夢追人は青い箱庭に帰り出づ - 2/3

 

 時を遡ること数週間前、まだ梅雨も明けない時分の話である。一通りの家事を済ませた光忠は、昼下がりの居間でパズルに勤しんでいた。
 ピースはそれぞれ大きさも形もバラバラで、完成図すら用意されていない。市販の商品ではないから致し方ないだろう。紙片の端を合わせては、線の繋がっていない前衛芸術ができあがる。この工程を気の遠くなるような数繰り返し、ようやく一枚の絵が完成したのが昨晩のことだった。

 継ぎ接ぎだらけの紙面に描かれているのは、黒髪の男が一人だけである。正しくは彼の他にもう一人いたが、その扱いは男の装飾品も同然だった。絵の美丈夫が口づけ、情熱を注いでいるだろう相手は手首より先しか写っていない。男性とも女性ともとれる彼の恋人は、性別年齢体格、およそ個性らしい個性の全てが排除されていた。
 作者の才を買っている光忠としても、この一点だけは些か不満である。絵の中でくらい夢を見たっていいだろうに、どうして彼は恋人に具体性を与えようとしないのか。

 そこまで考え、光忠は不毛な想像を打ち切った。実際に作者が思うままに筆を振るい、男の恋人を前面に出してきたら自分は受け入れられただろうか。答えは判らない。未だ友人の想いに応えられずにいる光忠には容易ならぬ問いだった。こうして作者――長谷部の絵を純粋に愛でていられるのも、恋人の記号化が寄与していないとは言い切れない。
 再びクロッキー帳のなれの果てを繋ぎ合わせる。空想の長船光忠は露わとなった左目を細め、蜜を煮詰めたような甘い笑みをこぼしていた。当の光忠はこれほど恋愛に熱を上げた試しなどなく、淡泊な付き合いしかしてこなかった自覚がある。
 ふと単調な機械音が静寂を破った。ソファに転がる携帯を確認すれば、光忠が予想した通りの人物からメッセージが届いている。

 七月上旬。世の学生たちは期末試験という憂鬱な戦いを強いられていた。最終学年ともなれば感じる重圧も比べものにならないだろう。

「買い出し 何かいるか」

 長谷部国重という青年を知る者なら、彼がいかにご機嫌であるか一瞬で察したに違いない。業務連絡のような文の末尾には猫の絵文字が足されている。素っ気ない文字列が並ぶトーク画面で、最新のメッセージは異彩を放っていた。

「めちゃくちゃ余裕だな、この優等生」
 思わず光忠も感服した。勉強漬けの毎日だった長谷部からすれば、定期考査など普段より早めに帰宅できるイベントに過ぎないらしい。

 いくつか足りない野菜をピックアップし、光忠は遊びに来る気満々の友人に買い物リストを託した。買い出しの時間も含めると、長谷部がこの家を訪れるのは二時を回るだろう。
 光忠は今も長谷部を良き友人だと思っている。頭も口も回るが、世間ずれしておらず、純粋すぎてたまに危ういところは目が離せない。その手が生み出す絵と同様に、彼の心はどこまでも繊細で美しかった。
 青春を犠牲にしてきた長谷部だからこそ、その恋が実ってほしいと切に願っている。他ならぬ相手が自分でなければ、ここまで思い悩むこともなかったはずだ。光忠は未だ長谷部との適切な距離が判らない。

 

+++

 

 手応え十分の試験を終え、長谷部は悠々と昇降口を出た。受験へのプレッシャーが和らぎ、精神的なゆとりを持てるようになったとはいえ、一朝一夕で人の性格は変わらない。一学期の終盤になっても、長谷部は未だクラスに親しい友人ができなかった。
 もっとも本人は特別寂しいとは思っていない。母との関係が改善された今となっては親子の時間も大切だし、友人なら光忠がいる。放課後をこの二人のために費やせることが、長谷部にとっては何より望ましい青春の形だった。

 靴を履き替え、向かう先は自宅ではなく近場のスーパーである。送られてきたメモを再度見直し、長谷部はひっそり頬を緩めた。夕飯のお世話になるためとはいえ、やりとりがそこはかとなく夫婦っぽい。飯事を楽しむ子供さながらに、長谷部は一瞬現実を忘れて光忠との同棲生活に思いを馳せた。

(いい。とても、いい)
 肉じゃがの味見を頼まれた辺りで、長谷部はやっと我に返った。幸いにも急に立ち止まった青年を見咎める者はいない。道行く者は皆目的地へと急いだり、友人との会話に夢中になっていた。他者への関心が薄い現代社会様々である。頬の熱さを気温のせいにして、長谷部は歩みを再開した。

 あちらこちらに見えていた制服姿の影が少しずつ減っていく。靴底がコンクリートを擦る音もなりを潜め、夏の湿気に知らず漏れた溜息すら耳についた。このような状況では小さな変化にも過敏になる。
 顎に伝う汗を拭おうと長谷部は歩幅を緩めた。一定だったリズムが不意に崩れる。路上の隅、電柱の陰で小石がぶつかり、跳ね返った。

 長谷部が来た道を振り向くも、既に誰もいない。ただ何者かが走り去っていく足音のみが残った。
 生ぬるい風が剥き出しの肌を舐める。七月の暑気に当てられながら、長谷部は言いようのない薄ら寒さを感じていた。

「それストーカーじゃない?」

 事情を聞いた光忠の第一声がこれである。しゃもじで白米の形を整える長谷部の手が止まった。大げさだと返せれば良かっただろうが、光忠の様子からして許される雰囲気ではない。夏の怪談気分で語っていた長谷部は途端に据わりが悪くなった。

「さえない男子高校生をストーカーして一体何の得があるんだか」
「損得勘定ができるならストーカーなんてしないだろう。若くて綺麗な子なら男女問わず、な人種だって珍しくないし」
「お前モテそうだからな、男女問わず」
「今狙われてるのは君だけどね。ちゃんと危機感持ってる?」
「まだそうと決まったわけじゃ」
「なくても気をつけること。帰るときはなるべく人通りの多い道を通って、夜遅くに一人で出歩いたりしないように」
 有無を言わさない口調に長谷部も渋々頷いた。心配してくれるのは嬉しいが、まるで子供扱いなのは気にくわない。光忠にとって自分は世話のかかる年下程度の認識なのだろう。内心面白くないと反発しつつ、長谷部は敢えて口を噤んだ。

 二人は互いのことをろくに知らない。自信を持って答えられるのは名前に年齢、職業ぐらいに限られた。
 極端に交友関係が狭く、絵の他に趣味を持たない長谷部は別として、光忠はどうだろうか。格好に拘る洒落者で、人柄も良く気遣いもできる絵に描いたような好青年である。昇格を打診されているあたり仕事ぶりも有能で、公私共に隙がない。恋人の一人や二人はいて然るべきだろう。いくら考察を重ねたところで長谷部が達する結論は、今日もまた変わらなかった。

「長谷部くんのお母さん、今日は夜勤だったよね」
「ああ」
「ストーカーの件もあるし、いっそ今日は泊まっていくかい?」
「は?」

 掬い損ねたスプーンがカレー皿に沈む。家主の提案を上手く呑み込めず、長谷部は眉を八の字にしたまま固まった。

「知っての通り、うちは一部屋余ってるし遠慮しなくていいよ」
「いや、いやいや待て。それは倫理的にというか常識的にまずくないか」
「え? 前にも一度泊まったし、僕は親御さんとは面識あるし、特に問題ないんじゃないかな」
「だから、あの部屋! 彼女のだろう!」
「誰の?」
「お前の」
「そんなのいないけど」

 光忠の答えを皮切りに室内が静まりかえる。数秒ほどの静寂を経て、勢い立ち上がった長谷部は半ば崩れ落ちるように椅子へ直った。

「ど、同棲中の相手が居るんじゃないのか?」
「少し前まで居たよ。ルームシェアしてた大学の先輩で、男だったけど」

 長谷部は肩の力が抜けると同時に、首から上が熱くなるのを感じていた。早とちりもいいところである。彼女持ちの男に横恋慕している後ろめたさは無くなったが、代わりにとんだ醜態を見せてしまった。食い違う話のからくりに気付いたのだろう、長谷部の正面に座る男はぷるぷると肩を震わせている。

「さすがに彼女のベッドに他の男を寝かせる趣味は持ってないかなあ」
「うるさい。お前の見た目で恋人がいないなんて誰が思うか。紛らわしい顔面しやがって、俺の純情を返せ」
「はいはい、言いがかりは止めようね。で、お泊まりは? する? したくない?」
 「しない」ではなく「したくない」という文言がまた食わせ者である。頬杖をついて答えを待つ男の笑顔が憎らしいことこの上ない。まんまと術中に嵌まった悔しさに歯噛みしながら、長谷部は善意で塗装された降伏勧告を呑んだ。

 温風を浴びた煤色の毛先が四方八方に跳ねる。ブローの他に硬い指先でも水分を飛ばされ、ソファに座る長谷部は身を固くした。髪を掻き回す手が時折地肌を捏ねる。ツボを抑えている動きは心地良いが、やはり落ち着かない。長谷部はされるがまま、優しくも拷問に等しい時間を辛抱強く耐え続けた。

「自然乾燥? そんなことしたら髪が傷むだろう。ほらドライヤー持ってくるからここに座って」
 逃げようとする腕を捕らえてから一分そこらの話である。長谷部は抵抗もろとも思考を放棄した。長船光忠という男の行動力とパーソナルスペースの狭さについては気にしたら負けである。

「長谷部くん髪さらっさらだね。僕、結構癖っ毛だから羨ましい限りだよ」
「そうでございますか」
「随分と投げやりだな。どうかした?」
「お前はいたいけな青少年をいたぶる天才だなと思って」
「僕なりのおもてなしのつもりだったけれど、お気に召さなかったかい」
「決死の告白を無かったことにされているようで空しさが募る」
 どうせ子供の戯言だと忘却の彼方に追いやっているのだろう。当てこするような物言いに罪悪感を覚えはしたが、お互い様だと長谷部は訂正しなかった。

 突としてドライヤーの音が鳴り止む。道具を置いた光忠は居間を一度離れ、またすぐに戻ってきた。その手には、テープで強引に破損を修正したらしい紙がある。長谷部は瞠目した。眼前に突きつけられているのは、とうに処分されたと思い込んでいた代物だったからだ。
「どうして捨ててないんだ」
「君が描いてくれた絵だ、捨てられるはずないだろう」
 言葉にするまでもない。光忠が長谷部の告白を忘れていないのは、修繕まで施された絵が何よりも雄弁に語っていた。
「俺に優しくするのは、好みの絵を描いてくれるやつがいなくなると困るからか」
「確かに困るね。長谷部くんが絵を楽しく描けなくなるのは、僕だって嫌だ」
「……光忠を描いた絵はもう渡せないぞ。あれは俺が唯一お前の恋人になれる方法なんだ」
「自分のことは描かないのに?」
「絵の中だってそんな恥ずかしいことできるか」
「見られないなら別にいいだろう」
 そういう問題じゃない、という反論は喉の奥に引っ込んだ。風呂上がりで湿った肌に唇が落ちる。長谷部の手を恭しく取った光忠は、自らの意志で絵の構図を再現した。

「僕は君を甘やかしたい。頑張り屋さんで、本心を隠してしまいがちな君を思う存分労ってあげたい。そんな長谷部くんが望んだ数少ないことを、無かったことになんてするものか」
 すっかり乾いた髪を五指が掬い上げる。うなじを這い、まろい後頭部を撫でる掌は、親が子に触れる手つきとは似ても似つかなかった。

 

+++

 

 翌朝、二人は揃って長船家を後にした。駅に向かう間も、ホームで電車を待つ間も、視線を感じることはなかった。安堵する長谷部を光忠が横から窘める。油断は禁物だよ、から始まり、彼は別れる間際まで年少の友人に注意を促していた。
 チャイムが鳴り、試験終了の合図を告げる。張り詰めていた空気が弛緩し、方々から悲喜こもごもの声が上がった。熱狂に包まれる周囲を余所に、長谷部は黙々と帰り支度を進めている。もし担任に呼び止められなければ、彼はいの一番に教室を出ていただろう。
 繰り返すことになるが、長谷部国重は優秀な生徒である。第一志望を筆頭に、彼が後に手にするだろう有名大学への切符を期待していたのは学校側も同様だった。その長谷部がいきなり進路希望を白紙に戻すと宣言したのだから、教師としては放っておけないだろう。年若い担任の苦労を慮り、長谷部は急な面談にも嫌な顔一つせず応じた。その結果、話に区切りがつく頃には校内から人気がほとんど失せていた。

 昨日の今日でこれである。長谷部の通う高校は住宅街に位置しており、駅前の賑やかさとは比べるべくもなかった。平日の午後二時ともなれば、出歩いている者を見つけることすら難しい。
 友人の警告を頭の隅に留めておいた長谷部は、校門付近をざっと窺った。人影らしいものは確認できない。

 その日、長谷部は敢えて細い路地を選んだ。壁が左右に迫り出しており、横幅は車も行き違いできないほど狭い。さらに奥に行けば行くほど、全体が緩いカーブを描いており、角度によっては前を行く者が視認できなくなる。
 身を隠すのにこれほど都合の良い地形はない。その事実に気が緩んだのだろう。頼りにしていた靴音が途絶え、追跡者はあからさまに狼狽した。塀の陰から身を乗り出し、きょろきょろと長谷部の姿を探す。一つ結びにまとめた髪が左右に揺れた。

「人生の先輩に何の用だ、不良少年」

 自販機の裏からずるりと腕が伸びる。隠れんぼを制したのは長谷部の方だった。
 本来ならストーカー相手に直接対決など愚の骨頂だろう。しかし長谷部が掴んだ手首は細く、さらに背丈は彼の目線よりだいぶ低い。たとえ暴れようと取り押さえられる。そう確信するほどに、有名中学の制服を着た少年は小柄だった。

 ガラスの底に沈んだ氷塊がみるみるオレンジ色に染まっていく。人生二度目のドリンクバーを乗り越え、長谷部は改めてポニーテールの少年と向き直った。
「とりあえず名前を訊こう」
「……不動、行光」
 頬杖をつき、少年はいかにもぶっきらぼうな調子で質問に答えた。姓名を聞き出してみても、やはり長谷部の出す結論に変わりはない。二人は正真正銘、これが初対面だった。

「どうして俺を尾けていた」
 当然の疑問ではあるが、得られた回答は黙秘である。言いづらい、というより長谷部に従う気がないのだろう。先程から不動は飲みもしないメロンソーダをストローで掻き回している。

「随分と余裕だな。学校側に今回の件を報告してやってもいいんだぞ」
「は、やってみろよ」
 長谷部の挑発に対して不動はさらに煽り返した。どうせ実行はしまいと少年は高をくくっている。長谷部は躊躇わず、鞄の中から携帯を取りだした。一連の流れをぼんやり眺めていた不動の目がやっと泳ぎ始める。

 ここらでは有名な私立校だけあり、連絡先を調べるのも苦労しない。長谷部は入力し終えた電話番号を不動に見せつけた。在校生でも学校の固有電話を利用することは滅多にない。不動にはそれが正しい番号なのか判断がつかなかった。ただ確かなのは、自分の進退が長谷部の指先に委ねられたことだけだった。
 手遊びに摘まんでいたストローの先が潰れる。グラスの表面に浮かぶ水滴が垂れ、テーブルを静かに濡らした。不動のやせ我慢は既に限界が来ている。小刻みに震える肩を眼下に捉え、長谷部はスマホの通話アプリを閉じた。

「お前、趣味は」
「…………へ?」
「趣味だ、趣味。何か一つくらいあるだろう。蟻の巣を水没させるとか、雨の日の曇りガラスで相合い傘を量産するとか」
「例えの陰キャ力が強すぎる。ねえよ、二重の意味でねえよ」
 今度の問いかけはあまりにも脈絡がない。恐怖も思わず忘れ、不動は自らが追いかけた青年を訝しげに睨めつけた。

「なら俺のチョイスに文句は言うなよ。それ飲み終わったら出るからな」
「は? 俺は行かねえよ」
「尾行するくらいなら最初から一緒に行動した方が早いだろう。なお拒否権はない」
 長谷部は済ました顔で言い切った。不動が危うく叫びそうになったのも無理はない。何とか悲鳴を呑み込み、少年はきつく眦を割いた。当の長谷部は蛙の面に水といった様子で全く堪えていない。

 

+++

 

 夏は一年で水族館が最も賑わう季節である。控え室のカメラで客席を窺い、光忠は満足げに頷いた。本日のイルカショーは初演から最終回まで大盛況になりそうだ。プログラムを全て終えた頃には閉館時間まで幾ばくもない。お客様に笑顔で帰ってもらうべく、光忠は張り切って舞台上に足を踏み出した。

「みんな待たせたねえ! 本日最後のイルカショー、始まるよ!」

 よく通る声が会場全体に響き渡る。光忠の登場に合わせ、プールの底から二匹のイルカが跳びだした。歓喜の声と万雷の拍手がスタートダッシュを飾る。水飛沫の合間から光忠は興奮する人々の顔を一望した。
 年配の常連客、頬を紅潮させた親子連れ、年若いカップルなど、年齢性別問わず大勢の観客がショーに夢中になっている。出演者である光忠も彼らの高揚感に中てられていた。
 相乗効果によりステージ内外の熱は時を追うごとにいや増していく。水上バレーや連続輪くぐりなど、ひとしきり派手な催しを消化したところで、定番の触れ合いコーナーとなった。

「イルカくんたちと遊んでみたいお友達は元気よく手を挙げてね!」

 進行役の案内を受け、我も我もと真っ直ぐ伸びた腕が天を突く。目を輝かせる子供たちが激しく自己主張を続ける中、光忠の視線はある一点で釘付けにされた。最上段の片隅、既に馴染みとなった高校生の隣に、見慣れぬ制服姿の少年が座ってる。連れ合いに手首を掴まれ、強引に挙手させられている彼の顔は真っ赤だった。

「じゃあ、一番上の席にいる髪を縛った君!」

 抵抗を続けていた少年の動きがぴたりと止まる。青ざめる隣人とは裏腹に、彼を文字通り舞台へ引っ張り出した青年は腹を抱えて笑っていた。

 エントランスの付近にチェーンが張り巡らされる。チケット売り場もシャッターが落とされ、一時は騒がしかった広場も人気が失せた。今や噴水の縁に腰掛けているのは不動と長谷部の二人だけである。指名されたときは怒り心頭だった不動だが、もう恨み辛みを述べる気力もないらしい。上体を屈し、学生鞄を枕にしたまま魂を空に飛ばしていた。

「楽しかったか、不動行光くん十四歳」
「フルネームに年齢までつけんじゃねえ……」

 ステージに立ったお友達は名前と年齢まで紹介するのが習わしである。不動は羞恥心に悶えつつ、会場の空気を壊さないよう精一杯務めた。さりとて光忠は熟練の進行役であり、観客もマナーが行き届いている。中学生のお友達を白眼視する者はおらず、不動はくすぐったさを覚えながらイルカたちと触れ合った。
 餌をあげ、頭を撫で、ボールを投げてはキャッチされる。半ば騙される形で参加した不動は、そのとき会場の誰よりもイルカたちとの交流を楽しんでいた。退館した後になって伏せているのは、要するに照れ隠しである。中二にもなってイルカと戯れたこと、長谷部の思惑に嵌まったこと、あの時間を名残惜しいと感じてしまったこと。不動は若干の自己嫌悪と、それを上塗りするほどの充実感に打ちのめされていた。

「楽しかったのなら、また連れてきてやる」
「何でお前と一緒なんだよ」
「一人で入れる度胸が有るなら別に構わないぞ」
 不動はまたしても口を閉ざした。長谷部が指摘する通り、自分一人ではとてもこの水族館まで足を運べないだろう。経済的な理由でも土地勘の問題でもない。不動に必要なのは言い訳だった。

「俺はこう見えて優等生なんでな。お前の気まぐれに付き合ったぐらいで成績を落としたりしない。あと部外者が学校の敷地近くをうろつくのは宜しくないからな。用があるときは待ち伏せじゃなくて、ちゃんと連絡を寄越せ」
 不動のこめかみを薄い板が叩く。数分の後、光忠の名前しか登録されていない長谷部のアプリに、連絡先が一つ増えた。

「まさか長谷部くんが友達を連れてくるなんて思わなかったなあ」
 ソファに身を預け、光忠は受話器越しに友人の声を聴いていた。あれから数時間経つが、思い返すたび新鮮な驚きに包まれる。長谷部の生い立ちを知る光忠にとって、夕方の一件はそれほど衝撃的な光景だった。
「友達、ではないな。今日会ったばかりだし」
「えっ会ったばっかり? 嘘だろう、とても仲よさそうにしてたけど」
 もし事実なら長谷部の認識を改めなければならない。光忠の知る限り、長谷部国重は積極的に人の輪を広げていく性格ではなかった。それこそ長谷部の口から、両親や光忠以外の人名が出たことはない。
 狭いコミュニティで満足していたはずの長谷部が、彼の少年には自ら関わり、あれこれ世話を焼こうとしている。光忠の立場としては友人の成長を喜ぶべきだろう。気持ちの方は、長谷部の前進を少しも認めていなかった。
「ああ……あいつはちょっと例外というか」
 いつになく歯切れの悪い言葉が光忠を惑わせる。例外、言い換えれば長谷部にとって不動行光は特別な人間になる。光忠は知らず溜まっていた唾を飲み下した。喉元まで迫り上がりつつあった黒い塊を強引に押し込める。

「例外? もしかして一目惚れとか?」
 からかうつもりで告げた文句は、揶揄というには棘が見え隠れしていた。長谷部はおろか光忠すら耳を疑った。

「あ、いや。ごめん変なこと言った」
 液晶を隔てては見えないだろうに、光忠はつい頭を下げて謝罪していた。晒した醜態のために心臓がどくどくと跳ねる。互いに押し黙る中、呆れられたかもしれない、と光忠は長谷部の反応ばかりが気に掛かっていた。

「そ、そうだ。友達ができたならストーカーも狙いにくくなったよね。今日は大丈夫だった?」
「ああ、そのストーカーがあいつだったんだ」
「長谷部くん?」
 苦し紛れの話題回しがあらぬ方向に飛ぶ。今度ばかりは光忠も自覚を持って声を低くした。
「ヒッ、いや待て! 違う、その不動は……!」
「なあに」
「お、俺の、弟、なんだ……」

 もつれる舌が真実を辿々しく打ち明ける。頭が一気に冷えた光忠は、それから十数分長谷部に謝り倒す羽目になった。

 

+++

 

 不動行光には兄がいる。生まれてより父と母と三人で暮らしていた彼は、生家にいない実兄の話を人伝に聞くばかりだった。

 母曰く、行光の方がよほど優秀で可愛らしい。余所のことなんて気にせず、お父さんの後を継ぐために頑張りなさい。
 父曰く、見た目は自分そっくり。幸い性格は似なかったから、お前の兄は真っ当な人生を歩むだろう。

 幼い息子には大人の愛憎劇を把握する由もなかった。ただ母は兄のことがどうにも嫌いらしい。敏い息子は母の前では徹底してこの話題を避けた。そのうち父も不在の兄について触れることはなくなった。
 行光の母は一人息子に甘い。しかし、怒るときは鬼の形相で息子を叱りつけた。こんな成績ではお医者さんになれない、貴方が立派に育たないと私たち二人ともお父さんに捨てられるのよ。口角泡を飛ばし、目を血走らせ、母は切々と勤勉の精神を説いた。行光は怯えながら頷いた。父の女癖の悪さも、略奪を恐れる母の心境も、少年の想像の埒外にある。行光を唯一怯えさせたのは、捨てられるかもしれないという言葉だった。
 成長するにつれ、行光は自身の能力と冷静に向き合うようになった。なるほど母の指摘は尤もで、今の成績では到底医者になどなれないだろう。中高一貫制の学校に合格したはいいものの、現状は授業に着いていくのがやっとである。予習復習を疎かにしてはいない。行光はそれこそ机に齧り付く勢いで日々の課題をこなした。費やした時間は、必ずしも結果に繋がるわけではない。
 両親が口論する声が壁越しに聞こえてくる。貴方も何とか言ってやってください、という懇願に対し熱の籠もっていない声が返ってきた。激情を露わにしているのは母親だけのようで、父親の方はいやに冷静である。

「別にいいじゃないか、好きにさせれば」
「実の息子のことですよ。気にならないんですか!」
「行光が落ちこぼれようがそうでなかろうが、どちらでも構わん」

 シャープペンが指からこぼれ落ちる。生母の金切り声も遠ざかり、行光は呆然とノートの罫線を見つめた。
 結果を出しても出さなくても父が自分に興味を持つことはない。積み上がった問題集、書き込みすぎて余白の消えた教科書、使い終えたノートの山。行光の部屋を彩るのはそれぐらいだった。少年には趣味も目的も将来の夢もない。好きにしろ、と言われても彼は自分がやりたいことなど一つも浮かばなかった。

 翌日、行光は普段通りに学校へ行き、普段通りに授業を受けた。いつもより身に入らない講義を終え、無心で弁当を突いていたときの話である。クラスメイトの誰かが兄弟の愚痴をこぼしていた。貸した本が返ってこないだの、彼女自慢をされただの、内容はごくありふれた俗っぽいものである。行光は暗澹とした前途にふと光明を見出した。
 会ってどうしようという意識が有ったわけではない。行光にとっては、今の今まで会ったことのない実兄を探し出すこと、それ自体が目的だった。

 院長の息子という立場は一部の界隈でそれなりに通用する。加えて兄への想いをそれらしく語れば、看護師たちは快く協力してくれた。狭いコミュニティ内において噂話ほど刺激的な娯楽はない。不動行光が実兄の通う高校を探し出すのはあっという間だった。

 名前以外の特徴は判らず、顔写真も所持していない。それでも不動は容易く長谷部国重を特定することができた。彼の容姿は、若き日の父の生き写しも同然だったからである。
 日本人離れした煤色の髪、やや垂れた目元を引き締めるかのごとき吊り眉。行光とはまるで似ても似つかない。並んでも赤の他人に思われるだろう彼の風体こそ、父を同じくする兄弟である何よりの証だった。

 長谷部は誰も伴わず一人で下校している。話しかける機会はいくらでも有っただろうに、不動はそれ以上の行動に出ようとしなかった。
 まだ中学生といえど、物の道理の判らないほど子供ではない。そもそも不動の父が以前の家庭を捨てた主な原因は、愛人の妊娠発覚にある。血の繋がりだけを頼りに高校まで押しかけたが、長谷部が不動を歓迎する謂われは一つも無かった。だからこそ、尾行が当の兄に勘付かれた後も、不動は己の正体を打ち明けなかった。
 お前なんて弟ではない、と実兄に否定されたくない。その一心で不動は口を噤んだ。果たして祈りが通じたのか、今や携帯には実兄の連絡先が登録されている。

 ベッドの中で不動は背を丸めた。根拠はないが、その日はよく眠れそうな気がした。

 

+++

 

「先日はどうもありがとう。僕は長船光忠、改めてよろしくね不動くん」
 大きな掌に握手を求められ、不動は混乱した。兄から連絡が来たと思えば、いきなり顔も身体も極上の美丈夫に挨拶されている。これで初対面ならまだ落ち着けただろうが、一度見たら忘れられないだろう男の姿は不動の記憶にも新しかった。

「よ、よろしくお願いしま……え……?」
 イルカショーのお兄さんはステージの外でも笑顔が眩しいらしい。そんな知りたくもない事実を知ってしまった不動は、光忠の隣に立つ兄に視線で訴えた。

「どうしても会いたいと言って聞かなかったんだ」
「だって長谷部くんの友達は僕の友達みたいなものじゃないか」
 どこの国の常識だろう。不動は兄の友人を名乗る男からラテンの香りを感じ取っていた。
 職業柄、どうしても光忠の休暇は平日に偏ってしまう。今が夏で良かったと言いながら、男は浮世離れした兄弟を自宅に案内した。この時分の太陽は随分と気が長い。中高校生二人が学業を終えても、日没まで数時間ほどゆとりが有った。

「うわあ、今の中学生ってこんな難しい問題やるのかい」
「いや、こいつの学校が異常なだけだろう。誇張抜きに偏差値が飛び抜けてるからな」
「とか言いつつサラサラ解くなよ、嫌みか」

 勉学一筋で育ってきた兄弟である。共通の話題として取り上げられるのは、専ら学業に関することだった。
 互いのノートを広げ、戯れに問題を解いては益体のない感想を言い合う。どうして点Pは大人しくしてないんだ、goの過去形がwentって何だよ原型留めてないだろ云々。学生なら一度は抱く疑問を二人は延々とこぼし続けた。

 長谷部と不動のやりとりを聞きながら、光忠は既視感の正体について考えている。確かにブレザーを着ていた高校時代、似たような会話を友人と何度かしただろう。しかし光忠の記憶が訴えるには、もっと最近になって聞いた文句らしい。一体いつ、誰が発言したのか。
 思い出せないもどかしさに光忠が唸っていると、訪問を告げるインターホンが鳴った。宅配便や知人が訪ねる旨は聞いていない。光忠は二人に断り、玄関の覗き窓をそっと窺った。ドアを隔てた向こうに立っているのは、新聞勧誘でも怪しい宗教団体の一員でもなく、近所に住む顔見知りの中学生だった。

「頼むみっちゃん助けてくれ! 俺は今! 人生最大のピンチを迎えている!」

 救援を請う少年の顔はひどく青ざめている。さも深刻そうな雰囲気を匂わせているが、対面した光忠はむしろ脱力感に苛まれていた。

「期末テストはもう終わったんじゃなかったかな、貞ちゃん」
「ヤマを外して二重の意味で終わったぜ! そして明日までにこの課題終わらせないと夏休みまで終わっちまうんだな、これが。ヘルプ!」
 掲げられたテキスト類の向こうで飾り羽根がひょこひょこ動く。常に溌剌とした少年の顔が曇るのは見たくないが、客人を疎かにするわけにもいかない。この場はお引き取り願おうと口を開きかけ、光忠は咄嗟に続くはずの文句を呑み込んだ。

「貞ちゃん。僕にビシバシ扱かれるのと、みんなでワイワイ楽しくやる勉強会ならどっちがいいかな?」
「おっ知ってるぜ! そういうの愚問って言うんだろ、みっちゃん!」
 穏やかな物腰とは裏腹に光忠の指導は存外手厳しい。疲労困憊になった先日の二の舞を避けるべく、少年は迷わず後者を選んだ。
 新しい客人を迎え、玄関に並ぶ靴の数がまた増える。施錠する間にも居間の方が賑やかになり始め、光忠はそっと口元を綻ばせた。

「俺は太鼓鐘貞宗! みっちゃんのベストフレンドだ、よろしくな!」
 貞宗少年の辞書に人見知りという文字はない。挨拶を受けた兄弟が呆気にとられているのも構わず、彼らの対面に座って教材を広げ始めた。
「二人ともなんか頭良さそうなオーラ出てんな! いやあマジ助かるぜ、補習免除のプリントめちゃくちゃ出てさ。頼む力を貸してくれ! 俺の夏休みという名の青春のために!」
「一夜漬けで得られるものはないから大人しく補習を受けたらどうだ」
「義務教育に留年がなくて良かったな」
「ンーもうちょっとくらい俺の青春に配慮してくれてもいいんじゃねえかな!」
 長谷部、不動に秒であしらわれようと貞宗はめげなかった。何としてでも補習と光忠のスパルタ教育からは逃れたい。推定救世主の協力を仰ぐべく、貞宗は急ぎ交渉の段取りを組んだ。

「課題を手伝ってくれたら……みっちゃんのスリーサイズを教える……!」
「どうしてその条件でいけると踏んだ」
 やたら悲壮な面持ちの貞宗に不動の冷めた視線が突き刺さる。落ち着き払っている弟と違い、兄の方はあと一歩で頷くところだった。なお長谷部の動揺は周囲に伝わらず、尊厳を失うのは避けられたようである。

「あはは、飛び入りごめんね二人とも。でも僕からもお願いしていいかな。僕が教えるより現役の学生に頼んだ方が確実だと思うんだよね」
「光忠がそう言うなら」
「光忠さんに言われちゃあな」
「さすがみっちゃん人望たけーな! あと二人とも態度変わりすぎだろ、お前らの血は何色だ」

 光忠の口添えにより貞宗の野望は無事成った。
 貞宗はあまり勉学に熱心ではないものの、二人の話にはしっかり耳を傾けたし、課題を投げ出すような真似はしなかった。不動と貞宗が同じ学年だったことも幸いしただろう。ただえさえ人懐こい貞宗はますます気安くなり、不動もまたつられて口数が多くなっていった。
 学年が四つ離れている長谷部はサポート役に徹している。不動の解説を補ったり、二人が悩んだときのヒント係を務めたが、殊の外、長谷部の教え方は上手かった。始めは横やりに不服そうだった不動も、後半は自分が質問する側に回るほどである。そのたびに「課題を進めろ」と窘める長谷部だったが、弟たちの申し出を断ることは一度も無かった。

「今日は色々と我が儘を聞いてくれてありがとう」
 長谷部が光忠に礼を言われたのは、日も暮れた大通りを歩いている最中だった。前を行く不動たちとは多少距離が開いており、二人の会話が聞こえている様子はない。

「礼を言われるようなことはしてない。むしろ気を遣われたのは俺の方だ」
「そうかなあ。僕はただ僕のしたいようにしただけだよ」
「お前はどうも、俺みたいに寂しい青春しか送ってないやつに情けを掛ける癖がある」
「君に情けを掛けた覚えは一度もないけどね」
 信号が赤に変わり、長谷部たちも先行組に追いついた。周囲の喧噪に交じって届く貞宗らの会話は途切れることなく、延々と続いている。脊髄反射で話す友人に相槌を打つ不動は、時に怒り、時に呆れ、時に笑った。長谷部と出会ったばかりの、自信がなく、目を背けがちだった少年とは雲泥の差だった。
 交差点が人の波でごった返す。四人は再び分断され、長谷部は光忠と並んで歩き始めた。

「あいつに良い友人を作ってくれたこと、感謝する」
「はは、それは貞ちゃんの功績だよ」
「引き合わせたのはお前だろう。礼くらい素直に言わせてくれ」
「それを君が言うのかい。なら長谷部くんも僕に感謝されてくれたっていいだろう」
「ダメだ。俺だけ恩という名の負債が溜まりすぎている」
「あのねえ、友達なんだから貸し借りなんて気にしなくたっていいんだよ。僕はただ」
 尻すぼみとなった語尾が吐息の中に消える。長谷部の余所余所しい態度にもの申すつもりで、その実、線引きが判らなくなっているのは光忠の方だった。寸前になって押し止めた本音は軽々しく口にできるようなものではない。

 いつかの夜、長谷部が涙ながらに漏らした本音は今も光忠の脳裏に焼き付いている。貞宗を招き入れたのは不動を慮っての行為ではない。光忠の動機は全て長谷部が中心にあった。友達と一緒に遊びたい。そんなささやかで慎ましい願いを光忠は心底叶えてやりたいと思った。既に社会に出て久しい自分ではできる範囲に限りが有る。その点、学生の不動や貞宗は都合が良かった。
 陰の有る不動に優しくしたい気持ちも、貞宗の期待に応えたい意志も当然有った。しかしながら、彼らを通して長谷部を甘やかしたいという欲は無視できるほど小さくない。

「ただ、何だ」
 痺れを切らした長谷部が続きを促す。どう誤魔化そうか悩み抜いた挙げ句、

「秘密」
 と、返した光忠は隣からしつこく肘鉄を喰らう羽目になった。

 

+++

 

 夏の暑さも盛りを迎えた七月下旬。繁華街の中心である駅ビルは若者たちの巣窟と化していた。タピオカを求める長蛇の列、いつになく盛況な催事場、右を見ても左を見ても人でごった返している。長谷部と不動の兄弟は共に、場違いだ、と肩身を狭くした。
 世の学生は夏休み期間に突入している。どうにか課題をクリアした貞宗も例外ではない。十四歳の少年にとっては、今このとき一瞬こそが何よりも大切だった。夏休みの宿題は八月三十日からが本番、とは一夜漬けのプロの言である。

「っつーわけで、無事に青春の権利を勝ち取ったお祝い会しようぜ!」
「なるほど、その手伝いをした俺たちを労う会というわけか」
「思ったより気が利くなあ貞」
「みんなで掴んだ勝利だぜ。喜びも懐の痛みも共に分かち合おうブラザー」

 それから貞宗は思うまま気ままに二人を連れ歩いた。この場における保護者は長谷部だが、世故に最も長けているのは貞宗である。流行り物に疎い兄弟は見るもの全てが新鮮なようで、何かにつけて大げさに反応した。案内する側もやり甲斐を感じるのは当然だろう。三人は時間の経過も忘れて次々と店を巡った。
 縦長の画面にトッピングを盛りに盛ったパフェが収められる。慣れた手つきで画像を編集し、貞宗は不在の友人へ本日の経過を報告していた。

「光忠宛てか」
「おう。二人を誘うって言ったら羨ましがってたからな!」
「でも光忠さん友達沢山いそうじゃん。仕事終わった後に彼女と一緒に飲みに行ったりしてんじゃねえの」
「いや、今のところみっちゃんに女の影はねーな! 根拠は俺の勘」
「試験のヤマを外した勘を信じろって無理難題すぎねえ?」
 論争する年少組を余所に、長谷部は危うくカフェラテを吹き出しそうになった。悪気がないとはいえ、なんという話題を取り上げてくれるのか。内心血を分けた弟を恨みつつ、長谷部は平常心を装ってカップを傾けた。

「それに誕生日は盛大に祝おう、って言ったら予定空けてくれたんだぜ。彼女持ちならさすがに当日は断るだろ?」
「誕生日……?」
「ああ、来週でみっちゃん生誕二十六周年だ」
 視界が揺れる。突然眩暈を覚えた長谷部はカップを戻し、こめかみを押さえた。
 自分の誕生日などわざわざ人に触れ回るようなものではない。謙譲が美徳とされる日本人なら尚更だ。だからといって、こんな事故みたいな形で聞かされるとは誰も思わないだろう。
 しかし知ってしまった以上は無視もできない。Xデーまで一週間弱、長谷部にとっては入試の過去問より難解な戦いが始まった。

 貞宗と光忠との付き合いはかれこれ四年にのぼる。引っ越した当日、挨拶回りに来た光忠が太鼓鐘家を訪れたのが切っ掛けだった。
 派手好きな貞宗は自他を問わず見目に拘る。光忠の風貌と振る舞いは彼の審美眼に適った。似たもの同士の二人は意気投合するのも早い。年齢の垣根を越え、貞宗と光忠は互いを親友と称して憚らない仲となった。

 学業面では伸び悩む貞宗だが、血の巡りは決して悪くない。寧ろ洞察力は優れている部類に入る。小難しい理屈をこねくり回さない分、太鼓鐘貞宗は人より本質を掴む能力に秀でていた。
 そんな彼の目線から言えば、最近の光忠は変わった。具体的にどこがどう変わったという話ではなく、雰囲気の問題である。素より陽気で人当たりの良い青年だったのだが、六月ぐらいから憑き物が落ちたように一段と明るくなった。これに前後してよく聞くようになった人名が「長谷部くん」である。
 遊びに来るたび増えるフォトフレームは噂の「長谷部くん」が原因らしい。白黒の濃淡のみで表現された世界は貞宗の目をも惹いた。ただ光忠の入れ込みようは、単に絵が気に入ったからでは説明がつかない。少なくとも貞宗にはそう感じられた。

「長谷部クンってさあ」
 切り出した途端に光忠の肩が跳ねる。注視してなければ余程気付かないだろう微細な変化だが、鎌をかけるつもりだった貞宗が見過ごすはずもない。
「意外に面白いところあるよな。鶴さんが見たら絶対気に入る逸材だと思う」
「まあ格好のオモチャ扱いされることは確実だね」
「伽羅とも結構相性良さそうな気がするんだよなーほら、あいつシャチの絵とか見せたら一発で懐きそうじゃん?」
「ひどい偏見だけど納得しかない」
「うちのマンション四大イケメンを籠絡するとは大したやつだぜ、長谷部クン……」
「構成員の約二名はエンカウントすらしてないよね」

 新たに置かれた石が盤上を叩く。黒に挟まれた白が一個、二個とひっくり返され、相手の色に染まった。戦況は五分五分、貞宗としてはそろそろ勝負を仕掛けたい頃合いである。

「長谷部クンなら頭良いし、暫定ボドゲ王にも勝てるんじゃねえかって思うんだよ。是非とも俺の仇を討ってほしい。そして悔しがってる伽羅の姿をアフリカの鶴さんに送ってやりたい」
「動機が私憤塗れだけど楽しそうだなあ」
「おっ、じゃあまた長谷部クン貸してくれるんだな?」
「貸すって犬猫じゃないんだから」
「いいのか? みっちゃん抜きで、俺と伽羅とゆきちゃんと長谷部クンの四人で楽しんじゃっても?」

 貞宗の一手により白石が斜めに伸びる。黒い領土を分断され、ここに来て初めて光忠は熟考の素振りを見せた。

「それは少し寂しいけど、長谷部くんに友達が増えるのは僕としても喜ばしいし」
 光忠の言葉に嘘はない。しかし、本心ではあっても本音かどうかはまた別の話である。貞宗からすると親友の主張は詭弁にしか聞こえない。それも貞宗に対してではなく、光忠が自分自身を納得させるために強引にひねり出した言い分だ。

「みっちゃんはさあ、嘘をつくとき左眉が少し吊り上がるよな」
 ぱちん。貞宗の指摘から一拍置いて光忠の手が決まった。

「貞ちゃんはブラフをかけるとき語尾が少し高くなる癖があるね」
「え、マジで?」
「嘘。で、僕の眉は吊り上がってたかな?」
「微動だにしてなかったぜ! あっ、地味に面倒なところ取られた! くそ、みっちゃんめ……」

 今度は貞宗が次の置き場所に思い悩む羽目になった。むむむ、と唸る親友を待つ光忠の手が持ち上がる。前髪を直すふりをしながら、指先が強ばった眉に触れた。意識して取り繕った顔の筋肉が皮膚の下で悲鳴をあげている。
 長谷部を貞宗と引き合わせたのは他ならぬ光忠だった。ただえさえ夏の水族館は繁忙期で中々時間を作ってやれない。代わりに貞宗たちが長谷部の切望を叶えてくれるというなら、光忠は胸を撫で下ろすのが筋だろう。
 親友から送られてきた昼間の写真を思い返す。言い得も知れぬ感情に喉を塞がれ、光忠は暫しその場に立ち尽くした。自分がいなくても長谷部はもう笑える。その事実を認めるのにどれほど葛藤したのか、光忠以外は知る由もないことだった。
 オセロボードの大半が黒く染まる。なおも粘り続ける貞宗の投了を待つ間、光忠は掌中の石を揉み込んだ。いい加減に決着をつけなければならない。

 

+++

 

「何か欲しいものはないか」
 と、尋ねる長谷部はいつになく神妙な面持ちをしている。思わず光忠も具材を丸める手を止めた。中途半端に整えられた肉団子がボウルに戻される。
 本日の長船家の晩餐はコロッケの予定である。光忠は芋を潰し、材料を混ぜる。長谷部は仕上がった種に卵を絡め、パン粉を塗す。分業にも慣れ、作業中に会話をする余裕も出てきた。その結果として飛び出たのが例の質問である。

「随分とまた急な振りだね。僕何かしたっけ」
「太鼓鐘から聞いた。もうすぐ誕生日だろう」
 そういえば、と光忠は多忙さにかまけて忘却の彼方にあったイベントを思い出した。学生の頃はともかく、働き始めると誕生日の特別感は年々薄らいでいくものである。

「まさか忘れてたのか」
「はは……この時期はやっぱり忙しいから、つい……ねえ?」
「全く。人のことを気にする余裕があるなら、たまには自分を労ってやれ。で、何かないのか」
「当日までのお楽しみってパターンじゃないんだ」
「太鼓鐘にも聞いて色々と考えてみたがどれもしっくり来ない。本人のリクエストならまず間違いないと思って諦めた」
 既に色々と悩んでくれていたらしい。プレゼントをあれこれ吟味する長谷部を想像し、光忠は自ずと緩みそうになる頬を戒めた。

「リクエストかあ。それって何でもいいのかい?」
「俺にできる範囲のことならな」
「そっか。うん、なら一つお願いを聞いてもらおうかな」
「任せろ。場合によっては出世払いで対応する」
 光忠が唇を長谷部の耳に寄せる。距離の近さに狼狽える前もなく、告げられた「お願い」の内容に長谷部は間抜けな声をあげた。

 夕飯の仕込みも終わり、二人はキッチンから家主の部屋に移動した。黒のオフィスチェアに座る長谷部は口を真一文字に結び、ベッドに腰掛ける光忠は満面の笑みを浮かべている。愛用のスケッチブックを手にしながら、長谷部の眉間にはいつになく深い皺が刻まれていた。その表情が先刻のやりとりに起因していることは言うまでもない。
 光忠が長谷部にしたお願いとは、プレゼントに絵を描いてほしいという頼みだった。それだけなら長谷部が顔を顰める理由にはならない。厄介なのは題材の方である。
 光忠はあろうことか自分をモデルにするよう要求してきた。さらに自分だけに留まらず、これまで頑なに画面に出すことを避けていた恋人役まで描くよう指定してきた。当然、長谷部は猛反対したが、光忠も頑として譲らない。
 誕生日だからこれっきりだからと延々言い含められ、長谷部もさすがに根負けした。辛勝だろうと勝利は勝利、光忠は今にも鼻唄を口ずさみそうな勢いである。

「何かポーズでも取った方がいいかな?」
「大人しくしていてくれるなら何でもいい」
「そう? じゃあこのまま長谷部先生の真剣な顔を観察してよう」
「アー視線がうるさい」
「することないから少し見るくらい許してくれよ」
「お前の少しは少しじゃないんだよ、日本語の曖昧な表現に付け込むな」

 何のかんの文句を垂れつつ、長谷部は無心で手を動かした。幾度も反芻し、紙面に起こした輪郭が着々と人の姿を得ていく。いつもと違うのは、空想の中でのみ存在した男の柔らかく温かい笑みが、今や現実となって眼前に横たわっていることだろう。思い描いた表情よりも甘く、熱の籠もった光忠の視線は長谷部にとって毒でしかない。
 いかに相手を想おうと、その慕情に応えてもらえるのは自分ではなく、絵に描かれた男の恋人役だけである。とんだ仕打ちだ、と長谷部は今さらながらに自嘲した。

「そろそろ描けた?」
「気が早い。進捗はまだ半分ってところだ」
「どれどれ、途中経過はどんなものかな」
「やめろスケベ、こら覗き込むんじゃないセクハラで訴えるぞ」

 いつぞやのやりとりの再現とはいかず、制止を振り切り、光忠はスケッチブックを覗き込んだ。描かれているのは光忠一人だけで、彼の恋人と思しき人物はラフの段階にすら達していない。

「僕の恋人は?」
「……鋭意執筆中」
「の割には影も形も見当たらないねえ。発注ミスを疑うレベルで」
「やかましい。今まで描けなかったものが昨日今日で描けるわけないだろう」
「そこを押してどうしても」
「お前なあ。振った相手にこんな要求するの、はっきり言って拷問だぞ」
「誰が誰を振ったって?」

 突として光忠の声が低くなる。電話口でストーカーについて言及されたとき、或いはそれ以上に温度を感じさせない口ぶりに気圧され、長谷部の肌が恐怖で粟立った。

「僕は君を振った覚えなんてない。今までハッキリとした答えを出さずに気を揉ませていたことは本当に、申し訳なく思っている。でも、だからこそ、僕は自分の気持ちを確かめたい。そのためにも君に恋人役を描いてもらいたいんだ」
 長谷部の両肩を掴み、光忠は真っ向から思いの丈を打ち明けた。勢いに呑まれた長谷部は二の句も告げず固まったままでいる。我に返ってからも長谷部は恍惚として、頬の熱を冷ますことができなかった。
 これを描き上げれば光忠の答えが明らかになる。友人という立場に甘えていた長谷部には耐えがたいことだった。横から光忠に「頑張れ」と励まされなければ、途中で筆を折っていたことだろう。

 絵の恋人役は横抱きにされる形で光忠の膝に乗り上げていた。小柄とは言えない男の体重を受けながら、黒髪の美丈夫はうっそりと微笑んでいる。彼らがいかに仲睦まじいのかは、互いだけを見つめる目が十分すぎるほど物語っていた。
 そして渾身の作を描き上げた長谷部はベッドに沈んでいる。うつ伏せになってからまんじりとも動かない。もはや生ける死体である。

「長谷部くん、その体勢息苦しくない?」
「生き恥を晒すくらいなら窒息死した方が楽かもしれないな……」
「力作をありがとう。一生の宝物にさせてもらうよ」
「何だ。お前を殺して俺も死ねばいいのか」
「物騒なこと言わない。ほら、起きて」

 腕を取られても長谷部は抵抗する気力すら湧かなかった。されるがままなのを良いことに、光忠は抱き起こした身体を自らの膝に導く。支える手から確かな重みと温もりが伝わった。長谷部が我に返ったとしてもう遅い。光忠は腕に抱いた恋人役のモデルを放すつもりはさらさら無かった。

「なん、なんのつもりだ……」
「んー実験かな」
「そうか。結果は言わなくていいぞ」
「いいね、悪くない」
「感想ならいいってわけじゃないからな」
「長谷部くんのお陰ではっきりしたよ。改めて告白の返事、させてくれないかな」
「断る」
「好きだよ。君も、君の描く絵も、長谷部国重という人間の全てを好ましく思う」

 ひゅ、と声にならない掠れた空気が押し出される。咽喉でつっかかった言葉を引き上げようとするものの上手くいかない。唇をわなわな震わせ、長谷部は自身を見下ろす蜂蜜色の真意を探った。
 信じられない。いっそ冗談と言われた方がまだ安心できる。相手を傷つけるような嘘をつく男ではないと判っていながら、長谷部はより低い可能性の方に賭けた。

「新手のジョークか、俺は夢を見ている」
「そんなわけないだろう。現実だよ、長谷部くん」
 長谷部の額に柔らかく湿った何かが触れる。びくりと跳ねる肩を押さえ、光忠は目の前の肌に思う存分口づけた。目尻、頬、耳、鼻先。リップ音を立てる場所が少しずつ下がっていく。

「ここにも、していい?」
 光忠の指が赤く色づいた唇をなぞる。どうせ断らせる気なんてないくせに、という恨み言を敢えて飲み下し、長谷部は瞼を閉じた。吐息が混じる。たかが皮膚の一部の重ね合わせるだけの行為がこんなにも心地良い。初めて知る感覚に長谷部は悶え、全身を熱くさせた。

「僕の気持ち、伝わった?」
 一度唇を離し、光忠は長谷部の表情を窺った。紅潮した頬に下がりきった眉、薄く開いた口の端はどちらのものとも判らない唾液で濡れている。

「もっとしてくれたら、わかる。……かも」
 所在なさげだった長谷部の手が光忠の胸に置かれた。力の抜けた指先がやんわりと服を掴む。光忠を見上げる藤色は、男を欲して仄かに潤んでいた。
 長谷部の身体が敷布に倒れ込む。器用に二人の位置を入れ替えた光忠は、半ば噛みつくように無防備な唇へと吸いついた。

「ン、ぁ」
 薄い皮膚を食まれるたびに余韻が肌の内側を焦がす。息継ぎのやり方も判らず、長谷部は時折か細い声で鳴いた。手首をシーツに縫い止められ、身を捩ることすら許されず光忠に蹂躙される。強引にされながら長谷部は屈辱や恐怖などは一切覚えなかった。代わりにもっと求められたい、征服されたい、という欲求が湧いては溢れる。衝動に突き動かされ、長谷部の脚が男を挟み込んだ。
 光忠は喉を鳴らした。これほど密着しても未だ足りない。もっと長谷部のことを奥深くまで知りたいと、舌を伸ばして内側に触れた。異物の侵入に驚く四肢を押さえつけ、光忠は長谷部の咥内を丹念に舐った。控えめだった水音が徐々に大きくなる。渡された唾液を長谷部は喜んで飲み下した。

「はせべくん」
 光忠の指先が組み敷いた肢体の輪郭を辿る。頬を撫で、肩を擦り、脇腹に到達した右手が長谷部のシャツをゆるりと持ち上げた。

 ピンポーン。

「……みつただ、誰か来た」
「隣の家じゃないかな」

 ピンポーン。

「やっぱり呼ばれてるんじゃないか」
「きっとセールスだよ」
「ここの一階普通にオートロックあったよな?」

 ピンポンピンポン。

「……確認だけでも行ってきた方が」
「………………チッ」

 伊達男にあるまじき舌打ちをかまし、光忠は渋々ベッドから起き上がった。
 本当にセールスなら居留守を使うところだが、覗き窓から見た客人は見覚えのある顔である。友人を伴ってならともかく、彼一人でこの家を訪うことは珍しい。とても無下にはできず、光忠は少し冷えた頭でドアノブを握った。

「出るの遅れてごめん。久しぶりだね伽羅ちゃん」
「そこまで待ってない。母さんから北海道旅行の土産だ」
 伽羅、と呼ばれた褐色肌の青年が持参した袋を掲げる。光忠が荷物を受け取れば彼がここに留まる謂われはない。
 いつものように早く切り上げようとしたところで、青年はふと玄関先の靴に目を留めた。
 貞宗のものよりは大きく、光忠の靴よりは小さい。敢えて言うなら鶴丸のサイズに近いが、彼が海外から戻ってないことは昨晩のSNSからも明らかである。敏い青年は光忠の対応が遅れた理由をなんとなく察した。

「先客がいたのか。すまなかったな」
「え、ああ大丈夫。伽羅ちゃんにもいずれ紹介するつもりだったから」
「馴れ合うつもりはない」
「きっと伽羅ちゃんとも気が合うよ。あのシャチを描いた本人なんだけど」

 光忠の評を聞いた青年の肩が微かに揺れる。少なからず興味をそそられながらも、客人はやはり長居を避けようとした。先客が例の絵の作者と知れば尚更である。

「遠慮する。馬に蹴られる趣味はない」
「えっ」
「貞も、あと鶴丸も多分気付いてる。変な気は遣わなくていいから早く戻れ。また八方美人扱いされて振られたくないだろう」
 相手の反論を待たず、伽羅は足早に去って行った。残された光忠は彼の背を呆然と見送っている。その間に友人の忠告を噛み砕き、階段を下りる音が聞こえるようになって光忠は徐に室内へ取って返した。

「お待たせ、長谷部くん」
 声を掛けられた長谷部はあからさまに動揺した。手持ち無沙汰だったのか、拾った枕はぎゅうぎゅうと抱きしめられ、二つ折りになりかけている。
「お、おか、えり……」
 光忠は密かに歯を食いしばった。ベッドの上で目尻を赤くした恋人に迎えられる。何度か異性に同じ振る舞いをされたが、これほど光忠の胸を騒がせた試しはなかった。今にも不埒な場所に伸ばしそうな手を叱咤し、光忠は真っ直ぐ垂れる煤色に指を絡めた。

「さっきはごめんね。長谷部くんが可愛いからって少し事を急ぎすぎちゃったな」
「べ、べつに俺は……その、いやじゃなかった、し」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、僕は大人として節度ある行動を心掛けなければいけないんだ。さっきの続きは高校卒業までお預け」
「……別に女みたいに妊娠しないんだし、そんな線引き必要なくないか?」
「だあめ。友人としての僕の意見で言わせてもらうなら、高校生に手を出すような大人には長谷部くんを託せないよ。僕は君のお母さんとも面識がある。認めてもらえるかどうかは判らないけど、君が母親に対して後ろめたくなるような事実は作りたくない。ね、恋人としての僕は、君と君を見守る人たちに対して誠実でありたいんだ」
 ひとしきり頭を撫で、光忠は剥き出しの額に口づけた。先程は互いの舌まで絡めたというのに、長谷部は戯れのような触れ合いにも変わらず頬を染める。初々しい反応に前言撤回を叫ぶ本能をねじ伏せ、光忠はまた恋人の髪を優しく梳き始めた。

「俺が、触ってほしいって言っても……?」
「人の決心をダンプで踏みにじるような真似はよして頂こう。僕も我慢するから、長谷部くんも春まで待っていてくれないかな」
「……じゃあ、光忠は少なくとも来年の春まで俺を好きでいてくれるんだな」
「はは、随分と見くびられたものだね」

 ――再来年も、それより先の春も君を放すつもりなんてないよ。
 促され、長谷部は再び瞼を伏せた。いつかの水族館と同じく、想像の中の琥珀より現実で見る男のきんいろの方がよほど美しかった。

 

+++

 

 遠方で破裂音が鳴る。次いで墨色の空に鮮やかな花が咲いた。散った花びらが観客に囲まれた川の流れに溶けていく。
「たーまやー!」
 再び打ち上げられた花火に合わせ、貞宗が掛け声をあげる。これまで自室の窓から眺めた経験しかない不動はほう、と嘆ずるのが精一杯だった。

「ほらほら、ゆきちゃんも一緒にやろうぜ! かーぎやーって!」
「お、俺も!? 俺はいいよ、恥ずかしいし」
「大丈夫だって、花火イベントにかこつけて「君の方がもっと綺麗だよ……」とか言ってるカップルもどっかにいるからさ」
「それ今時少女漫画でも聞かないフレーズじゃねえ?」
 その頃、長谷部と二人で行動していた光忠が盛大にくしゃみをしていた。

 結局貞宗にせがまれ、不動も一緒になって声を張り上げた。いざやってみれば後味は悪くなく、直前まで感じていた緊張や羞恥心がすっと失せていく。周囲も祭りの雰囲気に呑まれている。中高生が多少羽目を外したくらいで誰も咎めたりはしなかった。

「っし、江戸っ子の必須イベントを済ませたところで写真撮らねえとな」
「お前は本当に人生楽しそうだな」
「人間五十年、楽しまなきゃ損だろ。ゆきちゃんは撮らねえの?」
「見せる相手もいねえし、いいよ」
「親には?」
 二人の頭上で閃光が弾ける。極彩色の輪が広がり、不動の面食らった顔が宵闇に照らし出された。

 両親の諍いを耳にして以来、不動は母との会話を避けている。一家の大黒柱である父が放任主義を掲げた以上は母も口うるさく言えない。以前なら友人と出かける旨を伝えただけで良い顔はしなかったのに、今では「そう」と、一言了承の意を返すだけに留まっていた。認めたわけではなく目を瞑っているだけであることは、不動も重々承知している。
 もし花火の写真を見せたとして、あの潔癖な母はどういう反応をするだろうか。考えるだけで不動の高揚した気分は冷めていった。

「ま、通ってる学校的にあまり遊びとか歓迎されねー家庭なのかもしれないけどさ。花火が嫌いな日本人なんていないじゃん?」
「主語が大きい」
「もし何か言われたら俺が直談判しに行ってやるよ」
「謹んでお断り申し上げるぜ」

 横で騒ぐ貞宗を置いて、不動はスマホを掲げた。この友人は派手好きで向こう見ずで無鉄砲だが、約束を違うような真似はしない。息子の善意が母に伝わらないと知れば、貞宗は必ず行動を起こすだろう。そのような事態は不動の望むところではないが、嬉しく思ったのも事実だった。
 ビル街のネオンよりも眩しい光が立て続けに夜空を彩る。興奮しきってカメラを構え忘れた貞宗と違い、不動は無事夏の風物詩を写真に収めることができた。

 居間のカーテンから明かりが薄らと漏れている。これまでも帰宅が遅くなることは何度か有った。連絡は入れているのだから引け目を感じる必要はない。そう理屈では解っていても、不動の手は幾度もドアの取っ手を掴み損ねていた。
(大丈夫だ)
 深呼吸を繰り返し、友人の顔を、言葉を思い返す。痙攣する指先がとうとうノブを掴んだ。

「ただいま、母さん」
 ソファで寛いでいた女性が背後を顧みた。手に汗握る息子と違い、母は存外落ち着き払っていた。おかえり、と返ってきた声は怒気を孕んではいない。

「遅くなってごめん。花火大会どうしても最後まで見たくて、つい」
「そう。花火、綺麗だった?」
「う、うん。写真も撮ってきた」
 母の方から話題を掘り下げられ、不動は反って当惑した。しかしこれは紛れもない好機である。カメラロールの一番上にある写真を選択し、息子はスマホの画面を母に突き出した。
 黒々とした瞳に花火が映る。一時間ほど前に夜の底へ沈んだ光が、赤、青、緑といった色を伴って再び弾けた。ドンと空気を叩く音や馴染みの掛け声は聞こえない。母子どちらも口を閉ざしたまま数秒が過ぎた。

「綺麗ね」
「だ、だよね」
「ここにはお友達に誘われて行ったの?」
「うん。俺と同い年の男子」
「そう」
 いつもの会話を打ち切るための相槌。と、思い油断した不動の耳に予期せぬ文句が飛び込んでくる。

「母さんも会ってみたいから、都合の良いときに家に誘ってみてちょうだい」
 品定めをしたい。息子が非行に走らないよう釘を刺しておきたい。嘗ての母が言い出したなら、不動はこれらの可能性を信じて疑わなかっただろう。スマホから息子へと視線を移した母は、確かに口元に弧を描いていた。

「ゆきちゃんの家? 勿論行くぜ!」
 不動の誘いに貞宗は二つ返事で快諾する。あれよあれよと話は進んで、日取りは次の土曜に決まった。久々に客を迎えるとあって母親は張り切っている。貞宗の訪問に戸惑っているのは行光一人だけだった。
 不動家は高台にある一等地に建てられている。門扉から正面玄関まで十数メートル、その間に設えられた庭は芝生が敷かれ、歩道に沿うようにサルビアや百日草などが色彩を豊かにしていた。

「世話すんの大変そうだなあ」
「庭の手入れなら専門の人呼んでるから平気だよ」

 貞宗は危うく手土産の袋を落としかけた。長谷部に口酸っぱく言われて持参した品だが、家の格式に合ったものかどうかは甚だ疑問である。しかしながら今さら別のものを用意することはできない。もう貞宗は腹をくくるしかなかった。

「いらっしゃい太鼓鐘くん。うちの息子がいつもお世話になっております」
 深々とお辞儀され、貞宗もそれに倣う。通された客間は品のある佇まいだが、この小さな客人は腰掛けたソファだけでも百万以上の値打ちが有ることを知っていた。光忠と一緒に海外ブランドのカタログを見ていた過去が役立ったのか、或いは祟ったのか。あまり緊張しない質の貞宗でもさすがに縮こまる思いだった。
 唯一の救いは不動の母が意外にも俗世に通じていたことだろう。曰く、若い子と話すために必死に勉強した、とのことだが、最新ゲームから動画配信の話題まで彼女はそつなく拾い上げた。会話は弾み、時に行光を置いて二人で盛り上がることすら有った。
 互いに随分と打ち解けた頃、ふと行光が席を外した。母親が狙っていたのは、まさにこのタイミングである。

「太鼓鐘くん」
「なんだい?」
「改めて、行光と仲良くして下さってありがとうございます」
 丁寧に頭を下げられた貞宗はくすぐったさを覚えた。不動家の者からすれば、太鼓鐘貞宗は一人息子を連日遅くまで連れ回している悪友である。煙たがられこそすれ、感謝されるような謂われはないだろう。
「そんな照れるって。俺はただ自分のしたいようにしてるだけだし」
「いいえ。中学以来、あの子が友達を連れてきたことなんてなかったんです。友達を作る余裕すら与えてあげられなかった、というのが正しいのでしょうね。受験も含めて、行光には親の都合を押しつけすぎたと反省しているんです」
 貞宗はここで初めて行光の抱える事情を知った。勘付いていなかったわけではない。あの日、光忠が自分と引き合わせるように家に上げたこと。この歳にしてはやたら浮世離れしていること。花火大会での会話。片鱗は何度も見えていた。おそらく親との仲が微妙であることも想像はついていた。
 もっとも貞宗の予想は半分当たりで、半分外れである。少なくとも行光の母は自らの振る舞いを反省し、息子に歩み寄ろうとしている。ゲームや配信の話題にしたってそうだ。海の物とも山の物ともつかぬ貞宗のために勉強するはずがない。あれは息子とのすれ違いを少しでも埋めようと考えた、母なりの努力なのだろう。

「心配しなくても、ゆきちゃんは付き合いも面倒見も良いし、これから俺以外にも沢山友達ができるって。この貞ちゃん様が保証してやるぜ」
 貞宗は自らの胸を叩いた。憶測でも何でもない。貞宗は自分の見立てと、それ以上に行光の人柄を信用していた。
「っていうか、実際俺以外にも友達いるぜ。まあ歳が少し離れてるし、最近は大人の事情で遊べてないんだけどな!」
「あら、それは初耳です。もしあれば写真とか見せて頂いても?」
「オーケーオーケー、ちょっと待ってな」
 慣れた手つきで貞宗は画像フォルダを探った。四人が揃っている写真は少ないが、折しも先日の花火大会で集まったばかりである。長谷部と光忠に挟まれる不動のショットはすぐに見つかった。

「あった! 左が長谷部クン、右がみっちゃんっていうんだ。どっちもイケメンだろ?」
 このときの貞宗は浮かれていた。彼は自分が母子の不和を解消する手助けをしていると信じている。貞宗の善意を迂闊と責めるのは筋違いだろう。長谷部と不動の関係を知らない少年に、女親の情念を理解できるはずがない。

 夕食まで馳走になり、貞宗は意気揚々と不動邸を後にした。駅までの送迎は使用人が行っているため、家に残ったのは不動母子の二人のみである。
 息子はずっと母の反応を窺っていた。見たところ友人の評価は好感触に終わったようだ。貞宗との付き合いを禁じられる心配はない。行光はようやく胸を撫で下ろすことができた。

「太鼓鐘くんは良い子だったわね、行光」
「あ、ああ。たまに調子に乗るけど、いいやつだよ」
「どうやって会ったの? 切っ掛けは?」
「え、っと……あいつの友人と元々知り合いで、その縁で、かな」
 詳しい経過はとても教えられない。不動の交友関係の発端は全て腹違いの兄から始まっている。いくら母の態度が軟化してきているといっても、長谷部について言及するわけにはいかなかった。

「お知り合いって、光忠さん?」
「え」
 行光の背中を冷たい風が通り抜ける。言い知れぬ悪寒が迫り上がって喉を塞いだ。革張りのソファから不快な音が立つ。上質な素材を、整えられた爪先が掻き毟っていた。

「人気のドルフィントレーナーなんですってね。写真で見るだけでも納得のいく男ぶりだし、今の時期はさぞお忙しいんでしょうね」
 かり、かり、かり。母の苛立ちを反映してか、ソファの上げる悲鳴はどんどん間隔が狭まっていく。

「水族館に興味があるなんて、母さん知らなかったわ。光忠さんへの挨拶も兼ねて、今度一緒に行きましょうか」
「そ、れは……」
 承諾してはいけない。行光は友人から光忠と実兄の関係について匂わされていた。恋人の職場に長谷部が顔を出す確率は高い。鉢合わせることも十分考えられる。

「そんなに母さんを光忠さんに紹介したくないの?」
「ちが、う。だってほら、光忠さん忙しいし、急に押しかけたら迷惑かも」
「それとも他に会わせたくない人がいるのかしら」
 行光の肩が跳ねる。ソファを嬲っていた指先が離れ、息子の腕を掴んだ。

「貴方に兄なんていないわ。私たちは今も昔も三人家族よ、わかってるわよね? 悩み事も相談も全部私かお父さんにしなさい。どうしても話しづらいことなら、太鼓鐘くんや光忠さんに頼ってもいいわ。でもあの余所者だけはだめよ、絶対にだめ。許せない、赤の他人のくせに私から行光を奪おうなんて絶対許さない。あああああの髪、あの顔、ありえないわ、本当に心の底からどこまでも忌々しい!」

 女とは思えない力が息子の細腕を絞り上げる。激痛に喚きながらも行光は抵抗を試みた。自由な方の手で母の胸元を思いきり叩き、引き剥がす。やっとのことで解放された腕は手の痕が残り、爪が食い込んだために皮膚に赤い珠が浮かんでいた。

「ゆきみつ」

 息子を呼ぶ母の眼からは狂気が消えていない。行光は膝を屈した。
 もう二度と兄と会うことはできない。長谷部と繋がりの有る友人とも遠ざかるべきだろう。こんなことなら正直に弟と打ち明けておくべきだった。ずっと他人行儀に、長谷部と名字で呼び続けた肉親を思い、行光は項垂れた。
 美しく長い髪が床に散らばる。陽に照らされ、時に紫がかった艶を帯びる黒髪は母譲りのものだった。やや黒ずんだ灰色の髪を持つ父とは似ても似つかない。その特徴を持って生まれたのは、行光の兄である国重の方だった。

 カーブに差し掛かった車体が僅かに揺れる。つり革を心持ち強めに握り、貞宗は長谷部宛へのメッセージを送信した。
 今日、貞宗が不動家に行くことはいつもの二人も知っている。ご挨拶はしっかりとね、という光忠の言葉に長谷部は異様なほど強く反応した。手土産を用意しろ、敬語を忘れるな云々。当時は大げさだと漏らしたものだが、そのアドバイスが的確だったことは言うまでもない。一部活かしきれなかった反省も込めつつ、貞宗は感謝の意を存分に伝えた。
 最寄り駅につくまであと十数分。新しくアプリを開こうとした貞宗の指が止まる。不動からメッセージが届いていた。いつも貞宗から連絡を入れるので、向こうが先に話題を振ってくることは珍しい。胸を弾ませながら貞宗は新着メッセージを確認した。

「今日は遊びに来てくれてありがとう。理由は話せないけど、もうみんなと会えなくなりました。突然でごめん。光忠さんたちにも宜しく言っておいてくれると助かる」

 ホームに入った電車が停車する。駅名を告げるアナウンスと前後し、ドア近くにいた乗客が続々と降りていった。それに一歩遅れる形で貞宗も構内へと飛び出す。時刻表と路線図を見て、貞宗は階段を駆け上がった。

 

+++

 

「どうやら太鼓鐘は首尾良くいったらしいぞ」
 長谷部の報告を聞き、光忠はソファ越しに液晶の画面を覗き見た。メッセージの他に三人で映る写真が添付されている。誰とでも仲良くできる貞宗の手腕は光忠も認めるところだが、こうして形にされるとやはりほっとする。
 長谷部ほどではないにしろ、光忠も不動家の内情を懸念していた。父親が大学病院の院長で、息子を中高一貫の有名私立校に通わせるくらいだ。加えて長谷部なみに世間に疎い不動の様子を見ていれば、母親の気位の高さもなんとなく想像できる。結果が杞憂に終わってくれるのなら、それに越したことはないだろう。

「上手くいって良かったよ。これで長谷部くんも僕との時間に集中できるしね」
「そんなに今日の俺は落ち着きがなかったか」
「いや、あれはあれで繁殖期のペンギンみたいで可愛かったな」
「ペンギンなら何やっても可愛いから論外だ」
「長谷部くんだって何やっても可愛いよ」
 長谷部は後ろ手で恋人の腰を叩いた。当の光忠は痛がるそぶりも見せず笑っている。友人の頃から距離が近い男は、自覚してから一層長谷部を甘やかすようになった。芯に響くような低音で睦言を囁き、食事から睡眠まで何かと世話を焼きたがる。今も湯上がりの長谷部の髪を乾かし、仕上げに髪を梳かしているところだった。

「はいおしまい」
 合図とばかりに光忠はつむじに口を寄せた。飛び上がりかけた長谷部は勢い余ってソファに倒れ込む。相手からすれば挨拶程度の感覚でも、恋愛に免疫のない青年には致命的だった。

「くそ……欧米にかえれ」
「残念ながら仙台出身だよ、お望みなら今度観光案内してあげようか」
「ん……興味はある、な」
「ついでに実家に挨拶しにいく?」
「そんな大事なイベントをついでで済ませてたまるか」
「挨拶自体は否定しないんだ」
「……まあ、いずれ、な」
 朱を差した頬で肯定されては耐えられない。光忠は持ち前の長い足でソファの背を跨ぎ、長谷部に覆い被さった。

「長谷部くんはさあ、本当にさあ」
「なんだ。はっきり言え」
「好きだよ、大好き。さっきの言葉、忘れないからね」
 応ずる長谷部の声は光忠に呑み込まれた。一瞬だけ触れた皮膚がまた重ねられる。始めは目を丸くしていた長谷部も、何度も啄まれるうちに慣れて、光忠の背へと自らの腕を回した。

 ピンポーン。

「聞こえません」
「こら、ご近所付き合いを疎かにするんじゃない」
 光忠の頬が指先でぐにぐにと圧されて形を変える。さも不服そうに立ち上がった恋人を見送り、その背が廊下を曲がりきるや、長谷部は深々と息をついた。

 身が保たない。共有した熱は容易に冷めず、長谷部の中で燻り続けた。両脚をもどかしげに擦り合わせ、恋人を待つ間に考えるのは例の約束事である。卒業までお預けという話だが、日に日にスキンシップの時間は長くなってきている。光忠に暴かれる夜を想像し、長谷部が自分を慰めたのも一度や二度では済まなかった。
 いっそ身も心も奪われてしまえば楽だが、光忠もあれで意志が固い。長谷部が迫ろうと首を縦に振らないことは目に見えていた。その結果として長谷部は煩悩を持て余してる。およそ他事に集中しなければやってられない。貞宗の不動家訪問を長谷部が過剰なまでに心配していたのは、こういう事情も有ってのことである。

(不動の方からは特に連絡がないな)

 玄関からは明るい声が聞こえてくる。光忠が戻るまで時間が掛かりそうだと見越し、長谷部はクッションの下敷きになっていた携帯を引っ張り出した。
 今日の感想でも聞こうと二、三のメッセージを送る。待ってみたが、長谷部の見るトーク画面に既読マークは付かない。兄弟揃って携帯を頻繁に確認する方ではないので致し方ないだろう。電話するほどの案件でもないと、長谷部は早々にアプリを閉じた。

「お待たせ長谷部くん。ごめんね、貞ちゃんのお母さんとつい話し込んじゃった」
「構わん。その海老フライはお裾分けか?」
「ああ。すごく美味しいから長谷部くんも楽しみにしててね」
 話題に縁の人物が挙がり、長谷部は思い立って貞宗の報告を見直した。投稿から既に一時間ほど経っている。文章は帰りの電車で送ったものらしいので、そろそろ帰宅していてもおかしくないだろう。

「奥さんは太鼓鐘が帰ってきたとは言ってなかったか?」
「いや、まだだって。もしかしたら駅前のお店にでも寄ってるのかもね」
「そうか。直接訊きたいこともあるし、まだ駅にいるようなら迎えに行こう」
 数少ない登録番号を呼び出し、長谷部は貞宗に電話を掛けた。コールが数回鳴っても応答はない。近年の若者らしく携帯依存症の貞宗にしては珍しいことだった。

「……長谷部クン」
「あ、もしもし太鼓鐘。悪いな、急に連絡して。今どこにいる?」
「■■駅」
 貞宗は歳不相応に低い声で端的に答えた。受話口から伝わる息遣いは荒く、駅前にしては妙に静かである。そして何より、告げられた駅名が最寄りはなく、不動家の近辺に位置していることに長谷部は胸騒ぎを覚えた。

「待て、お前帰りの電車に乗ってたんじゃなかったのか」
「その後で戻った。俺はもう一回ゆきちゃん家に行ってくる」
「何だ? 忘れ物でもしたのか」
 茶化すつもりで尋ねた声が震えている。たかが忘れ物くらい後日取りに行けばいい。貞宗がわざわざ引き返すような理由はもっと根が深いものだろう。

「ゆきちゃんが、俺たちにはもう会えないって言ってきた」
 長谷部の脳髄が不可視の鈍器によって揺さぶられる。衝撃を受けた頭の中でぐるぐると貞宗の言葉が駆け巡った。

「理由は話せねえって言ってたけど、そんなの納得できねーから家に殴り込みかけることにした。悪いけど母さんには上手いこと言っておいてくれ」
 通話が一方的に切られる。長谷部は眦を裂いて不動のアドレス帳を開いた。今度は呼び出し音すら挟まず、お客様の都合によりお繋ぎできませんというアナウンスが入る。冷房の利いた室内で、汗ばんだ手が危うく掌中の板を落としそうになった。

「光忠、車を出してくれ」
「わかった」
 長谷部のただならぬ様子に、光忠は二つ返事で了承した。事情は車を出した後でも聞ける。口にせずとも、今は一刻も争うときだと互いに通じ合っていた。

 

+++

 

 駅から不動邸までは徒歩で三十分前後の距離になる。一度行っただけの場所、しかも帰りは車で送られていて、道筋をなぞるのはほぼ不可能だった。加えて昼と夜とでは印象も変わってくるので、数時間前に同じ道を通ったかどうかすら疑わしくなる。周囲には目印になるような施設もなく、貞宗はあやふやな記憶と勘を頼りに歩き回るしかなかった。
 一時間ほど彷徨って、ようやく目的地に辿り着く。

「太鼓鐘くん?」
 訪問に応じたのは不動の母だった。ドアホンを通して聞く声は先と変わらず、嫌悪感などは滲み出ていないように思う。つまり彼女は、息子とその友人間で交わされた絶縁のやりとりを知らない。貞宗の予想を裏付けるがごとく、行光と話がしたいという頼みを彼の母は快く承諾した。

「ごめんなさいね。疲れてるのか、あの子どうしても出たくないって」
「そっか。じゃあさ、扉越しでもいいから話させてくんねえかな。とても大事なことなんだ」
 不躾だと思いながらも貞宗はなおも食い下がった。ここで退けば不動は何も言わず自分たちから離れていく。明け透けな物言いにもかかわらず、友人が本心を隠しがちな性分であることを貞宗はよく理解していた。
 家人に案内され、貞宗は不動の部屋の前に立った。扉の下から幅広の光帯が伸びて、背後の壁を照らしている。少なくとも部屋の住人はまだ起きている。

「いるんだろ、ゆきちゃん。納得いく理由を聞かせてもらおうじゃねえか」
 貞宗の問いかけが廊下に虚しく響く。返る声はなく、代わりに貞宗の懐にある携帯が鳴った。不動から届いたのは「帰れ」という簡潔、かつこれ以上ない拒絶の文句だった。

「ゆきちゃんから説明されるまで帰らねえ」
 また貞宗の携帯が新しいメッセージを受信する。確認するまでもない。いくら不動でも、一分そこらで友人を説き伏せるに足る文章を捻出できるはずがなかった。

「親に何か言われたのか? 俺みたいな連中と付き合ってたら品性が落ちるとでも脅されたか? 別にそう説得されて、ゆきちゃんが俺たちから離れたいって思ったんなら、それでも構わねえよ。でもゆきちゃんが納得いってねえなら話は別だ。自分が腑に落ちてない理屈で他の誰かを動かそうなんて虫が良すぎるだろ」
 貞宗の主張が不動の心の柔い部分を抉る。こちらを慮っての言葉だとしても、相手に真実を打ち明けてどうなるものでもない。あの母が今さら長谷部への心象を良くするとは思えなかった。

「犯罪や病気さえ絡まなきゃ、大人が若者の青春を奪っていいお題目なんてありゃしねえよ。俺はゆきちゃんと遊ぶの楽しいぜ。みっちゃんや長谷部クンと一緒にいるのもな。後はゆきちゃん次第だ。本当のこと言うまでトイレに行けると思うなよ」
 冗談めかしてはいるが、貞宗はいたって本気だろう。不動はベッドから身を起こし、ドアの手前に立った。
 しかし、いざ話そうとすると何から説明すべきか悩む。切り出し方に不動が散々迷っているうちに、扉の外から物音がした。

「ゆきちゃん!」
 貞宗がドアに拳を二度三度叩きつける。ノックというには乱暴すぎる振る舞いを窘める余裕はなかった。
 戸を開けた途端に女の甲高い尖り声が耳を劈く。この家に住まう女性は不動の母以外にない。彼女は荒れ狂う感情を隠しもせず、相手を悪し様に罵っていた。階段を下りずとも、不動には母が誰と話しているか察しがついた。

 モニター越しでは埒が明かぬと、不動の母は自ら訪問者を迎えに出た。門柱の先端にある照明が白い肌に浮かんだ青筋をぼんやり照らし出す。睨めつけられた長谷部は般若と対峙している気分だった。

「お引き取り下さいと申し上げたはずですが」
「こちらも息子さんと会うまで帰れないとお伝えしました」
「いい加減になさって下さい。行光は貴方の弟ではありません。勝手に身内面して家にまで押しかけてこないでもらえますか」
「俺は行光の兄を名乗ったことは一度もありません。彼とはあくまで年の離れた友人として接してきました」
「お互いに身の上を知っていたなら同じことでしょう。白々しい台詞はよして下さい」
 居間からテラスを通り、不動と貞宗は物陰から玄関先を窺った。かろうじてシルエットが掴めるぐらいの距離だが、会話を聞くのには不便しない位置取りだった。

「私からあの子を取り上げようと言うのですか? とうに不動の姓を捨てた貴方が? いったい何の権利があってそんな恥知らずな真似ができるんです?」
「まさか、選ぶのは行光自身です。俺と会いたいか、会いたくないかを決めるのはあいつだ。周囲がとやかく言う問題じゃない」
「行光は同意してくれたわ。私の言葉は行光の意志なのよ。わかるでしょう、ぽっと出の中途半端に血だけ繋がった兄なんて必要とされてないのよ」
「ならそれを本人の口から聞かせて下さい。行光から直接拒まれたのなら俺も引き下がります」
「あの子の優しさにつけ込むつもりかしら。行光には会わせないわ。これ以上しつこくするようなら警察を呼びますよ」
 二人の応酬はどんどん険を増していく。止めなければ、でもどうやって、と狼狽する不動の背を貞宗が力任せに押した。たたらを踏んだ身体が数歩ほど前に出る。
 よろめいた不動の爪先が花壇周りの煉瓦を蹴った。大した音ではなかったかもしれない。しかし口論はぴたりと止み、長谷部たちの視線はいきなり現れた不動に注がれた。

「行光」
 兄に名を呼ばれ、弟は息を詰めた。長谷部は始めから自分の正体を知った上で、敢えて不動と呼び続けていたのだろう。初対面のときに不審な態度を咎めなかったのも、強引に水族館へと誘ったのも、連絡先を尋ねたのも、兄なりの優しさだったに違いない。

「お前が好きに決めていい。会いたくないというなら、俺はその意志を尊重する。恨んだりしないし、後から反故にしたりしない。だから、親御さんのことも俺のことも忘れて、自分がどうしたいかだけを考えてくれ」
 不動の耳から母の金切り声が遠ざかる。静寂の戻った庭先で、弟は兄に迫られた選択の答えを探した。

「なあ知ってるか。世の中、言ってくれないと判らないことだらけだそうだ。俺もお前がどうしたいか教えてもらわないと判らない。だから、俺もどうしたいか話しておく。今まで隠してきたし、お前の母親にはああ言ったが、本当は俺も行光の兄になりたかったんだ」
 眉を下げ、長谷部はくしゃりと顔を歪めた。面映ゆそうに笑う長谷部を不動は初めて見る。貞宗に向けるものとも、光忠に向けるものとも違う、弟を思う兄の表情だった。

「お前とは会ったばかりだし、兄として接してくれと言われても困るだろう。お互いにずっと一人っ子だったんだ。兄弟らしい接し方なんて判らない。選ばれなくても仕方ないとは思う。だから、もし許されるなら、俺は行光の兄として恥じない立派な大人になると誓う。お前の親御さんが認めてくれるくらい、格好いい兄にな」

 不動の踵が地面から離れる。長谷部はのけぞりつつ腹にぶつかってきた質量を受け止めた。光忠に選んでもらったシャツが水分を吸ってじくじくと色を変える。

 ――まあ、洗えばなんとかなるだろう。

 長谷部は服が濡れるのも構わず、噎び泣く弟の頭を撫でやった。

+++

 

 その夜、不動院長に一本の電話が入った。緊急の仕事でもなければ無視するところだが、相手の名前が名前である。
 長谷部国重。その名を聞いたのは果たしていつぶりだろう。前妻は潔癖すぎるきらいが有った。彼女の下で厳粛に育てられただろう国重が、母子を捨てた父を良く思っているはずがない。その息子が今になって連絡を取りに来た。数年越しの罵声にしろ、恥を忍んでの援助にしろ、面白いことは間違いない。

 生憎と電話の相手は国重本人ではなかったが、得られた情報は非常に有意義だった。いそいそと身支度をし、迷わず職場を後にするくらいには心躍る案件である。
 車を急がせてみれば、なるほど玄関先では妻と国重、それに行光までもが揃っていた。本来なら高みの見物と洒落込みたいところだが、それでは約言に反する。好奇心もろとも妻の口元を抑え、不動院長は音もなく自宅に足を滑らせた。

「いきなり帰ってきたと思ったら何ですか!」
「兄弟の感動シーンに水を差すわけにはいかないだろう。お前もそろそろ息子離れしたらどうだ」
「貴方がそんな真っ当な理由で動くとは思えません」
「信用がないな。私はただ、」

 さすがに疲れたのか、後部座席の貞宗は寝息を立てている。大口を開け、涎まで垂らす姿には本日の誉をほしいままにした少年の面影はない。
「そういえば」
 信号が赤になり、前の車に合わせてブレーキが踏まれる。長谷部は何とはなしにシートベルトと服の間に指を差し入れ、運転席の男にふとした疑問を投げかけた。

「どうやってあのクソ親父を引っ張り出したんだ?」
「はは、清々しいほど嫌われてるね。あのお父さん」
「過去の所業が所業だ。あの水族館に連れて行ってもらったことと、行光の生誕以外に感謝できる要素がない」
「じゃあお父さんのお陰で僕らは出会えたわけだ」
「まあ、そうなるわけだが……だからといって、これまでのあれそれを帳消しにはしないぞ。いつか絶対殴る」
「穏やかじゃないねえ」
「で、いったい何を要求されたんだ。あいつのことだから相当えげつない内容だろう」
「いや、結構話の判る人だったよ」
 空白ができるほど伸びたシートベルトがまた元の長さに戻る。長谷部は手遊びを止めて、隣でハンドルを握る男の顔を凝視した。

「どうしたんだい、そんな面白い顔して」
「いや俺は稀代の詐欺師か詭弁家を彼氏にしてしまったのではないかと」
「まさか。僕はただ、協力してくれたら国重さんの結婚式への招待をお約束しますよ。と、提案しただけさ」
「は」
「息子さんを下さい、って言ったら途端に親身になってくれてねえ。同性婚に理解のある人で僕としても助かったよ」
 あっけらかんと笑う恋人に付いていけず、長谷部は呆然と男の横顔を見遣った。信号が赤から青へと変わり、車が動き出す。両者の視線は交わらないまま、手だけが重なった。

「長谷部くん」

 ――今度、指輪のサイズ測りに行こうね。

 白線の手前で前輪が止まる。愛しい人を閉じ込めたきんいろが、夜を裂いて煌々と輝いていた。