仲間はずれの蝙蝠とひとりぼっちの聖職者 - 6/7

 

 夢と現の間を彷徨っている。凪いだ海を舟で行くような心地だった。穏やかな揺れに身を任せていた燭台切だが、木枠の軋む音が耳に入って薄らと目を覚ました。高い鼻梁がふにふにと何度も柔く潰される。燭台切は伸ばした左腕で犯人を確保し、残る右手で悪戯な手首を捕らえた。

「おはよう長谷部くん……朝からなに可愛いことしてるの」
「おはよう燭台切。もう夕方だぞ」

 燭台切の上に覆い被さった長谷部が薄笑いを浮かべる。指摘されて外に視線を遣ると、長方形に切り取られた空の大部分が茜色に染まっていた。

 寝台から下り、身繕いをする燭台切の髪を長谷部が梳かす。鏡に映らない燭台切を気遣ってのことだが、癖毛の始末に苦戦しているらしく櫛を動かす手に迷いが有る。蝙蝠さえ出せば燭台切一人でも事足りるのだが、悩む長谷部が可愛いという理由で敢えて口出しはしない。いつもより時間を掛けて格好を整えた頃には陽が没し、世界が影の中に呑み込まれていった。

「燭台切は手を出すな」

 蘇った神父について情報を交換し、長谷部が始めに宣言したのがこの文句である。借りの有る燭台切としては頷きかねる主張だったが、長谷部の心境を思うと安易に否定もできない。燭台切が昨夜この場に居合わせたのは偶然だった。生前に交流が有ったとしても、老父がわざわざ教会に戻ってきた以上、その目的は長谷部にあると見て間違いない。

「主がヒトの道から外れたのは俺が原因だ。なら俺が決着をつけるのが筋というものだろう」
「君の意見は解らなくもない。が、納得するかどうかは別だよ。話し合いで事が収まらなければ、僕は今度こそ彼を殺す」
「馬鹿げたことを。そう何度もお前にばかり責を負わせてなるものか。俺はもう子供じゃない。それに主君の過ちを正すのも臣下の勤めだ。あの方がこれ以上罪を重ねるというのなら、主のために磨いた腕で、主を斬って捨てる。それくらい覚悟はとっくについているさ」

 そう言って長谷部は愛刀を燭台切の前に掲げた。凛とした眉宇に決意が漲っている。短剣を振り下ろすのに躊躇していた長谷部ではない。確かに今の彼ならば養父を葬ることも可能だろう。長谷部の選択に燭台切もとうとう諾と返した。

 もし長谷部が討ち損じるようであれば、当初の予定通り自分が業を負えばいい。長谷部が養父に引導を渡した暁には、親殺しの咎に苛まれる彼を支えていこう。結局のところ、いずれが手を掛けるに関わらず、これは燭台切と長谷部二人の戦いだった。

 ランプを灯し、嘗て教会の主だった人を待つ。聖堂は昨晩の余韻など一つも残さず、ただ静寂だけが有った。燭台切を却けたといえども相手の被害も甚大であり、昨日の今日で来るかは解らない。ただ長谷部は洞窟で神父の声を聞いていた。自分が呼べば彼は必ず応えるだろうという確信が有る。今夜こそ決着がつく。そのための準備を済ませた上で、今長谷部は燭台切と共に壇上に立っていた。

 重たげな音を立てて正面の扉が開かれる。途端に匂いだした異臭に長谷部は顔を顰めた。月明かりを背にした神父は、右手どころか顔以外の皮膚が全て腐りかけている。今は食人鬼でも元はただのニンゲンである。燭台切のような再生能力を持たない彼は、銀の毒が回るのを止めることはできなかった。こうなると友人によって貼り付けられた顔の皮膚だけが浮いて見える。怪物同然の姿をしながら、それでも神父は笑みを絶やさなかった。

「く、にしげ」
 ずる、と脚を引き摺り神父は中央の通路を歩み出す。長谷部は掌中の得物を握りしめ、なるべく平常心を保とうとした。

 神父は長谷部らの刺々しい視線など全く意に介せず、ただ息子だった青年に呼び掛け続ける。ここに来ても未だに老父の目的は判らない。或いはもう意志など疾うに亡く、長谷部を追うのも生前の習慣に従っているだけかもしれない。

 長谷部は目の前の憐れな老人をこれ以上見ていられなくなった。柄に手を掛け、儀式めいた動作で退魔の刀を引き抜き、肉の崩れた鬼に突きつける。切っ先の手前まで行き着いた老父が足を止めた。あ、あ、と破損した喉から嗄れた声らしきものを絞り出す。断末魔の叫びくらいは聞いてやろうと、長谷部は刀を突き出したまま神父の言葉を待った。

「もう、ないて、ないか」

 長谷部は己の耳を疑った。今この食人鬼は何と言ったのだろう。聞き違えでなければ、それは恨み言や背徳の誘いではなく、長谷部を心配する内容だったように思われる。

「このあいだ、いっぱい、ないただろう。きこえた、くにしげのこえ、きこえた」

 長谷部はここ二日間の記憶を振り返った。十五年前の真実を知らされたとき、燭台切が死ぬかもしれないと恐怖したとき、どちらも頑是ない幼子のように泣きわめいた。無論、そのとき近くに神父の姿は無かったし、見られていたということは無いだろう。

 しかし声だけならば、長谷部が神父の呼び掛けに気付いたように、神父にも長谷部の啜り泣く声が届いていてもおかしくはないのではないか。

「かなしいこと、あったのか。いたいこと、されたのか」

 神父が死んでから十五年もの月日が流れている。人が変わるには十分な時間であり、喜怒哀楽の情動が大いに揺さぶられることだって当然少なくなかった。それでも長谷部が堪え難い苦しみに挫折し立ち止まることは無かった。彼の仇と称する男が常に長谷部を見守っていたからだ。だからこそ、長谷部が燭台切のために泣くときは、反って抑えが利かなくなった。

 燭台切と離れる苦しみなど長谷部以外の誰も知らないはずだった。実際には、こうして亡き養父が文字通り自分の身も省みずに駆けつけてくれた。その長谷部に武器を突きつけられてなお、彼はどこまでも息子のことを心配し続けている。

 金属音が聖堂に響く。手に力の入らなくなった長谷部が刀を落として、わなわなと震えていた。肩をしゃくりあげ、二つの藤色を潤わせ、はくはくと口を開閉し、決壊しそうになる感情を必死に抑え込む。ふらつく身体は燭台切に支えられた。

 長谷部と神父を遮る刃物は無くなったが距離は埋まらない。醜い姿形になった自分を国重は嫌がるだろう――ほぼものを考えられなくなった頭でも、神父は息子のためにならないことは避けたかった。

「いまは、どうして、ないているんだ」
「だっで、おれ、おれなさけなくて……あるじがっ、もう、ひと、ひとじゃないからと、きろうとして……! あるじのこと、なにも、わかってながっだぐぜに……!」
「いいんだよ、わたしもう、しんでる、から。わたしのために、なかなくても、だいじょうぶ」
「でも、でも……!」
「むすこがないていたら、ちちおやが、たすけるのは、とうぜん、だろう」

 長谷部は一度も神父を父と呼んだことはない。内心では親と慕っていても、拾われた身だから、仕事を手伝わなくては追い出されるから、あまりにも自分とは年の離れた彼を父と呼んでしまえば、来るべき別離のときが余計に辛いから、とその呼び方を避け続けていた。神父はずっと、長谷部を息子として可愛がってくれていたのに。

「父さん」

 目元を服の裾で乱暴に拭い、長谷部は一歩前に出た。右腕は消失し、骨に皮が載っているだけの父の左手を掌で上下に優しく挟み込んだ。

「俺は、もう大丈夫だよ。燭台切が鍛えてくれて、もう大概のことは一人でこなせるようになった。辛いときも、悲しいときも、燭台切がいてくれる。もう一人で泣かなくても良くなったんだ。だから――父さんも、もう休んでいいんだよ」

 老父の窪んだ眼窩に目を合わせ、長谷部は生前看取れなかった父の長い人生を、今度こそ労った。神父が息子の手を弱々しく握り返す。それが「嬉しい」の表現であることを長谷部は知らなかったが、彼が見た父の最期は幸せそうだった。

 教会の傍近くの樹上に一匹の蝙蝠が留まっている。闇中でこそ真価を発揮する双眸は、親友が偽りの生を終え、灰になった一部始終を目の当たりにしていた。滑空し地に降り立った獣は青年の姿を取る。親友の願いは叶えた。もう彼には忌々しい教会に居る必要など無い。

 砂利を踏みしめるたび、胸の内を占める空虚さに気付かされる。今後はリスクを冒してまで定期的に老人を襲わなくてもいい。趣味の研究だってこれからはやりたい放題だ。前向きに今後のことを考えるも、それらが男の無聊を慰めることは終ぞ無かった。

 辻にぶつかったところで青年は歩みを止めた。ろくに灯りも無い夜の街道に、車とも椅子ともつかない妙な置物に座っている男がいる。同族の匂いはしないが、人外と称しても納得するほど顔の造形は整っていた。

「月が綺麗だな」

 美しい顔をした男が語りかけてくる。肯定も否定もせず、青年はただその場に佇立した。謎の男に興味を惹かれたわけではない。愛想良く笑っているこの男に、青年を逃そうという気が無いのである。視界に入れたときより、吸血鬼は男から漏れる殺気に気付いていた。たかがニンゲンと侮っていたのも有る。しかし、それ以上に彼には逃げようという気力すら起きなかった。

「遅くまでお仕事ご苦労様でっす。ところでその変な椅子なに? 新手の大砲?」
「はっはー、これはなバイクっつって、馬より速く走れるすっげー車だ」
「へーかっけーじゃん。ちょっと見せてもらっていい?」
「後でたっぷり見せてやるし乗せてやっから、ちーと待ってくれ」
「はは、いいよいいよ。どうせオレ暇になっちゃったもん。いくらでも待つよ」
「や、そんなに時間かかんねーよ。だって俺、はえーし」

 暗夜に黒い飛沫が舞う。豊前が化生の首を断つのには、一太刀有れば十分だった。おそらく、この吸血鬼は松井のことなど覚えてもいないだろう。もっとも悪党の命乞いや懺悔など聞くだけ無駄である。

 起きてしまった悲劇は変えられない。それならば未来だけでも明るく楽しいハッピーエンドを目指すべきだろう。

 前だけを見るのが得意な豊前は、拾った生首を約束通りバイクの荷台に載せてやった。これを相棒に届ければ、地下に暮らす友人に光を取り戻してやれるかもしれない。

 長雨は止んで、日も落ちた。そろそろ長いこと留守にしていた桑名も帰宅していることだろう。愛車に跨がり、豊前は故郷に向けて意気揚々とハンドルを切った。