僕らはだるまに祈らない - 5/6

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 愛しい刀と情を交わし、初めて迎えた後朝はまず困惑から始まった。隣にあった温もりはなく、脱ぎ散らした衣服だけが残されている。

 ここはたった六畳で完結する世界だ。窓の外に広がる景色は張りぼてでしかなく、大の男が身を隠すゆとりは無い。神域の主が居るとしたら、間違いなく外だろう。

 境界である扉を開けた矢先に、少なからぬ驚愕が僕を襲った。今自分が立っているのは、御堂の前でも竹林の中でもない。あちこちに夜雨よさめの余韻が垣間見える、階段の踊り場だった。目をやや強めに擦ろうと、視界に変化が生じることはなかった。
 踵を返し、階段脇の叢中へと足を踏み入れる。獣道を掻き分け、やっと拓けた場所に出たと思えば、また境内へと繋がる石段に戻ってきていた。

 誰の仕業か考えるまでもない。この社を司る神様は、人払いのまじないをより強力なものとした。単に外敵を拒むための仕掛けではないだろう。検非違使に覚られることなく百年の年月を過ごせていたなら、今さら守備を固める必要はない。彼が避けているのは、同胞だ。

「……上等だ」

 確かに今の僕ではこの幻惑を突破できない。もっとも、向こうとて籠城戦を長々と決め込むつもりはないだろう。祭りは近い。この日ばかりは、彼も表向きの本殿に顔を出さざるを得ないはずだ。おそらく敵もその日を狙ってくるに違いない。
 一度だけ古堂の方角を見遣り、下山する。引き籠もるのは無事な証左だと思っておこう。どういう意図で僕を追い出したのかは、後々聞けばいい。

「僕は諦めないからね、長谷部くん」
 こちらも負け戦に挑むつもりは毛頭ない。どんな手段を用いようが必ず連れて帰る。
 長谷部くんが百年以上待ち続けた相手とは誰なのか。答え合わせはもう不要になった。彼を迎えに行くのは、他の誰でもない。僕の役目だ。

 村から嵐が去って数日、境内に櫓が建ち、参道を挟むように屋台が並んだ。陽が沈み、祭り囃子が場を賑わす。一年に一度の夏祭が始まった。

 盛況を絵に描いたような人混みの中で、色めいた声が密かに飛び交う。浮き足立つ娘たちの先では、煌びやかな青年と少年の二人組が揃って憂い顔を披露していた。

「わたあめか焼きそばか、それが問題だ」
「俺的にはフランクフルトとりんごあめも捨てがたい」

 注目を集める当事者たちの会話はこんなものである。彼らのお小遣いでは、出店で購入する食べ物すら自由には選べない。素より任務中の身であるため、端から浪費は認められてなかったりする。

「なあ伽羅坊、ちょっと俺に手持ちの五百円を投資してみないか? 一時間で倍にして返してやるぜ」
「断る」
 とうとう保護者枠は詐欺まがいの弁舌を振るい始めた。貞ちゃんには既に僕の分を渡してあるので、これ以上の増額は利かない。そういう事情でハンターたちの標的は伽羅ちゃんひとりに絞られた。ご愁傷様である。

「君たち、任務のこと忘れてないだろうね」
「心配するな歌仙、これも周囲に溶け込むための策だ。郷に入れば郷に従えと言うだろう。というわけだから、きみも小夜坊と一緒に型抜きを楽しんでくるといい」
「相変わらずよく回る口だね……まあ僕の手に掛かればあんな子供の遊びくらい簡単さ」
 数分の後、絹を裂くような初期刀の叫びが木霊した。熱くなった歌仙くんのストッパーは小夜ちゃんにお任せしておこう。僕は僕でやることがある。

 今のところ会場にも鎮守の杜にも異常は見られない。長船家当主の参拝、つまり本殿の開扉まであと一時間を切っている。長谷部くんもいい加減、重い腰を上げる頃合いのはずだ。

 仲間に断り、社殿の裏側へと回る。森の入り口は睦言を囁く男女がちらほら見えたが、さすがに奧まで来ると祭りの喧噪は遠ざかり、虫の音が幅を利かせた。
 蛍の尾火が流線を描く。たまたま行き先が同じなのか、或いは本当に導き手なのか、儚い灯は健気に夜の竹林を照らし続けている。
 案内人に従い、藪を抜ける。たくさんの蛍火が溜池の周囲を漂い、水鏡に光を散らしていた。

 そして、岸辺には僕の追い求めていた人影がある。

「月が綺麗だね」
「蛍じゃなくてか?」
「知っていてとぼけるなんて酷いなあ」
「躱されること前提で振ったくせによく言う」
 僕の告白を素気なく流した刀は、淡い藤色を昏い水底に向けたまま、眉一つ動かさない。

「今夜、この神社は焼け落ちる」
 核心から切り出せば、横に立つ黒袖が微かに鳴った。視線を隣から水面へと移し、僕はなおも話を続ける。

「百年に渡り続けられた祭りも今日で最後だ。山火事によりご神体は消え、嘗てこの地に信仰があったことすら後世では忘れられる」
「はっ、本能寺に大正の震災と来て、さすがに三度目は免れないか」

 次に相手の言葉に驚かされたのは、僕の方だった。
 数日前の長谷部くんは己の名前すら覚えていなかった。その彼が、百年も経っていない天災はさておき、ここで信長公の最期を例に挙げるはずがない。

「昔のこと、思い出したのかい」
「生憎とな。別の時代から来た俺が、どうして厄払いの象徴として祀られることになったのか。どうして記憶を失っていたのか。今なら全て理解できる」

 白い手袋が浮遊するまろい光を掬った。たなごころで明滅を繰り返す虫は、人の形をした刃物から逃れようとはせず、ただ細々と小さな足場を輝かせた。

「俺は、過去を変えたかったんだ」
 冒涜の告白がしじまに溶ける。歴史の護り手における最大の禁忌を、彼はまるで昨日のことのように語った。

「嘗て、今のように肉の身体を持ち、人として過ごしたときがあった。当時の俺には、誰よりも大切な片割れがいた。その男はある日、俺を守るために右の目を失った。許せなかった。自分の不注意であいつの顔に消えない傷を負わせてしまったこと。手合わせの約束を反故にしてしまったこと。俺は自分を責めた。責め続けた。そんな俺を、優しいあいつは許してしまった」
「許した、とは少し違うんじゃないか。その片割れも、長谷部くんのことが誰より大切だったんだろう。だから、自分が負った怪我のせいで君が苦しむ姿を、見ていられなくなったんだと思う」
「想像するのは自由だ。だが結局のところ、俺にはあれの本心なんて解らない。でも、それは向こうも同じだ。ただの負い目で幼馴染みの距離感を崩せるほど俺は器用じゃない。あの火事は切っ掛けに過ぎなかった。あんなことがなくても、俺はあいつを好きになったんだ。それを証明したくて、あの綺麗な瞳を守りたくて、俺は何度も、何度もやり直した」

 血を吐くような独白だった。慕情を、執着を謳う彼の語気は荒々しく、遡行の日々が無為に終わったことを暗に示している。記憶を失った百年の年月など、繰り返す時間の積み重ねには到底及ばない。種を明かす口舌より雄弁な藤色が、その過酷さを滔々と説いていた。

「どんなに試してもだめで、あいつはどうしたって右目を失ってしまった。俺はもう耐えられなかった。あれと揃って喚ばれるはずだった幕末に飛び、二振りが時代を超えるより先に、審神者となる青年を助けた。惚れた男と人として過ごした思い出より、惚れた男が傷つかない世界を、俺は望んだんだ」

 掌を宿り木にしていた蛍が飛び立つ。ひとたび群れに紛れてしまえば、その軌跡を追うことは叶わない。

 揃って喚ばれるはずだった、という述懐からして件の片割れも、僕らと同じ刀剣男士だろう。
 ヒントは他にもある。号も由来も目的も忘れ、途方に暮れた彼が唯一、長船にのみ親しみを覚えたのは何故だ。隠者のごとく竹林の奥に住まい、怪異もおいそれと手を出せぬ神域に、僕が易々と踏み込むことを許されたのは何故だ。片割れが失うのが常に「右目」なのは何故だ。

 肉の器を得てより、当然のごとく右の眼窩に嵌まっているまなこを思う。別の本丸に属する燭台切光忠は、皆一様に眼帯を着けていた。この差異は、つまりそういうことではないのか。

「その片割れは、燭台切光忠で合ってるのかい」
「察しが良いな。それとも、お前にあっさりと絆された絡繰りに納得いっただけか?」
「昔の男の面影に惹かれたとでも? 当事者を前にして随分と寂しいことを言ってくれるね」
「悲しいが事実だからな。昔のことを思い出せなければ、別の本丸の燭台切だろうと、同じ結果になったはずだ」
「僕がその片割れだったら見過ごせない台詞だなあ」
「万が一そうだったとして、それをどうやって証明する。お前の十歳の誕生日に、俺が寄越したものが何だったか言えるか? 言えないだろう。長船光忠という人間は、もうどこにもいないんだ」
「長船光忠はいなくなっても、君が守った右目はここにある。燭台切光忠でありながら、眼帯をつけず、無傷の右目を晒していることこそが、君の片割れである何よりの証拠じゃないのか」
「俺の知っている光忠は、人として過ごしたために右目を失った。他の燭台切光忠がどうして眼帯をしているかは知らないが、同じ火事に巻き込まれたわけでもなし、元主に倣っているだけで、存外その下は綺麗な肌をしているかもしれんぞ」

 互いに一歩も譲らない。僕が片割れである証も、そうでない根拠も示せない以上、話はこのまま平行線を辿り続けるだろう。

「真実がどうあれ、僕は君をここから連れ出すと決めた。後世に伝わっている歴史に従えば、ご神体は今夜を以て行方知らずとなる。君の意見は聞かない。何としてでも僕の本丸に来てもらうよ」
「裏切り者をかくまうつもりか?」
「君が実は歴史修正主義者だった。それこそ、証明する適当な手段がない。過去に取り残された刀剣類は、発見した本丸の所属として新たに処理されるだけさ」

 細い手首を掴み、傾いだ身体を引き寄せる。首筋に顔を埋め、背中を掻き抱いても、長谷部くんは腕の中から逃れようとはしなかった。彼ほどの実力があれば、太刀相手だろうが十分に返り討ちにできる。黙って抱かれるままになっている、これが彼自身の意志でなくて何だというのか。

「突き飛ばさなくていいのかい」
「最後くらい良い目を見させてやるさ」
「まだ逃げる気でいるのか。君も大概諦めが悪いね」
「俺は誰かさんと違って一途なんでな。先日のことも、犬に噛まれたと思って忘れてやる」
「ひどいな、僕はずっと長谷部くんだけ――」

 長谷部くんの肩越しに、白く染まった池沼を見る。
 一瞬だけ世界を夜から昼に変えた閃光は、轟音を伴い森に灼熱と化生をもたらした。

 僕から離れた長谷部くんが刀を抜き、僕は僕で浴衣を捨てて武具を纏う。宵の空に黒煙が立ち上り、炎の舌が木の葉を絡め取った。祭りの会場よりだいぶ離れたここからでも、恐慌に陥った人々の悲鳴が聞こえてくる。

「長船さんには僕の仲間が付いている。そこは安心してくれて構わないよ」
「ここにもうひとり逃げ遅れがいるんだが」
「奇遇だね。僕もまだひとり保護できていないんだ」
「足手まとい」
「盾でも、囮でも。好きなように使ってくれ」

 恨みがましい視線を横目に、自らの刀身を夜気に晒す。足手まといの評は脅しでも何でもない。先んじて脇腹を殴られなければ、かりそめの心臓を深々と槍に抉られていただろう。よろめいて生じた間隙に長谷部くんが入り込む。上裸の刺客はすかさず間合いを見定め、僕らから距離を取った。

 槍兵が睨みを利かす中、破裂音が両者の均衡を崩す。複数の銃弾が紫色の刀に迫り、その肉を貫く寸前で砕け散った。一拍遅れて、展開していた刀装がぱりんと音を立てて割れる。その数、ただの二つ。いかに格上の相手だろうと、盾兵で固めた防御を削りきるには及ばない。

「なるほど、壁としては優秀だ」
 長谷部くんの口角がにいと吊り上がる。審神者の加護を持たない彼は一太刀でも受ければ致命傷になる。かと言って僕では敵に有効打を与えられない。各々の役割を理解し、ようやく即興コンビの体裁が整った。

 調べたところ、検非違使に小回りの利く刀種はいない。槍、大太刀、薙刀、太刀とどれも夜戦を不得手とする者ばかりで、始まってみれば長谷部くんの独壇場だった。
 神速の突きは槍より速く、ひとたび腕を振るうだけで大太刀の装甲が剥がれた。ろくに手入れのされていない森は足場も悪く、木の根が入り組んで走りづらい。その悪路をものともせず、彼の打刀は自在に戦場を駆けた。

 じわりと火の手が迫る。突如として生じた光源は竹林から墨色を奪い、交差する二振りの姿を浮き彫りにした。
 大柄な方の影が一歩踏み込む。胴を薙がれた竹が二つに分かれ、他の木を巻き込んで倒壊した。標的にされた刀は下敷きを免れ、中空に帯布を靡かせている。
 強烈な膝蹴りが太刀の脳を揺らす。飛び降りた勢いをそのまま載せた一撃は、頭蓋をも割る威力だった。
 文字通り敵を足蹴にし、長谷部くんは悠々地上に舞い戻る。念には念をと、長谷部くんが倒れた屍に切っ先を向けた矢先、つむじ風が吹いた。葉を、大気を、皮膚を刻むかまいたちが僕らを襲う。薙刀の放った剣圧は肌に届くよりも先に、不可視の防御壁に阻まれた。

「隠れようが無駄だ」
 攻撃を仕掛けるということは、己の位置を相手に晒すと同義である。場所さえ判れば、俊足自慢の刀に追えぬ道理はない。旋風が次々と木肌を削り取る。ただ肝心の刀を屈服させるには及ばなかった。待てど暮らせど刀装の出番は来ない。風より速く動いた刀は、服の一片すら損なうことなく薙刀の首を落とした。
 死骸は皆灰燼と化し、火の粉に寄り添った。ひりつくような殺気は消えている。ひとまず脅威は去ったと見ていいだろう。

「お見事」
「褒めても何も出ないぞ」

 立て続けに強者を屠った刀が鞘に収まる。検非違使を斥けること五体、その誰もが迷わず長谷部くんを狙ってきた。敵の目的がご神体の破壊にあることは間違いない。

「会場の方も確認しに行こう。神社にまで火は来てないと思うけど、混乱が生じて避難が滞ってる可能性は否めないからね」
 僕の提案に長谷部くんは素直に頷いた。長船家の者は素より、長年世話になった神社の関係者や村人の安否が気に掛かるのだろう。検非違使はこちらで対応したし、歌仙くんたちがしくじるとも思えないが、戦場では何が起きるか判らないものだ。

 山火事を避け、大きく迂回しながら森を抜ける。あれほど賑わっていた参道は閑散としていた。仲間が上手く誘導してくれたらしい。ゴミや荷物が散乱しているとはいえ、境内は静かなものだった。隣で長谷部くんが胸を撫で下ろしている。僕もつられてほうと一息ついた。

「燭台切!」
 呼ばれて声の主を探せば、浴衣から戦装束へと格好を改めた歌仙くんと小夜ちゃんが来ていた。

「ふたりともお疲れ様、検非違使は何とかなったよ」
「それは何よりだけど、こっちは悪い報せだ」
「神社の人、来てません」
 息を呑んだ。反射的に長谷部くんの方を向けば、彼は幽鬼のごとく顔を青くしている。

「じいちゃん」
 菫色の裾が翻る。あれほどの大立ち回りを披露しても見せなかった汗を浮かべ、長谷部くんは社殿へと一目散に駆けていった。

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 居間、厨、寝室と方々を探し回る。百年以上その外観しか窺うことのなかった長谷部家は、俺が知る頃とほぼ変わりない。記憶と異なるのは、仲睦まじい少年二人が映る写真や、表彰状の類が飾られていない点ぐらいだ。
 掃除のやり方から礼儀作法まで厳しく躾けられたが、老夫婦はいつだって拾った赤子に優しかった。いや長船の参拝が形骸化しつつある今となっては、村で唯一祖父だけが先祖の意志を継いでいたと言っても過言ではない。もう俺はあの人の孫にはなれないが、育ててもらった恩を返せないのは論外だ。

 拝殿と住居部分は空振りに終わった。残るは祖父すら滅多に近づかない本殿のみになる。豪奢な見てくれだが、その扉は古びた森の古堂に繋がっていた。この仕掛けを知り、利用できる人物は長谷部家の当主に限られる。
 鎮守の杜が炎上しているのを見て、祖父はどうしてもご神体の無事を確認したかったのだろう。こんな危急の時でさえ、彼は自らの職務を放棄することはなかった。今はその篤実な人柄がひどく恨めしい。

 足を速める中、ちり、と微細な違和感が肌を刺した。本殿の戸が開かれたらしい。ねぐらに残してきた神域に穴が空き、隠匿のまじないも弱まる。疎ましいことに、ここらの猟犬はしっかりと鼻が利いた。

 落雷を受けた壁が崩落する。本殿は半壊し、おちこちに飛び散った木片から煙が燻りだしていた。火種を消す余裕はない。兜鉢に三本角を戴いた男は、今まで切ってきた遡行軍と似て非なる容貌をしていた。おそらく先刻襲ってきた連中の頭目だろう。突き出された槍を捌いて判った。強い。力量は贔屓目に見て互角。到底、誰かを護りながら戦えるような相手ではない。

 目の前で展開される死合いに祖父は腰を抜かしていた。古希を迎えて久しい御仁だ。誰かの助力なしにふもとへ逃げるのは至難の業だろう。こいつの目的は俺としても、火が燃え盛る前にここから脱出できなければ、どのみち祖父の命はない。

「っ、立ってくれじいちゃん! ご神体は何とかする。外に出れば肩を貸してくれるやつがいるから、そこまでどうにか踏ん張ってくれ!」
 巻き添えを避けるべく、穂を何度か払って敵を庭へと誘導する。三本角の武者は老体に見向きもせず、俺の背を追った。

 地面を蹴るほどに社殿からは遠のく。祖父の姿が砂粒ほどになったところで、続いていた足音が不意に消えた。月光が一瞬遮られる。跳躍した異形の兵士は俺の頭上を超え、着地するなり長い柄を力強く振り回した。

「ぐゥッ……!」
 刺突にばかり意識が行きすぎた。脾腹を打ち据えられ、俺は石ころ同然に地を転がる。勢い止まらず塀に衝突し、忽ち激痛が全身を苛んだ。

 刀を杖代わりに立ち上がろうとして、敵との直線上に落ちているものを視界に収める。反射的に懐を探った。無い。俺と光忠とを繋ぐ、唯一の道しるべが、文字通りこぼれ落ちてしまっている。

 足がもつれるのも構わず、無我夢中で踵を浮かせた。敵のことも忘れて、がむしゃらに薄汚れた御守り袋へと手を伸ばす。俺が希望を掴むより先に、絶望が矛に形を変えて装甲ごと肩を破った。

「ア゛あァああ!」

 もんどり打って風穴の空いた左肩を押さえる。鮮血が袖を濡らし、柄を汚して、刀を握る気力さえ失わせた。傷口が熱を孕み、思考を赤く染める。膝を折り、無様に蹲る俺はもはや槍兵の敵ではない。しかし、これは殺し合いだ。剣道の試合のように相手を打ちのめして終わりとはいかない。悶絶しているうちに再び鋭鋒が迫る。

 ああ、俺はまた間違えたのか。反省してみたところで今度ばかりはやり直しも利かない。やっと光忠の右目を守れたと思ったのに、再会も叶わず折れてしまうなんてピエロもいいところだ。燭台切にも結局謝れていない。

 他の燭台切光忠でも惹かれたなんて嘘だ。あいつだからあれほどに焦がれ、身体を許した。そう断言してやりたかったのに。どうしたって俺の中には光忠がいる。
 本当に、あいつが俺の光忠だったら良かったのにな。

 鋼の身にひびが入る。死とは存外気安いものなのか、串刺しにされる苦痛を二度味わうことはなかった。

「長谷部くん!」

 此岸の一喝が俺の意識を現世に引き留める。そもそも六文銭を渡すには時期尚早だったようだ。腹にも背にも新たに空いた穴など見当たらない。

「僕には散々粘り通しておいて、見ず知らずの男が相手だとあっさり生存を諦めるなんて納得いかないなぁ」
 男が持つ最後の刀装が砕け散る。これで防御面では裸一貫になったというのに、俺より戦闘経験の少ない刀は泰然と構え、俺と敵との間に立ちはだかった。

「いいかい。無理だけはするんじゃないよ、燭台切!」
 離れたところでは、若紫色の青年が祖父を支えている。湿った風が吹いた。煽られた赤い波濤は本殿をまるごと呑み込み、廊を伝って社殿全体に広がろうとしている。神はこの村一番の信徒を見捨てなかったらしい。奇跡の大盤振る舞いに、俺はただ呆けることしかできなかった。

「ああ、無理はしない。でも時間稼ぎとはいえ、敵に背を晒すような真似もごめん被るよ」
 黒い外套が死地を後にする。残されたのは死に損ないの俺と、燭台切に三つ角の悪鬼のみだった。

 勝てない。燭台切では、あの槍を突破できない。凶刃が男の臓腑を穿つ未来を幻視し、血が凍った。
 立て。今ここで立ち上がらずして、いつ立ち上がる。肋が折れ、左腕が棒きれと化そうが、俺はまだ刀を扱えるじゃないか。

 厄災を祓うための場所は、忽ち剣戟の声に満たされた。火の粉が夕闇を押しやり、丁々発止の闘いを浮き彫りにする。ただ打ち合いというには、あまりに一方的だった。
 槍が二度、三度と黒い太刀の肌を裂く。巧みに致命傷は避けているようだが、極限に身を置く燭台切の消耗は相当なものだ。錯覚とも取れる微少な差異とはいえ、男の太刀筋が若干鈍くなりつつある。ここから生じた隙を突くには、針の穴を通すような妙技が必要だろう。三本角は、その手の曲芸を事もなげに実現してみせた。

「ちッ……!」
 神速の突きが燭台切の肘を嬲る。この一撃は牽制で、実のところ本命はその次にあった。ずぶり、と不吉な音を皮切りに静寂が訪れる。

 長い、長い槍の行方を目で追った。穂先が、燭台切の顔半分を覆い隠している。正しくは、黄金色の眸を貫くようにして、凶器が彼の右目に沈んでいた。

 絶叫があがる。重傷に堪えかねた燭台切の悲鳴だったのか、発狂した俺の喉から漏れたものかは判らない。

 萎えた足が浮いた。痛みも怠さも忘れ、怒りのままに白刃を振るう。切り落とした右腕を蹴り、返す刀で喉を狙った。しかし敵もさるもの、隻腕になってなお片手で槍を操り、迫る追撃を払いのけた。

 手を止めず、弾かれた刃でさらに弧を描く。薙いで、突いて、切り上げる。防がれようが、反撃を受けようがどうだって良かった。いずれが斃れ、生き長らえようと、あの美しいきんいろが戻ってくることはない。

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 この身に埋まっていたものが抜け出ていく。過去にも出陣した先で大なり小なり怪我を負うことはあったが、およそ今ほど奇妙な感覚に陥った試しはない。

 右目を失って、僕が味わっているのは解放感だった。眼窩に嵌まっていたのが重い蓋だったとでも言いたげに、ぽっかりと空いた穴は外界との接触を悦んでいる。

「よくも」
 焔の雨を浴びながら、愛しい刀が何かを叫ぶ。
「よくも、俺の光忠を」
 彼が呼んでいるのは、僕だった。

 腕を動かす。先だって諦めるなと窘めた側が、たかが片目を潰されたくらいで長々とへばるのは格好悪い。

 土を掻いていた指先が硬い感触を捉える。刀ではない。布に包まれたそれは、戦場において験担ぎにもならない代物だった。
 ならば僕は狂ってしまったのだろうか。無意味と知りつつも袋の口を寛げ、中に入った金属片を眼前に掲げる。今し方できたばかりの空白が、メッキの溶けた釦を前にして慌ただしく訴えた。食らえ、と。

 右の窪みが落ちてきた金の釦を咀嚼する。埋まった。自分でも意識していなかった欠陥が、みるみる本来の姿を取り戻していく。不思議なことだ。変わらず右の視界は閉ざされたままだというのに、むしろ以前より世界が鮮明に見えるじゃあないか!

 相手の猛攻に辟易としたらしい槍兵が大きく後退する。屋根に一時逃れ、敵が追ってくることを見越し、迎撃に備えた。その澱んだ眼光は、復讐に猛る打刀にのみ向けられている。よもや既に斥けたはずの刀が、横合いから奇襲を仕掛けてくるとは思ってもみないだろう。

「油断を突いて大暴れ、とかそういうのができたら理想だよねえ!」

 脇から入った刀が鐙を経て、肩へと至る。二つに分かれた身体のうち半分は地上に落ち、穢れた血を撒き散らした。
 鍔を鳴らし、役目を終えた刀を佩く。ついさっきまで暴れ通しだったというのに、長谷部くんは借りてきた猫みたいに大人しくなっていた。

「ただいま、長谷部くん」
「え……あ、お前、目は」
「ご覧の通り、代わりを手に入れたから今は痛くないよ。見えるわけではないけど、両目が使えたときより調子が良いくらいだね」
「代わり」
「そう。君が大切に持っていてくれた逆転の秘策」

 中身が消え、袋だけになった御守りをそっと差し出す。ぼろぼろの紐を彼の柄に通すついでに、柔らかい耳朶へ唇を寄せた。

「十歳のときの誕生日プレゼントは、君がこっそり練習して作ってくれたビーフシチューだったね」

 あれは僕がまだ目玉焼きくらいしか作れなかった頃の話だ。レシピ本を眺め、美味しそうだよね、と何気なく零した僕の言葉を彼は覚えていたらしい。初めて料理に挑戦した幼馴染みは、毎日のように指先を絆創膏だらけにしていた。何か企んでることは判りきっていたけど、親友の悪戯めいた笑みが嫌いになれなくて、僕は好奇心と寂しさを覚えながらもネタ晴らしを辛抱強く待った。

 もう授業以外で二度と料理はしない、と言い張る彼のビーフシチューは少し酸っぱくて、水っぽくて、とても優しい味がした。不器用で、頑張り屋さんで、いつも僕を一番に考えてくれる長谷部くんが、僕は昔から大好きだったんだ。

「話したらまた食べたくなっちゃったな。作ってくれるかい、長谷部くん」
 問うと、藤色の瞳から透明な雫が一筋流れる。

「……あの頃の俺だと思うなよ」
 強気に返す長谷部くんの語尾は、ひどく震えていた。

 噎び泣くこいびとを胸に閉じ込め、落ち着くのを待つ。援軍を呼びに行ってる小夜ちゃんと、こちらに急行している貞ちゃんたちには悪いけど、もう少しくらい再会の余韻に浸らせてほしい。

 ふと頬に何かが当たる。見れば、分厚い雲に覆われた空から雨粒が落ちてきていた。勢いを増す天の恵みは、いずれ社殿の火もろとも山の災禍を鎮めることだろう。

 神様の役目はもう終わりだ。百年に渡る務めを讃えるべく、僕は濡れて重くなった煤色をたくさん愛でることにした。