僕らはだるまに祈らない - 4/6

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 雨の匂いがする。外界とは隔絶した場所にあってなお、枝葉が大雨に打たれる様が手に取るように判った。
 夜明けは遠く、人の声は聞こえない。またしても祭りより先に目が醒めてしまった。珍しいどころではない。幾度台風が来ようが、土砂が崩れようが、今まで自らに課した睡りの制約を破るには至らなかったのに。

「くそっ……」
 苛立ちまじりに唇をなぞる。一度重ねた皮膚の温もりを思い返し、身を震わせた。あのときは驚きが勝って、つい歯を立ててしまったが、本当は湧き上がる多幸感を抑えるのに必死だった。

 ああ、認めたくない。同胞とはいえ、会ったばかりの男に心奪われ、再会を待ち望んで涙するなど、馬鹿げている。

 目を瞑り、男の幻影を追い出そうとするも眠りは浅い。こんなことは百年の間一度も起こらなかった。そもそも、眠りに就いた俺を起こすのは祭り囃子の音楽だけだった。俺に陶酔していた先祖はともかく、長船の子孫にまで奴の信仰心が受け継がれているわけではない。
 人々に忘れられた神は弱っていくだけだ。だから俺は一年に一度、祝詞が夏を報せるまで現世うつしよを離れた。

「長谷部くん」
 男はさも恋人を慈しむように、その名を呼んだ。

 へし切長谷部、それが世に知られた俺の通称らしい。実感は未だ湧かない。そのくせ、あの男に長谷部くんと呼ばれるたび胸が躍る。燭台切光忠と名乗る男は、俺にとってみれば刀ではなく嵐の化身だった。

 一目惚れなどと嘯いて調子の良い台詞を吐き、神域を許可なく冒し、挙げ句の果てには自分の城に攫うとまで宣言した。酷い詐欺師もいたものである。一笑に付してしまえば楽なものを、己の魂は歓喜を叫ぶばかりだった。
 似たような甘ったるい文句は散々浴びた。長船の先祖が熱っぽく口説いてきたときも平然としていられたのに、どうしてあの太刀に関しては、こうも気恥ずかしく感じるのだろう。

 腹を満たし、融通の利かない睡魔に寝かしつけられ、どれほど時間が過ぎたことか。堂内に差し込む陽光から察するに、客の訪問から一刻経ったかも怪しい。
 微睡みの中で、また来る、という声を聞いた。あれで向こうは主命を帯びている身らしいから、明日も会えるとは限らない。ひとたび元の時代へと帰れば、それこそ二度と相見えることは無いだろう。せめて、別れの挨拶くらい交わしておけば良かった。

 未練がましく、板の隙間から外の様子を窺う。竹林は野鳥や虫の音を除けば静かであった。当然ながら人影は見当たらない。

 内側のかんぬきを外し、百年ぶりに地面へと降り立つ。境内まで足を伸ばさなければ、人目は十分避けられるはずだ。
 幹の太い樹木を探し、枝から枝へと飛び移って頂きに立つ。ここら一帯を俯瞰できる視点を得て、黒ずくめの美丈夫を捜した。

 この神社はお世辞にも参拝客が多いとは言えない。盆が近いとはいえ、関係者以外が参道にいれば必ず目立つ。案の定、黒い点と化した男を捉えるのは容易かった。
 樹上から降り、林の中を突っ切る。俺の足なら一分も掛からない。あまり拝殿には近づきたくないが、少し話をするくらいなら問題ないだろう。

 そんな甘い算段は、暗雲が日を覆い隠したことで水泡に帰した。前触れなく生じた雷鳴が山中に轟く。閃光が落ちた先にいるのは、己の尋ねびとだ。

 斜面を駆け上がる。坂を登りきった先で一合、両者が切り結んだ。爪先で岩場を蹴り上げ、崖を一挙に越える。ようやく鎮守の杜を脱し、始めに見たのは、足下に血溜まりを広げる愛しい男の姿だった。

 黒い戦装束の中心を貫いていた凶器が引き抜かれる。支えを失った男が膝を落とし、前のめりに倒れた。かっと全身に熱が巡る。走るのと刀を握るのとは同時だった。

 跳躍し、体重を載せた一撃を蒼白い無法者に見舞う。烏帽子の男は上段からの奇襲を易々と捉えた。力任せに豪腕を振るうだけで俺は弾き飛ばされる。地に叩きつけられるより先に受け身を取り、改めて骸を纏った武者と対峙した。
 なるほど相手にとって不足は無い。八つ裂きにしても飽き足らないところだが、勢いのみで押し切れるほどの雑魚ではないらしい。

 二度、三度と衝突する。実力は伯仲していた。敵は俺より堅く力も強いが、俺よりのろく太刀筋も一辺倒だった。

 真一文字を描いた鋭い軌跡を避け、後ろに跳ぶ。森へ退いた俺を敵は律儀に追ってきた。砂利と急斜面という悪路も意に介さず、鎧武者はどこまでも愚直に前進する。

 敢えて背を見せた甲斐があった。攻勢から守勢に転じ、遂に逃走を選んだ俺を見て、敵は勝利を確信しただろう。
 それでいい。狩人は自分が狩られる立場になる可能性など考えないものだ。

 烏帽子の視界から獲物の姿が消える。崖から転落した俺は、物々しい音を立てて枯れ葉を巻き上げた。当然の流れとして相手は崖下を覗き込む。
 屈んだ男は逆光を背負う形となった。蠢く黒い塊は、どこが手で足なのかも判然としない。しかし的はとうに絞られている。眼窩の奧で不気味に灯る二つの光、俺が狙うのはその中央の一点だけでいい。

「グぅ、……!」
 目論見通り、投擲した刀が敵の頭蓋を砕く。顔の中心より刀を生やした異形はたたらを踏み、どうと仰向きに倒れ伏した。

 喘ぐ死に損ないから武器を回収し、その身に再び刃を立てる。今度こそ烏帽子の男は物言わぬ屍体となった。

 先刻飛び降りた崖は、急峻なだけで高さはさほどでもない。相手の死角を突くには格好の場所だった。
 一息ついて妖の身体が霧散する。軽く周囲を哨戒し、脅威の有無を確かめるや否や、来た道を取って返した。

 あれが只人でないと解っていても安心はできない。肉の器は脆く、軽く刃を押し当てるだけで肌が裂け、痛みを訴える。人より頑丈に出来ていようが、受ける苦しみはきっと同じはずだ。

「みつただッ……!」
 初めて呼んだ名に応える声はない。衣服の一部を切り取り、急いで止血などのできることをやった。

 人々にいくら崇められようと、俺は敵を切ることしかできない。傷を癒やし、死を遠ざける類の奇跡とは無縁だった。この身はなんと役立たずなのだろう。百年もの時を費やして、やっと失いたくないと思えた相手なのに。
 己の不甲斐なさに歯を食いしばり、血に濡れた光忠の手を取った。俺の血肉を与えて愛しい男を救えるなら、心臓だって差し出しても構わない。そのつもりで光忠の掌を自分の胸に押しつけると、服の下で何かが当たった。

 懐を探り、出てきたのは古めかしい御守り袋だった。どうして俺がこんなものを持っていたかは、例のごとく覚えていない。どんな御利益があるかも知らない小道具だが、今は藁にも縋りたい気分だった。
 祈りが通じたのか、上空の鳩が救援の予告を告げた。野生ではなく、光忠やその仲間が飼っている遣いだろう。

 社殿に常駐している神官がいつ顔を出すとも知れない。現し身を見られるのは面倒だ。助けが来るなら俺は祠にいい加減戻るべきだろう。

「生きてくれよ、光忠」
 返事を紡がない唇にそっと口づける。昨日、甘露とも思えた肌からは、鉄の味がした。

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 目が覚めたときには手入れ部屋にいた。治療は済んでいるらしく、気怠さを除けば手足も問題なく動かせる。

「お目覚めかい」
 安堵を滲ませた声が降ってくる。格子柄の天井が忽ち複数の人影で見えなくなった。

「これまた酷くやられたもんだなあ。きみが重傷を負うなんて演練ぐらいしかお目に掛かれなかったんだが」
「どうやら随分と心配かけたみたいだね」
「ああ、きみを運んできた貞坊と伽羅坊の慌てっぷりは相当だったぞ。今はこの通り、好々爺の口封じを目論むぐらいに元気にしてるが」
 鶴さんの首元に倶利伽羅龍の彫られた腕が巻きついている。微笑ましい光景だが、ここで口を出すのは藪蛇になりかねないので見守ることにしよう。

「さて、意識が戻ったばかりですまないが話を聞かせてもらおう。燭台切、君を襲ったのは前と同じ輩か」
「ああ。確認してくるってことは、貞ちゃんはあいつと戦わなかったんだね」

 歌仙くんが黙然と頷く。二振りで挑んだとして勝てたかどうか怪しい相手だ。被害が僕だけに収まったのなら、それは僥倖と取るべきかもしれない。

「戦うも何も、太鼓鐘が現場に着いたときには既に敵の姿は無く、君は手当された状態で放置されていた」
「え?」
「詳細は報告待ちだが、太鼓鐘が確認した限り、周囲に特に変わった様子は見られなかったそうだ。歴史改変も観測されていないし、君を治療した何者かが敵を討ったと考えるのが妥当だろうね」
「光坊が不覚を取るような相手だぜ? そんなゴリラがあの時代にいるか?」

 やっと拘束から抜け出た太刀が疑問を挟む。戦火から縁遠い平成の時代だ、刀剣男士より膂力に優れた人間が偶然あの場に居合わせたとは考え難い。
 いや、心当たりはある。ヒトではなく、怪異を斥けるだけの力を持つだろう存在を、僕はひとり知っている。

「まさか、長谷部くん……?」
 僕と話すときの彼は意外に隙が多く、初々しい言動も相俟って、あの敵を降すほどの剛の者という印象はない。しかし僕は長谷部くんの過去を知らない。小さな神社に身を寄せる以前は、歴戦の士として活躍してきた可能性は否定できなかった。

「本当にその長谷部の仕業だったとしたら、光忠の手に負えない強さの検非違使が出てきたのも頷ける」
 溜息交じりに伽羅ちゃんが口を開く。そして褐色の友が述べた見解のうちに、耳慣れぬ響きが含まれていた。

「検非違使、って?」
「君が二日に渡って遭遇した敵の正体さ。見た目は遡行軍と大差ないけれど、目的はその対極にある。歴史修正主義者か否かを問わず、時代を行き来する全ての勢力を一掃しようと企んでる連中だ」

 僕の疑問に答えたのは歌仙くんだった。未知なる敵の思想を知り、遭遇した検非違使の目的を考える中、初期刀の説明はさらに続く。

「検非違使は僕ら刀剣男士も歴史を乱す危険分子と捉え、排除の対象としているらしい。ただし、一度や二度過去に飛んだくらいでは目を付けられることはない。お陰でうちみたいな駆け出しの本丸では奴らとやり合うこともなく、調査に時間が掛かってしまったわけだけれども。それで厄介なのは、この検非違使、交戦する勢力の中で最も強い兵士に合わせた練度の部隊を派遣するそうだ」

 もしも熟練の程度に差のある部隊が狙われたら最後、戦に慣れていない弱卒から容赦なく落命することだろう。
 先日遭遇したときは、僕たちでも十分対処できる相手だった。つまり、このとき敵が参考にした戦力は、未だ新人の域を出ない僕らの方になる。

「……待ってくれ。拝殿の検非違使が長谷部くんの強さに応じて現れたってことは、向こうは彼の存在に気付いたってことじゃないか!」
 矢も楯もたまらず上体を起こす。枕元に畳まれていたシャツを引っ掴み、慌ただしく羽織った。

「落ち着け燭台切! 検非違使が相手なら、長谷部より練度の劣る我々が不用意に突っ込むのは下策だ!」
「だからって手を拱いて見ているだけなんてごめんだよ。いくら長谷部くんが強くたって、彼ひとりだけじゃ限界がある。山火事の件だってあるんだ、一刻も早く本丸に連れて来ないと安心できない!」

 制止の声を無視し、身支度を調えてしまえば後はもう戻るだけだ。呆れる面々を尻目に僕は戸を開け放った。

「光坊」
 彼には珍しい、神妙な声色につい足を止めた。後ろを振り返るのに合わせて、何かを投げ寄越される。両手で受け止めたそれは、かなり年季の入った御守り袋だった。

「運ばれたきみがずっと握りしめていたものだ。光坊のものじゃないっていうなら持ち主に返してやってくれ」
 おそらく僕の血を吸っただろう袋は赤黒く汚れている。それ以前に煤けた薄紫の下地は、何を祈願したものかも判らなかった。記憶にはない。ただ、握りしめると得も言われぬ感情が腹の底から込み上げてきた。

「ありがとう。必ず戻ってくるよ」

 片手を挙げて、今度こそ手入れ部屋を後にする。
 見知らぬ御守りを懐に収め、僕は再び過去の世界へと旅立った。

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 光忠が負傷して三日が経つ。今も変わらず俺の不眠は続いていた。例の血生臭い騒動は幸い住民には覚られず、祭りの準備は着々と進んでいるらしい。
 ただし、肝心の神様は村の厄災を祓おうという気概を全く持てずにいる。寝ても覚めても、想うのは恋しい男のことばかり。こんな体たらくで、どうして信徒の平穏を約束できるというのか。

 そんな守り神の怠慢を詰るがごとく、村の天候は早朝から大いに荒れている。大雨に晒され、強風に吹かれ、さすがに自治会も今日の作業は諦めたようだ。
 人避けのまじないを施しているため、この古堂は神社の者すら知らない。過去にここを訪ねたのは、嘗て俺が救った青年と、社殿を建てた長船の二人だけだった。

 百年ぶりの来客はどうしているだろう。
 未来の技術があればこその出会いだった。時を越えるくらいだ、一命は取り留めたと、そう願いたい。

 とはいえ無事に治療が成ろうと、光忠がここに戻ってくるとは考え難い。敵の素性は知らないが、あいつの手に負える相手でないことは確かだ。真っ当な将ならば、次こそは必ず熟練の兵士を送り込むだろう。
 それでいい。光忠が傷つく姿など、俺はもう見たくなかった。

「会いたい」

 恥知らずな舌先が叶いもしない我が儘を漏らす。

 光忠のせいだ。あいつさえいなければ、たかが一日をこんなにも長く感じることは無かった。誰とも知れない迎えを待っていた自分に気付かずにいられた。ひとりでいることに寂しさを覚えずに済んだ。
 会いたい。会って腕に抱かれて、頬を撫でられ、息が苦しくなるくらい口を吸われたい。

 一度吐き出してしまったのを機に、完全に箍が外れた。止めどなく欲望が溢れ、室内にもかかわらず頬が濡れる。
 それから両膝を抱え、散々に泣き喚いた。皮肉にも、光忠の不在を思って疲弊したことにより、俺は久方ぶりに深い眠りに就くことができた。

「……くん」

 ぽたり、と雫が垂れた。腫れぼったい瞼に落ちると、その冷たさが反って心地良い。水滴は顔だけに留まらず、襟や裾も濡らしているようだった。
 目を開けるのがひどく億劫で、指だけを緩慢に動かす。畳を掻くだけだった手は優しく絡め取られた。

「はせべくん、おきて」
 はせべ。自分ですら忘れてしまった俺の名を呼ぶ奴はひとりしかいない。

 覚醒を拒んでいた両のまなこを開く。またしてもひとしずく、俺の額を過って頬へと流れた。荒れ狂う外よりだいぶ穏やかな雨は、己に覆い被さる男から降っている。

「おはよう。おやすみのところすまないね」
「みつただ」
「はい光忠です。長谷部くんが僕の名前呼んでくれるの初めてだね、嬉しいな」
 濡れ鼠になった男は、持ち前の麗しい造形を緩めて、ふにゃりと笑った。花も綻ばんばかりの、蜜を煮詰めたような顔つきだった。

「ひたたた、ひたい。はんれひっはるろ」
「お前、つい三日前に腹破けた状態で別れたと思ったら何だその締まりのない顔は」
「もおなおっへるよお」

 治療は終えた、という訴えを聞いて飛び起きる。雨で貼りついたシャツを引き抜き、露わになった光忠の肌を検めれば、確かに擦り傷一つ認められなかった。

「はあああ……」
 脱力し、ちょうどいい位置にあった肩へと寄りかかる。支えにした男の身体は想像していたより冷たい。きっと嵐の中を突っ切ってきたのだろう。特徴的な頭のつむじまで濡れて元気をなくしている。

「心配してくれたんだ?」
「うん」
「……今日は随分と素直だね?」
「顔見知りの腸を見て心配しないやつがいるか」
「はは、それもそうか。不安にさせてごめんね、それとありがとう」
「ん……」
 背に回った腕に抱きすくめられる。僅かな距離すらもなくなり、重なった胸から互いの鼓動が伝わった。

「長谷部くん、大事な話があるんだ」
「……それは、俺とこうしているより大事なことか?」
「引きこもりの神様がどこでそんな殺し文句を」
「最近やたらと気障で口の回る男と会ってな」
「へえ。影響されるぐらい、その彼のことがお気に入りなんだ?」
「ああ。一目惚れだった」
 抱擁に応え、秘めておくつもりだった本心を口にする。顎を掬われた。光忠は何も言わない。ただ燃える二つのきんいろが俺を見つめ、俺も言葉なく見つめ返した。

 吐息が混じる。語らずとも相手の求めるところが手に取るように解った。触れて、食んで、舌を伸ばし、熱を共有する。身体と同じく冷えていた光忠の唇が温まる頃には、互いの服を寛げ始めていた。

 幾度も精を注がれた下腹を撫でさする。独特の倦怠感こそあるが、神気に満たされた器は今までになく調子が良い。好いた男の腕を枕にし、存分に愛された夜を飽きもせず反芻した。

 すきだよ、かわいい、じょうずだね、きもちいいよ。行為の間、ひっきりなしに掛けられた言葉はどれも甘く、優しかった。柔らかな口調とは裏腹に、奥まで押し入り後口を犯す腰遣いは全く以て紳士的じゃなかったが。

「こいつ実は結構なサドだろ」
 今は瞼の裏に隠れている双眸を思い浮かべる。黄金に輝く炉の中にくべられていたのは慈愛だけではなかった。俺の手首や腰に刻まれた掌の痕はその何よりの証だろう。

 さて隣で眠る男の寝顔だが、さも人畜無害とばかりに穏やかだった。納得いかず、仕返しも兼ねて頬を突く。続けていると、珍しく光忠の眉間に皺が寄った。美形は顰め面になっても美形らしい。悔しいが格好良かった。

 外の天候は落ち着いたようだ。野鳥が啼いて夜明けを告げている。そろそろ服も乾いたかと、隅っこで団子になっていた衣装に指を這わせた。ほんのり湿っぽいが、まあ着られないほどではない、と思う。
 身を起こし、揉みくちゃになった服を簡単に整える。黒い洋装は光忠が先日も武具の下に着込んでいたものだ。あのときはとても意匠になど目が行かなかったが、裏地や釦など随所に伊達者らしい拘りが見える。

 ちら、と持ち主の方を一瞥した。起きる様子はない。
 好奇心に任せて黒い上衣を羽織る。手の甲は袖に隠れ、肩幅も合わず、鏡があったら相当だらしない姿が映っていたことだろう。俺だってそこそこ上背がある方なのにこの体格差はどういうことか。非常に遺憾である。
腑に落ちないものを感じつつも、光忠の服を纏うのはあれに抱きしめられているようで悪くない。

 ずり落ちかけた服を直すと、懐に収まっていたらしい何かが胸に触れた。内側を探れば、以前よりも薄汚れた御守り袋が出てくる。
 昨夜触れた肌はどこもかしこも滑らかで綺麗だった。困ったときの神頼みは効いたようだ。感謝の念を込めて、赤黒い染みのついた表面を撫でる。

 俄に戦慄が走った。背を折り、吐き気にも似た衝動を堪える。自ずと拳にも力が入り、握りしめた御守り袋が掌中で僅かに形を変えた。その中心にある金属だけが、俺の握力をものともせず原形を保ち続けている。

「女子が泣くぞ」
「一番大切な人にあげたんだ、って言えば納得してくれるよ」
 いつかの春に交わした会話が脳裏を焦がす。
 俺と共に時代を行き来し、何十回と改変された過去を見てきた金の釦は、世界が別の歴史に塗り潰されてなお当初の目的を忘れなかった。間抜けな主と違い、忠義者のこいつは今の今まで光忠を諦めることなく、この機を待っていたのだろう。

 傍らで眠る男の右目は健在だ。ただし、この光忠が俺の光忠という保証はどこにもない。同じ刀の付喪神でも本丸の数だけ別の個体が生まれる。俺が知っているのは、人として過ごした長船光忠のみだ。
 嘗て俺の幼馴染みとして生きた男も、平成での記憶は失っているだろう。そもそも、長船と神主が各々男児を養子にした歴史は既に存在しない。仮に光忠との再会が叶ったとして、あいつと思い出を分かち合える日は永遠に訪れない。

 三日前に光忠、燭台切も言っていたじゃないか。鍛刀して同じ姿をした男士が何振り来ようと、それは自分が望んでいた刀とは別物なのだと。

 光忠が忘れても俺が覚えているなら構わない。本当に大切な記憶なら、忘れたままの方がいい。どちらも己の偽らざる本心だった。

 それでも思い出してしまった以上は、いずれを採るか決めなくてはならない。

 悩む余地は皆無だった。光忠への執心を抱えたまま、他の男に靡くなど言語道断である。
 借りていた上衣を返し、指を鳴らす。敷布代わりの服はそのままに、神気で紡いだ装束を新たに纏った。