仲間はずれの蝙蝠とひとりぼっちの聖職者 - 4/7

 

 長谷部は黙って燭台切の話を聞いていた。十五年越しに男から伝えられた真相は、神父の遺言と合致して違うところは無い。

 知らないのは自分だけだった。護られている立場でありながら、ずっと傍に居続けてくれた恩人を拒み続けた。何よりも自分は燭台切を信じることができなかった。己に都合の良い嘘を鵜呑みにし、考えることを放棄して、まるで自分は一人で生きてきたように驕り高ぶった。

 己の行動を省みれば省みるほど自分の存在が恥ずかしくなる。長谷部はもう消えて無くなりたいとしか思えず、弱々しく燭台切の胸を押した。長谷部の意図に気付いている燭台切が彼に自由を許すはずもない。寧ろ離れようとする腕を取り、有無を言わさず敷布へと押し倒した。

「っ、いやだ、はなせ、はなせ燭台切……!」
「今の君を一人にしておけるわけないだろう。少し休んだ方が良い。しばらく眠って、落ち着いたら順番に噛み砕いていこう? 焦らなくて、いいから」

 自らも横になった燭台切が腕の中に長谷部を引き込む。どんなに心を塞ぐ出来事が有っても、男の香りはいつも長谷部を安心させた。十五年ほど遠ざかっていた温もりに身を委ねれば、意志とは関係無しに腫れぼったくなった瞼が閉じていく。少しして寝息が聞こえるようになると、燭台切もゆったりと夢想の世界に浸っていった。

 外は小雨が続いている。家を空けること三日、桑名はいよいよ弟の具合が気になりだした。血液パックは篭手切に渡してあるが、松井が大人しく受け取るかと言えば話は別である。こうなると豊前が街に留まり、優しい篭手切の代わりに弟を羽交い締めしてくれるのを祈るしかない。

 桑名が気掛かりなのは何も弟のことばかりではなかった。この数日、松井と同じく血に縛られた主は果たして「まともな食事」を摂っていただろうか。最近になって食卓を囲むヒトが一人増えた。その客人の前で、城の主人は決して血を口にしない。そこまで想っているなら早く誤解を解けばいいだろうに、燭台切は何故か彼の仇敵となることに拘る。手先はともかく肝心なところで不器用な男だった。

「桑名くん!」
 書庫の扉が乱暴に開け放たれる。噂をすれば何とやら、桑名を訪ねてきたのはひどく慌てた様子の燭台切だった。

「長谷部くん来てない!? いや、ここに居ないにしろ何か言ってなかった!?」
「来てないし、何も聞いてないねえ」
「そう。……ごめん、邪魔したね」
「待った」
 早々に去ろうとする燭台切を桑名が引き留める。図らずも先日とは逆の構図になった。あのとき燭台切が問い掛けた言葉が無ければ、書庫の整理を長谷部に頼もうなどと桑名も考えなかっただろう。

 桑名が進捗を尋ねに行ったとき、棚の近くには誰もいなかった。床には本がいくつも積み上げられていて、作業の途中だったことは疑いようがない。開かれたままの頁が目に入る。蝙蝠と少年の物語は、二人が別れを決意する場面で止まっていた。

(なるほど、長谷部からは手に取りそうもない本だ)
 納得した桑名は、慣れた手つきで蔵書を適切な場所に置いていった。遅かれ早かれ、また一騒動起きるだろう。そのとき桑名にできるのは、城の主が斃れないよう配慮してやるぐらいだ。

「見つからなかったとして、そのまま探しに行くのはお勧めしないよ。その顔色、一体いつから飲んでないの」
「……せいぜい四日だよ、まだいける」
「じゃあ、はい。ここで一つ飲んでいきなよ。止めたって聞きそうにないしね」
「……ありがとう。君が居てくれて助かった。少しだけ頭が冷えた気がする」
「どういたしまして。仲直りしたらたっぷり実験に付き合ってもらうから、宜しくね」
「ああ、頑張るよ」
 ものの数秒で血液パックを消化し、燭台切は再び外套を翻した。

 未だに雨は止まない。長谷部の脚と、流れ水で萎えた吸血鬼とでは、いずれが速いだろうか。勝敗はともかく泥仕合にはなるだろう。

「いい加減土の匂いが嗅ぎたいなあ」
 畑恋しさのあまり桑名が庭先を覗く。雨よけのシートの上を、蝙蝠の影が横切っていった。

 宗三は苛立っている。第一に、このところ雨が続いて、可愛い弟が勤め先から一向に帰ってこない。第二に、その弟を心配して寄越した調査員が何故か一人で戻って来て、しばらく泊めてほしいと願い出たからである。

 いつもの宗三なら、
「そういう台詞はお小夜を連れてきてから言いなさい。というかまずは報告が先でしょう、気の利かない男ですね」
 と、いった文句の一つや二つはぶつけただろう。実際には何も言わず、黙って友人を中へと引き入れた。雨に打たれた男の肌は青ざめ、生気の類が一切感じられない。背を押され浴室に向かう長谷部の足取りは、幽鬼のごとくふらふらとしていた。

「ミルクでもどうぞ。何も訊いてませんが、僕の偏見で砂糖多めに入れておきました」
 風呂から上がった長谷部は促されてソファに座った。カップ越しの熱がじんわりと掌に伝わっていく。味も長谷部には寧ろ好ましいぐらいの甘さだった。

「で? 家に帰れない理由は、ストーカーに住所でも把握されたんですか」
「……あながち違うとも言い切れんな」
「とうとう来ましたか。朴念仁の貴方に惚れる女なんて、異様なまでに控えめか、自分に都合の良い妄想だけで生きている狂人のどちらかだと思ってましたよ。まあ大人しく警備隊に相談するんですね」
「できるものか、相手は吸血鬼だぞ」
「仕留め損ないじゃないですか。一人で厳しいのなら傭兵でも雇いなさい」
「違う、仕留めたいわけじゃない」
「……じゃあ、どうしたいんですか」
「……ほとぼりが冷めるまで厄介に」
「痴話喧嘩なら余所でやって下さい」
「あいつとはそんな関係じゃない!」
 ほとんど吼えるような否定だった。つい先刻まで憂鬱の色を浮かべ、覇気に乏しかった長谷部とは思えぬ剣幕である。

 宗三は目を瞠り、その友人の反応を見て長谷部もはっと我に返った。ばつが悪そうに居住まいを正し、残り少ないカップの底を傾ける。この流れだけでも、長谷部と彼を狙う吸血鬼とが容易ならぬ間柄であることを宗三が推し量るには十分だった。

「そんな関係じゃ、ないんだ」
 長谷部はなおも小声で否定を繰り返す。その強迫観念じみた振る舞いに、宗三も強いて詳細を尋ねることはしなかった。

 日が昇る。ぬかるんだ土に四頭立ての馬車が轍の跡を残していった。久方ぶりの晴天に街の喧噪と活気はいや増していく。爽やかな一日の始まりに反し、長谷部が受けた依頼は陰惨そのものだった。

 老人の皮膚を剥いで回る殺人鬼の討伐。結構な額の報奨金を約束する書類には、これまで被害に遭った村の数や、遺体の特徴、根城の変遷まで事細かに記されている。十年以上前から活動しているにも関わらず、未だに犯人の目的すら掴めていないという話だった。長谷部も始めに違和感を覚えたのは動機の部分である。

 処女や若者を好む邪神や悪魔の類は珍しくない。しかし、目標の殺人鬼は老人だけを狙うという。異常性癖の持ち主という見解が寄せられてはいるが、それにしたって皮膚に限る必要は有るのだろうか。

「有力情報だけでも欲しいそうですよ。最後に襲われたのはこの近くの村です。気晴らしに調査でもしてみたらどうです?」
「そうだな、ここに居てもお前に扱き使われるだけだろうし」
「いつ追い出してあげても構わないんですよ」
「日暮れには帰る」
「はいはい。帰りに自分用の耳かきを買ってくるのをお勧めします」

 最後は聞かなかったフリをして長谷部は外に出た。長雨の鬱憤を晴らすがごとく、夏の日差しがじりじりと肌を焦がす。炎天下で汗を流しながら長谷部は思う。夏で良かった、と。ヒトですら目映いと思う光の下では、吸血鬼など到底歩けはしないだろう。少なくとも昼の間は燭台切が長谷部を追ってくることはない。
 長谷部の頬を水が伝う。これだから暑いのは嫌いだ、と長谷部は汗を拭うより先に鼻を啜った。

 被害に遭ったという村で聞き込みを済ませ、特に何も得られないまま周辺を調査する。実りの無さに辟易としてきた長谷部は、街道から反れて森の中に足を踏み入れた。

(さっさと報告を終えれば、もっと割の良い仕事を充ててもらえただろうに)
 小夜の調査の段階で予定していた仕事は、日数経過で他の退魔師に回されてしまった。これに関しては宗三も生活が懸かっているので文句は言えない。
 そもそも、燭台切の城に居た頃は衣食住の全てを保障されている特別待遇だった。あそこでの贅沢が依頼一回分で賄えるものでないことは確かである。

 さらに言うなら、あの城で数日を過ごさなければ、長谷部は一生養父に関する真実を知らされずにいたかもしれない。燭台切が自ら打ち明けるとは思えなかった。あの男は、長谷部の生涯を通して仇役を演じることを受け入れていたのだ。

(……気を抜くと、アレのことばかり考えてしまう)
 自覚は有っても長谷部は燭台切に会うつもりは二度と無かった。吸血鬼には短い時間かもしれないが、それでも十五年に渡って茶番に付き合うのは面倒だったろう。燭台切はいい加減解放されなくてはいけない。いずれ教会も誰かに托し、自分は街から離れるべきだろう。

「ん?」
 今後を考える長谷部の前に倒れた藪が現れる。その倒れ方も何かに轢かれたような跡が有って、この付近を誰かが最近通ったのは明白だった。残っている線は一本のみだが、それは奥深くまで続いていると判る。長谷部は警戒を怠らず、何者かの足取りを追った。

「何だこれは」
 辿り着いた先では自然にできただろう洞穴が口を開けている。しかし長谷部の関心は隧道ではなく、その手前に置かれた車に注がれた。

 いや本当に車なのかすら長谷部には判断がつかない。銀盤を黒い皮のようなもので包んだ車輪に、鞍のような部品とからくりが複雑に組み合わさった外観。およそ長谷部の知る車とはかけ離れた様相をしている。念入りに観察してみても得るところは無く、長谷部はひとまず洞窟の調査を優先することにした。

 突き出した石筍から雨水が滴り落ちる。ランプを掲げれば、岩盤を覆う苔や茸の他に、複数の足跡が浮かび上がった。そのうち最も新しいだろう跡は奥にのみ向かっている。ここまで一本道だった以上、鉢合わせる可能性は十分に高い。いつでも抜けるよう鯉口を切り、長谷部は慎重に歩を進めた。
 曲がり角を過ぎたところで前方が急に広くなる。通路の先が開けていると知れたのは手燭の賜物ではない。ろくに日の届かぬ穴蔵を照らすのは、今も燃え続ける薪の灯だ。長谷部の視界に火の番らしき人影はいない。

 広場に出るなり、長谷部の首元に鋼が突きつけられる。それと同時に長谷部もまた相手の胴に刃をぴたりと添えていた。予期された奇襲ほど対処しやすいものもない。長谷部にとって意外だったのは襲撃者の反応の方だった。

「お、結構はえー動きすんな。いいねえ、気に入ったよ」
 場に似合わぬ明るい調子で言い放つや、男はあっさりと剣を引いて休戦を主張する。話し合えるに越したことはない。長谷部も否やは無く、得物を鞘に収めた。

「あんた冒険者か? 残念だけどよ、ここには賞金首も宝の山もなーんも無いぜ」
「ごろつき崩れと一緒にするな。俺は退魔師で、近くに出たらしい殺人鬼の足取りを追っている」
「おっと、同業者か。名前は? ちなみに俺は豊前だ」
「長谷部だ。冒険者ならともかく退魔師とかち合うのは初めてだな」
「俺はそんな大層な肩書きは持ってねえけどな。でも本職ならちょうどいい。ちっと一緒に奥の様子を見てくんねえか。俺どっちかっていうと肉体労働専門なんだよ」
 青年は出会い頭に凶器を突きつけ合ったことなどお構いなしらしい。人懐こい笑顔で手招きする男に毒気を抜かれ、長谷部も促されるまま豊前に付いて行った。

 立ちこめる臭気に長谷部は思わず顔を顰める。腐肉を交えた血溜まりに近づくほどに、そのおぞましい残り香は強くなった。
 犯人の正体を吸血鬼と疑ってもみたが、彼らが貴重な食糧をこれほど乱雑に扱うはずがない。呪術の痕跡も見当たらず、長谷部が現場を検めても手掛かりらしい手掛かりは見つからなかった。

「……よく判らんな。確かなのは吸血鬼の仕業じゃなさそうってことだけだ」
「なして?」
「あいつらはこんな食い散らかすような真似はしない」
「ふうん。じゃあ欲しいのは血じゃなくてやっぱり皮なんだな」
「だな、全く以て理解が出来ん嗜好だが」
「何か理由が有んじゃねえの。たとえば皮が必要なのは吸血鬼じゃなくて、そのペットとかさ」
「どうしてそこで吸血鬼が出てくる。あれ以外にも血を吸うモンスターなんていくらでもいるぞ」
「吸血鬼だ。そこは間違いねえ」
「随分な自信だな。知り合いが噛まれでもしたか」
「想像に任せるよ。少なくとも俺の探してる吸血鬼は老人の皮が必要らしい。でも奴が血を吸うのはやっぱり若い連中からだ」

 軽薄な印象から一転し、豊前はしごく真面目な顔つきで標的について語り始める。柘榴色の双眼から並々ならぬ執念を感じ、長谷部はそれが己にとっても馴染み深いものだと気付いた。

 あれは復讐者の目だ。怨敵の首級を挙げ、その血で以て親しき者への贖いとする狂気に憑かれた者の目だ。昨日までの長谷部なら、豊前を同胞と見なし、その志に強く共感したことだろう。今の長谷部はひたすらに空虚だった。男の覚悟を知っても響くものが無い。

(協力できたら良かったのにな)
 殺人鬼の正体は噂こそあれども確証には至ってなかった。豊前が仇の吸血鬼と知りながら情報を売らないのも、己の手で決着をつけたいからだろう。その情熱にどうにか一役買ってやりたいと、長谷部は屍肉で穢された地面に触れた。

 ――くにしげ。

 弾かれたように飛び上がった同行者に豊前は首を傾げた。いかにも気丈そうな男の目は焦点が合っておらず、肩が小刻みに震えている。駆け寄って無事を確かめるも、歯の根も合わぬ長谷部には真っ当な返事など期待できない。豊前に判るのは、この居るだけで気落ちするような空間から早く立ち去った方が良いということだけだった。

 燭台切が目を覚ましたとき、長谷部は既にいなかった。城の中を回っても影一つ見当たらず、雨だろうと構わずに探しに走った。

 長谷部は思い詰める性格である。騙していたのは燭台切の方じゃないか、と開き直れる図太さが有れば良かった。良くも悪くも彼は潔癖な男だった。精神的に参ってる状態で一人にすれば最悪自殺にも及びかねない。少なくとも燭台切には二度と会おうとしないだろう。

 水を吸った身体が次第に重くなる。夜といえども雨は吸血鬼の能力を著しく下降させた。野生の動物や下級の魔物に後れを取ることは無いが、全快時の動きとは比べものにならない。森を探し回り、大声で呼び掛け、教会に辿り着く頃には東の空が白み始めていた。

 教会の扉は施錠されている。当然燭台切は鍵など持っていないが、一度は招かれた家、霧になれば易々と中に侵入できた。
 くまなく探し歩くも、教会に人の気配は無い。日の昇った空は明るく、夜明けまでの土砂降りを忘れさせるほど澄み切っていた。疲弊した吸血種が出歩くには外は眩しすぎる。仕方なく日中の探索は諦め、燭台切は半ば倒れ込むようにベッドに身を沈めた。

 シーツからは甘い匂いがする。それが長谷部のもので、ここが彼の私室だと気付くのに燭台切は若干の時間を要した。この部屋を選んだのは無意識でのことだった。長谷部への執着がいかに大きくなっているのか、燭台切はまざまざと思い知らされた気分である。

 長谷部は燭台切の弟分であり、友人の忘れ形見だった。片や裏切られ、片や憎まれようと、燭台切には三人で過ごした日々が何よりも大切で愛おしい。長谷部の傍にいるのも、その残照を護りたいがためだと思っていた。

 だが実際はどうだろう。長谷部が独り立ちしてからも燭台切はあれこれと世話を焼き、何かと理由を付けては彼の生活に干渉した。退魔師として研鑽を重ねる長谷部を見て、その努力が全て自分のために為されていると思うと、背徳的な悦びに心が満たされた。たまに長谷部が苦戦をして命からがら帰ってきたときは、彼を傷つけた者を八つ裂きにしたい衝動に駆られ、同時に白い肌から匂う血の誘惑に気が狂いそうになった。これが被保護者に向ける感情であるはずがない。

(起きたら、また探しに行こう)
 限界を迎えた吸血鬼は目を伏せる。昼の象徴は高く昇り、魔性すら灼く光をさらに強めていった。

 気怠さに任せて寝ること十数時間、燭台切に覚醒を促したのは夕刻を告げる虫の音だった。閉ざしたカーテンの隙間からはまだ西日が漏れている。健常時を十とするなら、今の燭台切はせいぜい三か四ぐらいの回復具合だろう。

(どうせ夜になれば治る)
 少しの躊躇いもなしに燭台切は腰を上げた。もしや長谷部が帰ってはいまいかと全ての部屋を見て回る。空振りが続く中、彼と初めて出会った聖堂の戸を開ける。長い留守のために埃を被っていた講壇には人影が有った。

「長谷部く」
 喜悦を滲ませた声は語尾で虚しく消え失せた。ある意味では誰よりも相応しく、誰よりも有り得ないはずの人物が聖堂の中央に陣取っている。

「しょくだいきり」
 その老父は舌っ足らずに燭台切を呼んだ。友人との再会を純粋に喜ぶ彼は、十五年前の姿と何ら変わりがない。唯一漂う腐臭だけが男の死を物語っていた。

「何故、君がここにいる」
 震える拳を握りしめ、吸血鬼の王は剣呑な声で問い掛ける。対する死者は聞こえているのかいないのか、無邪気に笑いかけてくるばかりだった。

「……君をここに連れて来たやつがいるんだろう。見ているなら顔を出せ」
 金色の瞳が忌々しげに遙か頭上にあるバラ窓を睨め付ける。視線そのものが呪いに近い吸血鬼は、殺気だけで不可視の同族を燻り殺そうとした。

「おっかねえなあ。オレだってちゃんと家主に招かれた正式な客人なんだぜ、手加減してくれよロード」
「その家主に姿も見せない不作法者を客人と認めろって言うのかい」
 降り立った小柄な男が神父の横に立つ。その下卑た表情からは、燭台切を王と認めながら値踏みするような不遜さがありありと滲み出ていた。

「胸糞悪い臭いがすると思った。彼の皮膚は生者から剥いだものだな」
「そうだよお。オレ割と友達想いだからさあ、親友のお肌のケアは欠かしてねえのよ」
「何が親友だ。死してなお尊厳を踏みにじろうとする男を誰が友と呼ぶものか!」
「ハー? 何それ、勝手な価値観押しつけないでほしいんですけど。少なくともこいつはヒトを辞めてでもお前らと一緒に居たかったんだぜ? その気持ちをちゃんと汲み取ってあげてこその親友だろ」
 男は神父の肩に顎を載せ、さらに舌を出して挑発した。

 燭台切は己が貶められることにさほど抵抗は無い。ただ一度友と認めた相手に対する中傷は別である。燭台切は腸が煮えくり返る思いだった。親友を名乗りながら、その親友の品格まで落とすような発言と行為を恣にする同族など、断じて許しておけなかった。

「ああ、解った。君には話すだけ無駄だ。――これ以上は耳が穢れる」

 燭台切の影が俄に広がり、無数の蝙蝠となって標的の背を襲う。振り向く暇さえ与えられず、男は黒々とした床に叩きつけられた。生まれて初めて蹂躙される側の立場になり、男は凡百の吸血鬼とロードとの差を嫌でも実感した。聖堂の床全てを覆い尽くす影全てが燭台切の間合いだとすれば、男に逃げ延びる術は無い。

「さっさと僕の友人を解放しろ。十数えるうちに誓いを立てるなら、命だけは保障してやる」

 一歩一歩、ゆっくりと、だが確実に死が迫ってくる。男は痛みと恐怖に打ち震えながらも、何とか活路を見出そうとした。彼はまだ死ねない理由が有る。潰された喉がひゅうひゅう、と乾いた音を立てた。助けて、という声にならぬ叫びは確かに届いた。

 銀の燭台が吸血鬼が王の背を貫いている。骨身が溶ける激痛に絶叫が上がった。今この場に両の足で立っているのは、右手を聖銀で腐らせた神父一人だけである。相も変わらず微笑を貼り付けたまま、翁は親友に左手を差し伸べた。唖然としていた男も、九死に一生を得たことに気付き、慌てて友人の手を取る。そこから先は、ただがむしゃらに走り続けた。

 男は外の空気がこれほど美味だと感じたことはなかった。開け放たれたままの聖堂からは、蝙蝠の一匹も飛んでくる気配は無い。満身創痍になりながらも二人は何とか生を繋ぎ止めることができた。

「だい、じょうぶ?」
 神父は真っ先に友人の具合を尋ねた。彼の右手はもう完全に壊死している。二度と治らない翁と違って、吸血鬼は既に潰れた喉も切り裂かれた肌も元に戻っていた。

「こんくらい何ともねえよ。今日は帰ろうぜ。国重には、また今度会いに来ような」
 男の言葉を聞き、神父は親友の手を握った。表情を失った彼が伝える「嬉しい」の合図に、吸血鬼はらしくなく眉をひそめた。本当にこのままで友の願いを叶えられるのだろうか。漏れそうになる弱音を呑み込み、男は親友を連れて夜のしじまに消えていった。