段ボール本丸 / 三

 

 

「お前らふたりで遠征してもらいたい時代が有るんだよなあ」
 朝食を終えた後、僕と長谷部くんは主の部屋に呼び出されていた。

 僕は第一部隊の隊長を、長谷部くんは近侍を任されている。この組み合わせで呼び出しとなれば内容も出陣に関わることだろう。そう予想してはいたが、指定された編成があまりに突飛なものだったから、思わず「は?」と間の抜けた声を上げてしまった。

「お言葉ですが主、他にも練度の高い刀が居る中で、俺たち二振りを選んだのには何か理由が有るのでしょうか」
「そうだよ。第一部隊の隊長と近侍、ふたり揃って本丸を留守にするのはまずいんじゃないかい?」

 長谷部くんと僕とが交互に疑問をぶつける。質問攻めに遭う主は、従者の懸念など何処吹く風とばかりに悠々タブレットを操作していた。
 段ボール故に手足を持たぬ主だったが、あれで電子機器の扱いには苦労した試しが無い。政府支給の製品は大抵霊力感応式だから助かった、とは本人の談だ。
 なお、その高等技術は段ボール目当ての通販に使われている。いい加減、注文が確定するたび「デリヘル呼んだ」と表現するのを止めさせたい。

「まあ、面倒だから説明は省くけど長谷部と燭台切じゃなきゃ駄目なんよ。はい、行ってもらう時代と場所」
 面倒の一言で回答を投げ出されてしまった。いやそれで納得するわけないだろう。僕らが抜けた穴の調整をするのも部隊長と近侍のお仕事に入ってるんですよ?

 主の粗雑な対応に不満げな僕と違い、長谷部くんは素直に差し出されたタブレットを覗き込んでいる。文句は内容を確認してからにしろ。背中がそう語っているような気がしたので、僕も大人しく画面を確認した。

 平成十一年、十二月二十四日、××県××市中。
 表示された文字列を目で追い、考える。

 この日時に、歴史が大きく変動するような事件が起きただろうか。僕の導き出した答えは当然ノーである。平成の世は情勢も安定していて、自立支援や見回りを強化する必要が有るとも思えない。
 遠征の目的がますます以て解らなくなり、僕は再び怪訝な顔を主に向けた。

「この時代に特に何か有るようには思えないなあ」
「うんうん、言うと思った。でも俺は口を割らない。割る口もついてないけど」
「段ボールジョークはいいから目的を教えてくれないかな。遡行軍が狙うかどうかも怪しい時代に、僕らをわざわざ派遣する意味は有るのかい?」
「有るよ」

 また誤魔化されると踏んでいた僕は耳を疑った。主が返した声様は実に明瞭だ。伊達や酔狂で遠征を企図したわけではないらしい。
 認識を改めた僕は、隣に座る友人にならって背筋を伸ばした。

「この時代に歴史修正主義者は必ず現れる。それだけは保証する」
「政府からの下知ですか」
「多分お役人様は把握してねえだろうさ。でも、うちとしては行かないとまずいわけ。ついでに言うなら、お前らでないと駄目。人数も固定。詳しくは企業秘密なので話せません」

 有無を言わせぬ口調に、僕も長谷部くんも黙り込む。
 出陣を拒否するという選択肢は失せた。主は冗談こそ言うが、男士たちを欺くような真似はしない。彼が執拗に推す以上、この遠征は不可避の事態なのだろう。

「ご指名、謹んで拝命いたします」
 頭を垂れた長谷部くんが了承の意を示す。僕も一言判ったよ、と告げて上体を屈した。こうなれば破れかぶれである。もう僕らにできるのは、実際に現場に赴き、主の意向を確かめることだけだった。

「それはいわゆるデートというやつじゃないか」
 事情を把握した鶴さんの第一声がこれだった。僕も伽羅ちゃんも揃って白い刀に胡乱な眼差しを向ける。二対一の劣勢の中、鶴さんの人差し指はさも自信ありげに天を向いていた。メンタル玉鋼か。

「大の男ふたりの遠征で、デートも何も有ったもんじゃないよ」
 至極全うな僕の突っ込みに伽羅ちゃんも深く頷く。孤高上等な友人は最近になって随分ノリが良くなった。
「そりゃ連れ添いが俺や伽羅坊ならそうかもしれんが、相手は長谷部なんだろう? お膳立てされたようなもんじゃないか。どうだ、今晩の米は赤飯にしないか」
「いや相手が長谷部くんだから何なんだい。友人だし同僚だよ」

 この際同性であることは目を瞑ろう。僕らが男児の姿を取っているのも顕現した際の都合だろうし、元来刀に性別なんて区分は存在しない。打たれた時代が時代なのもあって男色にもさほど抵抗は無かった。
だからと言って、色小姓を勤めるのに長谷部くんでは少々体格が良すぎる。彼より長身で筋肉のついた僕なんか尚更じゃないか。

 まあ、確かに長谷部くんは顔も肌も綺麗だし? 以前にも肉の器を得ていたら、そちらの世話も要求されていた可能性は高いけど? 有りか無しかで言うなら有りな気もするけど? 違うからね僕らの間に有るのは友情オンリーだからね、そこに性欲は微塵も含まれてないからね。

「有りか無しかで言えば有りという顔をしているお前さんに、ほい」
 人の心を読んだような年長者が僕の顔面にタブレットを突きつける。少し距離を置いてピントを合わせると、検索結果らしき画面が表示されていると判った。「男同士 セックス やり方」の語句だけ網掛けになっている。迷わず鶴さんの手からタブレットを叩き落とした。

「必要だろ」
「今冬一番要らない情報だったよ! 段階も飛ばし過ぎだろう!」
「光坊には相思相愛と知った瞬間、相手を閨に連れ込むようなワイルドさが有ると信じている」
「ええ、僕のポテンシャルに期待しすぎじゃない……? どこでそんな信頼感を培っちゃったんだ……」

 我が身を省みかけたが、鶴さんのことだからきっと面白い方向へ誘導しているだけだろう。本当にこの刀は油断ならない。さっきのタブレットもよく見たら僕のだったし。

「燭台切、ちょっといいか」
 拾ったばかりのタブレットが再度畳に沈んだ。鶴さん、伽羅ちゃんの集中する視線が痛い。
「あ、ああ長谷部くんか。どうぞ」

 姿勢を正して障子が開かれるのを待つ。先のやり取りのせいか、入って来た彼を直視することはできなかった。胸がもやもやして、訳も判らず後ろめたい気持ちになる。
「団欒の最中、申し訳ないな」
「そう遠慮するなよ長谷部、俺たちの仲じゃないか」
 膝頭を叩く鶴さんに歓迎され、長谷部くんが僕の正面に腰を据える。伽羅ちゃんは何も言わず菓子鉢を彼の方へと押しやった。慌てて僕も常備していたポットに手を伸ばす。普段であれば意識せずとも行っている流れに出遅れたのが悔しいし、情けない。

「遠征の件なんだが、当世に合う服装が要るとの話でな」
 番茶を一口呷った長谷部くんが話を切り出す。この頃には僕もだいぶ平常心を取り戻していた。

「ああ、平成だと着物姿じゃ少し目立っちゃうよね。つまり買い出しに」
「持っているのが内番服しか無いんだが、上に外套を羽織れば行けるだろうか」
「買い出しに行こうね」

 部活帰りの高校生みたいな格好で隣を歩かれるのは辛い。というか確実に悪目立ちする。何故あのジャージで行けると踏んだんだ長谷部くん、せめてウィンドブレーカーにしてくれ長谷部くん。

 想定外の出費に長谷部くんは目くじらを立てたが、こちらも主命の二字を使って延々説き伏せた。言わずもがな必死である。最終的には、遠征を無事遂行するためなら、と長谷部くんも渋々ながら了承してくれた。こうなれば善は急げだ。彼が忘れぬうちに午後一で街に出る約束をも取りつける。これでジャージ二刀流の悲劇は免れた。

 長谷部くんを見送った後、僕は持っていた雑誌をいくつも広げ頭を悩ませた。
 さて彼にはどんな服が似合うだろうか。勿論目立たないことが主だから派手に着飾らせるわけにはいかない。さりとて、あれだけの素材ともなれば当然選択肢も色々と浮かんでくる。考える楽しみとでも言おうか、脳内で長谷部くんを着せ替えては、ああでもないこうでもないと熟考を重ねるのが止められなかった。

「楽しそうだな、光忠」
「まあね。あっ、ちゃんと伽羅ちゃんたちにもお土産買ってくるから心配しなくていいよ」
「そんな心配はしていない」

 珍しく伽羅ちゃんから話しかけてきてくれたので余計に機嫌も良くなる。
 始めは留守中の部隊編成や主の不審な態度を思い、どうにも気の進まない遠征だった。しかし、よくよく考えれば長谷部くんと一緒に出陣するのは本当に久しぶりなのである。第一部隊を任されるようになってからは、出陣もほとんど近侍の彼と入れ替わりだった。

 本丸では確かに話す方だけれども、僕はやはり戦う長谷部くんが見てみたいし、彼に背中を預けられたいとも思う。顕現して間もない頃に目にした、ストラを翻し踊るように敵を斬る彼の姿はとても忘れられるものではない。へし切長谷部が美しい刀であるという印象は、今も昔も僕の中で変わっていなかった。

「楽しいなら、それで良いんじゃないか」
「何が?」
「鶴丸の言葉を意識するかどうかはともかく、お前が長谷部と共にいて楽しいと思えるなら、それで十分だろう」

 褐色の友人は、言い終えたとばかりに胸中の猫へと視線を戻す。僕は暫し呆然となりながら、伽羅ちゃんが肉球をノックする様を見つめていた。やや有って自分が励まされていたことにようやく気付く。

「ああ、そうだね伽羅ちゃん」

 長谷部くんが本当に単なる友人なのかは、自分でもよく判らない。
 今はただ、遠征を心待ちにする気持ちを大切にしていきたいと、そう思った。

 

■■■

 

 地平線の付近だけ赤みを残し、冬の空はその大部分を紺青に染めていった。
 煉瓦道を行き交う人々は吐息を漏らし、極彩色の電飾輝く街並みを足早に通り過ぎて行く。彼らの多くは、もみの木や赤い服を着た老人で飾り付けられた店のウィンドウになど見向きもしない。それでも僕の目からは、誰も彼もが今日という日に浮き足立っているように感じられた。こうしたイベント事に慣れていない己ですらそう思うのだから、緑と赤のツートンカラーの威力は絶大である。

 クリスマスムードで賑わう繁華街は地方都市といえども華の有る光景だった。土曜日を明日に控え、終業後の家族サービスに勤しむサラリーマンの姿も少なくない。それ以上に多いのは、まあ仲睦まじそうに歩く男女二人組なのだけれども。

「俺たちなんか浮いてないか」
 長谷部くんが不安を隠せない様子で呟く。電話ボックスを背にふたりして周囲を観察しているのだが、その間も絶えず湿った視線を浴びせられて彼は辟易としていた。

 クリスマスイブという時期のせいで男二人の組み合わせが物珍しく見えるのは解る。だが僕らに着目する人の大半は女性だった。まあ仕方ないよね、と横目に友人の姿を見遣る。

 グレーのダブルPコートに黒のスキニーパンツ、インナーはネイビーのニットセーターとブルーのシャツを選んで、全体的に地味な仕上がりを目指した。アウターを彼の髪色に近いキャメルにして白のボトムスと合わせる案も考えたが、目立たないことを第一に泣く泣く没にしたのである。結論としては、何を着せようが元が良いので、どうあがいても目立つ。

 これなら欲望の赴くまま好き勝手弄り回せば良かった。後悔先に立たずとはこのことである。黒のチェスターコートにモノトーンのリブ編みニット、白いマフラーを着込んだ僕と長谷部くんを並べてみると全体的に色合いが重い。それが多少なりとも視線避けに貢献するのを期待したが、現状その恩恵を感じることはできなかった。

「注目浴びてる理由はねえ、長谷部くんが格好良いからだよ」
「いや燭台切の方が背は高いし見目も良いだろ。原因はきっとお前だ、お前。この伊達男め」

 長谷部くんがうりうりと肘先を押しつけてくる。抗議のつもりか何か知らないが、自覚が無いというのも考え物である。そして相も変わらず率直な褒め言葉が心臓に悪い。連鎖反応的に鶴さんの発言も思い出して余計に顔が熱くなった。

「おい、何か顔色悪くないか。調子悪いなら適当な店に入って休憩しよう」
「お気遣いありがとう……」

 デートじゃない。決してデートではないけれども、仮にそういう状況だとしたら今の僕は長谷部くんにエスコートされている立場じゃないか? いやいや、そんなの格好良くない。せめて店内に入ってからは僕がリードしなくては。デートじゃないけど。

 大通りから一本外れた道に入り、居酒屋と洋食店とに挟まれた喫茶店に目を付ける。狙った通り、両隣の飲み会や家族連れの喧噪から外れた店内は静かなものだった。
 黒エプロンの女性に案内されるまま、ふたりして角の席に陣取る。照明は全体的に抑えられ、インテリアにも過度な装飾は見当たらない。色調もブラウンで統一されている中、白い鉢に植わった観葉植物が所々に置かれていて、これがまた良いアクセントになっていた。
 こうしたシックで洗練された佇まいは長谷部くんのお気に召したらしい。彼は見るからに上機嫌な様子で、端に有るメニューを手に取った。

「食欲は有るか? 腹が減っては戦はできんと言うぞ」
そう僕を気遣う長谷部くんの目線だが、ページのあちらこちらを行ったり来たりで大変忙しない。とりわけ、ビーフライスにドリア、デザートのアイスの写真を見つめる瞳には熱が籠もっている。よし、僕もそれなりに食べることを覚悟した方が良いな。

 長谷部くんはパスタをフォークに巻きつつ、初めてのウィンナーコーヒーに舌鼓を打っていた。ナポリタンは僕が注文したもので、長谷部くんにはそれを少し分ける形で楽しんで貰っている。結局ビーフライスとドリア、ついでに前菜のサラダも並んでいるのだから、それが妥当な判断だろう。これに後々デザートも付くらしい。痩せの大食いとはよく言ったものだ。

「長谷部くんはよく食べるねえ」
「美味いものを口にして食が進むのは当然だ。現にお前が厨当番のときだって、俺は毎度おかわりを欠かさないだろう」
「僕の料理そんなに美味しい?」
「歌仙の煮物みたいな例外も有るには有るが、うちの連中じゃ燭台切の味付けが一番俺好みだな」

 へえ、ふうん、そうなんだあ。

 ブレンドコーヒーを一気に咥内へと流し込む。砂糖もミルクも未使用の苦みが脳を刺激し、緩みそうな己の表情筋を多少なりとも戒めてくれた。
 落ち着け。長谷部くんが好きなのはあくまでも僕の料理だ。いや、料理を褒められるのは凄く嬉しいし、厨に立つ刀が増えた今でも彼の一番というのも名誉なことなんだけれども。
 何かが喉の辺りまで迫り上がって来ているのに言葉が出ない。おそらく、ありがとうの一言では足りないような気がする。

 どうして自分がこんなに動揺しているかも理解できないうちに、長谷部くんはメイン二食を平らげていた。後はアイスが届くのを待つばかりである。
 帰還したら彼の好きなお八つでも作ってみようか。いや、それではいつもと変わらない。この胸中に渦巻く感情はきっと特別なもので、それを伝えるにも特別な何かが必要なのだろう。もっとも、その何かが判れば苦労はしない。

「しかし何も起きないな」
 そう言って長谷部くんは水の入ったグラスを口元へ持って行く。コーヒーが値段の割に量の少ないのはどこの飲食店でも同じらしい。

「今日はもう出ないとしたら戻った方が良いね」
 政府指定の戦場ではないため、今回の出陣には手当が出ない。強いてビジネスホテルを探すよりは、一度帰還して宿泊費を浮かせた方が経済的だろう。あと長谷部くんとふたりきりで外泊するのは今の精神衛生上あまり宜しくない。

「その場合は土産を買ってこないと短刀たちがうるさそうだな」
「あはは、食べ終わったら駅前まで足を伸ばそうか。僕も伽羅ちゃんにお土産買ってくるって約束しちゃったしね」

 自分で提案しながら気付く。贈る物は別に食べ物に限られているわけではない。幸いこの時代の店は夜遅くまで営業しているものが多く、扱うジャンルも種々多様で選択肢に困ることは無い。
 本丸に戻れば互いに忙しい身だし、こんなチャンスは二度と訪れないだろう。そうと決まれば是が非でも繁華街へ戻らねばならなかった。

 決意を新たに会計を済ませ、店を出たときのことだった。
 夜気すら切り裂くような爆音、それに一拍子遅れる形で女性と思わしき悲鳴が耳を劈く。喫茶店の駐車場から道路を挟み、右手の方角に黒煙が立ち上っているのが見えた。火の手が夜の帳を切り裂き、その一帯だけを不自然に明るくしている。
 摩耗した記憶の片隅で幻の炎が身を焼く。無様にも僕の足は竦んでしまって、長谷部くんに呼ばれるまで微動だにできなかった。

「燭台切。あそこに居る。遡行軍の気配だ……!」

 走り出した長谷部くんの後を急ぎ追う。彼は大通りに続く狭い路地を見つけ、素早くその間に身を躍らせた。
 散らばったガラスの破片の感触が靴越しに伝わる。どこから飛んできたものかは煙で視界が塞がれていて判らない。
 夜目が利く分、僕よりは自由に動けるのか、長谷部くんは迷わず勝手口らしき場所に辿り着いた。ドアを開けようとしているようだが、上手く行っていない。僕も施錠音を頼りにその場へ赴く。そして彼が離れた気配を察するや、力任せに鉄扉を蹴り破った。

 火事の現場になっていたのは大衆向けの料理店だったらしい。幸いにも厨房から離れていた勝手口付近は、煙を吐き出すだけで火の影は見当たらなかった。

「燭台切、お前はここに留まって民間人の誘導を頼む」
「なに言ってるんだい、行くよ。この惨状だ、さっきみたいに力の必要な場面も出てくるだろう」
「だがお前は」
「生憎、燃えたときのことは殆ど覚えてなくてね。焼失の恐怖に怯えるなんて可愛い真似できそうにないんだよ」

 惑う長谷部くんを置き去りに、単身奥へと足を踏み入れる。
 冗談ではない。国宝へし切長谷部は一度も燃えたことの無い刀だ。彼の美しい刀身が炎で焼け爛れるなど有ってはならない。

「ひとりで勝手に先行くな!」
 当然彼も退かない。その勇敢さが今だけは忌まわしく思えた。

「主は俺たち二振りでなければ駄目だと仰った。その言葉を忘れるなよ、燭台切」
「君はこういうときでも主、主なんだね」
「なら言い直そうか? 俺は、お前に二度も灼かれてほしくない」
 背を強く叩かれる。よろめきそうになったところで、彼の手が僕の手を取った。

 ――これなら見失うことは無い。助かりたければ、お前は俺を助けろ。俺も、必ずお前を助ける。

 大通りに集う野次馬、動転する店内、阿鼻叫喚が四方八方から轟く中でも、彼の声を聞き逃すことは無かった。
 本当にへし切長谷部は、僕の一番の友人は、どこまでも美しい。
 手袋二枚を隔てて、彼の温もりを握りしめる。身体の震えは、いつの間にか止んでいた。

 一言で表すならそこは地獄であった。散乱する食器類、昏倒する人影、絨毯や壁紙に燃え移ってホール全体を舐め上げる火焔。限界を超えて稼働するスプリンクラーの水も、熱を持った橙色に中てられ、さながら血流のごとく降り注いでいる。

 スタッフは声を張り上げ、客を外に逃がそうと躍起になっていた。僕たちは混乱に呑まれて床に伏せていた人たちを起こし、歩けそうになければ入り口近くまで連れて行った。
 熱気は徐々に膨れ上がる。煙の勢いも止まらず、一方のみを露出させた目に染みて鈍い痛みを走らせた。いくら並の人間より丈夫とはいえ、長居できる場所ではない。早く遡行軍の位置を探らなければならないが、僕も長谷部くんも、あの粘つくような殺気を未だ察知できずにいた。
 矮躯の短刀ですら戦場においては明らかに異彩を放っている。いくら視界が不自由で、現場が混沌としていたとしても、僕らがあれを見逃すはずが無い。

 入り口の方から怒号が飛ぶ。危ないから戻ってこい、と僕らの蛮勇を窘める声だった。その指摘通り、僕らを取り巻く火の壁は天井にまで到達している。奥に進めば進むほど、赤々とした津波は容赦無くかりそめの身体に迫った。脂汗が顎先に集っては落ちる。それらを拭う余裕は、無い。

 最奥にまで足を進めたところで、僕らは互いに足を止めた。爆風を受けて崩壊した壁、瓦礫の下敷きとなった妙齢の男女、その力なく垂れ下がった腕を、引っ張る少年の姿が有る。
 僕らが息を呑んだのはその痛ましい光景故ではない。指先から赤い雫を垂らす手を、必死に掴む彼こそが、探し求めていた人物であると直感的に知ったためだった。

「とうさん、かあさん」

 幼い歴史修正主義者は涙まじりに両親を呼んだ。努力の甲斐有ってか、男性の身体が少しずつ拘束から抜け出ているようにも見受けられる。その変化で生じた僅かな隙間を、積み上げられ山となった破片が埋めようとしていた。
 崩落まで幾ばくも無い。あの位置では確実に少年も巻き込まれる。その寸秒足らずの間を見抜いた長谷部くんが地を蹴った。喚く少年の手から腕を引き剥がし、今度は後方に大きく跳躍する。

 その後はもう雪崩のようだった。着地を度外視した長谷部くんを少年もろとも受け止めれば、彼らが寸前まで居た場所はもうコンクリート片で埋まっている。

「はなせ、とうさん! かあさんが!」

 藻掻く少年を抱え、僕らは火の海に背を向けた。腕の中で何度も何度も絶叫が上がる。
 僕たちが駆けつけた時点で彼の両親に息は無かった。もう、ここに生者は居ない。

 侵入した勝手口から屋外に抜けると、背後から二度目の爆発音が響いた。間一髪の脱出だったことを知り、流石に肝が冷える。
 無我夢中で気付かなかったが、消防隊と救急車はとうの昔に到着していたようだ。表の方から人の慌ただしく動く気配がする。収容されて根掘り葉掘り聞かれる前にお暇した方が良いだろう。

「お前も病院に行ったらどうだ」
 長谷部くんは俯いたままの少年に声を掛けた。彼は顔を上げない。小さい肩に置かれた僕の両手からも身動ぎ一つ伝わってこない。先頃あれほど暴れていた少年とは到底思えないほど、静かだった。

「君が変えたかったのは、ご両親のことかい」
 訊くまでもない。答えの判りきっている質問を、僕は敢えて投げかけた。

「今日はクリスマスイブだ。そんな日に三人で外食するなんて、さぞ仲の良い家族だったんだろうね」
 それこそ過去を変えたいと思うほどには、両親のことが大切だったのだろう。過去の改竄を可能と知った少年が、それを魅力と思うのも無理もない話だった。大の大人だってその手の誘惑には抗いがたい。

「でも、あのまま店の中に居たら君は焼け死んでいた。次は上手く行くなんて考えない方が良い。ご両親がああなっていたということは、仮にやり直したとしても今回の事態は避けられなかったんだろう。それでも諦めずに再び今日という日に飛ぼうとするなら、君は本当に死んでしまうよ」

 肩に置いていた右手を伸ばし、煤で汚れた髪を撫でた。先の火事で焼けてしまったというのも有るが、ごわごわとした感触を見るに些か栄養が足りていない。これまでの境遇が思い遣られた。

「親御さんは君が死ぬことなんて望んでない。きっと今の君にだって他に待ってくれている人が居るだろう。まずは、その人たちを安心させてあげることが先決じゃないかな」
 裏通りの道を一台の車が通り抜けた。ごく僅かな時間だけヘッドライトの光が僕たち三人を照らす。その一瞬で僕が捉えた少年の顔は、ひどく歪んでいた。

「薄っぺらぁ」

 嘲りを多分に含んだ声調が少年の口から零れる。齢二桁に達したかも危うい幼子には、あまりにも不釣り合いな表情だった。
「お手本みたいな説教だね、今時そんなんじゃ子供も騙せないって。現に俺も子供だし? 何つうの? 上っ面だけっていうか、お綺麗な言葉並べ立てただけっていうか、本当に辛い目に遭ったことの無い奴の台詞って感じ」

 少年の口から次々に容赦の無い痛罵が飛び出る。僕を怒らせようとして、意図的に冷笑を向けた長谷部くんとは比較にならないほどの悪意を感じた。目の前の少年は僕たちに一切の親しみを覚えていない。傷つけることを目的とした暴言とは、確かに一定の効果が有るのだろう。少年の髪を撫でていた手はやり場を失って、間の抜けた形に固まっていた。

「俺の帰りを待ってくれるやつなんて父さんと母さん以外に要らない。他に親兄弟無くしたやつがいっぱい居るところに無理矢理押し込められて、はい今日からみんな家族です仲良くしましょうなんて、そう簡単に割り切れない。だってそれまで会ったことないやつらばっかなんだぜ? 兄弟? 姉妹? 知らねえよ、俺はずっと一人っ子だった。もう君はお兄ちゃんなんだから、で赤の他人相手に遠慮させられるのとかわっけわかんねえよ。ああ嫌だ嫌だ気持ち悪い」
「今の貴様の面倒を見てくれているのは、その赤の他人ではないのか」
「そうだよ。頼んだわけでもねえのに勝手に色々やってくれんの。正直迷惑だね」
「実に子供らしい意見で結構だ。己の不幸にかこつけて、周囲に甘えているのがよおく解る」
「だから言っただろ、頼んだわけじゃねえって」

 長谷部くんと少年の間に剣呑な雰囲気が漂う。諍いが激化する前にいっそ少年の口を塞いでしまおうか考えたが、長谷部くんに視線で窘められた。

「そういう台詞は自立してから言うのだな、小童」
「自立よりもっと早くて簡単な方法が有るだろ。あいつらに世話にならず、かつ父さんと母さんにも会える画期的な方法が」

 ここに来て、少年が異様なまでに抵抗した理由に思い至った。傍目にも助からないと判る二親を炎の中で助け出そうとしたのも、つまりはそういうことに違いない。

「助けられないなら、せめて一緒に死にたかった」

 述懐する少年の語気は意外にもか細く、弱々しかった。寧ろ今までの厭世的な態度こそ単に強がっていただけなのだろう。火の粉が遠ざかるほどに彼の叫びは切実さを増していった。離れたくない、死なせてほしい。実際に口にされてみると、不思議なほどすとんと腑に落ちた。

「あいつらが傍に居ると死なせてもらえない。俺のことずっと見張ってるからな。それなら、たとえ過去を変えられなかったとしても、父さんと母さんとずっと一緒に居たかった」

 重たい沈黙が流れる。僕も長谷部くんも、そしてあれほど饒舌だった少年も、誰ひとりとして口を開こうとしない。
 思えば、歴史修正主義者と相対して、その意中を直接聞かされたことなど無かった。別にこの少年が特別なわけではない。肉親や情人を失った者が最悪の結末を避けようと足掻くのは当然だ。いちいち事情を知って同情を深めていては、守るべきものも守れない。

 ただ、知ってしまった以上、その想いを頭ごなしに否定することもできなかった。僕は、この哀れな少年に何と言葉を掛けてやるべきなのだろう。それこそ、指摘された通り薄っぺらな慰めしか浮かばぬ身が口惜しい。

「解るぞ」
 答えを探しあぐねていた僕の耳に、穏やかで哀しげな声色が届く。
 僕と少年は揃って煤色の青年を見上げた。彼の微笑とも苦笑ともつかない、愁いを帯びた表情を、僕は初めて目にした。

「俺も、一緒に逝きたかったんだ」
 誰のことを指しての発言かは解らない。しかし、僕の知らない長谷部くんは、このとき確かに死を想っていた。

「だがな、残された者は生きるべきなんだ」
 手袋を取った長谷部くんは、その白い指先で少年の頬についた汚れを拭った。幸いにも火傷にはなっていなかったようで、灰は多少の名残を除いて少年の肌から素直に剥がれていった。

「生かされた、死ななかったということには意味が有る。そう思わなければ、やっていけないことも有る」

 自分に言い聞かせるような口調だと思った。きっと彼は今も割り切れていない。刀である以上、僕たちは人よりもずっと長い時を生きている。その中で、長谷部くんは刀解を望むほど大切な出会いと別れを経験してきたのだろう。
 その思い出は長谷部くんだけのもので、決して僕と共有できる類のものではなかった。

「だから、またお前が歴史を変えようとするなら、助けられない人たちを助けようとするなら、己が残された意味を問うことなく死を選ぶなら、俺たちは必ずそれを阻止する。何度でも、何度でもだ」

 それだけは覚えておけ。最後にそう告げて、長谷部くんは少年に背を向けた。そのまま一度も振り返ることなく、大通りの喧噪から離れていく。僕も彼に従った。僕はその場を離れる前に少年を顧みて、手袋を外し強ばった髪をまた撫でた。
 別れ際の少年は、ずっと長谷部くんから目を逸らさずにいた。

「おかえり、首尾はどんなもんだった」
 本丸へ帰還後、僕たちはすぐ主の部屋に復命に向かった。彼の傍らには近侍代行を務めていただろう歌仙くんが控えている。労われて席に着いた僕たちは、おそらく傍目にも沈んだ顔をしていたと思う。その理由を、ふたりは言及しなかった。

「接触した歴史修正主義者は一名だけでした。遡行軍が民間人を傷つけたということは、有りません」
「そうか」
 長谷部くんの報告に対する主の反応はいっそ不自然なほどに淡泊だった。
 彼は出陣前に歴史修正主義者が必ず現れると断言している。その予見に誤りは無かった。遠征の目的があの少年であることは間違いない。それにも関わらず、少年の生死に全く拘泥する様子を見せないのはどういうことだろうか。

「主、あの少年のことだけれども」
「ああ、あいつね。死ななかったんなら、もう一回遠征に出てくれ」
「彼はまたあの日に飛ぶのかい」
「さあ? 本人が納得するまでは続けるんじゃねえの」

 膝の上で拳を握る。このとき、僕は明らかに苛立っていた。それが、酷薄な主に対してのものか、幼気な少年の願い一つ叶えてやれない己が使命に向けた怒りなのかは、自分でも判らない。

 遠征の継続を僕らは共に歓迎した。出陣の誉れと喜ぶような心境ではない。長谷部くんは少年に立てた誓いが有ったし、僕は僕で彼を放っておけなかった。
 平成の世から戻るたび、僕たちふたりは皆から大げさに見舞われた。

 戦場で贓物が患部からこぼれ落ちる様は見慣れていたし、床の上で息を引き取る主の姿も知っている。敢えて言えば、僕は震災の一件で本能的に炎を厭うようになっていたらしいが、その感覚すら肉の焼け爛れた匂いに慣れてからは麻痺し始めていた。
 寧ろ、人の命尽きる瞬間より、それを見守ることしかできない無力な横顔の方が、時にはより心を蝕むのだと僕らは学んだ。

 再び同じ日付に飛んだ僕たちは、道路を隔てて店内を眺めやる少年を発見した。視線の先には、父母と同じテーブルを囲み、料理を待ちきれない様子で足をぶらつかせる幼子がいる。雑踏の中で一人佇む彼より年少なのは明らかだった。

「行かないのかい」
 気付けば少年の隣に立って矛盾した問いを投げかけていた。彼は答えなかった。卓上に豪勢な肉料理が並び、それを消費する最中に席を立った過去の自分を見届けるまで、少年はまんじりとも動かなかった。

 やや有って、店内に閃光と轟音が走る。照明が落ちる寸前、子供の帰りを待つ夫婦が一瞬で煙幕に覆われていくのを目にしてしまった。

 救援に走る僕らの背後で、それまで無言を保っていた少年の口が開く。

 ――父さんはずっと仕事で忙しくて、夕飯も母さんと二人きりだった。この日は三人一緒に摂る、久々で最後の食事だった。

 そんな独白がいつまでも耳に残った。

 

■■■

 

「ご苦労さん。そんじゃ次、一年と半年後の六月十一日に」

 主の指示に従い、今度は街中ではなく人里離れた郊外に飛ぶ。田園風景のただ中に建てられた病院は、都会の喧噪から離れたせいか物静かな印象を受けた。白く塗装されたコンクリートの箱を見上げる。五階相当の高さまで目を遣ったところで、何かが蠢くのを隻眼が捉えた。
 窓枠に足が掛かっている。のそり、と乗り上げた身体に命綱のようなものは認められない。

 反射的に距離を目算した。間に合う。長谷部くんがカソックを投げ寄越す。振り向き様に受け取って、後は壁際に全力で疾走した。被布を広げた直後、それなりの衝撃が僕の両腕を襲う。

 低いうめき声が腕の中から発せられるのを耳にして、はあと安堵を漏らした。冗談じゃないぞ。時代を逆行するなり自殺未遂の現場に居合わせるとか、心臓に悪いってレベルじゃない。

「また死に損なったな」

 長谷部くんの皮肉を聞き、苦痛に耐えていた彼が瞠目する。受け止めたとはいえ、全身に相当の負担が掛かったはずなのに、少年は手足をばたつかせ、拘束から意地でも逃れようとした。まるであの日の再現である。
 さらに長谷部くんに両腕を取られながらも、少年は看護士に引き取られるまで暴れ続けた。その間もずっと、死なせろ、と呪詛を吐くのを止めなかった。

 彼を引き渡した僕たちは、別室に通されて看護士さんから詳しい説明を受けた。彼の自殺癖は、一昨年の火事で病院に搬送されてから始まったらしい。この手の症状にも波が有るのか、小康状態の際には施設に入れられたことも有ったという。例の悪癖は共同生活を始めて間もなく再発した。手に負えなくなって病院に送り返されるまで、さほど時間は掛からなかった。

 日々カウンセリングやリハビリも行っているが、改善の兆候は未だ見られない。後味の悪い現状報告を聞き、帰ったらまた皆に囲まれるのだろうな、とぼんやり思った。

 それから遡る時代は、決まって彼が命を絶とうとする寸前だった。
 車道に飛び出たり、どこからか調達したカッターナイフで手首を切りつけようとしたり、薬を盗み出して用量も守らず呑み込もうとしたり、とにかく少年はあらゆる手を使って自殺を敢行した。そのたびに僕らは止めた。周囲の制止が間に合わないときに限ったから、大抵は間一髪のところで割って入る形になった。そして、毎度毎度口汚く罵られた。

「君も懲りないねえ」
 僕の腕にぶら下がった少年を引き上げる。風が吹き、何十枚と干されたシーツが音を立てた。今回選ばれたのは病院の屋上である。

「君を見てると、もう死ぬことが目的になっている気がするよ。お父さんとお母さんの件を抜きにしてもね」
 あのクリスマスイブの日以来、少年の口から両親への慕情が語られることは無かった。今の彼を突き動かしてるのは肉親への執心ではなく、別の原因に思えてならない。

「ああ死にたいよ。何してもどうにもならないって解っちゃうと尚更にさ」
「元服するかしないかの歳で何を言う」
「俺だって、過去に戻れるなんて知らなきゃ、ここまで死にたくはならなかったと思うよ。そんな奇蹟みたいなこと起こせるならって普通は期待するだろ。でも実際は一人じゃどうにもならないって思い知らされただけだった」

 ガスが漏れなければ、あの店に行かなければ、三人で食事がしたいなんて望まなければ、そう思い行動するも、結局両親が死に自分一人だけが生き残る結末は変えられなかった。子供の身でガス周りの点検を促すことはできないし、店を変えさせても爆発には巻き込まれ、食事を避ければ子供の喜ぶプレゼントを求めて両親だけが外に出た。何もかも諦め、両親の下に逝こうとする選択をすれば必ず妨げられた。

「俺も、俺の父さんも母さんも普通の人間だ。生きていても死んでいても、歴史を大きく変えたりなんかしない。なら生きていたっていいじゃないか。家族揃って夕飯食べることがそんなに悪いのか。父さんと母さんに生きていて欲しいと思うのは、いけないことなのか。歴史ってのは、そうまでして守らなくちゃいけないものなのか。なあ、教えてくれよ」

 詰め寄る少年の目は澱んでいる。この年頃にしては線が細く、肌は病的なまでに白い。病院という健康を管理された環境下でここまで衰弱できるものなのだろうか。それが肉体的な疲弊からではなく、精神的な問題から来ることは明白だというのに、僕は彼の求めている答えを絞り出すことができない。

 理を尽くして説明するだけなら難しくはない。一度例外を認めれば、前例にならって恣に振る舞う後続が必ず出る。歴史を守る意義とはそこに在るのだろう。無論、こんな説明で納得するなら、年若い彼が世を儚んで自殺など図るわけがない。
 僕にできるのは、以前と変わらず彼の頭を撫でてやることぐらいだった。

「ただのひねた子供だと思っていた」

 長谷部くんの独語を聞いて僕は足を止めた。それに応じて隣を歩いていた友人もその場に踏みとどまる。西日が二振りの間に差し込み、長い影法師を形作っていた。

「俺たちが邪魔をしなければ、あいつはとうの昔に死んでいたのだろうな」
「だと、思うよ」
「本当はそちらの方が正しい歴史だったりするんだろうか」
「嫌なことを言うなあ。今までの苦労が全部水の泡になるよね、その仮定」
「ははっ、それは勘弁願いたいもんだ」
 力の無い笑いだった。僕は彼が戦場で見せる、挑発的でどこか高慢な笑い方が好きだったから、哀しくなった。

「刀ごときに、人の生死を縛る権利なんて有るんだろうか」
「権利ねえ、そんなの刀とか人とか関係無く持ってないんじゃないかな」
 自分の生き死になんて他人に決めてもらうことじゃない。その判断は、思考能力を持つ生物として最低限の義務であり権利であるべきだ。

「俺たちは所詮末席だが、やはり神はいつの時代も傲慢なものだな」
 美しい藤色が物憂げに閉じられる。
 八回目の遠征にして僕はとうとう臍を固めた。もう親友の悲しむ顔は、見たくない。

 いつも通り報告を済ませ、僕は長谷部くんと別れた。ひとりになった機を見計らい、踵を返す。僕の足は主の部屋に向かっていた。

「平成への遠征を取りやめてほしい」
「ああ、流石に嫌気が差したか」
 退出から数分足らずして戻って来た太刀を主が訝しむことは無かった。さらには己の申し出も予想の範疇らしく、驚いた様子も見せずに僕の直談判を聞いている。

「そういうわけじゃないけど、あの少年はどう考えても一般人だ。彼の生死が歴史の大勢に影響を及ぼすことは有り得ない。個人的に同情を覚えてはいるけど、無理に編隊を調整してまで僕たちが介入するような事態じゃないだろう」
 これは出陣前から主張していたことだった。我ながら正論だと思うし、主はこの疑問を主命の一言で押しきって、具体的な説明は一切していない。僕と主、どちらに理が有るかなど火を見るより明らかだろう。

「そこを押して、どうしてもって言っても納得しないか?」
「その理由を教えてくれるなら別かもしれないけど、言えないんだろう」
「まあ、まだ言えないな。だけど困るんだよなあ、他のやつに代わってもらうわけにもいかないし」
「せめて行かせるなら僕だけにしてもらえないかな。長谷部くんを一緒にしないでくれ」
「何だ、喧嘩でもしてるのか」
「別にしてないけど、主だって近侍は慣れた長谷部くんの方がやりやすいだろう」
「そりゃ二振りとも居てくれるに越したこたねえんだけど」

 渋る主にもう一押しか、と腰を上げかけたところで障子が勢いよく開かれる。あまりの不調法さに別人を期待したが、その特徴的な紫を見間違えるはずがない。先程別れたばかりの彼は入室するなり僕の頭を床に押しつけ、自らも頭を下げる形で平伏した。

「申し訳ありません主、我々が不甲斐ないばかりに貴方に余計な心労を負わせてしまいました!」
 畳に鼻先をぐりぐりと擦りつけられる。正直痛いが、長谷部くんはお構いなしに弁明を続けた。弁明といっても彼から遠征の中止を呼びかけたわけではないが。

「俺と燭台切でなければ果たせぬ主命です。そのような大事な任務を、どうして私情に囚われ放棄することが有りましょうか。ご安心下さい主、必ずや貴方に最良の結果をご報告申し上げます」

 主命。何て呪わしい響きだ。彼はこの二字のためなら我が身すら顧みない。ここ最近の遠征で自分がどれほど傷ついたか解っているのか。手入れを受けたところで記憶は戻らないし、削れない。自分の身に限界が有ることを、どうしてこの刀は知ろうとしないのか。

「引き続き遠征は俺と燭台切が」
「言ったよね主、僕は長谷部くんを連れて行かないって」
 渾身の力を籠めていただろう友人の手を退ける。長谷部くんが顔を上げる気配がしたけど、この場を譲るつもりなど毛頭無かった。

「ふざけるな燭台切、主命を蔑ろにするつもりか」
「この件については君と組むつもりは無いんだよ。遠征自体に意義を見出せないし、不要と思ったから進言したまでだ」
「未だ話せる段階ではないと主も仰っただろう。貴様は主を信用できないと言うのか」
「唯々諾々と主の命令に従うのが最善とは限らないだろう。君の在り方は忠臣じゃなくて佞臣って言うんだよ」

 前触れも無く視界が揺れる。頬の熱を感じたときには、ひしゃげた襖を下敷きに別の部屋の天井を見上げていた。
 ああ、殴られたんだなと一呼吸遅れて理解する。鉄の味がしたから、咥内のどこかが切れたらしい。一撃を受けて冷静になった頭で状況整理だけがやたらと進む。非礼を詫びる同僚の声などは、とりわけ鮮明に聞こえた。

「では現状維持ということでお願いします。当然ながら修繕費は俺が持ちますので、主はどうかお心安く」
 使い物にならなくなった襖を回収した後、長谷部くんは慇懃に礼をしてから部屋を辞した。今更主とふたり取り残されたところで、己の請願が受け入れられる余地など有るはずもない。

「燭台切、大丈夫かあ」
「な、何とかね」
 遡行軍の大太刀より良い打撃を貰ってしまったが、身体は問題なく動かせた。寧ろ長谷部くんを怒らせた事実の方が余程肩に重たくのし掛かってくる。こんな調子で一緒の遠征になど出られるのだろうか。

「まあ頑張ってくれや」
 いつになく神妙な調子の声援を主から受ける。彼なりに責任を感じているのかもしれない。この段ボール様は飄々としているようで、男士たちのことをいつも思い遣っていた。一方的に遠征に非を唱えた僕も早計だったのだろう。

「ごめんね主。遠征は最後までちゃんとやり遂げるよ」
 今はとりあえず、その迎えるべき最後が少年の死でないことを祈りたい。

 医務室で適当に治療を済ませ、僕は今日始めて自室に戻った。報告してすぐ主の部屋に取って返したから、防具は纏ってないにしても戦装束を脱いですらいない。
 もう短刀部屋の大半は灯りを消していて、夜更かしをする刀にとってはこれからが本番という時間帯になっている。今日一日で色々なことが起こり過ぎた。そこに布団が敷かれていたら着替えるのも忘れて寝てしまいかねない。鶴さんが遊びに来ても今晩は丁重にお断りしよう。

 白い太刀の来襲に身構えていたが、実際に僕を迎えたのは紫色の友人だった。縁側に足を投げ出し、右隣に丸盆を添えて天穹を眺望している。いつでも月見酒のできる体勢でありながら、二つ用意された猪口には手を付けられた様子が無い。誰を待っているのか、なんて考えるのは野暮な話だろう。

「長谷部くん」
「燭台切」
 友人の柳眉が軽く八の字を描く。珍しく困ったような顔をしてみせるので、彼が何か言うより先に隣に腰掛けた。断りもせず酒器を取り、ご相伴に預かりたいな、と晩酌を乞う。長谷部くんは戸惑いながらも銚子を持って清酒を注いでくれた。

「さっきは、すまなかった」
 互いに一献傾けた後、長谷部くんが深々と頭を下げて、そう切り出した。
「謝らなくて良いんだよ。長谷部くんの意志を無視した挙げ句、黙って主に遠征の中止を申し出て、全てを終わらせようとしたのは僕だ」
「ああ、それについては今でも怒ってる」
 信用されていない気がした、と付け足されては苦笑するしかない。確かに同僚に対する態度としては少々過保護が過ぎた。

「でも、燭台切は自分のことでは怒らない。秋田のときがそうだったから、今回もそうだと思った」
 長谷部くんの右手が僕の頬に伸びる。距離が近づいたのと、愛おしむように撫でられたのとで、妙に胸がざわついた。

「せっかくの色男が、俺のせいで台無しだ」
「長谷部くんの中で僕は色男に分類されてたのかい?」
「お前は鏡を見たことが無いのか。そんなの初めて会ったときから思ってたぞ」

 毎日ちゃんと鏡の前で髪型チェックしてるよ。でも長谷部くんが揶揄ではなく、正真正銘僕を色男と思ってたなんて初めて聞いたよ、しかも会ったときからなんて衝撃的すぎるよ。

「俺では絶対に主には言えないことを、代わりに言ってくれたのだろう。お前は、そういう男だ」
「そんなんじゃないよ。僕はただ、自分のしたいようにしただけだ。こっちこそ、さっきは酷いこと言っちゃってごめんね」
 長谷部くんの手が離れていく。それに名残惜しさを感じてしまうのは、きっと今が肌寒い冬の夜だからで深い意味は無い、はずだ。

「俺たちは心底死を求めているあいつに、残酷な仕打ちをしていると思う」
 帰還の際、長谷部くんは自分たちの行為を指して傲慢と言った。以前には、死を求める少年の気持ちが解ると共感を示していた。あれから、訊こうかどうか迷って、自分にその資格は無いと避けていた疑問が有る。今なら答えてもらえるような気がした。

「長谷部くんは、主命じゃなければ彼を止めなかったかい?」
「どうだろうな。奴の覚悟が生半なものでないと知れば、介錯くらいはしてやったかもしれない」
「それは、自分にも一緒に逝きたいと思った相手がいるから?」
 長谷部くんはこちらを一瞥して、自分の猪口にまた視線を戻した。前髪で見え隠れする彼の眉は、珍しく下がっている。

「払い下げられた後の話だ」
 酒杯を呷り、唇を僅かに濡らした長谷部くんが語り始める。彼がそれまで、頑なに触れようとしてこなかった黒田家の話だった。

 それはそれは大事にしてもらった。変な命名をした前の主と違って、長政様はとてもできた方だった。付喪神にあの世があるならばついて行きたかった。
 ぽつり、ぽつり、と長谷部くんは実に辿々しく黒田家への想いを紡ぐ。その語り口を聞く限りでは、しばしば雄弁を振るって敵を煽り立てる彼とは別の刀のように思えた。

「肉の器を得た今でも思う。我々はやはり、どうあがいても人にはなれんとな。時代を遡ったとしても長政様と共に逝けるわけではない。だから、死に救いを求める、あの童の気持ちが解らんでもなかった」

 長谷部くんの話は一区切りついたらしい。空いた器に彼が手酌する間、僕は水面で揺れ動く月を見ていた。円く小さな姿見に己の顔は映っていない。とても無様な顔をしているだろうから丁度良かった。

 旧主への衷心を吐露してくれた友人には悪いが、僕の希望は長谷部くんの本懐とは異なっている。それを打ち明ければ彼も快い顔はしないだろう。
 それでも僕は伝えたい。ここで黙っていたら、僕を友として迎え入れてくれた彼に対する裏切りになる。互いに不平不満を正面からぶつけ、受け止める関係でありたい。嘗て彼に掛けられた言葉が、今の僕にとって何よりの支えだった。

「今から僕はとても自分勝手なことを言うよ」
 微かに残っていた中身で喉を潤す。後はもう勢いだった。

「僕は、君が生きていてくれて嬉しい」
 僕には死を望むふたりの気持ちが解らない。

「長谷部くんと一緒に戦えて良かった」
 奇襲を受けても目を爛々と輝かせ、その異名通りに敵を圧し斬る姿を間近に見られたときは興奮した。

「伽羅ちゃんの面倒を見てくれて、鶴さんの冗談に付き合ってくれて、みんなと一緒に僕のご飯を食べてくれて」
 手つかずのお八つを届け、突然巻き込まれた雪合戦にも全力で応じ、伽羅ちゃんや五虎退くんのために思い悩み本気で泣いてくれた。律儀で、どこかずれていて、どこまでも情の深い刀だと知った。

「長谷部くんと、こうして一緒にお酒を飲めて、僕は嬉しい」
 自分が正しいと思っていることは絶対に曲げない。それでも、殴ってしまったことは謝りたい。そんな理由で、僕の帰りを待っていてくれた君は、何ともいじらしかった。

「君が元の主に付いていけなかったことに意味が有るなら、みんなの居る今の本丸に意味を見出してほしい。僕は、心からそう思ってる」
 面を上げ、長谷部くんの方に向き直る。僕の告白をどう捉えたのか、我らが近侍様は呆気にとられたような顔をしていた。

「ははっ」
 お馴染みの笑い声が友人から漏れる。一見すると冷笑にも取れる、彼特有の、僕の好きな笑い方だった。

「今までも散々伊達男だと思うことは有ったが、今晩のお前は特にそうだな」
 手遊びに用いられていた杯が盆の上に置かれる。僕は白い手袋の動向から何となく目を離せずにいた。

「ありがとう燭台切、お前の言葉で少しだけ前向きになれた気がする。ああ、実に格好良い刀だなあ、お前は」
 屈託なく破顔する長谷部くんを見て、俄に頬が熱くなる。彼の直截な物言いも、普段の印象より随分と幼く見える笑顔も、初めてではないはずなのに、向けられるたび僕の胸は高鳴った。
 煤色の髪が揺れて彼の耳が露わになる。ちらと見えたそこは、酒精のために赤く染まっていた。僕も相当酔っているのかもしれない。上気した肌が手の届く範囲に有ると知ったときには、同僚の肩を引き寄せていた。

「どうした、もう酒が回ったか」
「そうかも」
「しょうがないやつだなあ。部屋はすぐそこなんだから、ちゃんと布団に入って寝るんだぞ」
「そうする」
 抱いた肩は僕より細いけれど、骨格はしっかりしていて、相手が自分と同じ男児の姿を取っていると改めて知れた。触れたところで筋張った肌は柔らかい感触など返してくれない。それでも、僕は長谷部くんの温もりから離れる気になれなかった。

 明朝、寝苦しさを覚えて目を覚ます。まだ日も昇っておらず、行灯も点いていない部屋は薄暗くて、太刀の僕では輪郭を定めるのもおぼつかない。手探りで照明のスイッチを入れ、時計を確認したら六時にもなっていなかった。
 こめかみの奥から割れるような痛みを感じる。経験則から二日酔いだと判断できたので、水でも飲もうと布団から身を起こした。そこで始めて、自分の服装が寝衣でなく、戦装束から武具と上着を取り去っただけの格好だと気付く。酒盛りの後にそのまま横になったことがありありと伝わってきた。

 ああ、だから深酒は避けていたのに。他の刀ならいざ知らず、どうも長谷部くんとの酒席は限度も弁えず過ごしてしまうことが多い。毎度醜態を晒しては翌朝になって後悔するのがお決まりになりつつあった。
 昨日もそうだ。酔った勢いで長谷部くんを抱き寄せて、その肩にしなだれかかって、眠い眠いと訴えた挙げ句、部屋まで運んでもらい、布団の準備どころか服まで脱がせてもらって、極めつけには一緒に寝ようなどと誘いかけた記憶が朧気に……

 新鮮な羽毛が枕から飛び出た。本体だけでなく己の手刀も中々の切れ味を誇ると知ったが、そんなことはどうでもいい。風呂にでも入って記憶ごと色々と洗い流してしまおう。どうせこの時間帯なら誰もいない。

 身体を一通り清めた後に待望の温水に浸かる。肩まで浴槽に身を沈め、掬い上げた湯を顔に中てると、ようやく人心地のついたような気がした。
 心にゆとりが出れば思考に割くリソースも増える。今日の予定を思い浮かべ、昼食を終えた後はまた平成に飛ぶのだろうと当たりをつけると、途端に心が萎えていくのが判った。

 長谷部くんとの問題は解決しても、肝心の少年を救う手立ては見つからない。それこそ僕が長谷部くんに言ったように、彼にも共に生きる大切な誰かがいてくれればと思う。もっとも、少年がそうした人々を寄せ付けないのだから、長谷部くんのようには上手く行かないだろう。

「はあ」

 岩肌に背を預け、頭を垂れた。前髪の先から雫がぽたりぽたりと落ちては、湯船に波紋を作る。その僅かな物音と溜息さえ、ひとりきりの空間ではことさら大きく聞こえた。何だかんだ人の多い時間帯に利用していたから知らなかったが、貸し切りの温泉とはこんなにも物寂し――

「とーう!」
 デジャヴュ。背後からの突然の衝撃に襲われ、僕は見事水中への顔面ダイブを決めてしまった。

「だーかーらーためいきはいけませんよ、しょくだいきりさん。しあわせがにげてしまいます」
「ありがとう今剣くん。でもね、お風呂の中で飛び膝蹴りを披露してはいけないよ」
 振り向き、天丼にご満悦な天狗様の姿を眼窩に収める。顔にべっとり張り付く髪を払いながら、今度こそ僕の誠意が伝わるように祈った。

「あれ、燭台切さんも朝風呂ですか」
 続いて秋田くんまでもが戸口から顔を出す。洗濯や着替えの準備が有ったとはいえ、短刀の子らが活動を開始する時間帯にはまだ早い。鉢合わせするとは思ってなかったし、今剣くんと秋田くんの組み合わせは見た覚えが無いので新鮮だった。

「はは、昨日帰ってくるのが遅くて、うっかりお風呂も入り損ねちゃってね。ふたりはどうしたの、こんな時間に」
「いわとおしのかえりをまってました!」
「同じく、いち兄を迎えに行ってました!」

 岩融さんも一期さんも、加入してから日の浅い刀剣だった。二振りとも鍛刀では中々来てくれなくて、縁者の短刀たちがやきもきしていたのを覚えている。顕現した時期もそこまで差は無いので、彼らはよく同じ部隊に編入されていた。
 まだ練度も高くないから出陣とは言っても遠征だろう。そして帰ってくるのが待ちきれず、外まで出迎えに行ったら、早朝の寒さに凍えて風呂場に退避してきたと。まあ大筋としてはそんなところだろうか。

「おっきなゆきだるまつくってきましたよ! ぼくたちのかおそっくりなやつ!」
「会心の出来ですよ! あれならいち兄も騙せます!」
 ああ、ダミーのつもりで作ったんだ……どえらいリアクションを期待された二振りに思わず同情してしまったけど、彼らは大人だから大丈夫だろう。多分。

「で、しょくだいきりさんはなにをなやんでいるのですか」
 湯船に浸かった今剣くんがすかさず話題を戻しに掛かる。秋田くんも興味が有るのか、四つの丸みを帯びた瞳に見つめられて、どうしたもんだと対処に困ってしまう。

「主命にも関わるから内緒」
「ああ! そのにげかたはずるいやつです! おとなのつごうでなんでもかたづけるやつです!」
 怒り心頭な天狗様には悪いけど、こればかりは仕方ない。友人との不和ならばまだしも、生命の尊厳なんて重苦しい命題を、短刀たちと討論する気にはなれなかった。

「気持ちだけ受け取っておくよ、僕は大丈夫だからね」

 大事無いことを証明するために得意の笑顔を作り上げる。長谷部くんからは不評の愛想笑いも、時にはこうやって役に立つときが来るものだ。
 僕の対応に不満なのだろう、今剣くんはこちらに背を向けて水鉄砲の練習に励みだしてしまった。機嫌を直してもらおうと、本日のお八つについて打診してみる。天狗様のお怒りは中々解けない。困ったなあ、と惚ける僕の隣には、いつの間にか秋田くんが立っていた。

「燭台切さん」
 湯船に浸かる僕と、両の足で立つ秋田くん。俄に逆転した身長差は、水分を吸って重くなった僕の頭を少年に撫でさせるには十分だった。

「え、ええ?」
 秋田くんは幼子をあやすような手つきで僕の頭に触れた。事態が呑み込めてないのは僕だけでなく、背後の異変に気付いた今剣くんも同じだった。二振り揃って秋田くんの奇行に全力で疑問符を飛ばしている。

「どうですか、元気出ましたか燭台切さん」
 いち兄はこうしたら、すごく喜んでくれてたんですよ。
 綻ぶような笑顔を見て、僕は本当に今更ながら、秋田くんの優しさに気付いた。

 粟田口の長兄として、唯一の太刀として、遅れて顕現した分を取り戻すべく忠勤せねばと一期さんは目に見えて張り切っていた。その焦りは僕にも覚えが有って、やはりというか始めのうちは、その気合いが空回りすることも少なくなかった。弟たちに見つからないよう、ひとり自省していた長兄だが、運悪く秋田くんの索敵に引っ掛かったらしい。そのときにも、秋田くんはこうして兄の頭を撫でてやっていたという。

「仮にも見た目は大人なのに、情けないね僕は」
 一期さんは秋田くんのお兄さんだからまだ解る。僕の場合は、直前に問題無いと言い切ってしまったから尚更に格好がつかなかった。

「そんなことないですよ。大人だって苦しいこと、哀しいこと沢山有ります」
 誰かに優しくするのに大人とか子供とかは関係ないと思いますよ。
 続けられた秋田くんの言葉に僕は強く胸を打たれた。大人だ子供だと、つまらないことに拘っていた自分が小さく見える。

「しかたないですねえ、ぼくもなでてあげますよ。ほら、げんきだしてください」
 今剣くんも加わって、僕の髪はもう滅茶苦茶になっていった。でも、堪えなければ目尻に涙が溜まりそうなくらい、二振りの心遣いが今の僕には嬉しかった。

 どうやら、みんなの居る本丸に、誰よりも意味を見出していたのは僕だったらしい。
 優しさに溢れた世界で僕は思う。願わくば、長谷部くんもこの気持ちを共有してくれますように、と。

 

■■■

 

 九回目の遠征で飛んだ先は馴染みの病院ではなかった。

 塀の周りは花壇で囲まれ、敷地内には色味の明るい集合住宅と、遊具を設えた公園のようなスペースが有る。門扉は開放されていて、その両脇の柱に目を遣れば社会福祉法人のプレートが掛かっていた。
 前回の遠征から三ヶ月後の時が過ぎている。どうやらその間に彼は退院したらしい。症状が軽減された結果と思いたいが、僕らが派遣された時点で実態はお察しというやつだろう。

 施設を訪問しようか長谷部くんと相談していた最中、窓を開閉する音と尖り声が前後して聞こえてきた。植木の向こうに口論の気配を感じる。僕と長谷部くんは頷き、施設のアーチをくぐった。

「お兄ちゃん、待ってお兄ちゃん」
 小学校に上がるかどうかといった年齢の女子が、例の少年の後をついて回っている。少年は自らを慕う彼女を疎んじているようで、相手にする素振りすら見せようとしない。
 呼号を無視する少年にめげることなく、女の子は懸命に何かを渡そうとした。横にいた長谷部くんが、絆創膏、と呟く。指先に着目すると、確かに見覚えの有る紙片が握られていた。

「血出てるよ。いたいんだよね、早く手当しなきゃだめだよ」
 少年の腕には痛々しい傷跡を隠すように包帯が巻かれている。間違いなく事故で負ったものではない。

「うるさい、俺に構うな。遊ぶなら他の連中にしろ」
 そう突き放して少年は去ろうとする。女の子は咄嗟に彼のシャツを摘んだ。いや掴んだのではない、それは摘んだ程度の接触だった。

「放せ!」
 彼はよりにもよって怪我をしている方の腕を振り上げる。鈍い打擲音の後、少女は雪崩れ込むように地面に倒れた。幸いにも芝生が敷かれていたが、一瞬のことで受け身を取れたようには思われない。
 二人の元へ飛び出していくと、女の子は膝を擦りむいた痛みに悶絶していた。それを見下ろす少年は言葉を失い愕然としている。

「貴様」
 友人が憤怒の形相を向ける前に、少年は脱兎のごとく走り去った。長谷部くんがその背中を追ったのを確認し、僕も今やるべきことに意識を集中する。

「君、大丈夫かい? 立てそう?」
 女の子は弱々しいながらも頭を縦に振った。傷口は大したことなさそうだが、場所が場所なので少し土汚れがついている。周囲を見回すと、やはりこの手の施設らしく水道が近くに有った。手持ちのティッシュを濡らし、刺激しないよう優しく傷口の周囲を拭き取る。

「あとは黴菌が入らないようにしたいけど……その絆創膏は使っても良いやつかな?」
 栗色の髪が左右に揺れる。この場で最も治療に適した道具だけに、ノーを叩きつけられるとは思ってなくて少々面食らった。

「これは、お兄ちゃんのだから」
 そう言って、彼女は絆創膏の裏側を見せた。大いに納得する。確かにこれは、あの少年以外に使えるものではない。
 応急処置として絆創膏の代わりにハンカチで患部を塞ぐ。血の汚れは中々落ちないけど、返品は受け付けていないから問題無い。

「これ、お兄さんに渡して来ても良いかい?」
「受け取ってもらえるかな」
「必ず渡すよ。僕と僕の友達が、君のお兄さんを絶対に連れてくるから、お礼はそのとき直接聞いてね」
 本人は微笑んだつもりだろうが、怪我のせいで少し歪んだ笑顔になっている。その気丈さもまた彼女の魅力だと思った。

 ふたりの居場所はすぐ判った。互いに舌鋒鋭くしてやり合っているので、位置を割り出すのも苦労しない。

「あんたらの仕事は歴史を守ることだろ! 何もできねえ凡人捕まえて説教垂れてる暇なんて有るのかよ!」
「俺たちの事情と、貴様が年少の娘に謝罪もできん無能であることに、一体何の関係が有るんだ?」
「はい、ストップ」
 丁々発止の舌戦に文字通り割って入る。少年どころか長谷部くんにも睨まれたけど、調停者はいつだって双方から恨みを買う立場だから是非も無い。

「彼女の手当は済ませてきたよ。はい、これは君の分」
 屈んで絆創膏を少年の前に差し出す。苦々しい顔で僕の指先を睨んだ少年だったが、裏面に書かれた文字を見て色を失った。テープは薄い紙の袋にまだ収納されており、これを剥がさないと本来の用途には使えない。何の印刷もされていない白い包装の裏には、幼子らしい、ひらがなのみで書かれたメッセージが記入されている。

「おにいちゃんへ これではやくきずなおしてね」

 包帯の巻かれた腕が伸びる。少年は恐る恐る僕の手から絆創膏を受け取り、包装を剥がすでもなく、じっと裏面に有る文字を見つめていた。

「誰がお兄ちゃんだよ、俺一人っ子だし。弟とか妹とかいないし。それに、こんな小さい絆創膏じゃ切り傷塞ぐのがやっとだし」

 ばっかじゃねえの、という文句を皮切りに少年は口を閉ざした。閉ざさざるを得なかった。瞳から溢れ、決壊した雫が顎を伝って地面に吸われる。左腕を持ち上げ服に染みこませるも、液体は次から次へと流れて止まらない。見る間に顔面をぐしゃぐしゃにした彼は、始めて年相応の少年らしく見えた。

 静観を保っていた長谷部くんが懐からタオルを取り出し、無造作に少年の前へ突き出す。彼はその厚意を拒まず、素直に布を瞼に押し当てた。僕は既にハンカチを使ってしまっていたから、残り少ないティッシュで鼻の辺りを拭いてあげた。

「もう意地を張るのは止めたか」
「はってねえし」
「嘘をつくなら、もっと男前な面構えのときに言うのだな」

 殺伐としていた二人の雰囲気も心なしか和らいでいる。僕は苦笑しながら最後のティッシュを取り出した。鼻先は赤くなったままだけれども、さっきよりは余程見られる顔になっている。

「はい綺麗になったよ。やっぱり人にお礼言うときは格好もきちんとしてなくちゃね」
「見返り要求すんのかよ。神は神でも邪神かあんたら」
「まさか。自分が今一番お礼を言わなくちゃいけない相手なんて、君だってとっくに判っているんだろう?」

 そう言えば彼はまた口を噤んでしまった。こういう反応が返ってくるのも予想済みだ。僕は最初の遠征のときと同じく、手袋を外して少年の髪に触れた。以前より毛先の艶も太さも増したと思う。良い傾向だった。

「ひょっとして、自分より小さい子に気を遣われてみっともないと思っているのかな?」
 押し黙ったままの彼が密かに拳を握る。否定の言葉は無い。それだけでも彼の心を推し量るには十分だった。

「僕もね、秋田くん……自分より小さい、弟みたいな子に慰められたことが有ってね。そのときはすごく恥ずかしかったんだけど、彼はこう言ってくれたんだ。誰かに優しくするのに、大人も子供も関係無いって」
 その一言で僕は肩の荷がすっと下りたような気分になった。常に格好に気を遣うのは当然だけど、無理をすることが必ずしも美徳に繋がるとは限らない。それと気付いた後の行動は、考えるまでもなかった。誰にでもできる、とても簡単なことだ。

「だから君も堂々と、男らしく、ありがとうって返せば良いんだよ」
 それがきっと、自分を気遣ってくれた人に対する最低限で、最大限の感謝の仕方だと僕は思う。

「できるかな」
 少年は僕の服を掴み、不安げな声を漏らした。
「君ならできるさ。誰かの優しさに触れて、それで涙を流せる君ならね」
 彼が一歩を踏み出すまで、僕は何度でも大丈夫だよと声を掛けた。途中で長谷部くんも加わり、ふたりで怯える少年を励まし続けた。

 ヒグラシが鳴いている。晩秋の日は長く、朱色の淡い光は一向に沈む気配も見せずに辺りを照らしていた。少女が腰掛けるテラスの階段も夕暮れの気配を受けて、一面に黄色い絨毯を敷いたようになっている。
 茹だるような日差しを浴びながら、少女は冷房の効いた室内に戻らない。何度か遠目に待ち人の姿を探し、再び抱えた膝へ視線を落とす。その工程を繰り返すこと数十分、砂利を踏みつけるような音を彼女はようやく耳にした。

 彼らがどんな会話をし、どんなやり取りを経て、家に引き返したかは解らない。僕らからすれば、階段を上るときに二人の手が繋がれていたことを知れただけで十分だった。

「上手く行って良かったな」
「ふふ、そうだねえ」

 九回目の遠征にして始めての成功である。もうあの少年は、過去の改変に想いを馳せたり、死に焦がれたりすることは無いだろう。安心して藪から出る僕を、長谷部くんは何故か薄ら笑いを浮かべながら見ていた。

「しかしお前、秋田に慰められてたのか」
「そうなんだよ、頭撫でられちゃった」
「ほう」
 徐に立ち上がった長谷部くんが、緩慢な動きから一転して猛禽類のような勢いで僕に迫る。白い手袋をつけた両手は僕の頭部を捉えるや、遠慮無しにセットした髪を撫で回した。

「うわ、何するんだい長谷部くん!」
 長谷部くんの手つきは撫でていると言うより、掻き回してると言った方が正しい。容赦無い攪拌で、早朝数十分の苦労など見る影も無くなってしまった。困惑する僕とは対照的に、ひとの髪を弄る長谷部くんの表情は実に楽しげである。

「もう元気になったか?」
 抗議を口にするつもりだった唇が変な形に固まった。
 僕を覗き込む藤色の眸子は、確かに悪戯めいた光を宿してはいる。しかし、そこには友人を励ましたいという好意も確かに含まれていて、僕の怒りを萎えさせるには十分すぎるほど柔らかい眼差しをしていると気付いてしまった。

「ああ、すごく、元気」

 訥々と話す僕も意にも介さず、長谷部くんは相好を崩す。心臓が跳ねた。激しくなる動悸を前に、僕は諸手を挙げて降参の意を示したくなる。

 なんてことだ、ここまで来たらもう認めるしかない。
 僕は、長谷部くんが好きだ。
 いつからなんて決まっている。初めて会ったときには、もう彼の藤色に惹かれていた。

 

■■■

 

「燭台切、主から言付けを預かっているよ。これで格好を整え明日の出陣に備えてくれ、だそうだ」
 十回目の遠征を控えた前日、僕は歌仙くんから一枚の封筒を渡された。中身を確認すると、それなりの金子が詰まっていたので思わず目を疑う。

「格好を整えろって、また平成の衣装?」
「ああ、前のは燃えてしまったそうだからね。何でも、いつもの戦装束では都合が悪いらしい。せっかくの主の心遣いだ、有り難く頂戴して雅な出で立ちをすると良い」
 妙に太っ腹な主の態度は変わらず不審だが、衣服の新調は素直に喜ばしい。主命と言えば長谷部くんも黙って着飾られてくれる。二振りで出かけられる口実もできるし良いこと尽くめだった。

「ありがとう歌仙くん。主にもお礼言ってこなくちゃね」
「その前に、はいこれ」
 続けて謎のクリアファイルを渡される。中に収められているのは、刀名と物品の名前が書き連ねてある、これまた謎のリストだった。

「先の成功でお土産解禁令が出たから、皆の分も宜しく頼むよ」
 その資金も含めての手当だから、と歌仙くんは僕の封筒を指さした。時代を行き来する便利な郵送業など二百年前の日本に有るわけがない。両手に大量の荷物抱えるのって格好良くないよね!

「宜しく頼むよ」
 初期刀の有無を言わさぬ口調に黙って頷く。帰還のたび本丸中で労われていた過去が懐かしかった。

 暖かい風が老樹を揺らす。花弁は空に舞い、地面にまばらな装飾を施した。
 青年の頭上は桃色の天蓋に覆われている。太い幹に身体を預け、桜並木に目を細める様は、花見を楽しんでいると言われても違和感が無い。
 彼は傍に置いていた鞄を引き寄せ、中から一つ工具を取りだした。チキチキ、と音を立てるたび刃先が露わとなる。その小さな凶器を青年は躊躇わず、自分の手首に押し当てた。

「桜の栄養になるには肉が少々足らんな」

 腕ごと取られた青年が面を上げる。驚愕こそしていたけれども、彼の表情に落胆の色は無い。長谷部くんは追いついた僕に困ったような面差しを向けた。青年の反応があまりに想像と異なっていたので、現実を受け止め切れていないのだろう。意外に思っているのは僕も同じだ。カッターナイフを没収されても彼は文句一つ吐こうとしない。
 超然とした様子を警戒していると、彼の方からくつくつ、と忍ぶような笑い声が漏れてきた。

「ああ、本当に来てくれた。お久しぶり、お兄さんたち」
 再会を祝う青年は呑気そうに手を振った。幼さを残した笑顔は、とても数秒前まで自殺を図っていたとは思えない。いや事実狂言だったのだろう。でなければ、主が土産開放令なんて緩い宣言をするはずがない。

「貴様、俺たちを誘き寄せるためだけに、この景観を損なうような愚行に走ったのか」
「おうとも。体張ったんだから、ちょっとくらい付き合ってくれよな」
「いっそ尊敬の念を覚えるぐらい太々しいね君」

 僕たちの野次になど気にも留めず、青年は鞄から機材を取り出すや慌ただしく辺りを動き回り始めた。陸奥守くんの好む道具と似ているから、手に持っているのがカメラだということは判る。三脚を立て、微妙に位置を調整すると満足したのか、青年は僕たちのところに戻って来た。

「今日は俺の卒業する日なんだ。人生をじゃなくて、勿論この施設をだよ」
 少年から青年へと成長した彼が語る。

 あれ以来、施設の面々とは仲良くやっていること。中学卒業の前に引き取り手が見つかり、既に引っ越しも済ませていること。写真撮影が趣味となって、どこへ行くにもカメラを手放さないこと。今日は施設に残した荷物を取りがてら、最後の挨拶に来たということ。

 多くのことを聞いた。どの話も彼が現世をひたむきに生きていることが伝わってきて、感慨深くなった僕らは最中何度も何度も頷いた。

「ここに来て最初のうちは、仲良しこよしとか傷の舐め合いとかクソッタレーって思ってたけどね。ぶっちゃけ怒りとか恨みって、何年も維持していくのすっごいエネルギー要るんだなって身を以て知らされたわ。気付いたときにはさ、弟分や妹分が可愛く見えてきやがんの。記録として残したいと思うくらいにはね。そう考えられるまで命を繋いでくれたふたりには感謝するしかないよ」

 だから、この施設を去る前に一緒に写真を撮りたい。
 青年の指が先程セットしたカメラに向けられる。僕らはその申し出を一も二もなく快諾した。

 立ち位置を指示され、長谷部くんと桜の木の前にふたり並ぶ。本丸でもそうだったが、長谷部くんは撮影そのものに慣れないらしく、表情も強ばってどこかむず痒そうにしていた。

「俺は主命を果たしたまでなんだがな。感謝するなら、ひねくれた子供を辛抱強く育ててくれた周囲の大人たちに言ってほしい」
「長谷部くんも大概ひねくれてるよね」
「よし燭台切、土産の八割はお前が持って帰れ」
「理不尽」
 くだらないやり取りで長谷部くんの肩の力も抜けたらしい。タイマーの準備が完了する頃には、駆け寄ってきた青年を笑顔で迎え入れていた。

 撮影はつつがなく終了したが、この時代のカメラは現像にも多少時間が掛かると告げられた。残念と口を揃えて嘆く僕らに、青年は鼓舞するような調子で明るく言う。

「あんたら人間じゃないんだろ。下手に撮った写真を飾って何か起きたら困るし、あくまで記念品ってことで埋めておくよ」
「埋める?」
「タイムカプセルってやつだよ。俺は人間だから二百年も生きてられねえけど、木はまた別だろ」
 青年が桜の幹を二、三度叩く。既に数十年の時を生きたであろう樹木は、青年の戯れを力強く受け止めていた。
「桜の寿命は六十年ほどと聞くぞ」
「あんた浪漫の欠片も無いな。丁寧に世話して長生きさせてやんよ、子々孫々にこの木の養生を義務づけてやる」
 お茶を濁すような発言をしておきながら、長谷部くんもタイムカプセルに期待を隠せないらしい。写真は忘れず入れろよ、と青年と別れるまで何度も念押ししていた。

「お前は冗談も通じんのか」
「だって、長谷部くんも嘘は嫌いだろう」
「嘘と冗談は違う。ええい、荷物どころか人の揚げ足まで取りおって」
 荷物を独り占めする僕に長谷部君はおかんむりだった。その内訳は僕と長谷部くんとで、概ね八対二の比率に分かれている。

「それに僕の方が力も強いし」
「舐めるなよ。太刀ほどではないが、俺だって打刀の中じゃ打撃は有る方なんだ」
 食い下がる長谷部くんの前に軽い方の荷物を渡す。受け取った途端に長谷部くんの足下がふらついた。慌てて背を支えれば、彼は心底悔しそうにして紙袋を一部こちらに差し出してくる。
 少し頬を赤くしてるところが可愛い。愛嬌が有るじゃなくて可愛い。長谷部くんは可愛い。

 一通り百貨店をめぐり、リストを制覇した頃には日も沈みかけていた。土産の入った袋を脇に置き、二振り並んで駅のベンチに雪崩れ込む。ある意味では十回の遠征のうち、今回が最も体力を消耗したかもしれない。

「意外なところで疲弊したねえ」
「少し休憩したら帰還するぞ。主にいち早く結果を報告せねば」
「全力でベンチにもたれ掛かってる刀が言うと説得力が無いなあ」
 何だと、と身を起こした友人の前に缶コーヒーを突き出す。少しの間を置いてから長谷部くんは渋々、といった体でそれを受け取った。

「ありがたく頂く、がこれを飲み干すまで帰れないというのは計算してのことか」
「僕も歩き疲れちゃったから。長谷部くんも僕の我が儘に付き合ってくれると嬉しいな」
「格好つけめ。言っておくが俺は無理してないからな、まだ全然行けるからな、ありがとう」
 何だかんだ言いつつ、謝礼も忘れない辺りが長谷部くんらしい。
 四月の頭といえども夜はまだまだ冷え込む。滞在に難色を示した長谷部くんも、一缶空ける頃には頬の筋肉が緩んでいた。

「何だか最近お前に餌付けされているような気がする」
「長谷部くんが美味しそうに食べてくれるからねえ」
「俺の胃袋を掴んでも何も返せないぞ。面目ない限りだがな」
「胃袋以外にも掴みたいものなら有るよ」
「何だそれは」
「今から教えるから、ちょっと後ろ失礼するね」

 眉根を寄せる長谷部くんの肩を掴み、ぐるりと背を向かせる。飾りが前になるよう腕を回し、白いうなじの中央で鎖を留めた。自分の首に下がるそれに気付くや、長谷部くんは勢いよくこちらを振り返る。

「ああ、よく似合ってる。長谷部くん本物の神父さんみたいだねえ」
 友人の胸元で揺れる十字架を視界に無事収め、僕は満足げに微笑んだ。平成の世に出て初めての夜、彼に何を贈ろうか考えていた僕の答えがこれだった。

「な、何なんだ突然こんなものを贈って。懺悔でもしたいのいか」
「懺悔というか、告白ならしたいかな」
 事態を呑み込み切れてない長谷部くんの体を回し、正面から抱き込む。息を詰めるような声がすぐ近くで上がった。こうして肌を合わせると、細身に見える彼も意外に鍛えられていることが判る。肉付きが良いとは言えないが、厚みの有る身体と服越しにも伝わる体温は心地良く、いつまでも触れていたいとさえ思えた。

「僕ね」
 手を滑らせ、僕の肩口に伏せていた長谷部くんの顔を上向かせる。続きは、この藤色に自分の姿を映してから言いたかった。

「長谷部くんのことが好きになっちゃったんだ」

 長谷部くんの頬がみるみる紅潮していく。言葉を失い、口をぱくぱくと開閉させる様はまるで酸欠状態の金魚だ。
 長谷部くんと出会ってからおおよそ三ヶ月経つ。喜怒哀楽に留まらず、焦った顔や泣いた顔など、彼の色々な表情を見てきた。それでも今のように羞恥に耐えかねたような姿は初めてで、己が彼の新しい一面を引き出したのだと思うと、言い得も知れぬ興奮を覚えた。強いて言うなら食欲に近い衝動が湧きあがってくる。目の前で震える唇に吸い付き、思う存分食んでしゃぶりつくしてやりたくなった。

「ちょ、調子に乗るなぁ!」
 唇より先に額が迫る。頭の中身全てが揺らされるような衝撃が走った。痛みと入れ替わる形で長谷部くんが僕の腕から抜け出てしまう。後を追おうにも身を襲う鈍痛が激しく、左腕だけが中途半端に前方に伸びた。

「お、お前っそういうのは、相思相愛の相手にのみ許される行為だぞ! 解ってるのか、こら燭台切キザ忠!」
「これ以上僕に変な異名つけないでよ……うう痛い、ちょっ長谷部くんこれ本当に痛いんだけど」
「圧し斬られないだけマシと思え」
 長谷部くんはベンチに引き返すや、僕が視界に入らないよう明後日の方向を向いた。もっとも隣に座ってくれるだけ有り難いと思うべきかもしれない。

「お前は、もの好きだ」
「審美眼には自信有るよ。僕から見るとへし切長谷部は美しい刀で、ああいうことしたくなるぐらいには魅力的だってこと」
 後頭部しか見えずとも長谷部くんが顔を真っ赤にしていることは判る。いくら寒いといっても四月の気温は、耳まで赤くなるほど冷え込んだりしない。

「俺は、お前を唯一無二の友だと思っている。失いたくないし、離れていってほしくはない。だが、そういう気持ちに応えられるかと言えば話は別だ」
「良いんだよ。僕が勝手に好きになっただけなんだから」
 見返りは求めていない。そう返した後で腕に小さな違和感を覚えた。見ると長谷部くんの指先が僕の袖を摘んでいる。

「何も返せないのは怖い」
 長谷部くんはその先を言わなかった。
 この刀は常に堂々たる振る舞いを忘れない。その言動から自信に溢れてるように見えるが、実際はその対極に在って、誰よりも自分に自信が持てない。

 彼曰く払い下げられた、という過去が相当心に深く根ざしているのだろう。主命に忠実でなければ、何事にも精勤しなければ捨てられる。そう思っているから、見返りを求めない好意も受け入れられない。それは、とても哀しいことだと思った。

「無理はしないでほしいな。一方的に好意を告げられても引かずに、離れてほしくないと言ってくれただけで僕は十分だよ」
「告げた以上、ただの友人には戻れないと言って距離を置いたりしないか」
「しないよ。前にも言ったけど、燭台切光忠はへし切長谷部の友であることを絶対に止めたりしない。たとえ君が僕の気持ちを受け入れたとしても、それは変わらない」
 縋るような指先を超え、手の甲ごと自らの手で覆う。僅かに震えていた手は、僕に触れられるとすぐに落ち着きを取り戻した。

「燭台切」
 僕に捉えられてない方の長谷部くんの手が首元に伸びる。友人は銀の照り返しを見せつけるように十字架を持ち上げ、

「ありがとう。大切にさせてもらう」
 と、満面に喜色を湛えて僕が欲しかった言葉をくれた。

「で、どの口が告白すれば上手く行くって言ったのかな」
「ちょっと待て話し合えばわかるぞ光坊、だから堆肥を近づけるな! 長谷部と結託して内番の組み合わせを弄るなんて卑劣な真似格好悪いとは思わないのか、なあ伊達男!」
「鶴さんはすぐ内番サボるから僕がお目付役になるよ、って言っただけだよ。さあ頑張って有機野菜作ろうか」
「伽羅坊、は絶対止めてくれなさそうだから五虎退! きみは畑仕事好きだったよな! 馬当番? 良いさ、いくらでも代わってやろう! 今まで隠していたが実は俺の前世は馬だったんだ!」

 鶴さんのあまりの必死さに五虎退くんが縁側から飛び出そうになっているが、伽羅ちゃんが何とかそれを阻止している。伊達さん家の大倶利伽羅くんは仕事熱心、かつ真面目に頑張ってる人の味方です。

「主! きみがふたりきりでの遠征なんて企むから、光坊が俺に八つ当たりする羽目になったんだぞ! 責任取って長谷部に言いくるめの技能を振ってくれ!」
「見苦しいぞ鶴丸。伊達同士仲良くしろ、主を困らせるな」
「そうだ。人を面倒事に巻き込むのは大好きだが、巻き込まれるのはごめんだ。大人しく畑でくそみそに塗れてきなさい」

 四面楚歌の状況を悟った鶴さんの動きが鈍る。その隙を逃さず、自称前世が馬な刀の襟をひっつかんだ。上がる悲鳴を無視して畑の方へと連行する。失恋の痛手はキャベツと旧友弄りで癒やすことにしよう。

「ところで主様、どうして遠征は長谷部さんと燭台切さんのお二方でないと駄目だったんですか?」
「ううん、そうだなあ」

 ――桜が咲く頃になったら教えてやるよ。

 後に長谷部くんから教えてもらった一振りと一箱のやり取りは、そのときが来るまで思い出すことは無かった。

 

 

いいね! 0

←第二話    シリーズ一覧    第四話→