園芸部光忠 VS ミニトマト嫌いな幽霊長谷部くん - 2/5

 

「お前、なに泣いてるんだ」

 聞き覚えの無い声が降ってきて、幼い僕は反射的に身を竦めた。再度呼びかけられて恐る恐る顔を上げる。淡い紫色の中に、涙と鼻水とで酷い面構えになった自分を発見した。そのせいで惨めな気持ちが余計に膨らみ、またも頬を生温い水が伝っていく。

「こら怯えるな、俺が泣かしたと思われる。ほらハンカチとティッシュ、ちんしろちーん」
 乱暴な物言いと違い、僕の顔面を拭う彼の手つきは優しい。嘔吐いてろくに話もできない僕に、その見知らぬ少年は辛抱強く付き添ってくれた。

「ここは俺の爺ちゃんちの庭だ。お前はあれか、迷子か」
 少年の問いに黙って首を横に振った。適当に歩いてきたけれど道筋は覚えているから、迷子ではない。
「手出せ」
 未だに警戒心の解けていない僕は、怒鳴られるのが嫌で言われるまま少年の指示に従った。差し出した手を取られ、ぐいと引っ張られる。
 少年は僕を連れてひまわり畑の中を突っ切った。黄色いトンネルを抜けた先で、伝統的な日本家屋に出迎えられる。縁側には人の良さそうな年配の女性が座っていた。

「婆ちゃん、ただいまー」
「お帰り、しげちゃん。あら、初めて見る子だね」
「さっきそこで拾ってきた。アイス二人で分けてもいい?」
「もちろん。居間は冷えてるから上がってもらって」
「だってさ、ほら行くぞ」

 靴を脱いだ少年は、玄関からではなく縁側から屋内に入っていった。戸惑いながらも、婦人に促されて僕も中に足を踏み入れる。
 ふと、廊下の隅に夏場にも関わらず赤い着物姿の女の子を見つけた。彼女はこちらに気付いていない。無邪気に鞠を突く様子に害は無いと知れたが、先の出来事を思い出してまた涙腺が緩んだ。
 なかなか来ない僕に焦れたのか少年が戻ってくる。その踵は一度返され、それから早足になってまた僕と合流した。腕にはアイスの他にティッシュ箱が抱えられていた。

「俺は長谷部国重だ。お前の名前は」
「長船、光忠」
「光忠か。よし、もう喋れるなら大丈夫だな。さっきの続きだ、何で俺んちの庭で泣いてたんだ」
「いっても、信じてもらえない」
「信じるか信じないかは話を聞いてから判断する。アイスをめぐんでやったんだ、対価はからだで払ってもらうぞ」
 今思い返すと彼は年齢の割にませていた。時折出てくる奇天烈な言い回しはそのせいだろう。幸か不幸か、小さい僕がその違和感に気付くことは終ぞ無かった。

「僕、おばけが見えるんだ」

 それは生まれついての能力だった。始めは自分に特有のものなんて思いもしないから、しばしば誰も居ない場所を平然と指さした。そのたびに同行者に咎められて、幼い僕は当然へそを曲げた。
 嘘は言っていないのに、どうして怒られなくちゃいけないのだろう。身の潔白を表明したくて、僕は周囲の友達にも同意を求めるようになった。異常なのは自分だったのだと理解する頃には、既に学年中で腫れ物扱いが定着していた。

 こうなると学校に通うのも苦痛になる。気付けば一人で居ることが当たり前だった僕は、長期休暇が何よりも楽しみになっていた。特に期間も長く、海やプールに行ける夏休みは最高だった。個人競技なら誰にも迷惑を掛けることはない。重力や級友からも解放され、僕は水中を思うままたゆたった。愚かなことに、当時の僕は休日に知人と遭遇する可能性を全く考慮していなかったのである。

 その日、市民プールには隣のクラスの友人グループが遊びに来ていた。そして運悪く、彼らのうちの一人が足をつって溺れてしまった。泳ぐのが得意な子だったから、友人たちは少なからぬ衝撃を受けた。

 納得いかない。誰かに足を引っ張られたんじゃないか。でも周りには自分たちしか居なかった。一体誰の仕業だ。

 正義感に突き動かされた子供たちは、存在するかどうかも解らない犯人捜しに躍起になった。さほど大きくもない施設である。どんな小さな事故でも人目を惹くには十分だった。
 剣呑な空気を察した僕は、好奇心の赴くまま人の輪に近づいていった。小さい身体を利用して大人たちの間を抜けていく。その先に生贄を求める少年たちの姿が有った。既に異端者の烙印を受けている僕は、彼らからすれば格好の餌食だった。

「お前が化け物を呼んで××ちゃんの足をひっぱらせたんだ」
「でなきゃ××ちゃんがおぼれるはずない」
「あやまれ。××ちゃんにあやまれ」

 謂われなき中傷が降り注ぐ。友情を笠に着た暴力はすぐ大人たちに取り押さえられたが、僕への疑念が晴れることは無かった。
 シャワーもまともに浴びず、適当に身体を拭いて更衣室を出る。かんかん照りの炎天下に身を晒した途端、汗が噴き出た。だくだくと流れる水分が服に、地面に吸われていく。流石に気持ち悪くなってバスタオルを顔に押し当てた。そのまま僕は、声を殺して泣いた。

 誰とも会いたくなくて、家にも帰らず、真っ直ぐ伸びる畦道を一人歩き続けた。そのうちに道も途切れ、行く当ても無くなった僕は手頃な石に座り込んだ。
 遠くから子供たちの喧噪が聞こえる。それらの仲睦まじげな掛け合いは、まさに僕にとっては他人事だった。たとえ、その輪の中に入りたいと思っても叶うものではない。そう入りたい。仲間になりたい。僕は友達が欲しかった。一人でいるのは楽だけど、楽しくはなかったから。

 そうして孤独に押し潰されそうになっていた僕に、目の前の少年が話しかけてきた。ぶっきらぼうなのは口だけで、彼はずっと優しくしてくれた。僕たちは出会ったばかりで、友達と言えるような関係じゃない。でも僕は、この子にだけは嫌われたくなかった。

「ごめんね、きもちわるいよね。でも僕、嘘ついてない。同じ学校の子をおぼれさせたりなんてしてない。ほんとうだよ、おねがい、しんじて」

 昼にしたのと同じ弁明を少年の前でも繰り返す。反応は無い。彼の様子が気になって面を上げると、ふと視界が明るくなった。見れば彼はテーブルに身を乗り出している。その五指が行き着いた先は僕の前髪だった。

「これ、うっとうしくないのか」
「え、ええ……前が見づらい、とは思うけど」
「だろうなあ、せめてどっちかに流せ。目が悪くなるし、なんか暗く見える。いじめっ子って人種はそういうくだらんことばかり気にするからな。まともに人の話も聞こうとしない輩に、わざわざ責める口実を与えてやることはない」
「きみの言うことは、なんかむずかしい」
「前髪を切るか分けるかしろ。その方がきっとかっこいいぞ」
「かっこいい」
「そうだ、かっこいい。かっこいいやつはいじめられない」
「かっこよくなったら、きみは、僕と友達になってくれる?」

 藤色の瞳孔が一瞬だけ見開かれる。少しばかりの驚嘆を示した少年は、やや乱暴な手つきで僕の髪を掻き乱した。困惑する僕を余所に、頭上からは実に楽しげな哄笑が飛んでくる。

「俺は友達でも何でもないやつにアイスをゆずったりしない」

 このとき、僕は初めて長谷部くんの笑った顔を見た。全身が熱を帯びて、正体の解らない感情が喉元まで迫り上がってくる。
 さる夏の日の暮れ方、僕は友達と好きな子が同時にできた。

 蒸し暑さに目を覚ます。カーテンの隙間から漏れる日の光はいつもより鈍かった。静かな雨音が微かに響き、気まぐれに窓ガラスを叩く。スマホで天気予報を確認してみるも、やはり今日一日は止みそうに無い。本日の園芸部は活動休止である。空いた時間は幽霊くんの身元捜しに費やされるだろう。僕も彼の生い立ちには興味が有るし、それについては問題無い、が。

(このタイミングで昔の夢を見るなんてなあ)
 彼と長谷部くんとの雰囲気が似ていることは否めない。口調も、顔のつくりも、笑い方すら両者は瓜二つだった。長谷部くんが順当に成長していたらああなるのだろう。しかし、もしそれが事実だとしたら、あまりにも自分にとって残酷すぎる。
「そんな偶然、有るわけない」
 長谷部くんと最後に会ってから七年もの月日が経っている。たまの休みに祖父母の家に泊まりに来ていたらしい長谷部くんは、あの夏を最後に僕の住む町に戻ってくることは無かった。彼の実家は福岡に在る。こことは飛行機を選択肢に入れる程度には距離が開いていた。仮に長谷部くんの身に不幸が起きたとして、あの校舎に執着するはずがないだろう。

「その弁当美味そうだな、隅に入ってるミニトマト以外」
「肝心の本人はこの調子だし」
「何だ。もう縦にも横にも伸びないんだから好き嫌いくらいしたっていいだろう。数少ない幽霊の特権だぞ」
「自分の名前一つ解らないのに、死後にまで引き摺るミニトマトへの憎悪って何? 君ミニトマトが原因で死んだの?」
 試しに「男子高校生 死亡 ミニトマト」で検索してみるが、当然そのような案件はヒットしない。つまり彼のミニトマトへの執着は全く別の要因から来ていることになる。どういう人生を送ったら、たかが夏野菜をそこまで嫌えるのだろう。偏食に縁の無い僕には解らない心境だった。

 昼休み、僕は教室まで迎えに来た幽霊に連れられ、屋上前の踊り場に座り込んでいた。屋上は開放されているが、わざわざ雨の日に利用したいという猛者はいない。傍から見ればぼっち飯に勤しむ僕の隣には、ぎらついた目で昼食をチェックする青年の姿が有った。

「ポテトサラダにきんぴらごぼう、加えてほうれん草のおひたしに豚の生姜焼きか。中々どうして豪勢な弁当じゃないか。お前のお袋さんの苦労が偲ばれるな」
「残念、これは僕が作った弁当だよ」
「ミニトマトを入れてなかったら結婚を申し込んでるところだ。危なかったな光忠」
「僕の貞操がね」
 箸を進めている最中も弁当箱には熱い視線が注がれていた。物欲しそうにする彼には悪いが、こればかりは生者の領域なので仕方ない。

「イケメンは食事姿も絵になるな」
 口に含んでいた白米があらぬ所に入る。急ぎ水筒に入れた麦茶で咥内を浚った。食事中にとんだテロ行為をしでかした張本人は、狼狽する僕を心底不思議そうに眺めている。
「いきなり何てこと言うんだい」
「本心だぞ」
「唐突すぎるよ。今度は僕が白いご飯を恨む怨霊になって出るところだった」
「褒めて上機嫌になったら、その豚肉を一枚恵んでもらえると思ったんだ」
「どうせ食べられないでしょうが」
 摘んだ生姜焼きを幽霊くんの前に持ってくる。昨日の時点で彼が僕以外の物に触れることができないのは証明済みだ。ああ、そんな雛みたく口を開けても無駄だよ。可愛いけどね、世の中には愛嬌じゃどうにもならないことだって有るんだから。

「美味い」
 もごもご、と眼前の肉食獣が満足げに頬を動かす。箸の先が吸われた感触は僕の手にもしっかりと伝わってきた。

「……いや、ちょっと待ってくれ」
「おかわりか、待つぞ」
「違う! 君は自分がちゃんと幽霊だって自覚有るのかい、昨日出された煎餅に触れられなくて歯噛みしてたこともう忘れたの!?」
「あんな一種の拷問忘れるものか」
「じゃあ今起きたことにもう少しそれらしいリアクションしてよ。食べたよね、僕の生姜焼き何度も咀嚼して呑み込んだよね」
「……あっ」
 一呼吸置いて彼も事態を把握したらしい。焦心を露わにする幽体の前に、僕はポケットに入れていた飴を取り出した。彼が両手で受け皿を作ったのを認め、その上目掛けて包み紙を投下する。飴玉は青年の手を通過し、僕らが腰掛けていた階段の踊り場に軽い音を立てて落着した。

「……はい、おひたし」
「……濃すぎもせず薄すぎもしない。絶妙な味わいだな」
「……ありがとう」
 次に摘んだほうれん草は無事、青年の舌先へ届けられた。
 僕にだけ触れられ、僕の料理にだけ口をつけることができる幽霊。彼の謎は深まるばかりだった。

「よお、みっちゃん!」
 扉を開くやいなや、馴染み深い声が耳を打つ。ご機嫌な様子で僕らを歓迎した青年は、パイプ椅子の上であぐらを掻いていた。普段ならその不調法を窘めるところだが、今回はそれ以上に彼の服装が気になって仕方がない。

「貞ちゃん! どうしたのその格好!」
「へへっ、驚いたろ! これで俺も校内を堂々と練り歩けるぜ!」
 ぐっ、と親指が立てられる。四人組の中でも最年少で、一人中学校に通っているはずの貞ちゃんは、何故かうちの制服に身を包んでいた。
 彼が変装に満足げなのは一目瞭然である。しかし派手な髪飾りに未だ発展途上な背丈、どう考えても教師の目をかいくぐれるとは思えない。周囲を見渡す。我関せずといった体でスマホを弄る褐色の友人の他に、事情を聞けそうな人物は居なかった。

「伽羅ちゃん、鶴さんは」
「貞を置いて消えた」
 どうして引き留めてくれなかったんだ、とは口が裂けても言えまい。オカルトに全く興味無い彼がこうして部室に留まっているのも、貞ちゃんが外に出ないよう見張るためなのだろう。我らが三男坊は本当によく人ができている。

「なあなあ、時間帯的にはもう夕方だろう? 例のハセベくん似の幽霊は一緒じゃないのか?」
 椅子から下りた貞ちゃんが僕の後方に回る。左右から迫るがらくたの山と僕の陰になって見えなかったのだろう。突然顔を出した貞ちゃんに面食らってか、客人から頓狂な声が上がった。
「おー? おー! なるほど、みっちゃん好みの顔だ!」
「そうなのか」
「ノーコメントで」
 誤解と一蹴してしまいたいのに、あながち否定できない自分が悲しい。視線に若干の棘を感じながら、僕は幽霊くんに向き直った。

「紹介するよ。こっちの子が太鼓鐘貞宗、うちの制服を着てるけどまだ中学三年生で受験真っ盛りだよ。それで座ってる方が一年で、僕と鶴さんの後輩の伊達広光、通称伽羅ちゃん」
「色々と突っ込みたいところは有るが、その本名に掠りもしていない渾名はどこから来たんだ」
「始めはTRPGで制作したキャラからだったかな。伽羅ちゃんが全然名前思いつかなくて、鶴さんが代わりに大倶利伽羅って名付けたんだけど、以降どんなキャラ作っても全部大倶利伽羅って名前にするからノリで定着しちゃったんだよね」
「毎回必ず神話生物に食われるかSAN値0になる呪われた名前だぜ」
「よく解らんが、そんな忌まわしい名前を通称として使われて不満は無いのか大倶利伽羅」
「自分が呼ばれていると判ればそれで十分だ」
 素気なく答える友人だが、彼はこれで一度も大倶利伽羅呼びを拒んだことが無い。内心気に入っていることは明らかだった。

「待たせたなぁ皆の衆! 兵糧を買い足してきた俺こと鶴丸パイセンに愛の一言を!」
「どうしてここに貞ちゃんが居るのかなぁ鶴さん」
「愛ではなく圧を感じる出迎え感謝だな光坊! なあに、これからは二人にも調査に協力してもらうんだ。顔合わせは必要だろう?」
 そう言って鶴さんは片目を眇める。愛嬌をたっぷり滲ませたウインクには少しも悪びれた様子が見えなかった。ちなみに背後では貞ちゃんがキャラシートの準備を進めている。いったい我々は何を調査しようと言うのだろう。幽霊くんの正体より己の行く先の方がよほど掴めそうにない。

 懸念した通り、特に何の進展も無いまま僕らは下校時刻を迎えてしまった。外が雨だからか、幽霊くんも今日は屋外に出るつもりは無いらしい。部室で調査対象と別れた僕たちは久々に四人揃って帰路に就いた。

「光忠」
 伽羅ちゃんから声を掛けられるなんて珍しい。前方ではしゃぐ二人から目を離して背後へと意識を移す。夏の激しい降雨が赤い傘を叩き、簾のように水滴を垂れ流していた。
「俺はあの幽霊を、どこかで見た気がする」
 持ち手を掴む手が弛む。固定されていた柄がずり落ち、僕の肩に当たって一旦止まった。
 蔽いの無くなった顔に容赦無く雨粒が降り注ぐ。急いで傘を持ち直すも、前髪はとうに水を吸って重くなってしまっていた。

「伽羅ちゃんの、知り合い?」
「いや、おそらく俺が一方的に知っているだけだ。悪いが、どこで見たかまでは思い出せない」
「十分だよ」
 これまで手がかりが無いも同然だった。どこから手を付けるべきかも不明瞭な状態を思えば、捜査する場所が特定できただけ大躍進である。

「あの幽霊について調べるのは鶴丸への義理か、それともあんたの好奇心か」
「うーん、何となく放っておけないんだよね。それにほら、夕方以外は僕としか会話できないみたいだし」
 彼に触れるのも僕だけだしね、と付け足す。我がことながら腑に落ちない。どこか言い訳じみて聞こえたのは己だけだろうか。訳も判らず後ろめたさを覚えた僕は、友人の視線から逃れたくて前を向いた。
 果たして先の回答は真実なのか。己すらも解らない鬱積を持て余しつつ、靴底を雨水に浸した。

「あんたがそれでいいなら、構わないがな」
 そうして伽羅ちゃんは再び口を閉ざす。僕も世間話をする気分ではなくて、そこかしこで立つ飛沫をぼんやり眺めていた。

 朝から続く雨は白い線条となって絶えず町を覆い尽くしている。校舎に一人残された彼はフェンスではなく、今日は窓越しにグラウンドを見つめているのだろうか。その様子を想像するに、まるで外で遊べないことを不満に思う子供のようだ。

「かくれんぼだと俺が負けるからなぁ」

 かけっこなら俺の圧勝なのに、と零す少年の指はガラスに張り付いている。指紋が付くからだめよ、と何度窘められても繰り返すそれは、彼の数少ない悪癖だった。