園芸部光忠 VS ミニトマト嫌いな幽霊長谷部くん - 1/5

 

 

 僕の目は見えないはずのものが見えた。

 例えばそれは、橋の欄干にもたれる足の無い女性だったり、男子生徒の背にぴたりと寄り添いながら誰にも顧みられないご老人だったりする。すれ違う人々と比べ、明らかに稜線の曖昧な彼らは、既にこの世の者ではなかった。

 同じ制服を着た高校生たちに紛れ、自分も人混みの多い交差点を急ぐ。その中央に鬼の形相をした男性が立っているのは、見て見ぬ振りだ。極太フレームの伊達眼鏡はこういうときにこそ真価を発揮する。現世に執着する幽鬼をやり過ごし、今日も僕は憂鬱な登校時間を終えた。

「よう光坊、相変わらずの瓶底眼鏡だなあ!」
「おはよう鶴さん、そっちこそ相変わらず白いね」

 色素の薄い髪と肌を持った彼は鶴丸国永、三年生で僕の先輩である。儚げな容貌とは裏腹に、その言動は自由人を地で行っていた。受験を控えながら、オカルト研究部なんて怪しげな部活を立ち上げた時点で彼の破天荒さは十分に窺えるだろう。
 ちなみにこのオカ研、設立したてにも関わらず既に五人もの部員を確保している。そして僕が身を置く園芸部は総員一名、少数精鋭にも程が有った。

「その分厚いレンズを見込んで光坊に頼みが有るんだがなあ」
「鶴さん知ってた? 僕これでも園芸部所属なんだよ」
「ああ、その特徴的なトマトシザーに土汚れのついたジャージ姿、文句の付けようもなく園芸同好会だな!」

 部として認められるには最低三名の希望が必要である。数少ない先輩が春に卒業し、新入部員も獲得できなかった園芸部は同好会に格下げされていた。

「そうだよ、一人しかいないから剪定に水やりに買い出しにと大忙しさ」
「大変そうだなあ。人手と資金は喉から手が出るほど欲しそうだなあ」
「あまり伽羅ちゃんに無理言うのは止めてあげてね」
 またも後輩を人身御供に捧げそうな気配がしたので釘をさしておく。

 伽羅ちゃんというのは渾名で本名は伊達広光、僕と鶴さん、共通の友人だ。僕たちは中学からの付き合いで、もう一人の後輩、貞ちゃんも含め、しばしば四人で集まっては騒がしい日々を過ごしていた。鶴さんと貞ちゃんの思いつきに他二名が振り回されていたとも言う。
 一人でいるのを好む伽羅ちゃんは、何だかんだ付き合いが良く、頼まれると断れない性格をしていた。鶴さんが僕に無茶振りをするたび、その埋め合わせとして伽羅ちゃんが派遣されるのは恒例行事と化している。人手は確かに欲しいけど、手製のシュークリームで夏場の園芸部活動を手伝わせるのは少し気が引けた。

「じゃあ貞坊を呼ぼう」
「貞ちゃんはまだ入学してないだろう」
「はっはっは、既にあいつ用の制服は用意してある。ほんのり刺激的な園芸部活動を楽しんでくれ」
「常に教師の視線を気にするトマト剪定なんて嫌だよ」
 溜息ついて生え出した脇芽を摘み取る。すっきりした枝振りに満足した僕は立ち上がった。土埃を払い、軍手を外して鶴さんの方に向き直る。

「一区切りついたから今日の園芸部活動は終了。さて、どんな用向きかな部長さん」
「流石は光坊! 話が解る!」
「駅前に新しく洋菓子屋さんができたんだよね」
「流石は光坊! ちゃっかりしてやがる!」

 バケツやスコップを倉庫に片付ける頃には日が傾いていた。橙色に染まったグラウンドを一瞥する。トンボを持った野球部、ハードルを片付ける陸上部、目に映る運動部のほとんどが帰り支度を進めていた。彼らの多くは制服に着替えた途端、校舎を一顧だにしなくなる。コンクリートから日中の熱が失われていくように、活気もまた過去の物となっていった。夏の夕暮れはやはりどこか物寂しい。
 こんな叙情的な気分になるのも、校舎に残った生徒が僕一人だけという状況のせいだろう。僕だって好き好んで帰宅を遅くしてるわけじゃない。全ては己の体質と、鶴さんが持って来た頼み事のせいだ。

「最近、運動部の間で妙な噂が流れてるんだ」

 声をひそめるように言う鶴さんの様子で、その噂とやらの大筋は掴めた。

「夕方になるとグラウンド前のフェンス付近に」

 指定された場所に足を向ける。地面に映る菱形の羅列を掻き消すのは一人分のシルエットだけだった。僕の目を介さずとも、誰もがその異常に気付くだろう。フェンスに指を差し入れ、誰も居ないグラウンドを見つめる青年の背後に影法師は無い。

「俺たちと同い年くらいの男がぼうっと突っ立ってるって」

 パーカーにジーンズ、スニーカーを身につけた青年は僕に背を向けていた。そうしたラフな格好でも、しゃんと伸びた背筋は凛々しい顔立ちを自ずと想像させる。
 果たして僕の予想は現実のものとなった。砂利を踏み鳴らす音に反応したのか、青年がこちらを振り向く。煤色の髪が初めて揺れた。紫水晶を溶かし込んだような瞳と目が合う。綺麗だ、とか美しい、とか思うより先に、僕の唇はある人物の名を紡いでいた。

「長谷部くん……?」

 その呼び掛けに彼が反応を示すことは無かった。肯定も、否定もされず妙な沈黙が一時を支配する。その間、何度か目を瞬かせた青年は、フェンスから離した指先をそのまま自分に向けた。

「その長谷部とは、俺の名のことなのか?」

 幽世の住人が寄越したのは、己の身の上を尋ねる言葉だった。

 カキン、と金属同士のぶつかる音がした。打ち上げられた球の軌跡が蒼穹を分かつ。大きく弧を描いたボールは吸い込まれるようにミットの中へと収まった。熱心に練習を続ける彼らだが、悲しいかなうちは野球強豪校ではない。三年生は既に引退しており、捕球に励む面子も一、二年ばかりだ。初々しさも手伝って、いかにも青春といった雰囲気を醸している。僕はそんな光景を尻目に今日もスコップを握っていた。

「実際会ってみてどうだった」
 ソーダアイスを咥えた見物人が昨日の首尾を問うてくる。その右腕に引っかけられたビニール袋には、まだ手つかずの氷菓が残っていた。
「LINEで送った通りだよ、あれは本物だった」
「そこは俺だって疑っちゃいないさ。俺が詳しく訊きたいのは、光坊が見てどう思ったかって話だ。噂じゃあ結構なイケメンらしいじゃないか。どうだ? その瓶底眼鏡に適いそうな見てくれだったか」
「だから、僕は別にそっちの気が有るわけじゃないんだってば」
 多分、と小さく付け足して下世話な勘繰りを却ける。否定しきれないのは、昔日のほろ苦い記憶と実際青年に見惚れてしまったことが大きい。しかも、よりによって彼の名前まで口走ってしまった。あれは自分でも失態だったと思う。

「でも女子とは付き合いたくないんだろう? それ付ける前までは漫画みたいなモテ方してたくせに」
「女の子は当分いいよ……」
 意図せず重苦しい息が漏れ出る。

 僕はある時期から格好いい男になることを目指してきた。その努力が実ったのか、自分の容姿は異性にとって魅力的に映る部類に成長したらしい。中学の三年間、女生徒から好意を打ち明けられたことも何度か有った。僕も人並みに男女交際とやらに興味を持つ時期だったから、軽率にそれらの申し出を受け入れた。
 そう、軽率だった。僕は長船光忠という男子が、女子の間でどういう扱いをされているか理解が足りなかったのである。

 中学生における男女交際は、恋に恋している部類が大半と言える。中には甘酸っぱいやり取りを経て、健全に仲を深めていく例も有るのだろうが、少なくとも僕の場合は完全に前者だった。
 性に目覚めて間も無い青少年たちにとって、「彼氏」「彼女」とは一種のステータスである。田舎の公立中学では特にその傾向が強く、恋人がいるというだけで一目置かれることも珍しくない。さらに、その付き合っている相手がスクールカーストの上位に位置しているなら尚更だ。

 運動部に属し、成績もまずくなく、料理等の話題で女子とも盛り上がれる僕は、「価値有り」とみなされた。要するに、僕は彼女たちにとってブランド品に過ぎなかったのである。
 長船光忠をめぐる女子の水面下の争いについてはあまり言及したくない。女同士のどろどろした怨念に異形の方々が引き寄せられ、教室が毎日幽霊屋敷のようだったという事実だけで話は十分だろう。

 そういった経緯を辿り、僕は男子校に進路を定めた。相手を取っ替え引っ替えしてるとか、夜の繁華街で複数の女子と歩いていた、とかあらぬ噂を流されるのはもう懲り懲りだった。

「しばらくは鶴さんたちと遊んだり、こうやってトマトを育てたりするだけで十分かな、僕は」
「そんな赤い悪魔と戯れるだけの青春とか空しくならないか」
「もうまたぁ。鶴さん、好き嫌いはいけないよ」
「は? いきなり何だ光坊」
「今さっき肉食系全開の発言をしたばかりじゃないか。そうやって野菜を毛嫌いするから血色も良くないんだよ」
「いやだから何も言ってないって」

 冗談を言っているようには聞こえない。青葉から目を離し、ぐるりと周辺を見渡す。
 グラウンドと中庭とを隔てるフェンス、訝しげに僕を見下ろす白い先輩、そして明らかに部外者と判る私服姿の青年。
 がしゃん、とスコップが耳障りな音を立てた。四つの眼が同時に驚愕に染まる。動揺する僕を見ての反応だろうが、驚きたいのは寧ろこっちの方だった。

「何で君がここに居るんだ!」
「居たら悪いのか」
 前宵の幽霊は腕を組み、ふんぞり返る。夕方の校舎にしか現れないはずの彼は、さも当然のような顔で僕の傍らに立っていた。

「日没まであと二時間くらい有るよ。早めに来るにしたって五分前行動ぐらいを心掛けてほしいなあ」
「幽霊が今更社会の常識を守ってどうする。大体、俺は夕方だけ活動してるわけじゃないぞ」
「ああもう正論! でも何だか納得できない!」
「納得はしなくていいから理解だけしてくれ。何にしろ、会話のできる生きた人間は貴重なんでな。お前がそうだと知れた以上、俺の取る行動は決まっている」
 なお可否は聞かない、という締めくくりに僕はこめかみを押さえた。眩暈がするのは熱中症のせいだと思いたい。

「俺から見ると一人漫才やってるようにしか見えんが、久々にな憑かれたかぁ色男」
 霊感ゼロのオカ研部員がけらけら笑う。普段なら体質に理解有る友人の存在に感謝するところだが、今回に限っては例外である。元凶の腕で揺れる袋に目を遣り、遠慮無しにその中身を取り出した。差し入れられるはずだった氷菓は、もう半分以上が溶けかけている。


 白い指先が重苦しい遮光カーテンを開けた。俄に差し込んだ茜色が乱雑な室内を照らし出す。髑髏のレプリカだの、怪しげな水晶球だの、いかがわしい品々が所狭しと並べ立てられた部屋は足の踏み場にも困る有様だった。その惨状に慣れた部屋の主は、道なき道を進み、あっさりと中央のテーブルまで舞い戻ってくる。そして人好きのする笑みを浮かべるや、仰々しく両腕を広げてみせた。

「ようこそ我らがオカルト研究部へ! 歓迎するぞ、黄昏時の幽霊!」

 鶴さんはしっかり椅子を二人分引いて、僕らに席に着くよう促した。悪いな、と一言断る彼に鶴さんは反応を示している。やはり今の時間帯は僕でなくとも見えるのだろう。怪奇現象に縁の無い先輩がみるみるテンションを上げていく。ストッパーの伽羅ちゃん不在が非常に悔やまれるところだった。

「俺は鶴丸国永、オカ研の部長で三年生だ! それでこっちが二年の長船光忠、我がオカ研の名誉部員だな」
「そんな話は初耳です。僕は園芸部一筋だからよろしく」
「ああ、よろしく。じゃあ俺は、と言いたいところだが生憎記憶が無い。自分の氏素性も解らんから好きなように呼んでくれ」
「ほう。渾名の帝王と呼ばれた俺に名付けを託すとはやるな」
「そんな話も初耳です」
 伽羅ちゃんが伽羅ちゃんになった原因は確かに鶴さんだけど、それ以外の渾名は特に浸透していない。それどころか何事にも驚きを求める性分のせいで、思いついた渾名を拒まれることすら有るという事実はこの際忘れておこう。

「そういや、お前さん変わった髪と目の色をしているな」
「鏡や水たまりにも映らないから知らんが、そうなのか」
「ああ。茶髪というほど明るくないが、黒髪ではないな。何て言うんだろうな、こういう色。鈍色? 煤色? まあなんか、そういう渋い感じのやつだ。それで目は紫と来た。まさか幽霊がカラコンしてるわけないだろう?」

 言われて幽霊くんが目元をごしごし擦る。そこまで試して初めて「裸眼だ」と言い切るところが、何だか間が抜けて見えて可愛らしい。いや男の子に可愛らしいって何だ。やめよう、いくら女の子が怖くても新しい扉を開けるつもりは無い。

「なんだか君、光坊が前に言っていた「長谷部くん」の特徴まんまだなあ!」
 鋭い指摘に僕の肩が強ばる。鶴さんは冗談のつもりだろうが、昨夜の醜態を思うと、とてもじゃないが笑えなかった。

「そこの瓶底眼鏡も昨日言っていたが、その「長谷部くん」とは一体どういった輩なんだ」
「ははは、それはなあ、なんと光坊のはつこ」
「僕の昔の知り合いだよ。七年も会ってないから、彼が今どうしているのか、どんな風に成長したのかも解らないけどね。ただ、髪と目の色は確かに君に似てる、と思う」
「そうか。七年ぶりの再会が臨終の知らせになるのは頂けないな。別人であることを祈ろう」
「僕もそう思いたいよ」
 話題が逸れたためか、彼の呼び名についてはそのまま保留された。もっとも途中から僕は幽霊くん、鶴さんは君、で通していたから不便は感じなかった。

「それで、きみはこれからどうするつもりなんだ」
「そうだな。天国だの地獄だの言われているが、実際死んだ身になってみると己の行く末も解ったもんじゃない。とりあえず、しばらくはこいつに引っ付いて、自分がどうして死んだのか調べてみようと思う」
「強制的に僕が巻き込まれるやつだね、把握したよ」
 言われぬ先から僕は協力を承諾した。周囲に強引な面子が多いせいか、面倒事の予兆を嗅ぎ取る感覚が年々研ぎ澄まされていく気がする。予測ができても回避できなければ意味は無いのだが、その辺はもはや諦めの境地だった。

「すまんな。これからよろしく頼む、光忠」
 初めて呼ばれた自分の名に心臓が跳ねた。物珍しさに驚いているだけだ、と言い訳する自身がまた余計に焦燥を募らせる。
 僕はこの時点で安請け合いをしたことを密かに後悔し始めていた。

 校舎から出る。夕陽は水平線の間際まで沈み、空模様は暖色から寒色へと主役を譲り渡しつつあった。相変わらずグラウンドには誰も残っていない。それを意識したのは、彼の視線がそこに落着していたからだった。

「何か気になるものでも見えるの?」
「いや、何も無いな」
「だよね。でも昨日もグラウンドの方を見てただろう。今日と同じで、誰もいないのにさ」
「何でだろうな。つい目がそちらに向いてしまう。ひょっとすると、前は外で活動するタイプの運動部だったのかもしれん」
「ああ似合いそう。その髪型だし野球部じゃなさそうだけどね」
「この季節だからなあ、水泳部とかなら気持ち良さそうだ」
「中学のときは僕水泳部だったよ、冬はほぼほぼ陸上部と化してたけどね」
「ほう、道理で植物を愛でているだけにしてはガタイが良いと思った」
 会話の流れで幽霊くんが僕の右腕に手を伸ばす。すり抜けるとばかり思っていた指は、確かな感触と人肌の温もりを伝えてきた。

「……えっと、想像してたより硬いな?」
「あ、ありがとう? っていうか触れるんだね」
「俺も初めて知った。フェンスも、さっき鶴丸に出された菓子にも触れなかったのに」
 衝撃の事実に興奮したのだろう、幽霊くんは遠慮無しに僕の身体をぺたぺたと触り始めた。気持ちは解らないでもないけど、心身ともにくすぐったいので、もう少し容赦してほしい。

「あ」
「今度はどうしたの、ってちょっと」

 目元がふっと軽くなる。この二年、屋外では滅多に外さなかったお守りが、青年の手に握られていた。

「俺が映ってる」

 返却を求める声は、陶然とした呟きを前に呑み込まれた。自分の姿を初めて見た藤色の瞳が昂揚に輝いている。

「こんな顔だったんだな、俺は」
 姿見の代わりにされた僕の目いっぱいに、目尻を下げた青年の微笑が広がった。今まで見せてきた不敵で不遜な表情とは違い、今の彼は随分と穏やかであどけなく感じる。固まる僕を前に幽霊くんはさらに距離を詰めてきた。長く垂らしていた前髪が掻き上げられ、とうとう両の目が彼の姿を捉えてしまう。

「何だ、こうして見ると結構な男前じゃないか。こんな野暮ったい眼鏡つけてる意味が理解できんくらいだ」
「格好悪いのは承知の上でつけてるんだよ。満足したなら返してくれ、それがないと家にもまともに帰れない」
「返せと言うなら返すが、できれば俺の前では外していてくれ。自分の姿がどこにも映らないのは不安だし、それに……あー」
「それに、何だい」
「……せっかく綺麗な顔してるんだから、隠すのは勿体ないだろう」
 逸らされた視線の先を追う。西日のせいでは誤魔化せないほど、その頬には朱が差していた。

「そういう台詞は、女の子に言ってあげるべきじゃないかい」
「それは嫌味か。現状お前以外に話せるやつのいない、ぼっち幽霊に対する嫌味か」
「あっはっは。華奢で折れそうな美少女とは程遠くてごめんね」

 前髪と戻ってきた伊達眼鏡で顔の半ばを覆い隠す。おそらく僕の顔も彼に負けず劣らず赤くなってるに違いない。速まる鼓動が何を示唆したものなのか、深くは考えたくなかった。