園芸部光忠 VS ミニトマト嫌いな幽霊長谷部くん - 5/5

 

 がらり、と教室に通じるドアをスライドさせる。既に日の沈んだ室内は薄暗い。差し込む残照を頼りに中へ足を踏み入れる。ただえさえ弱々しい光は、この世に在らざる者を照らすことは無い。そうして夜陰に紛れる彼を、己の両目だけはしっかりと捉えていた。

「息、上がってるぞ」
「運動不足、かな、格好悪いところ見られちゃったねえ」
「安心しろ。そうやって息を荒げてるお前は色気が三割増しだ」
「その色気は初恋の男の子を口説くのに役立つの?」
「おそらくだが、そいつは色気に中てられる前に逃げるタイプだと思うぞ」

 そう言いながら、長谷部くんは今居る場所から動こうともしない。窓際、前から五番目の席。僕が日々勉学に励んでいる机は今、幼馴染みの椅子代わりにされていた。

「鬼ごっこの次はままごとでもしようか? お前が教師役で俺が生徒役だ。光忠先生は一体何を教えてくれるんだろうなァ」
「その配役には異議を申し立てたいね。今色々と教えてほしいのは僕の方だ」
「ならさっさと鬼ごっこを終わらせるんだな。ちょうど後ろは窓で逃げ場は無い。捕まえる絶好のチャンスだぞ」
「君に高低差や物理的な障壁は無意味だってことくらい気付いてるよ」
「なんだ。今度は外に逃げて驚かせてやろうと思ったのに、つまらん」

 二人の距離は直線にして五メートルにも満たないが、その間には机や椅子が多く並べられている。僕が勝負を仕掛けるには、あまりにも分が悪い。それを理解しているからこそ、長谷部くんは余裕の笑みを浮かべたままでいるのだ。

「外ねえ、夜の散歩がしたいって言うなら付き合うよ」
 長谷部くん、もとい僕の席からは離れた位置にある窓を開ける。昼間の熱気をなおも残していた教室に涼風が舞い込んだ。
 窓枠に足を掛け、夜気を全身に浴びる。心地良さを覚える前に肝が冷えたのは当然だろう。二階とはいえ、地表からはそれなりの高さが有る。友人の藤色の瞳に動揺が走るのも無理は無かった。

「おい、馬鹿! 落ちるかもしれないだろ、早く下りろ!」
「下りてほしい?」
「当たり前だ、目の前で飛び降り自殺の現場を見せつけられてたまるか」
「なら長谷部くんが力尽くで僕を止めてくれよ。君の瞬発力なら間に合うかもしれないしね」
「脅してるのか」
「人聞きの悪い。これは駆け引きだよ、君にとってはただのマラソンでも僕からすれば常に障害物競走を強いられるんだ。このハンデを覆すためには多少の創意工夫が必要だろう?」
「たかが鬼ごっこで命を賭けるやつが有るか、ふざけるなよ」
「真剣だからこその行動だよ。僕は何が何でも君の口から真意を聞き出す。長谷部くんと唯一話せて、触れられる僕はそうしなければいけないし、何よりそうしたい。僕にとって君は恩人で、初めてできた友達で、初めて好きになった人なんだ。そんな相手のために身体を張ることの何が悪い」
「ッ! お前は! 昔からどうしてそう極端なんだ! 俺はそんなこと望んじゃいない!」
「知ってるよ。僕はいつだって自分のために生きてきた。長谷部くんを泣かしてでもトマトを、君との約束を守りたかった。今も同じだ、僕は君の望みが知りたい。友人からお悩み相談も受けさせてもらえない身だけどね、僕はそれでも君の力になりたいんだ。そのためなら手段なんて選びやしないね!」

 窓枠から手を離す。僕が飛び降りるのと、長谷部くんが腕を伸ばしたのはほぼ同時だった。地面に叩きつけられる寸前、浮遊感が身を包む。土の上に転がった僕を覚悟していたような衝撃が襲うことは無かった。

 僕に覆い被さった長谷部くんが荒い息をつく。悲痛に歪んだ友人の眉は八の字を描いていた。ああ、この顔には見覚えが有る。あのときも彼は鼻と目尻を赤くして僕を睨みつけていた。

「泣かないで、長谷部くん」
「うるさい、ないてない」
 七年前と同じやり取りを交わす。僕の言葉を否定する長谷部くんの声は震えていた。乱雑に目元を拭おうとする友人の手を取る。指の付け根に唇を寄せれば、昔と変わらず長谷部くんは身を強ばらせた。

「はい、捕まえた」
「ちがう、つかまってやったんだ。えらそうにするな、このおおうつけ」
「はは、そうだね。でも勝ちは勝ちだ。教えてよ、君はどうしてここに来て、何故記憶が無い振りをして僕に近づいたのか」
「そんなの、さっしろよ、いろおとこ」

 ぐり、と長谷部くんが僕の胸に鼻先を押しつける。握りしめられた制服のシャツには小さな染みが広がった。捉えていた手を解放する。僕の指先は吸い寄せられるように煤色の髪へと伸びていった。

「あいたかった」
「うん」
「こんなからだになって、どうしていいかもわからなくて、そのとき浮かんだのがおまえだった。光忠なら、俺をみつけてくれるかもっておもった」
「うん」
「期待どおり、おまえは俺のことをみつけてくれたな。でもな、しばらく会わないうちに光忠がこんなにかっこよくなってるなんて、おもってもみなかったんだ」
「うん……うん?」
「遠目にみてるだけで、どきどきした。話したりなんかしたら、ぜったい離れたくなくなるだろうってわかった。ばかばかしいだろ、俺はゆうれいで、いつ消えるともしれないのにな」
「はせべ、くん」
「手に入らないなら、いっそ忘れてしまいたかった。俺はむかしから、いちばん好きなやつとはずっと一緒にいないと気がすまなくてな。はは、お前とちがって俺は七年前から何も成長しちゃいない。あえて例外をあげるとするなら、逃げ足の速さくらいだな」
「長谷部くん!」

 両の手で友人のこうべを掴む。無理矢理に引き上げたかんばせは、涙と鼻水とでぐしゃぐしゃになっていた。

「それは、忘れなくていいことだ。君が望むなら、僕はずっと長谷部くんの傍に居るよ。ううん、君が嫌と言っても離れてやったりするもんか」
「ばかをいうな。俺はもう、死んだも同然なんだぞ」
「死んでない」
「死んださ! たとえ目を覚ましても陸上は二度とやれないんだと! 走れない俺にいったい何の価値が有る! それならもう、死んでしまった方がま」

 まだ続いたであろう言葉を文字通り呑み込む。触れ合わせた肌は柔らかく、人並みの体温を有していた。
 目を白黒させる長谷部くんに構わず、やや薄い口唇に舌を這わせる。驚きで僅かに開いた隙間を狙い、自分の一部分を友人の中に侵入させた。歯列をなぞり、怯える舌を絡め取る。これほど身勝手な蹂躙を受けながら、長谷部くんは抵抗する素振りも見せない。それどころか控えめながらに僕の動きに応え、送り込まれた体液を健気に飲み下してすらいた。
 唇を離す。とろとろにふやけた一対の紫が名残惜しそうに僕の舌を追っていた。

「本当に死んでるなら、こんなこと、できるはずもないだろう」
「みつ、ただ」
「もし君が走れなくなっていたら、今度は僕が長谷部くんの手を引いて歩くよ。今までは君に先導されるばかりだったからね、たまには彼氏らしくエスコートできる機会を頂戴したいな」
「もう彼氏気取りか」
「拒否権は無いよ。先にあんな熱烈な告白をしてきたのは長谷部くんの方じゃないか」
「わすれろ」
「絶対、やだ」

 不服そうにする恋人の額に口付ける。負けず嫌いの幼馴染みは、噛みつかんばかりの勢いで再び唇を合わせてきた。

「ずっと同じ学校に通いたかった」
 隣を歩く長谷部くんが唐突に述懐する。脈絡の無い告白ではあったけれど、その想いは七年前から互いに抱き続けたものだった。
「日が暮れても、ずっと光忠と遊んでいたかった。また明日、と挨拶を交わして翌日になったら会える距離に居たかった」
 繋いだ手に力が込められる。僕も同じ気持ちだったというのは、握り返すことで伝わっただろうか。
「それが、まさかこういう形で叶うことになるとはな」
「本望とか言って成仏しちゃわないでよ、幽霊もどきくん」
「安心しろ。お前も俺のワガママぶりは知ってるだろう。まだしたいことは沢山有るんでな、当分は現世に執着させてもらう」
「ワガママっていうなら僕も大概だけどね。こう見えて健全な男子高校生ですから? あれだけじゃ少し物足りないっていうか」
 つつ、と指先で長谷部くんの手の甲をなぞる。あからさまに緊張を示す反応が初々しくて、僕は悪いと思いながらも忍び笑いが漏れるのを堪えきれなかった。

「ふ、ふん上等だ。恋人の可愛らしいおねだりの一つや二つ、聴いてやらねば彼氏失格だろう」
「そっか。じゃあ早速一つお願い」
「本当に早いな! ええい何だ、言ってみろ」
「七年前の約束を果たしに行こう」

 校舎裏に足を運び、赤い果実を下げた鉢植えの前に立つ。今年も幼馴染みから貰った苗は豊作だった。枝から二つほど実を毟り取り、一方を長谷部くんの掌に差し出す。予想に違わず、その実は彼の手から滑り落ちることは無かった。

「今年も美味しく育ったと思うよ」
「あれから毎年とは、律儀にも程が有るぞ」
「当然だろう。君から貰った種だよ、大切に育てるに決まってるじゃないか」
「……俺はあれから、一度もトマトを口にしてなかったのにな」
「あれ、トマト嫌いは演技じゃなかったんだ」
「こいつのせいでお前は体調を崩したし、俺も福岡に帰ることになった。悪魔の実という表現は洒落で言ったわけじゃない」
「その理由にはときめくけど、十七にもなって偏食はちょっと頂けないなあ」
「ああ、食う食う。時間は掛かったが、約束はちゃんと守るぞ、俺は」

 とは言いつつ、長谷部くんはその後もいくらか逡巡してトマトの実を睨め付けていた。さらに深呼吸を二度、三度と挟む。それから意を決したように、赤い果実を咥内に放り込んだ。
 つぷ、と瑞々しい果肉が割れる音がこちらにまで聞こえてくる。つられて僕も自分の分を咀嚼した。広がる独特の甘みは、今年の収穫も成功だったことを教えてくれる。

「光忠」
「うん」
「うまいな、このトマト」

 柔らかく微笑む長谷部くんの頬を雫が伝う。その身は蛍のような光に包まれ、ゆっくり夜の帳に溶け込もうとしていた。

「気に入ったなら、お見舞いにも持って行くよ」
「ああ、楽しみにしてる」

 集ったまろい光が拡散する。七年越しに約束を果たした幽霊は、在るべき場所へと還っていった。

「なあなあ、この食器はどこ置けばいいんだみっちゃん」
「それは普段使いしないやつだから、一番下の棚の奥に突っ込んじゃっていいかな。あっちょっと鶴さん、勝手に衝動買いしたタペストリー掛けない! 購入して早々に後悔したからってうちに押しつけられても困るよ!」
「伽羅坊が持って来たアニマルグッズは許されてるのに何故だ」
「俺が許した」
「長谷部くんが許したから許した」
「光坊も長谷部も俺に厳しくない? それとも伽羅坊に甘いだけ? 謎の格差社会に鶴さんちょっぴり挫けそうだよ」

 鶴さんが下ろしたてのソファを背に両膝を抱える。構ってオーラを全面に打ち出す最年長者は褐色の友人に回収されていった。その行く先は電子機具の山で、重量感有る本体と配線の波でごった返している。あれで鶴さんは機械に強い人だから、これで当分は作業に集中してくれるだろう。友人の巧みな采配には形而上の拍手を禁じ得ない。今日のお昼は伽羅ちゃんのリクエストが最優先だ。

 あの夏から一年と八ヶ月あまり、僕は高校を卒業し東京の大学に進学することになった。都会の賃料インフレに立ちくらみを起こした日も今や懐かしい。何とか手頃な物件を見つけた僕は、同じ大学に合格した長谷部くんに迷わずルームシェアを持ち掛けた。彼が二つ返事で了承してくれたことは言うまでもない。
 同じ学校に通い、日が暮れても一緒に居て、別れの挨拶を交わしても翌日になれば会える距離で過ごす。幼い僕らが抱いた願いは、大人になった今無事現実のものとなった。ただ住み慣れた土地を離れ、懇意にしていた人たちとも滅多に会えなくなってしまうのは寂しくもある。

「仙台から東京まで新幹線で二時間、夜行バスなら寝てる間に目的地に着くしリーズナブルだ。大した手間じゃないだろう?」

 まあ、こんな台詞をあっけらかんと言い放つ友人を持った僕らは恵まれているのだろう。引っ越し当日、受験生の伽羅ちゃんまで連れて上京した先輩に、きっとこの人には一生敵わないんだろうなあという予感がした。

「光忠、大倶利伽羅は回る寿司の気分らしいぞ」
「オーケー、まずは駅前のお店から当たろうか」

 長谷部くんに促され、来客三人がぞろぞろと玄関から出て行く。東北組はエレベーター前に移動していたが、長谷部くんは僕の戸締まりが終わるまで近くで待っていてくれた。なんか主人に懐いてる犬みたいで可愛いなあ、と思う僕の心境とは裏腹に、長谷部くんの眉間には皺が刻まれている。はて何やら機嫌を損ねる真似をしただろうか、と原因を探る前に彼の指先が受け取ったばかりの鍵に向いた。

「お前、そのキーホルダー」
「ああこれ?」
「格好良さを追求する男として、それは、そのどうなんだ」

 僕が鍵に取り付けたのは、十年近く前に流行っていた子供向けアニメのグッズだった。当時の小学生たちの間では共通の話題として持て囃されたが、今となってはデザインも少々古臭い。僕はそれなりに厳つい体格に育ってしまったから、傍目には余計ちぐはぐな印象を与えることになるだろう。

「七年も袋に入ったままだったんだ。その分、この子も使われなきゃ可哀想だろう?」
 これに関しては周囲の目など関係無い。僕は恋人からのプレゼントを見せびらかすように、寧ろ誇らしげにキーホルダーの音を鳴らした。
「ば、っか……!」
 憎まれ口を叩く長谷部くんは耳の先まで真っ赤だ。さらに慌てて背を向けたせいか、足がもつれ合ってバランスを崩してしまう。後ろ向きに倒れる身体は、僕の胸の中にすっぽりと収まった。

「もう、派手に転けたりしたら、またお医者様から叱られちゃうよ」
「そのときは貰ってきた松葉杖でお前の無駄に長い脚を突いてやる、執拗にな」
「八つ当たりは良くないね?」

 未だ本調子ではない恋人の手を取る。そのまま歩き出した僕らは、当然ながら鶴さんと貞ちゃんに散々にからかわれた。長谷部くんには、松葉杖ではなく家の鍵で腰の辺りをちくちく刺された。このもう一つの鍵にも、僕のと同じキーホルダーがぶら下がっている。

 都会の春は東北の地より暖かい。例年なら四月から着手していた種まきも、こちらでは今の時期から始めても問題無いだろう。
 在学中、ほとんど一人で活動していた園芸部は今年から部員が二人になる。実質、先輩にあたる新入部員は僕の隣で笑っていた。

 

 

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