僕らはだるまに祈らない - 2/6

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 襟の合間に指を入れ、濡れたシャツを引き剥がす。微風が肌を撫で、暑気を紛らわせたのはほんの一瞬のこと。次第に服をぱたぱた繰る腕が重くなってきた。試みに手を止めれば、瞬く間に気怠さが肩より下を覆い尽くす。

 地上に落ちる木陰の輪郭を辿った。確かに俺の身体は天然の庇に隠れているはずなのに、全く以て涼しくない。当然だろう。七月の日差しが小麦色の肌を生む土壌でなければ、世にエアコンなんて文明の利器は存在しない。
 現代っ子の自分が炎天下の校舎裏にいる理由は一つ。今まさに修羅場の真っ最中だろう幼馴染みを迎えるためである。

「けじめをつけてくるよ」
 普段の剽げた態度を払拭し、男は朝から重々しい決心を吐露した。長続きしないとはいえ、光忠はどの彼女に対しても誠実だった。自身の不貞が原因で別れ話を切り出すというのは、おそらく初めての経験だろう。

 数百人もの生徒を閉じ込めた箱で、誰の目にも触れず、二人きりになれる条件はかなり厳しい。畢竟、誰もが忌避する日中の屋外が選ばれたのは必然だった。

 光忠は口が上手い。数々の武勇伝を持ちながら、愛憎劇の主役として語り継がれないのも、あのよく回る舌のお陰だろう。
 今までよほど円満に別れてきたと見える。ならば今回もきっと要領よくやり過ごすに違いない。
 と、都合の良い考えを巡らせるのは、後ろめたさ故の逃避だと解っている。経緯はどうあれ、彼女からすれば俺は横から恋人を掠め取った泥棒猫でしかない。
 火に油を注ぐだけだと同伴は避けたものの、結果怒りの矛先が光忠にのみ向けられやしないかと、さっきから気が気がじゃなかった。

「メロドラマ通り越して火サス案件に発展しないだろうな……」
「大丈夫だよ。学生同士のカップルなんて、割と勢いでくっついたり離れたりするからね」
「ほとぼりが醒めた頃に膨らんだ腹を撫でて再登場するパターンは」
「そんないい加減なセックスしてません」

 いつの間にやら隣に待ち人が立っていた。先日抜かずの中出し三連戦を決めた幼馴染みだが、その麗しい面貌には傷一つ認められない。張り手の数発は受けていると踏んでいたのだが、どうやら読みは外れたようだ。

「待たせてごめんね。昼休みも終わるし、戻ろうか」
促され、壁から背を離す。人気のない裏庭から外廊下へ移ろうとして、腕を取られた。

「放課後まで少し補給」
 一瞬だけ触れた唇がとんだ戯言を抜かす。降りしきる蝉時雨は忽ち動悸で掻き消された。
 不意打ちへの抗議も含め、相手の下唇に歯を立てる。狙い通り、むかつくしたり顔が歪んで、ほくそ笑んだ。
 何が少しだ。我慢してるのは自分だけだと思うなよ、色男。

 俺の警戒を余所に、光忠の周囲で不穏な影がちらつくことは無かった。部活にも今まで以上に精を出し、大会に向けて共に邁進する日々である。
 一線を越えたところで、俺たちの生活は以前とさほど変わらない。ゲームや趣味の話題で盛り上がり、光忠が作った料理の品評をし、学校の課題をこなす。せいぜい一連の流れにセックスが追加されたぐらいで、拍子抜けするくらい俺たちの在り方は今まで通りだった。

「なんだかなあ」
「なんだい? 触り方に不満でもあったかな?」
「長船くんの保健体育は常に満点なので、尻を揉まなくてもよろしゅうございます」
「なら七勝九敗で負けが込んでるのが気に入らない」
「そっちも三連勝して精算する予定だから気にしてない。ただ、お前とこういう仲になったのに、やってることが驚くほど変わらないのがな」
「なるほど。恋人らしいイベントに餓えてるのか」
 隣からまろび出た気恥ずかしい解釈に耳を疑う。反論のための文句を練るも、上手い言い訳が思いつかない。まずいぞ、この状況での沈黙は肯定に値する。

「こら、否定できないからって脇腹を突かない」
「まるで俺がいちゃつきたくて仕方ないみたいな言い方するから悪い」
「僕は長谷部くんといちゃつきたくて仕方ないけど? はいはい、照れくさいからって布団に潜らない」
首根っこ掴まれて防空壕から引きずり出される。完全に扱いが猫だ。いっそ鳴いて誤魔化せないものだろうか。
「……まあ、俺もやぶさかではない」
「まったく素直じゃないなあ。そういうところも含めて可愛いんだけどね」

 光忠が長い腕をサイドテーブルに伸ばす。しばし棚を漁って出てきたのは真新しい雑誌だった。
「もうすぐ夏休みだ。恋人らしい思い出を作るには絶好の機会だよ」

 ぱらりと開かれたページには、近隣のレジャー施設が複数紹介されている。発売されて間もないのにめくり癖がついているのは、つまりそういうことなのだろう。

「人目を避けるとしたら、やっぱり遠出になるよな」
「だろうね。不安かい?」

 俺たちはこの町に縛られている。親から言いつけられているわけでも、外界に忌避感があるわけでもない。
 幼少期より持ち合わせている、本能的な恐怖のようなものだ。この感覚を共有できるのは、光忠をおいて他にいない。小中の修学旅行のときも周囲が囃し立てるのも構わず寄り添い、互いの鬱屈を分かち合った。あのとき握りしめた手の頼もしさを、俺は覚えている。

「いや、お前がいるなら大丈夫だ。知り合いなんて一人もいない場所まで出て、思う存分いちゃつこう」
「素直になった長谷部くんもとんでもなく可愛い……」
「感慨に耽るのはいいが、尻を揉むんじゃない」
「そうだ、今から夏休みの前哨戦を始めよう」
「始めない」
 前哨戦は二連敗という惨々たる結果に終わった。この屈辱は必ずや夏休み中に晴らしてみせる。

 人、人、人。溢れかえらんばかりの人に囲まれている。バス、地下鉄、新幹線が通る駅構内は広く、八月上旬という時期もあって私服姿の学生も多い。俺たちが雑踏の中に紛れ込むのは造作もなかった。

 ありふれた観光客でしかない二人組が衆目を集めたのは、ひとえに非現実的な色彩と奇声とが原因である。
 嫌悪や動揺を伝える喧噪が大きくなっていく。実行犯が警官らに捕獲され、鮮血を垂れ流す患部が布で覆われようと、ある種露悪的な好奇心は光忠から目を離そうとしなかった。

 ――お前のせいだ。お前さえいなければ、私は捨てられなかったのに。

 陳腐を極めた恨み節が耳に延々こびりつく。女の小刀が狙ったのは昔日の思い人ではなく、彼に同行している青年だった。いや女は二人の関係に気付いていたのかもしれない。別れて以来、恋人が別の女と親しくしている様子は無かった。代わりに長船光忠の隣を独占していたのは、嘗て親友と紹介された同学年の男だった。

 ただの親友は、人目を忍んで唇を合わせたりしない。女は自分が憎むべき相手を知った。日に日に募る狂気は容易に理性と思考を腐らせる。

 地元より電車で一時間半。遠出した甲斐あって、擦れ違うのは見知らぬ顔ばかりだった。正直油断していた。凶刃が俺を襲ったのは、売店の外で光忠の精算を待つ、本当に僅かな間だった。

 斬られた腕が熱を孕む。咄嗟のことで受け身も取れず、よろめいた俺はワゴンケースに衝突した。籠から商品がなだれ落ち、けたたましい音を立てる。構内を行く人々の視線が一点に集中した。
 誰のものとも知れぬ悲鳴があがる。混乱の中心で血に濡れた刃先が振り下ろされた。皮膚もろとも肉が削られる。俺も、女も息を忘れた。両者の間に割って入った影が倒れる。右目を押さえ、痛々しい雄叫びを発しているのは光忠だった。

 傷ついた。光忠が、俺の代わりに、俺を庇って、俺のために血を流している。

「あ、ぁ……ああああああああああああああ」

 サイレンが鳴り響き、救急隊員が慌ただしく俺たちを包囲する。促されるまま車内へと乗り込み、騒然とする現場を去った。

 非常灯の朧気な光が足下を照らす。光忠の手術はまだ続いていた。長船のご両親もこちらに向かっている最中らしい。彼らは俺を責めなかった。

 院内は異様なほど静まり返っている。扉を一枚隔てた向こう側では、光忠が生死の境目を彷徨っているというのに、長廊下は物音一つしない。車椅子も、杖突く患者も、彼を支え、案内する看護師も見当たらない。
 生憎と、その場の違和感に気付くには、心身共に疲弊しすぎていた。また大仰に巻かれた腕の包帯が自罰的な思考を強める。仮にも武道を修めながら、脅威を退けることもできず、己の大切な者を守ることすらできなかった。これを惨めと言わずして何と言うのか。

 歯を食いしばる。口内に鉄の味が滲んだ頃、突として聞こえた足音が静寂を破った。
 項垂れた俺の視界に緑色のスリッパが入り込む。通り過ぎるとばかり思った爪先は、椅子の前で角度を変えた。

「ご友人を救いたいとお思いですか」
 白衣の裾が僅かに揺れる。俺に質問を投げかけてきたのは医師のようだった。

「長船光忠さんの右目の傷は網膜にまで達していました。一命は取り留めるでしょうが、失明は確実でしょう」
 素人目でも判ることだった。光忠の上瞼から走る傷は相当深かった。改めて専門家の見解を聞かされ、一縷の希望すら抱く余地も無くなる。

 こんなはずじゃなかった。内なる悔恨が訪れるだろう未来を否定する。どうして、と自問自答に沸き立つ声はどこか地に足がついていない。これは、今の俺が覚えるべき感情ではない。

「現代の医学では貴方のご期待に添うことはできません。しかし、ご協力頂けるのでしたら、ご友人が視力を失わなくて済む方法も無くはないです」
 過去の俺はきっと間違えた。その過ちとはいったい何なのか、どこで道を踏み外したのか、どうしてその選択を良しとしたのか。現在の俺には知る由も無いことだ。だからこそ、今を生きる俺は新たに提示された可能性を手に取る。

 鬼が出るか蛇が出るか、いずれの結果に終わろうとも構わない。どうせ光忠が片目を失う道より、最悪な未来は存在しない。

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 高校一年生の夏、火事に巻き込まれる。倉庫ごと俺を燃やそうとした男を切るも、今度は女子の恨みを買って刃傷沙汰に発展する。

 結論から言おう。光忠が女を知る前に関係を持とうと、親友の距離を保ちつつ周囲を牽制しようと、あれの右目を守り抜くことはできなかった。

 いじめの現場を目撃し、止めに入った際に負傷する。飲酒運転の車に跳ね飛ばされる。これらはほんの一例で、過去をやり直すたび多種多様な悲劇が光忠を襲った。
 無論これらの事故は偶然ではない。放火を企てた男も街中で俺を襲った女も、時間遡行軍の息が掛かっていた。凶行に用いられた小刀、不良が気弱な男子生徒を脅すのに使っていた匕首、およそ一般人が持つには不釣り合いな武器は、遡行軍の兵士が変じたものに違いない。

 奴らが執拗に光忠を狙う理由は、同士討ちと寝返りを期待してのことだろう。事実、俺は本来味方であるはずの鶴丸を切った。付喪神の自覚を取り戻し、嘗て俺たちを陥れた男が遡行軍の手の者だということにも気付いた。

 それにもかかわらず忌むべき讐敵に与したのは、過去に飛べる手段を欲したに過ぎない。事が成った後、光忠ごと脅威を除こうとしたなまくらは一掃した。
 晴れて自由の身である。俺は意気揚々過去へと飛び、光忠の右目を護るべく奔走した。ただ前述したように、状況は芳しくない。

 相手は八億四千万を号する大軍勢だ。その都度刺客を倒したところで、また次の刺客が送り込まれる。いたちごっこに付き合うつもりは毛頭ない。

 黒船の来航より数年後、片田舎の青年は自国の混乱も余所に、粛々と生業に従事していた。山菜を積んだ籠を背負い、坂を下る。獣の姿は無く、人里も近い。気候も穏やかで、青年の足取りも自ずと軽やかなものになった。
 異変は急に訪れた。日が陰り、夜と見紛うほどの暗闇が広がる。突然の凶兆に青年の足が止まった。
鳥たちが慌ただしく飛び立ち、獣の遠吠えが木霊する。山中の混乱は已まず、青年はいよいよ恐怖に抗えなくなった。
 黒い霧が晴れる。徐々に明瞭になりゆく視界の端で、青年は巨大な影を見た。身の丈は十尺を超え、頭部には二本の角を生やし、およそ人に扱えるとは思えぬ長刀を肩に担いでいる。伝承に聞く鬼の風貌と非常に似通ったそれは、禍々しい目つきで人の仔を睥睨していた。

「ひッ……!」

 化生との遭遇に腰を抜かし、青年の口から声にならぬ叫びが漏れ出た。戦きつつ見上げた巨躯がぐらりと揺れる。縦に両断された穢刀は地に伏し、血肉で辺りを汚すこともなく塵と消えた。
 腕を振るい、刀身にこびりつく赤黒い塗料を払った。綺麗になった武器を収め、当惑する青年の周りを検める。鍛える途中の鋼の棒は、どこにもない。

 期待した通りの戦果にうむと頷く。光忠を護るために俺が出した答えは、二振りが主の先祖に喚び出されるのを防ぐ、だった。審神者との繋がりが希薄になることで敵に狙われるなら、本丸から久しく離れるような事態を避ければいい。

 春も夏も秋も冬も、光忠と一緒に過ごしてきた。掛け替えのない大切な思い出だ。それすらも、あいつを護るためなら失ったって構わない。無かったことになったとしても俺が覚えている。

 漢字だらけの祝詞を二人で読んでは舌を噛んだこと、カナヅチの光忠に付きっきりで特訓したこと、逆に調理実習を控えて包丁の持ち方を教えてもらったこと、借り物競走で「お母さん」を引き、光忠を連れてゴールしたこと。一着を取れたのにあいつはえらく怒って、三日は口を利かなくなったんだったか。お前だって次の年に、「ガリ勉」で俺を引っ張っていったくせに。

 ……あれ、「くまさん」だったか。いやそもそも借り物競走なんてあいつ参加してたか。あいつ? あいつって――誰だ?

「あ、あの」
 訝しげな表情の青年から声を掛けられる。そうだ、通りすがりを装うにしても最低限の説明は必要だろう。

「助けて頂きありがとうございます御武家様」
「そんな立派なものじゃない。熊かと思って無我夢中で切りつけただけだ」
「それでもようございます。是非ともお礼をしたく存じますので、どうかご尊名の方をお聞かせ願えませんか」

 名前。謝礼を固辞するなら名乗りも不要だろうが、俺の意識はまず断る段階にまで至らなかった。まず以て彼の質問に答えられない。

 俺はいったい、どこの誰で、何のためにここにいるのだろう。

 大切なものを護りたかった。そのためなら何を犠牲にしても構わなかった。それだけ己の心を大きく占めていたはずなのに、顔も、声も、名前も思い出せない。
 胸にできた空白が消失の苦しみを嘆く。いやだ。忘れたくない。あいつが忘れてしまったとしても、俺だけが覚えていられたらそれで良かったのに。

「――くん」

 慈しむように名を呼んでくれた誰か。霞がかった記憶は決して像を結ぶことなく、虚無の波に塗りつぶされる。そうして取り残されたのは、名前も役目も忘れた一柱の付喪神のみだった。