僕らはだるまに祈らない - 3/6

■■■

 広々としたホール内は活気に満ちていた。僕らの本丸はまだ発足したばかりで、演練の相手も同じく駆け出しが多い。指南役としてベテランの本丸も参加しているが、編成はうちにいない刀が大半だった。唯一の例外は隊長を務めているらしい燭台切光忠ぐらいである。

「いやあ、こうして見ると面白いなあ。皆同じ顔なのに、本丸ごとに個性が出るもんだ」
 隣の鶴さんがひゅうと口笛を吹く。彼が指摘する通り、確かに同じ男士でも印象が違って見えた。

「あっちの鶴さんは保父さんみたいになってるね」
「この時期じゃどこも短刀が多いだろうしな。そういう光坊は揃いも揃って政宗公リスペクトが凄いな」
「そういう理由なのかなあ、あれ」

 繰り返すが、参加している本丸はどこも稼働したてだ。どの部隊も打刀が主力を担っており、大柄の刀は珍しい。お陰で体躯にそこそこ恵まれた僕は嫌でも目立った。
 集団で頭一つ抜けた黒髪を眺めると、誰も彼もが右の目を眼帯で覆っている。政宗公への憧れというなら僕も負けていないと思うが、この場で唯一、自分だけが両のまなこを表に晒していた。

「あれ、君は眼帯してないんだね」
 突然の声に鶴さんとふたりして飛び退く。思わず柄に手を伸ばしかけたが、僕らの背後を取った刀、余所の燭台切光忠は穏やかな笑みを崩そうともしない。練度の差は明らかだった。

「驚かせてごめんね。午後の演練は僕らの本丸が指南役なんだ。今は全体の様子を見て回ってる途中だよ」
「いや、こちらこそ変に警戒してすまなかったね。でも君ほどの熟練の刀がそう言うってことは、眼帯をしていない燭台切はよほど珍しいのかな」
「いないことはないけど稀だよ。惚気目的で敢えて見せてる輩もいたけど、まさか新刃くんはそんな軟派な理由で眼帯外してるわけじゃあないよね?」

 悪寒が背筋を貫く。口調こそ柔和だが、僕に問う声の節々に妙な圧を感じた。後ろめたいことは何一つ無いと誓えるものの、おそらく答え方を誤れば首が飛ぶ。僕は根拠もなく、死の危険をひしひしと感じ取っていた。

「惚気も何も、僕にこいびとはいないよ。そもそも顕現したときから眼帯なんてしてなかったし」
 僕の返事を聞き、歴戦の刀はふっと雰囲気を和らげた。相手の望んでいた答えだったかは定かでないが、少なくとも逆鱗には触れずに済んだらしい。

「眼帯をしてなかった? そのパターンは僕も初耳だ」
「へえ、じゃあ眼帯は標準装備なのか! 俺はこっちの光坊に見慣れちまってるから不思議な感じがするな」
「まあ個体差はどこの本丸にもあるからね。戦う分には支障なさそうだし、あまり気にしなくていいと思うよ」
 先の不穏な佇まいはなんだったのか、偉大なる先輩はすっかり素の気安さを取り戻していた。

「ところで惚気って何のことだい?」
「ああいうことだよ」
 鶴さんと雁首揃え、隻眼が示す先を望む。例のごとく眼帯をつけた燭台切光忠の傍らには、紫の装束を纏った綺麗な刀が立っていた。

「んん? あれは長谷部か?」
 どうやら鶴さんの顔見知りらしい。僕も色々な場所を渡り歩いてきたけれど、あの刀との面識はなかった。

「そうだよ、へし切長谷部。嘗て信長公に号を与えられ、黒田家に代々伝わってきた宝物中の宝物さ」
 解説する僕は何故か得意げだった。情緒不安定かな。

「あの刀と、人前で惚気るぐらい懇意になるって?」
「なるよ。どこの燭台切光忠もへし切長谷部への執着は尋常じゃないからね。口説きに口説いて、三月もすれば大体行き着くところまで行ってるよ」
「じゃあ、きみのところも目も当てられないぐらい熱々なわけだな!」
「はは。うちに来てくれたら、それはもう可愛がる予定だけどねえ!」
 どこか乾いた笑い声に僕らはそれ以上の追及を避けた。

 演練を終え、本丸に戻った僕は政府のデータベースを参照し、件の刀を探した。

 へし切長谷部。刀帳番号は一一八。信長公が茶坊主を手打ちにした際、膳棚ごと圧し切ったことが号の由来。煤色の髪に藤色の瞳を持ち、性格は苛烈だが審神者への忠誠は並々ならぬものだという。

 いかにも堅物らしい、真っ直ぐな双眸に目を奪われる。どうしてだろう、彼を見ていると胸が妙に苦しくなる。
 会いたい。話をしてみたい。あの透き通った瞳に己を映し、笑ってほしい。

 肘を突き、モニターに浮かぶ仏頂面を陶然と眺める。僕はこの日、見知らぬ刀に恋をした。

■■■

「祭り、ですか」
 鸚鵡返しになった僕の問いに老婦が頷く。御年七十を迎えたらしいが背筋は真っ直ぐと伸び、瀟洒な小袖を着こなす姿は老いを感じさせない。老舗の旅館を切り盛りする彼女は、女主人としての風格十分だった。

「ええ。歴史は浅いですが、この百年長船の家で欠かすことなく伝えられてきた行事です」
 確か主もそのような話をしていた。もっとも、彼からすれば二百年も昔の習わしで、記録で残っている以上のことは判らなかったそうだ。

「このような田舎では数少ない催し物になります。光忠さんも宜しければご参加下さい」
「お言葉に甘えて、貞ちゃんと一緒にお邪魔させて頂きますよ」
 研究熱心な学生がすべき模範解答を口にする。婦人は頬にえくぼを作って、満足げに居間を後にした。

 長船光忠。史学科の考古学ゼミに籍を置く大学三年生。この村に来た理由はフィールドワーク。弟の貞宗は専ら避暑目的で、気ままに観光を楽しむつもりのようだ。
 ――以上が、平成における僕らのプロフィールである。基本的に出陣・遠征では隠密行動を求められるが、今回ばかりは勝手が違った。

 先行調査で判明したのは、嘗てこの地で遡行軍の活動が観測されたという一点のみだった。敵の規模、目的は一切不明。威力偵察も含めて後続に全て丸投げである。限りなく面倒な案件だが、政府から直々のご指名とあっては是非もない。

 かくて僕らの本丸に白羽の矢が立った。通常なら新米に預けるような任務ではないが、そこは審神者の出自が関係している。

 彼の先祖は代々、とある神社を管理する家系だった。もっとも、山火事でご神体もろとも社が焼失してしまい、主の生まれた頃には逸話すら碌に伝わっておらず、正直眉唾物だったという。子孫にすら忘れられた田舎の神社こそ、件の遡行軍が出現した土地である。

 歴史に大きな変動は見られないが、放置するには少々気味が悪い。そうだ、身内の問題は身内に押しつけよう。このような思惑でもなければ、日課の鍛刀すら覚束ない本丸に政府がわざわざ打診する謂われは無いだろう。
 以上が平成へ遠征することになった経緯である。村の分限者である長船家は、同姓の誼か初日からとても懇意にしてくれていた。流れ者だった一族がいかにしてこの地に根を張ったのか、祭りでの長船の立ち位置とは何なのか。滞在二日目にしては、色々と興味深い話が聞けたと思う。調査の方針も固まりつつあった。

 長い坂道を制覇すると、次は百を超えるだろう段数の階に迎えられる。隣にいる貞ちゃんから「うへえ」と、辟易する声が上がった。

 高所、山岳。手足の容易に届かぬ場所ほど神聖視され、崇められるものだ。参拝する過程も修行と心得よ。便利さを追求する昨今、世から信仰が失われる要因を垣間見た気がする。
 左右に迫る竹林が青天を衝く。八月の陽光は枝葉に遮られ、石段にまだら模様を作るに留まった。梢の陰影が提供するなけなしの涼気さえ今はありがたい。

「こんな大層な場所に祀られてる神様ならさ、願い事も派手に叶えてくれなきゃ割に合わねえよな」
「今一番叶えてほしい願い事は?」
「この神社にバリアフリーの概念を導入する」
「神格落ちそう」
 雑談を挟みつつ、次の段、次の段と爪先を載せていく。ようやく頂きに社殿と思しき建物が見えてきた。
 生温い風が髪を乱す。何度目かの踊り場に至り、僕らは同時に足を止めた。

「貞ちゃん、どっちにする?」
「んーじゃあ敢えての右」
「オーケー、また後で」

 右から左、左から右と、互いの位置を入れ替え、各々竹林へ身を躍らせる。ヒトでは為し得ない速力で山中を駆けながら、追い縋る足が遠のく様子はない。左足を軸に反転、抜刀の勢いそのままに正面を切りつける。
 刃を交えた相手はすぐに飛び退いた。開いた間合いの先には太刀を構えた鎧武者がいる。悪い意味でお馴染みの風貌だが、立ち上らせている瘴気は未知のものだ。

(時間遡行軍じゃないのか……?)

 宿敵であろうとなかろうと、真剣を以て対峙していることに変わりはない。先手を打ったのは向こうだった。重装備を苦ともせず、武者が疾駆する。地面すれすれに浮いていた鋒が狙うは足、ならばと敢えて一歩踏み出す。

 骨が砕ける。振り抜かれるより早く振り下ろした一刀は、相手の眉間を深々と割り拓いていた。
 鮮血が中空に弧を描く。倒れ伏した屍体は腐臭を漂わせることなく、その身を尽く塵へと変えてしまった。
 血肉すら遺さない死に様は確かに遡行軍の兵に通ずる。平成の時代に、刀剣男士の存在を知る者が他にいるとも思えない。だとすれば、あの違和感はいったい。

 止めよう、考察は後でもできる。今は安全の確保と、仲間との合流が第一だ。

 納刀した武器を再び現界から隠匿する。微風に煽られ天上の青葉がそよいだ。首をめぐらし、残党がいないか神経を尖らせる。見つかったのは敵影ではなく、小さな御堂だった。

 竹藪に隠れて建つ家屋はいかにも古めかしい。注連縄を提げている以上、ここも神社の一部なのだろう。ただ不浄を祓い、周囲を清める力は、坂の上にそびえる社殿より余程強く感じられた。
 靴の底で小枝が折れる。仲間がいるだろう方角に背を向け、僕は無心で足を動かした。

 腐食の進む門柱をくぐる。世界を分かつ境界を越え、広がったのは書院造りを模した神域だった。宿主の心を映す空間に風化の二字は無い。畳は藺草の香りを薫らせ、黒檀の座卓は鏡がごとき艶を保っている。壁に空いた丸窓には格子が嵌まっており、差し込む斜光を細かく刻んでいた。彼は、日溜まりの中にあった。

 紫のカソックコート、白いピンタックカラーのシャツ、地鉄を彷彿させる煤色。伏せられた瞼の下にある瞳は、きっと淡い紫を湛えているに違いない。

「長谷部くん」

 呼びかけて、内心しまったと肝を冷やした。恋い焦がれた名を紡ぐ声はひどく上擦っている。咳払いして喉の調子を整えたところで手遅れだ。何事も始めが肝心だというのに何たる無様な。

 ただし己の煩悶は杞憂に終わった。当の長谷部くんは眉の一つも動かさず、穏やかに寝息を立てている。
 深呼吸を二、三回試み、意を決して再び話しかけた。眠り姫はやはり目を覚まさない。
 髪を掬い、頭を撫で、頬を擦る。何度やっても結果は変わらなかった。

 失態を見られずに済んだのは幸いだが、ここまで無反応だと虚しくなってくる。やはり、どうしても声が聴きたい。僕に笑いかけてほしい。いっそ怒りでも構わないから、生きた感情をぶつけてほしかった。
 床に手を突く。身体をくの字に曲げた長谷部くんは、覆い被さる僕の影にすっぽりと包まれた。

 重なった皮膚が温もりを共有する。人の身を得て初めての口吸いだった。同意を得たわけでなく、自分の欲望を満たすためだけの独りよがりな行為。野蛮な振る舞いだと理解しながら、それ以上に心が歓喜を叫ぶ。

 演練で遠目に見つめ、すれ違い、言葉や刃を交わしたことはあれど、彼らに劣情を催したことは一度も無い。同じへし切長谷部だとしても、僕が求めている魂とは違う。一目で解った。僕が欲しかったのは、今ここにいる長谷部くんだったんだ。
 下敷きにした長い睫毛が揺れる。くすぐったさに目を開ければ、想像よりずっと透明感のある藤色に打ち据えられた。

「~~ッ!?」

 口は塞がれている。寝込みを襲われていた驚愕を表す絶叫は声にならなかったが、勢い込んだ長谷部くんの歯は見事に僕の下唇を捉えた。お解りだろうか、先の悶絶は激痛に耐える僕の台詞である。

「なに、なんッ誰だお前! ここで何をしている、どうやって入った!」
「僕は燭台切光忠。ここには調査のために来た結果、君に一目惚れして童話の王子様よろしく口を吸いました。ちなみに近づいたら普通に入れたよ」
「ただのヒトがここに入れるわけないだろ。さてはモノノケの類だな」
「惜しいなあ、妖怪じゃなくて刀の付喪神だよ」
「なに、付喪神?」
「そう。君と同じさ、長谷部くん」
 噛まれた傷口を慰撫しつつ、自己紹介を続ける。説明に引っかかるところがあったのか、長谷部くんの片眉がぴくりと跳ねた。

「俺の名は、長谷部というのか」

 今度は僕が面食らう番だった。語尾を下げ、自身の名を躊躇いがちに呟く彼は、寄る辺をなくした迷子に似ている。おそらく演技ではないだろう。

「ああ、君は刀工長谷部国重の作だ。かの織田信長公に所持され、圧切という号を賜った。後に黒田如水の手に渡り、以後は宝物として黒田家に伝わった。覚えては、いないのかい」
 彼は黙って首を横に振った。へし切長谷部は自身の号を良く思っていない。隙あらば嘲笑交じりに信長公の話をするぐらい、前の主への執心も強い。その彼が付喪神の根幹たる、己の来歴を忘れてしまうなど信じがたい。

「自分が刀だという自覚はある。道具でありながら、人と同様の肉体を得た理由は解らない。……どうやらお前は知っているみたいだがな」
「お察しの通りだよ」

 肯定すると、長谷部くんは判りやすく前のめりになった。望まれるままに刀剣男士の意義とその役割について語る。おおよその事情を話し終えての感触だが、長谷部くんは納得したものの、腑に落ちてはいないようだ。

「歴史を守るとは、大層な話だな」
「君も以前はその使命を負っていたはずだよ。肉の器を持って顕現しているのが何よりの証だ」
「なら俺は、お前のところの刀だったのか」
「残念ながら、僕の本丸にまだ長谷部くんはいなくてね。もちろん、君が来てくれるっていうなら大歓迎だよ」
「残念だが、初対面でひとの口を吸うようなやつと一つ屋根の下で暮らすのは御免被りたい」

 わざとらしく肩をすくめた後、長谷部くんが指を鳴らした。途端、趣ある六畳間が薄暗い板張りの堂内へと姿を変える。中央に設えられた祭壇には、皆焼刃の傑作として知られる刀身が横たわっていた。

「それと、見ての通り俺はここに祀られている。崇めたところで御利益なんぞありもしないが、毎年律儀に約束を果たす長船の子孫を置いていくのは気が退ける」
「約束? 長船家のご先祖様と?」
「ああ。百年前に少し口説かれてな」
「待って、口説かれた?」
「断ったがな。何となく忍びなくなって、あいつのものになる代わりに厄払いを買って出た」

 長船家は別の地から流れてきた余所者だった。激動の時代を上手く生き抜き、彼らは見事一財を築いた。この成功は当主の才幹に因るところが大きかったのだが、彼は神の加護と主張して已まなかった。
 そうして膨れ上がる信仰心に任せ、長船の祖は私財を投じ、件の神を大々的に祭り上げることにした。歴史が浅いにもかかわらず、山上に立派な拝殿が作られているのは、要するに素封家の戯れである。

「百年も厄払いを続けるくらいには、その長船の当主を憎からず思っていたわけだね」
「感謝はしているが、それだけだ。厄払いだって、気の迷いみたいなものだった」
「気の迷い?」
「……長船という姓でなければ、捨て置いたさ」
 そっぽを向いた横顔に愁色が差す。気のない男に寵を与え、その子孫まで見守るほど、彼の中で長船という名は特別だというのか。自身の経歴すら忘れてしまった彼が、どんな理由でその縁を大切にしているのか。考えただけで腸が煮えくり返りそうだった。

「まさか、長船の刀と良い仲だったりしたのかい」
「さあな、俺にもよく解らん。ただ長船という響きを耳にすると、妙に胸がざわつく」
 解らないと切り捨てながら、親しみを滲ませる彼の面差しには見覚えがある。あれは、愛しい者を想う目だ。

「僕も長船派の刀だよ」
「ざわざわじゃなくてむかむかしてきた」
「どきどきの間違いだったりしない?」
「しない。こら顔を寄せるな、同胞と判ったからって心や股まで開くと思ったら大間違いだぞ」

 無慈悲に伸びた掌が僕を押しのける。情を拒む左手とは別に、ゆるく掲げられた右手が指の腹を擦り合わせた。ぱちん、と空気が弾ける。次に僕が立っていたのは、門の外側、蒸し暑い夏の山中だった。

「俺は祭りまで寝直す。起こすなよ」
 言い捨てて、長谷部くんは神域に籠もってしまった。柱の間を抜け、引手を掴む。御堂の扉はがたついた音を立てるだけだった。

「それで盛大にフられてきたのか!」
 画面の向こうから拍手喝采を送られる。
 御堂での顛末を報告した結果がこれである。あの腹を抱えて痙攣してる刀、帰ったらどうしてくれようかな。

「笑い転がっている芋虫は置いておいて、とにかく敵と一度交戦したんだね。狙いはその長谷部だと思っていいのかい?」
 話にならない太刀に代わり、歌仙くんが本題を進める。その可能性は僕も考えたが、長谷部くんは時間遡行軍の兵を知らなかった。彼があの地に居を構えて百年も経つ。その間、一度も襲撃を受けなかった事実を鑑みるに、敵が長谷部くんを危険分子と認めているかは怪しい。

「現時点では断定できないけど、別部隊が行動していた痕跡は認められなかった。昼の小競り合いが僕らの目を惹きつけるための陽動だったとは考えにくいね」
「たまたま敵の先遣隊に出くわしただけかもしれんしな。まあ調査は始まったばかりだ。情報を集めるには地元の人間に聞くのが一番! 文字通り九十九の時を過ごした生き字引もいることだし、頑張れよ光坊」
 腹筋の鍛錬に勤しんでいた刀が戻ってくる。含みしかない声援はさておき、長谷部くんにはもっと詳しい話を聞いておくべきだろう。

「じゃあ、みっちゃんは長谷部クン担当な。俺はふもとで情報収集すっからさ。鶴さんたちは敵について調べておいてくれよ!」
「敵? 何か不審な点でもあったのか」
「そりゃあもう。俺の第六感がビビッと働いてだな」
「よし、君だけが頼りだ燭台切」
「見た目は遡行軍の兵士と瓜二つだったな。ただ敢えて言うなら雰囲気が違った。あの蒼い瘴気と対峙したのは、間違いなく今回が初めてだと断言できるよ」

 僕の述懐に歌仙くん、さらに剽げた調子の鶴さんまでもが居住まいを正した。それぞれ口を閉ざし熟考するも、心当たりは浮かばなかったらしい。

「すまない。確約はできないが、次の報告までには手がかりを掴んでおく」
「お願いするよ。僕らもできる限りの調査はしておく」

 今後の方針は決まった。腕時計を模した投影機が光を絞り、スクリーンもその幅を縮めていく。
 会議は終わった。時刻は十時を少し回ったぐらいだが、明日も早い。布団を敷いて次の調査に備えるべきだろう。

「うわ、降ってきたなあ」
 夜更かし好きの相棒が外の変化を嘆く。雨音が静かに窓硝子を叩き始めた。予報では晴れ間が続くとのことだったが、山の天気は移ろいやすい。朝には止んでくれているといいが、と念じ、ふと竹藪に囲まれた古堂に思いを馳せた。

 湿っぽく、静かで、誰もいない神様の家。いつもより早く眠りから覚めた彼は、果たして驟雨の訪れを知らずに過ごせているだろうか。
 土を濡らす子守歌で逸る心を落ち着かせる。これほど夜明けが待ち遠しいのは、初めての体験だった。

■■■

 鳥の囀りが朝を告げる。雨雲は東に流れ、空模様は青一色に染まっていた。地面の柔らかさ、道端の水溜まりの他に昨晩の名残を伝えるものはない。
 息を吸う。雨上がりの澄んだ空気が肺を満たした。鼻を抜ける竹の匂いは昨日より色濃い。大地を焦がす夏の陽気も、この林においては無縁だった。

 蔦の絡む双柱をよぎる。門を抜け、客人を出迎えるのは古堂の扉ではなく、上がり框と畳張りの一室だ。
 床の間から座卓の向こうまで眺めやるも、人影らしきものは見当たらない。寝直すと言っていた気がするが、はて留守中にお邪魔してしまったのだろうか。

「安眠妨害で訴えるぞ」
 首筋にすっと長物を据えられる。青漆と金霰の対比が見事な拵えは、写真よりずっと鮮やかだった。

「また起こしちゃったかな」
「ふん、変な時期に起きたせいで寝られなかった。お陰で暇を持て余している」
「責任は取るよ」
 赤い下げ緒を指に絡めながら口説く。間髪入れずに喉元を狙っていた鞘が下げられた。代わりに柄頭で背中をぐりぐりと押される。普通に痛い。

「とりあえず立ち話も何だし、中でお茶でもどうかな」
「広辞苑も裸足で逃げ出す面の皮の厚さだな」
 容赦なき刀室マッサージは続行中だが、上がってしまえばこっちのものである。

 保冷バッグから水筒と本日のお昼を取り出す。若菜を散らしたおにぎりを一瞥し、長谷部くんの喉が上下した。
 なお巻く用の海苔も別に持参している。ラップを剥がし、白米に黒い意匠を施せば、掌中からぱり、と乾いた音が立った。

「旅館の女将――長船さんが握ってくれたんだ」
 だめ押しとばかりに長船の名を使う。予想に違わず、彼は大いに顔を顰めたまま向かいの席に座った。

「祭りまであと一週間だね」
「まさか来ないだろうな」
「勿論行くよ。長谷部くんの晴れ舞台、楽しみだなあ」
「見世物にされるだけだ。俺自身は別に何もしないぞ」
「ただそこにあるだけ、っていうのも立派なお仕事さ。それに君は期待には応える質だろう」

 水筒を傾け、冷えた麦茶を紙コップに注ぐ。喉を潤し、揺れる琥珀色を再び卓上に預けた。その過程で、ずっと避けられていた薄紫と視線が絡む。先日初めて彼の名を呼んだときと同じ、身の置き所を失った幼子みたいな目をしている。

「お前は、俺より俺のことを知っているみたいだな」
「人伝、書籍で聞きかじった程度にはね。君は? 同じ刀剣男士と会って何か思い出したことはないのかい?」
 役目を終えた透明フィルムが二重、三重に畳まれる。こうした手慰みに興じる一方、村の神様は何かしら考え込んでいる風だった。

「以前にも、こうして誰かと卓を囲んで食事をしていた気がする」
「誰かと? それはふたりで? もっと大勢と?」
「さてな、どちらのときもあったかもしれない。百年前より先のことは未だにはっきりとは思い出せん」

 受肉している以上、長谷部くんも審神者によって励起された身であるはずだ。嘗ては僕と同様、本丸で仲間と談笑し、食事を共にすることもあったのだろう。
 器に刻まれた日々は、彼にとって掛け替えのないものだったに違いない。そうでなければ、口の端から郷愁や諦念を感じ取れるはずがなかった。

「思い出したい?」
「いや」
 間髪入れず返ってきた答えは実に意外なものだった。昔日を偲ぶ彼の横顔には、確かに旧縁を恋い慕う気持ちが滲んでいたように見えたのだが。

「本当に大切な人たちとの記憶なら、忘れたままの方がいい。俺がこの地に居座ってもう百年も経つ。仮に思い出したところで、帰るべき場所が残っているかも怪しいものだ。それならいっそ、このまま何も知らず厄払いの神として、村でひっそり過ごしていたい」

 勝ち気につり上がっていた双眉が八の字を作る。膝の上で拳を握り、僕は密かに息を吐いた。なんて下手な嘘だろう。これほど不器用な生き方を僕は他に知らない。

「もし誰かが君を迎えに来たとしても、同じような言葉を返すつもりかい」
「それは……そのときになってみないとわからん。使命も忘れたなまくらなど回収しても無意味だと思うがな」
「意味はある」
 畳に落ちた手を掬い上げる。台の下で強ばった指先を揉みほぐし、驚愕も露わな藤色を正面から見据えた。

「僕は、僕なら、たとえ君が自分が何者であったか忘れてしまったとしても、本丸に帰ってきてほしいと請うよ。もし再び鍛刀して新たなへし切長谷部を迎えたとしても、それはいつかの日々を共に過ごした長谷部くんじゃない。君は間違いなく誰かにとっての唯一の刀だ。そのことを胸に留めて、決して忘れないでくれ」

 切々と口説き、もの悲しい独り合点を戒める。いくら長谷部くんでも僕の好きな子を貶めるような真似は許せない。こんな綺麗で直向きで、自ら幸せを遠ざけようとする刀を誰が放っておけるというのか。

「……でも、俺はお前の本丸の長谷部じゃない」
「ここよりは僕の本丸に来た方が、君がいた本丸のことも探しやすくなるよ」
「だから、別に帰りたいわけじゃ」
「長谷部くんの傍に少しでも長くいたいがための方便さ。僕は君を諦めないって、もう決めたからね」
「俺の意志が一切反映されてない決意を固めるな。あと仮にもご神体を盗む前提で話を進めるんじゃない」
「代わりに長谷部くんっぽいもの置いておこう」
「途端に雑」

 食事を摂ったせいか、例年より早く覚醒したためか、そのうち長谷部くんはうつらうつらと船を漕ぎ始めた。布団はなく、畳に寝そべった彼の瞼はほぼ開いていない。また来るよ、という僕の声は果たして神域の主に届いていただろうか。まろい煤色の束に指を通す頃には、僕の視界いっぱいに竹林が広がっていた。

 まだ日は高い。ふもとで任務に励んでいるだろう相棒に負けじと、僕も担当である神社の調査を進めることにした。

 草藪を抜けて階段に再び足を載せる。あの御堂と拝殿まではさほど離れていない。今度こそ夏山の暑気に倦むより早く、頂上へと辿り着いた。
 鳥居をくぐり、一番に目に付いたのが掲示板だった。
 稽古事、自治会の案内を脇に置いて、祭りの告知が中央に大きく貼り出されている。

 年に一度、この祭りのときのみ、彼のご神体は公の目に触れる。百年経っても色褪せぬ刀身の美しさは、不可視である加護の力を信じさせるに十分だった。同時代にへし切長谷部が現存しているにもかかわらず、その類似性を指摘されないのは長船が外部への露出を拒んでいるためだろう。

 少し足を伸ばせば、神社の由来について書かれた看板が立っている。山一つ覆わんばかりの巨躯を持った鬼と、それを一刀のもとに斬り伏せた麗しき神の伝説。大いに誇張が含まれているが、つぶさに読み解けば、時間遡行軍と刀剣男士との戦いの記録だということがよく判る。

 嘗て長谷部くんは幕末の時代に飛んだ。事故か交戦の結果かはさておき、彼は記憶を失い、審神者との繋がりが薄れた。そして主の先祖に拾われ、厄払いの刀として人々に崇められ、平成の世に至る。資料が正しければ、彼と彼を祀る社は、遠からず炎の海に呑まれるはずだ。

(そうはさせるものか)

 いずれにせよ歴史の舞台から消えるのならば、焼失が盗難になろうと構わないだろう。そもそも長谷部くんはこの時代の刀じゃない。あるべき場所に還してやるのは刀剣男士として当然の務めだ。

 付け焼き刃の大義名分を掲げ、ふいと現状の異様さに気付く。本来は歴史を守るべき男士が、過去を侵蝕し、正しい流れをねじ曲げている。当事者の認識がどうあれ、その有り様は実のところ、時間遡行軍と大差ないのではないか? 己が今身を置いているのは、もしかして既に改変された後の世界ではないのか――?

 生温い風が石畳を掃く。日は翳り、重く垂れ込めた雲が雷火を孕んだ。蒼い稲光が天を裂き、境内へと落ちる。
 社殿を揺るがすほどの轟音が鳴り、その中心を白煙が埋め尽くした。肌がぞわりと粟立つ。刀を喚び、左手が柄に触れるや間を置かず鞘を払った。

 落雷による靄が晴れ、招かれざる客の全貌が明らかになる。姿形に見覚えはあれど、一切の熱を持たぬ瞳孔は、腐れ縁たる怨敵にはそぐわない。何より、この鎧武者は今まで相対したどの敵より、強い。

 装甲に覆われていない顎先を狙い、突き上げる。一の太刀は呆気なく撥ね除けられ、後退を余儀なくされた。

 冗談じゃない。一度刃を交えただけで嫌でも判った。今の己の力量では、この脅威を斥けることはできない。

 口笛を吹く。訓練された鳩は合図に従い、数分足らずで相棒の下へ馳せ参じることだろう。問題は、その僅かな時間でさえ凌ぎきれるか危ういということだ。
 臍に力を入れ、得物を構える。睨み合うだけで精神を著しく消耗するこちらと違い、相手は冴え渡った殺気を漲らせながらも悠然としている。額から流れた汗が瞼を伝い、左の視界を曇らせる。勝敗は瞬きの間に決した。