錬結を待つ刀 - 2/4

 

「まさか再びこの布団の世話になる日が来ようとは」

 燭台切の枕元にままごとのような大きさの布団が一組敷かれる。ねんへしにとっては主の部屋で寝泊まりしていた過去の光景とさほど変わらない。しかしながら、二振り目の燭台切には勝手が違って見えた。
 夜ごと布団を並べ、幾度となく肌を合わせた二振りだが、それも長谷部が人並みの大きさを得て以後の話である。初めて会った頃、まだ長谷部が人形の姿を取っていた頃に同衾した覚えは無かった。

「寝返りでも打って君を押し潰しちゃわないか心配なんだけど」
「頑張れ。努力しろ。お前ならできる光忠」
「清々しいほど根性論だね? 根拠らしい根拠を一つたりとも提示しなかったね?」
 何のかんの言いつつ、燭台切は長谷部の布団を遠ざけようとはしなかった。
 人形の体躯では布団一つ隔てた程度の距離でも何十歩と掛かる。それこそ、目と鼻の先でなければ男の息遣いを感じることすらできないだろう。
 表向き平然としているが、突然の変化に長谷部が不安を抱いているのは疑うまでもない。少しでも彼の気が休まれば良いと、燭台切は長谷部への接し方を殊更に変えるような真似はしなかった。

「みつただ」
 暗闇の内に衣擦れの音がする。照明を落としてからの呼び掛けはいつも甘い響きを伴っていた。その声音が何を望んだものなのか、互いだけが知っている。普段なら後頭部に添えられる黒い手が伴侶を身体ごと引き寄せた。
「おやすみ、長谷部くん」
 白い額に口付け、就寝の挨拶を交わす。一瞬のみの触れ合いを経て、ねんへしは自らの褥に優しく下ろされた。男の大きな掌が布団越しに小さな背を撫でる。穏やかな手つきについ瞼が重くなり、今日一日の疲労も手伝って、ねんへしはすぐに眠りに就いてしまった。

 静かな寝息の中に時折艶めいた声が混じる。片割れの情事を思わせる息遣いに、燭台切は思わず喉を鳴らした。
(いや何を考えてるんだ。あの大きさの長谷部くんにそんないかがわしいこと)
 目を瞑り素数を数える。男のいじらしい努力は長谷部が身動ぐたびに水泡と帰した。寝よう寝ようと瞼をきつく閉ざすも、その裏に浮かぶのは見たことも無い人形の長谷部の痴態ばかりだった。

 

 

「僕はミクロフィリアだったのかもしれない」
 筆頭近侍、燭台切光忠は朝から衝撃的な告白を受けていた。自身と同じ姿形をした刀が、深刻な表情で深刻な性癖を打ち明けている。心の底から関わり合いになりたくない気持ちでいっぱいの一振り目だったが、大事な従者の貞操が掛かっている以上蔑ろにはできない。

「ええと、つまり君は今のねんくんに欲情していると?」
「正直な話」
「多分小指一本だって入らないよ? 大丈夫? 解ってる?」
「入れられなくても全身舐め回してあの小さい身体がビクビク震えてるところが見たいと思ってしまう自分が嫌だ」
 二振り目は面を伏せ、一振り目は天を仰いだ。神聖な道場で男二人向かい合っての会話にしてはあまりにも低俗である。

「で、僕にどうしろっていうんだい。生憎アブノーマルについてはさほど造詣も深くないし、協力できることは限られてると思うよ。せいぜいオナホ選びを手伝ってあげるくらいだよ」
「そんなのは決まっている」
 二振り目が立ち上がり、隅にまとめられた竹刀を取る。振るわれた剛腕は空だけでなく弛緩した雰囲気をも断ち切った。やにわに世界から音が失われる。ぱらぱらと戸板を叩く雨音も今の二振りには届かない。

「君に頼むことは一つだけだ。大切な子を目の前で傷つけられておきながら、色欲すらまともに振り払うこともできない、この無様で不甲斐ない刀の根性を文字通り叩き直してもらおう」

 燭台切同士が稽古場で対峙している間、ねんへしもまた長谷部と共に行動していた。人形の身では出陣も内番もこなせない。主である燭台切も己の片割れに呼ばれている以上、ねんへしは再び男士の身体に戻る手立てを考えるしかなかった。

「昨日の出陣で見られたような異常は過去にも有ったか?」
「無いな」
「では最近になって何か変わったことが起きなかったか」
「昨日の件を除き、いたって平穏だ」
「無意味だとは一応これも訊いておく。怪我を負ったとき、一瞬でも死にたいと思ったか」
「死ななきゃ安いとは思うが、主命でもないのに光忠を置いて先立とうとは思わん」
 一連の質問を終えても、やはり真相究明に繋がりそうな糸口は見つからない。刀の長谷部は背もたれに深く体を預けて嘆息した。

 ねんへしが再び縮んだ原因は明らかである。手入れの際に霊力の供給を受けつけなかった。人形の身に余る神気を以てあの身体を維持していたのだから、それを傷の治療に回してしまえば元の姿に戻るのは道理だろう。問題はどうして神気を受け取ることができなかったのか、その一点に尽きる。
 男士の長谷部も一度似たような経験をしていた。そのときは彼自身が刀解を望んでいたために渡される神気を拒んだ。しかしながら、同じ長谷部でもねんへしとは前提が異なる。先の回答通り、この人形には死に焦がれる理由が無い。

「今後の出陣、編成はどうなっている」
「いきなりどうした」
「近頃は練度の低い刀剣を中心に編成しているだろう。その中に光忠は含まれているか」
 同じ藤色の双眸に互いの姿が映っている。人形の膝に置かれた両拳は固く握られていた。
 結果だけでみるなら先日の出陣は成功したと言える。確かに長谷部は重傷を負ったが、素より鋼から成った器ではないため、修繕に資材を消費することもなかった。

 とはいえ、新入りの力量を測るという意味では、長谷部燭台切ともに失態を演じたと評されてもおかしくない。ただえさえ二振り目の顕現は良く思われていなかった。初陣なら初陣らしく後方に控えていればいいものを、下手に本陣の奥深くに切り込んで負傷したというのは、猪武者であるのを証明したに過ぎない。

「偽物の俺はともかく、光忠は素晴らしい刀なんだ。俺のせいであいつの評価まで下がり、再び置物と成り果てるのは、見ていられない」
 ねんへしが俯く。垂れ下がった煤色の帳が人形の表情を覆い隠した。ところどころ無造作に跳ねる髪は長谷部にも馴染み深いものである。
「経験の浅い連中が何かしらしでかすのは当然だろう。今代の主はできる御方だ。一度や二度の失敗で見限るような真似はせん」

 項垂れる人形の前に桃色の球体が差し出される。突起に覆われた特徴的な形のそれは、長谷部が常々懐に携えている南蛮菓子だった。掌中に在っては儚い金平糖も、ねんへしが持つと大荷物に見える。

「お前たちが立派な刀であるのは皆理解している。余計な心配はせず、ひとまずは甘味を腹一杯に食せる身体を満喫しておけ」
「へし切」

 この金平糖少し溶けてる、という言葉をねんへしは敢えて呑み込んだ。近頃は日差しも随分と強くなってきている。ガラスの小瓶に入った糖花は、人肌に温められて文字通り角を丸くしていた。

 

 

「修行に出ようと思っている」
 黄金色の眸子に少なからぬ動揺が走る。長谷部が切り出した話題は、その改まった様子に相応しいだけの衝撃を備えていた。
 一日の業務も終えて、一振り目の燭台切は愛しい刀と私室に二人きりである。どこか遠慮がちに男の部屋を訪ねた刀の頬は色づいていた。これを据え膳と見ていた燭台切だったが、その期待も今や生殺しの三字に塗り替えられている。閨事の可否を置いても、長谷部の告白は到底聞き逃すことができる類のものではない。

「君が前々から修行に出たがってたのは知ってるけど、どうして今のタイミングなんだい」
「今でなければ意味が無い。此度の件で当分あれの出陣は見送られるだろう。仮に不調の原因が判明したとして、主のことだ。再発を避けて編成には組み込まないに違いない」
 以前の長谷部でも、讐敵が動けぬうちに差を付けようと同様の提案をしただろう。向上心そのものは保たれたままである。和らいだのは敵愾心の方だった。今や長谷部にとって同じ号を冠した人形は朋友も同然である。今後も相棒と共に戦いたいという友の願いを聞き届けぬ謂われは無かった。

「へし切長谷部は鈍ではない。それをこの身で証明してみせる」
 じっと己を見据える藤色を燭台切は眼窩に収めた。決意に満ちた双眉は固く吊り上がっている。もはや何を言ったところで、この打刀は自らの決定を覆したりしないだろう。
「事前に報告してくれただけ信用されてるってことかな」
「言わなければ怒るだろう」
「怒りはしないけど拗ねるよ。せっかく良い仲になれたと思ったのに、僕はそんな大事なことも打ち明けてもらえない男だったんだなあ、ってどん底まで落ち込むよ。想像するだけで無様だから、長谷部くんの配慮に感謝だね」
「いくら俺でも、そこまで無神経じゃない」
 男の物言いに長谷部が不平を鳴らしたのも一瞬だった。

 静かに伸びた指先が黒単衣の袂を掴んでいる。衣服を摘む二指に籠められた力は柔い。おそらく燭台切が少し身動いだだけで振り払われてしまうだろう。その程度の軽い接触でも、長谷部からすれば相応の奮起が必要だった。
「こちらの時間ではたかだか三日そこらの話だろうが、俺にとっては幾月、幾年かかるか判らない修行だ」
 その間、お前に会えないのは寂しい。

 ほとんど呟かれるようにして続けられた語尾を、燭台切は聞き逃さなかった。同じく寝衣に身を包んだ背を引き寄せ、正面から抱き込む。薄い布越しに互いの心音が伝わった。どくどくと、忙しなく脈打つ鼓動が今は何よりも心地良い。

「たかだか三日でも僕だって寂しいよ。修業先でまた別の光忠と仲良くなって、僕のこと忘れちゃうんじゃないかなって不安にもなる」
「安心しろ。お前ほど意地が悪くて粘着質な刀のことなんぞ、忘れたくても忘れられん」
「酷いなあ、こう見えても僕はうんと君に優しくしてるつもりなのに」
「そうだな、お前ほど俺を甘やかす刀もいない」
 黒と紫の陰影が重なる。もつれ合うようにして畳に倒れ込んだ二振りは、そのまま相手の服に手を掛けた。

 

 

 修行の申し出は無事受け入れられた。機動が自慢の刀は決断も準備も早い。その日の夕刻には、旅支度を済ませた長谷部が、縁の男士たちに見送られていた。

「俺が居ない間、この格好つけ共を宜しく頼む」

 同胞に頭を撫でられ、ねんへしは擽ったそうに身を捩らせる。己の肩口で行われるやり取りを余所に、二振り目の燭台切は傍らに立つ黒い刀に眼を向けた。一振り目は伴侶と従者の交流をただ微笑ましく見守るだけである。異様に落ち着き払った同胞の様子に、二振り目は内心肝を冷やしていた。
 一見、思い人の門出を祝うに完璧な笑顔だが、その下では男のどろどろした激情が渦巻いていると見える。たかが三日、されど三日。半ば狂気的に長谷部を愛している刀が、その身に抱えた地雷をいつ爆発させるかと思うと二振り目は気が気でなかった。

「それじゃあ行ってくる、が。留守中、あまりこいつを苛めてやるなよ」
「やだなあ、そんな小姑みたいな真似僕がするはずないだろう?」
 ――個体差って便利なフレーズだよなあ。
 己と同じ姿形を取りながら、尋常でないほどの胡散臭さを発揮する男の恵比寿顔に、二振り目は怖気を感じていた。

 方々の挨拶が済んで時空門が開く。当初より力を欲してた刀は、とうとう過去の世に旅立った。役目を終えたゲートが扉を閉ざし、輪郭ごと宙に溶け込む。その後に常と変わらない梅雨の景趣が浮かび上がった。それぞれ思うところが有るのか、誰も言葉を発しない。別れの余韻を噛みしめるような沈黙が続く。暫くして、一振り目の燭台切が残された者たちを顧みた。

「じゃあ、ねんくんは今日から僕の部屋で寝泊まりしてね」
「どうしてそうなった!?」
 唐突な提案に二振り目がすかさず制止の声を上げる。しんみりとした雰囲気も、その怒号で一瞬で吹き飛んでしまった。
「長谷部くんも言ってたじゃないか。彼が不在の間はねんくんが僕らをまとめて面倒見てくれるんだよ。君が来るまではお風呂も食事も睡眠も一緒だったんだから問題ないよねえ」
「僕が同じことを君の長谷部くんに言ったら確実にキレるよね!?」
「当然だろう。いいかい、ことへし切長谷部に関して、己以上に信用できない刀はいないんだよ。君が今のねんくんと同じ部屋に居て、理性を保てる自信が有るって言うなら別だけど?」
「今晩から三振り川の字になって寝ようね長谷部くん!」

 素よりねんへしに主の意向に逆らうつもりは毛頭無い。眼前でいかに男同士の薄暗い談合が繰り広げられようと、長谷部は己に課せられた役割を果たすのみである。
(やはり主もお寂しいのだろう)
 土塊の忠臣は主人の悪癖を、ともすれば本人以上に理解していた。長谷部の名を冠している以上、燭台切がねんへしに弱音を吐くことは有り得ない。しかしながら、主が伊達男らしからぬ物言いをするのは、相手に甘えている証左なのだと日々の付き合いから学んでいた。それはつまり、主が己の伴侶を認めてくれたことに他ならない。不服に思う二振り目に反して、人形の長谷部は主君の暴挙を前向きに捉えていた。