夢追人は青い箱庭に帰り出づ - 3/3

 

 鞄を床に、パンフレットを机にそれぞれ置く。手ぶらになった長谷部は、積み上がった小冊子から卓上のカレンダーへと視線を移した。
 八月二十二日。高校最後の夏休みが終わるまであと十日もない。同級生たちは今も年明けに備え、ノートに数式や英単語を書き連ねていることだろう。
 学歴のためだけに進学する生徒も多いが、中には当然専攻や就職のことを考えている者もいる。今の長谷部は前者の部類だった。青年は未だに将来の自分が思い描けない。

 ジンベエザメが巨体をくねらせ、白い腹を見せた。ガラスに張りついていた子供たちが歓呼の声をあげる。保護者たちがその都度諭し、落ち着かせても、また別の家族連れが一連の流れを繰り返していた。
 盆を過ぎても水族館の人影は絶えない。目玉の巨大水槽は端から端まで列が続いている。色鮮やかな珊瑚は黒塗りのギャラリーで見えず、客の目に入るのは専ら岩山か大型魚の断片だった。

(時期を誤ったかもしれん)
 気分転換のつもりで訪れた長谷部は早くも後悔し始めていた。海中の神秘を楽しむにはノイズが些か多すぎる。

 巨大水槽のコーナーを抜けてフードコートへと向かう。カフェは満員のようで、屋外スペースも空席らしきものは見当たらかった。静寂を求め、長谷部は混雑を縫うように歩を進めた。
 本館とイルカのプールを繋ぐ並木道は立派だが、紅葉の季節を除けば意外な穴場になる。まだ葉の青い銀杏の陰を借り、長谷部はやっと八月の日差しと人だかりから逃れた。

 長谷部がこの水族館に通うようになって三ヶ月が経過している。当初は母が希望する大学に入る以外の目標など持っていなかった。窮屈で閉鎖的な日々だったが、その代わり選ぶ苦悩とは無縁だった。
 自由とは放縦を許す権利ではなく、責任の対価である。長谷部は十七年間生きてきて初めて、決断の難しさを痛感していた。

「あれ、長谷部くん」
 アブラゼミの合唱が掻き消される。長谷部が声の主を聞き間違えるはずがない。彼の職場である以上、こうして会ったとしても不思議ではないだろう。さして驚きもせず呼びかけに応じようとして、長谷部は言葉を失った。
「今日来てたんだね。これからショーの見学かい? 僕は出られないけど、小竜くんが新技披露するらしいからオススメだよ」
 笑顔で営業トークをする彼氏に長谷部は人差し指を突きつけた。無論、当の光忠にその意図は伝わらない。体調不良を疑われかけたところで、長谷部はもつれる舌を必死に動かした。

「なんだその破廉恥な格好は」
「世のサラリーマンにいきなり喧嘩売ってどうしたんだい」
 光忠は普段の黒い作業服ではなくスーツを身に着けている。恋人のラフな姿しか知らない長谷部は、突然のビジネススタイルに動転していた。
「今日は現場はお休みで研修なんだ。九月から正式に昇格が決まったからね、これからはスーツがメインになりそうだよ」
「あ、ああ。前に言ってたやつか。おめでとう、でいいのか?」
 昇格人事については長谷部も光忠から聞いていた。管理側に回ればイルカショーから離れるだろうことも、ドルフィントレーナーの厳しい現実についても同様である。進退に悩む自分の背中を押したのは君だった。と、後に語られたものの長谷部にその自覚はない。
「いいんだよ。役職に上がっても現場に顔出しちゃいけない決まりなんてないしね」
「自由なやつだな」
 額に滲んだ汗が垂れ、長谷部は慌てて目元を拭った。木陰でも地表の熱気までは防げない。二人の足は自ずと館内に向けられた。

「光忠はどうしてドルフィントレーナーになろうと思ったんだ」
「簡単だよ。イルカが好きだから」
「さすがに十文字以内で収められるのは予想外だった、参考にならん」
「動機と計算式はシンプルな方がいいだろう? 複雑にして許されるのはパスワードだけさ」

 好きなこと、と問われて長谷部が真っ先に浮かべるのは絵だった。しかし光忠を始め、他人に絵を評価される機会が増えても、これで生計を立てようとはやはり思えない。
 今から美大を目指したところで時間も金銭も不足している。長谷部はひどく現実的な視点で芸術の道を選択肢から外した。

「就職活動かい? 長船光忠の配偶者ならもう内定が決まってるけど」
「その際はダブルワーク制度を利用させて頂く所存です」
「先月は弊社が第一志望だって言ってくれたのに……」
「一方的に甘やかされる関係になるのは御免だ。それに職業ヒモなんて母さんや行光に合わせる顔がない」
 ああ、と光忠が納得の声をあげる。長谷部は先日、不動母子に向かって威勢良く啖呵を切った。保守的で世間体にうるさい院長夫人を認めさせようというなら、確かに社会的な地位は必須となる。
 あの夜、不動行光は初めて母と道を違えた。真面目な長谷部が弟の覚悟に応えんと躍起になるのも無理はない。

「僕、長谷部くんの天職を知ってるけど」
「何だと」
「期待に満ちた目をありがとう、でも内緒だよ」
「山吹色のお菓子でもご所望か」
「役所に届ける類の紙以外はお断りします。こら脇腹突かない」
「お前が口を割ることで一人の長谷部くんが救われるかもしれないんだぞ」
「向いてる仕事と就きたい仕事は違うだろう? 僕だって何度もホストに勧誘されたけど断ったし」
「歌舞伎町ナンバーワンを捨ててイルカを選んだ男の説得力は桁違いだな……」
 ドアが開き、屋内の涼気が肌を舐める。結構な温度差に長谷部が身震いすると、額にハンカチが宛がわれた。

「焦らなくても、長谷部くんなら見つけられるよ」
「……根拠は」
「ここ四ヶ月、君を見続けてきた男の勘」
 一通り汗を拭ったところで光忠は恋人から離れた。休憩時間の終わりも近い。長谷部の肩を二、三度叩いた光忠は「ゆっくりしていってね」と、言って踵をめぐらした。

 光忠を見送り、長谷部は再び巨大水槽のコーナーに来ていた。時間をずらしてみても人の入りは変わらず、コバルトブルーの壁面は蠢く黒山に四分の一ほど覆われている。長谷部の関心は、残る四分の三の箱庭には注がれなかった。
 順路に従いゆっくり動く列の奥で、何かが伸びたり縮んだりしている。客はその一点を避けるようにして動いており、集団の外からは余計に目立って見えた。

「なあ」
 話しかけられた少年の肩がびくりと跳ねる。ただえさえ爪先立ちで不安定だったバランスは虚を突かれてあっさりと崩壊した。小さな身体が勢いよく後方に傾ぐ。迫る床に少年は目を瞑ったが、幸い倒れるより先に長谷部に拾われた。
「あ、あわわわ……すみませんお兄さん!」
「いや、俺がいきなり話しかけたせいだから気にするな」
 立ち上がった少年は長谷部の腰元ぐらいの背丈しかない。悲しいかな、この体格では背伸びしたところで焼け石に水である。最前列でなければ鑑賞は難しいだろう。もっとも傍から見る限り、少年が追っているのは魚群やサメの流れではなさそうだった。

「なあ、さっき見ようとしてたのって水槽じゃなくて解説の方か?」
「あ、はい! お魚さんの名前を調べたくて」
 少年は首から提げているバインダーを軽く持ち上げた。挟んでいる紙には人目を惹く大型魚以外にも、水の色に紛れて判りづらいアジなども描かれている。
「上手いな。夏休みの自由研究か?」
「実はそうなんです! これさえ終われば宿題は全部終わりです」
「お、偉いな。どこぞの中学生にも見習わせたいものだ」

「えぇっくしぃ! やっべ、夏風邪ひいたかもしれねえ!」
「貞に限ってそのパターンはないから今日中に歴史のプリント終わらせなよ」
「人は何故、戦国と幕末以外を勉強しようとするのか……」
「過去に学ばないせいで同じ過ち繰り返す連中が多いからじゃない? たとえばギリギリまで放置していた課題の山が鞄の底から出てきたり」
「どうやら俺が開けちまったのはパンドラの箱だったみてえだな」
「そうだね、お陰で休み中に気付けたし最後に入ってたのは希望だったね」

 空色の大きな二つ目が忙しなく辺りを見回す。人々のつむじ、砂泥に腹ばいになるカレイ、珊瑚と同化するクマノミなど、先程とはまるで違う世界が広がっている。好奇心旺盛な少年は目的も忘れて感嘆の声を漏らした。

「よく見えるか秋田?」
「はい、すごいです長谷部さん!」
 長谷部の頭上で鉛筆を走らせる音が続く。少年、秋田藤四郎の自由研究は思わぬ協力者の登場でようやく軌道に乗り始めた。
 肩車をしたまま二人はゆっくりと館内を巡る。秋田は無邪気だがそれ故にどこか危なっかしい。少し目を離した隙にいなくなることもしばしばで、長谷部は各フロアを何度も往復する羽目になった。ただガラスの前で目を輝かせる秋田を見ていると、つい何も言えなくなってしまう。反省しては肩を落とす秋田を励まし、長谷部は閉館時間ぎりぎりまで少年の課題に付き合った。

「どうだ、良いものは作れそうか」
「うーん……たくさん絵が描けたのはいいんですけど、どうまとめていいかわからなくなっちゃいました……」
「どうって?」
「このままだと絵に僕の感想をくっつけただけになりそうで、これって研究っていうんでしょうか?」
 今度は長谷部が驚く番だった。朝顔の観察日記しかり、昆虫採集しかり、小学生の自由研究はやり遂げることに意義が有る。体裁を整えて満足する者が大半で、秋田のような疑問を抱く者は少ないだろう。少年の直向きな姿勢は長谷部の胸を打った。

「どんな感想を持ったか聞かせてもらってもいいか?」
「えっと、北と南の海でお魚さんの模様が全然違うのはどうしてだろうとか、集団で動くお魚さんと一匹で過ごすお魚さんがいるのは何でだろうとか」
「そうだな、何でだろうな」
「解説だけじゃよくわからなかったです」
「じゃあ本を借りて調べてみよう。ここは学習室やモニタールームもあるから、勉強にはうってつけだぞ」
 そうして二人は時間も忘れ、図鑑や映像と睨み合った。新たな発見や疑問が湧くたびにメモの内容は豊かになっていく。帰る頃には用紙いっぱいになった研究成果に、秋田も頬を綻ばせていた。
噴水の縁に座り、秋田は長谷部と並んで迎えを待っている。人懐っこく、何にでも興味を持つ秋田は頭に浮かんだことをすぐ口にした。

「夕焼けはどうしてあんなに赤いんでしょう」
「お、その答えは知ってるぞ。太陽の光は色で種類が分けられるんだが」

 秋田は熱心な生徒で、たとえ小学生には難しい話であっても懸命に耳を傾けた。長谷部が身振り手振りや絵を交え、なるべく噛み砕いた説明を心掛けたためだろう。二人の会話は途切れることなく、終始和やかな雰囲気を保っていた。

「すごい、長谷部さんは何でもご存じなんですね!」
「たまたま知っていただけだ。将来は俺より秋田の方がずっと物知りになるぞ」
「だといいなあ。僕、あまり勉強は得意じゃなくて」
「そうか? 夕焼けの話なんて中学生でも難しいだろうに、最後にはちゃんと理解できたじゃないか」
「それは長谷部さんの教え方が上手だからですよ。まるで――」

 親戚に手を引かれ、秋田は水族館を後にした。遠ざかる二人の影をぼんやり捉えながら、長谷部は妙にふわふわした心地で先の出来事を反芻している。
 秋田の兄代わりらしい粟田口一期は丁寧かつ温和な青年だった。このお礼はいつか必ず、と深々と一礼していたことは長谷部も何となく覚えている。
 果たしてお礼を言うことになるのはどちらの方だろう。居ても立ってもいられなくなって、長谷部は半ば走るように帰路に就いた。

 

+++

 

 弾力に富んだゼリーが器の中で揺れる。大粒にカットした果実を中に浮かべた一品は見た目にも爽やかで、否応なしに味の方も期待させられてしまう。これが高級洋菓子店の夏限定メニューと知っている光忠なら尚更だった。

「情けは人のためならず、とはよく言ったものだね」
「今回ばかりは同意見だな。たかが宿題の手伝いに大げさすぎる」
「でも秋田くんや一期さんはそう思ってないみたいだよ。あーあ、また長谷部くんの魅力を知る人が増えてしまって、彼氏としては嬉しいやら悲しいやら」
「イルカをさしおいてアイドルやってるやつほどじゃない」
 つるりとした感触が咥内を浚う。ゼリーに閉じ込められていた葡萄は新鮮そのもので、飲み下した後も独特の清涼感が舌に残った。食べ終えた光忠が匙を置く。対面の長谷部は掬ったオレンジを口に運ぶ途中だった。

「言っておくけど、君は自分で思っているよりずっと魅力的な人だよ。知らない相手でも困っているなら迷わず手を差し伸べられる優しさもある」
「……惚れた欲目」
「だったら君も僕もこんな美味しいゼリーは食べられなかっただろうね。謙虚は美徳だけど度が過ぎれば卑屈になる。それは君と、君を好きな周りの人を苦しめる行為だ。長谷部くんはもっと自信を持った方がいい」
 互いに器が空になる。膝に置かれた長谷部の指先が丸まり、ジーンズの表面を掻いた。俯く長谷部の表情は恋人には見えない。

「どうすれば自信が持てる」
「うーん、やり方は人それぞれだから一概には言えないよね」
「おいこら投げるな」
「じゃあこうしようか。君が自分を卑下するたび、罰として僕の言うことを何でも一つ聞かなければいけない」
「何だそのお前しか得しないシステムは」
「意地でも自信を持たないと、っていう気になるだろう?」
「これは脅迫と言うんじゃないか?」
「僕なりの激励だよ」
「劇薬の間違いだろ」

 会話の切れ目をボトルから注がれるハーブティーが繋ぐ。グラスの七分目まで紅色で満たされると、辺りに柑橘系の香りが薄らと漂った。

「俺は、光忠と会うまで他人と深く関わるのを避けていた」
「君の初めてを貰えて光栄だね」
「年下の太鼓鐘が当たり前に知ってることも知らなかったりする。上手い距離感の取り方もよく判らないし、相手を楽しませる会話術だって持ち合わせていない」
「長谷部くんならすぐに覚えられそうだし問題ないかな」
「秋田の件だって、暇を持て余していたから手伝っただけなんだ。俺に余裕がなければ見て見ぬ振りをしていたと思う」
「余裕があっても他人に目もくれない人は大勢いるよ」
「こんな俺に務まる職なんてあるのかとずっと考えてた。今だって答えは出ていない。でも、でもな、やりたいこと、やっと見つかったんだ」
 やにわに長谷部が面を上げる。不安を湛える淡い眼とは別に、引き締まった眉が決意を漲らせていた。

「俺は教師になりたい」
 まるで学校の先生みたいです、という秋田の言葉が転機だった。誰かに頼られること、誰かを教え導くこと、誰かに感謝されること。これらで得られる充足感を知ってしまってはもう後戻りできない。

「俺や行光みたいに、ひたすら義務として勉強をこなしていくだけじゃつまらない。太鼓鐘みたいにやればできるくせに面倒くさがる生徒もいる。皆が皆、秋田みたいに楽しめるわけじゃないだろう。だから俺は、うたた寝にするには勿体ない授業を披露して、一人でも多くの秋田を増やしていきたい」
「それ聞いたら秋田くん泣いて喜ぶだろうねえ」
「あいつのお陰で当面の目標ができたんだ。今度たっぷり泣かしてやる」
「酷い宣言だなあ」
「言い出しっぺはお前だぞ」
 緊張を解いた拳がゆっくりと開かれる。手付かずのハーブティーを呷り、長谷部は今さらながらに自分の喉が随分と渇いていたことに気付いた。

「まさか一週間も経たずに答え合わせをすることになるとはね」
「何の話だ」
「君の天職の話さ」
 頬杖ついた男の顔をまじまじと見つめ、長谷部はつと眉をひそめた。光忠は恋人の抗議めいた視線にも構わず、さも愉快とばかりに肩を揺らしている。

「君はきっと素晴らしい教師になるよ。長谷部先生」
「ふん、恋人との時間を代償に受験勉強に専念して良い大学に入ってやる」
「ああ、サポート体制は常に万全にしておくから安心してくれ」
「……めげないな」
「まあね。こう見えて、好きなものは最後まで取っておいて後からじっくり食べるタイプなんだ」
「何の話だ」
「えっちな話だよ」
 聞き捨てならない発言を耳にし、長谷部は激しく咳き込んだ。光忠に背を擦られ、何とか呼吸を落ち着かせようとするも動悸は一向に収まらない。原因である恋人といえば、介抱する傍らで苦しむ長谷部を楽しげに見下ろしている。

「既に三ポイントは貯まってるし、今から卒業後が楽しみだなあ」
「なん、のはなし」
「さっきの話だよ。言った側から後ろ向きな台詞をぽんぽん吐いたから、三回はえっちなお願い聞いてくれるんだよね?」
 屈んだ光忠の息が長谷部の耳朶にかかる。端まで赤らんだ皮膚はそのまま厚い唇のあわいに呑み込まれた。

「ぁッ、や……」
「ん、かーわいい……」
 凹凸をなぞる舌が水音を立てる。卓上に伏せた長谷部に折り重なり、光忠は羞恥に悶える耳を吸い、舐り、執拗なまでに愛でた。よからぬ痺れが伝播し、腰から下に熱が集まり出す。長谷部が両脚を擦り合わせる頃になって、光忠はやっと上体を起こした。

「こ、んのむっつりスケベが……さらっと人様の耳処女を奪うとは恥を知れ……」
「じゃあ今度から許可求めようか?」
「それはそれで死ぬ。さりげなく匂わせつつ、事前に雰囲気を盛り上げ、俺から抵抗の意志を奪った上で実行に移してくれ」
「最後は受け入れること前提なんだ。わかりました、前向きに検討いたします」
「遠回しにノーを叩きつけるんじゃない」
「好き放題されたくなかったら自信をつければいいのさ」
「うぐ……俺には弱音を吐く権利すらないのか」
「弱音と自虐は別だよ。愚痴があるならいくらでも聞く。心細くなったらずっと傍にいる。でも俺なんか、とか自分を貶める発言はダメだ。本当はポイントなんて貯まってほしくない。その数だけ長谷部くんが自分で自分を傷つけたと思うと、僕は自分が情けなくなるよ」

 床に座った光忠が長谷部の膝を枕にする。癖のある黒髪に白い指が絡んだ。やたらと頭を撫でたがる恋人を不思議に思っていた長谷部だが、いざやる側に回ると悪い気はしなかった。

「光忠はいつだって格好いい。情けなく思うことなんて、ないぞ」
「ふふ嬉しいなあ。長谷部くんの前では特に格好良くありたいから、僕のためにもえっちなおねだりポイントが増えないよう頑張ってね」
「わかりました、最大限善処いたします」
「天丼は感心しないよ」
「いや、ちゃんと努力するさ。お前にめちゃくちゃにされるのも悪くないが、それで光忠を傷つけるのは本意じゃない」
「……本当に卒業後が楽しみだよ」
 外ではひぐらしが鳴いている。九月を控えた今も残暑は厳しいが、鈴を彷彿させる虫の音は確かに秋の訪れを仄めかしていた。

 

+++

 

 PDFファイルを開き、数字の羅列を追う。逸る胸を押さえつつ、長谷部は指先を滑らせてページを次々と送った。目を凝らし、手元の番号と見比べること数分。二桁目、三桁目と合致していよいよ末尾の数字を探す段階まで来た。
 0、1、3……6、8。二度、三度と確認し、長谷部は全身をベッドに投げ出した。

「受かった」

 無事に重圧から解放された長谷部の声は明るい。春先まで目指していた大学の比ではないにしろ、志望先の教育学部は近隣だと偏差値が頭一つ抜けていた。担任からも懸念の声があがっていたが、蓋を開けてみればこの通りである。長谷部は光忠から貰ったイルカを抱え込み、しばし喜びに浸った。
 安心のあまり近くに放っていたスマホが鳴る。母に弟、それに光忠からのメッセージだった。慌てて長谷部が合格を伝えると、三者三様に祝いの言葉が返ってくる。在宅なのは自由登校になった長谷部だけだった。まだ職場や学校にいる三人とのやりとりは長く続かない。後で改めて連絡しよう、と思っていた長谷部のスマホがまた鳴った。

「もうすぐ卒業だね」
 知らず溜まっていた唾を呑み込む。長谷部はどう返信すべきか悩みに悩み抜き、結局無難なスタンプを送るに留めた。

 力尽きた長谷部が寝返りを打つ。火照った頬をシーツに押しつけていると、たまたまイルカの鼻先とぶつかった。なだらかな青い丘陵の先には黒いつぶらな瞳が据えられている。
 このぬいぐるみを貰ってから十ヶ月近く経った。一方的に憧れていた相手と心を通わせ、それぞれの道を邁進するうちに季節は秋、冬と過ぎて、春を迎えようとしている。
 母の他には何も持たない青年の周りは、一年足らずで随分と賑やかになった。光忠との出会いがなければ、腹違いの弟を快く受け入れられたかどうかも怪しい。ただの友人であった頃から光忠は長谷部に優しかった。
 いったい自分は、彼の厚意にどれだけ応えられていることだろう。ふと脳裏を掠めた思考が暗雲となり胸中に広がる。
 長谷部は静かになったスマホをもう一度拾い、画面をタップした。三月一日。高校の卒業式まであと四日だった。

 長船光忠はこの世の春を謳歌していた。早朝から家のあちこちを磨き、下ろしたてのスーツに手袋を身につけ、鏡の前で髪をセットすること一時間弱。家を出てまずはフラワーショップに向かう。予約していたラナンキュラスの花束を受け取ると、ただえさえ華やかな容姿が一層煌びやかになる。女性店員からの熱視線にも素知らぬ顔をし、光忠は暖色の花束を懐に車内へと戻った。
 待ち合わせは一時過ぎの予定になっている。光忠が長谷部の高校に到着したのは正午より前だった。芽の膨らみ始めた桜並木を悠々と歩き、目的の人物を探す。十分ほど歩いたところで尋ね人は見つかった。向こうも光忠に気付いたようで、小さく手を振っている。息子を待つ間、特にすることも無かった母はこの場で数少ない知人を歓迎した。
 長谷部の卒業を祝う挨拶から始まり、それからは近況報告や当たり障りのない世間話が続く。打ち解けて見える二人だが、その実どちらも本題を切り出す機会を窺っていた。

「長船さんはラナンキュラスの花言葉をご存じですか」
「ええ。とても魅力的、純潔といった意味があると聞きました」
「ああ、やっぱり知ってて選ばれたんですね」
「勿論。息子さん――国重さんは純粋で、美しくて、とても魅力的な人です」
「それは人としてですか? それとも、別の意味でですか?」
「両方です。僕は友人としても、また一人の男としても彼を好ましく思っています」
「誤魔化されないんですね」
「いずれ正式に挨拶に伺う予定でしたので。ああ、彼とは親しくさせてもらってますが、誓ってやましい関係ではありません」
「あの子が何度かそちらに泊まったと思いますが」
「彼は未成年です。節度ある付き合いを心掛けるのは当然でしょう」
「……どうやら男性の好みは私には似なかったようですね」
 光忠の言を真と見たのだろう、男の身勝手に振り回され続けた母親は十数年ぶりに愁眉を開いた。

「誰よりも何よりも大切にすることをお約束します。どうか、国重さんを僕に託して頂けませんか」
 濡れ羽色が風に煽られ散り散りになる。頭を垂れたまま、光忠は黒いパンプスの先端を黙然と見つめ続けた。

「こちらこそ、息子を宜しくお願い致します」
 お互いに頭を下げ合う。ややあって昇降口が賑やかになった。卒業生最後のホームルームは終わったらしい。

「ちなみに私は夜勤明けの仮眠からこちらに直行したのですが」
「お仕事お疲れ様です」
「帰宅したら眠りこけると思うので、息子が高校以外の何かを卒業していても当分は気付きません」
「お気遣いが本当に痛み入ります」
 長谷部の母は含みしかない台詞を残し、一足先に息子を迎えに行った。三月より前に生んでおいて良かったわ、という文句を光忠は聞かなかったことにした。

 

 施錠する音が妙に生々しく響く。長谷部は靴を脱ぐのも忘れ、その場に立ち尽くした。光忠は用意してあった漆器に花を生けている。玄関に男二人でいては狭苦しい。さっさと上がるべきなのに、長谷部の足は金縛りにあったように動かなかった。

「長谷部くん」
 後ろから伸びた腕が長谷部の腹を抱える。光忠は覆い被さった身体の細さを改めて実感した。肋に指を這わせ、確かめた肉付きはやはり薄い。僅かに乗った脂肪をやわやわと揉み込めば、腕の中で長谷部の肩が大げさに震えた。
「そんなあからさまに警戒されるとは悲しいなあ」
「け、警戒はしてない。緊張はしてる」
「期待は?」
 声にならなかった空気が喉奥から押し出される。長谷部は唇を固く結び、たっぷり間を置いてからおずおずと言葉を搾り出した。
「…………してなくも、ない……」

 足のもつれた長谷部の視界から北欧調のマットが消える。次いで見えたのは男の恐ろしいほど整った面貌だった。豊かな黒髪が身じろぐたびに長谷部の肌をくすぐる。
 何回、何十回と繰り返してきた行為だった。呼気を食み、互いの境目が曖昧になるほど唇を合わせ、相手の熱を貪る。光忠の輪郭を覚えるぐらい数をこなしたのに、長谷部は息をする隙を見つけるのが精一杯だった。
「長谷部くん、舌だして」
 言われるまま突き出した舌は肉厚の唇に挟まれた。じゅ、と強めに吸われると痛みとは別の感覚が瞼の裏を焼く。息苦しさすら心地良くて、長谷部の手足から急速に力が抜けていった。拠り所を求めた腕が男の胸元に縋る。服越しに触れた皮膚は、長谷部に負けず劣らず熱い。

「みつただ、も、むりぃ……たてない」
「……ん、じゃあ部屋まで連れて行ってあげるね」
「いや、その前にできればシャワーを」
「却下します」
「なんでだ」
「制服着た長谷部くんとシたい」
「そういう趣味をお持ちだったのか」
「興味あるかないかと言われたらあるけど、それとは別に思い出が欲しいんだ。僕と初めて会ったときの格好をした、君との思い出が」
「ぅぐ」
「嫌?」
「…………例のポイント減らしておけよ」
 観念したように長谷部が言い捨てる。光忠は艶然と笑い、弛緩する恋人を横抱きにした。

 長谷部は生唾を呑んだ。足下には光忠のネクタイと革の手袋が転がっている。ほどけた布がシーツに落ちるのも、恋人が自らの指先に噛みついて雑に手袋を外すのも、長谷部には目の毒だった。まだ自分の衣服には乱れ一つ認められないのに、これから先の行為についての淫らな妄想が止まらない。光忠が片手で首元を寛げていくのを、長谷部は恍惚とした表情で見守った。

「あは、長谷部くんすごくえっちな顔してる」
「世界一スケベな脱衣ショーを見せつけられて真顔が保てるか」
「保たなくていいよ。えっちで可愛い顔、もっと見せて」
 胸を軽く押され、長谷部の上体がベッドに沈む。二人分の体重を受けたスプリングが軽く弾んだ。
 紺のブレザーに、幅広のストライプのネクタイ。取り立てて奇抜なデザインではない、ありふれた高校生らしい制服である。ただ長谷部が着ている、その一点だけで光忠は名状しがたい興奮を覚えた。
「いいね、脱がすのが勿体ないくらいだ」
「脱がさないのか」
「脱がすよ」
 即答だった。脇から腰を経由し、光忠の指がブレザーの前をゆっくりと開く。ネクタイもことさら時間を掛けて緩め、首からは抜かずに背中の下敷きにした。恋人の拘りは理解できなくもないが、焦らされているようで長谷部は落ち着かない。やっとシャツのボタンが一つ二つと外されたときには反って胸を撫で下ろしたくらいだ。安堵したのも束の間、喉仏を舐められた長谷部は目を見開き、のけぞった。

「ふ、んン……光忠、くすぐったい」
「へえ。じゃあ見込みあるね。くすぐったいって感じるところって実は性感帯なんだって」
「聞きたくなかった。ぁ、も、やめっ」
 快感には至らない微妙な刺激が長谷部を苛む。光忠の舌が首筋や鎖骨を這うと、背筋がぞわぞわとして時に腰が浮いた。くすぐったいだけ、と自らに言い聞かせるも、長谷部の中で着々と官能の種は蒔かれつつある。
「は、ぁ、ンぁっ!?」
「わあ、こりこり。シャツ越しでも立ってるのが判るね、可愛い」
「や、つまむな、ぁア! 吸うのもだめ、だめだからァ……!」
 服の上から主張していた突起は左右の別なく、執拗に嬲られた。根元を摘まみ、押し潰し、口に含んで、最後には労るように触れる。たっぷり唾液を塗されたシャツは肌に貼りつき、凝り固まった芯の形を浮き彫りにした。

「やぁ、も、つめたい……脱がせてくれ……」
 胸を上下させて長谷部が懇願する。光忠は薄く笑って、右側の尖りに息を吐きかけた。あがる嬌声を無視して前を開く。シャツを剥がす直前、乳頭からそれぞれ糸が引いた。ぷつりと切れた残滓が腹に垂れる。それを指先で掬い取ると、光忠はまた胸の突端に塗り込めた。
「っ、ぁ、あっア、つよい、ちくび、やだぁ」
「ダメ? なら違うところ触ろうか」
 腫れ上がった粒を解放し、光忠は右手をゆるゆると滑らせる。大きな掌は膨らみつつある雄を掴むのに十分だった。
「ふふ、長谷部くんちゃんと気持ちよくなれてるね。えらい、えらい」
「ひッ! あッあ、もむな、あッあぁああッ!」
 ズボンのチェック柄が隆起の沿って大きく歪む。暴力的なまでの快楽に長谷部は目尻を濡らした。硬く育った陰茎が前立てを押し上げる。光忠が服ごと揉み込めば、ぬちゅぬちゅと下着の中で湿った音が立った。
「く、ンぐ……やだ、みつただ、これやだァ……」
「こっちも? でも途中で止めたら辛いのは長谷部くんじゃないかな」

 光忠が手を緩めた途端、長谷部の目に落胆の色が浮かぶ。舐られた胸の先端は疼き、性器は吐き出せない苦痛を訴えていた。
 長谷部とて自身の矛盾は理解している。過ぎた快楽に恐怖して制止を求めたが、当然これは本意ではない。口先では否定しても、長谷部の身体はとっくに陥落していた。敢えて額面通り受け取った光忠も、恋人の胸中を推し量れなかったわけではない。

「僕はね、長谷部くん。君の嫌がることはしたくないんだ。お互いに男は初めてだし色々と不安はあると思う。本当に無理だと思ったなら、今まで通り軽いスキンシップに留めたって構わない。僕の希望だけ押し通しても意味がないんだよ。僕は長谷部くんと二人で一緒に気持ちよくなりたいんだからね」
 光忠の左手が長谷部の頬に伸びる。節くれ立った五指が耳の裏を撫で、髪を梳いた。
 恋人の優しい手つきに長谷部はふっと両目を眇める。同時に余裕を無くして男を拒んだことを恥じた。いくら心の中で思っていようと、言葉にしなければ意味が無い。

「いや、じゃない。どうにも慣れなくてダメだの止めろだの言ってしまったが、本当はもっと、してほしい。次に俺が何か言っても、無視して続けてくれ」
「本当にダメなときは?」
「そのときは頬を引っ叩く」
「手が塞がってるときは?」
「噛みつくなり蹴るなりするから、遠慮せずめちゃくちゃに抱いてくれ」
「どうして君はそう極端なんだ。え、本当に初めてだよね?」
「どこぞのドルフィントレーナーと違って男女問わず経験ゼロだが?」
「止めよう。ベッドの上で過去の恋愛遍歴を持ち出すのはマナー違反だ」
「言い出しっぺが逃げるんじゃない」

 長谷部は身を起こし、恋人の顎先に噛みついた。驚く光忠の唇を塞ぎ、自分がされた動きを真似て相手の下腹部に指を這わせる。麗しい顔に似合わず、スーツの下に隠された逸物は想像より遙かに逞しい。長谷部は戦きつつも、不敵に片頬をつり上げた。

「今までどんな相手と付き合ってきたか知らんが、全部俺の記憶で上書きしてやる。熟練の風俗嬢だって始めは処女だったんだ。なら俺が光忠を骨抜きにするテクを得る可能性だって否定できまい」
「もう十分すぎるほど骨抜きにされてるんですが?」
「こっちは骨抜きどころかガチガチなんだが?」
 重たげな精嚢を掬い上げると、ただえさえ凶暴な質量がますます存在感を増す。光忠は歯を噛みしめ、艶めいた声を喉の奥に押しとどめた。

「きっと一方的にされるから弱々しくなるんだ。俺も責めれば案外平気かもしれない」
「っは、はは。面白いことを考えるねえ、さすが長谷部くん」
「そんな褒めるな、照れくさい」
「じゃあ君の意見を尊重して、お互いにさわりっこしようか。一緒に頑張ろうね、長谷部くん」
「ああ。よろしく頼む」

 継ぎ足されたローションが一部零れて、指の股を伝う。これ以上敷布に吸われる前に根元まで突き入れると、光忠の抱えた腰が大げさに跳ねた。
「アあ、ンッ、みつ、やッゆび、ぬいてぇえ……!」
「ビンタされてないから抜かないよ。ほら、長谷部くん手が止まってる」
 屹立を握る長谷部の手はほぼ添えられているだけだった。促されて上下に扱いてみても、腸壁を擦られるたびに頭の中が真っ白になる。収縮する後穴は受け入れた二指にぴったりと吸いついた。狭い肉筒を割り開けば、即座に甘ったるい悲鳴が光忠の耳を打つ。長谷部は奉仕も忘れて恋人の肩に縋った。雄々しい双眉が三日月を描く。光忠は膝に載せた身体を喜々として抱き寄せた。

「どんどん柔らかくなってる。良い子だね、長谷部くん」
「はぁっ、う、ァんッ……」
 新たな指を宛がうと、さして抵抗もなく肉の輪が拡がった。窮屈な内側が妖しく蠢いて異物を歓迎する。熱く蕩けた粘膜を掻き回しながら、光忠は秒ごとに募る征服欲と睨み合った。ここに自身を突き立てたらどれほどの快感が得られるだろう。震える双臀を撫で、光忠は長谷部のつむじに唇を寄せた。

「長谷部くん、もう大丈夫かな」
「え、ハぁ……なに、が?」
「そろそろ僕も長谷部くんの中に入りたい」
 腰を揺らし、光忠はそそり立った剛直で長谷部の下腹を擦った。雄々しく天を仰いだ肉塊はへその辺りまで来ている。その長大さに改めて触れて、長谷部の後膣がひくついた。既に限界を訴えながら、腹の奥はさらなる肛虐を求めて止まない。長谷部は一度離した肉棹に再び手を伸ばした。

「俺もして、ほしい。光忠に俺で気持ちよくなってほしい」
 色を帯びた息が光忠の頬にかかる。程なくして、しとどに濡れた指が長谷部から這い出た。喪失感に悶える身体をシーツに横たえ、恋人の片足から制服と下着を引き抜く。ベッドのヘッドテーブルを漁る手つきはどことなく荒々しい。取り出した袋を破り、光忠は性急に自らの怒張を薄い膜で覆った。
 ぐいと長谷部の膝裏が持ち上げられる。二つ折りにした肢体にのし掛かり、光忠は勃起した雄を双丘に押しつけた。

「挿れるよ」
 宣言通り切っ先がぬかるみに沈む。長谷部はシーツを掻き毟り、指とは比べものにならない圧迫感に耐えた。
「ァ、ぐうぅッ、は、ひぎ、ァ……!」
 苦痛に喘ぐ爪先が丸まり、虚空を蹴る。暴れる脚を捉え、光忠は靴下を留めるガーターに恭しく口づけた。

「ごめんね長谷部くん、もうちょっと、ッ、我慢してね……」
「うぐッ、ァ、いい、いいから……もっと奥、来てくれ」
「ああ……」
 意を決して光忠は腰を一段と押し込んだ。勢いづいて最も太い箇所が長谷部の中に呑まれる。光忠はこじ開けた隘路の熱さに思わず大息した。絡みつく秘肉をこそぐように進み、突き当たりまで収める。小刻みに震える薄い腹を見下ろし、光忠は寄せていた眉間をやっと緩めた。

「ふ、は……ァ……ぜんぶ、はいったのか」
「厳密に言うとまだだけど、これで一区切りだよ」
「なんだと……妙なところで遠慮するな。全部よこせ、ほらほら」
「それはまた慣れた頃にね、今日はとりあえずここまで」
「お前を受け入れられないほど器の小さい男じゃないぞ」
「懐の広さとお尻の大きさは比例しないからね?」
「お前はいつもそうだ。俺に優しくしてばかりで、借りを返す機会をちっともくれやしない」
「いや制服プレイを要求された挙げ句、お尻におちんちん突っ込まれてる時点で相当な貸しじゃない? むしろ僕の方が債務重くない?」
「制服プレイはともかく、光忠に抱かれるのは嬉しいし全く貸しになってない。ほら論破した」
 長谷部は唇を尖らせ、不平を鳴らした。一方の光忠は真顔である。表情を失った面差しの代わりに、長谷部を貫く分身がいち早く反応した。
「え。ちょっと待て、中の、ひゃあンッ!」
「今のは長谷部くんが悪い。言っておくけどねェ、僕は君が思ってるほど優しい男じゃないよ」
 みちみち、と狭い肉路を引き返した雄がまた奥の壁を叩く。一度男を受け入れた媚肉は柔軟に形を変えて、光忠の仕打ちを悦んだ。緩慢な往復は次第に激しくなって、二人の間から潤滑油が掻き出される。腰を高く抱えられ、長谷部は自身を行き来する赤黒い男根に陶然となった。
「アッ、や、みつた……! ああぁあッ、やだ、これ、だめぇッ」
「頬を張ってくれないと止めないよ。ああ、噛みつくのもありだっけ。はい、嫌なら思いきりやっていいから」
 忙しなく開閉する口唇を光忠の人差し指が押し潰す。長谷部の理性はとうに働いていない。何のために差し出されたかも判らず、長谷部はただ光忠の指だという理由で舌を這わせた。赤い唇が人肌を食んでは艶めかしく動く。奉仕とばかりに長谷部は指を舐るばかりで、一向に歯を立てる様子がない。
「ああ、くっそ、かわいいな!」
 らしくもない悪態をつき、光忠は長谷部に覆い被さった。上から突き入れ、蹂躙に慣れてきた隧道を容赦なく穿つ。密着したことで長谷部の性器が光忠の腹筋に潰された。律動のたび引き締まった筋肉に敏感な部分を擦られる。萎えかけていた長谷部の中心は力を取り戻し、少しずつ、確実に上り詰めていった。

「みつ、みつたら、ぁ……! ン、はら、あつくて、わけわかんな……ァ!」
「うんうん、大丈夫。そのまま気持ちよくなっていけばいいからねッ……」
「ふぇッ! やぁかむのだめ、びりびり、くるからぁ……!」
 光忠に胸を甘噛みされ、長谷部は為す術なくよがり狂った。腹の内側を光忠で埋められるほどに甘美な痺れが大きくなる。もう一秒でも離れてはいられない。長谷部は快感を逃がすことばかり考えていた脚をもたげ、光忠の背に絡ませた。

「はせべ、くん……! はぁ、かわいい、すき、すきだよッ」
「あッああ、あ! おれも、ン、すき、すきだからァッ」
 合図を待つ指と入れ替わりに光忠は長谷部と唇を重ねた。上と下とで互いの粘膜を味わう。抱きつかれて大きく動けなくなった分、光忠は長谷部の奥を抉るように責め立てた。
「ぅああッ! ふかい、おく、ずんずんきてぇ……ひぎッ!?」
「ァ、ちょ、まってはせべく――!」
 執拗に突かれた肉の壁が緩み、さらに奥へと男を引きずり込もうとする。つい加減を忘れた光忠は一際強く腰を打ちつけ、触れるつもりのなかった場所まで入ってしまった。結腸を犯され、今までになく鋭い刺激が長谷部を襲う。短い悲鳴の後に、二人の間で白濁が弾けた。長谷部の絶頂に伴い、性器と化した後孔が激しく戦慄く。強烈な締め付けにさしもの光忠も抗えず、避妊具の皮膜に勢いよく精を叩きつけた。

「ご、ごめん長谷部くん! 大丈夫かい!?」
 光忠は慌てて身体を別ち、弛緩する長谷部の背を抱いた。恋人が色を失っているにもかかわらず、長谷部は目を潤ませ夢見心地でいる。

「すごかった……」
「長谷部くん?」
「みつただ、もう一回」
「えっ」
「最後のすごくよかった。あれまたしてほしい」

 余韻のせいか、妙に舌足らずな口調で長谷部は再戦を請う。あどけない表情とは裏腹に、首から下は情痕だらけの肌と、様々な体液に汚れた制服が纏わりついている。ここまで淫靡な光景を見せられて静観を保っていられるほど、光忠は男を捨てていない。

「明日は色々と覚悟しておいてくれよ長谷部くん」
「うんうん、わかったから早く」
 何一つ解っていない長谷部が両手を広げる。光忠は万感込めた嘆息を漏らし、恋人を優しくベッドへと押し倒した。

+++

 

 一年ぶりに帰国した鶴丸はかつての自宅を見て回り、意外そうに首を傾げた。インテリアや本のラインナップを始め、見て取れる変化は少なくない。洗面所に並ぶお揃いの歯ブラシやら、ベランダに干された洗濯物やらはその顕著な例である。要所に彼の恋人の痕跡が窺えるのは想定の範疇だった。長谷部と付き合って以来、光忠のSNSは投稿の約半数が惚気話で占められている。同棲の証拠を見せられた程度で今さら驚きはしない。

「長谷部の絵、あまり増えてないんだな」

 棚に飾られたスタンドの数は記憶とほとんど変わっていない。久々に日本へ戻って、長谷部の新作を直に見られると思っていた鶴丸としては少し残念だった。

「ああ、ちょっとした事情があってね。最近はお休み中だよ」
「何だ、忙しくて描けないとかか?」
「いや気分転換は必要だって今でもよく描いてるけど、インテリア向きじゃないんだよね」
「なるほどヌードデッサン」
「描き上がるまでお互いに我慢できないから禁止だよ」
「既に試したことあるような発言は聞かなかったことにするぜ。春画でなきゃ何なんだ」
 鶴丸がカップを置くのを待ち、光忠は面映ゆそうに頬を掻いた。

「長谷部くんはさ、そのとき好きなものばかり描いてしまう癖があるんだけど」
 前置きの時点で鶴丸は頬をひきつらせた。褐色肌の友人がうんざりしているのを対岸の火事と微笑ましく思っていた過去が突き刺さる。
 お熱いようで何よりですね、と搾り出した鶴丸は再びコーヒーをぐいと呷った。苦みが全く以て足りない。砂糖を一切加えていない黒の湖面を見つめ、鶴丸は友人の幸せを祝福しのろった。

 長谷部のスケッチブックは今年に入って三冊目を数えている。どのページも描かれているのは黒髪の美丈夫ばかりなのは言うまでもない。
 芸術の道に進まなかった青年は、絵が切っ掛けとなった夢を今も追い続けている。

 

 

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