死体と添い寝したら彼氏ができた件 - 1/2

 

 

 最初に異変を感じたのは鼻だった。嗅いだ覚えは有る。しかし身近とは言えない臭気の正体を探りながら、重たい瞼をゆっくりと開く。
 大通りから外れた裏路地、街のネオンが僅かに光をもたらすだけの暗がりに俺は倒れていた。前後の記憶は曖昧で、いったいここがどこなのかも判らない。状況把握に努めんと思考を巡らせていたのは一瞬だった。
 覚醒を促した異臭の原因を前に、平静を保つことなどできるはずもない。白い脚、乱れ散らばる黒髪、アスファルトに広がる赤い染み。乏しい色彩のくせに鮮烈な印象を与えるそれらは、ドラマの中でしかお目にかかったことがない光景だった。

 死んでいる。見知らぬ女が、俯せになって、腹から血を出して死んでいる。
 死体と添い寝していた事実に狼狽し、救急車や警察の要請に思い至ったのは数分も後のことだった。
 ポケットからスマホを取り出し、画面にライトが点く。ガシャン、と滑り落ちた携帯が足下で悲惨な音を立てた。明かりで照らされた己の掌が、真っ赤に染まっている。

 どうして。俺は、そんな知らない。こんな女、知らない。俺がやったはずがない!
 知らず息が荒くなり、背後の壁にもたれかかった。立ち位置が変わって、垂れる髪の間から女の面貌が僅かに見て取れる。

 目を反らしたくとも、全身が麻痺したかのように硬直していた。戦く俺の視線の先で、唐突に白目が動く。血溜まりの中でわなわなと唇が吃音を紡いだ。

「ヒト ゴロ シ」

 無我夢中で駆けた。なりふり構わず走り続けて、慣れ親しんだ自宅の扉を開ける。電気もつけずにベッドに潜り込み目を瞑った。
 これは質の悪い夢である。目が覚めれば会社に向かい、腐れ縁の同僚ともども納期の文句をこぼし、夕食にコンビニの弁当を見繕う生活がまた始まる。だって俺は、どこにでもいる平々凡々としたサラリーマンでしかない。

「昨夜二時頃、△△街の路地裏で女性の遺体を発見したという通報がありました」

 普段はほぼ聞き流しているだけのニュースが、神経の一つ一つをいやに尖らせる。被害者の名前に心当たりは無い。そもそも場所や時間だって俺自身曖昧なままだ。
 そうだ、証拠はおろか動機だって無い。いかに日本の警察が優秀でも、あの現場から俺の痕跡を見つけることなんて不可能だろう。唯一の持ち物である鞄だってちゃんと持ち帰って――
「あ……」
 全身が総毛立った。落としたスマホを、俺は回収していない。

 あの後、鞄の中を検めたがやはりスマホは見つからなかった。固定電話も無く、会社への連絡手段を絶たれた以上は欠勤するわけにもいかない。
 目の下にできた隈を見て見ぬ振りをして、部屋の扉をそっと開けた。
 パトカーはいない。警官もいない。足音を立てぬよう、己を殺すつもりで気配を消し、アパートの階段を降りる。一歩ごとに軋んだ音を立てるスチールすら今は煩わしい。

 道行く人々が化け物じみて見える。皆俺を殺人犯だと疑っているんじゃないか。隙を見せた途端に警察へ通報して、俺を貶めるのではないか。
 妄想だけが頭の中でぐるぐると一人歩きする。吐き気が込み上げ、今にも胃の中身を路上にぶちまけそうになった。

「君、大丈夫?」

 いつの間にか俯いたまま立ち止まっていたらしい。地に落ちた俺の影と重なったシルエットを追えば、長身の男が気遣わしげにこちらを窺っていた。

「ア、ぁ……?」
「顔色が良くないね。歩けそうかい? 無理ならここでじっとしてて。すぐ戻ってくるから」
 返事もできぬまま口元を押さえていると、男は踵を返してどこかに行ってしまった。男を待っているつもりは無かったが、少しの衝撃でも吐いてしまいそうな状況なので、いずれにせよ動けない。必死に呼吸を繰り返しているうちに、男はペットボトルを携えて戻ってきた。
「はい。少しずつでもいいから飲んで、大丈夫ゆっくりでいいからね」
 キャップを外されたボトルの口が近づく。流し込んだ水が喉を通り、迫り上がっていた酸味も次第になりを潜めていく。男は俺が落ち着くまで、ずっと背中を擦ってくれていた。
「ああ、さっきより大分良くなったみたいだね。こっちも安心したよ」
 人好きのする笑顔を浮かべ、見ず知らずの男は他人の回復を快く祝った。
「あ、ありが……とう」
 ようやく動いた舌で拙い謝辞を述べる。つい先ほどまで他人全てが敵だと思っていたのに、いきなり友人にすらされないほど丁寧な対応を受けて調子が狂ってしまった。いくら体調が悪そうでも、見返りもなしに赤の他人に親切にできるような人種が実在していたとは驚きである。
「どういたしまして」
 男らしい眉が柔らかな輪郭を描く。よく見れば相手は同性でも惚れ惚れとするような容姿をしていた。常に人の輪の中心にいそうな男は、まさに自分とは全く違う世界の住人なのだと思わされる。
顔も良ければ性格も良い。いっそ裏が有ってくれた方が安心できる人となりをしていた。
「その、助かった。大した礼はできないが昼食代にでもしてくれ」
 財布から野口を数枚引き抜こうとして、やんわりと断られる。無言で俺を窘めた手が、そのまま仕立ての良い服の懐に伸びた。

「一緒に食事も悪くないけど、どちらかというと連絡先の方が知りたいかな」
 取り出された長方形の板に目をひん剥く。見目麗しい男が顎先に押し当てているのは、俺が昨晩無くしたはずのスマホだった。

 脇目も振らず走り出す。呼び止める声を無視し、ひたすらに脚を動かした。
 散歩中の老婆や登校中の学生をすり抜け、あてもなく逃亡を続ける。肺が悲鳴をあげようが、躓こうが知ったことではない。
 早く、はやく、少しでも遠いところへ行かなければ捕まってしまう。

 電車、はダメだ。既に警察の手が回っているかもしれない。改札を抜けても、電車が来なければホームは途端に袋小路と化す。探すならタクシーだが、道路も混雑しているこの時間帯では適当な手段とは言えないだろう。やはり頼れるのは己の身体しかない。
 とにかくこの場は撒ければいいんだ、幸い足には自信が有る。このまま距離を稼げば一日くらいは何とかなるはずだ。それから先は、無事逃げ果せたときにでも考えればいい。
 手前に公園が迫る。ここを抜ければ住宅街だ、隠れる場所も増えるだろうと思った矢先、曲がり角を進んだ先に壁ができていた。記憶に無い障害物は、白と黒とで塗装されている。

 背筋が凍りついた。絶対に止まるものかと勢い込んでいた足が地に縫い付けられる。
 車内の警官は同乗している同僚と話し込んで、俺のことは眼中に無い。ただパトカーの存在は困惑と焦燥の種を蒔くには十分過ぎた。

 この場を去ろうにも、手足は萎えて些かも使い物にならない。激しい動悸が思考の一切をかき乱す。息継ぎもままならぬ中、腕を捉えられる。最高潮に達した緊張が弾け、頬を生ぬるい液体が伝った。
「はぁ、はぁ……ちょっ、きみ……あし、はやすぎ」
 男の荒い呼吸がどこか遠く聞こえる。肩を上下させ、いかにも疲弊困憊といった様子だが、俺を抑える腕は力強い。抵抗が無意味であることが自ずと判る。
 あとはもう煮るなり焼くなり好きにしてくれ。全てを諦め、半ば他人事のように靴の間を濡らす雫を眺めた。

「はい、熱いから気をつけてね」
 差し出した掌に白い包みが置かれる。お椀型をした中身の頂点は緩くとぐろを巻いており、紙の合間からほかほか湯気を立て、冷え切った掌に温もりを提供した。
「肉まん苦手だった?」
 問われて首を左右に振る。俺の答えに満足したのか、男は手元の黄色い塊にかぶりついた。
 カレーまんよりは肉まんの方が好みではある。しかし、今の問題はそこじゃない。

「お前は、何がしたいんだ」
 渡された中華まんに口をつけることもできず、隣に座る男の意図を確かめる。
「うーん、最終的には君の連絡先を知りたいかな。その前段階として好感度を稼いでおこうと思って」
「意味がわからん。男が男を口説いてどうするんだ」
「だって一目惚れしちゃったんだから仕方ないよね。あー距離とられるのは寂しいなあ。取って食ったりしないから安心して、ね?」
 何一つとして安心できない。自分のことを棚に上げ、やたらと顔の良い不審者を睨めつけた。

「はい。これ君の携帯だろう?」
「そうだが。なぜわかる」
「免許証挟まってたよ」
 そうだったか。少なくとも一昨日までは財布に入れていたはずだが、昨晩の己の行動が思い出せない以上、疑うだけ無駄だろう。
「写真より本物の方がやっぱり良いね。高解像度万歳」
「拾ってくれてありがとうございました、大したお礼はできませんがどうかこれで美味い飯でも」
「じゃあまずは一緒に食事するところから始めようか。連絡先はそれから」
「悪いが俺にそっちの気はない」
「奇遇だね、僕も君に会うまで無かったよ」
 男は一向に食い下がるのをやめない。どうやら官憲より質の悪い輩に捕まってしまったようだ。

「……一回だけだぞ」
「ありがとう。二回目以降の約束を快諾してもらえるよう、張り切ってエスコートさせてもらうよ」
 とうとう折れると、男は相好を崩し、眩しい顔面をさらに輝かせた。
 惚れた腫れたが真実かはともかく、こいつが警察に俺を突き出すことは無いだろう。三十分ほど前まで収監に怯えていたのが馬鹿らしくなってきた。
 もしかしたらスマホも現場で見つかったのではなく、別の場所で落としたのかもしれない。そうだ、きっと昨日のことは悪い夢だったんだ。
 男の親切を都合よく解釈すると、俄に塞ぎ込んでいた気分も浮上してくる。戻ってきたスマホの時刻表示を見て、遅刻の断りを入れねばと思う程度には冷静になれた。

「すまんが一旦会社に電話していいか。明らかに始業時間には間に合わないんでな」
「ああ大丈夫。休みの連絡なら入れておいたから」
「は?」
「土気色の顔した人を出勤させるわけにはいかないだろう。自分の体調くらいちゃんと把握しておいた方が良いよ。今日の君のお仕事は、美味しいものを食べて、ゆっくり休んで英気を養うことです」
 ――というわけだから、オススメのお店紹介するね。
 悪びれもせず言いのけた男に絶句する。

 最新の履歴に載るのは、「職場」と誰の目にも判る連絡先。我ながらセキュリティのセの字もない仕様である。以後は己を過信せず、ロック解除にパスワードを設定しようと強く反省した。

「どうしたんだい長谷部くん」
 教えてもいない名を呼ばれ、そういえばまだ相手の名前も聞いていないことに気付く。

「用意周到で趣味が悪い男の名前を知っておこうと思ってな」
「好きな子の体調を気遣う紳士の名前なら、長船光忠と申しますが?」
 こいつ見た目だけでなく名前まで洒落てるのか腹立つ。
 怒りに任せ、寒風に晒された肉まんを頬張る。肉汁を吸いきった皮の味は存外、悪くない。

 昼にはまだ早いということで、汗で汚れた身体を洗い流すべく一旦自宅に戻った。
 風呂から上がるなり、夜を徹した身体がようやく疲労を認識する。ふらつく足を叱咤し、何とかベッドに辿り着いてから意識を失うまではあっという間だった。
 日中から眠りこける俺を枕元のスマホが容赦なく呼び立てる。夢うつつのまま画面を確認すれば、約束の時間から既に三十分も経過していた。

「本当にすまなかった」
 開口一番に謝罪である。きっちり四十五度の最敬礼を決めれば、相手が半ば呆れたように頭を上げるよう促してきた。
 怒っているのか。まあ当然だろう。朝から色々と世話になっておいて、待ち合わせにまで遅刻する始末。俺が上司なら説教と嫌みは免れない。

「疲れはとれた?」
「お、お陰様で」
「うん、顔色もさっきより大分良くなったね。これでご飯も美味しく食べられるだろうし、遅刻のことは本当に気にしなくても大丈夫だよ」
 そう言って長船が俺の肩を軽く叩く。
 気遣ってくれているにしたって、待たされた愚痴の一つや二つこぼしても罰は当たらないはずだ。こいつは些か人が良すぎる。

「それにランチの時間も過ぎて、お店も空いてくる頃だろうしね。静かなお店で長谷部くんとゆっくり過ごせるのは僕にとっても好都合だよ」
「最後の付け足しさえ無ければ完璧だったんだが」
「完璧だなんて照れるなあ」
「もう玉に瑕の域に入ってるから照れ損だぞ」
 長船の軽口を流しているうちに肩の力も抜ける。これも計算ずくだとすれば大した話術だと思った。

 表通りから一本外れた路地に入る。長船が案内したのは、深紫の暖簾が掛かった個人料理店だった。どうやら馴染みの店らしく、敷居を跨ぐなり主人が気安い感じで話しかけてくる。
 カウンター席は二、三埋まっていたが、座敷を勧められたので他の利用客の喧噪はほとんど聞こえなくなった。
 床の間の花瓶といい、丸提灯といい逐一品が有る。値段が気になるところだが、メニューに載った数字は案外良心的なものだった。

「諭吉が飛ぶかと思った」
「あはは。確かにここの主人は内装に拘るけど、顧客のメイン層は中小企業のサラリーマンだよ。僕だってそんなに稼いでるわけじゃないしさ」
「ホストじゃないのか?」
「僕へのイメージ」
「でなければモデルか芸能人だな。とにかく顔と身体が資本の職だろう」
「僕の外見に対する評価高すぎない?」
「実際顔は良いからな」
「これ完全に口説かれてるよね、帰りに式場寄ろう」
「落ち着け、顔しか褒めてない」

 どれも食欲をそそる写真と睨み合い、長船に詳細を尋ねつつ注文を終える。
 職業談義はうやむやになったままだが、これっきりの縁なのだから深入りする必要も無いだろう。俺はただ供された胡麻豆腐に舌鼓を打っていればいい。お通しの時点で十分美味かった。今度来るときは一人で堪能しよう。

「長谷部くんはこういう店によく来るの?」
「いや。外食は基本的に麺類か丼物、コンビニで済ませている。後はせいぜい飲み会で行く居酒屋くらいだな」
「へえ、ちなみに僕は料理が得意だよ」
「そうか」
「今度君の家にご飯作りに行ってもいいかな?」
「謹んでお断り申し上げます」
 こいつ隙あらば口説いてくるな。息を吸うように睦言を吐いてくるのはいっそ感心する。生憎トキメキには全く繋がってないが。

「でもその様子じゃ恋人はいないみたいだね。安心したよ」
「といって彼氏を作る予定も無いがな」
 こういった調子で、いくら甘い言葉を掛けられようと俺は全く耳を貸さなかった。

 何が目的かは知らないが、こんな美丈夫を世間が放っておくはずがないし、全く脈が無いと判ればすぐに手を引くだろう。ただ打てば響くような返しと、話しやすい雰囲気は友人ならば好ましいかもしれない。すぐ言い合いになる知人とはまた違う、長船との穏やかな時間は正直嫌いではなかった。

 腹を満たし、暫しゆっくりしたところで会計に移る。もっとも宣言通り全額俺が負担するつもりが、主人曰く既に支払いは終わっているというのだから解せない。隣に立つ男を睨めつけるも、相手は一切怯んだ様子を見せなかった。

「どういうつもりだ」
「今日限りの縁にしたくないからね、念のためにだよ」
 あっけらかんと言い放つ長船に頭痛がしてくる。
 抗議を続けようとするも、俺の舌が動くことは無かった。

「続きまして、三時のニュースをお伝えします。昨夜二時頃、※※区の路地裏で女性の遺体が発見されました。被害者は腹部を刺されて死亡しており、警察は殺人事件と見て捜査を進めています」

 カウンターの脇から聞き覚えのある報道が流れてくる。長船の献身により人心地を取り戻した肌が、またも凍りつき恐怖に支配された。
「長谷部くん? ねえ長谷部くん、どうしたんだい」

 歯の根が合わない。ただその場で震えるだけの俺を引っ張り、店外へと連れ出した長船が重苦しい息を吐いた。
 革の手袋が俺の両肩を掴む。取り乱している俺は始め男の言葉を理解できず、力強い掌の感触にすら恐懼していた。
 長船が根気強く語りかけてきて、やっとのことで肺に新鮮な空気を送り込む。吸って吐いてを繰り返し、靄の掛かっていた思考が次第に明瞭さを取り戻していった。

「ぁ、はぁ……」
 咥内が苦い。唾液を溜めて喉を浚えば、今度は満腹感を味わっていたはずの胃が吐き気を訴え始めた。

「長谷部くん、歩けそう?」
 首を横に振る。返事をするのも億劫で、とてもじゃないが移動できそうな状態ではなかった。
 長船が再び暖簾をくぐり、またすぐに帰ってくる。主人と何か話していたようだが、内容までは聞き取れなかった。

「ちょっとごめんね」
 正面に立った長船が俺の背を引き寄せる。弱った俺は重力に抗えず、目の前の長身に縋るしかなかった。抗議する余裕もない。されるがまま抱き上げられ、今度は二人揃って店内へと舞い戻った。

 主人の案内に従い、階段を上がって奥の一間に入る。見れば既に布団が一組敷かれていた。そして当然のように、俺は寝具の上に横たえられる。
「遠慮せず楽にしてくれ。長船とは学生時代からの友人なんだ。二階に他の客は来ないから、それほど騒がしくならないと思うよ」
 長船との関係をそう説明した主人は、自らを歌仙兼定と名乗った。
 たすき掛けした着物を服し、小料理店を経営する身にしては確かに若く見える。おそらく自分とそう変わらない年頃だろう。そう思うと親近感も湧いてきて、有り難く厚意に甘えさせてもらうことにした。

 いつまでも店を開けるわけにはいかないと、歌仙が部屋を後にする。残された俺と光忠とは言葉を交わさず、幾ばくか静寂の時間が続いた。
「おさふね」
「ん?」
 優しい声が相槌を打つ。面倒事に巻き込まれ迷惑している、という印象は受けない。
 歌仙も歌仙でかなり人が良いが、初対面にも関わらず俺の世話を焼くこいつの実直さには舌を巻く。普段から変な壺とか押しつけられていてもおかしくない。

「すまない。今日は朝からずっとお前の世話になりっぱなしだ」
「いいんだよ。これは僕が好きでやってることだから。長谷部くんはゆっくり休んで、体調治すことだけ考えてね?」
 諭しながら男が俺の髪を弄う。頭皮を撫でるように、髪の流れに沿って掌がやわやわと動いた。まるで童子扱いだが、心身共に弱っている今は、その手つきにひどく安らぎを覚えた。

「あの俺」
 事情を説明しようと口を動かすが、続きは男の人差し指によって遮られた。
「言っただろう? 今は体調治すことだけ考えて、って。話は長谷部くんが元気になってから聞くよ」
「でも」
「聞き分けないと耳元で子守歌を熱唱するよ」
「熱唱するな、寝かせろ」
 仕方なしに瞼を閉じる。
 長船の手が頭部から胸元に移り、布団をとん、とん、と叩き始めた。ちょうどその間隔が心音と重なる。帰宅後の仮眠からさほど時間は経っていないはずだが、いつしか俺の意識は深淵へと落ちていった。

 柔らかい。微睡みの中で身を捩る。まるで羽毛に包まれているかのような感覚だった。うちの安っぽい煎餅布団では到底味わえるものではない。その事実に気付いたとき、半ば跳ね上がるようにして上体を起こした。
 モノトーンで統一された家具。落ち着いた色彩の中で一際目立つ観葉植物に、柔らかく寝心地の良いダブルベッド。俺の記憶している自室とは何もかもが異なっている。
 音立てぬよう慎重に戸を開く。人影は見当たらない。代わりに水音が断続的に聞こえてきて、反響の具合から誰かが入浴しているのだと知れた。
 他の部屋も探してみるも、これといった収穫は得られなかった。せいぜい、内装と下駄箱の中身から、住んでいるのは男だろうと予想できたくらいである。
 幸い俺の荷物はすぐに見つかった。携帯で現在地を調べてみると、自宅からは何駅か離れているようだが、帰れない距離ではない。
 気掛かりが一つ減ったお陰か、多少は思考を整理する余裕も出てきた。
 今も目に焼き付いている昨夜の惨状、消えた携帯を拾った男との遭遇、小料理屋での一幕、温かい掌。
 眠りに落ちる直前までの流れを思い起こし、ここの家主について有力な仮説が立ったときのことだった。

「あれ。長谷部くん、起きてたのかい?」
 艶を帯びた黒漆から雫が垂れる。湯上がりで白い肌をほんのり染めた男は、俺が思い描いていた通りの人物だった。

「やはりお前の家か」
「歌仙くんにずっと面倒見てもらうわけにもいかないからね。君の家は知らないし、消去法で僕の家にご招待いたしました」
「普通に起こしてくれれば良かったんだが」
「いやあ、あまりに気持ちよさそうに寝てたから忍びなくてね。あとちょっぴり下心」
「よし帰る」
「何もしてないし、しないからゆっくりしていきなよ」
 長船の戯言をいちいち真に受けていては身体が保たない。浮ついた文句はともかく、これ以上長船に負担を掛けるわけにはいかなかった。

「気持ちはありがたいが、明日も仕事だ。そろそろ帰らないと業務に支障を来す」
「なら車で送るよ。ちょうどお風呂も沸いてるしね」
「至れり尽くせり過ぎるだろ。俺たちは今日会ったばばかりだぞ」
「恋に時間は関係無いよ」
 あくまでも長船は俺に惚れたという設定を押し通したいらしい。物好きというか酔狂というか、とにもかくにも徹底している。

「俺は誰かに好意を持たれるような人間じゃない」
「その反証が目の前にいるのに?」
「好きになる要素を一切見せていないんだが」
「嫌いになる要素だって見てないよ」
「約束の時間に遅れたり、すぐに体調悪くなったりで、今日一日迷惑ばかりかけた」
「どっちも故意じゃないんだろう? そうやって反省するところは責任感の強さを感じられて、むしろプラスの評価に繋がってるね」
「反省だけなら猿でもできる」
 一歩も退かない長船の言に俺もどんどん意固地になっていく。なまじ相手が悪いやつでないと解っているから、事件との関わりを秘匿している己が余計に罪深く思えた。

「まあ、同性にいきなり一目惚れなんて言われて信じるのは難しいかもしれないけどね。僕は本気だ。君の力になりたい。そしてあわよくば僕を良く思ってほしい。勿論困っている人を助けたい気持ちも有るけれど、あれこれ理由をつけて一緒にいる時間を長引かせるくらいには、君に対して下心が有るんだよ」

 知らぬうちに握っていた拳を他者の温度が包み込む。身体が強ばったのは一瞬だけで、長船の指先は忽ち俺の肌に馴染んでいった。
 軽薄な言葉ばかりを紡いでいた男の面輪は、今や抜き身の刀のような鋭さを湛えている。もう単なる言葉遊びでは男を退けられないだろう。
 長船の雰囲気に呑まれ、俺はとうとう自らを擲った。

「たとえ俺が人殺しでもか」

 俯き、視線を合わせずとも男が息を呑むのが判った。触れた手から確かな動揺が伝わる。一度堰を切ってしまえば、あとは感情が怒濤のごとく溢れ出すだけだった。

「ニュースでやってた殺人事件。俺、現場にいたんだよ」
 瞼の裏が赤銅色に染まる。目を伏せれば忽ち俺の意識は長船の部屋から路地裏に飛んだ。掌にこびりつく生々しい血化粧と、女の断末魔とが未だ頭から離れない。

「一面真っ赤で、女が腹から血を出して倒れてて、どう見ても助かりそうになかった。他人事みたいに聞こえるだろ? 実際、俺は昨日自分が何をしていたかさっぱり思い出せなくてな。気付いたら死体の傍で寝てたんだ。正直悪い夢だと思った。いや今でも思ってる。でもな、その女は俺が起きたとき、まだ死んじゃいなかった。すぐに助けを呼べば助かったかもしれない。だができなかった。その女は俺を見て言ったんだ。ヒトゴロシ、って。身に覚えはないが、そのとき俺の手は女の血で真っ赤だったよ。もし救助を呼んだら、誰かに見つかったら、俺が疑われるのはわかりきっている。こわかった、つかまりたくなかった、俺じゃない、俺じゃないんだ、だってあんな女しらない、俺はだれも殺してない、ころしてない!」
「長谷部くん落ち着いて」
「わかってるよ、俺は逃げたんだ。こわくて、自分可愛さに、助かるかもしれなかった人を見捨てたんだ! もし俺が直接手を下してなかったとしても、半分俺が殺したようなものだ、やっぱり俺はどうあがいても人殺しなんだよ!」
「長谷部くん!」
「やめろ俺をそんな目で見るな! お前も、やっぱり俺が殺したと思ってるんだろ!? そうだよ俺がやったんだ、俺は、俺は自分が助かりたいばかりに色んなものから目をそらしてる卑怯者なんだ! わかっただろ、俺は! 誰かに優しくしてもらう価値なんてな」
 まだ続くはずだった自責の文句が押し止められる。痛罵を浴びた胸板は逞しく、呼吸のたび緩やかに上下していた。聞こえてくる心音は果たして自分のものなのか、それとも俺を抱いている男のものなのか。その区別すら付かないほど俺たちは密着していた。

「これ以上、僕の好きな子を酷く言わないでほしいな」
 懇願にも似た響きが耳に直接注がれる。俺の背に回した腕に力を込め、長船はなおも続けた。

「君がどう言おうと、僕は長谷部国重を信じる。今日一日だけでも君がどれだけ真面目で、ひたむきで、嘘のつけない人なのか、十分すぎるほど伝わってきた。自分の罪を理由に好意を拒むような君が、誰かを殺せるわけないじゃないか」
「そんなの、おぼえてないだけだ」
「そりゃあ覚えてるはずないだろう、やってないんだから」
「へりくつ」
「屁理屈でも詭弁でも何でもいいよ。長谷部くんが納得して、僕が君を好きなことを信じてくれるなら」
「……しんじられるもんか」
「じゃあ信じてくれるまで説得しよう」

 軽くなった語尾の意味を考えるより先に耳朶を舐められる。未知の感覚に肩が跳ね上がった。
 長船の舌が溝をなぞり、孔を埋め、柔く噛みつく。好き勝手する男を押しのけることもできず、俺は息を殺してひたすら蹂躙の切れ目を待った。

「はせべくん」
 熱を孕んだ吐息が頬を濡らす。耳の次に食まれたのは唇だった。角度を変えて、何度も何度も互いの皮膚を押しつける。そのうちに長船が中に押し入って、咥内を散々に蕩かされた。
 これはまずい。何がまずいって、こんなに強引に迫られているのに嫌じゃないと感じているのがまずい。
 その証拠に、俺の舌は長船の味にすっかり慣らされてしまっている。繋がりを解いた直後には、口寂しさのせいか媚びるような声まで上げていた。足りない。あの肉厚の舌にまた弄ばれたい。

「おさ、ふね」
「光忠」
「ふぇ……?」
「光忠だよ。ほら呼んでごらん」
 間抜けに開いた口の輪郭を指で辿られ、訳もわからず呼び名を訂正される。とうに理性の尽きかけていた俺は、琥珀の瞳に促されるまま辿々しく音を紡いだ。

「みつただ」
 請われた四字を発するなり、男の目が鈍く光る。

 光忠に腕を引かれ、ふらついた俺は再び寝台に横たわった。二人分の体重を受けたベッドがぎしりと軋む。
 組敷かれて、己に覆い被さる男を自ずと見上げる形になった。光忠の方は舌なめずりまでして、獲物を征服したいという欲を隠そうともしない。
 それからは嵐のような一時だった。悩む余裕も疑う暇も与えられず、暴かれ、貪られ、満たされ続ける。幾度目かの精を内に放たれ、今度ばかりは夢であってほしくないと密かに願った。

 

+++

 

××月▲▲日

S町の路地裏で発見された遺体について

□●●A子(25) 職業:T社事務員
□死亡推定時刻は23時~1時頃、鋭利な刃物で腹部を刺されており、傷は背中を貫通している。その他に頭部に打撲痕、また全身に僅かな擦り傷が認められた。死因は出血多量による失血死。
□状況から殺害されたと見てほぼ間違いなし。
□現場付近は激しく血が飛び散っており、被害者が抵抗して乱闘になった可能性が有る。
□通報したのは現場付近に住んでいる女性で、被害者との面識は無し。
□遺体からは財布などの持ち物が見つかっており、金銭目的の犯行ではないと思われる。



聞き取り調査により、被害者は当日の夜、都内の飲食店にて、ある男性と一緒にいたことが判明した。本部はこの男性を重要参考人と定め、状況によっては任意同行を要請する方針である。

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 肌寒さを覚え、背を丸める。身じろいだ拍子に布団と剥き出しの肌が擦れ合った。柔らかい布が直接肌を撫でたことで、今の自分が一糸纏わぬ裸体であることに遅れて気付く。
「ぃッ……!」
 半端に起こした身体がまたもシーツの海に沈む。
 じくじくと下半身を苛む痛みは、初めて経験する類のものだった。敢えて言うなら筋肉痛に近いが、学生を卒業して後は走り込みもしなくなって、運動にはとんと縁が無い。果たして何が原因なのか、唯一使い物になりそうな脳を駆使して心当たりを探った。

 昨日は会社に行こうとして、途中で具合が悪くなって、偶然会った長船に介抱されて、何やかんやで一緒に昼食を摂って、それから……
「うわ」
 おそるおそる視線を胸より下に落とせば、全身に赤い斑点が散っていた。繋がった記憶の糸と、導き出された結論のせいで俄に顔が熱くなる。
 足を目一杯広げられ、信じがたい場所に同性を受け入れ、女みたいに甲高く喘いだ。忘れようにも、全身を襲う気怠さと苦痛が、生々しい実感を伴って昨晩の醜態を延々となぞり続ける。
 幸いにも足の付け根に粘ついたり、濡れたりといった感触は無い。寝ている間に諸々の処理はしてくれたのだろう。その光景を想像すると朝からまずいことになりそうなので、頭を振って男の幻影を断ち切る。

 布団にいるのは俺一人だった。部屋の主はかなり前に起床していたようで、隣に手を伸ばしても褥に温もりすら残されていない。
 ……なんとなく面白くなかった。俺だけ立ち上がることもできないことがだ。断じて寂しいわけではない。

「おはよう長谷部くん」
 扉が開き、つむじから爪先まで格好を整えた伊達男が顔を覗かせる。断じて安心などしていない。

「身体は大丈夫かい? 食欲は有る? ご飯とお風呂、どっちの準備もできてるよ」
「風呂より先に質問のシャワーを浴びせるな。飯の用意ができてるなら先に食う」
「オーケー、じゃあちょっと失礼するよ」
 ベッドに近づいた男は迷わず俺の腰に手を遣った。突然の浮遊感に襲われて、無意識のうちに長船の服に縋ってしまう。
「うんうん、落ちないようしっかり掴まっててね」
「おおおお、落ちるかもしれない運び方をするな。これやられる方も気が気がじゃないんだぞ」
「落としたりしないから大丈夫」
「さっきから会話がドッジボール状態な時点で全く安心感がない!」
 喚く声を無視して、長船は俺を横抱きにしたまま悠々と歩き出した。それなりに体格の良い成人男性を支える腕は逞しく、些かも震えていない。
 一見して細身の印象を受ける長船だが、実のところ服の下に隠された体つきは均整が取れていて、相当鍛えられている。あの割れた腹筋が息をつくたびに艶めかしく動いて、それはもう大変に淫靡な――

「あれ、急に大人しくなったね」
「お黙り下さいスケベ」
「何で?」

 宣言通り、長船は一度も俺を落とすことなくリビングの椅子にまで運んだ。
 サラダにスープ、ソースの掛かったパンと、テーブルがみるみる彩り豊かになっていく。料理が得意というのは冗談ではなかったらしい。匂いだけでも食欲をそそる出来映えに自ずと喉が鳴る。
「ここはホテルか何かか?」
「あはは、ホテルosafuneは長谷部くん限定で365日利用し放題だよ」
「一泊で金よりも大事な貞操を失ったんだが?」
「まあ一種のルームサービスだと思って、ね?」
「顔面偏差値でゴリ押ししようとするんじゃない」

 性癖の歪みを疑われるシェフ長船だが、その腕前は確かだった。肉と卵を載せたパンは食感も味も申し分なく、さっぱりとしたオニオンスープとの兼ね合いも良い。普段トーストと牛乳のみで朝食を済ませている身からすれば、贅沢にも程がある内容だった。
 その簡易な食事をも時に削って出勤を早めていた。自宅にはシャワーと仮眠のためだけに帰っていたようなものだ。つくづく職場にしか己の意義を見出していなかった事実を痛感させられる。いや、この認識は決して過去のものではなく現在にも言えることだろう。

「長船、今何時だ」
 テレビは点いておらず、俺の席から見える範囲に時計は無い。問われた光忠が首をめぐらし、黒いラックの上に視線を投げかけた。
「七時を少し回ったところだね。あと光忠だよ、長谷部くん」
「そうか。悪いがシャワー浴びたらすぐに出る」
「どうして? 何か入り用なら僕が買ってくるよ」
「普通に仕事だ。病気でもないのに二日も休んでられるか」
「真面目だなあ。でも残念、行かせないよ」
「はぁ?」

 頬杖をついた長船が目を眇める。細められた琥珀色は妖しい光を宿し、柔和な笑みを伴いながら親しみやすさとは対極の印象を与えた。

「君を一人で外に出すつもりは無い。今日からここが長谷部くんの帰る場所だ」
「なっ、俺を監禁しようっていうのか! ふざけるなよ!」
 勢い拳をテーブルに叩きつける。震動で食器が不快な音を立てたが、男はなおも泰然として、不気味なまでに落ち着き払っている。

「やだなあ人聞きの悪い。僕同伴でのお出かけ、もしくはデートなら大歓迎だよ」
「監禁から軟禁になっただけで、俺の意志をまるっきり無視してる点では同じだろうが」
「何とでも言ってくれ。僕はただ君を守りたいだけなんだ」
 長船が怒りに震える俺の手を取る。昨夜は頼もしく、希望とも思えた男の指先が、今では肌に触れるたび這い寄る蛇のごとき悍ましさを覚える。

 力では長船に敵わない。同意の上で明け渡したとはいえ、一度征服された身体が相手を明確に格上と認めてしまっている。
 俺はこのとき初めて、二度と戻らない平凡な日常を惜しんだ。

 

+++

 

 ずっと遠くから眺めていた。鈍い彼は■の存在なんて気付いてもいなかっただろう。毎日のようにすれ違って、時には言葉を交わしたことさえ有るというのに、あの薄紫の瞳が■を芯から捉えることは無かった。
 一度くらいは彼の目に留まってみたい。名前や顔を覚えてもらえなくても構わない。ただそこに■がいるという、当たり前の事実を彼に認識してもらいたいのだ。
 そんな■の慎ましやかな願望を嗤うように、あの女は軽々しく彼に触れた。無駄に育った脂肪を押しつける傍ら、意識の外になったグラスに粉をまぶす。不躾な女を適当にあしらいながら、無垢な彼は手元の悪意を飲み干した。
 暫くもしないうちに彼の背中が丸まっていく。凛とした立ち姿が印象的な彼らしくもなく、テーブルに突っ伏し瞼を閉じていた。さも気遣わしげに声を掛ける女のなんと白々しいことよ!
 こうなると、いかに身持ちの堅い人物だろうと理性は働かない。女に促されて、覚束ない足取りで彼は店を出て行った。

 こつこつ。寄り添う男女の後をひたすらに追う。
 こつこつ。とうとう女が背後を訝しんだ。誰もいない。
 こつこつ。また振り返る。誰もいない。
 こっこっ。足を速め、不安もろともこちらを振り切ろうとする。
 こっこっこっ。逃げるのにハイヒールは不便だろう。
 こっこっこっこっ! 彼をうち捨て、女は保身に走った。
 コッコッコッズシャアッ! 派手に転んだ痛みに呻いたのも束の間、女は四つん這いのまま前へ少しでも進もうとした。
 ああ醜い。こんな穢らわしい畜生が彼に触れたと思うとうんざりする。ちょっと脅かすだけのつもりだったが予定変更だ。やはり汚物はさっさと捨てるに限る。

 用なしになったビールの空き瓶を放った。このまま殴殺しても構わないのだが、考えようによってはこの生ゴミもまだ利用価値が有る。
 女が屑なのは疑いようもないが、彼も彼で警戒心が足りなすぎる。そうだ、この機会に彼には世の摂理というものを知ってもらおう。タダで掃除してやるほど■も安い×じゃない。
 口角がつり上がるのを抑えられなかった。ああ、彼が起きたときがとてもとてもとても楽しみだ! 人を殺したかもしれないと、有りもしない罪に肩を震わせ、膝を屈してほしい。
 彼はこれから■の犯した禁忌に苛まれ続けるだろう。依然彼は■のことを知らないが、これで彼の心はずっと■のものだ。
 ああ。早く▲の悲鳴が聞きたいなあ、長谷部くん。

 

+++

 

 ソファに背を預け、カーテン越しに呆然と外を眺める。昨日着ていた服が吊され、時折風に吹かれていた。されるがまま揺れる衣類と己の境遇とが重なる。
 頭上で忙しなく動くドライヤーは俺が操作しているわけではない。瞬く間に重たくなった髪から水気が失われていく。ブローの音に混じって鼻唄が聞こえてきた。
 長船はご機嫌な様子で俺の世話を焼いている。気力を失った俺は、入浴から着替えまで全て長船の手に任せてしまった。傍から見れば介護同然である。いやまだそちらの方が救いが有ったかもしれない。今の俺には長船を愉しませる以外の選択肢は許されていなかった。扱いとしては完全にペットのそれである。
 愛玩動物に労働は必要無い。スマホを取り上げられ、外への連絡手段も断たれた。残された道は長船の隙をいかに突くか、だろう。こいつだって公の場では狼藉を働かないはずだ。

「長船」
「光忠だよ、長谷部くん。なあに」
「外に出たい」
「デートのお誘い? 喜んで。んー服は僕のを貸すけど、サイズ合わないかもしれないから後で買いに行こうか」
 あれよあれよという間に予定が組まれる。俺が逃亡する可能性は考えていないのだろうか。こいつのことだから、それすらも予想の範疇だという気がしないでもない。

「ゴールが俺の家ならどこでもいい」
「そうだね。色々なお店を巡って、最後に僕たちの家に帰ろうね」
 帰宅の訴えはさらりと流された。流石に緩いのは頬の筋肉だけらしい。

 支度を済ませ、街中に出る。都会とはいえ、さすがに平日は人通りも疎らだった。
 肩身を狭くして混雑の中を歩くのはごめんだが、今となってはあの雑踏が恋しい。俺の右手は、指の一本一本を絡めるように隣の男と繋がっている。子供ならともかく、大の男二人でこれはない。前述の通り、手元を隠してくれる人混みはなく、俺は長船共々好奇の視線に晒されていた。

「恥ずかしくないのか」
「何がだい?」
「この罰ゲームみたいな状態がだ」
「ご褒美の間違いじゃなくて?」
 まるで話が通じていない。まともに取り合うだけ無駄と思い、罵詈雑言を呑み込んだ。絵面はともかく、逃走防止の手段としては理にかなっている。

「さあて、どこに行こうか。初っぱなから荷物を増やすのも何だし、服選びは後のお楽しみとして……空いてるだろうし映画でも観るかい?」
 そもそも外出を提案したのは、逐電を目論んでのことだ。自宅を除けば行きたい場所などなかった。しかし映画館なら薄暗く、或いは上手く事を運べるかもしれない。
「じゃあ、それで」
 愛想の無い返事にも構わず、長船は口元を綻ばせる。俺の言動に一喜一憂する様を見せられると、つい都合の良い想像をしてしまう。こいつの言う惚れた腫れたは、実は本心から口にしてるのではないか、と。
 余計なことは考えるな。自分を軟禁しようという狂人に同情する謂われは無い。
 引き続き長船に手を取られながら、俺は自分に言い聞かせた。

 電車に揺られ、数駅ほど移動する。チケットを購入し、上映時間になるまで適当に時間を潰すことになった。
 併設されているカフェで一息つく。窓際の席は見晴らしも良く、駅を中心に広がる繁華街を一望することができた。

 この映画館を利用するのは初めてだが、周辺の施設はその限りではない。地上に立ち並ぶ居酒屋は、知人と飲む際によく世話になっていた。
 そういえば事件当日、あいつは打ち合わせで午後から留守にしていた。加えて、俺はここ二日出社をしていないから、週末でもないのに約三日ほど顔を合わせていないことになる。会えば互いに煽り合う関係だが、異常な状況に置かれているせいか、あの嫌みな面も不思議と懐かしく思えた。

「……くん」
 職場は今頃どうなっているのだろう。

「はせべくん」
 プロジェクトの〆切も近い。プレゼンの資料も作らなければいけないから、こんなところで油を売っている暇は無いはずなんだ。

「はーせーべーくん」
 俺は、俺の居場所は、やはり会社にしかない。

「いーち、にーい……じゅう、じゅういち……」
「……もがっ!?」
「あ、やっと気付いた」
 摘ままれていた鼻が解放される。酸欠に喘ぎながら、新鮮な空気を急ぎ肺に送り込んだ。

「ころすきかきさま」
「ごめんね、何度も声掛けてるのに全く気付いてくれなかったからさ」
「返事をしなかっただけで殺されてたまるか」
「解らないよ? 殺人なんて常軌を逸した行動に出る輩は、それこそ思考回路からして特殊な部類だろうし」
「恐ろしいことを言うな」
「忠告のつもりなんだけどねえ」
 やたらに艶っぽい長船の語尾はコーヒーごと咥内に浚われた。文句をつけようにも、先の主張には妙な説得力が感じられて些か否定しづらい。
 俺に興奮する長船の趣味が理解できないように、殺人犯の心境など一般人の秤に掛けられるものではないのだろう。

「長谷部くんは、どうも警戒心が足りてないみたいだから」
 心配なんだよ、と男が続ける。
 高い鼻梁に、長い睫毛に縁取られた琥珀の瞳。恐ろしいほど形の整った面差しは、笑むのを止めた途端にひどく冷徹な印象を抱かせるのだと知った。

 上映時間が迫り、開場の案内が入る。長船が選んだのは国際長編映画賞を取ったという話題の洋画だった。
 俳優陣の渾身の演技、音響を最大限に活かした間の取り方、緩急の上手い脚本。隣に座る長船が息を呑んだのが判る。俺は映像の質に感謝し、暗転の瞬間を狙って席を立った。

 足早にスクリーンを抜け、エスカレーターを階段同様に駆け下りる。擦れ違う人に怪訝な目を向けられようと、俺は止まらなかった。
 歩道をひた走り、改札を抜けて、行きとは逆方向の電車に乗る。自動ドアに背を預け、張り詰めていた息を俺はようやく吐き出した。

「は、はは、あハッ」
 呆気ない。散々に警戒していた自分が馬鹿みたいだ。
 逃げ切った。俺はもう自由だ。
 耳を蕩かす囁きも、己を包み込む両腕も、優しい笑顔にも未練は無い。俺が望んでいるのは、退屈で代わり映えもない淡々とした灰色の日常だけだ。

 一日ぶりに帰宅した我が家は、何も変わっていなかった。慌てて飛び起きたベッドは乱れ、出勤用の鞄は床に転がっている。外に出ている大きめのポリ袋には、コンビニ弁当のプラスチックケースが重なっていた。いかにも独身男性の住まいといった佇まいに反って安心する。
 ああ、俺は帰ってきたんだ。明日からまた働いて、週末は適当なDVDでも借りてゆっくりと過ごそう。わざわざ人の多い繁華街まで出て、話題作を劇場で見るのは面倒だ。
 あの男とはつくづく住む世界が違うのだろう。これほど噛み合わないのだから、逃げ出すまでもなく、そのうち飽きて捨てられていたかもしれない。
 いずれにせよ、狂人の気まぐれに付き合う必要はもう無くなった。遅れた分を取り返すなら残業は避けられない。激務に備えて今日は早めに寝るとしよう。

 シャワーを浴び、髪の湿気を適当に拭っていたときのことだった。
 ピンポン、と聞き慣れない音が鳴る。家を空けていることの多い俺は、それが来訪者を告げる音だと気付くのに若干の間を要した。

 時刻は午後六時を回っている。既に暦は師走を迎え、空も夕闇の色に染まっていた。身内や配達業者でもなければ、他人の家を訪うには憚られる頃合いだろう。
 ぶわりと湯上がりの肌が一気に粟立つ。住人を呼ぶ音声は止まらない。息を潜め、竦む足を恐る恐る動かす。吐き出す息で黒い扉が一部曇った。覗き窓から外を窺う勇気など出ない。

 居る。戸を一枚隔てた向こうに、誰かが立っている。執拗にインターホンを押すそいつは、俺が中に居ることを知っている。単調な呼び出し音に紛れて、何者かの舌打ちが耳に届いた。悲鳴を上げそうになった口元を無理矢理に塞ぐ。この距離では息遣いすら聞こえかねない。呼吸もろとも恐怖を掌で押さえ込む。酸素を求める身体を無視して、偏に相手の退散を願う。ピンポン。頼む帰ってくれ。ピンポン。息が苦しくなってきた。ピンポン。いやだ、こわい。ピンポン。どうして、どうして俺がこんな目に。ピンポン。おれはなにもしてないのに――!

「ぷはぁッ!」

 限界だった。扉に寄りかかって腰を折り、荒々しく息をつく。俺の体重を受けたドアが揺れた。その衝撃は外にいる相手にも伝わったことだろう。終わった。解放感と引き換えにそれ以上の恐怖が喉を塞ぐ。
 絶望に打ちひしがれる俺の予想に反し、機械音はそれきり二度と鳴らなかった。静まり返った場で己の心音がうるさく響く。意を決し、それまで忌避していた覗き窓に目線を合わせる。魚眼レンズに映っているのは、塗装の剥がれかけた外廊下の柵だけだった。
 そっと扉を開ける。部屋の前にはやはり、誰も立っていない。緊張の糸がぷつりと切れて、ドアノブを掴んだまま腰が抜けそうになった。

「は、はは……なんだ、いたずらか……」

 悪質ではあるが、想定していた事態よりはずっとましである。気が緩んだ途端に冬場の夜気が剥き出しの肌を舐め上げた。このままでは湯冷めしてしまう。早く戻ろうと取っ手を引くも、ドアは何故か半開きのまま動かなかった。

「やあ、長谷部くん」

 全身が凍りつく。俺の望みとは裏腹にドアは完全に開ききり、その陰に収まっていた人物の稜線を明らかにした。

「ァ、ア……な……で……」
「何でって、君を迎えに来たんだよ。デートの前に言ったじゃないか、最後に僕たちの家に帰ろう、って」

 革の手袋を纏った手が差し伸べられる。逃げ場も、選択権も無い。教えていないはずの自宅を突き止められた以上、俺の運命は全てがこの男の掌の上にある。
 素より平穏に帰そうすること自体が無謀だったのだろう。故意か事故かはさておき、あの死体に関わった俺が尋常の人でいられるはずがなかった。

「いやだ」
 既に理性では屈していながら、本能は男を拒む言葉を口にした。

「悪いけど、嫌がっても連れて帰るよ。君を自由にさせておくわけにはいかないんだ」
「いやだ、いやだ……」
「長谷部くん、いいかい君は」
「いやだ!」
 破れかぶれの一打が男の掌を叩く。長船の左目に動揺が走るのも無視して、俺は俯き両腕を交差して自らを抱き込んだ。

「たのむ、家にかえしてくれ。なにもかもなかったことにしてくれ。本当に、おまえの言うとおり、俺がなにもしてなかったのなら、前と同じようにさせてくれ。じゃないと俺は俺を信じられない。おまえといるかぎり、俺はずっと事件のことをかんがえて生きていなければならない。そんなのいやだ、わすれたい。わすれたいんだ。こわいのは、もういやなんだ」

 舌が縺れるのも構わず、思いの丈を全てぶちまける。自らを殺人犯と疑いながら他者の庇護に甘え続けるなど、小心者の俺には荷が勝ちすぎる。
 本音を吐き出したせいか、感情に抑えが効かなくなって、遂には顔中から水分を垂れ流すようにして俺は泣いた。鼻を啜り、肩をしゃくりあげ、格子柄の床をぽつぽつと濡らした。

「ごめんね、長谷部くん」
 優しくも悲壮な声色が耳を打つ。俺に理不尽を強いてきた男とは到底思えぬほど、紡がれた四字の文句は切実な響きを伴っていた。

「明日の夕方にまた迎えに来る。もしそのとき、僕の手を取ってくれる気になったなら、一緒に来てくれ」
 五指がまだ濡れたままの髪を撫で上げる。皮革を隔てても伝わる温もりを惜しむ間もなく、男の手はあっさりと俺から離れていった。

 おやすみ、と告げた長船の足先がドアの向こうに消える。涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げたときには、もう男の姿はそこに無かった。

 明かりも点けず、ベッドに倒れ込む。時間を確認しようとして、スマホが長船に奪われたままだと思い出した。
 長船光忠。衆に優れた容姿に加えて面倒見も良く、人当たりは柔らかい。絵に描いたような好青年ぶりだが、その言動には時折狂気が垣間見えた。
 何故会ったばかりの俺に執着するのか。どうして俺の自宅を知っていたのか。考えれば考えるほど、長船に対する疑惑は深まっていく。
 とはいえ、事件の調査がどこまで進んでいるか判らない以上、安易に警察を頼ることはできない。長船は俺の潔癖を主張しているが、その正否を判断できるのは殺された被害者か、或いは存在するかも怪しい真犯人だけだろう。

「そりゃあ覚えてるはずないだろう、やってないんだから」

 昨夜、長船はそう断じた。癇癪を起こした俺を宥めようとした、何気ない一言かもしれない。しかしながら、男の底知れなさを知った今となっては別の可能性が浮上してくる。

 長船は本当に俺がやっていないことを知っていたのではないか。もっと言うなら、誰があの女性を殺したのかも知っているのではないか。或いは、女性が息絶える瞬間を長船は見届けていたのではないか。

 俺が落としたスマホを長船が拾った。偶然にしては出来すぎている話も、これで納得がいく。
 信じたくない。恐慌を来した俺を労り、口汚く罵られても見捨てたりせず、情熱的に触れてくれた手が偽りだったなどと思いたくはない。
 身を捩り、くの字を描くよう縮こまる。答えは未だ出ず、目を瞑ろうと睡魔は容易に訪れなかった。

 

+++

 

 長谷部くんのスマホがまたも震える。増え続ける通知のほとんどは同じ人物によるメッセージだった。
 察するに、宗三というのは彼の友人のようだ。少し目つきが悪いけれども、どこか愛嬌ある顔つきの少年をアイコンにしている。被写体はどう見繕っても十代前半の少年だが、送られてくる内容は同僚を気遣う文脈のそれだ。おそらく三白眼の子は家族か親戚だろう。アプリ内に宗三くん本人と思しき画像は上がっていない。

 社畜の貴方が休むなんて珍しい、という一文を皮切りに数十件のメッセージが続いている。当然ながら長谷部くんからの返信は無い。真面目な彼の性格を知っているだろう宗三くんは、事態を正しく深刻に受け止めて、安否を確かめる質問を何度も何度も送っていた。
 宗三くんは彼とは余程親しいらしい。黒ずんだ思考が一瞬脳裏を過る。暫し宙ぶらりんになった指を画面に近づけ、通話ボタンを押した。

 万が一が有ったとして、さほど問題は無い。彼を脅かす者は僕が全て排除する。

 

+++

 

 ドアを押し、隙間からそっと周囲を窺う。ゴミ袋を片手に出勤するサラリーマン、立ち漕ぎで坂を上る高校生、井戸端会議に花を咲かせる数人の主婦。部屋から階段を降りて、歩く先々に見える風景はおよそ三日前と変わりない。
 黒いジャケットを着た、えらく見目の良い男に遭遇することなく駅に辿り着く。すし詰め状態の箱で混雑に揉まれること数十分、スライドしたドアから大勢の人々が吐き出された。降りた数と同規模の乗客を迎え、通勤快速がまた一つホームから発つ。新陳代謝を繰り返す車両を尻目に、俺を含めた人の波は改札口へと向かっていった。
 腕時計の盤面をちらりと確認する。始業より三十分前。最寄り駅より職場は徒歩十分。今日こそは遅刻も欠勤もせず済みそうだ。

 うちのビルは三階より上がオフィスになっている。一階と二階は吹き抜けの構造をしていて、コンビニやカフェなどが入っていた。階段は非常用として設けられているに過ぎず、社員の移動は自ずとエレベーターが主体になる。従って、帰りはともかく通勤時は別部署の人間や同僚と鉢合わせることも多い。例に漏れず、今朝もエレベーター前は大盛況だった。
「おはよう、宗三」
 地味な色のスーツが並ぶ中で、そいつの秀麗さは否が応でも目立つ。三日ぶりの再会で俺も少しテンションが上がっていたのだろう。非日常から日常への帰還を実感し、いつになく声を弾ませた。
 振り向いた知人は俺を見るなり、白皙の美貌をくしゃりと顰めた。大変に失礼な反応である。それが命からがら軟禁状態から逃げ出してきた友人に対する態度か。

「貴方、何で来たんです」
「何でとは何だ。社会人だぞ、真面目にお勤めして何が悪い」
「はぁ!? ああもういいです、ちょっとこっちに来なさい。話が有ります」
「何だいきなり、おい引っ張るな!」

有無を言わせぬ宗三に連行され、駐車場へと繋がる裏口に二人して立つ。車通勤の社員は少なく、一部スペースを借りている立駐も専ら来客用になっていた。狭い廊下はいつだって静かで、密談には打ってつけだろう。

「ひとまず、こちらは返しておきます」
 そう言って宗三が墨色の直方体を取り出す。つい先日まで別の人物に管理されていたそれは、紛れもなく俺の携帯だった。

「ご想像の通り、さる御仁から預かりました。何か有ればすぐに連絡を寄越すように、だそうですよ」
「は、誰が」
「言っておきますが、何も起きないと考えているのは貴方だけですよ。後悔したくないなら、当分雲隠れしておいた方が身のためです」
「そんな説明で納得できるやつがいると思うか?」
「思いませんね。では率直に言いましょう。最近起きた殺人事件、あれの犯人が貴方だと喚き立てている連中が社内にいます」
 ひゅう、と喉の奥から空気が押し出される。怖気が走り、歯の根は合わずにがちがちと震えた。俄に胸の内を不安の塊が占めていく。宗三の告白は、あの夜以来、俺が最も恐れていた状況の成立を示唆していた。

「ま、長谷部にそんな度胸が有るなんて思ってはいませんがね。ただ貴方、僕が出張でいない日に別の部署の先輩と飲みに行ったそうじゃないですか。覚えてます?」
 首を横に振る。そもそも記憶が確かなら早々に警察へ駆け込み、事情の一切を話していたことだろう。

「その男曰く、被害者の女性と最後まで一緒に居たのは貴方だったと。そんなチャチな情報一つで軽率に人を殺人犯呼ばわりとは、随分とおめでたい頭をしているようです。と、言いたいところですが、往々にして大衆は事実や真相より根拠の無い流言を好むもの。今や社内は長谷部の噂で持ちきりです」
 流石に表だっては口にしていませんけど、という補足は何の慰めにもならなかった。

 もし宗三の聞いた目撃情報が本当なら、警察から任意同行の打診が来ても何ら不思議ではない。しかし、この三日というもの俺は外部への連絡手段を持っておらず、自宅もほぼ留守にしていた。長船に軟禁されている間、俺は社会からその姿を消していた。偶然とは、とても思えない。

 長船は俺を自由にするわけにはいかないと言った。それが公安の介入を防ぐためだったとすれば、辻褄は合う。
 おそらく確たる証拠は未だ見つかっていない。逮捕状を出せる段階ではなく、警察に呼ばれたとして事情聴取が関の山だろう。
 だからこそ長船は俺を手放したのかもしれない。自身が今、どのような立場に置かれているのか認めさせ、もはや長船光忠の他に縋るものはないと知らしめたかったのかもしれない。
 冗談じゃない。俺は、俺の人生は俺のものだ。これ以上、他人にいいようにされてたまるか。

「そうか。身に覚えがない以上、俺にできることはたかが知れてるな」
「ええ。警察の捜査が進展するまで大人しく有休でも消化していなさい」
「仕事は休まん。俺を犯人呼ばわりした連中の面を拝んで、事件が解決した暁には盛大に笑ってやるためにもな」
「正気ですか」
「正気だ」

 同僚の胡乱げな表情を正面から見つめ返す。腹は括った。
 誹謗中傷の的になることは判りきっている。あれほど世間の目を恐れていたくせに、俺はただ長船光忠の鼻を明かしたい一心で、自ら地雷原に飛び込む決意をした。

「すまないが、今進めているプレゼンは他のメンバーに任せることになった」
 上司に呼び立てられたと思いきや、突如お払い箱を宣告される。

 挨拶を交わしたチームメンバーの様子から、この程度の逆境は予想していた。疑念と侮蔑の混じった視線が今も背中に突き刺さっている。いずれ調査協力の要請も来るだろうし、俺が白か黒かに限らず、この判断は妥当だろう。
 これまでの成果を他人に掠め盗られるような不快感は有るが、致し方あるまい。俺は粛々と此度の下知に従った。

 昼休憩となり、期待されている通りに部署を後にする。一挙一動を注目されながら、可も不可もないコンビニ弁当を食べるのは気が進まなかった。

「どうぞ」
「何だ、このゼリーは」
「空っぽのままでは体力が持ちませんからね。せめて消化に良い物を」
「……一応礼を言っておく」

 一口サイズの容器を受け取り、フィルムをめくる。今し方吐いてきたことを見抜かれているようで釈然としないが、正直宗三の変わらない態度だけが救いだった。
 終業まであと五時間弱。擦れ違うたびに聞こえる陰口や、言い様もない緊張感に包まれる職場の雰囲気は、想定していたよりずっと重苦しい。
 濃紫の半球体を口に運ぶ。中に入っている果肉を噛み潰すと、葡萄特有の甘酸っぱい味が咥内に広がった。

 短針の先がようやく五を指し示す。納期が近いため、うちのチームの大半はなおもモニターとの睨み合いを続けていた。帰り支度をしているのは俺だけらしい。以前は誰よりも遅く退勤していた自分が、今では誰よりも早く鞄を手に取っているとは皮肉である。

 フロアでは清掃スタッフがゴミの回収に勤しんでいた。直接の関係者ではないためか、彼女たちは俺が村八分になっていることを知らないようだ。人の良さそうな笑顔を見せては、お疲れ様と一声掛けてくれる。いつもはおざなりに流していた挨拶が、今日に限ってはひどく有り難いものに思えた。

「ありがとうございます、そちらもお疲れ様です」

 追い詰められて初めて、俺は人の労を心からねぎらった。大げさに喜んでくれるスタッフにこちらまで励まされて、意気揚々エレベーターへと乗り込む。
 機械音声が目的階への到着を告げた。鉄の扉が開き、エントランスホールの特徴的なモニュメントが視界に入ってくる。やたらと曲がりくねり、存在を主張するそれすら長年勤めていれば風景になる。いつもなら意識しないはずの造形物を気に留めたのには理由が有った。正しくは、その付近に立つ長身の男のせいで目を奪われた。

「長谷部くん」

 サングランスにトレンチコート、黒を基調にした格好はその美貌と相俟って、一般人には思われない。その筋の連中というなら、ここ数日の所業も含めて確かに腑に落ちる。

「答えは決まったかい」
「ああ。俺は、お前には頼らない」

 長船の正体が極道者なのか、殺人犯なのか、或いはそれ以外の何かなのか。正解は判らないし、知る必要も無かった。

「今日一日で口さがない連中から憶測で好き勝手言われたはずだ。それでも君はこの職場から離れるつもりはないのかな」
「それだ。部外者のお前が、どうして俺の勤め先の噂を知っている」
「君のお友達から聞いたよ」
「宗三にか。いつ、どうやって?」
「それは君と別れてから、昨日の夜に」
「だとしたら順番がおかしいだろう。もし昨晩初めて噂を知ったなら、どうして朝から俺の行動に制限をつけた。まるで始めから、こうなることが判っていたみたいな振る舞いじゃないか、ええ?」
 俺の糾弾で伊達男の顔が歪む。やっと狐の尻尾を掴んだ。

 こいつは自分の犯した罪を隠蔽するために俺を利用したのだろう。社会的に追い詰め、居場所を失わせ、正常な判断ができなくなるよう仕向ける。唯一のよすがとして立候補し、戻ってきた暁には適当に飼い殺せればいい。会ったばかりの同性にやたらと親切にする理由もこれで説明がついた。優しい言葉も、献身的な態度も、全て俺を陥れるための演技だったんだ。

「舌先三寸で騙されて、雌犬みたいに媚びる俺の姿はさぞ滑稽だったろうな」
「それは誤解だ! 僕は一度だって君を騙すような真似はしていない!」
「詐欺師はみんなそう言うんだよ。ただ残念なことに、お前を官憲に突き出すだけのネタは挙がってないんだ。怪しいのは確かだが、証拠が無ければそれこそ噂話と変わらん。安心していいぞ、俺の口からお前に不利な証言が出ることは無い」
「安心って……君は一体何を」
「言葉通りだ。もうお前が俺に構う必要は無い」
 伝えるべきは伝えた。見逃してもらえるとは思えないが、激しく口論すれば人目につく。いくら長船でも、ここで騒ぎ立てるような愚行には出ないだろう。

「待ってくれ!」
 予想に反し、長船は半ば叫ぶようにして俺の腕を捉えた。掴まれた箇所から嫌悪感がぶわりと噴き上がる。
「触るな、この人殺し!」
 耐えられず、感情のままに腕を振るう。手を弾かれた長船がサングランスの奥で目を丸くした。
 追い縋る声を無視して床を蹴る。長船にかまけていて気付かなかったが、ただならぬ雰囲気を察してか遠巻きに人だかりができていた。厄介なことに中には顔見知りもいる。下手に人混みを掻き分けるのは避けた方がいいだろう。
 裏口に続く廊下は細く、大人数では入ってこられない。今もエントランスでは好き勝手な憶測が飛び交っているかもしれないが、利用客もいない駐車場は至って静かなものだった。

「長谷部くん!」

 束の間の静寂はあっさりと破られる。咄嗟に首をめぐらし、活路を探した。裏口から出た試しなどほとんど無いため、どうしても判断が遅れる。考える時間すら今は惜しい。不利になるのを承知で、俺は一階から二階へとスロープを駆け上った。
 運動不足の身体はすぐに限界を訴える。もつれそうになる足を引き摺り、鉄骨に寄りかかった。
 階下から長船の靴音が迫る。身を隠せそうな遮蔽物は見当たらない。このまま逃げ続けてもじり貧だ。
 焦燥感は秒ごとにいや増し、心音が激しく胸奥を叩く。呼吸もままならないほど追い詰められて、扉の存在を把握できたのは運が良かったと言うしかない。
 非常灯を戴いたドアを開ける。一心不乱に階段を下りて、行き着いた先はコンクリート塀に囲まれた路地だった。

「きゃっ」
 傍で短い悲鳴が上がる。立っていたのは清掃スタッフの女性だった。滅多に人の来ない場所に加えて、勢いよくドアが開いたから驚いたのだろう。
「あ、すみません……ちょっと、急いでて」
 自身の弁で追われている身であることを再認識する。一刻も早く立ち去りたいが、進路はちょうど女性に塞がれていた。

「急いでるって、ひょっとしてさっきの男の人に関係あります?」
「え?」
「その、先程エントランスで言い争いしてましたよね? いけないとは判ってたんですが、どうしても聞こえてきてしまって」
「あ、ああ。あれは場所も弁えず声を荒げた俺が悪かったんです、気になさらないで下さい」
 一階や二階は貸店舗の都合もあって、どうしても人の出入りが激しい。当然騒げば注目を集めるし、それが悪い意味で脚光を浴びている俺なら尚更だった。野次馬もそこそこいたし、彼女だけを責めることはできないだろう。

「清掃スタッフの人たちはご存じないと思いますが、実は俺、最近ちょっと良くない噂が立てられて……そのせいで少し気が立っていたというか、とにかくお恥ずかしいところをお見せして申し訳ありません」
 頭を下げて非礼を詫びる。清掃スタッフと話す機会は少ないが、これ以上社内での心象を損ないたくはない。

「いえ、噂なら知ってますよ」

 予想を裏切る相槌に勢い面を上げる。女性の口元はマスクで覆われていたが、その表情は明らかに喜悦を含んでいた。

「酷い話ですよね。被害者と最後に会ったかもしれないというだけで、人殺しだの殺人犯だの皆さん好き勝手言って。そんなに一緒に仕事している仲間を信じられないんですかね」
 思わぬところで他者から理解を得られ、うっかり目頭が熱くなる。今日一日悪意に晒され続け、自分が考えてるよりも遙かに消耗していたらしい。渇いた砂に水を注ぐがごとく、優しい言葉が全身に染み渡った。

「俺は、俺はやってません」
「はい、解ってます」
「あの日の夜のことはほとんど覚えてなくて、でも俺はあの人と会ったこともなくて、ただ目が覚めたら誰か倒れてて、もうわけがわからなくて、それで」
「ええ、ええ」
「でもこれだけはわかる。あいつだ、あの男が全部悪いんだ。俺を守るとか言いながら、俺を、俺を利用しようとしたあいつが殺したんだ!」

 ガキン、と真横の壁に金属が叩きつけられる。耳障りな音の発生源は、女性が手に持っている道具が原因である。布をぐるぐると巻き付けられた物体の輪郭をなぞり、俺は自分が今の今まで息すらできなかったことに気付いた。

「訂正して、長谷部くん」

 女の細腕ではコンクリートの壁を削ることはできない。彼女はただ苛立ちを発散させるためにビルの側面を突いていた。布が破れ、結び目が緩んで中の鈍色が露わになる。どこの家庭にあっても珍しくない出刃包丁だ。ただ一点、刀身に付着している赤黒い染みがこの状況の異様さを強く物語っている。

「あの男が殺した? そんなわけないでしょう、勘違いしないで。貴方を狙っていた生ゴミを片付けたのは私だ。貴方がこの数日怯えていたのも、考え続けていたのも、全部全部全部私のこと。これから先も貴方の中に居座り続けるのは私だけよ。女だろうと男だろうと、私以外の存在に頭を悩ませるなんて許さない。目をこらせ。貴方の前にいるのが誰なのか、そのお綺麗な面の中身に深く深く刻みつけろ!」

 呪詛めいた命令が脳裏を焼く。望むと望まないとに関わらず、瞳孔は女の姿を正面から捉えた。
 知っている。俺は、あの濁った目を知っている。血溜まりに浸かりながら俺を睨んだ女と、こいつは同じ目をしている――!

 理性よりも先に本能が身体を突き動かした。出てきたばかりの扉を開け、取っ手を押さえ込む。侵入を試みようとドアノブに掛かる圧力が生々しい。力ではこちらの方が勝っているのに、思考は瞬く間に恐怖に呑まれ、逃走という選択肢を奪った。

「ねえ長谷部くん怖かった? 怖かったよね? 自分が人を殺したかもって思ったら怖くて怖くてたまらなかったよね?」
 人の形をした化け物が扉一枚を隔てた向こう側にいる。体重を掛け、この扉だけは突破されるまいと張り付いた。

「自分がやったんじゃない、って否定したくてもできなかったよね? だって呑気に眠ってたんだもんね? ダメだよ、知らない女に簡単に気を許しちゃあ。長谷部くんみたいに綺麗な子は隙を見せたが最後、ケダモノの我慢汁に塗れてザーメン空っぽになるまで絞り尽くされるんだからね?」

 下卑た文句をつらつら並べて、殺人鬼はドアから距離を取った。油断せずに持ち手を掴んでいると、今度は扉全体が大きく揺れた。ドン、ドン、と間を置いて衝撃が走る。反響する音と手を通して伝わる振動から、重たい鈍器で外側から殴りつけているのだと想像がつく。

「周りの人間が自分をどういう目で見てるのか、少しは意識しないといけないよ。毎日すれ違うたびに挨拶してたのに、長谷部くんってば私の顔全く覚えてくれなかったよね? 沢山いるクリーンスタッフの一人くらいにしか考えてなかったよね? たかがお疲れ様の一言にどれだけ救われている女がいたか知らないんだもんね?」

 知らない知らない知らない。用を足すか、小腹を満たすためだけに廊下に出て、たまに鉢合わせる清掃係の顔なんて覚えているはずがない。

「この間までは挨拶だけで満足してたんだよ。でも他人になんか全く興味ないくせに、付き合いとはいえ女漁りに行くなんて聞いたら放っておけるわけないじゃない? 呑み会なんて口実だよ、長谷部くんの顔で雌犬を釣って、そのおこぼれを頂戴しようって本音が見え見えだったもの。良いように後輩を使っておいて、ろくに弁護すらしないんだから最低だよね。あっ噂を流したのは私だよ」

 力を力で押さえ込めば当然反発も大きい。社内に繋がっているわけでもない通用口の耐久性などたかが知れている。それが女子供の打撃だろうと、執拗に何度も同じ箇所を狙えば限界を迎えるのは道理だった。
 破壊されるのも時間の問題と見て、俺はドアに背を向けた。二段、三段飛ばしで愚直に上を目指す。立駐二階に転がり出て、先刻通ったばかりの坂を駆け下りた。
 今度こそ駐車場から抜ける。靴底がコンクリートを叩く音は聞こえない。かなり引き離したようだし、追いつかれることはないだろう。見知った裏口を視界に収め、やっと闇中に光明が差したような思いがした。

「ざあんねん」

 ねっとりした高音が再び耳から絶望を吹き込む。裏口近くの縁取られた壁がゆっくりとその口を開ける。普段は締め切られている、主に清掃スタッフが使用するのだろう扉が無慈悲にも女の出入りを許した。今や互いの距離は数メートルも、ない。
 足下に何かが投げつけられる。鈍い音を立てて転がってきたのは工具用のハンマーだった。女の一挙一動に怯えていた俺は、つい落下物の行方を目で追ってしまう。それは相手の思惑通り、狂人の接近を許す結果となった。
 馬乗りになった女が包丁の切っ先を俺に向ける。助けを求めようにも、人気のない駐車場で叫んだところで得るものは無いだろう。

「これね、長谷部くんが出社してきたら見せようってずっと車に積んでたんだ。心ない噂でボロボロになった長谷部くんに安心してもらうために、実は私がやったんだよって説明するのにちょうど良いって思ってね。ほっとしたでしょ? 自分が人殺しじゃないって判って」

 悪意の塊が白い歯を見せて笑っている。果たして走馬灯の類か否か、どこぞで聞いた忠告がふと浮かんだ。
 殺人なんて常軌を逸した行動に出る輩は、それこそ思考回路からして特殊である。なるほど実に的を射ている。確かに女の発言に一つたりとも共感できる部分は無い。ただ件の助言を活かすには俺はあまりにも愚かで、短慮に過ぎた。己の浅はかさを謝罪しようにも、この先生きて再会できるかは甚だ怪しい。

「いつまでも後ろ指さされる生活は嫌だよね? ねえ長谷部くん、このまま私と一緒に逃げよう? 私は長谷部くんが死んでも丁寧にお世話して、綺麗な身体のまま愛でてあげるけど、長谷部くんは死んじゃうのは怖いし嫌だよね?」

 地獄か奈落か、といった様相の二択を突きつけられる。頷けば少なくとも命の保証はされる。男としての尊厳は失われるが、痛い思いをするよりかはましだろう。俺が出すべき答えは一つだ。

「勃たないやつ相手に媚を売れるほど俺は器用じゃない」

 死に様を飾るべく、口角をここぞとばかりに吊り上げる。
 膨れ上がる恐怖はとうに許容量を超えてしまった。生への執着を捨ててしまえば、後は女を許容するか否かの問題でしかない。俺の矜恃は、惨たらしく殺されることを誇りとみなした。

「そう、じゃあ死んでもらうね」

 躊躇いもなく女の腕が振りかざされる。来たるべき死に備え、瞼を閉じた。待つ。待つ。いつまで待っても、その瞬間は訪れない。刃先の代わりに降ってきたのは、鉄くさい臭いと、どこからか垂れた水滴だった。
 急に腰が軽くなる。圧迫感が失せると同時に、すぐ近くで呻き声が上がった。

「……っとに、君って人は後先考えないで行動するねえ!」

 記憶よりも棘の有る声音にはっとし、上体を起こす。右手で女を押さえつけ、左腕から血を滴らせている闖入者は、ここ数日ですっかり見慣れた形をしていた。
 うつ伏せにされた女はしきりに暴れていたが、拘束を経た後は怨嗟を吐くだけの肉塊と化した。円い輪で両手首をまとめる道具は、これまたドラマの中でのみ目にしていた代物である。

「長船、お前」

 あまりの急展開に舌が上手く回らない。結論が導き出されるのに時間は掛からなかったが、認めるにはそれなりの葛藤を要した。

「あーごめんね長谷部くん。説明したいのは山々だけど、先に連絡つけなきゃいけないからさ。電話、代わりにしてくれないかな」
 凶器を引き抜いた肌からは今も血が流れ続けている。激痛に柳眉をひそめながら、それでも平然を装うとする態度が余計に痛々しい。要望などそっくり無視し、患部にハンカチを宛がった。所詮は気休めだ、さっさと治療を受けなければ一生ものの傷になりかねない。

「先に救急車呼ぶからな」
「はは、ありがとう。……すぐに駆けつけてあげられなくて、ごめんね」
「謝るポイントが違う。色々と思わせぶりなことしやがって、全身ホスト」
「冗談。仕事とはいえ好きな子以外を甘やかしたくはないね」
「……じゃあ本当の職業、教えろ」

 初日にさりげなく躱された質問をもう一度する。身を挺して俺の窮地を救った男は、警視庁捜査第一課所属の長船光忠と名乗った。

 

+++

 

××月▲●日

S町の路地裏で起きた殺人事件について

□容疑者:◆◆K子(33) 職業:清掃会社勤務
□◆◆氏は事件の第一発見者であり、通報も本人が行っている。なお、その際に証言した個人情報に虚偽の申告は見当たらなかった。
□派遣先であるO社の駐車場にて、同社所属の男性に暴行を働いていたところを現行犯逮捕した(この男性H氏は本件の重要参考人である。詳細は後述)
□押収した包丁には被害者の血痕が付着しており、◆◆氏も自身の犯行を認めている。
□事件当夜、◆◆氏はH氏に連れ添う被害者を尾行し、現場から数㎞離れた隣町で強襲、気絶させた。その後、自家用車で二人を犯行現場まで運び、一連の偽装工作を行ったと供述している。
□被害者を刺殺した◆◆氏は、遺体を一時車内に隠し、自ら被害者になりすます形でH氏に現場を目撃させた。これに先だってH氏は薬品を経口摂取させられており、判断能力に問題が有ったと思われる。混乱したH氏は現場を去り、このとき証拠品【⑥】を落としている。

※証拠品【⑥携帯電話】について補足
・◆◆氏はH氏に罪を着せる目的で、携帯の遺失を誘導していた。
・発見当初に疑問視されていた免許証は◆◆氏が後から付け加えたものである。

□犯行動機について、◆◆氏はH氏への性的執着を告白している。H氏とは挨拶を交わす程度の仲で、恋人等の親しい関係ではなかった模様。現場への工作の理由として、冤罪に苦しむH氏の姿が見たかったと◆◆氏は説明しており、この点の心理的分析は専門家の意見が待たれる。

 

+++

 

 酷使した右手を休めるべくタイピングを止める。やはり片腕が使えないというのは不便極まりない。
 大仰に巻かれた包帯と三角巾の下には、お医者様曰く全治三週間の怪我が隠れている。骨や神経を傷つけなかったのは不幸中の幸いだった。お陰で施術から間もなくして職場に顔を出し、こうして報告書の記述に勤しんでいる。鶴さんのデスクが花や見舞いの品で埋もれている以外は何の問題も無い。

「後できみの家に郵送しておくからな」
「気持ちは嬉しいけど、元気にしてるから心配しないでくれって断っておいてほしいなあ」
「そんな定型文寄越してもフラグは折れないぞ。ハッキリ本命ができたと触れ回っておかないとな!」

 上司の俗っぽい揶揄を受けて一瞬鼻白む。反論が躊躇われるのは、今回の件で自分がどれだけ無理を言ったか重々承知しているからだ。鶴さんには本当に頭が上がらない。だからといって、長谷部くんとの仲を茶化されるのは勘弁願いたいところである。
 監視と護衛を兼ねていたとはいえ、彼の意に染まない行動を強いたのは否定のしようがない。
 自らの職を明かすことで殺人の汚名は雪いだものの、長谷部くんの僕に対する評価は依然として地を這っているだろう。少なくとも鶴さんが考えているような艶っぽい関係にはなり得ない。ただ彼には色々と辛い思いをさせた。改めて謝罪をしたいところだが、丁重にお断りされる未来はほぼ確定している。
 駄目で元々とスマホのロックを解除した。天気予報やニュースの見出しに紛れて、SNSの通知が来ている。初期設定そのままの無機質なアイコンを訝しんだのは一瞬のこと、表示された名前を見るなり猜疑心など吹っ飛んでしまった。

 時刻は午前七時。一通り事務作業をこなし、引き継ぎも終えた僕はこれから二週間ほど休暇を取る手筈になっている。
 普段の公務くらいなら片腕でも可能なのだが、出勤した途端に帰って休めコールを浴びせられては致し方ない。そうして本日の業務は休暇届の項目を埋めるところから始まった。
 一課の多忙さを思うと気の進まない休暇だが、今では周囲の声に感謝している。何しろ片腕のみでは掃除にどれだけ時間が掛かるか判らない。普段から片付けてはいるものの、来る相手が相手だ。メンテナンスには十分な気合いを入れておきたいところである。久々に定時に上がれる口実を得て、僕は意気揚々帰宅した。
 ソファに置いていた携帯が鳴る。約束した時間ちょうどに連絡してくる几帳面さがいかにも彼らしい。全体をさっと見渡し、軽く頷く。待ち人を中へと招き入れながら、僕は戦に臨む戦国武将のような覚悟を決めていた。

 数日ぶりに長谷部くんが居間のソファに座っている。血色は多少改善されたようだが、事件が解決した割にその表情ははかばかしくない。あれこれ理由を考えてはみたものの、生憎どれも推論の域を出なかった。……正直、僕に原因があるような気がしてならないが。
 二人分の紅茶と来賓用のお菓子を並べ、テーブル越しに相対する。
 意外にも「話がしたい」と切っ掛けをくれたのは長谷部くんの方だった。快諾こそしたけれども、その内容が明るいものだとは微塵も思っていない。開口一番に罵られる覚悟はできている。カップを傾けた彼が審判を下すのを、内心今か今かと待ち構えた。

「……急に押しかけて、すまなかったな」
「まさか。長谷部くんならいつでも歓迎だよ」
「お前のそれは素なのか?」
「素って何がだい?」
「いや、いい。話というのは、例の事件のことだ」
 来た。丹田に力を入れて、続くだろう言葉に備える。

「何も知らなかったとはいえ、勝手に誤解して、酷いことを言ってしまった。謝って許されることではないが、本当にすまない」

 カップをソーサーに戻し、長谷部くんが深々と頭を垂れる。思いがけない展開に唖然したのは言うまでもない。暫し無言の間が続き、数秒経ってようやく僕は我に返った。

「いやいや、顔を上げてくれよ長谷部くん。あれは僕が思わせぶりな態度を取っていたのが悪いのであって、君が気に病む必要は全く無いんだからね?」
「責任の有無は関係ない。俺が、恩人に罵声を浴びせた事実を詫びたくて、こうしているんだ」
「じゃあその恩人とやらの頼みも聞いてくれないかい。僕の方も、君の目を見て言いたいところが山ほど有るんだよ」
 切々と口説いて、何とか長谷部くんに頭を上げてもらう。色彩の薄い、透き通るような二つ目がやっと僕の姿を芯から捉えた。

「謝りたいのは僕の方だ。保護を理由に自分の勝手を押しつけ、君の尊厳を踏みにじった。要らぬ不信感を与えて、あんな目に遭わせたのは僕のせいと言っても間違いじゃない。ちゃんと守ってあげられなくて、本当にごめん」
 今度は僕が頭を下げる番だった。固定している左腕が邪魔で、せいぜい背を丸めるくらいしかできないのが口惜しい。この失態は土下座したって足らないところだろう。

「俺に謝るなと言っておいてお前が謝るのか」
「そりゃあそうだろう。下手したら君は死んでいたかもしれないのに」
「でも、お前が助けてくれたじゃないか」
「間一髪だったけどね。ああもう、駐車場であの女に乗り上げられる姿見たときは生きた心地がしなかったよ」

 つい先日の救出劇を思い返すと今でも血の気が引く。長谷部くんを救うためなら、腕の一本や二本など安い代償だ。この左腕は彼を守れた勲章であり、己の未熟さの証明でもあった。もっとスマートな方法が有ったはずなのに、長谷部くんが関わると冷静でいられない。こんな格好のつかない姿を、よりにもよって好きな子の前で晒すことになろうとは長船光忠、一生の汚点である。

「ちなみにそれは、警察官としての所感か?」
「半分当たりで、半分間違いってところかな……」
「……その、どこがどう違うのか詳しく聞かせてもらいたいんだが」

 おずおずと、妙にしおらしくなった長谷部くんが追い打ちをかけてくる。可愛いの一言だが、その唇が紡ぐ要求は僕にとって残酷極まりない内容だった。進むも地獄、退くも地獄とはまさにこのことだろう。さりとて拒むわけにもいかず、もうなるようになれと投げ出すように腹を括った。

「誰かに危害を加えられそうになってる人を救うのは、確かに警察の仕事だよ。でも僕は特別、君には傷ついてほしくない。刑事でも何でもない、僕個人が長谷部国重にだけ抱えている感傷だ」

 我ながらなんと締まらない告白だろうか。剥き出しの感情を舌に載せて、思春期の学生みたいな青臭い台詞を吐く。二十八年かけて培ってきた交渉術など全く活かせていない。
 もはや笑ってくれたら御の字だ、と長谷部くんの様子を窺う。目を忙しなく瞬かせる彼の面輪は、耳の付け根まで真っ赤に染まっていた。

「え、あ、あのだな長船」
「はい」
「勘違いだったら笑ってくれて構わないんだが、ひょっとして、もしかすると、お前、俺のこと好きだったりするのか?」

 言葉の暴力とは凄まじい。後頭部を鈍器で殴られたよう、という表現もかくやという衝撃を受けた。この長谷部さんちの国重くんは一体何を仰ってるのだろうか。

「いや、僕始めから言ってたよね。何回も何回もしつこいくらい口説いてたよね?」
「だってお前なんか軽そうだし、会ったばかりだし、男同士だし、職業を知ったらなおさら仕事上の方便だって思うだろ」
「いくら仕事だからって、好きでも何でもない相手をお持ち帰りしたり、あまつさえベッドまで共にするわけないだろ!」
「器用な下半身をお持ちだと思っていた」
「要らない。そんな身体の一部分に対する妙な信頼は要らない。普通に僕の純然たる好意だけを信じてほしい」

 忽ち全身から力が抜けていく。こっぴどく振られるか、罵声が飛ぶことを覚悟していたというのに、まずこちらの気持ちすら伝わってなかったなんて滑稽にも程が有るだろう。

「そうか。うん、演技じゃなかったなら、いいんだ」
 項垂れる僕の耳を穏やかな声音が擽る。長谷部くんの頬はまだ紅潮としていて、薄い唇はいつぞやの夜を彷彿させる艶を帯びていた。

「……それで、僕が本気だって知った長谷部くんはどうするのかな?」
 立ち上がり、対面のソファに腰を下ろす。左隣に見える肩がびくりと跳ねた。身体を傾げて前のめりになれば、もう距離はいくばくもない。

「どう、するって」
「僕の気持ちに応えてくれる? それとも、やっぱり無理だって突っぱねるかい?」
 膝の上に行儀良く収まっていた長谷部くんの手を取る。撥ね除けられない。調子に乗って指の付け根に唇を落とした。わざとらしくリップ音を立て、何度も何度も皮膚を吸い上げる。

「ねえ、長谷部くん」
 舌を突き出し、手の窪みに埋め、筋に沿って動かす。長谷部くんはのけぞるようにソファに背を預けているが、未だ抵抗する意志を見せない。体格差は有れど、片腕しか使えない僕を押しのけることくらい容易なはずだ。
 もしかして、許されているのだろうか。長谷部くんが何も言わないばかりに、ついつい己に都合の良い考えばかり浮かんでしまう。

「嫌なら嫌って言ってくれないと、わからないよ」
 散々に嬲った長谷部くんの手を解放する。代わりに僕の指先は、固く結ばれた唇の輪郭をなぞっていた。

「俺だって、わからない」
 眉を八の字にして、長谷部くんが困惑を口にする。

「長船に触れられるのは、嫌じゃない。でも、お前が本気だって知ったのがついさっきだから、何というか、色々追っつかないんだ。心臓がやたらめったらうるさいのも、いわゆる吊り橋効果ってやつかもしれないし」
「そういうリアルな話持ち出されると否定しづらいんだけど。でも、そうだね。長谷部くんとしてはもう少し、ゆっくり考える時間が欲しいよね」
「踏ん切りがつかなくて、すまない」
「大丈夫だから気にしないで。僕とのこと、真剣に考えてくれるってだけで嬉しいよ」
 口元を愛でていた手を煤色の髪に絡ませ、掌をまろい頭の形に馴染ませる。柔らかな直毛を梳くうちに、長谷部くんの表情から少しずつ険しさが解けていった。

「長谷部くんに好きになってもらうために、これからも毎日口説くからよろしくね」
「ふん、そう簡単に落とせると思ったら大間違いだからな」
「ところで現段階ではどこまでセーフ? キスまでなら良い?」
「めちゃくちゃがっついてきた。いやキスはアウトだろ、どう考えても」
「じゃあ親愛のキスってことで、おでこや頬にならオーケー?」
「ん、んん? ま、まあそれくらいなら」
「チョロいな長谷部くん」

 やっぱり長谷部くんには警戒心が足らない。己の魅力を全く理解していない彼を懸念しつつも、僕は許された白い額に早速影を落とした。