園芸部光忠 VS ミニトマト嫌いな幽霊長谷部くん - 4/5

 

 昔から走るのが好きだった。
 どうして好きだったのかと問われれば、自分でもはっきりとした答えは出てこない。単に人より速く走れるのが爽快だったとか、走ってる間は何も考えずにいられるとか、そういう身も蓋もない理由だったかもしれない。

 思い立ったら即行動、瞬発力こそが全てという信条を掲げる俺は、一方で忍耐力に欠けていた。会話はいつだって脊髄反射、口を開けば歯に衣着せぬ物言い。そんな調子だから反感を買って周囲に煙たがられたというのも、自然の成り行きだった。

 せっかくの長期休暇だというのに友達と遊ぶ予定一つ無い。そんな息子を見かねてか、両親は連休のたびに俺を祖父母の家へ預けた。環境が変われば人も変わる、気難しい息子と気の合う少年少女もいるだろう。おそらく両親の思惑とは、そのようなものであったに違いない。

 光忠と出会ったのは、両親の試みが無為に終わって数度目の夏のことだった。
 祖父母と似た世代しか訪ねてこない家の敷地に、同い年くらいの少年が座り込んでいる。客人が来るという話は聞いていない。曾祖父の時代から受け継いだ畑は広大で、土地勘の無い者が迷い込むことも稀に有った。きっとこの少年もその類なのだろう。

 見知らぬ地で一人取り残される気持ちは解らないでもない。珍しく自分の方から他人との関わりを持とうとしたのは、そういう勝手な同情が根本にあってのことだった。

「お前、なに泣いてるんだ」

 相も変わらず高圧的な口調である。とても精神的にまいってる人間に話しかける態度ではなく、黒髪の少年の顔面はみるみる悲壮に染まっていった。

「こら怯えるな、俺が泣かしたと思われる。ほらハンカチとティッシュ、ちんしろちーん」

 このままでは事情を聞くこともできない。他人を慰めて成功した試しの無い俺は、言葉を尽くすより物理的に奉仕するのが無難だと考えた。ハンカチがぐしょぐしょになるほど涙と鼻水を拭う。それを五分近くも続ければ、少年の上がった息も整い始めて来た。

「ここは俺の爺ちゃんちの庭だ。お前はあれか、迷子か」
 てっきり頷かれるかと思いきや、少年は縦ではなく横に首を振った。
 迷子でないなら、こいつはいわゆる不法侵入者に当たる。爺ちゃんか婆ちゃん、ひいては警察に連絡するべきなんだろうが悪いやつには見えなかった。
 詳しい話を聞こうにも、炎天下で立ち尽くした俺の喉は渇きに渇いている。さっきまで水分を顔中から排出してきた少年もそれは同じだろう。何より、こんな暑い季節に外で長話なんてするものじゃない。

「手出せ」
 俺の指示を受け、おずおずと差し出された手を掴む。そのまま有無を言わさず連行し、我が家自慢のひまわり畑を抜けて祖母の座る庭先へと出た。

「婆ちゃん、ただいまー」
「お帰り、しげちゃん。あら、初めて見る子だね」
「さっきそこで拾ってきた。アイス二人で分けてもいい?」
「もちろん。居間は冷えてるから上がってもらって」
「だってさ、ほら行くぞ」

 玄関より縁側から入る方が居間には近い。決して行儀が良いとは言えないから、後で爺ちゃんに見つかったらきっと叱られるだろう。それでも客人を待たせるよりはマシ、と自分に言い訳して台所まで急いだ。
 カップアイスにスプーンを二人分用意して戻ると、少年はまだ縁側で立ち尽くしていた。誰も居ない廊下の先を見つめて、再び大きな瞳に雫を溜め込んでいる。もうハンカチは涙を吸えるほど乾いてはいなかった。慌てて居間に有った箱ティッシュを持ち出す。先にアイスを置いて来れば良かった、と気付いたのは少年が泣き止んだ後だった。

「俺は長谷部国重だ。お前の名前は」
「長船、光忠」
「光忠か。よし、もう喋れるなら大丈夫だな。さっきの続きだ、何で俺んちの庭で泣いてたんだ」
「いっても、信じてもらえない」
「信じるか信じないかは話を聞いてから判断する。アイスをめぐんでやったんだ、対価はからだで払ってもらうぞ」

 対価は身体で、というのは最近読んだ漫画に出て来た言い回しだが、実際何を要求するのかは知らない。とりあえず取引の場では大変有効な手段らしいので俺も真似てみる。先人の知恵はとかく偉大なものなので問題無かろう。

「僕、おばけが見えるんだ」

 客人の語りは非現実的な告白から始まった。
 生来の異能を疎んじられ、友人に距離を置かれたこと。噂に尾ひれが付いて、疫病神のような扱いを受けていること。プールで同じ学校の生徒が溺れたのを、自分のせいだと決めつけられたこと。
 話すうちに光忠の頭は力無く垂れ下がっていく。また泣いていないか確認しようにも、俯きがちな姿勢に加えて長い前髪が遮るものだから埒があかなかった。
 考えるよりも先に身体が動く。顔の半分近くを覆う濡れ羽色を横に流した。今まで隠れていた琥珀色が露わになる。妖魔すら捉えるらしい双眼には、俺以外の誰も映っていなかった。

「これ、うっとうしくないのか」
「え、ええ……前が見づらい、とは思うけど」
「だろうなあ、せめてどっちかに流せ。目が悪くなるし、なんか暗く見える。いじめっ子って人種はそういうくだらんことばかり気にするからな。まともに人の話も聞こうとしない輩に、わざわざ責める口実を与えてやることはない」
「きみの言うことは、なんかむずかしい」
「前髪を切るか分けるかしろ。その方がきっとかっこいいぞ」
「かっこいい」
「そうだ、かっこいい。かっこいいやつはいじめられない」
「かっこよくなったら、きみは、僕と友達になってくれる?」

 切羽詰まった眼差しと視線がかち合う。光忠は本気だった。自衛のためではなく、友のために自分を磨くつもりでいた。何とも回りくどいやり方である。そんなことをせずとも俺は始めから、
「俺は友達でも何でもないやつにアイスをゆずったりしない」
お前と仲良くなりたくて声を掛けたんだよ、光忠。

 それから毎日のように光忠は俺の家を訪ねてきた。余所者とはいえ、俺が祖父母の家に来るのは初めてではない。近くの山や川は制覇済みである。目新しいものなど何一つ無いのに、光忠と一緒に巡れば不思議と世界の全てが新鮮に映った。

「長谷部くん、みっけ」
「ぐ……」

 かくれんぼ戦績、四勝十二敗。地の利は俺に有るはずなのに、光忠はいつも俺の居場所を易々と探り当てるのだった。光忠の勘が良いのか、俺の隠れる場所が悪いのか。始めこそ優勢だった勝敗表は、ここのところ黒星ばかりが続いている。

「だって長谷部くん、たまに顔出して周囲確認してるよね。心配しなくても僕捜すの諦めて家に一人帰ったりしないよ」
「ち、ちが、あれは警戒してるだけだ! やめろ人を寂しがり屋みたいに言うんじゃない!」
 俺の抗議は今日も軽く受け流された。はいはい、と適当な返事を寄越す光忠は勝者の余裕を漂わせている。初めて会った日のしおらしさはどこへやら、長船光忠は元来のものだろう人懐っこさと好戦的な一面を全く隠さなくなった。

「僕は寂しがり屋だから長谷部くんと会えないのは悲しいよ」
「ついでに恥ずかしがり屋にもなった方が良いんじゃないか」
「かっこいいおとこ、ってあまり恥ずかしがったりしないんじゃないかなあ」

 じゃあ俺は光忠の言う格好いい男にはなれないわけだな。
 会えないのは悲しい? そんなの俺も同じだよ。でもお前みたく口に出しては言えない。正直だけが取り柄だったくせに、光忠を前にすると何故か意地を張りたくなる。

「長谷部くんの学校の登校日はいつ?」
「にじゅう、いち」
「そっか。じゃあ長谷部くんがこっち居るのは、お盆過ぎくらいまでだね」
「ああ、算数でわからないところ訊くなら今のうちだぞ」
「長谷部くんも図画工作のアドバイスは期間限定になるからね」

 互いに内容の違う夏休みの宿題を進めていく。回答欄を埋め、次の頁を捲るごとに印字された日付が目に入った。登校日である八月二十一日まで来たところで、ふと手を止める。今日の日付まで戻り、冊子の中に指を差し入れてみた。薄っぺらい。数ミリの程度の厚みは残された日数を否応なく意識させた。
 僕たち、同じ学校だったら良かったのにね。どこか冗談めかしたような光忠の呟きが脳裏をかすめる。おそらく茶化さずにはいられなかったのだ。それは限りなく本心ではあったけれども、いくら口にしようと現実は変わらない。
 俺たちが同じ道を通い、同じ教室で学び、同じ課題に頭を悩ますことは今後も無いだろう。

 八月八日、前々から予定していた日帰り旅行の日になった。海へ釣りとか、市の博物館になら光忠も連れて行ける。だが生憎とこの旅行はバスツアーで予約したものだった。シーズン中ということもあり席も空きが無い。
 置いていくことを謝罪すれば光忠は苦笑で応じてきた。僕も連れて行くことを検討してくれただけ嬉しいよ、と語る友人は俺より余程人ができている。

 爺ちゃんの長風呂にたっぷり付き合い、ちょっとのぼせかけた俺はロビーで一休みしていた。視界の隅にご当地グッズを前面に押し出した売店が映る。二十代くらいの女性グループが限定品の三文字につられて購入を検討していた。彼女たちに摘み上げられたキーホルダーが揺れている。

 がつん、と頭を殴られたような衝撃を受けた。俺は今まで親戚以外から土産を貰ったことが無い。家族宛に贈られる品は饅頭やクッキーなど食品ばかりだった。そんな俺にとって、食べられない土産とは中々にカルチャーショックな代物である。
 身体の怠さも忘れてソファから立ち上がった。ポケットに手を伸ばす。小銭しか入っていない財布だが、このときは妙に頼もしく思えた。

 帰りのバスの中、小さな包みを意味もなく揉んでは口角を歪める。俺は初めて友達にあげる土産にすっかり浮き足立っていた。
 これをあげた光忠はどんな顔をするだろう。喜んでくれるかな。気に入ってくれるかな。たとえデザインに不満でも無理矢理押しつけるけどな。あいつが俺のことを忘れないでいてくれるなら、何だって良いんだ。ああ明日が待ち遠しい。

 いっそ早めに着けば今日中にでも、そう考える俺の胸中とは裏腹にバスの進みは遅遅としてくる。横殴りの雨が窓ガラスを濡らした。悪天候に見舞われ、速度規制の掛かった高速道路はみるみる車の列で埋まっていく。始めは焦れていた俺も、車外が夜の帳に閉ざされる頃にはほとんど諦めてしまっていた。実際、俺が帰宅したのは十時近かった。

 通り雨にしてはそこそこ長く、激しかったらしい。玄関先に置いてあった植木鉢が倒れて見るも無惨な姿になっていた。これは自分の育てているトマトも危ういかもしれない。光忠との約束を思い出して、俺は家に入るより先に庭の方へ回った。

「え」

 縁側に何か黒いシルエットが見える。一瞬大きな猫かと疑ったそれは、俺が渇望していた人物に他ならなかった。

「光忠!」
 服に泥が跳ねるのも構わず走る。横たわる友人を抱えると、雨に濡れた合羽越しだというのに体温の異様な高さが感じ取れた。浅く呼吸を繰り返す光忠が苦しそうで、今にも死んでしまいそうで胸が締めつけられる。
 何度も呼び掛けるうちに祖父母も庭先での異変に気付いた。慌てふためく俺と違い、大人たちは冷静で、あっと言う間に布団を敷き、光忠の家への連絡も済ませてくれた。

 客間に寝かされた光忠の傍近くに座り込む。たまに頭の濡れタオルを替えてやることくらいしか俺にはできなくて、己の無力さに幾度も唇を噛みしめた。

「はせべ、くん」

 肩が跳ね上がる。目を覚ましたのかと覗き込んでみたが、光忠の瞼は閉じられたままだった。単なる寝言だったことに落ち込む一方で、光忠の中で己の存在がそこまで大きいことに震える。
 こいつの後ろにあったトマトのこともそうだ。雨に濡れてはいたものの、他の鉢植えと違って、葉に付いた汚れも折れた枝の数も明らかに少ない。光忠が身を呈して守ってくれていたことは一目瞭然だった。

 馬鹿だ。光忠は馬鹿だ。植物なんて意外に丈夫なもので、たとえ茎が折れても添え木したり、何ならテープでくっつけるだけでも治ることが有る。お前が体調を崩してまで守る必要は無かったんだ。風邪なんて引いたら暫く遊べないじゃないか。確かに早く会いたかったけど、お前が苦しそうにしてる顔なんて見たくなかった。目が覚めたら問答無用で説教タイムだぞ。だからさっさと元気になれよ、馬鹿。

 どれだけ時間が経ったか判らない。俺も泣き疲れて眠ってしまったようで、布団に小さく涙の跡が広がっていた。枕にしていた光忠の腹は規則的に上下している。先ほどより体調が安定したと見えて、鼻を啜りながら身体を離した。そして薄く開かれた琥珀色と目が合う。俺は半ば覆い被さるような形で光忠の枕元に手を付いた。

「おかえり、はせべくん」
「ただいま、おおばかやろう」

 にへら、なんて擬音が聞こえてきそうな笑みで光忠が友人の帰還を労う。俺の方は変わらない調子にほっとする気持ちと、散々振り回された怒りがない交ぜになった。我ながら面倒くさい性格をしていると思う。

「ばかはひどいなあ」
「いいや、おまえはばかだ、おおうつけだ。トマトなんかほうっておけばいいのに、こんな、ねつまでだして、すくいようのないばかだ」
「トマトがだめになったら、かんさつにっき、かけないだろう。ぼく、ふせんしょうなんていやだよ」
「この、しょうぶばか」

 己以上に勝負好きな友人を涙ながらに詰る。何か言いたげな光忠だったが、咳がその先の言葉を掻き消してしまった。
 背を擦ってやろうと俺が動くより先に、布団から白い指先が伸びる。友人の人差し指は、俺の涙で濡れた眦を穏やかに往復した。

「なかないで、はせべくん」
「うるさい、ないてない」

 あくまでも自分より俺の身を優先する光忠に、拭われたばかりの目尻がまた潤う。なんでこいつはこんなに優しいんだろう。俺なんかより、もっと友達に相応しいやつがいるだろうに。

「ぼくはただ、きみと一緒に、あのトマトをたべたかっただけなんだ。やくそく、しただろう?」
「おまえ、そんなにトマトがすきだったのか。はやくいえよ、サラダにはいってるやつ、俺のぶんもあげたのに」
「ぼくはトマトより、はせべくんのほうがすきだよ」
「やさいとくらべられてもなァ」
「トマトとくらべなくてもすき。ぼくの一番のすきは、はせべくんのものだよ」

 息を呑んだ。きっと今の俺は相当な間抜けな面を晒しているに違いない。どう返すべきか迷ってるうちに手を取られた。指の付け根に柔らかい肉が押し当てられる。それが光忠の唇だと気付いたとき、肋骨の内側がどくりと疼いた。

「すき。はせべくん、すき」

 光忠は恍惚とした様子で、俺の手の甲に何度も何度も口付ける。触れられた部分がじくじくと熱を帯び始めた。嫌でも光忠の言う「すき」が、友人に対して向けられたものではないと思い知らされる。問題なのは、それを全く不快に感じないどころか、悦んでしまっている自分自身だった。

「はせべくんの一番も、ぼくだったらいいのに」
 その光忠の一言で我に返る。

「やめろ!」
 自分でも驚くほどの声量だった。一喝の後に握られていた手を振り払う。虚空に投げ出された友人の手は、縋るものを失って弱々しく項垂れた。良心の呵責を覚えながらも、それを詫びる余裕は無い。たった一人の友人に背を向ける。これから続ける言葉を、面と向かって言えるほど俺の肝は太くできていなかった。

「おれは、おまえをおれの一番にしたくない」

 ぴしゃりと襖を閉じる。そのまま自室に駆け込んで、布団を被った。漏れる嗚咽を枕に押しつけて殺す。その夜は瞼が腫れるのも無視して泣き続けた。

 ごめん、ごめんな光忠。俺の一番もずっと前から光忠だったんだと思う。でもどうしても認めたくないんだ。だって俺は、一番好きなやつとは離れたくない。ずっと一緒に居たい。冬休みまで待つなんて耐えられない。お前の居ない街に帰って、お前が居ないことに絶望する。そんな責め苦を味わうくらいならいっそ、始めから会わなかったことにした方がましだ。

 明朝、未だ本調子でない光忠を見送ってから、俺は実家に戻りたい旨を祖父母に伝えた。あまりに急な申し出だったせいだろう、祖父母は困惑し一度は考え直すよう勧めてきた。ただ俺の意志が固いのを知るや、最後には納得してくれた。

 出発の前、玄関先で家の外観をざっと見渡した。年期の分だけ落ち着いた佇まいの構え、ちょっとした冒険気分を味わえる広大な庭、二人分の身長を測った跡が残った廊下の柱。これらの光景や祖父母とはもう会えないとなれば、やはり後ろ髪を引かれる思いがする。

 それでも俺の決意は揺らがない。どうせなら全てを忘れてしまおう。
 今年の夏も、長谷部国重に友達はできなかった。

 大会の遠征から実家に戻るときはいつも安心する。倦怠感に任せてベッドに沈みたくなるが、その前に入浴とマッサージを済ませなければならない。日々酷使する身体を労ってやるのも選手には必要なことだった。

 自らの意志で福岡から出なくなって数年。何も考えずに走り続けた結果、俺は陸上部期待の新人として名を馳せていた。うちの陸上部は実力主義を謳うだけあって、学年を問わず記録のみを考慮して選手を指名する。一年唯一の出馬となったときも、俺は当然と思って特に騒ぎもしなかった。その態度を快く思わない先輩部員も居たが、顧問含め学校側は俺の味方だった。

 三つ子の魂百まで、と言う。だとすれば俺の人付き合いの悪さはもう一生物だろう。夜遅くまで皆と練習を続けても、帰宅するときはいつも一人だった。
 クラス内での交流もまた同様である。陸上での評判を知って話しかけてくるやつも居るには居たが、俺が部活に入れ込むにつれ、次第に疎遠になっていった。
 原因が俺に在ることは明らかだが、改善に努める予定は無い。俺はただ、走ることができれば良かった。

 走り込みを終えて朝食の席に着く。三が日でも俺のやることは変わらないが、周囲は新年の区切りを多少なりとも意識しているらしい。届いた年賀状を仕分けする父親も例外ではなかった。
 国重、と呼ばれてニュースに夢中だった視線をテーブルに向ける。ずい、と一枚の葉書が差し出された。
「今年も来てたな」
 息子より先に宛名を確認した父親が感慨深げに言う。それだけで差出人が誰だか判ってしまった。もっとも美容院を除き、俺に年始の挨拶をするような強者はただの一人しか有り得ない。

「たまにはお爺ちゃん、お婆ちゃんにも顔を見せてやったらどうだ」
「そのうちな」
 敢えて身内の名前を挙げる父親の心遣いが憎い。表を向いた年賀状は、今時珍しい手書きのイラストがあしらわれていた。写真を使わない理由は例の体質が関係しているのだろう。それでも既製品ではなく、自分で一から書き上げるところに差出人の人柄が現れていた。一度も返事を出していないのに、毎年欠かさず年賀状を送ってくる点については若干引き気味ではあるが。

「元気にしてるかな。福岡は暖かいと聞くから、冬になるたび君が羨ましく思えるよ。高校生活はどうだい? 僕は共学から男子校に移って色々驚くことも多いけど、毎日楽しくやってます。園芸部で植えたノースポールも無事咲きました。この花は頑丈だし育てやすいからガーデニングにオススメだよ」

 これまた手書きのメッセージは、穏やかな文面に反して男らしい文字振りである。あの白皙の美少年は果たしてどのような成長を遂げたのだろう。気にならないと言ったら嘘になるが、それを確かめるつもりは毛頭無い。

 なあ光忠、あれから六年以上も経ってるんだ。お前の中の一番も誰か他のやつに替わっただろう。俺のことなんか気に掛けなくていいんだ。こんな友達甲斐の無い、薄情者のことなんて忘れてくれ。

 季節は巡り、十七年目の夏が来る。俺は伸び悩むタイムに焦りを感じ始めていた。顧問からせっつかれ、先輩から嘲りの視線を受ける中、ただひたすらに足を動かす。その努力が成果に繋がることは無かった。

 苦しい、空しい、満たされない。走っていて、このような感覚に陥るのは初めてのことだった。不調の原因も判らないまま、ただ時間だけが浪費されていく。

 そうして選考会の日取りがやって来た。全力は尽くした。人の輪の中心にあって、昂奮に包まれているのは、俺じゃない。
 春に入ったばかりの新人が照れくさそうに頬を掻いている。一年前、彼と同じように先輩を打ち負かした俺は、あんな初々しい反応を示しただろうか。

 後日、大会に出場する選手が発表された。その一覧の中に長谷部国重の名前は無い。部員たちの間でざわめきが波紋のように広がった。そのうちに俺を嗤う声がひっそりと上がる。凋落した俺を肴に昏い笑みを浮かべる連中は、少なくなかった。
 確かに突きつけられた現実に喪失感を覚えはした。それでも俺は部活に毎日顔を出したし、自己鍛錬も怠らなかった。階段から足をすべらせたのも完全に不注意からであって、ワイドショー好きが期待するような背景は微塵も無い。

 俺が死んでしまいたい、と思ったのは実際に生死の境をさまよった後のことだ。

 ベッドに横たわった自分の姿を見下ろす。なんとも奇妙な体験だ、と他人事のように考えていると室内に両親が入ってきた。息子の名を呼ぶ二人が、もう一人の息子に気付くことは無い。姿はおろか声も届いていないようで、俺はいよいよ心細さと不安に押し潰されそうになる。
 暫くして医師の説明が始まった。一命は取り留めたが、着地の際に頭部を強く打ちつけている。意識が戻る保証は無く、仮に戻ったとしても陸上を続けるのは厳しいだろう――まさか当人が聞いているとも知らない男は、事実上の死刑宣告を口にした。

 この身体はいくら走っても息が上がらないらしい。病室を飛び出し、がむしゃらに駆け続け自宅まで戻っても、疲労感に苛まれることは無かった。
 半ば透けている己の掌を見る。伸ばした腕は木製のドアをすり抜けた。物に触れた、という感触すら伝わらない。
 サイドテーブル上のデジタル時計を確認する。俺が覚えている日付から二日が経過していた。積まれたハードカバーの本や洗濯かごに出し忘れたタオルまで、自室の様子は記憶していたものと何ら変わりない。毎年来る年賀状も、終ぞ渡せなかったお土産のキーホルダーも、二日前のままだ。

「僕、おばけが見えるんだ」

 友人と初めて出会ったときの言葉が思い出される。七年越しに、その発言の是非を確かめるときが来たのではないだろうか。生きることも死ぬこともできない、中途半端な俺に残された指針は光忠一人だけだった。

 誰の目にも映らない身体を利用し、公共交通機関を乗り継いでいく。頼まれもしないのに近況を教えてくれる友人のお陰で、進学先は既に把握していた。以前に福岡からの最短経路を調べた「暇つぶし」も功を奏したと言える。七年ぶりに訪れる土地ながら、俺はさほど迷うことなく目的地に着いた。

 東北の夏はやはり冷涼で過ごしやすいのだろう、道行く生徒の表情もやはり福岡の人々と比べて余裕が感じられた。今残っている生徒は部活をやっている者が大半のようで、校舎の方はどことなく静まり返っている。

 光忠が所属しているのは園芸部だったはずだ。捜すなら屋内よりは校舎周りからだろう。グラウンドの活気から離れるように舗装された道を行く。視界に入るグリーンカーテンや花壇は手入れが行き届いており、通りがかりでも十分目の保養になった。どこまでが園芸部の範疇かは知らないが、丁寧な仕事ぶりは七年前の友人にも通じる。

 光忠はどちらかといえば華奢で、整った顔立ちは女子と見紛うほどだった。儚げな美青年がじょうろを手に花の世話をしている姿は実に絵になる。未だ見ぬ幼馴染みの今を想像し、俺の目線は自ずと線の細い生徒を捜すようになっていた。

 足が止まる。生徒が一人、しゃがみ込んで花壇に生えた雑草を抜いていた。艶の有る濡羽色の髪、シャツ越しにも判る逞しい背中、持て余すようにして折られた長い脚。顔は見えないが、前述の要素だけで既に人生の勝利が約束されているような容姿をしている。
 軍手をして除草に励んでいるということは、こいつも園芸部員なのだろう。ならば光忠も近くに居るに違いない。忙しなく周囲に目を遣って、他の生徒の影を捜した。

「光坊!」

 上履きのまま誰かが窓から飛び出してくる。制服のズボンを除き、頭頂部から爪先までとにかく白いという印象を受ける男だった。その白い男は真っ直ぐ例の美丈夫の元までやって来る。男の不作法を園芸部の生徒が指摘する間に、また一人校舎から誰かが出て来た。次に現れたのは浅黒い肌をした猫っ毛の青年である。彼は園芸部男子の味方らしく、白い男にせめて靴を履き替えるよう窘めていた。

「ビッグニュースは新鮮なうちに届けないと驚きに欠けるだろう? 俺のエンターテイナー精神に免じて、ここは一つ見逃してくれ風紀委員」
「園芸部だよ」
「俺は帰宅部だ」
「我がオカルト部は掛け持ちも歓迎だからな。とりあえず印鑑さえ預けてくれれば、入部届を提出する手間も省いてやれるぜ」
「うっわ、鶴さん人の筆跡真似るの上手いね? その才能は活かさない方向で進路を選んでね、後生だから」

 ひらひら、と男の手で揺れる書類を知らず知らず目で追いかける。見間違えかと思い、認識されないのを良いことに美丈夫の背後へと迫った。男の肩越しに書かれた名前を注視する。空で踊っていたのは、長船光忠の四字だった。

「どうした光坊、急に腕を抱えて」
「いや何か今、唐突に寒気が」
「また憑かれでもしたんじゃないか」
「こんな昼間から? どんだけ活動的な幽霊なの」

 三人の談笑する声が曖昧に聞こえてくる。彼らからは死角になる位置に身を隠し、ずるずると地べたに座り込んだ。

 みつただ。あれが光忠。小さくて可愛かった光忠が、今や俺の背を越し、長い手足に均整の取れた筋肉を載せている。ボーイソプラノが映える高音は、危うい甘さを含んだ低音に成り代わっていた。
 無意識のうちに喉が鳴る。あの腕に抱かれ、あの声で睦言を囁かれたらどれだけ心地良いだろう。実現するはずのない願望を夢見て、俺は自分の指をちろちろ舌で濡らした。

 やっとの思いで居場所を突き止めたにも関わらず、俺は光忠との接触を図ることをしなかった。遠巻きに眺めているだけでも偽りの心臓が悲鳴を上げる。もし光忠の話が本当で、俺の姿が見え、言葉を交わせるとしたら一層動悸は激しくなることだろう。

 光忠の周りにはいつも人が居た。お互いしか知らず、お互いが居れば十分だった七年前とは違う。たとえ生身の身体のまま再会したとして、親友として再び光忠の隣に立つことは叶うまい。

「長谷部くん……?」

 分厚いレンズの奥の蜂蜜色と真正面から対峙する。運動部も帰り支度を済ませていてて、校舎に残っているのは俺一人ぐらいだった。とても文化系の園芸部が活動しているような時間帯ではない。油断していた俺は光忠の問いに即答できず、一瞬の間にあれこれ考えを巡らせてしまった。
 仮にここで長谷部だと名乗り出たら? 今になって七年前の件を追及されたら? 優しい光忠のことだから笑って俺の愚行を許してくれるかもしれない。それでも、ずっと一緒に居たかったなんて、この状況ではとても口にできなかった。

 俺の一番は今でも光忠だけれど、光忠の方はそうとは限らない。そうでない可能性の方が高い。たとえ奇跡が起きたとしても、俺はほとんど死んでる身だ。俺が光忠にしてやれることなんて、一つとして無い。

「その長谷部とは、俺の名のことなのか?」

 こうして卑怯者の俺は、また長船光忠から逃げた。

 どうして日は沈むのだろう。哲学的な問いにも聞こえるが、実際のところは単なる愚痴でしかない。七年前は友人との別れを、それ以降は部活の終了を告げる夕暮れのことを俺は今も昔も好きになれなかった。

「じゃあね幽霊くん、また明日」

 微笑を滲ませた光忠が眼鏡を手に取る。律儀な幼馴染みは、言われた通り俺の前では野暮ったい御守りを外してくれるようになっていた。華やかな相貌に載っかる分厚いレンズはいつ見ても浮いている。正直似合っていないし、これの装着が別れの儀式と化しているのも気にくわない。

「ああ、明日こそは大倶利伽羅を無事生還させてみせる。ミ=ゴの群れなんて経験値でしかないと証明してやろう」
「明日も遊ぶ気満々だね? 自分探しはどうしちゃったの」
「こうして違う自分になりきることで得られるものが有るかも知れない」
「苦しい苦しい、言い訳が苦しい」

 くだらないやり取りで気を晴らす。自分探しなんて光忠と一緒に居る口実でしかない。結局俺は旧友に近づける誘惑に負けてしまった。見た目こそ随分と大人びてしまったが、光忠はやはり優しくてお人好しな光忠のままだ。少し話してみただけでもそれが解ってしまった以上、その温もりを今更手放すことはできない。

 俺が光忠に付き添えるのは校門までだった。本当は家まで憑いていきたいし、思うだけでなく実行したことも有る。もっとも玄関に盛られた塩のせいで撤退に終わったが。お陰で俺は七年前と変わらず日没を境に友人と別れなければならなかった。

 誰も居ないグラウンドに立つ。うっすら残った白線のラインに爪先を合わせた。地を蹴る。砂埃は舞わず、足跡が掻き消されることも無い。一周してスタート地点へと戻ってくる。
 むしゃくしゃしたときは走って頭を空っぽにさせるに限る。その身で風を切る感触はいつだって格別だった。足りない酸素を求め、クールダウンに努める間も、気怠いけれど常に達成感に充ち満ちている。
 そして今、ずっと全力で走っていたにも関わらず、疲労を忘れた身体は羽のように軽く感じられた。胸の内をひたすらに虚無感が占める。

 走っていられれば良かった。それ以外は何も要らなかった。
 いつまでも走り続けられる身体と環境。望んでいたものが手に入ったのに何故だろう、これっぽっちも嬉しいと、思えなかった。

 

 

 ダンダン、と体重を載せた踏み込みが階下から迫る。少し音の間隔が空いているのは、階段を一段飛ばしで駆け上っているためか。未だ見えぬ追跡者の気配に血が沸き立つ。あいつはどんな顔をして俺を追ってきているのだろう。

「ほらほらどうした光忠、そんな調子じゃ俺の背中すら拝めないぞ!」

 気まぐれに足を翻し、伊達男のつむじを見下ろせる位置まで移動する。互いに踊り場に立てば、二人を隔てているものは十数段分の階段のみになった。
光忠は首筋に汗こそ滲ませているが、息は乱れておらず、夕陽に照らされた黄金色も闘志に燃えている。なるほど元水泳部というだけあって持久力は侮れぬらしい。

「変わってないね、長谷部くん」
「何が」
「隠れんぼの途中でつい鬼の様子を見に出て来ちゃう堪え性の無さが、だよ」
「どちらかと言えば今やっているのは鬼ごっこだろう? 見つかっても捕まらなければ俺の勝ちになる」

 試しに一段、二段と下りて鬼の様子を窺う。光忠も同じ段数だけゆっくり距離を詰めた。男の長身が僅かに傾ぐ。その脚が段差を跨ぐようにして階段を上ったとき、俺は横に跳んで手すりに乗り上げた。そのまま空中へと身を躍らし、下のフロアまで文字通り飛び立つ。見下ろす立場となった光忠にひらひら手を振った。

「今の奇襲は良かったぞ」
「余裕で躱しておいてよく言うよ」

 踵を返す。ほとんど間を置かず後方から重低音が響いた。迷わず飛び降りた光忠は真っ直ぐ俺の背を追ってくる。俺も捕まる気は無いが、あっちも諦めるつもりはさらさら無いらしい。その姿勢に敬意を表して、ステップじみた走りからフォームを変える。リノリウムの廊下を、俺も光忠も、全力で走り抜けた。

 ああ、こんなにも気分が高揚したのはいつぶりだろう。こんな時間がいつまでも続けば良いのに。

 淡黄色の床は次第に明度を下げていく。窓枠で切り取られた西の空は、随分と夕闇の気配が色濃くなっていた。