錬結を待つ刀 - 3/4

 

 それから三日、筆頭近侍である燭台切は表向き普段と変わらぬ振る舞いを心掛けた。冗談交じりに長谷部の不在を嘆きもしたが、二振り目が案じたような事態には陥っていない。

 古参で周囲の信頼も厚い燭台切を労う者は多かった。一人になる時間はほとんど無く、単純に寂しさを覚える暇も無かったと言えるだろう。しかし彼が比較的穏やかでいられたのは、当人が想像していたより、従者とその片割れと過ごす時間が騒がしかったことも大きい。
 ねんへしと近侍の仕事をこなす傍ら、空いた時間で二振り目と手合わせしているうちに燭台切の一日は終わっていた。それを三度みたびこなして四度目の朝を迎える。灰色の空から零れる雫が屋根を静かに叩いていた。

 雨樋の流れに逆らい、三振りは母屋の外れに足を伸ばす。奥まった場所に有るのは資材部屋だった。
 長谷部の出立より三日、本丸の備蓄もそれなりに増えた。修行から帰ったばかりの男士は大量の錬結素材を必要とする。数値の上では詳細すら把握しているが、ここはやはり目視で確認しておきたい。修行の最終日に半ば恒例となっている行事である。連れ合いの帰還に逸る気持ちこそ有れども、燭台切にとっては慣れた作業だった。たった一つの懸念と言えば、従者を肩に戴いた同行者の存在である。

「僕の仕事を手伝うより他にやることが有るんじゃない?」
「何か身体を動かしたい気分なんだよ。残念ながら道場はもう満員で、厨は今粟田口の子たちがお八つ作ってるところだからね」

 悪天候と人数の多さが災いした。今の時期、男士たちが暇を潰せる手段は限られている。読書の気分でもなく、料理する場所も無い。二振り目の燭台切は、迷わずねんへしの姿を捜した。
 普段であれば手伝いの申し出は主従にとって有り難いものである。ただ男の生い立ちを思うと素直には頷きがたかった。これより向かう先は、本丸の内といえども彼にとって因縁深い地である。
 そこには彼の嘗ての仲間が多く眠っている。人の身を得ず、切れ味を誇ることもできない鋼の塊が倉庫の中でひしめき合っていた。二振り目は錬結を逃れた唯一の男士である。その彼に、いずれ刀ですらなくなる同胞の数を調べろとは当てつけにも程が有るだろう。 

「昔は昔、今は今、だよ。それに僕は君じゃなくて、長谷部くんのお手伝いがしたいんだよね」
「こやつめ、ハハハ」

 軽口を叩いてみせるも、一振り目の警戒は未だ解かれていない。同じ燭台切光忠として彼の不信不忠を疑うわけではないが、虫の知らせというものも有る。足を一歩踏み出すたび、一振り目は言いようのない不安に駆られていた。

 審神者から借りてきた鍵を差し入れる。敷居を跨いだ先から清明に過ぎる空気が肌を舐め上げた。付喪神を宿す刀剣を一つ所にまとめたせいか、室内は半ば異界と化している。並の人間はおろか、霊力を持つ審神者すら長時間の滞留は避けるだろう。男士たちにとっても決して居心地の良い場所ではない。

「ささっと済ませて早めに宴の準備を進めようか。ねんくんがこの表を読み上げて、僕たちは確認だ」
「承知致しました。では始めに、短刀今剣一振り」

 朗々とした調子で男士たちの名が読み上げられる。よく通る低音は、遮蔽物に囲まれた部屋の奥深くでも容易に聞き取れた。作業は順調に進み、刀帳の五分の三は既に確認済みとなっている。細かい整理整頓を好む一振り目は、目視のついでにさらに掃除もこなしていった。

「ねえ一振り目」
 夢中になって棚を磨いていた男の横に、同じ黒い太刀が立つ。立ち上がって応ずる前に、二振り目の燭台切は男の耳元に口寄せた。
「君って作業中に独り言呟く癖とか、鼻歌でも唄う癖とか有る?」
「何だい、藪から棒に。まあ無くは無いけど、そんなにうるさかった?」
「いや、ちょっと気になっただけなんだ。ううん、じゃあ一振り目の声だったのかな」
「何を聞いたかは知らないけど、僕が口ずさむとしたら長谷部くんと一緒に見た花丸本丸の曲になるよ。いやあそこの長谷部くんは可愛いよねえ。それ以上に、このことうっかり漏らしちゃったとき、どうせ俺は可愛くないってむくれた長谷部くんが最高に可愛かったけどね! 心配しなくても僕の長谷部くんは君だけだよ、って囁いたときの表情なんか流石国宝で」
「一振り目じゃないみたいだし長谷部くんに確認取ってくる」
 さっさと見切りをつけた二振り目が踵を返す。目的の人物はすぐ見つかった。主に倣い、小さな身体を精一杯伸ばして布巾を動かしている。その愛くるしい仕草に二振り目の口角もつい緩められた。

「はせべくん」
 情愛を多分に含んだ呼び掛けに人形が反応する。振り返る長谷部の表情もまた男と同じ気持ちを反映させていた。その唇が綻び、みの形を取ったところで燭台切の耳に再び例の声が届く。

 ……ない……
 ……さない……
 ……だけは、
 おまえだけは、ゆるさない!

 床から、壁から、天井から、四方より黒い淀みが現出する。意志を持った影は力無き人形に迫った。
 長谷部は脅威の正体を察するより先に、本能の命ずるまま跳躍した。これが人の身を得ていた頃の体躯だったら問題無く避けられただろう。今の長谷部は背丈も筋力も圧倒的に不足している。中空に踊らせた身は敢えなく捕獲された。
 床に叩きつけられるはずの身体は敵影に絡めとられ、ずぶりずぶりと漆黒の内に沈んでいく。懸命にあがく長谷部の手は虚を掴むのみだった。

「長谷部くん!」

 力強い腕が波の中心を割って黒渦の内に入り込む。掌中に確かな手応えを覚えると同時に、燭台切の身にも怪異の手足が纏わり付いていた。何度振り払おうと黒々とした触手は執念深く男に追い縋る。浸食は十数秒と経たぬうちに腰元まで進んだ。
 拠るべき足場も失った。もはや長谷部と自分、双方ともに助かる道は無い。そう判断した燭台切は、惑うことなく右腕を湖面から突き出した。勢いつけて掴んでいたものを投げ飛ばす。反動で燭台切の全身はほぼ玄海の下に沈み込んだ。
 二振り目、と叫ぶ声に男の頬が優しく緩められた。長谷部の名は呼ばれていない。つまり彼は無事に一振り目によって保護されたのだろう。それさえ知れれば二振り目に後悔は無い。決着を求め、男は深淵の底に自ら潜り進んでいった。

「みつただ、みつただぁ!」
 従者の慟哭が一振り目の耳を打つ。奈落に手を伸ばす人形を黒い掌が押さえ込んだ。
「放して下さい主! 光忠が、光忠が俺の代わりに!」
「落ち着いてねんくん、その身体の君が行ってもどうにもならない」
「でも」
「本当に彼を助けたいなら今の自分にできることを考えろ。あれは君を狙っていた。なら一刻も早くこの場を離れ、救援を呼んでくるのが最善手だろう。二振り揃って何の対策も講じず、敵の懐に飛び込みその身を砕かれたいと言うのか」

 冷徹に過ぎる反論にねんへしも口を噤む。百戦錬磨の刀は異界の門を睨め付けた。相手取るには厄介だと判断したのか、呪怨の波は黒い太刀を前に後退していく。意志を持った海はみるみる収束していった。影が集い、小さな真円を描き始める。その輪が拳大になったところで、不躾な爪先が狭まった入り口を無理矢理に割り開いた。
 異形の抵抗も男にとっては児戯に等しい。すぐと広げられた穴は人一人を容易に通せるほど大きくなった。燭台切の足が汚濁に浸かる。それを見咎めた従者は、矮躯にそぐわぬ大声を放った。

「主、お一人では危険です!」
「そうだねえ、できるだけ早く援軍を呼んでくれないと少し困ったことになるかもしれない。だから後は宜しくね、ねんくん」
「何の対策も講じず敵の懐に飛び込むな、とつい先ほど自分で仰ったことも忘れられたのですか!」
「そりゃあ君たちだけで行動すればそうなるよ。でも僕自ら彼の下に行くのは違う、これは歴とした対策だ」
「いったい何を」
「二振りいる燭台切光忠にしかできないこと、だよ」

 男の長身が完全に闇中に呑み込まれる。蓋は閉ざされた。単身残された人形に為せることは数少ない。目尻から零れる雫を乱暴に拭って、長谷部は一目散に駆け出した。

 ――うらぎりもの、うらぎりもの!
 ――おまえだけすくわれた、おまえだけ、おまえだけ、おまえだけ!

 上となく下となく怨嗟の声が飛び交う。憎悪と害意のみで構成された世界が黒い太刀を苛んだ。穢れた神域に日の光は届かない。それでもなお一つきりの黄金色は、降下する己の身体と形を取った悪意の稜線とを確と捉えていた。

「はは、随分と熱烈な歓迎だね。故郷に錦を飾る、というのはこういう気分なのかな?」

 おどけてみせる二振り目だが当然余裕が有るわけではない。間断なく押し寄せる重圧は着実に男の気力を奪っていった。一瞬でも隙を見せれば理性は崩壊し、二度と己の意志で身体を動かすことは叶わないだろう。

「解っているさ、君たちも刀だ。人に愛され、請われて生まれてきた。僕たちは人から価値を認められて初めて己の意義を全うし得る。それ故に、自分たちを選ばなかった人を完全に恨むことはできない。だから僕に白羽の矢が立った。君たちと同じ立場に在りながら選ばれた刀を恨むことで、どうにもならない現実を忘れることができた。ああ、解るさ。解るとも」

 深奥に辿り着いた燭台切が身を翻す。両の足で立ち、地獄の釜口を見上げた男の心胆は未だ萎えていない。

「だけど長谷部くんを襲ったのは解せないな。彼は関係無いだろう、しかも一度ならず二度までも」

 長谷部が斬られたのは技量の問題ではない。その原因に唯一、二振り目の燭台切だけが心当たりを有していた。愛しい刀の不調に周囲が気を揉んでいるのを、燭台切も間近に見て知っている。燭台切も再び長谷部に背中を預けるのを望んでいた。それにも関わらず、これまで有力な仮説を自身の内にだけ留めていたのは、同胞たちへの同情がやはり大きい。
 いや同情というのは正しい表現ではない。燭台切は仲間たちの矜恃を信じていたかった。自身の妬心を制御できぬどころか、独立を許し恣に振る舞うなど、刀として有ってはならぬことである。

「長谷部くんから器を奪うだけでは、物足りなかったとでも言うのか。彼も、僕たちと同じ、己の意志で刀を振るえぬ身だったのにか!」

 男を囲う黒い壁が顫動する。その動きは、往年の同志の咆哮を嘲笑っていた。

 ――わらわせるな。あいつは刀でもなんでもない。ただのつちくれ。
 ――あんなできそこないのために、この鋼の身を溶かされてなるものか。

 大いに侮蔑を滲ませた哄笑が轟く。世界そのものが震えていた。その中で一人静寂を貫いていた刀が口を開く。それは決して、大した声量ではなかった。

「ふざけるなよ」
 男の咽喉から冷えきった呟きが絞り出される。どうしてか、うるさいほどの喚声の熱までもが一挙に失われた。黒い刀の美しい面差しからは表情が立ち消えている。しかし、その握りしめた拳は僅かに痙攣していた。

「生まれが鋼か土塊かなんて関係ない。あの子は僕のために泣いてくれた。主のために刀を振るえないことを誰より嘆いた! 他者を陥れるのに汲々とするだけの君たちより、余程気高く心優しい刀だ! 僕はそんな長谷部くんに選ばれたことを誇りに思っている! だから僕は生きる! 身勝手傲慢何とでも言え! どれほど誹られ糾弾されようと、僕はこの身体を手放すつもりも、恋しい刀を失うつもりも無い!」

 蜂蜜色と評された甘い瞳に焔が宿る。燃え滾る燭台の灯は昔日のともがらを容赦無く灼いた。怯えるどころか、眦を裂き、啖呵まで切った男に鋼たちはただならぬ屈辱を覚えた。
 ここは顧みられぬ刀の執念が生み出した領域である。獲物を引きずり込んだ時点で自分たちの優位は明らかだった。地の利まで得ながら、たった一振りの気力すら奪えず、反って相手の勢いに呑まれる始末。
 男に気圧された事実を認めたくない刀たちは、衝動のままに裏切り者へと迫った。柱のように天高く伸びていた悪意がその身を崩す。足下の異物を喰らわんと黒い津波が神域を揺るがした。

 いかに避けようが燭台切に逃げ場は無い。どこまで奔ろうと相手は自由に凶手を振るうことができた。抗戦か破滅か、男に残された道はこの二つだけである。そして丸腰の燭台切に我が身を守る手段は無かった。
 転がるように第一波を避けるも、両者ともに決着は時間の問題だと思っただろう。勝利を確信した魔物は冷笑を零した。人の姿を模していたなら、その口角は大きく歪められていたに違いない。
 歓喜に震える化生の喉元に白銀の光が走った。巨躯を貫いた閃光は一瞬で失せて、忽ち見目麗しい青年の姿に変わる。苦痛に悶える影を長い足が蹴倒した。

「君の口上はいつ聞いても最高に痺れるねえ。惜しむらくは、それが実力と伴ってないことかな。戻ったらまたたっぷり扱いてあげるから覚悟しておくんだね」

 敵を足蹴にしたまま嗤う男の態度は不遜そのものである。絶対の強者にのみ許された振る舞いは、その刀を見る者に一切の違和感を覚えさせなかった。

「一振り目! 長谷部くんは」
「無事だよ、今頃は援軍を呼びに行ってくれてるんじゃないかな。まあ誰か来る前に僕だけで全部終わらせちゃうかもしれないけどね」

 男の驕慢な物言いが捨て置かれた刀たちの怒りを煽る。軟体に近い身体が変質し、鋭利な刃が四方八方から露出した。
 数多の凶器が頂きに立つ太刀を囲う。鞭のようにしなる先端が肉を抉るより先に、男の腕が触手の胴体を絡め取っていた。
 右足を軸に燭台切が上半身を勢いよく捻る。この世のものとは思えぬ叫号が異形から上がった。無理矢理に引きちぎられた部位からは瘴気がぼとぼと漏れ出ている。それが鮮血でないことが不満だとでも言いたげに、燭台切はどこかつまらなさそうにして黒金の身体を手放した。

「冗談のつもりだったのに、このままじゃ本当に僕一人で片を付けてしまいそうだ。ううん、流石にそれは本意じゃないなあ」
「こちらに出番を譲ってくれるとでも言うのかい、師匠」
「正直言って不安だけどね、不肖の弟子。だが君もやられっ放しは性に合わないだろう。元々僕はそのために来たんだ」
「話が早くて助かる。そうだ、この決着だけは他の誰にも譲りたくはない。君が協力してくれると言うなら、その気遣い有り難く頂戴しよう」

 直接的な表現を用いずとも、二振りの燭台切光忠には互いの意図が手に取るように判った。
 唸る鋼の化け物から一振り目が降り立つ。俄に形勢は逆転しても、未だ怒れる魔性には決定打を与えられていない。手負いの獣は死に物狂いで反撃してくるだろう。それと判っていてなお、二振りは愚行とも思える賭けに出ようとしていた。

 影が蠢動する。次いで妖の波濤が再び起こった。小山とも見紛う高潮は燭台切の長躯すらものともしない。瞬く間に冒涜の海が二振りを浚った。
 激しく上下していた波頭が少しずつ平穏を取り戻していき、そしてまた水面を双方向に大きく揺らす。二つに割れた海の中心に男が一人立っていた。握られた鋼鉄の刃紋が、存在しないはずの光を受けて輝いている。

「流石は本丸最高の練度を誇る刀、切れ味も手応えも常軌を逸している」

 刀身にこびり付いた偽りの血肉を振るい落とす。二振り目の手には青銅の燭台をも断つ業物が握られていた。濡れ羽色の美丈夫が変化した刀は切っ先鋭く、常のような穏やかさは見られない。そこに在るのは、堕ちに堕ちた幽鬼を斬らんとする刀が一振りだけだった。

「待たせたねえ! さあ、ここからが本番だ。長船派が祖、光忠が一振り参る!」

 冥暗の中を黒い太刀が駆ける。突進する男に向かって何十本と直槍が繰り出された。黄金色の隻眼はそれらから頑として目を逸らさない。腕を振り上げる。燭台切の後背に墨色の飛沫が舞った。
 一撃の下に斬り捨てた鋼の断片を踏み越え、なおも男の疾走は続く。それでいい、と握りしめる柄から、二振り目は肯定の声を聞いたような気がした。

 ――僕たちは長谷部くんのように素早く戦場を駆けることはできない。咄嗟の判断で動こうとしても間に合わないことの方が多いだろう。だから目を凝らせ。ただ一つ残された瞳を見開き、戦況を俯瞰し、相手の動きから次の行動を予測しろ。

 手足を動かすたびに鍛錬の日々が思い起こされる。一振り目の指導は厳格ではあったが、実りもまた多かった。徹底的に打ちのめされた記憶は身体に染みつき、実践経験の少ない刀を支える土台となっている。変幻自在に姿を変え、あらゆる手管で襲い来る敵の猛攻を凌いでいるのは、紛れもなく二振り目の実力によるものだった。

 巨人の腕を模した剛腕が二振り目の頭上に落ちる。それを事も無げに避けた後、黒い刀は好機とばかりにその腕を駆け上った。
 蹂躙する側からされる側へ、知らぬ間に立場が逆転していることを覚った影は破れかぶれの抵抗を続けた。多量の飛礫が燭台切に降り注ぐ。男の左腕には進軍の途中で拾った肉片が有った。それを盾のように振りかざし、弾丸の雨をやり過ごす。一時だけの肉壁は幾らもしないうちに霧散した。
 刀はさらに前進する。第二波が男を襲うより先に、光忠が一振りが構え直された。長い上り坂を制した双脚が宙に踊る。見下ろすばかりだった魔物が、初めて仰向けになって認めた光景は、白刃を振り下ろす嘗ての朋友の姿だった。

 両断された怪物の身が昏冥に溶ける。神域の主が斃れたことで、微かに異界の日が差し込んだ。ただの鋼に戻りつつある屍がきらきらと照り輝いている。生死のやり取りに昂揚していた二振り目の胸中も不意に冷めた。いかに強く反目しようと、己が斬ったのは薄暗い倉庫で同じ時を過ごした、古い友人たちには違いなかった。せめて彼らの最期を看取ろうと、途切れ途切れに瘴気を出す骸の傍へと近づく。

「どう、して」

 二振り目だけでなく、彼の携える一振り目までもが身を強ばらせる。聞き覚えが有りすぎるほどに有る声音が、燭台切の心を否応なく掻き乱した。

「どうして、おれじゃないんだ」

 恨み辛みよりも懇願の色合いが強い嘆きが、砕け散った鋼からもたらされる。それが元は、燭台切が誰より愛しく想う刀と同じ、へし切長谷部だと気付くのに時間は掛からなかった。
 脅威を却けた男たちに後悔する気持ちは無い。しかし、眼前に突きつけられた事実はあまりにも残酷だった。思わず膝を折り、折れた破片へと指先を伸ばす。その瞬間を待っていたかのように、立ち上る瘴気が燭台切の腕を捉えた。
 一矢報わんとする刀の足掻きは、燭台切の剛力を以てしても容易に振り払えるものではない。つぷり、と男の肌に牙が立つ。そのまま食い千切られることも覚悟した黒い太刀の瞳孔に、目映い鈍色が映った。

「どうして俺じゃない、だって? 選ばれなかったことに理由が欲しい心境は解らんでもないが、生憎とそこに意味は無い。へし切長谷部は、へし切長谷部である時点で等しく価値が有る」

 黒衣の裾が翻る。敬虔な信徒を思わせる装束とは裏腹に、青年の手には殺傷を目的とした刀剣が握られていた。ぱきん、と金属の割れる音が小さく響く。最期まで現実に抗い続けたへし切長谷部は、同じ号を戴く刀によって引導を渡された。

「はせ」
「長谷部くん!」

 読んで字がごとく、二振り目の手から一振り目の燭台切が飛び出した。刀から人の姿に戻った男の目には藤色の刀しか見えていない。周囲などお構いなしに距離を詰めるのは一振り目の悪癖だが、普段それを咎める長谷部の方も満更ではなさそうだった。先の自己評価にもどことなく達観したかのような節が見られる。修行を通して何か得られるものが有ったのだろう。顔中に口付ける良人をやんわりと窘めつつ、長谷部は懐に抱いていた人形を取り出した。

「こいつが真っ先に呼んだのが俺で良かった。燭台切はおろか、他の連中だってあれを斬るのは躊躇うだろう」

 納刀した長谷部が鐺の先で自身のなれの果てを指し示す。皆が皆、口を閉ざした。息の詰まる、重く深い沈黙が訪れた。
 無言のまま、長谷部の掌から人形が抜け出す。押し黙る面々の合間を抜けて、土塊の小人が物言わぬ欠片の前に立った。

「これは、救済でも何でもない。お前の望みと相容れないのは、解りきっている」

 小さな双手がばらばらになった玉鋼を掬い上げる。金属が帯びた神気は馴染み深く、そして人形の身では決して得られない代物だった。

「刀を振るいたかっただろう。魔王にすら認められた切れ味を誇りにしていただろう。お前も光忠と同じく、始めから刀であることを求められていたのだからな。紛い物に主導権を握られるのは、さぞかし屈辱だろうとは思う。だがすまない。俺はまだ、光忠との首級争いすら叶えられていないんだ」

 温もりを失いつつある刃金が人形の口に運ばれる。明らかに強度の及ばないはずの歯が、鉄の塊をごりごりと咀嚼した。刀の名残を取り込めば取り込むほど、小さな長谷部の体躯に神気が宿る。器に収まらぬ分は新たな肉となって土人形の肌を覆った。

 この刀が最後の砦だったのか、四振りを閉じ込めていた異界の壁に亀裂が入り始める。隙間から漏れる陽光があらゆる境界を曖昧にした。一等眩しい光と桜吹雪とが男士たちを包み込む。一瞬の浮遊感に身を投じ、刀たちはいつもと何ら変わりない資材置き場に帰還した。変わっていたのは部屋ではなく、彼らの同心が一振りである。

「ただいま、光忠」

 衣装を除き、男士の長谷部と瓜二つの青年が柔和に微笑む。屈むことも見上げることもせず、金と紫の視線が絡み合った。二振り目が馳せる。桜を纏う愛しい刀を黒い腕が掻き抱いた。与えられる温もりの心地よさに藤色の双眸が細められる。この身体でなければ抱擁にも応えられないのだと、小さかった長谷部は改めて実感した。
 開け放たれたままの扉から涼風が舞い込む。雨はもう止んでいた。

 錬結を待つ刀も、長躯に憧れる人形も、もうどこにもいない。