脳内彼氏と過ごす夏

 

 

 長谷部国重は本の虫である。部活にも入らず、放課後はもっぱら図書室を根城としている彼に友人はいない。
 口さの無い者は長谷部を陰気、根暗と蔑んだが、当の本人は気にも留めなかった。彼の青年にとって最も堪え難いことは活字を取り上げられることである。
 本は良い。外出が億劫な梅雨時だろうと、紙に綴られた物語は天候に左右されたりはしない。広大かつ刺激に溢れた世界へは頁を捲ればいつでも出かけられる。グラウンドが使えず、渋々室内トレーニングに励む運動部の嘆きなど長谷部には無縁の代物だった。

 清々しいくらいに一匹狼ライフを堪能する長谷部だが、そんな朴念仁でも恋はする。

「オススメの本はない?」

 脈絡なく話しかけてきた男子は、スクールカーストに疎い長谷部でも知っている有名人だった。
 容姿端麗、温厚篤実、文武両道とおよそ空想上の存在としか考えられないスペックを持った彼は、長船光忠という。次元を間違えて生まれてきたと思しき男は、当然のように人望を集め、クラスや学年はおろか学園のアイドルのように扱われていた。
 顔がおそろしく広い長船だが、長谷部との面識は無い。突然声を掛けられた文学青年が訝しむのも不思議ではなかった。

「読みたいジャンルにもよる」
「そうだね。最近は雨ばかりで気が滅入るから、爽やかなスポーツものがいいな」
「なら弱小テニス部が廃部を免れるために奮闘する小説でも勧めてやろう。なお一巻はボロボロの部室を修繕して終わる」
「せめて試合までは行こうよ、問題なのは部室じゃなくて進行の牛歩具合だよ」
 長谷部の適当な答えに長船は苦笑した。一応の義理を果たしたつもりが、あろうことか相手は「他にはないのかな?」と次なる候補を尋ねてくる。陽キャの気まぐれと捉えていた長谷部には意表を突かれた形になった。

「古い本でもいいなら、野球部のバッテリーの話だな。一冊でまとまっているし、王道で読みやすい」
「いいね、じゃあそれにしようかな」
 長船はタイトルまで聞き出すと、カウンターに古ぼけた本を一冊持ち込んだ。
 シャツ越しにも判る、鍛えられた背中は部のエースとしてさぞ期待されているのだろう。見るからに多忙そうな男だ。大した頁数ではないとはいえ、貸出期間のうちに読み切れるかは怪しい。

「オススメありがとう。読んだら感想教えるね」
 長谷部のところまで取って返した男が律儀に礼を言う。本の内容より余程爽やかな笑みは、愛想を捨てて久しい長谷部には眩しすぎた。長船が去り、長谷部は胸の辺りを押さえた。

 意味もなく動悸がする。久々に家族以外と話して緊張したのかもしれない。
 これまで長谷部は感情の多くを活字によって引き出されてきた。対人関係の機微から遠ざかっていた青年は、自身の変化さえ体調不良の一環としか考えられない。
 結局、その日の長谷部は、新刊を一冊も借りないまま帰宅した。

「この前の本とても面白かったよ!」
 数日後、長谷部は図書室で長船と再会した。
 キャッチャーが怪我して、ピッチャーの子がもう投げられないと自暴自棄になっているシーンが辛くて、でも立ち直った後の二人の快進撃がまた爽快なんだよね。と、後半の山場について語る長船の言は、最後までしっかり内容に目を通したことが窺えるものだった。

「君のセンスは確かだったね」
 良かったら別のオススメも教えてくれないかな。そう続けた長船の頼みに、長谷部はどう返答を寄越したか記憶になかった。

 心臓が騒がしく鳴り、顔は熱くなってまともに男と視線を合わせることもできない。からかわれているだけだと思っていた。長船と長谷部とではあまりにも釣り合わない。
 しかし長船は勧めた本を読み切っただけでなく、自分と似た感性を以て自分と同じ場面で心動かされたと言ってくれた。読書は一人でするものであり、そこから得られた喜怒哀楽を他人と共有するなど長谷部には考えられないことだった。

「そうだ。まだ名前訊いてなかったね。僕は長船光忠、光忠でいいよ」

 長谷部は震える声で自らの姓名を告げる。恥ずかしくて居たたまれない気持ちになりながらも、込み上げる高揚感を誤魔化すことはできない。
 活字だけが唯一の愉しみであった青年は、齢十七にもなって初めて恋を知ったのである。

「我ながらちょろい」
 我が身を省み、長谷部国重は重々しい息を吐いた。

 いくら人の好意に慣れていないとはいえ、たかが一、二回話しかけられただけで落ちるやつがいるか? 岐阜城だってもう少し持ち堪えるぞ、童貞を拗らせすぎだろ。長谷部は人気の無い図書室で一人頭を抱えた。
 まだ友人という立ち位置すら危ういのに、同性相手に懸想までしてしまった。完全に負け戦である。後はいかに華々しく散るか死に様を考える段階だろう。近づきすぎて離れがたくなってからでは遅い。ほとぼりが冷めるまで学校ではなく市の図書館に身を寄せるべきだ。
 方針は固まった。いざ鎌倉と長谷部が腰を浮かせるや否や、唯一の出入り口は長身に塞がれてしまった。

「あ、長谷部くん。やっぱりここに居た」
 逃亡失敗。この学校で唯一長谷部に親しみを向ける男は麗しいかんばせを綻ばせ、純朴青年の心臓に容赦なく矢ぶすまを放った。

「どうしたんだい、今にも走り出しそうなポーズで固まって」
「男には急に駆け出したくなるときがあるんだ」
「染色体XY歴十七年だけど初耳だよ」
「お前にはまだ早い」
「君は何歳設定なんだ」

 大らかな光忠は長谷部の奇行を笑って流し、椅子の背を引いた。
 出会ってしまった以上、長谷部だけで退室するわけにもいかない。光忠の隣に座り、先刻から全く頭に入らない文庫の文字列を追った。

「今日は何の本?」
「韓非子」
「それ面白い?」
「まだ読み始めたばかりだから何とも」
「じゃあ僕はお邪魔かな」
「借りる予定の本だ、いつでも読める」
 光忠が不在でも右から左へ流れていった内容である。長谷部は諦めて冊子を閉じ、隣の席へと視線をやった。

「長谷部くんは付き合いが良いなあ」
「高いぞ」
「コンビニで好きなアイス一つ奢ってあげるよ」
「何でもいいんだな?」
「ダッツは対象外だよ」
「何も言っていないぞ」
「ここまであからさまなダッツ顔はXY歴十七年で初めてだったんでね」
「ちっ、パピコで妥協してやる。何がお望みだ」
「ありがとう長谷部くん、実はね――宝探しに付き合ってほしいんだ」

 長机に子供の落書きのような紙が広げられる。幾何学模様が踊り、クレヨンで乱雑に塗り分けられたそれを、地図と呼べるかは非常に疑わしい。
 長谷部の疑問を余所に、紙の皺を丁寧に伸ばした光忠はある一点を指さした。

「赤い丸をつけられた場所。お宝は、絶対ここに眠ってるよ」
「いきなり童心に返ってどうしたXY歴十七年」
「たまにはいいだろう。遊び心を忘れるのに十七年というのはちょっと早すぎると思うんだ」

 日本人には珍しい琥珀色が長谷部を覗き込む。造形の整った者は性別問わず魅力に長けているものだ。それが惚れた者なら尚更のことで、光忠に見つめられた長谷部が抗えるはずもない。ひとりでに煤色の頭が垂れ、了承の意を示していた。

 

◆◆◆

 

 土は軟らかい。一度掘り起こされただけあり、掘削は容易に進んで、穴の周辺には小山がいくつも築かれていった。
 スコップを動かす男の息は荒い。恵まれた体躯に相応しく、彼は体力も人並み外れていた。これしきの肉体労働で悲鳴を上げるやわなつくりではない。
 呼吸が乱れている理由は別にある。

 男は追い詰められていた。果たして、この行為の先に道が拓かれるのかどうかも判らない。
 それでも垣間見えた希望を捨て去るわけにはいかず、ただ一心不乱に腕を振るった。

 ガツン、と金属の突端が何かに触れる。慌てて土の中に腕を伸ばし、スコップが掘り当てた物の正体を探った。
 缶だ。全体は長方形で、元々は菓子が詰められていただろう外観をしている。地道に周りの土を削り、底を掴んで力一杯引き上げる。蓋はテープで執拗に目張りされていた。舌打ちを交えながらも、何とか封を解いていよいよ中を開ける。入っていたのは文の束だった。
 地中に隠されていた代物だ、誰かに宛てたものでないことは明白である。良心が咎めながらも、男は梱包用のビニールを破り文面を検めた。

「この心はもはや無用のものだ」
「誰も知らぬ想いであれば自分で弔うより他にない」
「死者が二度と蘇ることはないように、お前も二度と生まれてこないよう祈る」
「同じ刀に焦がれた間抜けはもう死んだ。ヒトの身体を得たところで俺たちは決して真のヒトにはなり得ない。相手と添い遂げたいなどと願うのが間違っていたのだ」
「ただ主のために尽くす道具であるがために、俺は俺を殺す」
「これでアレに失望されることは二度とない」
「さようなら光忠」

 締めの文句を読むなり男は膝から崩れ落ちた。悲しむ資格など無いと解っている。それでも燭台切光忠は嘆かずにはいられなかった。

 この文を書いた者は床に伏せっている。かれこれ一週間にもなるが、あらゆる手を尽くしてなお彼が目覚める兆しは無い。
 へし切長谷部は燭台切のいる現実を捨てたのだ。

 長谷部が倒れたのは一週間前だが、それより以前から彼の様子はおかしくなっていた。この手紙を菓子箱――櫃に持ち主が収めたのは二週間ほど前に遡る。
 燭台切は友の変化には鋭かった。この敏い太刀に足りなかったのは唯一ヒトの妙である。真似事が得意で交際に長けた男ではあったが、恋心はその埒外であった。

「君を折らせはしない」
「僕たちは同じ主に仕える仲間じゃないか」
「君に背中を預けるのは良い気分だ」
「長谷部くんは綺麗な刀だね」

 真摯ながらに心ない親友の言葉が長谷部の精神を磨り減らす。人の輪を尊重する一方で、その実誰よりも刀のままで在り続ける男。その二律背反こそが、長谷部には好ましかった。

「俺が勝手に好きになっただけなんだ」

 ――だからお前は何もしなくていい。責任を覚える必要はない。これまでと同じように、本丸を同じくする友としてあってくれ。

 土中に櫃を埋めて後、病床の身となるよりも前の話だ。長谷部は親友の追及を躱しきれず、とうとう秘めていた想いを告白した。

 燭台切にとってはまさに青天の霹靂だろう。誰よりも気が合い、腹蔵なく全てを打ち明けられると思っていた友が、自分には理解できない感情を抱いていた。
 俯き耳まで赤く染める長谷部を見ても、燭台切に湧きあがるのは困惑だけだった。この反応を予想していたからこそ、長谷部は前述したように断ったのである。
 何も期待してはいけない。多少気まずくなったとして、時間を掛けて再び友として戦場に立てれば良い。そう考える長谷部にもたらされたのは、意外な返答だった。

「長谷部くんが望むなら、恋仲になってみないかい」
 藤色の目が大きく瞠られる。今、この男は何と言ったのだろう。

「僕はヒトでいう恋を知らないけれども、大事な友達である君の気持ちを蔑ろにしたくはない。だから、長谷部くんさえ良ければ、なんだけど」
 何も知らない太刀が手を差し伸べる。あまりにも優しく、残酷な提案だった。

 受け入れたところで余計に傷口を広げるだけだと解りきっている。そこまで見通していながら長谷部は男の手を取った。
 万に一の可能性でも、愛しい刀が自分に振り向いてくれるのなら縋らずにはいられない。
 乱に付き合って見たドラマでも言っていたではないか。最後にはきっと愛が勝つと。

「かりそめでもお前の隣に立つ資格が得られるのなら」

 そして長谷部は泥舟に乗り込んだ。

 

◇◇◇

 

 窓の外側を雨が静かに叩く。昇降口から正門にかけて色彩豊かな傘が列を成していた。
 インドア派にも優しい時代である。誰かの家に集まったり、或いは帰宅してから電脳空間で落ち合う約束をしたりと、天候で放課後の予定が左右される時代はすでに遠い。屋外でしかできないことは意外と少ないものだ。

「来たよ長谷部くん」
「暇そうだな水泳部」
「今日は元々部活休みだよ」
 図書室には長谷部たち以外誰もいない。若者の活字離れが進んでいるのか、蔵書に魅力が無いのか、梅雨時だというのに学舎の一角は連日閑古鳥が啼いていた。

「この前言った宝探し、覚えてるかい」
「己の年齢を疑ったからな」
「記憶にあるなら問題ないね。じゃあ早速始めようか」
「この天気でか」
 傘を差しながらの探索は片腕が使えなくなる。服も汚れるだろうし、好条件とは言い難い。旧時代的な遊戯の大半はお天道様の協力が欠かせなかった。

「何事もまずは情報収集からだよ。幸い調べ物には打ってつけの場所じゃないか」
 光忠の持ってきた地図はとにかく抽象的である。強調された赤い輪が宝の在処を指しているのは良いとして、その他の支離滅裂に配置された記号が何を表したものか、長谷部にはさっぱり見当がつかなかった。

「とりあえずこの辺りの地図を持ってきた」
「当てはまるような、当てはまらないような……微妙な匙加減だねえ」
「単に雑なだけだろう」

 書き手の性格が出るよな、と続けようとして長谷部は今更なことに気付いた。
 光忠はどういう経緯でこの地図を手に入れたのだろう。始めに疑問に思って然るべき点にもかかわらず、長谷部はここに来てようやく、地図の由来を意識した。

「そもそも、この地図はどこで手に入れたんだ」
「さあ」
「さあってお前なあ」
「物心ついたときには持っていたけど、僕も家族も誰が書いたのか知らないんだ。不思議だろう」
「不思議じゃなくて不気味の間違いだろ」
「そう? 僕はそう思わないけどなあ」
 頬杖をつき、男は懐かしむように地図を拾い上げた。いまいち釈然としないまま、長谷部は次なる疑問を口にする。

「子供の頃から持っているなら、ランドセルを背負っているうちに探しておけば良かったじゃないか」
「勿論昔も探したことはあったよ。でも残念ながら見つからなかったんだ」
「なら何でいまさら」
「何でだと思う?」
 首を傾け、光忠は艶然と微笑んだ。ただえさえ高校生離れした色香を持つ男である。普通なら鼻につく仕草も十分絵になった。少なくとも初恋を自覚したての長谷部某には目に毒なくらいである。

「なん、なんでっておまえ、知るか! 合コンみたいな返ししやがって」
「そんなこと言わず、ちょっとくらい考えてみてよ」
「はっ、どうせ部屋の片付けをしてたら偶然それを掘り起こしたとかだろう。気まぐれだ、気まぐれ」
「気まぐれ、ねえ」

 顔を背けた回答者を詰るような視線が頬に集中する。始めは無視していた長谷部もいい加減に鬱陶しくなって、遂に相手が望んでいるだろう相槌を打った。

「で、正解は?」
「君と一緒なら見つけられそうな気がしたから」
「お前は今日だけで何回電波な発言をしたら気が済むんだ?」
「本当のことなのに酷いな」
 光忠の不満を適当に聞き流し、長谷部は腰を上げた。
 そろそろ本格的に資料を集めよう。方針の固まった図書室の主は、地図や辞典などを手際よく集めていく。その背を密かに観察し、男は口角を吊り上げた。

 ――まあ、僕に子供時代なんて無いんだけれどね。

 彼の独白は長谷部に届かない。ひとつきりの黄金色が書架に手を伸ばす青年をうっとりと見つめる。
 雨は止まない。この日、光忠は傘を持ってきていなかった。しかし彼が濡れて帰ることは無いだろう。きっとそれは長谷部が望むところではない。真面目な友人は天気予報をまめにチェックしているはずだし、もし忘れたとしても帰る頃には確実に雨が上がっている。

(僕としては濡れ鼠の彼を世話するのもありだけど)
 焦ってがっつくのは格好悪い。距離はゆっくりと詰めていこう。時間だけはたっぷりある。

 長谷部が踵を浮かせた。一番上の棚にある本を取りたいらしいが、横着して踏み台を使わないでいる。光忠はやれやれとばかりに友人の背に寄り添った。突然の接近に長谷部は色を失い悶絶している。

「これで合ってる?」
 訊かずとも光忠は答えを知っていた。彼がこの本を手に取るのは、もう四度目になる。

 

◆◆◆

 

「はい、長谷部くん」
 埃を被った木箱が差し出される。男の協力で無事目的を果たした長谷部は内心複雑であった。自分が爪先立ちしてようやく指が触れる高さだったというのに、長船派の祖は腕を伸ばしただけで棚上の箱を悠々掴み取ったのである。同性として嫉妬せずにはいられなかった。

「助かった。長船派の長は脚が長いの長だな」
「君の刀工の名前にも長の字が入ってるよね」
「名前負けしてて悪かったな」
「こらこら、言い出しっぺが絡まない」

 とりとめの無いやり取りを二言三言交わし、ふたりはまた自分たちの作業に戻った。風鈴、扇風機、ビニールプール等の備品が隅に積み上げられる。

 本格的に夏が近い。男士の数も増え、帳簿の数字は日増しに大きくなっている。黒田で集まるたびに博多の愚痴を聞かされているのだ、嫌でも長谷部は節約を心掛けなくてはならない。こうして非番にもかかわらず、湿っぽい倉庫に籠もりきり、使える備品をチェックしているのもその一環である。
 ただ黒い刀の同行は長谷部も予想だにしていないことだった。午前の遠征を除けば、燭台切は他に何の任務も与えられていない。
 燭台切光忠は多忙な刀である。面倒見も良く、手先も器用であるため周囲に頼られやすい。いつ休んでいるのか、主命狂いの長谷部ですら疑問に思うほどだった。

「休まなくていいのか」
「心配してくれてるのかい」
「遠征から帰ったばかりで疲れているだろう。そうでなくてもお前は働きすぎだ。仕事が無いときくらい休め」
「褒美に新しい主命をねだる君に言われちゃあ、お終いだね」
「お終いにしてやろうか?」
「せっかくの人手を不意にするのは勿体ないと思うよ」
「は?」
「長谷部くんだけじゃ大変だろう? 手伝うよ、倉庫の点検」
「な、これは別に主命では」
「なら尚更だ。恋仲の相手を支えるのは彼氏として当然の務めじゃないか」

 燭台切の弁に長谷部の歯が立たなかったのは言うまでもない。恋仲になったとはいえ、燭台切の気持ちは未だ長谷部には向いていない。反論すれば恋仲という肩書きすら失うかもしれないと思うと、下手なことは言えなかった。
 やむを得ず長谷部は押し黙った。それを是とみた燭台切は揚々と倉庫へ足を伸ばす。俯きながらも長谷部は男の後に続いた。
 薄暗い密室にふたりきり。何も起きないと解っていても、長谷部は半分期待を捨てられなかった。

「あ、花火」
「去年のだろ。湿気ってないか」
「ちょっと試してみよっか」
 そう言って燭台切はこの場を離れる。数分して戻って来た彼の手にはライターが握られていた。
 フィルムを剥がし、線香花火の先端に灯が点される。黄赤の光が散った。ぱちぱちと音を立て、火花がふたりの顔を鈍く照らす。やがて土間の上に役目を終えた炭が転がった。

「綺麗だったね」
「ああ、湿気ってなくて安心した」
「どうせだからもう一本」
「花火は室内でやるものじゃない」
「いけないことは誰かと共有したくなるものだろう?」
「ナチュラルに俺を共犯者に仕立てやがって」
「何だかんだ付き合ってくれる長谷部くんって、ノリが良いよね」
 ライターの蓋が開く。再び、線香花火は辺りに閃光を撒き散らした。
 束の間に燃え尽きる光源を頼りに、長谷部は男の顔を盗み見る。穏やかな表情はどこまでが演技で、どこまでが真実なのだろう。早二年の付き合いになるが、長谷部は友人の情緒が発展途上であることを、おそらく燭台切自身より把握していた。

 今も昔も、黄金色の隻眼が熱を持つのは唯一、戦場で敵と相見えたときだけだった。ヒトの営みに積極的なのは斬ること以外に興味を持ちたいがためである。
 長谷部は友が自らの空虚さを憂い、あがいていることを知っていた。だからこそ分別ある友人が羽目を外そうとするときには、何も言わずに付き合った。
 いつか彼の努力が実り、そして己の劣情を理解してくれることを祈って、長谷部はずっと友の傍に居続けた。恋仲になった今ですら、男の瞳に長谷部の姿は映っていない。
 虚しさが喉奧から微かに漏れる。いつになったら自分たちの視線は交わるのだろう。

「長谷部くんはいつもそうやって僕を見てるよね」
 燭台切の指摘に長谷部の肩が跳ねる。

「伊達男は何をやっても絵になるからな」
「そうそう、毎回そんな感じで茶化されてきたんだよね。でも君の気持ちを知った今では別の理由があるんじゃないかって思うようになった」
「……それが解らないから恋仲(仮)なんだろ」
「あ、やっぱりそっち関係の理由なんだ」
「悪かったな、そっち関係で」
 線香花火が落ちる。これ幸いと長谷部は燭台切から顔を背けた。この暗さなら、太刀の燭台切に情けない面を見られることはない。そう高をくくっていた長谷部の予想を、三度目の炎が裏切った。

「なにさりげなく延長戦に入ってるんだ」
「明かりが無いと君の顔が見られないからね」
「こんな顰めっ面見てどうする」
「うーん、まずは形から学んでいこうかなって。長谷部くんは何を思って僕の顔を見てたんだい」
「羞恥プレイも大概にしろ」

 長谷部は頑なに燭台切と目を合わせない。頬や項の付近に熱い視線を感じるが、振り向いては相手の思うつぼである。
 線香花火の輝ける時間は夏の夜がごとく、あっと言う間だ。少し待てば燭台切の視界は闇に閉ざされる。耐えたとしてせいぜい一分弱、長谷部は素数を数えながら男の無体を忍び続けた。

「こうして見てると、やっぱり長谷部くんは綺麗だね」
「うぐ」
「光が当たると鈍色に光る髪とか、きめ細かい肌とか、藤色の目とか流石に国宝だよね。知ってても、ついつい見惚れちゃうなあ」
「お前に見目の良さで褒められても信用ならん」
「審美眼には自信があるよ」
「鏡を見ろ。嫌味にしか聞こえんわ伊達男め」
「流石に鏡はしまってな、あ」

 何か思いついたらしい燭台切の語尾と前後して照明も消える。胸を撫で下ろす長谷部の隣でまたも光が点った。

「おい、いい加減作業にもど」
 肩を掴まれ、長谷部の姿勢が崩れる。倒れかけた半身は黒い壁にぶつかり、床との衝突は何とか避けられた。
 問題は壁から伸びてきた手に顎を掬われたことである。

「鏡を見ても、長谷部くんの言わんとしてることは解らないなあ」

 燭台切の言う鏡とは、驚きで丸くなった長谷部の諸目のことである。藤色の姿見には燭台切が、黄金色の鏡には長谷部が映っていた。
 火花が弾ける。漏れる呼気が互いの唇を湿らせた。

「恋仲の相手にこんな真似して、次に何を求められているかも解らん男に説明する義理はない」
「心外だなあ。感覚ではともかく僕だって知識はあるんだよ」

 影が重なる。四本目の花火が潰えた。

 長谷部の腕が燭台切の背に回る。ふたりは初めて他者と温もりを分け合った。
 己に縋る長谷部に応えながら、燭台切の心肝はやはり冷えきったままだった。

 嫌悪感は無い。親友が喜んでくれているのは嬉しい。しかし長谷部が言うような興奮は生じず、口付ける今もどこか空虚さが胸の内を占めている。
 燭台切は未だ恋心が解らない。

 

◇◇◇

 

 硬球が宙に放物線を描く。大きくカーブした挙げ句に落ちたそれはミットに収まらず、打者の走行を許した。暫し間を置いて歓声が沸く。ベースに立つ球児は走者、一塁手ともに汗と土に塗れていた。青春を象徴するかのようなユニフォームはすっかり泥だらけである。

 数日ぶりの晴天だった。グラウンドは依然ぬかるんでいるが、練習に餓えた運動部の面々には関係ないらしい。
 室内トレーニングから解放された彼らの浮かれようは相当なものだった。万年帰宅部の長谷部には微塵も理解できない心境である。曰く、屋根のある室内ですらこんなに暑いのに、炎天下に出て運動までするなんて正気の沙汰ではない。
 その点、同じスポーツでも、この時期の水泳部は心地良さそうだった。文学青年の目線が坊主頭の群れから水泳帽の集団へと移動する。

 飛沫が上がった。たった一度のキックで大きく前進した身体が、抵抗をものともせず水面を掻き分けていく。選手の指が反対側の壁に触れた。遠目にも逞しい背筋が長谷部の目を奪う。
 皆が使用している水着は学校指定のものだ。図書館とプールとの距離はそれなりにあるし、仮に視力が良くても知人を探し当てることは難しいだろう。それでも長谷部は泳いでいたのが誰か確信を持てた。理屈ではない。ただ一瞥しただけで長谷部の胸をここまで騒がせる男は、光忠をおいて他にいなかった。

「久々に目一杯泳げて楽しかったなあ」
 塩素の匂いを纏わせた男が軽く伸びをする。まだ乾ききっていない黒髪は艶があり、拭い損ねた雫が時折光忠の白い肌を伝い落ちた。隣に座る長谷部にとってみれば堪ったものではない。

「久々に可愛いマネージャーと会えて良かったな。放課後デートはいいのか」
「マネージャーには別の彼氏がいるし、僕の放課後は既に予約済みだよ」
「こんなところで油売ってるくせに?」
「誰かさんに買ってもらいたいから熱心に売り込んでるんだけどね」
「クーリングオフは利くんだろうな」
「妙な宗教に騙されるタイプだと思ってたのに、意外としっかりしてる」

 借りた本を鞄にしまい、長谷部は帰り支度を整えた。
 既に時刻は六時半を回っている。部活組の姿も疎らになって、校舎に残っている生徒はほとんどいない。長谷部とて普段ならとうに家の門をくぐっている時分だった。

「そろそろ暗くなるから宝探しは無理だぞ」
「じゃあ普通の放課後デートをしよう」
「お前な、それだけ顔が良いんだから相手くらい選べ」
「選んでるよ。僕は今最善の選択をしてる」
「男同士でデートもくそもあるか」
「好きな人と一緒に遊ぶんだからデートだろう」
「誰が誰を好きだって」
「僕が、君を」
 光忠が自分と長谷部とを順番に指さす。斜陽が二人の間に窓枠の影を落とした。

 長谷部は言葉に詰まり、ひたすら目を白黒させた。
 あまりにも都合が良すぎる。二人はまだ出会って数日の付き合いで、その間も気になる本について語ったり、未だ進展の無い宝探しを共にしたくらいだった。
 引く手数多な光忠が、長谷部に惹かれるような出来事は何一つとして無い。

「お前の冗談はたまに笑えない」
「冗談じゃないから笑ってくれなくていいよ」
 光忠が長谷部の手を取り、自らの胸に導く。押しつけられた肌から男の熱と動悸とが伝わった。脈打つ拍動は長谷部のものと同じくらい、速い。

「どうして」
「何が」
「お前が俺を好きになる理由がわからない」
「誰かを好きになるのに理由なんて要らないよ」
 有り得ないと理性が訴えながら、長谷部は男の手を振り解けなかった。仮にこれが夢幻だったとして、自分が望んでいた光景であることに変わりはない。

「君も僕を待っていてくれたんだろう」

 長谷部が俯く。防犯上の関係で、生徒の不要な居残りは推奨されていない。図書室も本来なら一時間ほど前に閉まっているはずだった。机上に置かれた鍵は見回りの教師から預かったものである。それらしい理由をつらつらと並べ、図書室に長居する権利を得た長谷部は、後に自嘲めいた笑みを浮かべた。
 待っていたところで光忠は部活に出ている。更衣室はプールの近くにあり、運動部がわざわざ校舎の中に戻ってくる可能性は低い。
 不毛と知りながら長谷部は図書室に居座った。手元の本などろくに見ず、窓外の思い人を眺め続けた。それでも自分が残っていることを相手に連絡したりはしない。長谷部は一切期待を抱かず、自己満足に腐心した。それだけに、光忠の問いに対して頷くのは憚られた。

「たまたま、遅くまで残ってただけだ」
「あれ、じゃあ僕の勘違いか。格好悪いなあ」
「とでも言わないと、嬉しくて気が触れそうになる」
「え」
「まっすぐ帰ればいいのに、何で閉館時間も過ぎた図書室なんかに来るんだ。誰もいるわけないだろう馬鹿」
「僕が馬鹿なら、閉館時間も過ぎた図書室に居座ってた君は一体何なんだい」
「馬鹿って言いたいんだろ。そうだ俺は馬鹿だ、いかにも遊び慣れてるイケメンに甘い言葉を掛けられて、すぐ落ちるぐらいには脳内がお花畑なんだよ」
「その遊び慣れてるイケメンって誰のことかな」
「長船光忠とかいうチャラ男だ」
「僕が知ってる長船光忠くんは好きな子には一途で誠実で優しい男だよ」
「おまけにナルシストらしいぞ。救いようが無いな」
「謙虚なだけが自己評価じゃないよ、長谷部くん」

 長谷部の身体が傾ぐ。制汗剤の香りが仄かに強くなった。引き込まれた腕の中は温かく、ここが図書室だとか展開が急すぎるだとか、そういった問題が全て些事に思えてくる。
 長谷部は目を閉じ、光忠に身を委ねた。どちらともなく顔を近づけ、唇を合わせる。これまで恋人どころか親しい友人すらいなかった長谷部には初めての体験だった。
 差し込む西日や重ねた肌の柔らかさに既視感を覚えるはずなどない。

(君は何も知らないままでいい)

 愛しい人を抱き、光忠は目を細める。
 二人きりの図書室で衣擦れと水音だけが響く。

 生徒の密事を暴く教師も、部の人気者に明日の予定を尋ねる友人も、普段より帰宅の遅い子供に連絡する親も誰もいない。
 長谷部国重は長船光忠と良い仲になった。彼らを脅かす不安因子など余計なものでしかない。神が望んでいるのは、穏やかで幸せな日常だけだ。

「宝探しはいいのか」
 瓶の中で炭酸が弾ける。問いながら長谷部は海の色をしたガラスを日に透かした。
「これも一種の宝探しみたいなものだろう」

 初めてのラムネに戸惑う恋人を思い返し、光忠はそっとほくそ笑んだ。飲み方を知ってるか尋ねられ、当然と尊大に構えた長谷部の雄姿は忘れるべきではないだろう。
 入り口を塞いでいた球体を落とし、喉を潤す。光忠が無言で一連の動作をこなすと、長谷部も密かにそれを真似た。
 軽快な音を鳴らし、蓋代わりのビー玉が水面を叩く。恐る恐る容器を傾け、やっとのことで口にしたラムネは箱入り息子の気に召したらしい。連れて来て良かった、と光忠は己が慧眼を褒め称えた。

 長谷部は駄菓子屋に来たことが無い。折しも水泳部は休みで空は晴天が広がっている。夏の日差しを散々に浴び、汗だくになって飲むラムネは最高である。
 この美味しさを知らないなんて人生損してるよ、と説き、光忠は恋人の手を引いた。始めは渋っていた長谷部も、店内に入ってからは随分大人しくなった。
 詭弁のように聞こえた光忠の言も強ち間違ってはいない。プラスチックケースに詰まった飴玉やチロルチョコ、釣り下げられたスナック菓子、かなり昔に流行った食玩など、狭苦しい店内は長谷部にとって、まさしく宝の山であった。
 未知の世界に目を輝かせる青年は、棚の端から端へと横歩きに移動していく。三十分あまりも吟味を重ねて、長谷部はようやく精算にこぎつけた。

「随分と買ったねえ」
「一つ一つが安価だからな。懐もさほど痛まん」
「体重計に乗った後に痛い目を見そうだけど」
「いくら食べても太らん体質でな」
「その発言は世界中の女子と僕を敵に回すよ」
「お前だって別に太ってるわけじゃ」
 長谷部が光忠の腰に手を伸ばす。触れた身体は贅肉などついておらず、寧ろ堅く引き締まっていた。

「うん、やっぱりカチカチじゃないか。いっそ羨ましいくらいだぞ」
「長谷部くんってば外なのに大胆」
「ちょっと腰と腹を撫でたぐらいでセクハラ親父みたいな扱いするな」
「言ったな」
 反撃とばかりに光忠の腕が長谷部の背に回る。シャツ越しに肋と肋の間をなぞられ、長谷部の肩が跳ねた。

「ま、待て。俺はそんな触り方してないぞ」
「でも触れてる場所は一緒だよ」
「こんなやらしさ極振りのボディタッチはしてない!」
「ええ? 再現率100%だろう?」
「記憶障害か? んッ……!」

 庇の下、所々ペンキの剥げたベンチが軋んだ。長谷部の脇腹を弄っていた指がへそに滑る。光忠の手は小さな穴の凹凸を確かめるように動いた。薄い皮膚の下にある内臓を押され、妙な気分になった長谷部が身を捩る。

「やめ、こら天下の往来だぞ……」
 光忠を拒む声は弱々しい。長谷部とて触れられるのは正直、満更でもなかった。
「場所を変えたら触っていいのかな」
 光忠の指摘に反論する声は上がらない。長谷部の手はもはや光忠の腕を掴むだけで、ほとんど力が入っていなかった。

「僕の家、両親が共働きだから遅くまで帰ってこないんだけど」

 ――長谷部くんはどうしたい?
 耳から甘い毒を注がれ、長谷部の身体が一層強ばる。濡れた藤色が愛しい男を映す。それが答えだった。

 慌ただしく門柱をくぐり、閉じた扉の先で舌を絡める。ただ唇を重ねるだけの触れ合いしか長谷部は知らなかった。粘膜を交え、相手の体温を直接肌に感じ取る。性に疎い長谷部には些か刺激が強すぎたようで、光忠の部屋に辿り着く頃には足腰が立たなくなっていた。

「無理はしない方がいいよ」
「してない……」
「時間はたっぷりあるから」
「してないって言ってるだろ、俺の尻より先にお前の耳に綿棒突っ込むぞ」
「僕の耳は長谷部くんの怖い無理また後日改めて再挑戦したいという声を聞いたんだけどね」
「はっ、こわいわけあるか」
 光忠の右手がベッドに沈んだ。その下敷きにされた長谷部の顔色は蒼白としている。

「焦らなくてもいいんだよ」
 恋人の頬を撫でる光忠の手つきは優しい。身体の震えは止まったが、長谷部の胸中には未だ拭いようのない不安が巣くっていた。それは同性に足を開く屈辱や懸念から来るものではない。

 光忠の言うように長谷部は焦っていた。ここで身体を繋げねば取り返しのつかないことになる、と根拠も無くそう思った。
 光忠との交際は順調すぎるほどに順調である。好きだ、触れたいと好意を露わにするのは常に光忠の方だった。二人が相思相愛であることを疑う余地は無い。

「今日のところはさ」
 光忠の手が鎖骨から胸、腹部へと移動しベルトに掛かる。下着越しに急所を嬲られ、長谷部から婀娜っぽい声が漏れた。

「気持ちよくなって終わりにしよう」
 慣れぬ他人の愛撫に長谷部の中心はみるみる昂ぶった。熱を帯びた吐息が耳にかかる。涙と唾液とで敷布を汚しながら長谷部はあっさりと上り詰めた。
 達した後の虚無感に包まれ、長谷部が案ずるのは恋人のことである。一方的に高められただけで、自分はまだ相手に何もしてやれていない。気怠い体を起こし、長谷部は光忠に手を伸ばした。

「君は寝てていいよ」
「でも、お前は」
「僕は大丈夫だから」
 軽く押されて、再び長谷部はベッドに横たわる。愛しい人を組み敷き、光忠は柔らかく笑いかけた。整った顔立ちは余裕そのもので、まだ息を荒げている長谷部とは雲泥の差である。

 腑に落ちない。長谷部の疑惑は一層凝り固まった。
 屋外にもかかわらず、強引に迫ってきたのは光忠の方ではなかったか。無論、向こうも始めはそのつもりだったのかもしれない。長谷部があまりに怖じ気づくから、光忠は事を急くわけには行かなくなった。
 なるほど気遣いが得意で、経験も豊富な長船光忠らしい選択と言える。ただ長谷部が納得するには、今ひとつ足りない。

「俺だけ良くされるのは、なんかちがう」
「その気持ちだけで僕は嬉しいよ」
 穏やかな表情と声色、優しい手つき。およそ恋人として完璧な振る舞いだった。惜しむらくは、肝心の長谷部が望んでいた扱いではないという点である。
 不満を告げようにも、頭を撫でられるのが大変に心地良く、この誘惑からは到底逃れがたい。とうとう瞼までもが重くなり、長谷部の意識は次第に現実から切り離されていった。

 寝息を立てる恋人を光忠は温かく見守っている。
 長谷部を愛しいと想う彼の気持ちに偽りはない。ただ光忠の雄が長谷部を求めて兆すことは有り得なかった。

 この世界の神は男に愛されることを知らない。知らぬものを描くことはできない。
 光忠は長谷部にとって理想の恋人である。理想は所詮理想だ。

「今度はいつまで一緒にいられるかな」
 神が望む限り、光忠は長谷部と無限の時間を二人きりで過ごすことができる。もっとも、その蜜月は必ずしも積み重ねていけるものではない。現に、光忠がこうして長谷部と褥を共にした回数は、既に両手の指では数えきれぬほどだった。
 図書室で告白し、ラムネの開封に手こずり、二人きりの家で秘め事に溺れる。長谷部は幾度も光忠に恋をしては、その想いを忘却した。どれほど繰り返そうと光忠は長谷部を抱けず、彼から信頼を得ることはできなかった。

 爪が食い込むほどに拳を握る。やるせない怒りをぶつけようにも、長船光忠の敵はこの世にいない。

 

◆◆◆

 

 長谷部が燭台切と恋仲になって数日が経った。
 単なる親友であった頃と違うのは、戯れに口付けることが増えたぐらいである。意外にも、この手の遊びを仕掛けるのは燭台切の方だった。

 この関係がかりそめでしかないことを、長谷部は十分すぎるほど理解している。不要に距離を詰めて燭台切に拒まれたくはなかった。
 一方で燭台切も親友の想いに報いたくて必死だった。習うより慣れろの精神で、恋仲らしいことを実践しては自らの心に問う。努力虚しく長谷部との触れ合いで黒い太刀の心が特別昂揚することは無かった。
 友情なら確かに感じている。長谷部と共に過ごすのは楽しい。彼を誘うのに絶好の口実である、恋人という肩書きにはいっそ感謝しているくらいだ。

 長谷部は主命第一で、暇さえ有れば本丸の雑事をあれこれと引き受ける。そんな忙しない打刀を捕まえ、人の真似事に巻き込むのは燭台切の日課だった。
 本丸一の堅物を口先で、打撃でやり込め、伊達の刀と一緒に騒ぐ。情緒に乏しい太刀が友情に篤いのも、こうした長谷部との交流が下地にあってこそのものである。

 親友の頼みとあらば、燭台切は大抵のことは聞き入れるつもりだった。こいびとらしくあれと彼が望むなら、口吸いだろうが逢い引きだろうがお安い御用である。
 長谷部の性格を考える限り、実際に恋仲になろうと向こうから行動を起こすことは無い。だからこそ長谷部に応えたいと思うなら、自ら接触する必要があった。

「つめたっ」
 うなじに冷えた硬質の物体を押しつけられ、長谷部は飛び上がりそうになった。

「油断大敵だよ第一部隊長」
「湯上がりに縁側をのんびり歩く権利すら俺には認められてないのか」
「実際僕じゃなかったら君の首は胴体から離れていたところだよ」
「お前以外にこんな悪戯仕掛けるのは鶴丸ぐらいだ」
 急激に冷やされた首筋を押さえ、長谷部は背後の影を睨み付ける。果たして奇襲の相手は、ガラス瓶を両手に提げた浴衣姿の黒い太刀だった。

「湯上がりに一杯、どうだい」
 容器の中身が揺れる。夕闇にふたりきり、鈴虫の輪唱と蛍の景趣を肴にする晩酌はさぞ魅力的だろう。長谷部は一も二もなく頷いた。

「ああ、風呂上がりのラムネは最高だな」
「同感。この一杯のためだけに生きてる、って感じだよねえ」
「炭酸より敵の生き血を啜る方が性に合ってるくせに、よく言う」
「そこまでいくと吸血鬼じゃないか」
 長谷部たちが縁側に茶菓子を持ち寄り、雑談に耽るのは珍しいことではない。酒精など無くとも、ふたりの会話は自ずと盛り上がる。
 恋仲と意識しなければ、長谷部も燭台切ほど気楽に話せる相手はいなかった。

「長谷部くん、ほら蛍」
「わざわざ指ささんでもいっぱい居るなあ」
「夏の夜に蛍を眺め寄り添うは恋仲の常と思ふぞかし」
「よし歌仙の前で披露してこい介錯はしてやる」
 即興の歌に辛口な評価を下しつつ、長谷部はひっそり手に汗握った。燭台切が名ばかりの関係に触れることは、ほぼ口吸いの合図と同義だった。
 いつの間にやら肩を抱かれ、長谷部の身体に緊張が走る。ぎゅっと目を瞑り、掠めるような接触を耐え抜いた。

「そんな苦虫を噛み潰したような顔しなくても」
「俺が雌の顔してるのなんて見たくないだろう」
「その言い方は逆に気になるやつ」
「見せないからな。絶対引く」
「ダメって言われると反って燃えるなあ」
「この好奇心だけ旺盛男が。後悔先に立たずという言葉を知らんのか」
「挑戦しないうちから諦めたくはないな。僕の心を決めるのは君じゃない」

 燭台切が言うように、この刀は今に至るまで情緒の獲得を諦めていない。彼が自分を単なる武器で道具と斬り捨てないのは、長谷部に友情を教えられたためである。
 前例があるのだ、成功体験を得た者がまた別の挑戦に前向きになるのは道理だろう。

「試してみよう。口吸いの他にも、もっと恋仲らしいこと」
 すぐ後ろの障子を開け、ふたり揃って部屋の中にもつれ込む。端に寄せられた布団を広げ、燭台切はその上に長谷部を横たえた。

 行灯がぼんやりと互いの輪郭を照らす。微微たる光を頼りとして燭台切は長谷部の服を乱していった。
 徐々に露わになる肌は想像よりも遙かに滑らかである。触り心地も悪くはない。
 そうしてこいびとに暴かれる中、長谷部は自らの腕で顔を覆っている。視界を塞ぎ、ただ機械的に呼吸を繰り返した。なるべく燭台切の興を削がないようにと、声を殺し表情を押し隠す。もっとも一連の努力は当の太刀には不服でしかない。

「顔、隠したらダメだよ」
「いやだ」
「強情だなあ」
 一向に折れそうにないので、燭台切は相手の両手首をまとめて床に縫い付けた。長谷部は暴れて拘束から逃れようとするも、太刀の身体はびくともしない。むざむざと刀種の差を思い知らされた長谷部は大人しく燭台切の視線に耐えるしかなかった。

「長谷部くんが言うところの雌の顔は、眉間に皺寄せているものなのかい」
「お前が強引だからだ、ばぁか」
「合意で始めた行為だろう? もう少し肩の力抜けないかな」
「じゃあ手を放せ。くそ片手で軽く捻り上げやがって」
「放しても顔隠さない、って約束してくれるならね」
「できない約束はしない」
「うーん、そういう男前な台詞は違う状況で聞きたかったな」
 押して駄目なら引いてみろ。攻め口を変えるべく、燭台切は再び長谷部の面輪に影を落とした。
「ン、むッ!? やめ、ンンン……!」
 燭台切を拒む長谷部だったが、舌先で唇を舐められた途端に抵抗は意味を為さなくなった。驚きで薄く開いてしまった口唇を割り、温んだ肉が咥内へと侵入してくる。
 燭台切の一部が我が物顔でこいびとの内側を犯す。顎裏を、口蓋を、歯列をなぞり、舌を絡め、男は文字通り長谷部を丹念に味わった。
 やがて息苦しさに口を離したが、酸欠が解消されるとまた燭台切は長谷部に覆い被さった。組み敷いた身体は力が抜けきっている。長谷部は与えられる快感を素直に甘受した。

 解放された両の手は迷わずこいびとの首に縋りつく。愛しい男を引き寄せる腕は、言外にもっと深い繋がりを要求してきた。

「ああ、長谷部くんはそういう顔するんだね」
 どちらのものともつかぬ唾液で唇を濡らし、燭台切はひとり納得する。離れた体温を名残惜しく思う長谷部の理性は、もうろくに機能などしていない。

 このまま身を預ければ燭台切が抱いてくれる。長谷部はそれだけを期待して、中途半端に寛げた自らの衣服を剥いでいった。
 ぬちぬち、と節くれ立った指が粘膜を掻き回す。十分に滑りを足された秘所は異物を歓迎し、恋しい男に嬲られるたび襞と淵を痙攣させた。銜え込んだ指はもう三本に上っている。
「あ、ァ、しょく、らいきりぃ……」

 一時間ほど前の長谷部が聞けば憤死しそうなほど甘い声が燭台切の耳を擽る。足を広げ、後ろを拡げられ悦ぶ友の姿に、燭台切の知る凛とした打刀の面影は無い。
 男は答える者のいない質疑を繰り返した。今己の下で乱れている刀は、本当にいつも僕の傍らに立っていた、あのへし切長谷部なのだろうか。

 倉庫で初めて口を吸ったときから、燭台切は長谷部に触れることに嫌悪感を覚えなかった。それは自らの指で長谷部の後孔を弄っている今も変わりない。
 柔らかく解れ、一層の刺激を求め蠢く肉壷は、性器を突き立てたのなら強烈な快楽を与えてくれることだろう。長谷部の肢体は同性でも惹かれるものがあった。
 要するに燭台切を惑わせるのは性嗜好の問題ではない。目の前の据え膳を魅力的と捉えていながら、燭台切の雄は全く反応していなかった。

「なあ、も……いれてくれ」
 下腹部の疼きに耐えかねた長谷部が先の行為をねだる。試そうと提案したのは燭台切の方だ。今更止めようなどと言える立場ではない。
 指を引き抜き、燭台切は無心で自らの性器を扱いた。戦帰りで持て余した熱を鎮めた経験は有る。長谷部に友情以外を抱けなかったとしても、身体を繋げるぐらいはできるはずだ。

「しょくだい、きり……?」
 男に呼び掛ける長谷部の声は微かな不安が滲んでいた。
 親友の願いを叶えてやるのも、懸念を払拭してやれるのも己しかいない。

 長谷部を裏切りたくない想いで、燭台切は必死に自らを奮い立たせたが、その中心は終ぞ萎えたままだった。

「ごめん」

 燭台切は項垂れ、力なく謝った。許せなかった。友の期待に応えられぬ自分が、人の心を解さぬ自分が情けなかった。
 相手が望んでいるからと、長谷部の葛藤も知らず軽率に恋仲になった時点で、燭台切は自らの欠落をより意識するべきであった。
 もっとも、燭台切としては純粋な友情から出した答えであり、普段のような好奇心ありきの選択ではなかった。長谷部を悲しませたくはない。その信念は燭台切の中で常に一貫していた。
 しかしながら、燭台切の身体は主人のみならず土壇場で長谷部をも裏切った。どのように詫びればいいかすらも判らない。燭台切は譫言のように、ひたすら長谷部に謝罪を続けた。

「いいんだ」
 上体を起こした長谷部が燭台切を胸に抱く。艶のある黒髪を指で梳かし、戦場で何度も目にした背中を長谷部は心底慈しんだ。

「俺の我が儘に付き合わせて悪かった。良い夢をみさせてもらったな、今までありがとう」
 長谷部の謝辞は最後通牒を兼ねていた。

 この場から離れれば、ふたりが交わした恋仲の契約は無かったことになる。しかし最後の一線は越えなかったとしても、もはや燭台切たちが単なる友人に戻ることは叶わない。
 燭台切は長谷部の気持ちを知ってしまったし、長谷部は二度と手に入らぬ幸せならば、自ら遠ざける刀である。
 親友が離れていくのを良しとする燭台切ではないが、とはいえ長谷部を引き留める妙案など浮かばない。ただ自分よりも細い身体を抱き返し、その温もりに縋る他、彼にできることはなかった。
 夜が更けていく。自室に戻った燭台切も、身を清めた長谷部も眠れぬ夜を過ごした。

 長谷部は第一部隊、燭台切は第二部隊の隊長である。各々こなすべき仕事が多いのを幸いに、翌日は顔も合わせず、お互い業務に精勤した。

 接触を避けるうちに、燭台切が最後に長谷部と言葉を交わしたのは、別れの夜という事態に陥ってしまった。

 第一部隊が任務より帰還した。相当な激戦が繰り広げられたらしい。隊員の多くは負傷しており、中には折れる寸前の刀もあった。
 手入れ札を惜しみなく用い、男士たちは次々と治療を終えていく。見た目には傷一つ残っていないが、死闘を演じた彼らの身体は疲労が蓄積されている。手入れでは肉体の欠損しか直せない。そのためか、修繕が済んだ後すぐには目を覚まさない個体も珍しくなかった。
 長谷部の症状もそうだろうと、始めは皆深刻に取り合わなかったのである。二日経ち、三日目を迎え、一同はようやく異変を覚った。

「長谷部くん」

 呼び掛けに対する応えは無い。

 燭台切は床に伏せる友を今までに何度も見てきた。
 切り込み隊長と言えば聞こえが良いが、手入れで直るのを良いことに長谷部は自身の被害に頓着しなかった。
 肉を斬らせて骨を断つ。まさに苛烈で手段を選ばない魔王の刀らしい戦いぶりは伊達男の目を惹いたが、同時に小言を浴びせられる要因になったことも確かだった。
 時には長谷部が言い返し、結果諍いに発展することも有った。とりわけ、ごく初期に起きた、長谷部と燭台切の拳を交えての大喧嘩は、もはや古参の間では語り草になっている。

 それまで燭台切は温和で協調性の高い刀だと思われていた。事実、舌が回り要領も良い彼の太刀は誰かと対立するようなことは無かった。
 その燭台切が主の制止も聞かず、目を血走らせて仲間と殴り合っているのだから、男士たちの驚きは尋常なものではなかっただろう。
 さらに同時に倒れ伏した二振りは仲良く手入れ部屋に担ぎ込まれ、傷が癒えた頃にはすっかり意気投合していた。周囲が一様に唖然とし、疑念に駆られたのは言うまでもない。

「なんだ、お前ちゃんと怒ることができたんだな」

 頬を腫らし、いくつか欠けた前歯も露わに、長谷部は初めていけ好かない同僚に笑いかけた。燭台切にとっては二重にショックである。
 主の前以外では勝ち気で澄ました表情ばかり見せていた男が、実は眉が下がった途端に人懐こい印象を与えること。顕現してから戦場を除き、喜怒哀楽の一切を覚えなかった自分が激情のままに拳を振るったこと。
 言い換えれば、燭台切が刀としての振る舞いを忘れるほど、長谷部の行動には問題があったのだが、今更そこを指摘する気にはなれない。

 自分は他の男士たちと違い、ヒトの心など持ち得ないと思っていた。しかし長谷部からすれば、燭台切も血の通った感情を持っているのだという。
 これまで仲間たちにどこか一線を引いていた燭台切は、名状しがたい衝動に襲われ喉が塞がり、暫く二の句を継げないでいた。

「僕は、何で君を殴ったんだろう」
「それを俺に訊くか」
「君に怒りを抱く理由が僕にはない」
「ついカッとなって殴った。それでいいんじゃないか」
「その説明で納得できると思うかい」
「じゃあ殴ってる最中のお前の台詞を並べ立ててやろうか。向こう見ず、猪武者、ひとりが突出したら陣形が乱れるのは当然だろう主の役に立ちたいと言うなら部隊の被害を減らすことくらい考えろ以下罵詈雑言」

 何がおかしいのか、長谷部は妙に活き活きとした調子で自分に対する批判を振り返る。
 冷静になった燭台切が聞く分にも、続々と飛び出す文句は正論を含んでいるだけに容赦が一切感じられない。

「何でそんな楽しそうに自分の悪口をつらつら上げられるかな」
「伊達男の居心地悪そうな面が見ていて面白いからな」
「本当イイ性格してるね君」
「お互い様だろう」
「僕まで巻き込まないでくれよ」

 溜息をつく。どっと疲れが増したような気もするが、同時に燭台切は今までにない充足感で満たされていた。
 主君の歓心を買うことにしか興味が無いと思いきや、へし切長谷部という刀、これで存外親しみやすいのかもしれない。長谷部に対する認識を改め、燭台切は自覚したばかりの感情を想い、一つ目を眇めた。

 このときから、へし切長谷部は燭台切光忠にとって、特別な刀だったのである。長谷部が負傷すれば燭台切は他の誰よりも憤り、悲しみ、その身を案じた。自分とは異なり、気高くも繊細な心を持つ友の隣にある日々は、想定外に楽しかった。

 自他ともに親友と認められ、共に過ごすのが当たり前となって久しい頃である。長谷部の様子がおかしくなった。普段なら考えずとも広がっていく会話が、素気ない相槌を挟んですぐに途切れてしまう。何かと理由をつけて晩酌を断られる。厨にも寄りつかない。
 長谷部は明らかに燭台切を避けていた。
 知らぬ間に己は長谷部の不興を買ったのだろうか。熟考してみても燭台切は心当たり一つ浮かばなかった。

 つい先日までは互いの冗句に腹を抱え、公私を問わず一番に相談を持ち掛けていた間柄である。長谷部が自分に言えない悩みを抱えているとすれば、彼から全幅の信頼を得られていない己を悔やむ他ない。

 燭台切は長谷部の尻尾を掴もうと、親友の動向に目を光らせた。そうしてある夜、ひっそり本丸を抜けて裏山に足を踏み入れる長谷部の姿を捉えた。
 幸いに月が満ちており、先行する長谷部の灯もあって視界には困らない。
 中腹を少し進んだ辺りで、ふたりは歩を止めた。ややあって土を掘り起こす音が聞こえるようになる。
 長谷部の足元には箱が置かれていた。順当に考えるなら、あれを埋めたいがために地を穿っているのだろう。人目を忍び、こんな夜更けに実行するぐらいだから余程後ろめたい事情があるに違いない。それは少なくとも、親友と共有できる類のものではなかった。

「何が入っているんだい、その箱」
 いるはずのない親友の声を聞き、長谷部はスコップを取り落とした。慌てて彼が拾ったのは土を掘る道具ではなく、燭台切にも言及された菓子箱の方である。

「何で、お前がここに」
「近頃つれない親友が空いた時間をどう過ごしてるのか気になってね」
「それでストーカーか。悪趣味極まりないな」
「君の方は良い趣味を見つけたみたいだね。タイムカプセルなんて中々粋じゃないか」

 親友の軽口に長谷部は何の反応も示さない。彼の中でこの箱は絶対に見つかってはいけないものだった。とうに手遅れだと解っていても、否定や肯定をしてさらなる追及を招くのは避けたかった。

「長谷部くん」
 燭台切が一歩踏み出す。長谷部は一歩後ずさる。

「ここのところ僕を避けていた理由と、その箱は、関係あるのかな」
 長谷部はなおも沈黙を貫く。その態度こそが燭台切の問いに対する何よりも雄弁な答えだった。

「当然、見せてはくれないよね」
 長谷部の箱を抱く手に力が籠もる。質すまでもなく、返事は是だった。

 いたずらに汚れぬよう梱包し、箱が土中に収められる。無言で作業する長谷部を、燭台切も何も言わず見守った。
「これは、俺の墓だ」
 塞いだばかりの穴を見つめ、長谷部が語る。
 幾度も命運を托した背中は、燭台切の記憶に反して、ひどく小さく、儚げに映った。

「叶わない夢を願う無様な刀はもう死んだ」
「どうして叶わないと思うんだい」
「俺ひとりの努力ではどうにもならん問題なんだ」
「なら誰かに協力を仰げば良い」
「第三者が口出しして解決するものでもない」
「そんなの、やってみないと解らないじゃないか」
「解るさ」
「解るもんか!」

 気迫のこもった一喝に木々が震える。
 燭台切が声を荒げることなど滅多にない。心の機微に疎いはずの親友が、切実な響きを以て己の諦念と対峙している。長谷部は捨てたはずの夢を想起せずにはいられなかった。

「長谷部くんがそれで良くても、僕は君の夢を諦めたくない。どんな無茶も今までふたりで押し通してきたじゃないか。僕はへし切長谷部の親友であることを、誇りに思っている。そんな大事な友達の夢を応援することもできず、役立たずのまま引き下がることなんてできやしない。鬱陶しいと罵られようが、過保護と言われようが僕は退くつもりは無いよ。悪い男に捕まったと思って、君も諦めることを一旦諦めてくれないかな」

 友の熱弁を受け、長谷部は自身の内に燻る種火を再確認した。いくら鎮火に努めても、この刀は何度だって薪をくべてくる。長谷部にとって真実、燭台切光忠は質の悪い男であった。

「……はは」
 力なく笑い、長谷部は背後の男に向き直る。正面から見据えた黄金の瞳は、やはりいつ拝んでも美しかった。

「なら俺と恋仲になれるか、燭台切」
 燭台切がひゅっと息を呑む。口を半開きにし、困惑の色を深める親友の姿は、長谷部が覚悟していた光景と何一つ違わなかった。

「な? 俺やお前が努力して、どうにかなる夢じゃなかっただろう?」
 長谷部は俯き、垂れた髪を耳にかけた。指先が掠めた頬や耳は結構な熱を孕んでいる。
「俺が勝手に好きになっただけなんだ。だからお前は何もしなくていい。責任を覚える必要はない。これまでと同じように、本丸を同じくする友としてあってくれ。それだけで俺は十分、報われる」

 顔を見られたくないとはいえ、咄嗟に下を向いたのは失敗だったかもしれない。溜まりつつある目尻の雫を思い、長谷部は己の失策を悔いた。
 親友では満足できなかったからこそ、相手との距離を図り損ねて今のような状況に至ったのである。劣情を告白しておいて親友に戻れるはずがない。
 しかしながら、いかに中身が伴わずとも、長谷部は愛しい男との完全なる訣別を選ぶことなどできなかった。

 長谷部の提案に対し、燭台切が全く異なる切口で答えを出してきたのは既に述べた通りである。
 試みに恋仲となり、ままごとじみた睦み合いを続けるうちに、二振りは各々新たな関係性に希望を見出すようになった。その結果として、ままごとはままごとに過ぎなかったことが浮き彫りになった。

 濡らした布巾を手に取る。無抵抗の身体を抱きかかえ、燭台切は友の肌に浮かぶ汗を拭い去った。
 普段は深々と皺を刻んでいる眉間も、今は大層穏やかである。それほど夢の中で過ごす日々は快適なのだろう。燭台切からすれば自身を否定されたも同然だった。

 いくら外から呼び掛けても長谷部は目覚めない。
 息はしている。汗も掻く。素より、審神者の霊力さえ有れば食事も不要のため、生命活動に支障は無い。主らの見立て通り、長谷部はただ眠っているだけだった。

「治療も終えているのに、どうして彼は眠ったままなんだ」
 鬼気迫る表情で男が同胞に詰め寄る。薬研は患者より燭台切の方が余程重症に見えた。
「旦那には何かやりたいことがあるか」
「いきなり何だい」
「たとえば俺っちなら兄弟と手合わせし放題とか、好きなだけ薬の研究してられるとか。平たく言えば願望の話だな」
「今は長谷部くんが目覚めること以上の願いは無いよ」
「いいねえ、グッと来る答えだ。でも現実はそう上手くいくものじゃない」

 迂遠な言い回しに燭台切の苛立ちが募る。殺気を隠そうともしない男は、いつ己の胸倉を掴んでくるか判ったものではない。厄介な役を押しつけられもんだ、と薬研は不在の主を僅かに恨んだ。

「願うだけで望みが叶うなんてのは神様の所行だ。たかだか付喪神でしかない俺たちも、その理からは逃れられない」
「つまり祈っても無駄だと」
「いやいや、俺っちが言いたいのはそういうことじゃない。現実がダメなら、現実でない世界で神様になればいいって考えもできるだろ?」
「……薬研くん、まさか」
「妄言だと思うか? 俺もそうであって欲しいところだよ。長谷部のあんな顔見せられなきゃなあ」

 薬研が寝たきりの仲間を一瞥する。近頃はどこか影を感じる面差しばかり見せていたが、夢想に身を委ねる今の長谷部は、口元を確かに綻ばせていた。

「こんな楽しそうにして、どんな夢見てるんだろうな」
 薬研の独白に燭台切は拳を握った。やるせない怒りや焦燥感をぶつける先が見当たらない。

 長谷部が選んだのは燭台切のいる現実ではない。己の欲望を彩り、全てを肯定してくれる偽りの理想郷。彼が拠り所に欲したのは、後者の方であった。

「絶対つまらない夢だよ」
「何でそう思うんだ?」
「長谷部くんはトラブルに巻き込まれてるときが、一番楽しそうだからね」
「程々にしてやってくれよ」

 長谷部は現実を捨てたが、燭台切は親友を諦めるつもりなど毛頭無かった。

 夢とは醒めるものである。そもそも、へし切長谷部に逃走や停滞といった言葉は似合わない。あの打刀はいつだって前しか見えておらず、駆ける背中を守るのは常に燭台切の役目だった。
「さっさと起きてくれよ。怠慢は嫌いだろう」

 かくして燭台切の親友を叩き起こす闘いが始まった。語りかけるだけでも効果が有るかもしれないと、枕元に佇むことが日常になった。
 長谷部を案ずる仲間は他にもいたが、燭台切は親友の世話役を頑として譲ろうとしなかった。理由は解らないが、臥せる長谷部を自分以外の誰にも触れさせたくなかったのである。

「意識不明になった後に彼氏面されたのでは、そこの寝坊助も報われませんねえ」
「彼氏面って何がだい」
「独占欲丸出しでカマトトぶるのは止めて下さい。全く、面食いは大概にしろとあれほど言ったのに」
 宗三は相変わらず鋭い舌鋒で旧知を詰るが、その内容は燭台切には度し難いものであった。

「はあ、無くなって初めて気付いた大切さとか、そういうベタな展開を期待したのですけれど」
「長谷部くんのことは昔からずっと大切だったよ」
「本気で言ってるあたり質悪いですね。いっそ童話みたいに、王子様の口付けでお姫様を目覚めさせてやったらどうです」
「それで起きるなら苦労はしないよ」
 もう何回か試したし、と付け足されて傾国の刀はあからさまに渋面を作った。

 不本意ながら旧知より幾度も恋愛相談を持ち掛けられた身である。宗三としても、燭台切の異常性は十分理解しているつもりだったが、認識が甘かったようだ。
 鈍感さと手の早さを持ち合わせる怪物を前に、宗三はこめかみを押さえた。

「僕の手には負えません」
「でも僕は諦めないよ」
「そっちじゃなくて……ああもう、ある意味お似合いですよ貴方たち。その調子で甘ったるい言葉を吐き続けてやって下さい。あの朴念仁の想像力じゃ、現実の伊達男を上回る理想の彼氏なんて作り出せないでしょうよ」
 激励とも愚痴とも取れる捨て台詞を吐き、宗三が部屋を辞する。残されたのは燭台切と長谷部だけになった。

 換気のために外に通ずる障子を開ける。紫陽花の含んだ露が、雲間から覗く陽光を目映く照り返していた。
 もうじき梅雨も終わる。そうなれば、先日掘り出したばかりの線香花火の出番もやって来るだろう。燭台切と長谷部が共に過ごす、三年目の夏は近い。

 炭酸が湯上がりの喉を潤す。すっかり馴染みとなった枕元に座り込み、燭台切は瓶越しに病床の友を窺った。
 血色は良好で、口角は僅かに上がっている。長谷部は今日も夢の世界で楽しく過ごしているようだ。

「ああラムネが美味しい。これを飲めないなんて絶対に人生損してるよね」
 わざとらしく煽ってみせても長谷部の瞼は開かない。

「しょうがないなあ。今回だけだよ」
 言いながら燭台切は瓶を傾け、再びラムネを口に含んだ。しゅわしゅわと弾ける液体は嚥下されず、咥内に留まる。燭台切の影が長谷部の半身を覆う。合わせた唇の端から、上手く受け渡せなかった透明色の雫が伝った。

「美味しい? 長谷部くん」
 依然として感想は聞けないが、心なしか長谷部の肌が色付いて見える。燭台切は上機嫌で瓶を置き、畳に頬杖を突いた。

「足りなくても我慢してくれよ。起きたらもっと沢山飲めるんだからさ」
 ラムネだけでなく、たまには冷酒を用意して晩酌を楽しむのも良いかもしれない。長谷部が起きた後のあれこれを考えるだけで胸が期待に膨らむ。
 燭台切は隻眼を細め、隣で眠る友を眺めやった。そうするうちに重ねたばかりの唇が薄く開き、何らかの形を紡いだ。

「みつ、ただ」
 長谷部の口から零れたのは、微笑ましい寝言ではなく嘗ての親友を呼ぶ声だった。ただ奇怪なことに、その呼び名は聞き慣れた響きではない。
 長谷部は一度たりとも、燭台切を「光忠」とは呼ばなかった。

「長谷部くん」
 勢いのままに双肩を掴む。燭台切は己よりも細い身体をがくがくと揺さぶり問い掛けた。

「君が見ている夢に僕はいるのか。そいつを光忠と呼んでいるのか」

 胸が焦げ付く思いがする。燭台切にとってそれは初めて覚える感情であり、何に起因するものかも判断はつかない。
 一つ解るのは、長谷部から「光忠」と呼ばれる、自分ではない誰かを想像すると、ひどく苛ついて暴力的な衝動に駆られるということだった。
 いずれ目覚める、では遅い。たとえ皆の祈りが届き、長谷部が現実に還ってきたとしても、そのときには彼の「光忠」は自分ではない誰かに成り代わっているだろう。

 燭台切は立ち上がり、すぐさま行動に移った。目指すは裏山の中腹である。
 以前、長谷部はあの場を己の墓と称していた。
 土の下に何が埋められたのか、燭台切は未だ知らない。しかし長谷部は、棄てた箱の中身は燭台切に関するものだと暗に認めていた。
 その後に続いた論争を鑑みるに、墓に収められたのは、彼が「光忠」と望んでいた未来そのものだろう。
 長谷部が自分に何を求めていたのか知らずして、始めから正答を与えられている夢の住人に勝てるはずがない。

 果たして、土中に葬られていたのは長谷部の切々たる想いの一端であった。
 文中での燭台切は常に「光忠」と呼ばれていた。恋仲であったときも、長谷部が呼び方を変えたいと願い出ることは終ぞ無かった。こんなささやかな望みすら叶えてやることができなかったとは、彼氏が聞いて呆れる。

 ――叶わない夢を願う無様な刀はもう死んだ。

「死なせるものか」
 取り出した紙束を櫃に戻し、燭台切はふもとを睨め付けた。

 長谷部が理想の「光忠」を選ぼうが知ったことではない。夢を叶えるのはいつだって現実の話である。
 へし切長谷部の暴走を止められぬ「光忠」に彼の隣は渡せない。

 

◇◆◇

 

 長谷部国重は全身をベッドに預け、熟考した。
 熱を解放したばかりの身体は、指一つ動かすのも億劫である。折しも恋人は席を外しており、部屋には自分一人しかいない。自ずと長谷部の思考は恋人――光忠一色に染められた。

 ここのところ、長谷部は毎日のように光忠の家を訪ねている。借りてきた映画を見たり、ゲームで対戦したりと過ごし方は様々だった。時には若さ故の情熱を持て余し、きわどい箇所に触れて欲望を発散させることもある。
 ただし、光忠から誘ったのは初めの一回きりであった。それ以降は長谷部から言い出さない限り、光忠が積極的に迫ってくることはない。
 未だに長谷部は男を受け入れる悦びを知らなかった。熱に浮かされ、抱いてくれと懇願しても光忠は首を縦に振らなかった。一方的に高められ、長谷部が精を吐き出した時点で行為はいつも終わる。
 その理由を推し量るなら、おおよそ二通りの考え方ができるだろう。

 第一に、光忠の男性が機能しない場合。なるほど、格好に何かと拘る彼にとっては言い出しにくい案件である。
 物腰の柔らかさに反し、長船光忠の矜恃は高い。仮にこの仮説が正しいとすれば、長谷部から関係を強要するのは避けるべきだろう。
 しかし、以上の解釈には一つ疑問が残る。そもそも、肌に触れたがったのは光忠の方が先ではなかったか。

 後ろで快感を得るほど恋人を開発しておいて、今更女役を申し出るとは考えがたい。光忠は相手を抱くつもりで誘ったはずである。
 それにもかかわらず、光忠は身体を繋げるどころか、性器を長谷部の前で晒したことすら無かった。光忠の言動は明らかに矛盾している。

 次に、光忠の身体には特に異常が見られない場合。順当に考えるなら、光忠は初めから長谷部を相手にするつもりは無かったのだろう。
 類い稀な容姿と社交性を持ち合わせた男である。女子からの評判も推して知るべしで、同性の長谷部を選んだのも何かの気まぐれだったのではないか。
 試しに付き合ってみたものの、やはり男相手ではその気になれなかった。ろくに交流も無いまま恋仲になったこともあり、長谷部としても十分に納得のいく話である。

 ただ、この仮説もやはり決定打に欠ける。真に戯れだったとすれば光忠の演技力には脱帽するしかない。
 それほど恋人に接する光忠は甘く優しく、誠実だった。一ヶ月そこらの交流期間でも判る。長船光忠は人を騙すような真似はしない。

 右腕で額を覆い、長谷部は考察を打ち切った。推論を重ねてみても、光忠の真意は杳として掴めない。現状を打破するには当人から聞き出すしかないのだろう。
「お待たせ長谷部くん、水持ってきたよ」

 ペットボトル片手に光忠が部屋へと戻ってくる。のろのろ起き上がり、長谷部は受け取った容器の三分の二を一気に飲み干した。
 ボトルから口を離し、長谷部はようやく隣から浴びせられる視線に気付く。目が合うと光忠は笑みを返し、恋人の後頭部に手を伸ばした。汗で仄かに湿った髪に指が絡まる。
 こうした何気ない仕草を見て、なおさらに長谷部は確信する。男の琥珀色に滲んでいる慈愛は、作りものではない、と。

「なあ光忠」
 長谷部は取り繕うのを止めた。どのような真実にせよ、光忠とより深い関係になりたいならば受け入れるべきだと臍を固めたのである。

「俺を抱かないのは、何か理由があるのか」
 動悸を激しくしながら長谷部が問う。光忠は驚かなかった。いつか訊かれることだと覚悟していたのだろう。

「やっぱり、今のままじゃ不満かな」
「不満といえば不満だ。お前が俺を大切に想ってくれているのは、解る。身体の関係が全てじゃない。だが、俺だって光忠に何かしてやりたいんだ。奉仕されるだけというのは、性に合わない」
「……そっか、そうだよね」

 腰を上げた光忠は窓辺に立ち、カーテンを開け放った。
 時刻は七時を回っているというのに、日は未だ沈んでいない。夕闇は水平線の間際にある暖色を冒すこともできず、天穹の半ばを覆うに留まっている。

「長谷部くん」
 西日を背にした男の表情は読めない。穏やかな声音だけが長谷部の意識を引き寄せた。

「宝探し、しようか」
 まるで脈絡の感じられない誘いかけである。それでも長谷部には、彼の宝探しこそが何よりも簡潔で、明白な回答である予感がした。

 光忠が学生鞄から古ぼけた紙片を取り出す。意味不明な記号で埋められていた地図は、詳細な描写を伴って、宝の在処への道筋を記していた。

 茂みを掻き分け、道なき道を進む。散歩には向かないが、裏山は昔から子供達の遊び場だった。
 青春の多くを読書に費やしてきた長谷部と違い、幼い光忠は追いかけっこや土弄りに興じていたのだろう。小枝を踏み、躊躇いなく藪を突っ切る光忠は地理を完全に把握しているように見えた。例の地図と現在地を照らし合わせることすらしない。

 一方、初めて山に踏み入った長谷部は、目的地に近づいているのか遠ざかっているかも解らなかった。現状は男に案内を任せ、その背に従っているだけである。
 いったい、これを宝探しと呼んでいいのだろうか。そもそも、宝など本当に存在するのか。

 梢の合間から覗く空はなおも黄昏の面影を残している。光忠の家を出て三十分弱、いかな夏の太陽といえど気が長すぎる。
 奇妙の一言で片付けるには、あまりにも不吉で理不尽な光景だった。この異様さに光忠は一切言及しない。彼は長谷部では知り得ない何かを知っている。おそらくは宝の正体さえも男には既知の代物だろう。

「着くまでまだ掛かりそうだから、質疑応答の時間にしようか」
 光忠の提案は長谷部にとって願ってもないことだった。
 訊きたいことは山ほどある。それこそ出会いから今の関係に至るまで、疑惑に駆られない日は一日たりとも無かった。

「どうして俺だったんだ」
「簡単だよ。君のことが好きだから」
「ろくに話したことも無かったのにか」
「関係ないよ。僕が長谷部くんのことを好きになるのに理由なんて要らない」
 以前にも似たような問答をした。あのときは慣れない好意を向けられ、気障ったらしい台詞だと密かに呆れていた長谷部だったが、今にして思えば、光忠は初めから真実を語っていたのだろう。
< em> 男が長谷部を好きになるのに「理由」は無い。
 世界から秩序が失われていくにつれ、長谷部は自らが忘却していた仕掛けを思い出しつつあった。

「今になって宝探しを再開したのは」
「神様がそうお望みだからさ」
「いきなり電波に走るな」
「嘘じゃないよ。地図が読めるようになったのが何よりの証さ」
「その神様とやらは、俺たちに宝探しをさせて何がしたいんだ」
「夢を見ていたいんじゃないかな」
「夢が見たいなら、自前の枕でも何でも用意すればいいだろう」

 神様のくせに、他人に協力を仰がねば夢の一つも見られないなんて馬鹿げている。地図の件といい、光忠から聞く神は余程の小物のようだ。

「人が夢を見るつくりを知ってるかい」
 内心嘲る長谷部に構わず、光忠はさらに話を続けた。

 夢は記憶を整理する過程で生じるものである。一見して荒唐無稽な内容だったとしても、それらは必ず自身の体験談や見聞きした情報に基づいている。
 逆説的に言えば、当人が知らないものは夢に見ることもできない。

「ここの神様には叶えたい願い事があった。でも上手くいかなくて、代わりに夢を見ることにしたんだ。好きなひとから好きと言われ、手と手を取り合い、穏やかな時間を共に過ごす。神様が望んでいたのは、そんなちっぽけで、ささやかな幸せだった」

 ふと寒気を覚え、長谷部は自身の腕をさすった。七月上旬の風はひどく生温い。蒸し暑い晩刻に長谷部が感じたのは、肌寒さではなく恐怖だった。

「神様も、初めは恋人ごっこで十分だったんだろうね。でも相手がなまじ期待に応えようとしたから事態はややこしくなった。お陰で神様は手に入らなかったものに執心して、同じ出来事を何度も繰り返す始末だ」
 歩くうちに拓けた場所に出て、二人は足を止める。一度も山で遊んだ試しがない長谷部国重は、木々の並びや男の立ち姿に確かな既視感を覚えていた。

「これで君をここに連れて来たのは四回目だ。また全てを忘れて五回目を始めるか、いい加減に打ち止めにするか。その判断はお任せするよ、神様」

 長船光忠が長谷部国重に宝探しを勧めるのには理由がある。
 一つは、やり直す前の記憶を長谷部が引き継いでいるかどうか。夢想に溺れようとするなら、神としての自覚など不要である。長谷部が光忠を理想の恋人と思っている限り、宝探しの地図はいつまでも子供の落書きのまま、単なる話題作りに終始する。

 翻って、長谷部が恋人役の光忠に不安や疑念を抱いたときには、地図は正しく演者を導く指標となった。
 長船光忠とは、この世界で最も神の意志に忠実な従僕である。神が無意識下に失敗を覚ったとき、光忠は宝探しの題目で恋人を伴い、この地へと赴く。埋められた宝の中身は夢も現実も変わらない。

 長谷部が両手を胸の前に掲げる。虚空を掴んでいた掌が土中にあるはずの櫃を支えた。
 この蓋を開けることで世界は再び白紙に戻る。災厄の箱よろしく最後に希望でも残っていれば救いもあろうが、神が詰めたのは絶望だけだった。

「恋仲になれただけで満足できれば良かったのにな」
 空が溶け、夜が訪れる。
 学生服を着ていた長谷部は、いつしか紫の長衣とスタンドカラーのシャツに身を包んでいた。

「本を貸し借りして、ラムネを飲んで、一緒に花火を見て、口を吸われて、そのときは舞い上がるくらい、嬉しかった」
 地が雫を吸う。雨雲は出ていない。局地的に降り注ぐ水は神すらも容易に止められるものではなかった。

「あいつの優しさに甘えるんじゃなかった。もしかしたら燭台切も俺をとか、すきに、なってほしいなんて思うんじゃなかった……!」
 とうとう感情が決壊し、長谷部は幼子同然に噎び泣いた。

 光忠は長谷部が掛けて欲しい言葉を知っている。ただし彼の望む光忠が自分でないことも、男は理解していた。
 ああ歯痒い。長谷部から作り出された自分は、元になった燭台切と違って神の幸せだけを望んでいる。恋情も長谷部の心さえも把握していながら、己では愛しい者を慰めることすらできないなんてふざけている。

 ――せめて、かりそめの温もりを与える権利くらいは許してほしい。
 光忠は長谷部に寄り添い、その細身を背後から抱きすくめようとした。
 指先が長谷部の肩に触れる寸前になって突風が吹く。光忠は咄嗟に腕を突き出し、つむじがもたらす衝動に耐えた。

 この世界の天候は、全て神の意志によって決められている。屋内で二人の時間を過ごすための長雨。ラムネの味を楽しみたいがための晴天。なら先の辻風は長谷部が光忠を拒絶したために発生したのだろうか。
 怖々と瞼を開き、光忠がやっと目にした現実は、想像より遙かに厄介なものだった。

「何だ、君は」
 地を這うかのごとき低音が黒服の美丈夫に投げられる。

「同じ台詞を返してやりたいね。でも問われたからには答えよう。僕は、燭台切光忠。青銅の燭台だって切れるんだよ」
 長谷部と光忠との間に割り入った男は、自らを燭台切と名乗った。

 神もその従者も共に絶句する。この夢は長谷部と光忠だけの世界であり、彼らを引き離す妨害因子は想定されていない。ましてや神を混乱させるような、ふたりの光忠など作り出すはずがなかった。

「そんな、そんなことは有り得ない。お前はいったい何なんだ」
「寝ぼけてたとしても、それは酷いな長谷部くん。夢にかまけ過ぎてオリジナルの僕を忘れたって言うのかい」
 光忠の瞳よりも彩度の高い隻眼が長谷部を見下ろす。燭台の灯を点したような黄金色。長谷部が幾度も焦がれ、自らを映してほしいと願った一つ目は、疑うまでもなく燭台切光忠のものであった。

「今更オリジナルが何の用で来たって?」
「決まっているだろう。僕の長谷部くんを迎えに来たんだよ」
「恋や雅も解らない無骨者のくせに、所有権は主張するんだ」
 光忠の手に黒鞘の太刀が握られる。相手に応じ、燭台切もまた自らの得物を外気に晒した。

「友情か慕情かなんて区分はこの際どうでもいい。僕にとってへし切長谷部は唯一無二の刀だ。彼が何と言おうと、長谷部くんの隣は他の誰にも譲らないし、彼のいう「光忠」は僕であって君じゃあない」

 燭台切の言を受け、光忠が返したのは忍び笑いである。こんな傲慢な男を模倣して生まれたのが己かと思うと、怒りを通り越してもはや笑うしかない。
 何にせよ、この機を逃せば二度とオリジナルと雌雄を決することはできないだろう。長谷部が泣くたびに光忠は怒りのやり場を探していた。その点において元凶たる燭台切ほど格好の標的はない。

 月影が火花となって散る。黒金が合わさり、刹那の攻防を経て再び距離を取った。激突する両者の実力は伯仲している。
 戦場においても彼の太刀はめざましい功績を上げていた。男の刀捌きは長谷部の目をよく惹き、恋情も手伝って余計印象に残った。
 それらの記憶は全て光忠の血肉となって息づいている。長谷部が燭台切を想えば想うほど、光忠の膂力は増し、動きも冴え渡った。敵に対する容赦の無さ、大胆不敵な戦法、光忠の振る舞いはまさに燭台切の生き写しと呼んでも過言ではない。

「うーん、まるで鏡を相手にしてるみたいだ」
「やりにくいかい色男」
「遠慮が要らないって意味では寧ろやりやすいよ。でも一つ引っかかることがあるんだよね」
「へえ、戦場で考え事とは余裕じゃないか」
「そりゃあ気にもなるさ。僕が今刀を交えている相手も、よく考えてみたら長谷部くんの一部だろう」

 燭台切の指摘に唯一の傍観者が目を丸くする。
 自分を差し置き、勝手に盛り上がるふたりを長谷部は止めることができなかった。正確には両者のうち一方を選ぶことができなかった。
 燭台切が自分を追って夢の世界まで来てくれたことは嬉しい。このまま光忠と日常を過ごしたところで悲願が成就されることは無い。
 いずれの手を取るべきかは、明らかである。

 それでも長谷部は男の名を呼べなかった。燭台切が求めているのは刀のへし切長谷部だ。情欲に囚われるヒトのなり損ないとは違う。最後の夜に味わったような苦い思いは、もう二度としたくない。

「僕も長谷部くんの一部だから、衝突は避けたいとでも?」
「まさか。でも君が僕とぶつかるのは、長谷部くんが僕に思うところあるからだろう?」
 鞘で相手の太刀を受け止め、燭台切は外野に目を遣った。

「どうせ文句を言われるなら、自分のそっくりさんより長谷部くんの方が良いって思っただけだよ!」

 勢い光忠の刀が打ち払われる。
 力任せに攻撃をいなした燭台切と攻めに失敗した光忠。ほぼ同時に隙の生じたふたりのうち、いち早く体勢を整えたのは燭台切の方だった。
 振り下ろされた白刃が光忠の正面に迫る。骨肉を裂くはずだった一撃は空振りに終わった。

 前線でしばしば見かけた青朽葉の布が左右に揺れる。必殺の剣を防がれ、いよいよ燭台切は興奮を隠せなくなってきた。

「ようやくその気になったかい、長谷部くん」
「ああ。貴様への不平不満を漏らす好機と聞いては黙ってられんからな」

 主の介入により一命を取り留め、光忠は嘆息まじりに退いた。
 男への意趣返しを長谷部自らしようというなら、もう己の出る幕は無い。神の意志は光忠の意志でもある。
 部外者でもあり当事者でもある青年は、燕尾服から元の学生服に装いを変え、事の成り行きを見守った。

 俊足を生かした速攻が上等な衣装を刻む。肌に届くより先に刃は打ち流され、長谷部は無防備となった懐を敵前に晒した。一薙ぎでもたらされた風圧が飾り布を踊らせる。
 相手さえ違えば彼の太刀は間違いなく致命傷を与えていたことだろう。間合いから逃れられたのは、ひとえに長谷部の超人的な反射神経の賜物だった。
 作りものの心臓が悲鳴を上げる。速くなる鼓動を耳にしながら、二振りはますます気力を漲らせていった。

「ご自慢の打撃も当たらなければ意味が無いなァ?」
「ご自慢の機動も力が足りてなければ無意味だよね」

 煽りを交えつつ得物を構え直す。長い付き合いであるふたりは互いの弱点をも熟知していた。
 燭台切の足では長谷部を捉えることはできないし、長谷部の力では燭台切を御すには不足している。
 まるで毛並みの異なるふたりだが、それ故に揃えば凸凹を組み合わせたようにぴったりと嵌まった。
 自分の長所が相手の短所を補う関係は、戦場でも日常でも、この上なく頼れる同志だったのである。

「君は味方だと心底頼もしいけど、敵に回すと本当に厄介だよねえ!」
「お前にだけは言われたくないなあ? ねちっこい攻め方するやつだとは思っていたが、まさか閨でもそうだとは呆れたぞ」
「そのしつこい男に組み敷かれて悦んでたのはどこの誰だったっけ」
「ハッ、世の中物好きもいるものだなあ」

 剣舞に紛れて蹴りが飛び出す。爪先が鋭く腹を抉った。内臓をやられて燭台切が苦痛に呻く。これ幸いと両の足を地につけ、長谷部は大きく刀を振りかぶった。
 勝利を目前にした敵の足を掬うのは容易い。燭台切は腕を伸ばし、長谷部の襟を掴んで力任せに投げ飛ばした。

 呼吸をするたびに泥と血の味がする。
 互いに手の内が知れている相手だ。闘いはほとんど化かし合い、騙し合いの様相を呈していた。
 一合ごとに神経を磨り減らしつつ、次なる一手をまた考える。まさに心身共に疲弊する戦いだが、二振りはこの状況を腹の底から愉しんでいた。

「仮にお前が勝ったとしてだ。俺が大人しく向こうに帰ると思うか?」
「嫌と言っても連れて帰るよ」
「帰ったところで以前のような関係には戻れないぞ。俺は貴様が思っているより貪欲で、単なる親友ではとても満足できそうにない」
「僕はまだ別れたつもりなんて無いんだけど」
「意地を張るな。お前が俺をそういう目で見られないことは、あの晩に証明されただろう」
「なら今度は薬を使ってでも君を抱くよ」
「は?」

 長谷部が跳躍し、横薙ぎの一閃を避ける。背後の樹木が燭台と同じ運命を辿った。
 轟音を立てて崩れる木の屑を払い、燭台切は改めて茫然自失となった仲間と対峙する。

「前にも言った通りだ。僕は君の夢を諦めたくはない。どんな手段を用いても君の望みに応えてみせる」
「おまっ、正気か!? そこまで俺に尽くす理由がどこにある!」
「有るさ、大有りだとも。君は自分を貪欲だと言うけれども、長谷部くんだって僕がどれだけ欲深いか知らないだろう。君と離れずに済むなら、親友か恋仲かなんて肩書きに拘りはしないさ」

 長谷部の手から刀が滑り落ちる。
 夜が白み東雲から光明が垂れた。立ちすくむ長谷部に向かって黒い革の手袋が差し出される。

「もう一度言うよ長谷部くん。悪い男に捕まったと思って、君も諦めることを一旦諦めてくれないかな」
 いつかの夜を忠実になぞりながら、その声音はより一層、真摯さを増していた。

「燭台切」
「何だい」
「光忠って呼んでいいか」
「当たり前だろう」

 自分のものより大きな掌を握り、長谷部は嗚咽混じりに何度も光忠の名を呼んだ。

 空が割れ、透明色の破片が燦々と降り注ぐ。
 長い夢は終わりを迎えた。続く物語は現実で紡がれる。四度繰り返した日々も無駄にはならない。

「もう二度と来ないでくれよ」
 寄り添うふたりに、最大の功労者が風変わりな激励を送る。
 神の望みは叶えられた。もう代替品の自分はお役御免である。別離を惜しむ気持ちこそ無いが、最後の最期に皮肉を言う権利ぐらいあってもいいだろう。

「みつただ」
「そんな顔しないでくれよ神様。隣の番犬がこっち睨んでるよ」
「お前には助けられた。俺の我が儘に付き合ってくれてありがとう」
「どういたしまして。これからは僕の分まで幸せになってくれ」
「何を言ってるんだ。お前も俺じゃないか。幸せになるなら一緒にだろう」
 上下の概念が希薄となる。消失まで秒読みとなった世界で、嘗ての従僕は頭を抱えた。

「苦労させられるねオリジナル」
「解ってるなら今後も説得をよろしく」
「あはは、そこは伊達男の腕の見せ所じゃないか」

 三者の意識が一斉に途切れる。手足の感覚が戻り、やけに重い瞼を開けた長谷部の視界に広がったのは、見慣れた格子柄の天井だった。

 軽く身動いで周囲の様子を観察する。本棚、和箪笥に座卓。最低限の家具だけを設えた空間は、紛れもなく長谷部が寝起きしている私室だった。
 しみじみ帰ってきたという実感が沸く。寝たきりで随分と鈍った身体を起こせば、腹の上に置いてあったらしい何かが畳に落ちた。

「げ」

 拾い上げた紙もさることながら、枕元に鎮座する男に度肝を抜かれ、長谷部から間の抜けた声が上がる。
 戦場であれば、木に背を預け、胡座のまま仮眠をとる燭台切の姿は珍しいものではない。しかしながら屋内の、加えて自分の部屋で、燭台切が座りながら寝入っている絵面は、長谷部の想像の範疇を超えていた。
 部屋の主が動揺しているうちに、燭台切もまた夢から現へと帰還する。物憂げに開かれた左目は、長谷部を捉えた途端に大きく見開かれた。

「長谷部くん」
 相手が呼び掛けに応ずるより早く、燭台切が長谷部を抱き込む。男の力強い腕に抗う術などなく、長谷部は武具が節々に当たるのをひとまず忘れることにした。

「おはよう。寝坊するなんて怠慢だと思わないかい」
「おはよう。そうだな、今後は善処する」
 身を寄せ、長谷部も相手の背に腕を回す。血の通った体温や安堵する匂いは、幻影よりもずっと生々しく両者の五感に訴えかけてきた。

 ふと下敷きになった紙が膝下でぐしゃりと潰れる。幸福感に浸っていた長谷部の背を冷や汗が伝った。
 何を隠そう、床に落ちている紙こそ男への執着の現れであり、燭台切にだけは見られたくない、黒歴史の象徴だった。慌てて回収しようとするも、目敏い太刀によって長谷部の試みは敢えなく水泡に帰す。

「そんなに恥ずかしがらなくても大丈夫だよ。もう全部読んだからね」
「死体蹴りやめろ」
「音読は?」
「油撒いて火葬まで済ませる気か? お前に良心は無いのか?」
「持ち主が要らないって言うなら、拾い主の僕が貰っても良いよね」
「いいわけあるか。というか、埋めてあったものを掘り起こすのは拾うとは言わん」

 反抗しつつも、長谷部は半ば力尽くでの奪還を諦めていた。口先でも物理でも、この男をねじ伏せるのは骨が折れる。いつか隙を見計らって再び土に還すのが妥当だろう。長谷部は前向きに薄暗い決意をした。

「しかしそうか。どうしてお前が夢の中にまで入ってきたのか得心がいった」
 あの櫃は夢と現とを繋ぐ唯一の鍵だった。神の関わる儀式は何かと形式を重んずる。やり直す寸前に燭台切が介入してきたのも、宝探しを終えて長谷部の手元に箱が戻っていたからだろう。
 とはいえ、円環の絡繰りなど燭台切が知る由もない。彼としては、たまたま夢の世界へ飛ぶ媒介として例の箱を選んだだけかもしれない。もっとも、それが見事に最善手だったというわけである。
 強運か、はたまた勘の成せる業か。いずれにせよ恐ろしい刀である。もう二度とこの男の逆鱗には触れたくない、と長谷部はつくづく思い知った。

「そういえば長谷部くん。夢の中にいた僕のこと、光忠って呼んでたよね」
 触れたくないと思った途端にこれである。冷や汗に加え、震えまでもが長谷部の背を突き抜けた。
「そ、それがどうかしたか」
 退路は無い。背に添えられた手は絶対に長谷部の逃走を許さないだろう。
「僕のことはずっと燭台切って呼んでたのになあって」
「はっきり恋仲になったわけでもないのに、呼び方を変えるのはどうかと思ったんだ」
「口吸いや同衾まで済ませておいて?」
「うるさい。万が一お前がその気になったら頼むつもりだった」
「そうかい。じゃあこれから沢山呼んでくれ。例の光忠くんを呼んだ回数よりも遙かに多くだ」
「妙にあいつにこだわるな。何だ嫉妬か」

 矢継ぎ早に続いた応酬が途切れる。弁の立つ燭台切が閉口したのにつられ、長谷部も思わず言葉を忘れた。
 気の抜けた燭台切は黙然として過去に向き合っている。相手を追及していたときの圧力はすっかりなりを潜めていた。

「僕は彼が羨ましかったのかな」
「俺に訊かれてもなあ」
「君が僕以外の誰かを「光忠」と呼んでいるのを想像したら気が狂いそうになった。敵に斬られたときより激しい衝動に駆られた。あれは、嫉妬だったのかな」
 燭台切は優れた刀だ。手先は器用で協調性もある。感情面を除けば欠点など無に等しい。能力や人望に恵まれた彼は、誰かを羨んだことなど一度も無かったのだろう。知らない感情について問われて、是非の判断などできるはずもない。

「お前の感情はお前だけのものだ。俺がそうだ、と決めつけてしまっては意味が無い。でもな」
 長谷部の両掌が燭台切の白い頬を柔く包み込む。

「もし本当に嫉妬だったとすれば、嬉しい。俺はずっとお前に求められたかった。独占されたかった。他の誰でもない、俺だけに向ける感情がずっと欲しかったんだ」
 ふたりの間にあった距離が埋まる。了承を得ず、長谷部から燭台切に口付けるのはこれが初めてのことだった。

 唇を合わせ、互いの呼気を食む。恋仲になってから何度も反芻した行為だが、燭台切は一度たりとも情欲を以て長谷部に触れたことは無かった。感傷に疎い燭台切が真っ先に思い浮かべたのは戦闘での高揚感である。
 肉を穿ちたい。刀身で柔らかな肌を裂きたい。目の前の肢体を暴き、征服して喰らってしまいたい。ただ重ねるだけでは飽き足らない。相手の奥深くにまで触れたくなって、燭台切は長谷部の咥内に舌を差し入れた。

「ン、ぁ、は」
 鼻にかかった声を聞くたび、燭台切から理性と余裕とが削られていく。舌を絡め、唾液を吸い上げると、無味無臭の液体が妙に甘く思えた。同じ行為だというのに、以前とは何もかもが違って感じられる。
 燭台切が積極的に仕掛けるにつれ、次第に長谷部からは力が抜けていった。今やほぼ相手に支えられる形になっている。抱き合うようだった体勢も、揃って口吸いに夢中になるうちに褥にもつれこんで、やがて見上げる側、見下ろす側に別れるようになった。

「はせべくん」
 喘ぎ喘ぎ燭台切が長谷部を呼ぶ。いい加減に舌が痺れたのか、口調は若干呂律が回っていない。

「僕、薬なくてもいけるかも」
 この宣言を聞き、長谷部は我知らず固唾を呑んだ。先刻の大立ち回りで男が口にしていたことは、決して勢い任せの戯言ではなかったらしい。

「……望むところだ」
 他にもう少し色っぽい誘い文句はなかったのか。内心後悔する長谷部だったが、その懸念は破顔する燭台切に一蹴された。

 重々しい防具を外し、上着を脱ぐ。格好に拘る伊達男らしい戦装束がやや無造作に打ち捨てられた。次いで、煩わしそうにノットを緩める姿が長谷部の劣情を殊更に煽る。

「すっごい見てくるね……ストリップ好きなの?」
「妙な性癖を押しつけるな。お前が脱いでるのを見るのが新鮮なだけだ」
 真っ赤な嘘である。女優のストリップに興味は無いが、燭台切が自ら服を剥いでいく過程は網膜にしっかり焼き付けておきたい。
 手袋に噛みつき、隠された肌を乱暴に晒していく男の色気たるや、筆舌に尽くしがたいものがある。先の発言を完全に忘れて、長谷部は男の脱衣をまじまじと見つめ続けた。

「熱視線ありがとう」
「他に見るものが無かっただけだからな」
「それでもいいよ。今は僕だけを見ていてくれ」
 剥き出しの指と指とが絡む。取られた手の甲に唇を落とされ、長谷部は素直に興奮を認めなかったことを早々に悔いた。
「おま、なに、どこでそんなことを覚えてきた」
「君と一緒に観た映画。長谷部くんってムッツリな割に意外とロマンチストだよね」
「風評被害の連打はやめろ」
「でも嫌いじゃないだろう、こういうの」
 反論叶わず長谷部が言い淀む。
 相手をずっと見てきたのは長谷部だけではない。好意の別には疎くとも、親友が何に興味を示しているか、何を欲しているのか、これらを見抜くのは燭台切の得意分野だった。無論、長谷部の沈黙が肯定と同義であることも男は重々承知している。

「ぁ、やめ、くすぐった……」
 指の股から掌、手首と、燭台切の舌が丹念に長谷部の身体を這う。舐められるだけに留まらず、時に強く吸われた肌には赤い点が千々と散った。
 初めて男に刻まれた所有印である。前の夜は共寝の痕跡など一切残されなかった。歓喜する心を抑えられず、艶めいた息が長谷部から途切れ途切れに漏れる。

「痛く、はなさそうだね」
「ん、大丈夫だから好きにしていい」
「じゃあお言葉に甘えて」

 寝間着にしている浴衣の襟元をはだける。ここ最近は世話の一環で何度も目にしているはずなのに、いざ長谷部の裸体を前にするや、燭台切の中で得も言われぬ感情が湧きあがった。
 吸い寄せられるように両の手が胸板を覆う。やわやわと揉み込んだ肉は薄く、押し当てただけでも心臓の鼓動がよく伝わってきた。

「全力疾走した後みたいにドクドクいってる」
「お前といるときは割とこうだ」
「身体に悪そうだね」
「その代わりに気分は良い。ヒトと違って手入れすれば直るんだから、多少無理したって問題ないだろう」
「手入れ部屋行きになった理由を主にどう説明するか楽しみだよ」
 感触を確かめようと動く手つきは、さほど淫猥なものではない。燭台切の指が胸の尖りに当たったのは全くの偶然だった。

「ンっ」
 長谷部の踵が敷布を蹴る。この過敏な反応を燭台切が見逃すはずもなく、胸を弄う手が急に妖しさを帯びた。指の腹で突起を押し潰すと、さらに長谷部から悲鳴じみた嬌声が上がる。

 摘む、引っ張る、舐る、吸う。燭台切は思いつく限りの方法で長谷部の胸を嬲った。どのように触れても長谷部は息を荒げ、男の愛撫を歓迎する。
 房事に関心の薄い燭台切も流石に訝しんだ。いくら何でも感度が良すぎるのではないか。
 思い返せば、未遂に終わった夜も長谷部は快楽に溺れきっていた。今ほどの熱意を持たぬ燭台切の前戯でその有様だったのだから、相当に素質が有るのか、或いは愛されることに慣れていたかのいずれかだろう。

「長谷部くん乳首弱すぎない?」
「よわくない。ぜんぜんこれっぽっちもよわくな、アぁッ!」
「少し強めにつねってもアンアン言ってるし。大分開発されてるよね」
「してな、やァ、つよぃぃ、ンん……!」
「こんなになるまで誰にしてもらったんだい」
 冷えた声が長谷部を恍惚から呼び覚ます。胸への刺激に熱中して気付いていなかったが、燭台切の面貌からは一切の感情が失せていた。顔に表れないだけで、その実かなり苛ついていることが嫌でも窺える。

「だれ、ってなンッ! や、かむのはだめ、アァッ! はぁッん……!」
 凝り固まった乳頭に歯が立てられる。痛覚と快楽の境目を泳がされた後に、唾液をたっぷり塗されると天秤が急速に後者へと傾いてしまう。長谷部は弁明する暇すら与えられなかった。

「相手はあの光忠くん? まさか他の男士とか言わないよね」
「はァ……! みつ、みつただだけ……ほかの、ンッ、だれにも……! さわらせてないからァ……!」
「そっか。で、あの光忠くんとはどこまでしたの」

 指で尻を掻き回されて、トコロテンする程度には開発されました。どう考えても自殺志願者の言い分である。
 現実の肉体に影響は無かったとしても、夢での蜜月は生涯の秘密として墓まで持って行かねばなるまい。ある種の親心と何よりも自衛のために、長谷部は悲壮な決意を固めた。

「も、黙秘権を行使する」
「ふうん、そう」
 ぬらぬらと照り光る突起が指で弾かれる。ようやく胸への責め苦から解放されて長谷部は一息ついた。これが甘い見通しだったと嘆くのはものの数秒後の話である。
「ひッ……!?」
 肌着の中に燭台切の体温が滑り込む。陰毛や脚の付け根をなぞる指を意識するあまり、長谷部は男の腕を挟むように身体を縮こまらせた。
 窮屈になった双脚の合間で燭台切の右手がもぞもぞと動く。芯を持ち始めた性器を掴まれ、長谷部の思考は途端に白く染まった。

「言いたくないならそれでも構わないけどね。これから君に触れられるのは僕だけだし、今までにされたことは全部上書きすれば良い話だ」
 耳朶を食まれ、怒気を孕んだ低音を体内に直接注ぎ込まれる。性急に官能を高められ、心ない言葉で責められても、長谷部はこれらの仕打ちが嬉しくて堪らなかった。
 敷布から手を放し、長谷部は肩先で揺れる濡れ羽色を梳いた。汗のためか、艶のある黒髪はどことなく湿っている。いつもは髪を乱すとうるさい燭台切だが、今は何も言わず長谷部のしたいようにさせていた。

「ッハぁ……おまえ、けっこう独占欲、つよいんだな」
「自分でも知らなかったよ。君には色々と教えられてばかりだ」
「はは、もうひとつ面白いこと教えてやろうか」
 頭を撫でるのとは別の手がふたりの間に差し込まれる。指先が黒いスラックスの前立てに到達し、その下にある膨らみを軽く持ち上げた。
「手でも口でも、俺はしたことがない」
 片頬を寄せて長谷部は男に誘いかける。突然の告白に燭台切も暫し驚いていたが、我に返るなり喜々としてそれまでの険を投げ捨てた。

 寝そべった燭台切を跨ぐように長谷部が上になる。
 衣服を寛げ、掌中に収めた男の雄はまだ柔らかい。兆す前から既に持て余す大きさだというのに、育ちきったらどうなってしまうのだろう。唾を呑む。期待と好奇心に突き動かされ、長谷部は初めての口淫に挑んだ。
 恐る恐る竿に舌を這わせる。綺麗好きなだけあり、妙な匂いも味もしない。慣れない口技だけでは快感を引き出すのは難しかろうと、長谷部は手も使って懸命に男へ奉仕した。

「ん、おもったより、悪くないね……」
 背後から聞こえる燭台切の声も心なしか艶っぽい。気を良くした長谷部はいよいよ雁首に唇を落とした。
 咥内に溜まった唾液を吐き出し、亀頭へと擦り付けていく。拙いながらに効果は有ったらしく、始めた頃より陰茎は逞しくなって硬度も増した。

「きもひひいか?」
 咥えたまま長谷部は少しだけ背後を顧みる。白い肌は赤らんで、男らしく太い首回りや均整の取れた筋肉には珠の汗が浮かんでいた。燭台切は明らかに欲情している。その快感が己のもたらしたものだと思うと感動もひとしおだった。

 肉棒を咥内から引き抜き、見せつけるように先端へと口付ける。長谷部の挑発は功を奏した。
 相手に尻を向けていた長谷部の袂が勢いよくめくられる。下着に手を掛けられ、胸と同じく肉付きの薄い双丘が露わになった。
 あれから触れていないはずの中心部は軽く首をもたげ、さらなる刺激を待っているように見える。勃起した性器もそうだが、燭台切の視線は割れ目の合間に集中した。

「な、何で脱がす!」
「いやあ、長谷部くんが頑張ってくれたお陰で早く挿れたくなってきたから。こっちの準備も進めておこうかなって」
「待てまてまて、わーッ! 顔をちかづけるな!」
 相手の意図を察した長谷部は腕を伸ばし、必死に抵抗を試みた。打刀と太刀の腕力とでは比べるべくもない。長谷部の悪あがきは十秒と保たなかった。
 秘所を覆い隠す五指はあっさり引き剥がされ、代わりに柔らかな肉が宛がわれる。

「ぁ、だめ、ああああ……やだ、そんなとこ、なめるなよぉ……」
 男の太腿に縋り、長谷部は半べそになりながら羞恥の波に耐えた。閉じきった窄まりを燭台切は容赦無く舌で突く。
 頑なだった後穴は唾液でしとどに濡れ、縁も少しずつだが緩んできた。拒んでいた長谷部もいい加減に諦めたようで、燭台切に体重を預けて大人しくしている。舌を差し入れると弛緩していた脚に再び緊張が走った。

「慣らすのって結構時間かかるんだね。しばらくは僕も君も生殺しかな」
「ん、んんッ……だか、らぁ……なめるんじゃなくて、もっと別の、はぁ、方法が」
「そういえば前は長谷部くんがローション出してくれたよね。まだ有る?」
「あ、ある。押し入れの抽斗の、上から二段目……」
「オーケー、ちょっと取ってくる」
「ん……? いや待て、俺がとってくる! お前は動かなくていい!」
「あ、あった。このボトルで合ってるかい長谷部くん」

 時既に遅し。脱力した長谷部では立ち上がるのもままならず、燭台切を止めるには及ばなかった。
 潤滑油の他に、種々多様な大人の玩具が伊達男の目に留まる。長谷部の独り遊びを彩ってきたそれらは、ある意味で手紙以上に見られてはならない負の産物だった。

「後生だ、俺を折ってくれ光忠……」
「ほぼ全裸でいきなり何を言い出すんだい」
「夜な夜な親友に種付けプレスされる妄想で抜いていたことがバレてはもうお前に顔向けできない」
「自白しない限りバレない情報だったよね。別に僕は気にしないから顔を上げてくれないかな」
「非処女と疑われる領域まで自己開発済みの親友なんてドン引きだろう」
「引いてないから」
「口では何とでも言えるだろうさ」

 とうとう長谷部は想像上の非難から逃れるように布団にくるまった。
 燭台切が重苦しげに溜息をつく。呆れられた雰囲気を覚り、丸まった布の塊がますます小さくなった。

「長谷部くん」
 燭台切が膝を立てて褥に転がった団子に近づく。予想に違わず、長谷部は呼び掛けに応えない。
「ひとりで胸や後ろを弄ってたのかい」
「悪いか」
「そんなはずないだろう。僕は嬉しかったよ」
 覆い被さった身体を、燭台切は布団ごと抱きしめた。腕の中の長谷部が身動ぐ。夏場の寝具は薄い。布を一枚隔てていても、互いの体温や稜線がふたりには手に取るように解った。

「長谷部くんに触れた男は本当に僕だけだったんだね」
「……そうだ」
「何でだろう、とても嬉しいのに胸の辺りが痛い。今日一日で色々あったから、身体がおかしくなってしまったのかな」
「いや」
 布越しに長谷部の掌が燭台切の腕に触れる。
 殊に無知とは罪深い。燭台切が淡々と告げる彼自身の変化は、下手な睦言よりずっと誠実で、かくも長谷部の胸を熱くさせるのだから。

「俺も同じだ。だから、おかしくなんてない」

 粘性の糸を引きながら男の指が長谷部から離れる。潤滑油とふたりの体液で濡れそぼった後孔は十分に解れていた。長谷部は自身の指を舐り、欲望を突き立てられるのを今か今かと待ち構えている。
 濡れた藤色が燭台切の方を見上げた。冷静沈着の評を持つ男がそそり立つ雄を扱き、食べ頃になった肉を前にして息を荒げている。本能を剥き出しにした視線を注がれ、長谷部の下腹部は一層疼きを増した。

「みつただ」

 唯一のものとなった呼び名を噛みしめ、燭台切は長谷部の脚を担いだ。
 先端が沈み、狭い肉の門を強引に押し開く。燭台切の逸物は平均を優に凌駕していた。これを未通の身体で受け入れようというのは中々に酷な話である。
 自ずと長谷部は苦悶に喘ぎ、燭台切も締めつけの強さに快感よりも息苦しさを覚えていた。

「ぁ、ア――ッ……! っぐぅ、ァ」
 長谷部の両手が敷布を掻き毟る。見ているだけでも辛そうで、長引かせるよりはと燭台切は腰を一気に進めた。
「あ、あああッ! ん、ンンン――!」
 悲鳴ごと長谷部の口を塞ぎ、舌を絡める。前後不覚に陥っている長谷部は侵入してきた異物につい噛みついてしまった。
 俄に鉄の味が広がる。痛みに燭台切が顔を顰めると、反って長谷部の方は平静を取り戻した。
 血を丁寧に舐め取り、自らが作ってしまった傷口を懸命に慈しむ。自分の方がよほど苦しいだろうに、長谷部は相手の身ばかりを案じている。燭台切の心臓が再び激しく鳴り始めた。同時に腰の辺りも重くなって、窮屈な隘路が余計に狭く感じられる。

「こら、なにさらに大きくしてるんだ」
「よくわからないけど腰に来た」
「まったく……こっちは最初の時点でいっぱいいっぱいなんだぞ……」
「ごめんね。でもさっきから長谷部くんがこう、美味しそうに見えて仕方ないっていうか」
「いや確かに食われてるんだけどな、俺は高級肉か何かか?」
 そうこう雑談を交わすうちに、肉襞が雄の形に馴染み始める。息の整った長谷部に促され、燭台切は腰がぶつかるまで自身を突き入れた。

「ン、はあ……これでぜんぶ、だよ」
「ふぅ、ア、はは……そうか、ぜんぶ、はいったか」

 ゆるゆると持ち上げられた長谷部の手が下腹を撫でる。夢ではない。この皮膚の下には、突き当たりに届くほど膨張した燭台切の欲が収められている。
 夜ごと無機質な代理品で熱を発散しては虚しさに涙した。いざ恋仲になり、そういう対象としては見られないと、言葉ではなく事実を以て突きつけられたときは折れたいとすら願った。そこまで焦がれていた相手に求められ、ようやく身体を繋げるに至った。
 膨れ上がる感情は、長谷部の許容量を遙かに超えている。処理が追いつかなくなった情動は、涙という形で体外に次々と零れ落ちた。

「えっ、長谷部くん大丈夫? 痛い? 苦しい?」
 燭台切の問いに首を横に振って答える。行き場を失い空を掻く男の手を取り、長谷部は自らの頬に押し当てた。

「すきだ」
 告白以来、一度も口にしなかった好意を舌に載せる。
 同意が得られることは無いと解りきっていた。自分の片恋でしかないと思い知らされるのが嫌で、長谷部は本音をずっと胸の奥底に封じてきた。

 悲願が叶った今になって初めて長谷部は自制を忘れた。譫言のように好きだと繰り返し、自分よりも広い背中に縋りつく。
 親友の心境を推し量ろうにも、燭台切の情緒では未だ理解が及ばない部分も多い。
 戸惑いながらも燭台切は抱擁に応え、互いの肌と肌とをぴったりと合わせた。長谷部が泣き止むまで、燭台切はただひたすらに友の背を擦り続けた。
 そうするうちに気が安らいだ長谷部は、ふと自らに打ち込まれた楔を意識した。本心では今にも腰を振りたいだろうに、燭台切は長谷部を気遣って、いつまでも動かないでいる。男から遠慮を奪うには長谷部自ら仕掛ける他ない。

「も、動いていいぞ」
「本当に? 無理してないかい?」
「無理というならお預けされる方が無理だ。我慢させてすまなかったな、お前も俺の身体を好きに使ってくれ」
 自由になった両脚をすり寄せ、余裕とばかりに微笑んでみせる。長谷部の意図を汲み、燭台切は張り詰めた熱を解放するべく、緩やかに動き始めた。

 じゅぽじゅぽと繋がった部分から水音が響く。多量に用いた潤滑油は激しい律動を容易にした。
 雁首が抜ける寸前まで外に出したものを再び奥に叩きつける。始めと比べ、容赦なく貪られることに長谷部の身体は悦びを覚えていた。
 もう一秒でも奥の奥まで肉棒に満たされていないと、下腹部が切なくて仕方ない。時折、中のしこりを掠められては、後膣がはしたなく男の分身に縋りつく。長谷部から漏れる声はとうに意味を為していない。

「あ、アア! ッぁ! みつただ、みつただァ……!」
 悦楽によがり狂い、長谷部は自らを喰らう男に救いを求めた。端整な顔を歪め、燭台切はより強く粘膜を掻き分ける。長谷部を苛む熱はますます盛んになった。

「はせべ、くん……! そろそろ、出そうなんだけどッ……」
 限界を悟り、燭台切の動きが遂情を目的としたものに変わっていく。力強い肛虐に長谷部も追い詰められ、息も絶え絶えに感じ入った。
「うん、うンッ……! なか、ナカにくれ、ッ! おくに、いっぱい、みつただのほしいッ……!」
 しなやかな脚が離すまいと男の腰に絡みつく。大きく動けなくなった分、深々と突き刺した逸物で腹の中を掻き回す。咥え込んだ雄から精を搾り取らんと媚肉が収縮を繰り返した。負けじと燭台切もがつがつと性器を突き入れ、長谷部の絶頂を煽る。

「アッあ、ああッ! みつたら、も、だめ、いく、いくからァ……!」
「いいよッ……僕にお尻の中ぐっちゃぐちゃにされて、イきなよッ……」
「ぃ、あ゛ぁああああーッ!」

 下生えが触れるほど深く腰を打ちつける。申告通り、臨界点に近かった長谷部は背を反らし、手足を痙攣させて精を吐き出した。
 極まった肉鞘が、受け入れた刀身を今までになく締めつける。燭台切も今度は抗わず、長谷部の奥深くに白濁を注ぎ込んだ。

「ぁ、あぁ……でてる、みつただの……おれのなかで、いっぱい……」
 長谷部は目を眇め、腸壁を叩きつける飛沫を思い描き達成感に浸った。
 満ち足りた表情の友を見下ろしながら、燭台切は懸命に言葉を探す。

 長谷部を自分だけのものにしたい。肌を重ね、つむじから爪先まで余すところなく可愛がりたい。互いだけを求め、求められたい。これらの衝動はどうすれば上手く言語化できるのだろう。
 隣に居たい、唯一無二でありたいという願いはもはや長谷部だけのものではない。友情を教えてくれた刀は、この欲求に名を与えることを拒んだ。従って、先の答えは燭台切ひとりで導き出さなければならない。

「光忠」
「ん……?」
「俺の願いを叶えてくれて、ありがとう。お前を好きになって良かった」
 長谷部が満面に喜色を湛え、感謝を口にする。燭台切は長らく頭にかかっていた靄が晴れた気分だった。

 ――我ながらなんとも鈍い。彼はずっと、僕に答えを示し続けてくれたというのに。

「本当に君には教えられてばかりだ」
 汗で貼り付いた前髪を除け、燭台切は見慣れた額に唇を寄せた。目を瞠る長谷部に構わず燭台切はさらに言葉を続ける。

「僕も好きだよ、長谷部くん」

 

◇◇◇

 

 夕暮れの図書室には誰もいない。本だけが生き甲斐だった青年は、狭い校舎をとうに卒業してしまった。

 他に親しい友人はいないと彼は嘯いていたが、光忠にしても長谷部以外の生徒と交流する意味は皆無である。
 長谷部に尽くすことだけが光忠の役割であり、舞台装置でしかない友人や家族は蜃気楼も同然だった。

 リノリウムの床を進み、始まりの本を手に取る。
 光忠の元となった刀は情緒に疎く、小説やドラマなどの虚構作品にも淡泊な態度を取っていた。

「いいから序盤だけでも読んでみろ。そして明日までに感想を聞かせろ」
 ほぼ押しつけられる形で燭台切が借りた本こそ、野球部で活躍するバッテリーの話である。

 一部からは朴念仁と揶揄される長谷部だが、意外にもフィクションにはそこそこ通じていた。恋愛ドラマを好む乱の影響により、ジャンルが多少偏ってしまったが当の長谷部は気付いていない。
 理想郷の土台となったのも、蔵書から得られる知識が大半だった。燭台切が長谷部をロマンチストと評したのも納得だろう。

 話を戻して、二振りの馴れ初めについてである。長谷部としては、妙に冷めている伊達男の鼻を明かしてやりたい一心だったのだが、読了した燭台切は別のオススメを尋ねてきた。正直拍子抜けしたものの、まあ情操教育にはなるだろうと、長谷部は快く次のタイトルを挙げた。二振りが読書仲間になった経緯とは、以上のようなものである。

 もう長谷部は夢に頼る必要は無い。恋い焦がれた男との過去をなぞらずとも、彼は現実世界の燭台切と幸せになるだろう。
 光忠の使命は果たされた。本来なら、再び意志を持つことなど有り得ない存在である。

 本を置いて、窓辺に立つ。梅雨の明けたグラウンドは水溜まりとは縁遠くなった。水泳部も大会に向けてますます気合いが入っている。エースという設定の長船光忠も参加すべきなのだろうが、今となっては茶番に等しい。
 影法師と化した先輩後輩を遠目に、光忠は棚にもたれかかった。

「サボリとはカッコ悪いぞ、伊達男」

 不意に浴びせられた揶揄を聞き、光忠は勢いよく背後を振り返った。

 残陽の中に二度と訪れるはずのない男子生徒が立っている。別人と思いたくとも、光忠の本能が彼の帰還を認めていた。
 煤色の髪に勝ち気な釣り眉、その下に見える藤色の双眸を見誤ることなどできるはずがない。

「何で、ここに」
「何でとは挨拶だな。好きなやつに会いに来るのに理由が要るのか?」

 腕を組んで男子生徒がふんぞり返る。どうも再会に戸惑う光忠をからかうのが面白くて仕方ないらしい。別れ際に見せた殊勝な態度を、長谷部国重はいったいどこへ置いて来てしまったのだろうか。

「早々にオリジナルと喧嘩でもしたのかい。愚痴くらいなら聞くけど、僕を巻き込むのは止めてほしいなあ」
「そう腐るな。燭台切と喧嘩できるのはオリジナルの特権だ。俺には逆立ちしたって無理だぞ」
「え」
「人が夢を見るつくりを知っているか」

 聞き覚えのある文句である。嘗て長谷部が四度目の挫折を味わったとき、光忠はこの世界のルールを説明するのに同様の質問をした。
 夢は記憶を整理する過程で生まれる。内容はその人の経験に基づき構築される。知らない光景を夢に描くことはできない。

「好きなやつと新たな思い出を作れば、それを反芻したくなるのが人の道理というものだろう?」

 夢は決して現実逃避の場ではない。寧ろ現実で日々を過ごすほどに色濃く、彩度を増していくものである。

「言っただろう。幸せになるなら一緒に、とな」

 二人分の影が重なる。相手の肩に頭を預け、光忠は力の限り愛しい人を抱いた。
 もう長谷部に触れるのに何のしがらみも無い。言葉を、視線を交わした大切な記憶を忘れられることも無い。

 夢の主が折れない限り、この箱庭も永遠に在り続ける。

「ああ。一緒に幸せになってくれ、僕の長谷部くん」

 五回目の夏が始まる。これからも二人はラムネを味わい、花火を楽しみ、共に蛍を見るだろう。
 蝉時雨が途絶え、向日葵が枯れようと時は戻らない。紅葉の季節も、一面の銀世界もいつか必ず訪れる。

 へし切長谷部の夢物語は終わらない。

 

 

いいね! 0

シリーズ一覧    後日談→