段ボール本丸 / 長谷部の日記

 

 

【初日:神無月】

 とうとう我が本丸に念願の太刀が顕現した。

 新たな戦場に向かうたびに遡行軍の布陣も強固なものとなっていく。いつまでも短刀や打刀中心の編成のままでは正直厳しいと思っていたところなので、燭台切光忠の参入は素直に喜ばしい。
 顕現したてということもあり、彼の太刀の能力値は未知数である。しかし、少なくとも人当たりは良いらしく、個性的な先刃たちともすぐさま打ち解けていた。あの調子なら誰と組ませても一定の成果を挙げてくれるだろう。

 ――ここまでが近侍としての所感であり、以下は完全に私情を綴っただけの、益体も無い雑文となる。

 深みの有る濡れ場色の髪、決して派手に着飾っている訳ではないのに華やかな印象を受ける戦装束、頭頂から爪先まで黒一色の衣服に身を包みながら、肌は透き通るように白い。前の主の影響か或いは別の要因か、一方が眼帯に覆われている眼は黄金色に輝いている。
 有り体に言って、とんでもない美丈夫が来たと思った。うちにいる刀剣や、演練で出会った男士たちも相当に顔立ちが整っているのは承知の上だ。それでもなお、燭台切光忠の容貌には度肝を抜かれた。単に見目麗しいというだけではない。さり気ない仕草や表情から、誠実そうな人柄が滲み出ているのが余計に彼の容貌を際立たせるのだった。

 外見ばかり挙げているが、既に触れた通り燭台切光忠は性格も申し分ないのである。案内を終えた秋田は彼の刀剣を褒めちぎっていたし、旧知の仲らしい大倶利伽羅も古馴染みとの再会に満更ではないようだった。柔らかい口調に屈託のない笑顔、加えてあの容姿なのだから、燭台切光忠を悪く思う輩など普通はいないであろう。
 そう、普通は。

 残念ながら俺はその普通の軸から外れてしまい、新人を歓迎する宴の席にも出ずに近侍部屋に引きこもる羽目になってしまった。

「なるほど、君も切れ味が自慢の刀なんだね! 僕は家臣を手打ちした際に側に有った燭台まで斬ってしまったのが由来でね、エピソードとしてはそこそこインパクト有ると思うけど何分格好よさに欠けるのがねえ。はは、君とは仲良くなれそうな気がするよ。ねえ名前繋がりで、へし切くんって呼んでもいいかい」

 向こうに悪気が無いことは判っている。へし切の名を厭うのは俺の都合でしかなく、命名の由来が似ていることで気が合うと考えた燭台切が責められる謂われは無い。頭の冷えた今になってそう考えるも、覆水は盆に返らないものなのである。

「俺は、へし切と呼ばれるのは好かん。今後同じ名で俺のことを呼んでみろ。その独眼竜、座頭市に変えるのもやぶさかではない」

 今思い直してみても、これはない。

 あの男は光忠の刀に目が無かったとか、そのうちの何振りかはアレと最期を共にしただとか、下げ渡された俺はそれを人伝に聞くことしかできなかったとか、どうして俺じゃなかったんだとか。そんな妄執を、会ったばかりの刀がどうして汲み取れよう。
 それに燭台切は己の号に不満は持っていても、元主に対して特別遺恨は無いらしい。喜々として政宗公の話を大倶利伽羅に振っていたくらいだから、寧ろ慕っていると言っても良いくらいだ。

「政宗公みたいに僕も料理をしてみたいものだね。歌仙くん、良かったら夕飯の準備、僕にも手伝わせてくれないかな」
 楽しげに語る燭台切の声を聞き、障子を開けようとした指が止まった。

 空気を読めと散々に言われた俺でも判る。この場に押し入り、勢いのままに謝罪しても周囲への燭台切の心証が悪くなるだけだと。
 来た道を戻り、近侍部屋に取って返した俺は書類整理と日誌の記述に勤しんだ。このまま謝罪を引き延ばすのは悪手だと自分でも解っている。宴の終わる頃合いを見計らい、燭台切と一対一の場を設けて素直に頭を下げよう。
 俺とて、あの隻眼の刀とは仲良くやっていきたいのだから。

「あの、長谷部くん」
 聞き慣れない低音が俺の名を呼んだ。俺に対して「くん」なんて敬称をつける刀は今まで青江の他にいなかった。しかしながら、先の声はどう考えても青江のものではないし、障子越しに見えるシルエットは俺と比べても大きい。この状況で導き出される解は、どうあがいても一つだろう。
 急ぎ席を設けようとするものの、来客の存在を想定していないせいで、近侍部屋には予備の座布団すら置いていない。諦めて先に入室の許可を出した。

「ごめんね、お仕事忙しかった?」
 食膳を持った燭台切が障子を開ける。宴の主役がこんなところに顔を出して良いのか、と思ったが既に時刻は亥の刻を回りそうになっていた。

「いや、ちょうど一区切り付いた頃だ」
「なら良かった。はいこれ、差し入れ。多分だけど夕飯、食べてないだろう?」
 なおも湯気を立ち上らせる筑前煮に思わず喉が鳴る。初期刀にして厨の主、歌仙の煮物は旧主間の怨恨を忘れさせるほど絶品だった。主から特別な信頼を得ている歌仙と衝突せずに今もやっていけているのも、全てはあの料理の腕に起因している。はしたないと思いつつも、差し出された膳に文字通り食指が伸びた。

 煮汁が程よく染みてそうな里芋を見繕い、口に運ぶ。火傷しそうな熱を舌の上で転がして、ふと違和感を覚えた。
 不味くはない。不味くはないのだが、普段の洗練された歌仙の料理とは一風異なるというか。

「歌仙のやつ、調子でも悪いのか。いつもと味付けが違うぞ」
 何気ない一言のつもりだったが、俺の呟きを拾った燭台切の眉が八の字を描いていた。もしやと思うが、既に口にしてしまった以上後の祭りである。

「この筑前煮は歌仙くんに教わって僕が作ったんだ。頑張ってみたけど、まだまだ厨の主には敵わないみたいだね」
「顕現した初日にここまで作れるなら十分だろう。厨仕事は不得手な刀の方が多い。俺の言葉はあまり気にしてくれるな」
 気の利いた言葉の浮かばない己が歯がゆい。せっかく昼間のことを謝れる機を得たというのに、またも出だしから躓いてしまった。

「あはは、美味しいご飯で和やかなムードになって、昼間のことを謝れたら良いなって思ってたんだけど格好つかないなあ」
 腑に落ちぬ物言いに、伏せていた面を上げる。
 今こいつは何と言った? 昼間のことを謝れたら? 馬鹿な、お前は一体誰に謝るというんだ。

 俺の内心の動揺など気付かぬまま、燭台切は膝に拳を置いたまま上体を下げた。出会って数時間も経たぬうちに、俺は仲間がへりくだる様を見せつけられていた。

「僕は、自分の不用意な発言で君の不興を買ったことを詫びたくて来たんだ」
 君が前の主のことを良く思っていないことは聞いた。知らなかったとはいえ、軽々しくへし切の名を呼んで申し訳ない。もし許してもらえるなら、今後は本丸の仲間として仲良くやっていきたい。

 燭台切が口にしたのは、概ねそのような内容の謝辞であった。男の特徴的な旋毛はなおも俺の目線より下で揺れている。これらの誠意溢れる対応を前に、俺は何故だか無性に哀しくなった。

「頭を上げてくれ、燭台切。由来が似ているから仲良くなれそうだと思った、結構なことじゃないか。そこに他意が無いなら謝る必要も無い。己の都合で一方的に怒鳴りつけた相手に、媚びへつらうような真似などしなくても良い」
「媚びてもないし、へつらってもいないよ。僕はただ、君に嫌な思いをさせたことを謝りたかったんだ」

 燭台切は良いやつだ。相手に非が有ることが明白でも、率先して自ら頭を下げられるほど懐も大きい。我の強い刀剣が多い本丸にあって、目を見張るほど人の出来た刀だと思う。
 だが譲歩できることと、感情を押し殺すことは別なはずである。親近感を覚えた相手に歩み寄ろうとして、素気なく躱されるどころか脅迫されたのだ。普通なら憤るか距離を置くかのどちらかだろう。いくらお人好しだからって、昼間の一件に何も感じていないはずがない。その感傷を無かったことにはしてほしくない。

「お気遣い感謝する。生憎お前に頭を下げられようと何も感じなかったがな。気難しい同僚のご機嫌を取る暇が有るならその時間は就寝に充てた方が良いぞ。肉の器を得て暫くは寝付けない刀剣も多い」

 意識して口角を吊り上げる。顎先に指を中てつつ嘲笑を添えれば、いかにも嫌みたらしい男を演出できただろう。
 金色の瞳が大きく見開かれた。俺の言葉や態度が少なからぬ動揺を与えていると知って安堵する。そのまま罵声の波に呑まれることを期待したが、男の唇は一向に言葉を紡ごうとしない。

「俺はまだ仕事が有るんでな。どうせ部屋に戻るなら、ついでに食膳も片付けておいてくれ」
 追い打ちとばかりに、実に身勝手なことを言って燭台切に背を向ける。盆ごと頭をかち割られても仕方ない態度だった。それにも関わらず、男から抗議の声は上がる兆候は無い。おやすみ、という短い挨拶とともに立ち上がる気配がした。音も立てずに障子が開閉され、部屋には俺ひとりだけが取り残される。

「そういう顔が見たかったわけじゃない」

 開かれたままの日記帳に顔を埋める。新しい同僚への期待を存分に込めた文面は、俺以外の誰にも顧みられることは無かった。

 

【五日目:神無月】

「お前は本当に口の減らん刀だ。媚を売るなら近侍ではなく、主に直接物申したらどうだ?」

「礼など不要だ。さっさと練度を上げたいのだろう。いつまでも厨当番ばかりでは、食材切光忠に改名せねばならんからなァ」

 日没を迎え、朝から燭台切と顔を合わせること二回。その間に投げかけた冷笑や皮肉の数については俺自身記憶していない。覚えていたところで、いかに自分が最悪の同僚であるか改めて認識させられるだけだろう。それでも燭台切は泣き言一つ漏らさずに俺に話しかけてくる。正直言って人が良いにも程が有った。

「貴方、自分より良い男に恨みでも有るんですか?」
 旧知が遠征の報告ついでに余計な口まで挟み込む。呆れたような口調に若干の苛立ちを覚えはしたが、強いて反論を返そうとはしなかった。心に疚しいところが有るから揶揄の一つも受け流せないのだろう。さらに言うなら、宗三の指摘はそこまで的を外しているわけでもない。

「珍しいな、お前が身内以外を気に掛けるなんて」
「貴方にだけは言われたくありませんよ、にわか冷血漢。大男だてらに健気じゃありませんか。毎日毎日お局様みたいな態度を取られてるのに、それでも仲良くしたいんですって」
 軽率に燭台切と織田の二振りを組ませるんじゃなかった。あの伊達男のことだから仲介を頼むような真似はしないだろう。ただ俺の言動を図りかねて、薬研や宗三に話を振ることくらいはしたかもしれない。たかが相談を持ち掛けられたくらいで腰の重い傾国様が動くとも思えないが、それだけ燭台切が俺との軋轢を深刻に捉えているとしたら問題だ。

「別に、あれを嫌っているわけではない」
「そうですか。まあ真意はどうあれ、肝心の本人に伝わっていなければ何の意味も有りませんけどねえ」
 そう言った宗三が口元を袖で覆う。なるほど権力者の間で持て囃されたのも頷けよう。目の前の刀は何気ない仕草一つとっても妙な色気が漂っている。ただ口を開けば毒舌、皮肉の嵐なのだから外見ほど当てにならないものも無い。その辛口な発言も、よくよく咀嚼してみれば意外に正論に沿っているので尚更に質が悪かった。

「今の状況で知られるのはまずい。心配せずとも、本丸の運営に支障が出るようなら態度だって改善するさ」
「それまで燭台切に無体を働く気ですか。全くとんだ近侍もあったもんです。どんなに頑丈な岩肌だって、続ければ雨垂れにも削られてしまうんですよ」
 そうだな、あいつの堪忍袋の緒だっていつか限界を迎えるんだろうな。その瞬間を引き出すためだけに、俺はあの心優しい男の厚意を何度も踏みにじっている。我ながら魔王の刀に相応しい所業だった。

「どうでもいいですけど、この部屋もう少し何とかならないんですか。殺風景にも程が有ります」
「……仕事が出来るなら問題無いだろう」

 歌仙といい、こいつといい、近侍部屋を何だと思っているのだろう。ここは別に男士どもの溜まり場じゃないんだぞ。

「主はともかく、僕にまで畳の上に直に座れと言うんですか貴方は」
 座布団の一枚くらい余分に用意しておきなさい。溜息まじりの捨て台詞を吐いて宗三は退出していった。

 色々と言いたいことは有るが、少なくともお前ひとりのために私費を割こうとは思わん。今月も厳しい数字を出す帳簿を前に、悪友に釣られたのか俺の口からも嘆息が漏れ出てしまった。

 

【初陣:霜月】

 

 燭台切が顕現しておよそ半月が過ぎた。人の身にも大分慣れただろう。内番や遠征に倦み始めた新入りを前線に出すには程よい頃合いだった。

 主と打診し、さほど敵も強くない鳥羽を初陣の舞台として選ぶ。部隊編成を見た主は始め渋そうな声を上げていたが、俺の熱意に折れてか最終的には了承して下さった。
 確かに我が本丸は刀剣の数が足りてるとは言い難い。出陣、遠征、内番とそれぞれ役割を振り当てていけば、非番の男士などほとんどいなくなってしまうのが現状だった。低練度の刀剣が経験値を稼ぐだけの出陣である。正直言って、わざわざ近侍が出向く必要も余裕も無い。

 しかし、どうしても燭台切の初陣は俺自身の目で見届けたかった。たとえ未だ燭台切と良好な関係を築けておらずとも、俺があの刀を好ましく思っている事実に変わりはないのだから。

 本体の感触が実に手に馴染んだ。戦場の匂いはいつだって立場を忘れさせる。部隊を統べる身でありながら、刀身を鞘走らせた途端に視界が一気に狭まった。駆ける足も柄を握る指先も、敵を捉えた瞬間に全ては肉を断つための器官と成り果てる。
 赤黒い飛沫が頬を叩いた。伝わる生温かい感触に、全身を興奮が染め上げる。白刃を振るえば振るうほど五感は研ぎ澄まされた。背後に迫る異形など驚くにも値しない。血振りのついでとばかりに脇差の胴部を横薙ぎにする。呻き声を上げる間も無く両断された骸が崩れ落ちた。それを何の感慨も覚えず見下ろしたところで、ようやく戦場全体を窺う余裕が出てくる。

 つい刀としての本能に身を任せてしまったが、そもそもの目的は燭台切の後見であることを忘れてはいけない。隊長としての務めを果たそうと、今更ながらに仲間の姿を追った。
 金色の瞳と視線がかち合う。偶然と片付けるには、男の重心はあまりにも安定していた。縫い付けられたかのように燭台切はその場から動かない。放心してるようにも見える。既に敵は討ち取ったようだが、一瞬の隙さえも許されぬ戦場においては有り得べき姿だった。

(敵と切り結ぶ以外に、何をそんな夢中になることが有る)

 燭台切のどこか恍惚とした目つきが頭から離れない。出陣を望んでいた男の横顔を知っているから余計腑に落ちなかった。料理や畑仕事に喜びを見出してはいても、あれが刀の本分を忘れたことは一度も無いと信じていたのに。よりにもよって戦場で呆けるなんて、我らを顕現して下さった主に対する最大の裏切りではないか。
 戦況が落ち着くのを見計らって招集を掛ける。一言申さねば気が済まない。そう思う俺は傍から見ても苛立ちを隠せていないに違いない。組んだ両腕を人差し指で叩きながら、薬研が不埒者を連れてくるのを待った。

「遅い」
 脅すつもりで柄頭を燭台切の顎下に据える。このまま腕を勢いよく振り上げれば確実に脳震盪を起こすだろう。これは本音を引き出したいとか、怒り狂う姿が見たいとか、そういう私情故の行為ではない。隊長として、同じ戦場に立つ兵として、純粋に同僚の怠慢が許せなかった。

「燭台切、初陣で浮き足立つ気持ちは判らんでもないが団体行動は乱すな。隊長である俺の指示には従え。集合の合図を聞いたら十秒以内に」
「長谷部くん」

 駆けつけろ、と続けるはずだった言葉が不意に途切れる。脈絡無く本体ごと手を握られて、「ふぇ」と思わず間の抜けた声を上げてしまった。

「さっきの君すっごく格好良かったよ! 飛び降りるなり空中で刀を抜いて、着地する前に崖を蹴り上げて跳躍ってほとんど曲芸の域だよね! それで敵を斬ったと思ったら返す刀でまた背後の敵も一蹴! 豪快なのに無駄が無くて! 流石は近侍で第一部隊の隊長やってるだけあるよね! ちらっと横目で見てるだけでもドキドキしちゃったよ!」

 熱弁する男の目に鬼気迫るものを感じる。振り解けば良いのに、完全に勢いに呑まれてしまった。捲し立てられる賛辞、本体を覆う黒手袋の力強さに脳の処理が追っつかない。

「ああもう思い出したらテンション上がっちゃうな、そうだ長谷部くん帰ったらサイン書いてサイン」

 キラキラしたエフェクトが燭台切の周囲に飛び交って見える。美形も度を過ぎれば視覚の暴力でしかない。
 ああくそ! 眩しい! チカチカする! 無邪気な瞳を向けるなイケメンを自重しろあとやたら甘ったるい声を出すな貴様の声帯には上白糖でも詰まっているのか!
 と、いった文句を直接言えれば楽だったのだが、迫る美丈夫に恐怖しか覚えなかった俺は対応を全て第三者に丸投げした。あのときの大倶利伽羅ほど頼もしく見えたことは無い。

 偵察を理由に部隊の面々と別れて行動する。索敵が得意な刀は他にもいたが、俺の単独行動を咎める者はいなかった。先の騒動から俺と燭台切を一緒にするのは暫くまずいと判断されたのだろう。平静さを取り戻したらしい伊達男は遠目にも落ち込んで見えた。
 ふと己の掌に視線を寄越す。所々返り血で汚れてはいるが、いつも通りの何の変哲も無い白手袋だ。それを見つめているうちに、男に本体ごと掴まれていた感触が生々しく蘇る。

(温かかったな)
 そっと両の掌を合わせる。冷たい外気に晒されて、いずれこの温もりも消えてしまうのかと思うと勿体なかった。

「長谷部」
 目前に在った竹の脇腹を思いきり殴りつける。体重を載せて踏み込んだせいか、青々と育っていた茎は完全にへし折れてしまった。

「やるな大倶利伽羅、気配も悟らせずに俺の背後を取るとは」
「気を抜いていたことを格好良く言っても無駄だぞ」
 無残にも「く」の字を向いた竹を無理矢理抱え起こす。大倶利伽羅が他人の醜態を笑うような刀でないことは知っているが、何となくばつが悪かった。

「手伝いなら不要だ」
「用事のついでに声を掛けただけだ。隊長の判断にケチをつけるつもりは無い」
 大倶利伽羅の返しは己以上に愛想も素っ気も無い。しかし、そのぶっきらぼうな態度に反して彼の刀は驚くほど職務に忠実だった。馴れ合いを拒みはするものの、大倶利伽羅が主や部隊長の指示を無視したことは一度たりとも無い。この刀が意見するのは、明らかに道理にそぐわぬ命令を受けたときだけだった。

「あんた、光忠のことをどう思っているんだ」
 それは俺の理不尽を咎めているようにも聞こえたし、友人の身を慮っているようにも見受けられた。当人は認めたがらないだろうが、後者の理由の方が大きいと思われる。あの燭台切をして友と呼ばしめる男なのだ。口ではどうこう言っていても、情に薄いはずがない。

「別に嫌ってはいない」
「言葉と実際の行動とが一致していない。あいつは、あんたに疎まれていると思っている」
「それはそれは、嫌なすれ違いも有るものだな」
 殊更に残念そうに言って褐色の刀に背を向ける。偵察に戻るから追及はしてくれるな、と告げたつもりだった。俺の無言の拒絶は受け入れられなかったらしい。一定の距離を置いて自分のものでない足音が聞こえてくる。

「協力なら無用だと」
「この出陣は俺や光忠みたいな、練度の低い連中に経験を積ませるためのものだ。誉を尽く掻っ攫いそうなあんたが、近侍の仕事を放り出してまで付いてくる必要は無い」
 唐突な理詰めに踏み出す足が止まった。背後の大倶利伽羅もまたその場に留まる。

「あんたは存外、芝居が下手だ」
 ――どんな事情が有るかは知らないが、今のままでは互いにとって良い結果にはならない。

 珍しく饒舌を振るう大倶利伽羅をからかう余裕も無かった。己でも無意識のうちに限界を感じていたのだろう。燭台切の自制心は本物で、俺ごときの挑発に乗ってくれるほど幼稚ではない。これ以上つまらぬ意地に拘り、部隊全体の士気が下がるのは避けるべきだった。

「無事に」
 無事に帰還したら、全てを燭台切に打ち明ける。

「そのときは、無駄な心配を掛けたことをお前たちにも詫びよう」
「別に、どうでもいい」
 馴れ合うつもりはないからな、と続けた刀は終ぞ俺の傍から離れなかった。ふたりがかりでの索敵はやはり、単独で行うよりずっと効率が良い。

 部隊と合流し、今後の方針を説明する。先の偵察で、敵が部隊を大きく二つに分けていることが判明した。そのうちの一方が敵の本陣であることは見当が付いている。狙うは大将首、と行きたいところだが、襲撃の最中に別働隊に合流されては厄介である。最悪挟撃されることを思うと、今まで以上に進軍には気を遣わねばなるまい。

 岐路に差し掛かる手前で青江、薬研の二振りを偵察に向かわせる。敵の本拠地も近い。相手に見つからず敵の動向を探ろうとすれば、どうしても短刀や脇差に頼らざるを得なかった。
 木に背を預けて斥候部隊の帰還を待つ。交戦を間近に控えた緊張感からか、伊達の二振りはいずれも口を閉ざしていた。期せずして訪れた沈黙の中、秋田だけが良い意味で普段通り肩の力を抜いている。その秋田もただ待つのに飽いたのか、周囲の観察を止めて俺のところまで走り寄ってきた。

「珍しいですね、今日は本陣直行じゃないんですか」
 秋田の疑問は尤もである。この短刀は俺に次いで練度が高い。また長い付き合いから互いの戦い方も熟知している。俺が速攻を重んじるのは古参の刀なら誰もが知るところで、今回のように索敵を入念に行うのは珍しいと言えた。

「今日は初陣のやつもいるからな、石橋を叩いて渡るに越したことはない。下手に進軍して負傷されたのでは資材が無駄になる」
 幾度も出陣しているとはいえ、戦場では何が起きるか判らない。敗北に繋がりそうな種は摘み取っておくに限る。特に今回ばかりは、誰ひとりとして怪我を負ってほしくない。

 そうやって、慣れないことをするから要らぬ災厄を引き寄せるのだろうか。
 不意に躍りかかってきた物の怪が隻眼の刀によって打ち返される。樹木の中央に突き刺さった短刀は、長い尾を垂らしたまま動かなくなった。

 自軍を取り巻く敵影を確認する。その数、現段階でおよそ十二。一振りにつき三体を相手にしてようやく間に合うような戦力差だった。さらにこちらは出撃回数の少ない刀を二振り抱えている。大倶利伽羅と燭台切とは合わせて一振り分の戦力と考えた方が良いだろう。
 どうやら隊長の意地とやらを見せるときが来たらしい。ぞんざいに鞘を投げ捨て、藪から顔を出した化生どもの眉間に切っ先を向けた。

「ひとり三殺とは言わん。隊長の俺が責任を持って二振り分のノルマをこなしてやろう」
 絶対に全員無事に帰還させる。くだらない舅ごっこは今日で終いだ。謝罪するにしたって相手がいなければ始まらない。あの美しい刀に傷一つ負わせてなるものか。

 白刃が喉元の一寸先を掠める。間合いを見誤った敵の懐に入ることなど造作も無い。踏み込んできた相手の勢いを利用し、その腹から背へと刃を通す。ほとんど抵抗も覚えず人の子を模した上半身が地面に転がった。
 これで何体目の脇差だろうか。討ち取った首級を数えるのも億劫である。それほど敵の増援は絶える様子が無い。

 視界が一瞬ぼやけた。それが額を流れる汗のためだと知り、遅れて呼吸に喘ぐ自分に気がつく。肩で息をする感覚など久しく忘れていた。休息を訴える身体を叱咤し、再び正眼の構えを取る。肌を刺すような殺気は大分薄れていた。この場は凌ぎきったらしい。次の襲撃まで多少の猶予は有ると信じて、仲間たちの下へと急ぎ戻る。竹林を抜けた先では、刀装を展開する秋田を中心に、伊達の刀が獅子奮迅の働きをしていた。

 燭台切光忠の戦う姿を見るのは、これが初めてである。
 刀を持っていない方の黒手袋から長い尾が伸びていた。鞭のようにしなる尾の先を追えば、頬骨を半分ほど欠いた半屍体と目が合う。分銅のように振り回された短刀は、宙を飛び交う同志をも巻き込んで地に叩きつけられた。敵は衝撃に悶えながらも身を起こそうとする。その努力を嘲笑うがごとく、光忠が一振りが彼らの顔面に迫った。骨の砕ける音と人外の絶叫とが山林に木霊する。趣味の宜しい始末ぶりに、俺の口角も自然吊り上がった。

「無茶苦茶な戦い方をする、必死か」
「必死だとも。何せ僕はこれが初陣なんだからね」

 嗤いながら掛けた言葉は紛れもなく本音であり、一種の賛辞でもあった。
 流麗には程遠く、形振り構わず戦う様は蛮族にも近しい。およそ伊達男らしからぬ戦い方に己の血も沸き立つのを感じた。普段は蜂蜜を溶かしたような男の瞳が薄暗い光を宿している。強い獣性を秘めた黄金色には敵の姿しか映っていない。

 綺麗だ。美しい。そんなありふれた賞賛を口にするより、衝動に身を任せて敵を斬った方がよほど我が身の情熱を伝えてくれよう。一歩踏み出したときには疲労などすっかり頭から抜けていた。隙だらけの秋田を狙う狼藉者をひとり残らず圧し斬る。今なら何振り来ようが相手に出来そうだった。

 背後で大量の弓矢が放たれる。いよいよ秋田の準備が整い、刀装を展開したのだろう。続けて重量ある物体がそれなりの高さから落下した。振り返れば、四肢を変な方向に曲げた打刀が崖下に斃れ伏している。

 戦場に静けさが戻る。この時代に侵攻する時間遡行軍は短刀、脇差が中心で打刀は首領に限られた。残党も少なく司令塔も失った軍に後は無い。一時はどうなるかと思ったが、全員揃って無事主に復命できそうである。

 俺が一息吐く間に燭台切が走り出す。その行く先には秋田と、なおも血溜まりを広げる敵大将の姿があった。既に死に体だと思っていた男の腕が動く。黒い太刀に続いて俺も、大倶利伽羅も駆けだしたが既に遅い。どこにそんな力が残っていたのか、投擲された打刀は風切り音を立てて秋田に迫った。

 燭台切が満足げに微笑む。太刀の突進を受け、敢えなく突き飛ばされた秋田は目を見開いた。仲間の腹から刀が生えているのだから当然の反応だろう。崩れ落ちる男を前に三振りが悲鳴を上げる。秋田の呼号はすぐさま嗚咽に変わった。大倶利伽羅は顔を蒼くして同郷の友を支えた。俺は慌てて主に強制送還の申し立てをした。状況を説明する声は震えていたと思う。

 手入れ部屋に運ばれた燭台切は辛くも一命を取り留めた。完治にはまだ時間が掛かる。間取りに余裕が有るわけではないので、付添人は目まぐるしく交替していった。今は秋田と大倶利伽羅の二振りが詰めている。その間、俺は主より本来なら起こるはずのない異常事態について説明を受けていた。

 先の遡行軍は戦力の分散を見越したかのような奇襲を行った。曰く、各本丸の動向を管理する政府の情報バンクが敵方に一部リークされていたことが原因だったらしい。そもそも政府の目的は身内の不穏分子を炙り出すことで、情報もわざと漏洩させたものではないか、と主は訝しんでいるが、俺にとってはどうでもいい話だった。政府の真意がどうであれ、俺が燭台切を守れなかった事実に変わりはない。

 言うまでもなく、何より許せないのは己自身の無力さである。それと同時に、俺は燭台切の軽率さにも怒りを覚えていた。初陣のくせに、特もまだ付いていないくせに、刀装も残っていなかったくせに、あの男は躊躇無く仲間を庇った。今の今まで燭台切の好意を受け入れられなかった理由が自分の中でもはっきりする。

 あの太刀は優しすぎる。その優しさ故に自らが傷つくことも厭わない。ふざけるなと言いたかった。自己犠牲なんて自己満足の言い換えでしかない。秋田を見ろ。可哀想に、目を真っ赤に腫らしていつまでも泣き止まないでいる。大倶利伽羅だって、人の身を得て再会した旧知が死に瀕する姿など見たくなかっただろうに。

 俺も、俺だって、ただの嫌な同僚のままで終わりたくはないんだ。謝る機会をお前の都合で失うなんて絶対に認めない。現状からさらに顔も見たくない相手に降格しようと構うもんか。俺たちは主の刀だ。生死はおろか、髪の毛一本たりとも無為にはできないと知れ。

 手入れ部屋に向かうと、大倶利伽羅がぐずる秋田の背中を優しく擦っていた。伊達の刀はこぞって面倒見が良いのだろうか。俺の入室を認め、褐色の刀がすっくと立ち上がる。席を譲ってくれたことに短く礼を言い、最後に「約束は守れそうにない」と告げた。大倶利伽羅は僅かに眉を動かしたが、何も言わずに退出していった。

 日が落ちる。燭台切が目を覚ましたのは、西の空に宵の明星が現れた頃合いだった。いち早く変化に気付いた秋田が男の懐に飛び込む。謝罪と感謝を口にしながら桃色の短刀はぼろぼろに泣き崩れた。清潔になったばかりのシャツが汚れるのも構わず、燭台切は自らが守った少年を穏やかな表情であやしている。その余裕からして、眉間に皺を寄せた俺の姿など視界に入ってもいないのだろう。辛抱強く睨み続けて、ようやく男は俺の存在に気付いたようだった。

「は、長谷部くんも居たんだね」
「この至近距離で気付かんとは、お前の偵察値がよほど低いのか、俺の影が相当薄いかのどちらかだな」

 弁明に焦る燭台切の身体に傷跡は見当たらない。本人にも確かめたが、特に異常は無いと返ってきたので安心した。これで気兼ねなく計画を実行に移せる。

「手入れが終わったばかりで済まんが話が有る。秋田、燭台切を連れて行っても構わないか」
「ぼ、ぼくはだいじょうぶです、けど」

 秋田が不安げに燭台切の顔を見遣る。隻眼の刀は殊に明るく振る舞い、己を慮る短刀の頭を撫でながら俺の申し出を了承した。
 まるで悪役のような扱いだが、間違ってはいない。戦装束をつけるよう指示して先に部屋を出た俺は、まさに悪鬼と呼ぶに相応しい形相をしていただろう。

 主から許可を頂き、既に本日は役目を終えた道場の扉を開ける。本格的な冬を迎えるのはまだ先だが、この時期でも夜になれば大分冷え込んだ。道場の床板に直接腰を下ろしでもすれば、肌が粟立つのは避けられまい。座布団を敷こうとする燭台切を押し止めたのは、そういう魂胆が有ってのことだった。
 俺に命ぜられて、燭台切は大人しく冬場の床にひとり座り込む。もっと激しく抵抗すれば良いのに、と思わないでもないが伊達男の顔が寒気に歪むのは傑作だった。

「さて、今日はお前の初陣だったわけだが……手入れ部屋で目覚めた件も含め、申し開きは有るか燭台切光忠」
 燭台切に正座を強要する傍ら、俺は腕を組んだまま同僚の前に仁王立ちした。この一方的な構図も相俟って、俺の態度はより高圧的に映っただろう。

「申し開き?」
「そうだ。まさか主の手を煩わせ、無為に資材を消費させた不手際を上等とみなすわけなかろう」
「確かにあの助け方はまずかった、と思う。でも、僕は秋田くんを庇ったことを後悔してないよ。たとえ格好つかなくても、無様な結果に終わったとしても、仲間が傷つくのを見過ごすなんて僕にはできない」

 予想していた通り、燭台切は自らの選択を悔やむことは無かった。そんなことは秋田を庇ったときから知っている。ああ残念だよ燭台切、お前の口からたった一言でも主や仲間を悲しませたことを詫びてくれれば、俺だって多少の手加減は考えたのに。

「だからァ?」

 美しい黄金色が動揺に歪む。嘲笑をたっぷり滲ませた俺の返しは、黒い太刀にとって予期せぬものだったらしい。
 馬鹿なやつだな、俺がお前の善意を肯定的に捉えたことが一度でも有ったか? まだ本当は優しい近侍様を夢見ていたのか? 呆れるほど前向きなやつだな、本当にお前とは話が合いそうにない。

「そう言えば麗しい友情だ、燭台切は仲間想いだな、などと褒めてもらえると思ったか? 主の心を無駄に砕いた罪が不問になると考えたか? 浅はかだ、お前のその配慮の無さが最高に癪に障る。土下座だ。今すぐ床に手をついて、主と部隊長である俺に謝意を示せ」

 これで本当に土下座されたら問答無用で蹴り上げるところだったが、さしもの燭台切もそこまで軟弱ではなかったらしい。白く美しい男のかんばせには、失望以外の感情が確実に見え隠れしていた。それを引きずり出すには、もう一押し必要だろう。

「良いことを教えてやろう。もし件の悪あがきを秋田が受けたとしても貴様ほどの大事にはならん。だいぶ損傷してはいたが刀装は残っていたからな、せいぜい軽傷で済んだはずだ。……いかに己の行為が自己満足に過ぎないものだったか、理解したか?」
「そうだね。君が言うとおり、僕の行動は後先考えない勢いだけのものだったろう。でも、それを知ったところで、僕は秋田くんを庇ったことを悔やんだりしないよ」
「強情な男だ。友だ仲間だという一時的な感傷に引き摺られ、刀としての本分も全うできぬ己を恥とは思わんのか」

 燭台切の面はいつの間にか伏せられていた。男が頭を垂れたのは別に気勢を殺がれたためではない。その証拠に、両膝に置かれた拳は小刻みに震えていた。

「君は、君だったら秋田くんを見捨てるというのかい」

 その問い掛けにどんな答えが返ってくるかなど、燭台切もとうに想像がついているに違いない。絞り出すような声音には、抑えようのない怒りが滲んでいた。

「そうだと言ったら?」
 肯定も否定もしない。俺が男に向けるのは侮蔑と嘲笑だけで十分だった。

 木片の割れる音が道場に響く。男の震える拳が床板に真新しい穴を開けていた。膨れ上がる殺気が肌をひりつかせる。それが仮にも目的を同じくする仲間に向けられたものかと思うと、余計にぞっとした。

「一度でも、君と友になりたいなんて思った僕が馬鹿だった」
 憎悪に燃える黄金色が煌々と輝く。その光は遡行軍と対峙していたときよりずっと強い。男が内にこれほどの激情を抱えていたこと、それを惜しげもなく己に晒している事実にどうしようもなく昂奮する。

「お前が馬鹿なことくらい、会った初日から知っている」

 馬鹿なくらい優しいやつだから、限界が来るまで小さな不満すらぶつけられずに来たのだろう。なあ、もう我慢する必要は無いぞ燭台切。互いに、満足するまで、思うところをぶつけ合おうじゃないか!

 備え付けの木刀を二本分掴み、一方を燭台切の前に転がす。男は迷わず与えられた得物を手に取った。
 切っ先を眉間に向けて共に出方を窺う。その読み合いも俺が仕掛けたことですぐに終わった。機動には自信が有るし、鎧を身に纏った燭台切が俺の速攻についていけるはずがない。

 鍔迫り合いからのフェイント、相手の右足を払うように蹴りを放つ。期待した通り燭台切はバランスを崩したが、その体躯に一打を加えることは叶わなかった。素早く側方に転がった燭台切は俺の間合いより抜け出て、迅速に木刀を構え直している。
 避けられるとは思っていなかった。これは相手を過小評価していた俺の怠慢だろう。だが不思議と憤慨も落胆もしない。寧ろ湧きあがるのは悦びの感情だった。素晴らしいぞ燭台切光忠! お前はどこまで俺を愉しませてくれるつもりなんだ!

「ははっ、お前もそんな顔するんだな燭台切! 正直な話いつもより数倍は男前だぞ!」
「そう言う君はいつにも増して嫌みったらしい顔つきだねえ! 主の前での猫かぶり本当どうかと思うよ! もう一周回って尊敬に値するね!」
「俺の方もなァ、誰に対しても良い顔をする貴様を見るたび目を疑ったぞ! なんて薄ら寒い笑い方をするやつだと肝を冷やしたわ!」
 口汚い応酬を交えつつ木刀を走らせる。体格に恵まれた燭台切に力押しは通用しない。さらに練度差を埋めるため、俺は軽装備、燭台切は武具をつけた状態で相対している。決定打に欠ける一撃を手数ばかり増やしたところで、あの重戦車みたいな男を倒すことはできないだろう。

 ふと真剣に勝利を画策する自分に気付いて可笑しくなった。
 燭台切の本音を引き出すという目的は既に達成されたのに、身体は貪欲に男との仕合を求める。熱い。痛い。愉しい。心地良い。今まで何度も男士たちと技量を競い、矛を交えたけれども、全身の血が沸き立つような高揚感など味わった試しは無かった。

 もはや互いの主義主張など関係無い。限界を迎えた木刀を投げ捨て、後は徒手空拳のみで相手にぶつかっていく。鎖骨を砕き、あばらを折られ、激しく攻守が入れ替わる内に夜は更けていった。隅に置いていた行灯の蝋燭はとうに火を失している。二振りが揃って天井を向き荒げた息を吐き出す頃には、月明かり以外の照明は無くなっていた。

「やっぱりさあ、長谷部くんのやり方は強引だったと思うよ」
 破損した床板を剥がしながら燭台切が零す。その言葉に壁を修理する俺の手が止まった。

「それは自覚している、が」
「ああ責めてるわけじゃないから、そんな顔しないでほしいな。本音で話してほしいって気持ちは嬉しかったし、君とやり合うのは正直楽しかったからね」
 そのせいで燭台切は本日二度目の手入れ部屋行きとなったし、主からもお叱りを受けた。本来なら俺の所業は許されるものではなく、恨まれたところで同情の余地は無い。それにも関わらず、燭台切は改めて友になりたいと歩み寄ってくれた。さらには道場の片付けまで夜通し手伝ってくれている。
 そんな人の良い燭台切が批判を口にするなど余程のことだろう。責めているわけではない、と燭台切は言うが俺はどうしても身構えてしまう。そんな心境を知ってか知らずか、友人の話はまだ続くようだった。

「でも長年の付き合いが有る友人同士だって、腹蔵無く全て打ち明けるって難しいんじゃないかな。僕たちなんて出会って半月経ったかどうかだし、いきなり親友レベルになるのは厳しいものが有るよ」
「そうか? 織田の連中とは確かに顕現する前からの付き合いだが、よく話すようになったのは最近だし、お互い始めから言いたい放題だったぞ」
「その辺は相性の問題かなあ。宗三くんも薬研くんも遠慮するような質じゃないからね、勿論良い意味で」
「なるほど確かに俺とお前とじゃ相性は悪そうだな。ジャージの着方一つ取っても話が合うとは思えん」
「そこは絶対譲らないからね。でも話が合うとは思えない僕のこと、長谷部くんはずっと気に掛けてくれてたんだよね」

 言われてみればそうだ。この二週間は燭台切のことばかり考えさせられていた。俺は気遣いのできる性格ではないし、歯に衣着せぬ物言いばかりするから、男士たちと諍いを起こすことも珍しくはない。それでも翌日には決着をつけるよう心掛けていたから、今回のように半月も確執が続いたのは初めてのことである。刀派も主家も異なる男に、何故己はこうまで執着を見せたのだろうか。そういう意味で燭台切光忠はつくづく不思議な刀だった。

「ひょっとすると」
「うん?」
「お前があまりに美しい刀なもんだから、友人から一足飛びで親友になりたかったのかもしれないな」

 未だ自分の中でも結論が出ていないせいか、えらく客観的な物言いになった。ただ言葉にしてみると意外なほど腑に落ちる。何事にも誠実で、何者にも温厚な燭台切の人となりに強く惹かれていたのだろう。初対面の一悶着でスタートダッシュが遅れた分、一気に距離を縮めようと必死だったと考えれば説明もつく。

「うむ、やはり俺の我が儘のせいで無駄にややこしくなったらしい。腹いせにもう一発ぐらい殴っておくか? ……燭台切?」
 妙に背後が静かになったので振り返ってみると、何故か燭台切が膝を抱えた状態で床に座り込んでいた。その全身は小刻みに震えており、特徴的な二本の旋毛までもがぴょこぴょこと揺れ動いている。

「殴らなくて良いのか」
「僕はサンドバッグを友人に持った覚えは無いよ……」

 床から引き剥がされた木材が燭台切の手によって無意味に粉砕されていく。どうせ廃棄する予定だから構わないが、新たに飛び散った木屑を掃除するのは手間でしかない。友人が挙動不審になった理由はさておき、疲れていることは確かだろう。詫びの意味も込めて、今度胃薬でも贈ってやるとするか。

 修繕を終え、ついでに掃除も済ませたときには朝陽が昇っていた。途中手入れを受けていたとはいえ、夜を徹した疲れから俺も燭台切も足下が覚束ない。幸い朝食の時間まであと一時間ほど余裕が有る。燭台切にも仮眠を勧めようと思ったが、その前に向こうから大広間へ行くよう促された。

「少しでも寝ておかないと本日の業務に支障が」
「いいからいいから」
 何が良いのかさっぱり解らない。しかし抵抗する気力もろくに無く、あれよあれよという間に大広間へと連行されてしまった。適当な席に俺を座らせると、燭台切は待っててと一言残して部屋を後にする。俺の他に誰もいない大広間は異様なまでに静まりかえっていた。
 まあ、待てと言うなら待つが。あれは迎えに来てくれる男だし、俺も友人の信頼を裏切る趣味は無い。

 果たして燭台切は三十分もしないうちに戻って来た。しかもサンドイッチという土産つきでの帰還である。コーヒーだと眠れなくなるから、とホットミルクを用意している心遣いがまた憎らしい。

「食べて良いのか」
「長谷部くんのために作ったんだから当然だよ、ゆっくり召し上がれ」

 ゆっくりとは言うが、昨日の出陣からまともな食事はほとんど摂っていない。そこに厨当番の双璧たる燭台切光忠の料理を差し出されて、空腹を意識しない者などいるはずもなかった。
 さり気なく用意された蒸しタオルで手を拭き、野菜サンドを口に運ぶ。美味い。滅茶苦茶美味い。疲労も手伝って語彙力が完全に失われるほど美味い。付け合わせのスクランブルエッグはふわふわの食感だし、程よく焼き目の付いたハムステーキもメイン級の重厚さが有る。食は進みに進み、数分持たずして料理を平らげてしまった。

「ごちそうさま。凄かった、めっちゃくちゃ美味かった。やはりお前の料理は美味いな、燭台切」
 素直に賞賛の言葉を口にするや、蜂蜜色の隻眼が丸く見開かれる。何か変なことを言っただろうか、と己の発言を顧みるも結果は芳しくない。あまりに早く完食してしまったから味わっていないと思われたのだろうか。

「ど、どうした燭台切。俺はまた何かやらかしてしまったのか」
「違うよ。ただ長谷部くんに美味しい、って言ってもらうの初めてだったから、その感動を噛みしめていただけで」
「……そうだったか?」
 無言で頷かれる。食に対しては人一倍嘘をつけない質だから、とうの昔にボロが出ているものだと思い込んでいた。

「歌仙くんの料理は絶賛するのに、僕のときは無反応だったから結構悔しくてね。いつか絶対に美味しいって言わせてやろうと目論んでたんだ」
「それは、その、すまないことをした。いや、燭台切の料理はいつも美味いと思って食べている。今度からはちゃんと口にしよう」
「あはは、期待しておくね。僕こう見えて褒められて伸びるタイプだから」
「ほう、その辺は俺も同じだな」

 俺の相槌を受けてか、頬杖をついた燭台切の目が細められる。その麗容が紡いだ一言は「やっぱり僕たち、気が合うね」だった。
 やっぱり、という部分には同意しかねるが、後半については悪い気がしない。俺たちは相性も良くないし、話だって合わない。それでも親友にはなれるかもしれないのだ。今後は好意を押し隠して冷たくあしらう必要性も無い。この褒められたがりな友人と切磋琢磨していくことだって夢ではないだろう。

 こんな面倒臭い俺だが、これからもどうかよろしく、燭台切光忠。

 

【衝立:霜月】

 

 近侍部屋の障子を開けると、いつもの六畳一間に見慣れぬ家具が鎮座していた。

 千鳥柄の衝立なんてデカブツ、持ち込んだ覚えも当然注文した覚えも無い。前々から殺風景だの雅に欠けるだの散々言われてきたが、実力行使されたのは初めてだった。
 急ぎ脳内で容疑者をリストアップする。有力な候補が即座に三振りほど挙がった。

 まずは初期刀の歌仙兼定。常日頃より文系を自称しており、家財含め調度品には並外れてうるさい。近侍部屋を訪れるたび「雅でない」と口にしているため、犯人である可能性も高いだろう。

 次に馴染みの刀である宗三左文字。事件への関連性としては、予備の座布団くらい用意しておけ、と先日釘を刺されたことが印象深い。率先して力仕事をやる男ではないが、口が回るので修行を題目に山伏を引っ張り出すくらいのことはするだろう。俺相手には遠慮も配慮も要らないと思っている節が有るため、これまた犯人の可能性が高い。

 最後に燭台切光忠。何かと格好に拘る伊達男であり、近頃よく話すようになった一振りでもある。そして俺を除いた男士の中でこの部屋に立ち寄る頻度が最も高い。その理由は夜遅くになっても中々自室に帰らない俺に原因が在るのだが、そこはひとまず置いておこう。

 確かに近頃は小言も増えてきてはいるが、燭台切は俺の意向を無視して近侍部屋に手を入れるような真似はしないはずだ。有力な証拠として「この部屋何も無くて寂しいよね、開けた途端に全部が全部丸見えってのもどうかと思うし衝立とか置いたら?」という先日の発言が思い出されるが、俺は燭台切の良心に期待したい。

「おはよう長谷部くん。近侍部屋の衝立はもう見たかい? 歌仙くんと相談して決めたんだけど、中々良いデザインしてるだろう」
「俺の信頼を返せ」

 抗議代わりに大福の皮を行儀悪く引っ張るようにして食べてやった。なお効果はいまひとつのようだ。

 

【衝立二:霜月】

 

十一月十八日

「動かすと燭台切や歌仙に文句を言われるので、渋々衝立はそのままにしておく。今日は偶然、その新しい家具を主が目にされる機会が有った。長谷部にしてはセンスが良い、という言葉に多少引っ掛かりながらも、主の様子がどこか楽しげだったので俺もつられて嬉しくなった。選んだのが燭台切と歌仙の二振りであることを説明すると、主は妙に納得を示されて、部屋が賑やかなのは良いことだ、と言って自室に戻られた。
 この件は差し入れを持ってきた燭台切にも報告済みである。ただ、俺の話を聞いた燭台切の反応は何とも不可解であった。ここには、喜んでいるのか怒っているのか、非常に捉えがたい表情をしていたことだけ記載する。やはり俺は心の機微とやらに疎いのだろう。燭台切とは気の置けない仲でありたいが、そうなるのはまだまだ先の話らしい。

 また、放っておくと忘れそうなので以下は覚え書きとする。
 来客用座布団の購入要検討(最低一枚)」

 

【料理:師走】

 

「伽羅ちゃんにおむすび作ってあげたんだって?」
「まあな」
「僕にも作ってくれないかな?」
「断る」
「何で!?」
「いや、厨の主に得意でも何でもない料理を披露しろとか誰だって渋るだろう」
「このおむすびを握ったやつは誰だ、なんて言い出さないから安心してよ」

 作らないと言っているのに黒い太刀はしつこく食い下がってくる。伊達男の妙なガッツに辟易とした俺は元凶に視線を寄越した。救難信号は無事届いたようだが、助け船の入る様子は無い。大倶利伽羅はただ心底申し訳なさそうに首を横に振るだけだった。諦めて光忠の戯言に付き合ってやってくれ、という幻聴まで聞こえてくる。くそう、その手に在る小説は一体誰のものだと思っているんだ。今度また感想聞かせろよ待ってるからな!

「じゃあ僕も長谷部くんのリクエストに応えるから」
「む」
「何が良い? ババ・オ・ラム? エイブルスキーヴァー? トルタ・パラディーゾなんかも美味しいよ」

 何やら呪文を唱え始めた男の魂胆はともかく、燭台切光忠の特製菓子というのは魅力的である。
 刀剣の数も増えた昨今、悲しいかなお八つの用意も質より量が優先されていた。古参の短刀のみならず厨組も不服そうにしているが、如何せん菓子作りはやたらと費用が掛かるので節約は免れない。先日のイベントで燭台切(の料理)が賞品となったというのも、常に糖分不足なうちの事情を鑑みればさほど不思議ではなかった。

「だがこれ以上エンゲル係数を上げるわけにも」
「安心しろ長谷部! こんなことも有ろうかと光坊の財布にはサービス券が大量にストックされている!」
 タイミングを見計らったかのように天井から白い太刀が身を乗り出してくる。その手には黒革の財布が握られており、色々な意味で事情を聞く必要が有りそうだった。

「いやあイケメンは得だよなあ。普通に買い物してるだけで割引券だの福引券だの恵んで貰えるんだからなあ」
 天井から垂れ下がったまま鶴丸はひとり楽しそうに解説を続ける。よく頭に血が上らないなこいつ。

「そうそう、材料費は十分抑えられそうだから気にしないで。それに長谷部くん、この前の優勝者権限、実質使ってないようなものだったろう」
「俺も同じメニューを食べたんだがな」
「僕は長谷部くんが食べたいメニューが知りたいんだよ」

 こいつめっちゃぐいぐい来るな。燭台切はこんな調子で押しが強いし、鶴丸は顔面ブルーベリー状態で重力と戦ってるし、大倶利伽羅がここに避難してくる理由も解る気がする。
 もっとも既に接触している現段階において、逃亡を有効な手段と呼ぶことはできまい。この場合の最適解とは、諦めてさっさと相手の要求を呑むことである。

「じゃあミルフィーユ」
 適当に浮かんだ洋菓子の名を挙げる。詳しいことは知らないが、乱と加州がやけに盛り上がっていたので門外漢の俺でも何となく気になってはいた。

「ミルフィーユだね、オーケー任せてくれ」
 実に頼もしい返事をしてくれる友人には申し訳ないが、俺はそのミルフィーユとやらの外観すら把握していない。画像なんぞ検索したら確実に食べたくなるので、賢明な判断だと思っている。

「じゃあ今度材料買ってくるから、長谷部くんもおむすび、忘れないでね」
 そう言って伊達男は天井の荷物を引きずり下ろし、好青年らしい笑顔を携えて部屋を出て行った。その後の鶴丸がどうなったかはご想像にお任せする。

 

【料理二:師走】

 

「長谷部くん、機嫌直してくれた?」
「別に始めから怒ってませんよ」
「敬語」

 襲撃より十数分、黒い太刀は俺の背後に回るや、手を揉み肩を揉みと判りやすく機嫌を取りに来た。普段なら友人に諂われたところで怖気が差すだけだろう。しかし今回ばかりは大型犬のように纏わりつく燭台切の姿に溜飲が下がった。

 まあ衝立無断設置事件は、こいつなりに俺と周囲を気遣った結果と見なしても良い。だが先日の一件は積極的に俺を陥れようという明確な意志が有った。たとえ全ては大倶利伽羅のために行ったことだとしても、俺からすれば友人に裏切られたも同然である。というか薬研まで巻き込み、厳しい懐事情を押してまでイベントに臨まされたことが一番許し難い。日々へそくりを数える楽しみを返せ伊達刀(※同じく被害者の大倶利伽羅は除く)

「ミルフィーユも焼いてきたよ、長谷部くん食べたいって言ってたよね?」

 聞き覚えの有る料理名に体がピクリと反応を示す。突きつけられた皿から鼻孔をくすぐる甘い香りが漂った。先に嗅覚を攻められた上で、カスタードクリームをパイ生地で挟んだ洋菓子なんてもの視界に収めれば喉が鳴るのは必至。ふんだんに盛られた苺は噛めば酸味が弾けそうで、砂糖の甘さに飽いた頃には程よいスパイスになること請け合いである。
 おのれ燭台切光忠、こんな兵器を持ち出してまで俺を屈服させようというのか。その手には乗るものか、その砂糖の塊は短刀にでもくれてやるがいい!

「それとも、もう食べたくないのかな。僕のミルフィーユ」
 そう耳元で囁かれる低音は妙に艶っぽい。燭台切、お前は声の良さをもっと別のところで活用するべきなんじゃないか。俺を口説いたところで辛気くさい説教くらいしか出てこないぞ。だからといって野菜との距離を縮められても反応に困るのだが。

「長谷部くんと仲直り、したいな……?」
 吐息が頬に掛かったところで伊達男の誘惑を圧し斬る。呼び止める声を一切無視して廊下に出た。捕まるのは面倒なので目的地に直行はしない。全く、こんなことなら始めから言う通りにしておけば良かった。

 ぺたぺた。

「そこで何してるんだい、長谷部くん」

 ぺたぺた。

「見ての通りだ」

 あれから各所を探し回ったのだろうか、燭台切が俺を見つけるのは予想していたよりも随分と遅かった。まあ早すぎるよりは良い。軽く手を洗い流し、完成した品を友人の鼻先に突きつける。恐る恐るといった体で皿が受け取られたのは、琥珀色の隻眼が何度も瞬かれた後だった。

「お前から見て右が昆布、左が鮭だ。梅は今作ってるから少し時間をくれ」
「何でこのタイミングでおむすび作り出したの?」
「元々そういう約束だったろうが。俺が握り飯を作る代わりに、燭台切もミルフィーユを提供すると」

 あの菓子は何もせずして貰って良いものではない。俺があれを口にして良いのは、約束を果たしたときのみと決まっている。無論、俺の妙に大きく不格好な握り飯と、彩りも鮮やかな燭台切の菓子とでは端から釣り合いが取れるはずもない。決して褒められた代物ではないことは自分でも解っている。それでも、燭台切に食べてみたいと言われたときは正直、嬉しかった。

「あんな美味そうな菓子を脇に置かれては、作らざるを得ん」
「えっと、何か急かしちゃったみたいでごめんね」
「どうせいつかは作ることになったのだから構わん。そんなことより、楽しみにしていた菓子をご機嫌取りの道具にされたことの方がショックだ」

 息を詰めた燭台切の手を取り、その上に出来たての梅おにぎりを載せる。友人は呆気にとられていたが、黙って食えと口パクで伝えたらすぐに相好を崩した。

「美味しいよ長谷部くん」
「なら良かった」

 ほっと胸を撫で下ろす。期待に添えないのではないかと内心冷や冷やしていたから、燭台切の反応には救われる思いだった。丁寧なことに、友人は指に貼り付いた米粒まで平らげてくれている。先の感想が世辞でないと判って、頬の筋肉もついだらしなく緩んでしまった。
 燭台切が厨仕事に熱心なのも頷ける。誰かのために作った料理を褒められるのは、存外嬉しいものだ。

「ミルフィーユは近侍部屋に置いて来ちゃったから、戻って一緒に食べようか」
「ああ。しかし、とんだ食い合わせだな」
「主食とデザートって思えば大丈夫、大丈夫」
 和洋折衷にも程が有る。友人の呑気な発言に突っ込みを入れながら、俺は初めての西洋菓子に思いを募らせていた。

「伽羅ちゃんもミルフィーユ食べるかい?」
「遠慮しておく……」

 大倶利伽羅は何故かげんなりとした様子で燭台切の誘いを断った。曰く、甘いのはもう十分だ、とのことだが一匹竜王の考えることはよく解らない。なお、昆布味の握り飯とミルフィーユとを交互に食べた鶴丸は、味の不協和音が過ぎて暫く床に突っ伏していた。
 それにしても最近の近侍部屋は伊達の集会場と化していないだろうか。別に構わないが、座布団の予備は一枚しか買っていないので対応に困る。今夜あたり日記に覚え書きをしておこう。

 

【遠征一:睦月】

 

一月十二日
「主命に従い平成の世に飛ぶ。主の指示により、編成は俺と燭台切の二振りに限られた。その意図は未だ不明。現地において歴史修正主義者一名と接触、燭台切が説得を試みるも不首尾に終わる。件の歴史修正主義者は健在、歴史は変わらず」

 

【遠征二:睦月】

 

一月十三日
「再び平成の世に遠征。昨日の歴史修正主義者と遭遇、特に行動を起こす気配無し。以後この日付に介入する可能性は低いと思われる。主の意向を伺いたい」

 

【遠征三:睦月】

 

一月十四日
「前回より一年と半年後の日付に飛ぶ。例の歴史修正主義者――長いので、以後は便宜上「小僧」等と称す――は病院で治療を受けていた。外的損傷ではなく、精神面の問題らしい。両親の下へ逝きたい、という言葉が偽りでなかったことが証明された。戦も飢餓も無い太平の世に生まれながら死を渇望するとは、どの時代にも物好きはいるものである。

 人の子は死すれば亡者に会えると嘯く。なら人の体を得た刀剣男士が折れたときには、同じく死後の世界に行き着くのであろうか。
 試すつもりは無い。我が身は今代の主の物である。生死すら己の自由にはならないことをゆめゆめ忘れるなかれ」

 

【遠征四:睦月】

 

一月十五日
「車道に飛び出そうとしてた小僧をすんでの所で救出する。これで四度目の接触、主が我々を平成に送り出す目的はこいつと見て間違いない。しかし、この悪童は兵力らしい兵力も連れず、目的も死別した両親の救出から既に自殺の成就にすり替わっている。こんな若造一人が歴史を改変することなど有り得るのだろうか。

 詳細を尋ねるも主は黙秘を貫かれた。信頼されていないのだろうか。ならば一層主命に励まねばなるまい。そもそも主君を疑うなど臣下にあるまじきことだった。要猛省である」

 

【遠征五:睦月】

 

一月十六日
「五度目の遠征を終えた後、燭台切が初めて休息を提案してきた。顔色が悪いと言われたが、それは向こうも同様である。俺ひとりだけでも行く、という主張は腰にへばりつく秋田と五虎退によって却けられた。顕現して間も無い一期一振の視線が突き刺さる。翌日の遠征は明後日に延期となった」

 

【遠征六:睦月】

 

一月十七日
「深夜、魘されて目を覚ます。酷い夢を見た。大切にされていた。幸せだった。何百年経っても未だに忘れられない。あの童と会ってから毎晩この調子だった。これなら織田時代の天狗になっていた黒歴史を見せつけられる方が余程ましである。

 寝付けそうになく、その夜は縁側でひとり酒を嗜んだ。顕現して解ったことだが、俺は酒には強い方らしい。多少過ごしても意識はハッキリしてるし、翌日になって記憶を失うこともない。
 こういう夜には寧ろ酒に弱い方が有り難かった。酔い潰れ、前後を失い、都合の悪い記憶だけ忘れてしまえれば、どれだけ楽になれたことだろう。

 いや、中には酒に弱くとも酩酊時の醜態を忘れられないやつもいたな。美の化身のような男が、一発芸と称し「乳首でピーナッツ割ります」と言い出すとは思いも寄らなかった。これを本人に言うと烈火のごとく怒り出すので、周囲の者も基本触れないようにしている。

 日記の上とはいえ、二ヶ月以上前のことをほじくり出してすまん燭台切。しかし、お陰で少し元気が出た。お前からすれば忘れたい過去だろうが、初めて一緒に呑んだときのことを思い出すと、どんなに落ち込んでいても多少気が楽になるんだ。遠征が終わったら駄目元で燭台切を酒に誘おう。ひとりで飲む酒は、やはりどこか味気ない」

 

【遠征七:睦月】

 

「ふざけるな燭台切、主命を蔑ろにするつもりか」
「この件については君と組むつもりは無いんだよ。遠征自体に意義を見出せないし、不要と思ったから進言したまでだ」
「未だ話せる段階ではないと主も仰っただろう。貴様は主を信用できないと言うのか」
「唯々諾々と主の命令に従うのが最善とは限らないだろう。君の在り方は忠臣じゃなくて佞臣って言うんだよ」

 腕を思いきり振り抜く。燭台切は受け身を取る間もなく俺の一打を受けた。たかだか紙の扉ごときが大男の体重を支えきれるはずがない。別の間の仕切りとなっていた襖は燭台切とともに倒れ込み、無人の部屋の冷え切った空気をここまで運んできた。
 驚愕に染まる琥珀色を眼窩に収め、ようやく己も我に返る。主の前でとんだ失態を演じてしまった。慌てて主君の前に傅き、このたびの非礼を詫びる。

「では現状維持ということでお願いします。当然ながら修繕費は俺が持ちますので、主はどうかお心安く」
 燭台切の下敷きとなっていた襖を回収し、主にのみ礼を示して部屋を出る。

 友人を殴ったことを後悔はしていない。遠征を取り止めるつもりもない。そして、燭台切と仲違いもしたくない。
 主が俺と燭台切、二振りでの遠征を望んでいるということも有る。だがそれ以上に、挑発に乗って激憤を抑えられなかった件を謝りたかった。万事において真面目な友人が、任務を途中放棄するという選択を何故に採ったのか。それが解らぬほど、底の浅い付き合いをしてきたとは思いたくない。

 燭台切の部屋の前で友人の帰りを待つ。俺の右隣には酒器と四合瓶を据えた丸盆が置かれていた。猪口と銚子はふたり分用意してある。無駄にならなければ良いが、と冷え切った掌を摺り合わせた。今晩は随分と冷える。こういう夜は尚更に酒気が恋しい。

「長谷部くん」
 待ち人の声を聞き、三日月から廊下へと視線を移す。今の今まで手当を受けていたのだろうか、燭台切の右頬には生々しい傷跡を覆うように湿布が貼られていた。

「燭台切」

 呼びかけはしたが、友人の麗容を損なった事実を眼前に突きつけられ、情けなくも掛けるべき言葉を失ってしまった。さっきはすまなかったとか、痛むかとか、言いたいことは沢山有ったはずなのに肝心の口が動かない。
 このようなとき、先に切っ掛けを作ってくれるのはいつも燭台切の方だった。男は丸盆を挟んで俺の隣に腰掛ける。迷わず酒杯を手に取った友人は、ご相伴に預かりたいな、と笑顔で晩酌を勧めてくれた。本当にできた男だと、しみじみ思う。

「さっきは、すまなかった」
 一献空けると、先はあれほど言い淀んでいた謝辞もするりと口を衝いて出た。今更ながらに緊張で咥内が乾いていたことを知る。そもそも緊張すること自体が馬鹿げていた。この優しい刀が、友人の心からの謝罪を聞き入れぬはずがない。

「謝らなくて良いんだよ。長谷部くんの意志を無視した挙げ句、黙って主に遠征の中止を申し出て、全てを終わらせようとしたのは僕だ」
「ああ、それについては今でも怒ってる。まるで信用されていない気がした。残念だが、あの程度で参るような繊細さは持ち合わせていない」
 怒りを覚えながらも俺は友人の行為を責めきれなかった。主の前で口論になったとき、燭台切の語気は常になく荒々しかった。どこか挑発的な物言いは、俺の怒りを買って遠征の続行を思い止まらせようと敢えてしたことなのだろう。あくまで俺の想像だが、確信は有った。

「燭台切は自分のことでは怒らない。秋田のときがそうだったから、今回もそうだと思った」
 出会ったときから変わらない。髪型が崩れたり、酒席での珍事を突かれれば、確かに燭台切も機嫌を損ねることはままある。それでも友人が憤るのは、必ず周囲の身を案じてのことだった。どこまでも誠実で優しい刀だからこそ、俺は無様を晒してでも友になりたいと思った。その自慢の友人を二度も殴り飛ばすことになるとは、俺も大概成長しない刀である。
 己に呆れながら燭台切の頬に目を遣った。あの湿布の下には、見るだに痛々しい青痣が隠されている。患部を刺激しないよう、触れるか触れないかの距離でその輪郭に指を這わせた。

「俺では絶対に主には言えないことを、代わりに言ってくれたのだろう。お前は、そういう男だ」
「そんなんじゃないよ。僕はただ、自分のしたいようにしただけだ。こっちこそ、さっきは酷いこと言っちゃってごめんね」
 気にしてない、と告げて手を戻す。互いに謝り、蟠りが解けた後は、ゆっくりと月見酒を堪能した。その間に色々な話をした。未だに自決を諦めぬ小僧のこと、心中できる身を羨んだこと、誰にも話す気の無かった黒田家のこと。燭台切にとっては面白くも何ともない話だろうに、友人の耳を傾ける姿勢は真剣そのものだった。聞き上手な同僚を労ってやろうと猪口を覗き込むが、その中身は半分も減っていない。酒が得意でないことは把握しているし、面も伏せていたから既に限界なのだろうと考えた矢先だった。

「今から僕はとても自分勝手なことを言うよ」
 珍しく燭台切が一気に杯を呷る。どこか意を決したような声音に、俺も思わず居住まいを正した。

「僕は、君が生きていてくれて嬉しい」
 それは明らかに、付喪神にあの世があるならばついて行きたかった、という俺の告白を意識したものだった。

「長谷部くんと一緒に戦えて良かった。伽羅ちゃんの面倒を見てくれて、鶴さんの冗談に付き合ってくれて、みんなと一緒に僕のご飯を食べてくれて。長谷部くんと、こうして一緒にお酒を飲めて、僕は嬉しい」
 捲し立てる燭台切は俯いたままで、その表情を窺うことはできそうにない。ただ友人の漏らす一言一句はどこまでも親愛に満ちていて、その切実な響きに胸が熱くなった。

「君が元の主に付いていけなかったことに意味が有るなら、みんなの居る今の本丸に意味を見出してほしい。僕は、心からそう思ってる」

 言い終えた燭台切は体ごと俺の方に向き直る。酒のためか、頬は紅潮して瞳は僅かに潤んでいた。縋り付くような表情につい堪えきれず笑いが零れてしまう。
 だって可笑しいじゃないか。口説き文句は最高に伊達男なのに、顔つきは完全に幼子のそれだ。もっとも漏れた忍び笑いは決して嘲笑の意味を含んではいない。真実俺は、友を想い胸中をさらけ出してくれた燭台切の誠意が喜ばしかった。腹の底からこんな友人がいて幸せだと思えた。
 飲み干した杯を盆に置く。さっきから一口も飲んでいないのに、体は十分温かかった。

「ありがとう燭台切、お前の言葉で少しだけ前向きになれた気がする。ああ、実に格好良い刀だなあ、お前は」

 感謝の言葉を口にすると、燭台切の蜂蜜色に似た瞳がさらに甘くとろけた。間に置かれた丸盆が後ろに下げられる。その意図を汲むより先に、肩に回った手が俺の身体を引き寄せていた。視界が傾ぎ、冬の寒さが少しばかり和らぐ。服越しに伝わる体温があまりにも心地良いので、同僚に肩を抱かれている事実に気付くまで暫く掛かってしまった。

 酔った燭台切が奇行に走るのは珍しくない。今回もその類だろうと想像はつくが、何しろこの男、無駄に顔が整っている。遠巻きに鑑賞する分には良いとして、このように至近距離かつ接触を強要されるのは心臓に悪い。いかに形の上では同性であろうと、うかつに触れるべきでないのは美術品も美丈夫も同じである。

「どうした、もう酒が回ったか」
「そうかも」
「しょうがないやつだなあ。部屋はすぐそこなんだから、ちゃんと布団に入って寝るんだぞ」
「そうする」
 既に呂律も怪しくなっている。懸念は現実のものとなり、暫くもしないうちに燭台切光忠は俺にしなだれかかって「眠い」を連呼するだけの機械と成り果てた。

「寝るなら部屋に戻れよ」
「わかったあ」
 燭台切は立ち上がりこそしたものの、その足取りは何とも頼りなく、数秒後には予想に違わず柱と激突していた。

「ああもう肩貸せ、送っていってやる」
「はせべくん、やーらしい」
「それ優しいの言い間違えじゃなかったら旋毛抜くぞ」

 遠慮なしに体を預けてくる男を何とか支え、すぐ背後にあった障子を開ける。己の部屋と違って家具や装飾品の多い部屋が露わとなった。それでも整理整頓が行き届いているためか、雑多な印象は少しも受けない。そんな伊達男の拘りを感じる一室だが、部屋の主人は大の字に寝転がって睡魔に身を委ね始めていた。

「だから寝るなら布団に入ってからにしろ」
「もうねむいから、このままねるぅ」

 半ば予想していた返しである。内装はともかく、押し入れの位置はどの部屋もさほど変わらない。布団を引っ張り出し、寝床を用意するのもそう時間は掛からなかった。

「ほら燭台切、布団は敷いてやったぞ。寝るなら上着だけでも脱いでからにしろ」
「はせべくんのまえでぬぐの」
「上着とベストだけなら恥ずかしくないだろうが」
「はせべくんのすけべ」

 もはや言い聞かすのも面倒だった。ぎゃあぎゃあ騒ぐ酔っ払いの声を無視し、ひとまず上着とベストをハンガーに掛け、ついでにベルトも抜き去る。本当は寝間着になるのが一番だが、収納場所が判らない以上、妥協も必要だった。

「よし、もう寝ても良いぞ」

 掛け布団を叩いて誘導するも、相手はこちらを睨んだまま動かない。暗闇の中では一つきりの金色が一等光って見えた。不機嫌さを隠さぬ男の隻眼は、先のような甘い響きを伴わず、寧ろ敵将の首を狙う目つきに近しい。いったい何が不満なのか、訳も判らず引き留められて苛立ちに前髪を掻き毟った。

「はせべくんは」
「俺は部屋に帰る」
「はせべくんもここでねなよ」
「いい加減にしろ酔っ払い。それ以上言うと泣きを見るのは明日のお前だからな」

 本人にも酒が原因で無様をしでかしたら止めてくれ、と強く言われている。酔って同僚を褥に引っ張り込んだなどと知ったら、当分本丸のお八つが既製品に固定されてしまうだろう。短刀のためにも俺の糖分補給のためにも、それだけは絶対に避けたい。

「ほら、良いからここに倒れろ。そして何も考えず目を瞑り爽やかな朝を迎えるんだ、解ったな」
 布団をめくり上げると、意外にも燭台切はその間に大人しく収まった。最後に枕の位置を調整し、男の瞼が閉じられたのを確認する。やっとのことで目的を果たした俺は疲れ切っていた。明日の遠征に備え、俺も寝ようと寝床に背を向ける。それがいけなかった。立ち上がる足首を捉えられ、為す術もなく後ろに倒れ込んだ俺の腰に力強い腕が回り込む。

 はめられた! よりにもよって酔っ払いごときの猿芝居に!

 何とか拘束から逃れようとするも、太刀の腕力に敵うはずもない。狭い布団の中に引きずり込まれると、人肌で暖められた異空間が別の意味で抵抗する気力を奪っていった。

「ほうら、あったかいねえはせべくん」
「お前絶対明日後悔するからな、俺は止めたからな、覚えてろよ」
「おぼえてるよ、ぼくはせべくんのことはぜんぶおぼえてる」
 回された腕の力が少しだけ弱まる。拘束が緩められたのは俺のためではなく、体勢を入れ替えるのが目的だったらしい。視界が反転したと思いきや改めて正面から抱き込まれてしまい、もはや気分は俎上の魚も同然である。締まりのない顔しやがって、と内心毒づくも、男の慈しむような目は正直嫌いになれなかった。

「はせべくんがぼくのことわすれるのはさみしいけど、ぼくはずっとおぼえてるから。たいせつにするし、ぼくのいちばんだってあげるよ」

 ぼくじゃやくしゃぶそくかな、と続ける友人に俺はどう答えるべきだったのか。普段は罵声に皮肉にと忙しないこの口先は、重要な場面に限って急に朴訥を気取るのだから始末に悪い。
 おやすみ、という挨拶を最後に今度こそ友人は眠りに就いたようだ。

 ふざけるなよ燭台切光忠、そんな台詞聞かされて熟睡できる鈍が居てたまるか。
 腹いせに体温の高そうな男の懐に潜り込む。どうせ朝まで眠れないのだから、これぐらいしても罰は当たるまい。おやすみ肉布団、起床までの平和をせいぜい味わっておけ。

 

【遠征八:睦月】

 

一月二十一日
「九度目の平成遠征にして初めて成果を上げる。死にたがりの悪童はようやく諦めることを覚えたようだ。今後は慣れぬ兄役に翻弄されるだろう小僧の姿が目に浮かぶ。その痴態を想像して時折ほくそ笑む分には、良い退屈しのぎになりそうだった。

 意気揚々と主に復命すれば、最後にもう一度だけ遠征してほしいとの仰せである。それだけなら良いが、遠征に向けて歌仙から膨大な量の土産を要求された。万年資金不足のうちにそんな余裕は無い。といった反論は端から織り込み済みだったのだろう。後に会った燭台切の手には分厚い札束が握られていた。
 既に逃げ場が無いことを知り肩を落とすも、同じく使い走りを強いられた燭台切は妙に上機嫌である。話を聞くと、軍資金には俺と燭台切の衣装代も含まれているらしい。結局午後は伊達男の買い物に再び付き合わされる羽目になった。色々と組み合わせを試しては、ああでもないこうでもないと唸っていたが、正直俺には違いがさっぱり判らん。まあ最近の遠征で燭台切も目に見えて疲弊していたから、これが良い気分転換になったのなら幸いだ。勧められて立ち寄った茶屋も味は悪くなかった。やはり人の身体は甘味のみでも生きていける」

 

【遠征九:睦月】

 

一月二十二日
「とうとう平成への遠征が二桁の大台に乗る。数年の年月が経ち、小僧はそれなりに大人びた風貌に成長していた。再会することはもう無いだろうが、叶うのであれば二振りと一人で撮った写真と巡り会いたいものである。

 今日の遠征は本業よりも寧ろ土産の購入に手間取った。あんな狭苦しい箱の中に詰め込まれ、あまつさえ品定めまでする人の子の業には恐れ入る。リストを制覇した頃には、大阪城堀りの終盤なみに疲弊していた。博多早く来い。
 自分の土産は買わなかったが、燭台切は俺にプレゼントと称して十字架を贈ってきた。耶蘇教を奉じているわけではないものの、友人の気持ちは素直に喜ばしい。しかし、これを贈ったときのあれの言葉は未だに信じがたい。正直なところ聞き違いではないかとすら疑っている。いやその方が信憑性が有るだろう、まさか燭台切が俺に■■■■■■なんて誰が思うもんか。

 明日からまた近侍の任に就く。歌仙から日誌を受け取るのを忘れないように」

 

【日記:如月】

 

「長谷部」

 出陣から戻って早々、歌仙に呼び止められた。俺が留守の間は主に歌仙が近侍代行を務めている。何か問題でも発生したのだろうか。そう思い、戦装束もそのままに用件を促すと、歌仙らしくもなく話を切り出すのに困っている様子が見受けられた。
 初期刀の歌仙とは本丸でも最長の付き合いである。宗三とはまた別に、こいつも俺に対して遠慮の無い刀の一振りだった。その歌仙が俺に気まずそうな顔を向けるなど、それこそ天から三名槍が降ってきてもおかしくない珍事である。

「おい気色悪い顔はやめろ歌仙、言いたいことが有るならはっきり言え」
「君こそもう少し文学的な表現はできないものかな。字はそこそこ綺麗なのに感性は無骨そのものだね」

 呆れたように言った初期刀が懐から冊子を一部取り出す。見覚えが有りすぎるほどに有る表紙を前に、全身から血の気が引くのが判った。一も二も無く歌仙の手から冊子を奪い取る。その反応すら予想の範疇だったのか、俺の振る舞いに初期刀は些かも動じていない。さっき気遣わしげに本題に移るのを渋っていた姿は何だったんだ。だからお前は自称文系なんだ、おい解ってるのか之定こら。

「読んだのか」
「前もって言わせてもらうが不可抗力だ。無論悪いと思ってはいるが、君にも責任が有ることを念頭に置いてほしいね」

 予防線全開の弁明に言い返せぬ我が身が口惜しい。いくら装丁が同じとはいえ、近侍日誌と間違えて私物の日記を差し出す馬鹿をやらかしたのは、他ならぬ俺自身だった。どちらの表題も俺手ずから書き入れたものだし、中身も多くが同一人物の記述に拠っている。ぱっと見では判断がつかないのも無理は無かった。
 問題は歌仙が偶然開いた頁がいつの日付だったのかだ。始めの方なら別に良い。中盤でもまだ救いは有る。最近のくだりを見られた日には天を仰ぐしかない。

「君、燭台切のこと好きすぎやしないかい」
 今日もお天道様は眩しかった。

「待て、それはたまたまあいつを話題に挙げた箇所を読んだだけじゃないのか」
「脅威の出現率五割越えじゃないか。バッターなら確実に伝説を残せる打率だよ」
「統計を出せるほど読み込んだと見て良いんだな? よし首を差し出せ」
「カマかけただけに決まっているだろう。進んで人の秘密を探ろうとするほどねじ曲がっちゃあいない。うっかり見てしまった部分だけでも君の好意は十分伝わったけどね」
 今度は俺が言い淀む番だった。確かに言葉こそ選ばないものの、互いに礼節を知らぬ仲ではない。踏み越えてはいけない一線くらい弁えていて当然だった。

「いやしかし、長谷部の心境も解らなくはないさ。燭台切は良い男だ。君みたいな朴念仁だろうと惹かれて当然だろう」
「お前も良い首してるな歌仙、ちょっと圧し斬ってもいいか」
「ところで長谷部、今日の煮物は何が食べたいんだい」
「カボチャ」

 どこか既視感を覚えるやり取りを経て近侍部屋に詰める。あそこで煮物を出してくるとか鬼畜か。どいつもこいつも、美味いものを出せばすぐ懐柔できると思いやがって。刀をペットか何かと勘違いしてるんじゃないか。そんなに餌付けがしたいなら、飼ってる鶏をぶくぶく太らせてやってくれ。仕上がったチキンは俺が頂く。

「長谷部くん、差し入れ持って来たよ」
「来たな元凶」
「何の話」
 決まった時間になると現れ、一定量の食事を与え、信用を得たところで借金の取り立てとばかりに内臓物を抉り取っていく。流石に取って食ったりはしないが、燭台切が俺に食事を提供する過程はほとんど畜産のそれに等しい。美味い飯そのものは歓迎するとして、その対応をマニュアルがごとく周囲に認識されるのは面白くなかった。

「燭台切が俺に餌付けするもんだから、他の連中まで飯で釣ろうとしてくる」
「別に僕は餌付けしてるわけじゃないよ。好きな子に手料理を食べてもらいたい、って思うのは普通のことだろう」
「そういう意味で好きになった対象がいないから解らん」

 少なくとも俺が燭台切に向ける感情は、あくまで友人に対するものだと思っている。断言できないのは、今になってその見解に自信が持てなくなったせいだ。日記の話題に燭台切の言及が多いのは薄々自覚していた。さりとて第三者の口より自身の執着を改めて指摘されるとやはり堪えるものが有る。

 そもそも友情と恋情との差異とは何だ。性的接触を求めるか否かか。それを基準とすれば俺が燭台切に抱いているのは友情に相違ない。だがこの仮説は既に燭台切の手によって曖昧に否定されている。もっとも、世の中にはプラトニックなお付き合いというものも有ってね云々と熱心に説かれたところで、燭台切自身は男としての欲求を満たしたいらしいから参考にはなるまい。

「鶴丸はしっかり内番をやっていたか」
「大丈夫。もういい加減慣れてきたのか、集合に遅れることもなくなったしね」
 燭台切の要望を受け、先日より鶴丸の内番は畑当番に固定されていた。その刃選に含みが有ることは重々承知していたが、あの太刀に限っては正直お目付役が居てくれた方がこちらとしても大助かりなのである。そういった理由で俺も燭台切の奸計には一枚噛んでいた。

 この温厚な刀の怒りを鶴丸が買った経緯だが、まあ身内間のちょっとした戯れと言って差し支えない。告白すれば上手く行く、などと無責任に言い放った鶴丸は、要するに伊達男の八つ当たりに巻き込まれたのである。大人気ないとは思うが、大倶利伽羅からは他にも散々煽った実績が有ると聞いているので、黙って俺も燭台切側につくことにした。
 しかし、歌仙にしろ鶴丸にしろ、俺と燭台切の関係は意味深長なものを彷彿させるに十分らしい。あからさまに俺を口説く燭台切はともかく、こちらの態度まで満更でないと思われるのは不思議だった。

「長谷部くん、何か悩んでる?」
「む、顔に出てたか」
「長谷部くん、その辺判りやすいよね。力になれることが有ったら何でも言ってくれ、僕は喜んで協力するよ」
 屈託の無い友人の笑顔が心苦しい。純粋に俺の身を案じてくれると解るからこそ、このまま俺ひとり心地良い距離感に甘えていたくはなかった。

「燭台切」
 友人の胸板に冊子を押しつける。今度はしっかり表紙を確認した。近況や資材の量を書き連ねただけの近侍日誌でないことは間違いない。

「読んでくれ」

 誰にも見せるつもりが無かった日記は、俺の思うところが赤裸々に綴られている。付き合いの長い歌仙にすら躊躇うそれを、よりにもよって自分に好意を持った男に預ける意味を理解しないわけではない。だとしても、俺だけではもはや判断がつかなかった。

 

■■■

 

 無我夢中でここ三ヶ月あまりの記述に目を通す。彼の小綺麗な文字を追うたび、僕は自分宛ての艶文を読まされている気分になった。長谷部くんは僕をそういう目で見られないと言っていたけど、実際に恋仲にある関係でもこうまで熱烈な告白にはそうお目にかかれまい。
 自分が期待していたよりも長谷部くんはずっと僕のことを見ていてくれたし、大切に思ってくれている。その事実に感極まって、全身から喜びが溢れそうだった。具体的なことを言えば、今すぐにでも両腕に彼を掻き抱いて固く結ばれている唇を舌でこじ開けたいくらいである。それらの行為を寸でのところで踏み止まらせている、己の理性に拍手喝采を送ってやりたい。

「読んでいて、どう思った?」
 帳面を閉じると、上目遣いに僕を見上げる長谷部くんと視線がぶつかった。彼が何を求めているかはいまいち掴めない。しかし、ここは感じたところを素直に口にした方が良い気がした。

「正直すごくドキドキした。書いてる本人は意識してないんだろうけど、ああ長谷部くん相当僕のこと好きなんだなあ、っていうのが文面から伝わってきてね。読んでるだけで腰砕けになりそうだよ本当」
「お前から見ても、やはりそういう印象を受けるのか」
「えっまさかこの日記、誰か他の刀にも見せたこと有るの」
「このタイミングで詰め寄るな。……今朝、歌仙に日誌と間違って渡したときに少し見られただけだ」
 ああ、夕飯のおかずが煮物だったのはそういう事情か。下拵えの最中、歌仙くんが妙に僕を微笑ましい目で見てきたことも今なら頷ける。

「解らないんだ。周囲の者は皆、俺も燭台切に懸想していると言う。確かに燭台切のことは好ましく思っているが、それがお前と同じ気持ちかどうか判断がつかない。俺は今も昔も純粋に友人として接しているつもりだった」
「僕も同じだよ。君に告白する前日まで、長谷部くんのことはあくまでも一番の親友って信じてたからね」
「何だと」

 僕の言葉に長谷部くんが身を乗り出す。おそらく何を切っ掛けに友情が慕情に変わったのか知りたいのだろうけど、先に詰め寄るなと言った当人が迫ってくるのは有りなのかな。こういう微妙な話題を取り上げているのだから、もう少し危機感というものを持ってほしい。僕は長谷部くんの肩を少しだけ押してクールダウンを促しつつ、彼との軌跡を一から振り返った。

「ただ気付いてなかっただけで、本当は初めて会ったときから好きだったんだろうね」

 顕現して初めて目にした刀を素直に美しいと感じた。その綺麗な刀に始め冷たくあしらわれ、どうにか仲良くできないものかと散々頭を捏ねくり回した。その挙げ句が丁々発止の大喧嘩に発展するとは夢にも思っていなかったけど、お陰で長谷部くんも最初から僕を憎からず思ってくれていたことが判り、思わずその場に蹲ってしまうほど幸せな気持ちになった。

 常に一生懸命でどこか不器用な友人と過ごす日々は本当に楽しかった。しばらく一緒に居て、彼が織田のこと、黒田家のこと、過去のことで内に色々なものを抱えていると知った。長谷部くんとは本丸に顕現してからの仲で、決して長い付き合いとは言えない。それでも僕は君の支えになれたらと心から思った。

 へし切長谷部の根底は号を与えた織田に在り、帰る場所を選べと言われたなら黒田家を想うのだろう。だけど今はこの本丸が君の居場所だ。主が居て、君を友と呼ぶ刀が居るこの本丸も、長谷部くんにとっての家になれば良い。顕現して初めて縁を結んだ間柄だからこそ、君と出会ったこの場所を長谷部くんにも特別だと思ってほしかった。特別と感じる理由に、多少なりとも僕の存在が有れば言うことはない。僕もまた、伊達や徳川の家とは別に長谷部くんのいるこの本丸が大好きだからね。

「だからかな。僕の髪を崩しながら長谷部くんが笑いかけてくれたとき、ああ好きだなあって普通に思っちゃって。自覚した切っ掛けは多分それ」
 長くなった追想もこれで一区切りついた。果たして参考になったかどうか、試みに友人の顔色を窺ってみる。常日頃より辣腕を振るう近侍様の面差しには、首から耳の端まで一様に朱が注がれていた。

「長谷部くん?」
「待ってくれ。その、だって、嘘だろ。まさかお前、腕の中に引き込んだり肩を抱いてきたり同衾を要求してきたのも、それ全部友人と思ってやってたのか……?」

 指摘されて己の前科もとい暴走を振り返る。思えば告白してからの肉体的接触は皆無に等しかった。長谷部くんの言うように、どうやら僕は友人の名を免罪符に今まで散々好き勝手やってきたらしい。

「そうだけど、それを平然と受け入れてた長谷部くんも長谷部くんだよね」
 もうそれこそ経験してないのは口吸いと性行為くらいじゃないだろうか。長谷部くんもその可能性に行き当たったのか、僕の口元を見る目が妙に熱っぽい。彼の舌が自身の乾いた唇を舐めたとき、僕は今こそ攻め時だと確信した。

「長谷部くんは、こうして僕に触られるの嫌だった?」
 陶然とする友人の腰を抱き寄せ、己の膝上に座らせるような体勢に持ち込む。初めは明確に、二度目は夢うつつの中で触れた身体はどこもかしこも骨張っていた。ただ薄らと載った肉は確かな弾力が有り、人肌の温もりと合わせてずっと触れていたくなる。顔の輪郭に沿って指を這わせると、長谷部くんの肩が面白くらいに震えた。

「本当に嫌ならすぐに離れるよ」
 密着を強いる僕の左手は離すつもりがないと言っている。右手もそれと同じくらい正直者で、唇に辿り着いた親指が接触を乞うように何度も肌を押し潰した。

「い、嫌じゃない」
「なら良かった。じゃあ、もう少し顔近づけても良いかな」
「尋ねる前から既に近いんだが」
「僕はもっと近い方が良いなあ」

 唇を弄っていた指先を中に少しだけ差し入れる。ちゅぷ、と小さく先端の濡れる音がした。たかが指先とはいえ、異物を受け入れた体内に緊張が走る。そのまま掻き回すような真似はせず、潤いが足されたのを確認してから、引き抜いた親指で長谷部くんの唇をなぞった。藤色の瞳が次第に細められ、どろどろと情欲に溶けていく。
 もう陥落寸前であるのを判っていながら、僕は再度長谷部君に「お伺い」を立てた。仮に拒まれようと譲る気はさらさら無いくせに、僕はまだ彼に選択権が在ると匂わせようとする。この事前承諾に意味がないことを長谷部くんもきっと理解していただろう。今まで僕の胸を押し返すよう置かれていた彼の手は、とうの昔に力の入れ方を忘れていた。

「もう勝手にしろ」
「あはは、ありがとう長谷部くん」

 顎先を捉えていた右手を後頭部に回し、宣言した通りに距離を近づける。ただ唇を合わせるだけの行為はひどく官能的で、想像していた以上に心地良い。柔らかい感触を味わうように肉を押し当て、時に舌先で入り口を突く。僅かに隙間が開くと、僕はすかさず彼の咥内に自分の一部分を侵入させた。

「ッ!? ま、しょく、んん……!」
 逃れようとする舌を捉え、自分のものと絡め合わせる。戸惑いから抵抗を見せていただけなのか、肉厚の器官は先端から裏筋まで蹂躙する僕の舌をもはや咎めようともしない。触感と味覚とを駆使して味わう長谷部くんの身体は格別だった。彼の口の中は温かく、供される唾液は不思議と甘くて、飲めば飲むほど腰のあたりが重くなるのを感じた。
 口蓋を舐め取っていた僕の肩が何度も叩かれる。名残惜しさを覚えながら舌を引き抜くと、目尻に涙を溜めた長谷部くんと対面してしまった。

「は、長谷部くん!? ごめんね、そんなに嫌だった!?」
 慌てて背中を擦り、今にも零れそうな涙を拭い取る。そのようにして彼を宥めながら、長谷部くんの息が整うのを待った。

「し、舌を入れられるのはだめだ。頭の中が、ぐちゃぐちゃになる」
「そっか。ごめんね」
 最中はあれほど燻っていた熱も今はすっかり冷え切っていた。襟足から覗く肌や、禁欲的に閉められたシャツの下が気にならないと言ったら嘘になる。それでも好きな子を泣かせてまで自分の欲求を満たそうとは思わないし、どうせ身体を繋げるならやはり長谷部くんからはっきりとした言葉が欲しかった。

「長谷部くんが許してくれるのが嬉しくて先走っちゃったけど、無理して結論出そうとしなくても良いんだよ」
「い、嫌なわけでは、なかった」
「そんなに目を腫らして何言ってるんだい、もう」
 文机に戻していた長谷部くんの日記を再び手に取る。彼と出会って三ヶ月あまり、その間に僕たちは沢山の喜怒哀楽を共有してきた。そうした日々が長谷部くんにとっても掛け替えのないものであったことは、既にこの日記が証明している。

「長く一緒に居れば喧嘩したり、反りが合わないことだって有るだろう。日記の頁がいつも明るい内容で埋まるとは限らないよね。でも、だからこそ、僕のことを書くときは思い返すだけでも笑ってしまうような、そんな楽しい出来事ばかりであってほしい。それにね、せっかく初めて唇を重ねた記念日なのに、嫌な印象で終わってしまうのは僕だって願い下げだよ」
「じゃあ、どうすれば良いんだ」
「そうだねえ、怖がらせちゃったお詫びに僕が何でも一つ言うこと聞くとかどうかな」
「何でも?」
「そう、何でも」
「本当に、何でも良いんだな」
 今まで所在なさげだった長谷部くんの両手が僕の頬を包む。この流れで口を吸われることは無いとしても、上気した肌と熱の籠もった藤色を間近に見せつけられては動悸も速まった。

「お前の」

 妙に切なげな長谷部くんが僕の肩口に身を寄せる。それまで頬に在った白手袋は、顎から鎖骨を経て胸板に到達し――

「乳首でピーナッツ割る一発芸がまた見たい」
 初めて好きな子の口を吸った記念日は、暗黒の歴史で塗り込められた。

 

【日記二:卯月】

「ううむ」
 寝間着に着替え、布団も敷いた。後は就寝するだけだというのに、長谷部くんはなおも文机の前でひとり唸っている。

 今日は僕も長谷部くんも非番だった。だから普段のように差し入れを持って近侍部屋に向かう必要は無いし、他の男士が長谷部くんを訪ねてくるのを警戒せずとも良い。つい昨晩に本懐を遂げた僕としては、そろそろ恋仲らしく枕を並べて夜の語らいをしたいところである。

「まだ日記書けないのかい」
 見れば今日どころか昨日の日付で筆が止まっている。確かに昨日は早朝から出陣含め色々なことが起こり過ぎた。簡潔にまとめようとするのは難しいが、書く題材に困ることは無いだろう。よく見れば帰還までの経緯は既に記述されている。罫線も無いから文章量に頭を悩ませるわけがないし、一体長谷部くんは何に手こずっているのか。

「これで終わりじゃ駄目なの?」
「そりゃあ駄目だろう、お前と初めて寝たことが書かれてない」
 あまりの明け透けな表現に噴き出しそうになった。いや重要なことだけれども、前々から長谷部くんの日記は僕の出現率が高かったけれども!

「何というか、改めて文章にしようとすると気恥ずかしいんだ」
「さっきの台詞を一切の躊躇なしに言い切った刀が何を今更……?」
「そりゃあ、録音でもしない限り言葉は記憶から薄れていくだろう。でも文字に起こせば話は別だ。改めて見返したときに俺が羞恥に耐えられる自信が無い」

 無自覚でひとを口説くし、下卑た言葉にも耐性が有るのに、長谷部くんは時折妙なところで恥ずかしがる。その掴み所の無さもまた魅力的ではあるけれど、僕(とたまに世間)との認識にずれが生じる原因でもあるので油断は禁物だった。
 何にせよ恥ずかしいなら書かなければ良いのに、それでも僕との思い出は余さず書き記しておきたいらしい。難儀な性分だとは思うが、これこそ僕が好きになった長谷部くんである。彼が書きたいというなら、ここは彼氏として温かく見守ってやるべきだろう。

「僕から告白された日の頁なんかも黒塗りで潰されてたよね」
「駄目だった。耐えられなかった。後ろから透かせば見えるし問題無いと思った」
 思い出したのか、長谷部くんは机に突っ伏し、うーうー呻いている。少し気になったので、僕が行動を起こした日付を覚えている限りで見返してみた。最新になるほど黒塗りの頻度は減っているが、文字が歪んでいたり、代名詞を駆使してぼんやりした表現を選んだりと、彼なりの試行錯誤の跡が何とも涙ぐましい。
 その中でも異彩を放つのが、二月某日の記述である。

「遂に燭台切に口を吸われた。舌を入れられると頭が変になる。しかしお陰で燭台切の伝説の妙技が再び見られた。半ばヤケ酒の体で次々と杯を空ける燭台切には涙腺を熱くさせられたが、その後のピーナッツのインパクトで概ねはじけ飛んだ。どう見ても打撃に物を言わせた芸だとて、俺は拍手を惜しまない。ありがとう燭台切、お前こそ真の伊達男だ。ところであいつの乳首、統率いくつなんだ」

 ピーナッツにはしゃぎすぎだろ。口を吸われたのくだりは虫眼鏡の存在を探さんばかりに小さく書かれてるのに、一発芸の辺りであからさまに文字が大きくなってるし。あと最後何を気にしてんだ。乳首の統率値なんて僕も知らないよ、考えたこともないよ、そんなこと疑問に思ったの長谷部くんが初めてだよ。

「で、実際どうなんだ。やっぱりあの芸をやると乳首痛むのか?」
「いや食いついてこないで長谷部くん、ピーナッツのことこそ忘却の彼方に飛ばしてお願いだから」
「お前の乳首のことが気になって夜も眠れないんだ」
「椅子に凭れながらでも寝られる刀が何言ってるんだい、はいはい早く日記書いてお布団行こうねえ」

 長谷部くんを再び机に向かせようと肩に触れる直前、胸部に違和感を覚えた。視線を下げると、僕の大好きな刀が何やら神妙な面持ちで人の乳首を弄っている。服越しに突起を潰したり、挟んだり、本人を前にしてやりたい放題だった。

「反応が無い。まさかお前、不感症か」
「だったら君を抱き潰せるわけないだろう。良い子だから悪戯は止めようね、めっ」
「じゃあ単に俺の技巧不足か、くそっ」
 いや悔しがってる場合じゃないから。手つきに遠慮が無さ過ぎて気持ち良くはないけど、視界とシチュエーション的に色々とまずいから。このままだと光忠が一振りが大変なことになるから、長谷部くんは大人しく日記書いて寝てくれ。
 ちう。
 胸元をはだけられたことに面食らったのは一瞬だった。指だけでは飽き足らず、長谷部くんはとうとう舌を使って僕の身体に吸いつき始める。懸命に柔らかい唇で乳頭を食む姿を赤子と揶揄することはできない。彼が目的としているのは母乳ではなく、僕の口から嬌声を引き出すことだった。右の胸を唾液に浸す一方、左の胸にも忘れず指先での愛撫を加え続けている。長谷部くんの舌が乳輪をなぞり、先端で窪みを押さえ込んだときには彼の手首ごと腕を引っ張っていた。

「長谷部くん?」
 既に準備してあった布団に長谷部くんを転がし、馬乗りになる。その下肢に勃ち上がりかけた熱を押しつければ、彼はしてやったりとばかりに艶笑を零した。

「不感症でなくて何よりだ」
「誤解が解けたようで僕も安心だよ。気持ち良くしてくれたお礼もしないとね」
 腰紐を緩めて襟元を大きく開く。行灯の頼りない光源の下でも、彼の身体に昨晩散らした情痕は十分に見て取れた。その一つ一つを指先で辿るたび、長谷部くんに身体を許されたこと、この肢体を好きにした記憶が妄想でないことに安堵する。先ほど自分も嬲られた箇所を見れば、とりわけ昨晩の名残が色濃く刻まれているので自分でも笑ってしまった。

「さっきのは、僕の動きを思い出しながらやったの?」
「ん、あ、あっ……そう、きの、そこいっぱい、なめられた、からぁっ」
 長谷部くんも始めは胸への愛撫に戸惑っていただけだったが、揺さぶられている最中に舐られて大分開発が進んだらしい。少し乱暴に摘んでやれば引きつった声を上げるし、爪先は敷布の上を何度も滑った。柔く歯を立てられるのも好きなようで、特に先端を甘噛みしてやったときは反応が良い。
 そうやって胸ばかり可愛がっていると、僕を挟む長谷部くんの両脚がもぞもぞと揺れ出した。さっきから僕のお腹に押しつけられている物の正体を考えれば、彼の言わんとすることは解らんでもない。まあ意趣返しは十分楽しんだし、苛めすぎるのも格好良くないよね。

「長谷部くんの足はいつ見ても綺麗だね」
 膝裏を抱え、付け根から爪の先までをじっくりと観察する。時に誰よりも速く戦場を駆ける脚はしなやかで、贅肉一つ認めることはできない。完璧な稜線を描くカーブを追っていくと、必ずふくらはぎについた跡に目を奪われた。数時間前まで装着されていただろうソックスガーターを思うとつい喉が鳴る。当の本人は利便性しか求めていないというのがまた恐ろしい。

「綺麗か、そうか。ふふん存分に褒めろ、どれもこれもみんなお前のものだ」
「ふふ、嬉しいなあ。じゃあお言葉に甘えて、この綺麗で美味しそうな足も頂いちゃおうね」
 膝に口づけたのを契機に、際どい部分へと徐々に舌を近づけていく。付け根に到達すれば、下着を持ち上げている膨らみとの距離はもう幾ばくも無い。

「ひゃっあっあっ! そこっもっとつよ、ふぁぁぁ……!」
 直接的な刺激を待ち焦がれているだろう中心を掌で包むと、堪りかねたように長谷部くんの口から切なげな声が漏れ出た。ぐにぐに遠慮無しに揉み込んでやるだけで湿った音が部屋に響くようになる。自分の手で欲望が育っていくのを見るのは楽しい。とりわけ、服越しの快感では物足りなくなった長谷部くんを目の当たりにすると心が踊る。やはり愛欲首級問わず、収穫に勝る悦びはない。

「はぁ、っふ……下着もうぬぐから、て、はなせ」
「僕がやろうと思ったけど、そっか自分で脱いでもらうのも有りだね」
「お前はほんっとに、むっつりだ。昨日の晩にぜんぶ見たくせに」
「見るのと見せてもらうのとは違うんだよ」
 ぐり、と未だ解してない奥に指を立てる。一晩掛けて広げ、僕の存在を教え込んだそこは、突然の刺激にも関わらず受け入れる姿勢を見せた。

「長谷部くんはどこまでしてくれるの?」
「ぁ、っく、どこまで、だって……?」
「自分から胸舐めたり服脱ごうとしたり、随分と積極的だから。慣らすところまでやってくれるのかなあって」
 二本の指先で秘部をなぞる。薄い布を押して僅かに指を差し入れると、長谷部くんは期待とも恐怖ともつかない複雑な表情を見せた。

「冗談だよ、ごめんねからかったりして。昨日無理させちゃったから、僕が責任持って最後まで面倒見るよ」
「そうか、よろしくたのむベッドヤクザ」
「人聞き悪いこと言わないでね?」
 まる半日動けなかった長谷部くんを世話するついでに、僕は私物を彼の部屋に色々と持ち込んでいた。今晩は元々こちらに泊まる予定だったから、着替えや洗面道具の類が中心ではある。その中に昼間買い足したローションやら避妊具やらが含まれていたのは、今後の展望を見越しての配慮であって、此度の手合わせを狙ったものでは断じてない。

「いずれ使うつもりで持って来たなら時期は関係ないだろう、ムッツリ」
「仰るとおりでございます」

 痛烈な指摘に僕は返す言葉も無かった。もっとも長谷部くんが余裕を持っていられたのも道具を揃えたときまでで、後は昨晩の再現がごとく枕に縋って全身ぐっずぐずになってしまった。

「ぅう、も、やだぁ、しょくだいきり、はやく」
 長谷部くんが息も絶え絶えに先の行為を促してくる。三本の指を受け入れた彼の後ろはもう十分解れていた。蹂躙を喜ぶ肉の具合に昨夜の情交を思い出して、自身の期待も否応なく高められる。長谷部くんのことを言えないぐらいには、今の僕も相当切羽詰まっていた。

「そうだね、僕もそろそろ長谷部くんの中に入りたい」
 潤滑油に塗れた指を引き出す。下着を取り去り、避妊具を装着してから、喪失感に身悶える長谷部くんに覆い被さった。

「前からする? それとも後ろから?」
「ん、まえから、ひざにのっかるやつ」
 了解、と応えて布団の上にあぐらをかく。長谷部くんには僕の身体を跨ぐようにして膝を立ててもらった。後は少し腰を下ろすだけで、何をせずとも自重で接合が深まっていくだろう。念のためにローションを足し、指先で入り口を拡げてから切っ先を宛がった。

「っぐ、ぁ、ぃ……! っ、でか、こ、この刀種詐欺が……っ!」
「は、大太刀でも蛍丸くんみたいな例が有るだろう、変な風評被害広げないっ……」
 しがみつく身体を撫でさすり、確実に屹立を中に収めていく。大きさに喘ぎながらも、長谷部くんは串刺しにされる感覚が嫌いではないようで、僕の首筋にかかる吐息は明らかに艶を帯びていた。半ばまで埋め込んだことを目視し、掴んだ腰を一気に引き寄せる。声にならない悲鳴がすぐ近くで上がり、腸壁が内に在る僕をぎゅうと締めつけた。はー、はー、と息をつく長谷部くんは先端から白い粘液を力なく垂れ流している。

「あは、さっきので軽くイっちゃった?」
「う、うるさい……そっちとちがって、おれは、ずっ……いじられ、っぱなしで……」
 眉根を寄せて僕を睨む長谷部くんだが、湿り気を帯びた目に赤く色づいた頬では全く以て迫力が無い。寧ろ嗜虐心や好奇心を煽るだけなので、長谷部くんはこういうときこそ普段の素直さを発揮するべきだと思う。勿論負けず嫌いな君も大好きだけどね。

「怒らない怒らない。気持ち良くなるためにしてるんだから、感じやすいのは良いことだよ」
「そう、だな」
 僕の首に回っていた長谷部くんの腕が怪しく絡みつく。不意に顔を寄せられた僕は、それを口吸いの催促と見なして彼の後頭部に手を添えた。実際に唇は重なったし、児戯のような触れ合いに暫し夢中になっていたのも間違いない。だからこそ、長谷部くんの目が細められた理由を、キスの最中は目を瞑るもの、という通説に則った行為だと勘違いしてしまった。

「ぐっ……!?」
 突如として強い射精感に苛まれ、伏せていた視界を開く。僕との間に銀糸を繋いだ長谷部くんの唇が、ほくそ笑むような形で歪んでいた。

「感じやすいのはいいこと、だろう。ほら、俺にもお前の気持ちよくてしかたない声を聞かせろ」
 赤い舌が僕の耳朶を舐め上げる。強い締めつけはそのままに、長谷部くんは自ら腰を上下させて射精を強いてきた。受け入れた雄を優しく包み込むようにしていた内壁は、今や男の身体から全てを搾り取ろうと激しく収縮を繰り返している。

「は、はせべくん、まって」
「はあ、ふっ……! 待て、と言われても待たんやつが、なにを」
「だから、待って、ってば!」
 腰を掴み、根元まで突き入れた体勢のまま固定する。強引に嵌められた上に、その快感を逃すこともできない長谷部くんが口をはくはくと開けているけど、僕だってそれを気に留めていられる余裕は無い。

「っ、ぁあ、あ……ッ! しゅ、主導権をにぎられたからって、ちからわざで、うったえるやつがあるか……!」
「違うから、とりあえず話を聞いて長谷部くん。セックスはとりあえず激しく動けば良いってわけじゃないから。さっきの調子じゃ僕も疲れるだけだし、長谷部くんもあまり気持ち良くなかっただろう」
「なんだと」
 なまじ不意打ちに効果が有ったせいで、長谷部くんは自分の作戦を疑わなかったらしい。僕を手玉に取っていると信じ、勝ち誇っていた長谷部くんが目に見えて落ち込みだした。発端は僕の軽口のせいだろうし、ちょっと罪悪感を覚えるけど、言わないなら言わないで中々達しない現実に愕然としていた可能性が高い。

「じゃ、じゃあ、どうすれば良かったんだ」
 素直に教えを請う長谷部くんに僕は懐かしいものを覚えた。あのときも長谷部くんは、僕の反応だけを気にして眉をひそめていたような気がする。

「ううん、長谷部くんが気持ち良いように動くのが一番かな」
「それでお前は喘いでくれるのか」
「喘ぐかどうかは判らないけど、長谷部くんが気持ち良かったら僕もきっと同じくらい良くなれると思うよ。セックスは共同作業、だからね」
「信じて良いんだな、非童貞歴一日」
「任せてくれ、非処女歴一日」
 長谷部くんがおずおずと腰を浮かせる。彼の身体から少しずつ陰茎が這い出て、抜けきる前にまた肉鞘に収められていく。長谷部くんは雁首で浅い部分を擦られるのがお気に入りだった。僕の肩に手を置いて、半端な姿勢を維持しながら、何度も何度も自分の感じる場所に男の欲望を招き入れる。動くのに疲れたら、今度は奥まで貫かれる悦びを味わう。ひたすら自分の快楽を追い求めていくうちに、長谷部くんの中はとろとろに溶けていった。

「はぁ、いいっ……しょくだいきりの、きもちいい……! もっとがつんとしたの、おく、はらのおくにくれっ……」
「ん、奥が良いの?」
「しょ、しょくだきりのすきな、とこ、ぜんぶがいい……今、きっとおまえになら、なにされても、すごいきもちいいから……」
 動くのを止めた長谷部くんが僕の首に縋りつく。僕はその抱擁に応え、軽く彼の口を吸い、未だ一度も吐精を果たしていない男の性器で肉壷を満たした。身勝手な抽挿に長谷部くんが堪らず叫びそうになるのを唇で塞ぐ。文字通りの口封じに、くぐもった声がふたりの間から微かに零れ出た。これ以上入らない、という限界まで長谷部くんに自身をねじ込み、結合を深めたまま最奥を乱暴に掻き回す。

「ん、んんっ……! ぷはあっ! あ、ああ、これ、これがほしかった、いい、もっと、おまえのすきにしてくれ……!」
「はあ、あ、はっ……いわれ、なくとも」
 激しく動けば良いわけじゃない、という過去の発言を撤回しかねない勢いで僕は長谷部くんの身体を貪っていた。どんなに無体に扱われても後腔は僕にぴったりと寄り添い、時に肉襞を蠢かせて男に奉仕する。長谷部くんが健気なのは内も外も変わらない。再び解放を求めて上向いた彼の性器を手に取った。僕なりのお返しのつもりで、長谷部くんに男としての悦楽を思い出させようとする。こちらも自分を高めるのに必死で、上手く彼の昂奮を引き出せていたか心配だったけれども、どうやらそれも杞憂に終わりそうだった。

「ぁ、あっ! もうでる、しょくだいきり、でるからぁっ……!」
「ああ、いいよっ……ぼくの、手の中に、いっぱいだして……?」
 指先で引っ掻くように性感を刺激する。長谷部くんが甲高い声を上げて二度目の射精に至った。仰け反り倒れ込む身体を支えて布団に下ろす。まだ息も荒い長谷部くんを組み敷き、ほぼ垂直に近い角度で抜き差しを繰り返した。絶頂の余韻を受けて波打つ媚肉を容赦なく穿つ。長谷部くんの口からはすすり泣きに近い声が上がった。むり、こわれる、まって、という懇願を無視して僕はひたすら劣情に身を任せる。限界が近い雄の思考など精を吐き出すこと以外に何も無くて当然だった。

「ごめんね、あと、もうちょっと、だからっ……は、がまん、して……!」
 ぐ、と上体を倒し距離を詰める。ふと長谷部くんの白い喉元が目に入り、衝動のままに噛みついた。捕食の恐怖を察した身体が一瞬強張りを見せる。その刺激は後孔にまで伝わり、内を満たす僕を追いやるのに十分だった。目の裏で弾けるような快楽が走り、避妊具の中にどくどくと子種が注がれていく。それが長谷部くんの中を濡らすわけでも、ましてや孕ませるわけでもないのに、男の本能が目の前の身体をものにしようと働いて、自ずと腰を押しつけさせる。全てを吐き出し終わり、僕はやり遂げたような気持ちで長谷部くんの上に倒れ込んだ。

 全力疾走の後にも似た疲労感が全身を包む。噎せ返るような精液と汗の臭いに、換気しなきゃなあ、とぼんやり後始末に考えを巡らせているときだった。前触れも無く伸びてきた手が僕の髪をぐしゃぐしゃと掻き回す。ここには二振りしか居ないのだから犯人は明らかだが、意図が判らない。気怠げに身を起こすと、見るもご機嫌な近侍様と目が合った。

「今晩も良いケダモノっぷりだった。そんなにも俺の身体は具合がよろしいか」
「最高でしたとも」
「ふふん、そうか。俺も最高だった。だが流石に昨日今日と連続で無理しすぎたな」
「う、ごめんね……」
「誘ったのは俺だ、気にするな。だから頑張った俺に褒美をくれ、濃厚なのを一つ」

 人差し指が僕の唇をつつ、となぞる。褒美の内容を理解した僕は、右手を長谷部くんの顔の傍近くにつき、請われるままに舌同士を絡めた。

「ん、はせべくん、舌入れられるの、すき?」
「ちゅ、ん、すき」
「そっかあ」

 長く一緒に居れば、変わることも、変わらないことも当然有る。長谷部くんが僕との接触を好むようになったのは良い変化と言えるだろうか。その問いに対し、僕は自信を持って是と答えたい。婀娜っぽく口吸いをねだる長谷部くんは、確かに幸せそうな顔をしていたのだから。

 

【日記三:卯月】

 

 三日分の日記を書き終え、長谷部くんはやっと就寝する気になったようだ。筆記用具を片付け、書類をまとめ、最後に日記を収めるために抽斗を開ける。三段仕様の桐細工は本人曰く、「大切なものしか入れない」特別なものらしい。何度か見せてもらったことは有るけど、中には僕が一月に贈った十字架も仕舞われている。
 長谷部くんがどれだけ僕のプレゼントを大切に想ってくれているか解るのは嬉しい。しかし、装身具という本来の用途を考えると、やはり身につけてもらえないのは少々寂しいものが有った。

「大事にしてくれてるのは有り難いけど、これ一応装飾品だからね?」
「だからって内番をすれば汗で汚れるし、戦場に持っていけば壊れるかもしれんし、難しいぞ」
「じゃあ僕とデートするときだけ付けるとか」
「それは、そうだな。善処しよう」

 もうすぐ政府の意向で夜戦を前提とした演習場が開かれる。そうなれば、短刀たちの引率役として長谷部くんも部隊に組み込まれることだろう。太刀である僕は別の戦場に向かうしかなく、暫くはすれ違いの生活が続くのは間違いない。だからこそ、いつ果たされるかも解らない、小さな約束を交わせる今の時間がとても幸せだった。

「どうせならお前も書いたらどうだ、日記」
「日記かあ。今日も長谷部くんが可愛かった、で埋め尽くしそう」
「そりゃあ良い、書いたら是非俺にも見せてくれ。大いに笑ってやる」
「いっそのこと交換日記でもするかい?」
「やることやっておいて今更ァ? ははっ、一周回って面白いなそれ」

 枕を二つ並べた布団に入り、明かりを落とす。夜目の利かない僕は長谷部くんの顔が見えないけれども、繋いだ手の温もりを感じるくらいはできる。睡魔が訪れるまでの僅かな時間、僕たちは料理のこと、編成のこと、様々なことを話し合った。
 明日は僕の使う日記帳を探しに出かける。格好つけのお前にお似合いな、黒革表紙のごついやつを見つけてやるからな、と豪語する長谷部くんは実に頼もしかった。

「あ」
「どうしたの長谷部くん?」
「神父プレイするときには使えるんじゃないか十字架。お止め下さい、主が見ておられます。とか言えば良いんだろ? 任せろ」
「それこそ汗で汚れるんじゃないかな?」

 たまに話が合わないときが有るけれども、僕はこの自信満々にずれたことを言う刀とずっと一緒にやっていきたいと思った。

 

 

いいね! 0

←第四話    シリーズ一覧    番外 / 日本号→