定事項がごとく告げられて、長谷部は返す言葉も無かった。

 燭台切のように飛行できる身ならともかく、ろくに整備されてない山道を往復するのは煩わしい。独り暮らしでは億劫な家事も任せていいというなら、長谷部にとっては極楽である。同居人が燭台切であるという一点を除けば転職を考えるほどの好条件だった。

「大広間にはソファが置いてあったな。寝床はそこでいい」
「大事なお客様にそんな扱いできるわけないだろう。蝙蝠たちに寝室を用意させてるから、もう少しだけ待っててくれないかな。あ、何だったら僕と一緒に寝る?」
「なるほど、寝込みを襲われてもいいということか」
「実行するなら日が昇ってからをオススメするよ。今やったら抱き枕にされるだけだからね」

 冗談か本気か解りかねる提案をして燭台切は自室に戻った。別れ際に蝙蝠が掃除の完了を伝えに来たので、長谷部は小さな従者に導かれるまま客間に向かっている。

 案内された部屋は急拵えといった印象は全く無く、隅々まで整備が行き届いていた。革張りの椅子は解れも見えず、ランプは植物を真似たデザインで実に洒落ている。灯火を受けて浮かび上がるベッドは天蓋つきで、広さも三人横並びになったとして余り有るほどだろう。

「人をダメにする部屋だ」
 長谷部の直感は正しく、疲れていた身体は寝台に横たわるなり睡魔に襲われた。

 吸血鬼にとって朝焼けは就寝の合図である。陽の光にそれなりの耐性が有る燭台切も例外ではなく、城の主は初夏の短い一日を終えた。休日でも早朝に目が覚める長谷部とはちょうどすれ違いになる。
 城の案内は昨晩のうちに済まされていた。君が起きる頃には使い物にならなくなってるからね、と苦笑した主人のお陰で、長谷部は無事に洗面所に辿り着くことができた。

(そういえば)

 聖堂よりも遙かに長い廊下で長谷部は立ち止まる。客間は二階にあるが、燭台切は地下をねぐらにしていた。実際に長谷部が歩いたのは地下の入り口までで、階段から先がどのような構造になっているのかも知らない。普段の長谷部であれば、思いついたところで実行に移したりはしなかっただろう。しかし吸血鬼の居城という非日常的な舞台、持ち主が因縁深き燭台切ということもあって、長谷部の感覚はかなり麻痺していた。

 カンテラで薄暗い地下を照らし、ゆっくりと階を下りていく。主人も眷属の蝙蝠も夜行性だが、物音で起きないとは限らない。長谷部は息を潜め、ようやく燭台切の部屋と思しき扉の前に立った。

 まずは用心深く罠の有無を確かめる。鍵は掛かっておらず、仕掛けらしきものも見当たらない。不用心だな、と長谷部は忍び込む身で思う。
 照明がぼんやりと部屋の内装を炙り出した。チェック柄の床、ダークブラウンで統一された家具、落ち着いた色調の中で存在を主張する薔薇の花瓶。部屋の主としては拘り抜いたレイアウトかもしれないが、長谷部の目を惹いたのはもっと別の点だった。

「棺桶じゃないだと」
 予想を裏切り、燭台切はキングサイズのベッドに臥していた。逞しい胸板は呼吸のたびに上下している。部屋の主が寝ているのは確かだろう。

「マジか……防犯意識ゼロか吸血鬼」

 サイドテーブルに灯りを置き、長谷部は改めて燭台切の正面に回り込んだ。美しさこそ尋常でないにしろ、寝ている燭台切の姿はヒトと全く見分けが付かなかった。長谷部は懐の短剣を服の上から押さえ込む。今なら不死の妖とて屠れるかもしれない。いやきっと今を置いて他に機は無い。心臓を狙って一刺し、それで勝利は確約される。

 銀の刃が再び外気に触れた。右手に短剣を握ったまま、長谷部は寝台へと乗り上がる。燭台切はまだ目を覚まさない。
 緊張で滑る得物を握り直す。うまく狙いが定まらず長谷部は焦った。手の震えが止まらず、息だけが荒くなる。もう少し、もう少しで十五年続いた苦痛から解放されるのに。何度己に言い聞かせても男の手は動かない。

「小夜との約束、だからな」
 長谷部は項垂れ、無用となった武器を鞘に収めた。萎えきっていた右手はいつの間にか震えが止まっていた。

 寝台から下りた暗殺者をふたつの金色が凝視する。長谷部にもう殺意が無いのを見てとるや、鈍く小さな光は陶器の底へと消えていった。

 朝食を済ませ、長谷部が着替えて庭に出る頃には桑名たちも到着していた。日中の仕事は桑名が取り仕切っている。しかし、挨拶を済ませるなり黄褐色の青年は暫し物言わずに長谷部を見た。指示を仰ぐためには待つしかないが、ひたすら続く無言の間は何ともばつが悪い。とうとう堪えかねて、長谷部は一言物申すことにした。

「何だ、俺の顔に虫でもついているのか」
「……いや。ごめん、ちょっと考え事してた。長谷部はあの辺りを耕していってくれないかな。小夜は水を捲き終わったら植え付けをお願い」

 口を開けば桑名は要領よく作業を割り振っていく。長谷部は敢えて追及を避けた。長い前髪で目が隠れていることもあって、桑名の感情は実に読み難い。こちらは向こうの意図が判らないのに、桑名はまるで何もかも見透かしているように思える。底知れなさ故に長谷部としてはあまり関わりたくない、というのが本音だった。

「桑名さん……何か良いこと有りましたか」
「ん? どうして?」
「鼻唄、聞こえました」
「あちゃあ、恥ずかしい。そうだね、ご機嫌なのは小夜のお陰かな」
「? 僕は別に何も」
「うん、小夜はそれでいいよ。さて今日も良い畑を作っていこうねえ」

 三人はそれぞれ日暮れまでよく働いた。汗で貼り付く服が気持ち悪く、湯浴みをしたいと零す彼らの元に蝙蝠が飛んでくる。小夜や長谷部には解らないが、魔術に通じた桑名は城主の操る眷属であれば言葉を交わすことができた。彼の遣いが言うには、湯殿の支度ができたという話らしい。渡りに船と、長谷部は小夜と顔を見合わせて喜んだ。

 長谷部が城に滞在しているため、燭台切も外に出る必要が無くなった。空いた時間を全て家事に充てる男はとても一城の主には見えないだろう。風呂上がりには気合いの入った夕食を出され、どちらが使用人なんだと長谷部が呆れたのも道理である。

 空腹を満たした後、桑名は燭台切を書庫に呼び寄せた。わざわざ二人になったのは、長谷部に聞かせたくない話が有るからだろう。燭台切の想像通り、桑名は先日借りていた蝙蝠を徐に服から取り出した。

「ありがとう。僕が思っていたより甘いみたいだね彼」
「それはもう。言っただろう、見張りなんて付けなくてもいいって」
「そりゃあ燭台切は長い付き合いだからいいけど、僕は昨日会ったばかりだよ。確信が欲しかったんだ。痴情のもつれなんかで協力者に死んでもらいたくはないからね」
「痴情って……まあいいや。これで満足かい参謀殿」
「燭台切の身の安全についてはね。疑問なのは、あれだけ情に流されやすい長谷部が、どうして君に殺意なんて強い感情を抱いたかだよ」

 桑名の疑問はもっともである。それに対する燭台切の答えは沈黙だった。言外に話すつもりはないと拒まれ、桑名もこれ以上の詮索を諦める。
 これは燭台切と長谷部の問題だ。所詮は第三者でしかない自分が深入りする権利など無い。桑名は物怖じしない性格だが、引き際は弁えていた。

「まあ頑張ってね。ああ、あとこれはちょっとした警告。退魔師を名乗ってはいるけど、どちらかというと彼は死霊術師向きの素質をしているよ」
「死霊術師?」
「うん。本人の意志とは関係無くヒトならざる者を惹きつけやすいってこと」

 桑名の説明を聞き、ヒトならざる者代表の眉がひそめられる。まさか日中の仕事にまで燭台切が付いて行くわけにはいかない。桑名の指摘が正しければ、長谷部は自らを好餌とみなす魍魎の群れに進んで身を晒していることになる。燭台切すら初めて聞いた話だ、長谷部が自覚しているはずもないだろう。

「囲うなら今のうちだと思うけどね。神経質な割に隙が多そうだから」
「……僕に、そんな資格は無いよ」

 麗しいかんばせに影を落とし、燭台切はあくまで讐敵の立場を固持する。伝えるべきは伝えた。下手な慰めは不要だろうと桑名は踵を返す。

「桑名くん」
 退出する直前に呼ばれ、桑名は足を止めた。振り返ろうとする従者を手で制し、燭台切は言葉を続ける。

「今日ここに入ったのは僕たちだけかい」
「うん」
「ならいいんだ。今日も一日お疲れ様」
 お疲れ様、と挨拶を返して桑名は今度こそ書庫を辞した。小夜が待つ大広間へと向かう最中、青年は明日の作業の振り分けについて考えていた。

 監視二日目、鉛色の雲が西の空を覆っている。午後から雨が降ることも予想され、桑名は早めに畑仕事を切り上げることにした。残った時間は当然研究に費やすことになる。

 長谷部の担当は書架の整理だった。単純と見せて仕事量は相当なものである。五百年を生きる主の蔵書は膨大の一言では片付けられない。印刷技術が向上する前の時代になると、羊皮紙をまとめただけの資料も多く、内容も一見しただけは把握しかねる。それらを逐一吟味し、ジャンルごとに分別していくのは骨が折れた。

「……売ったら数冊で城が建ちそうな貴重本ばかりだな」
 禁書指定を受けたもの、亡国の民話集、教会の血塗られた歴史を綴ったもの、と争いの火種になりそうな物品がごろごろと転がっている。常識が覆りかねぬ逸話も少なくないが、目を通した長谷部は不思議と懐かしさを覚えた。それもそのはず、彼が寝物語に聞かされたおとぎ話と本の内容は非常に似通っている。火竜に襲われた街や、神の怒りを収めるために生贄になった少女、その娘と竜の化身との交流は作り話ではなく、燭台切が実際に見聞きした歴史だったのだろう。

 当時の長谷部は寝つきが悪かった。広いベッドに一人横たわっていても、冷たいシーツの感触が気になって眠れない。輾転反側を繰り返し、誰もいない暗がりを無為に眺めていると必ず男はやって来た。

「今日は何の話が聞きたい?」
「血湧き肉躍る冒険譚」
「眠気を誘うリクエストじゃないなあ、了解」

 男の危惧した通り、長谷部は森林に巣くう大蛇の話に夢中になってすっかり目が冴えてしまった。別の話をねだる長谷部を宥めつつ、男は布団の膨らみを優しく撫でる。一定のリズムで背を叩かれると、あれほど睡魔とは無縁だった少年の瞼は重くなっていった。

「やはりショタコンじゃないか」
 本人が聞けば黙っていないだろう呟きを皮切りに、長谷部が現実へと舞い戻る。白い手袋で冊子を丁寧に扱いながら、彼は窓を叩く雨音を耳にした。

「長雨になりそうだね」
 近くを通りがかった桑名がぽつりと漏らす。長谷部は当分書庫から出られそうになかった。

 かれこれ雨は三日ほど降り続けている。流石に整理も目処がついてきて、残すところ二架になった。桑名には及ばないにしろ、長谷部も本は読む方である。急ぎの作業ではないこともあって、中身の確認につい時間を掛けてしまうことも珍しくない。とりわけ小説は鬼門だった。知らない作品になると序章まで読み込み、気に入れば別の場所に分けて置いておく。そうして積まれた本は既に両手の指では足らなくなっていた。

「ん」
 茶色い背表紙に指を掛ける。次に抜き出した本は随分と古ぼけて見えたが、長谷部も覚えの有るタイトルだった。

 鳥の仲間にも獣の仲間にもなれない蝙蝠。娼婦の息子として白眼視される少年。孤独な境遇の一匹と一人が出会い、様々な困難に遭いながらも友情を築いていく。嘗て幼い長谷部が一等気に入り、養父に朗読をせがんだ本である。何度も読み返し、いくつかの台詞は諳んじることもできた。主役が蝙蝠でなければ、神父の死後も長谷部の愛読書になったことだろう。今では目の付かない場所に仕舞われ、容易に取り出すことも叶わない。そうした幼き日の思い出と再会したのが、よりにもよって天敵の根城だというのだから運命とは皮肉なものである。今だけは遺恨よりも懐かしさに任せて、長谷部は表紙を捲った。

 簡素ながらに温かみの有る挿絵、題材は暗いが王道を押さえた展開。
 記憶と違わぬ数百頁に紛れるように、その手紙は挟まっていた。どう考えても栞にするには不便である。見なかった振りをするか、燭台切に子細を訊くか、いっそここで開けてしまうか。長谷部は倫理観と好奇心とを天秤にかけ、割合すぐに後者を選んだ。

 見られたくないなら処分するか、自室に置いておけばいいのだ。つまりは管理を怠った燭台切のせいだ。内容次第では弱点として利用してやろう。そう手前勝手な論理を並べつつ、長谷部は封筒から四つ折りの紙片を取り出す。途端、藤色の眼がかっと見開かれた。

「君を騙してすまなかった。国重がもし君を信用しないようであれば、この手紙を見せてやってほしい。最後の最期にまた裏切ってしまったけれども、私は君の友情を尊く思っていた」

 堪らず長谷部は駆け出した。向かう先は地下の、眠れる吸血鬼の王が寝所である。

 妙に腰の辺りが重い。同時に呼吸もしづらくなって、燭台切は底に沈んでいた意識を引き上げざるを得なくなった。靄のかかった視界が曖昧な像を結ぶ。黒い布地に金の差し色がよく目立っていた。どこで見た色合いだろうと記憶の糸を辿り、ある人物に符合した瞬間、燭台切は飛び起きた。

「長谷部くん!?」
 長谷部が燭台切を跨ぐように座っている。その重みで燭台切は上半身しか起こせず、自ずと長谷部に見下ろされる形になった。

「どうしたの、もしかして襲いに来てくれたとか……?」
 そんな艶めいた用事でないことは判りきっている。少しでも長谷部の口が軽くなれば、と冗談めかして言ったつもりだが効果ははかばかしくない。夜目の利く燭台切は、暗室同然の部屋でも長谷部の表情が見て取れた。顔は青白く目は血走っている。ひどく昂奮しているようで息遣いまで荒い。落ち着かせようと伸ばした手には、複数枚の紙が押しつけられた。

「どういうつもりだったんだ」
 絞り出したような弱々しい声量が燭台切の耳を打つ。この時点で、男には長谷部が何を言わんとしているのか読めてしまった。

「ヒトの子供ごときに気を遣って、十五年も仇のフリをしてきたのは、どういうつもりだったんだ」

 受け取り損ねた紙片が褥に落ちる。長谷部は怯えていた。心の支えであった認識が誤りだと知り、喪失感と自己嫌悪に苛まれた。

 謂われなき憎悪を散々にぶつけられた燭台切は長谷部を責めて然るべきである。それにも関わらず、男は恨み言一つ口にしない。その優しさが余計に長谷部の懊悩を強くした。

 寄る辺を無くした青年は、処理しきれない感情を頬から流し、項垂れることしかできなかった。俄に身体が冷えて、歯ががちがちと鳴る。己を抱き込む長谷部を別の温もりが包んだ。後ろに回った手が優しく背を撫でるのに、また胸が熱くなって涙が零れた。

 燭台切は長谷部が落ち着くまで、ずっと傍に居続けた。