開かずの間にて - 2/6

 

「長谷部くん、これ先月のお返し」

 そう言って燭台切は長谷部に透明なフィルムを差し出した。中に収められたマカロンは青、黄、緑に紅色と、視覚だけでも見る者を楽しませてくれる。見慣れぬ洋菓子に加え、「先月」の品が誰の贈り物か心得た上での発言である。驚くだろうと燭台切も予想はしていた。
 しかし長谷部の顔に浮かぶのは、驚愕より寧ろ失望といった色合いの方が強い。

 ああ、日記の予言は絶対だ。何しろ三週間前は顔見知り程度だった同僚から、こうして同じ好意を返してもらえるだけの関係を築くに至った。昨日までの長谷部なら諸手を挙げて喜んでいたに違いない。

「誰かと勘違いしていないか。俺はお前に何かを贈った覚えは無いぞ」
 その返しに琥珀色の隻眼が幾度も瞬かれる。内心居たたまれなくなって、長谷部は急ぎ男に背を向けた。相思相愛であった喜び以上に、愛しい刀の好意を踏みにじる罪悪感が胸の内を支配する。それでも真実を伝えるわけにはいかない。

「長谷部くん!」
 力強い手が長谷部の腕を掴んだ。打ち払おうにも力の差は歴然としていて、長谷部は歩みを止めざるを得ない。せめてもの抵抗なのか、長谷部は振り返ることだけはしなかった。

「自慢じゃないけど、僕は主や君以外の男士からはちゃんと義理チョコを貰ってたんだよ」
「ほう流石だな」
「格好つかない話だけどね、実はあの日、君から貰えるのをずっと期待していた」
「そいつは残念だったなァ」
「薄紫の袋に金色の紐、差出人の名前は無かったけど誰からかなんてすぐに判ったよ」
「深読みしすぎだ、たまたま俺の服装と色が被っただけだろう」
「あくまで勘違いだと言い張るんだね」
「わ」
 短い悲鳴と共に長谷部の身体が後方に傾ぐ。腕を強く引かれ、勢いよく倒れ込んだ先は床と違って暖かく柔らかい。その温もりは瞬く間に長谷部の背と腹を包み込んだ。

「他の誰かと間違えるわけがないだろう。だって僕は、ずっと君を見てきたんだから」
 耳元に欲してやまなかった低音が響く。長谷部の鼓動はいよいよ激しさを増していった。己を後ろから抱く男の声からは余裕を感じられない。今、燭台切はどんな顔をしているのだろう。身を捩り、目を合わせたい衝動に駆られながらも、長谷部はすんでの所で踏みとどまった。

「悪いが俺は主以外など眼中に無い」
「長谷部くんの嘘つき」
「何が嘘なものか」
「長谷部くんも僕のことずっと見てたくせに」
「はっ、自意識過剰もそこまで来れば大したもんだな」
「そりゃ僕に抱きしめられて耳まで真っ赤にしてる姿なんて見せられちゃあね」
「さ、寒さで赤くなってるだけだ! あー寒い寒いこれだから冬は」
「寒いの? 暖めてあげようか」
「要らん! 考えてみればもう三月中旬だ、寧ろ暑い! 人力カイロになど用は無い!」
「そっか僕は寒いから問題無いね」
「大有りだ、このうつけ!」

 燭台切が長谷部を放そうとする様子は無い。抵抗したところで男の腕はびくともせず、いたずらに体力を消耗するだけだった。何より燭台切に与えられる熱が堪らなく心地よい。長谷部の理性はぐずぐずに溶かされ、もはや風前の灯火だった。
 このままでは流される。そう危ぶむ長谷部を救ったのは遠くで燭台切を呼ぶ声だった。

「呼ばれてるぞ」
「……そうだね、名残惜しいけど仕方ないかな」

 腕の力が緩む。長谷部はやっとのことで拘束から逃れた。窮地を脱したと安堵したのも束の間、燭台切の唇がそっと長谷部の耳元に寄せられる。
「続きはまた今度」
若干の間を置いて、長谷部は廊下にへたり込んだ。わなわな震える手で己の右耳を覆う。気障野郎、という罵声は生憎、対象には届かなかった。


「おはよう長谷部くん、今日も可愛いね」
 長谷部があからさまに顔を顰める。近頃、彼の同僚は挨拶に余計な一言を付け加えるようになった。それも軟派男が好みそうな口説き文句をである。ただ極上の美丈夫はそれすら様になってしまうのだから恐ろしい。事実、長谷部は高鳴る胸を押さえるのに必死だった。

「一つしかないとやはり目も悪くなるらしいな」
「長谷部くんの首筋にある黒子までばっちり見えてるよ、ひとつ、ふたあつ」
「数えんでいい! 見た目は成人した男児相手に可愛いとはどういうつもりだ」
「あ、可愛いより綺麗って言われるが嬉しかったかな? 大丈夫、長谷部くんは可愛いし綺麗だよ」
「頼むから人の話を聞け」
「告白なら喜んで聞くよ」
「なら望み通り告白しよう。単なる同僚からそういった好意を向けられても迷惑なだけだ」
「具体的には?」
「へ?」
「迷惑というなら今まで通りの距離を保つよ。挨拶や内番の相談くらいは単なる同僚でもするだろう。それ以外で何かNGは有る?」
 そもそも長谷部は燭台切に懸想して久しい。されて嬉しくないことなどないし、声を掛けられただけで一日機嫌良く仕事できた。自身の想いを封じるというなら、単なる同僚でいることすら難しいだろう。

「たとえばだけど握手は」
 そう言って燭台切は右手を伸ばした。厚手の生地に覆われた掌は、長谷部のものより幾分か大きい。
「ま、まあ許容範囲だな」
 過敏に反応しては負けである。長谷部は敢えて男の手を拒まず、黒い五指がやわやわ己の肉を揉み込むのも甘受した。

「あとは……そうだね、髪に触ったりとか」
「ぎ、ぎりぎり」
「へえ、そうなんだ」
 手から離れた黒の革手袋が今度は煤色の束を掬う。気ままに跳ねて天を突く髪を男は心底愛おしげに弄った。どことなく色を含んだ触れ方は身を強ばらせる。燭台切の指が動くたび、長谷部の背筋によからぬ痺れが走った。

「長谷部くん、単なる同僚に髪を触られてそんな顔しちゃうの」
 すごくえっちな表情してるよ。

 ぱしん、と音が立つ。打擲された指と指の間から、燭台切は涙ぐむ男の顔を垣間見た。長谷部は息を荒げたまま、脱兎のごとくその場を後にする。取り残された燭台切の口角がつり上がった。黄金の一つ目は、視界から姿を消した藤色の刀を、いつまでも追い続けている。
(ああ、だめだ)
 廊下の突き当たりで長谷部はようやく息をつく。
(好きでないフリなんて、俺には到底できそうもない)
 柱に正面からもたれかかり、長谷部はある決心を固めた。
 もう燭台切とは極力顔を合わせるべきではない。

 長谷部がまずやったことは部隊編成の変更である。筆頭近侍であるのを良いことに、なるべく彼の刀と一緒にならぬよう持ち回りを決めた。
 あるときは自ら夜戦に出で、一方が本丸に滞在すれば一方は遠征に向かう。そのようにすれ違い生活を強いられながら、黒い刀は僅かな隙を見つけては長谷部に接触してきた。
 曰く、ご飯はちゃんと食べてるかだの、曰く、目の下に隈ができてるだの、同僚からの忠告を出ない範囲で言葉を掛けてくる。

(こんなことをしても、俺は何も返せないのに)
 律儀な刀だ。
 夜戦帰り、自室の卓上に置かれた軽食を見て、長谷部は男の献身ぶりに胸を打たれていた。ラップを取り去り、やや大ぶりの握り飯を口に運ぶ。
「しょっぱい」
 長谷部は己の目元を乱暴に拭った。その無作法を咎める者はいない。

 四月に入り、庭先も桜舞う春の景趣に差し替えられた。散歩や花見を楽しむ者も増えてきており、日常は平穏そのものである。いずれ来るであろう悲劇に怯えているのは、長谷部一振りだけだった。
 十九日までの出陣予定は既に組んである。その日、燭台切は非番にされていた。
 江戸城下の遡行軍がいかに強大であろうと関係無い。そもそも出陣しなければ折れる心配などとは無縁である。既に対策は十分講じた。それでも長谷部の懸念は払拭されない。

 雲一つ無い青天である。縁側に居座る長谷部にも暖かな日差しは平等に降り注いだ。ただし、折角の春日和もこの男には無用の長物である。脇に洗濯物が入った籠を置き、仏頂面のまま服を畳む姿は、控えめに言って近寄りがたいものだった。
「わっ!」
「ふぇっ!?」
 まさに降って湧いた白い顔に、長谷部は後ろ手付いてのけぞった。大声の正体は屋根から垂れ下がった鶴丸国永である。長谷部の反応が余程気に入ったのだろう。白い太刀はご機嫌な様子で、渋面を浮かべる同僚の隣に陣取った。

「良いリアクションだなあ長谷部。実に驚かせ甲斐が有る」
「鶴丸、貴様馬当番はどうした」
「はは、相方が優秀なもんでな、俺の出る幕など無いってやつだあれは」
「怠慢は許さんぞ」
「まあそこは適材適所ってことで。伽羅坊は大好きな馬の世話に集中できる、俺は近侍様に直談判ができる。win-win」
「パーティーグッズなら経費では落ちんぞ」
「そいつは残念だが、本命はそっちじゃあない。ここ最近の部隊編成についてなんだが」
「大々的に入れ替えを行ったのは各部隊の疲労を考慮してのことだ。さらに言うなら同じ面子でばかり出陣していても戦術に幅を持たせられん」
「理屈は解らんでもないが」
 白く透き通るような二指が舞い散る桜を摘み上げる。手遊びに興じる鶴丸の視線は庭先に向けられていた。

「だからといって、伊達と細川の刀を揃って外すのはやり過ぎじゃないか。時代に縁有る男士が居ると居ないとでは、部隊の士気も違ってくるだろうよ」
 ひら、と鶴丸の手から花弁が舞った。

 鶴丸国永は精鋭、第一部隊を率いる部隊長である。彼らがこの間まで出陣していた先は、延亭年間の江戸城だった。
 危うく断続の危機に陥った細川家を、当時の仙台藩主伊達宗村が救った。長きに渡る両家の友好を象徴するような逸話である。元主の交友が男士たちにそのまま当てはまるわけではないが、確かに伊達と細川の刀は昵懇の仲と言えた。正しく言えば、大倶利伽羅と歌仙との間に一度確執が生じこそした。とはいえ、周囲の仲立ちも有って二振りの関係も上向いている。

 かような経緯も有り、今更この時代への出陣を他の刀に割り当てるなど、審神者の口からも終ぞ上がらなかった。その編成を伊達の刀でも細川の刀でもない、長谷部が変更したのである。意図的な介入を疑われても仕方の無い采配だった。

 指摘を受け、微かに身動いだ長谷部のことを、この白い刀は見ていない。俯く隣の男に構わず鶴丸は話を続けた。
「案の定、江戸城攻略の成果はどうも振るわんらしい。練度の高い連中を集めちゃあいるが、それだけで押し通れるほど敵も甘くないからな」
「早い話が元の布陣に戻せ、と」
「そこまでは言ってないがな」
 すっくと鶴丸が立ち上がる。途端に長谷部の視界が桜色で覆われた。

「伊達の刀は言っても聞かない連中が結構多くてな。行くな、と言われたら余計行きたくなる性分の奴らばかりだ。まあ、そこだけは把握しといてくれよ」

 儚げな容貌にそぐわぬ、悪戯っぽい笑みを浮かべて鶴丸は去った。
 置いてけぼりの長谷部は全身桜に塗れている。かぶりを振り、花弁を落としながら長谷部は先の直談判について思いを馳せた。

(あいつが何と言ってこようと、戦に出すつもりはない)
 四月も中旬を迎えて今は十八日、第一部隊の帰還まで幾ばくも無い。

 ――今日こそは喜ばしい報告が聴けますように。
 仲間たちの無事を祈り、長谷部は止まっていた作業を再開した。籠から無作為に乾きたての服を取り出す。掴んだのは、襟の開いた白いシャツだった。

「ふ」
 無意識のうちに長谷部は手にしたシャツに顔を埋める。洗剤のものとは異質の、男の残り香が鼻腔を擽った。
 これに袖を通した燭台切に抱きしめられずとも良い。長谷部は愛しい刀の温もりより、白いシャツが男の血を吸わないことをひたすら望んだ。

 晩刻、部隊の帰還を告げる鐘が鳴った。天まで伸びる光柱が収縮し、その中に六人分の人影を作り出す。
 彼らを迎えた男士たちは少なからず動揺の声を上げた。力なく項垂れる刀、それを支える仲間の裂けた脇腹、濃厚な血の臭いが激戦の有様をこの上なく雄弁に語っている。手入れ部屋は今までに無い混雑を見せた。
 第一部隊に次いで練度の高い男士たちが、軒並み重傷を負った。この事態は部隊再編成の必要性を痛感させた。そうなれば自ずと延亭年間に出陣していた伊達、細川の刀に声が掛かる。練度も時代への理解も申し分ない。頭領たる審神者が主命を下すのも時間の問題だった。故に長谷部は急がなくてはならない。

 審神者の部屋に通ずる廊下を何者かが塞いでいる。黒い影は己が本体を突き出し、長谷部の行く手を阻んだ。

「そんなに急いでどうしたんだい、長谷部くん」

 久方ぶりに聞く男の声は、穏やかなようで有無を言わせぬ響きが有る。その威圧的な態度に怯むことなく、長谷部は正面から燭台切と対峙した。

「――明日の、江戸城攻略部隊について主に相談が有る」
「ああ、その件ならもう話はついてるよ。また僕たち伊達の刀と、歌仙くん、小夜ちゃんの二振りで進軍する予定さ」
「また同じ組み合わせか。何度その六振りで出陣したと思っている。それで実りが無かったからこその部隊変更だろう」
「そして第二部隊の皆が大怪我して帰ってきたんだよね。いくら手伝い札で既に治療は終えてるといっても疲労はそのままだ。この調子で本領を発揮できるとは思えないし、まさか彼らより練度の低い刀で出陣なんて馬鹿げたことは言わないだろう?」
「遠征組が帰還するのを待てばいいだろう」
「君だって知っているはずだ。遠征組と僕らの練度はほとんど変わらない。ならあの時代に慣れていて、主家に縁有る刀剣を出した方がまだ可能性は有る。既に主の許可は得ているんだ、長谷部くんが今更何を言ったって変わりはしないよ」
「そいつは、どうかな」
 隠れていた月が雲間より顔を出す。燭台切はそこで初めて、目の前の打刀が嗤っていることに気付いた。

「練度でいうなら俺だって十分候補に入る。一臣下として、主に最良の結果を届けたいと思う気持ちは誰にも負けないつもりだ」

 宣言する長谷部は黒い太刀に手をかざした。上から鞘を柔く押さえ、先を通すように促す。燭台切の瞳が驚愕に染まったのは一瞬だった。
「君が出るというなら」
 刀が下げられ、代わりに反対の腕が長谷部の背を抱く。腕の中に愛しい刀を収めるや、燭台切は長谷部の肩口に己の頭を預けた。

「僕は尚更、本丸でじっとしているわけにはいかない」

 ある意味では抱擁よりも力強い断定に、長谷部は息を呑んだ。考え直せ、と抗議するために合わせた目は決意に満ちている。

「やめろ、お前が行かなくても伊達の刀は他に」
「他にいるから何だ。たとえあの時代にはもう伊達の刀でなかったとしても、僕は僕を大切にしてくれた主家に報いたい。そして僕は君が傷つくのを黙って見てはいられない。諦めてくれ長谷部くん、僕はこの戦いに関しては一歩も譲るつもりは無いんだよ」

 ――伊達の刀は言っても聞かない連中が結構多くてな。行くな、と言われたら余計行きたくなる性分の奴らばかりだ。

 どうせならもっと早く忠告して欲しかった、などと嘆いたところで男の決断は覆らない。長谷部が口出ししようがしまいが、燭台切は死地に赴いただろう。燭台切光忠とは、そういう刀だった。

「いやだ」

 垂れ下がったままだった長谷部の腕が、目の前の男の黒衣を掴む。燭台切が顔を上げると、今度は煤色の髪が己の眼下で揺れていた。
「いかないでくれ、たのむ、俺にできることなら、なんでも、するから……いうこときくから、だから、ここにいて、おれを、置いてかないでくれッ……」
 燭台切の戦装束に涙が染みこむ。縺れる舌を懸命に動かし、長谷部は思いの丈をただただ打ち明けた。

「君を置いていったりなんて、しないよ」
「うそだ、だってお前は、あした行ったら」
「折れるんだろう。知ってる」
 男の告白に長谷部が大きく目を瞠る。潤む藤色の淵を黒い革手袋がなぞった。感情が決壊したのか、何度拭っても長谷部から零れる涙は止まりそうにない。

「あのね、長谷部くん」
 ――いくら酔ってるからって、自分の日記を他人に見せびらかすものではないよ。
 苦笑しながら燭台切は在りし日の記憶を語る。
 毎度酒に呑まれて管を巻く長谷部を回収していたのは、他でもない燭台切だった。

 その晩の長谷部はとりわけ聞き分けが悪く、布団に横たわろうともしない。流石の燭台切もだだっ子かと些か呆れ返った。
 とにかく寝かしつけようと肩を押せば、意外にもその身体はすんなり敷布に倒れ込む。勢い余って燭台切は長谷部の顔横に手をついた。

 他意が無いとはいえ、傍目には燭台切が長谷部を組み敷いているようにしか見えない。燭台切は慌てて起き上がったが、何故か己を見上げる藤色の双眸は不満げである。その訳を質してみれば、返ってきたのは「どうしてお前は俺に靡かないんだ」の一言だった。

 二の句を継げずにいる男の下から長谷部が這い出る。やがて混乱から脱しきれぬ燭台切の胸板に、一冊の帳面が押しつけられた。

「この日記によればなあ、一ヶ月後にはお前も俺にめろめろになって、そのむだにいい声で毎日あまったるいせりふをはくことになってるんだぞ。にも関わらず、なんだこのてーたらくは! すえぜんを食うくらいしてみろ、このうつけー」

 そう好き放題言ってのけた後に、長谷部は再び布団に倒れこんだ。ややあって規則正しい寝息が聞こえてくる。早々と意識を手放した長谷部とは裏腹に、燭台切は激しい動悸に襲われていた。
 長谷部が言っていた日記とは何のことだろう。放り出された冊子を手に取り、燭台切は恐る恐るその中身を覗き込んだ。そうして、嘗ての長谷部が覚えたのとほとんど変わらぬ衝撃が黒い太刀にも走った。
 長谷部を憎からず思っていたのは燭台切も同様である。肝心の長谷部は好意どころか友人としての付き合いすら望んでいないように見えたが、蓋を開けてみれば見事に両想いだったらしい。こうなると人の気も知らず、眠りこけている長谷部がいっそ腹立たしく思える。ついと伸びかけた不埒な手を、燭台切は根性で以てねじ伏せた。

 理性を総動員して日記の続きを読む。記述は四月十八日で終わっていた。この日付に何か起きるのだろうか、と燭台切が念入りに観察していると重なっていた頁が微妙にずれた。
 隠されていた記述が露わとなる。前日までとは打って変わって、悲嘆に暮れる長谷部の文字と、自らに訪れる結末とを燭台切は知った。

 男の目が傍らで眠る刀に向けられる。しょくだいきり、と舌足らずな調子で己を呼ぶ長谷部を前に、燭台切は事の隠蔽を図った。今後、彼の刀が最悪の未来を知ることのないように、剥がれた頁を丁寧に糊付けする。
「おやすみ、長谷部くん」
 願わくば、そのまま幸せな夢だけを見続けてくれますように。
 寝乱れた煤色の前髪を分け、燭台切は長谷部の額に口付ける。この翌朝から、男は今までの控えめな態度を改め、慕情のままに長谷部に接するようになった。

「お前は、ずっと前から知ってたのか」
「そうなるね」
「知ってて、なんで、それでも出陣しようとするんだ」
「一つはさっきも言った通り、伊達家に世話になった恩を返したいから。もう一つは、君を安心させたいからだよ」
「いみがわからん」
「僕は必ず君の元に帰ってくる」

 確固たる意志の下、燭台切はそう言い切った。淀みない声調は自信に溢れていて、この場を凌ぐためだけの妄言とも思えない。それでも長谷部は、示された希望に安易に縋ることはできなかった。

「ばかをいうな、折れたら、それでもう終いじゃないか」
「できない約束なんてしないさ」
「なにをこんきょに」
「だって長谷部くん、さっき何でもしてくれるって言ったよね」
「言ったが、どうした」
「ここ二月ずっと我慢してたから。明日無事に帰ってきたら、とびっきりのご褒美を貰いたいなって」

 涙を吸っていた革手袋が長谷部の襟足に移る。疑問を浮かべる声は口内に押し止められた。合わさった唇の、僅かな隙間から呼気が漏れる。長谷部の口唇は何度も押し潰され、男の柔い肉によって幾度も食まれた。気付けば絡んでいた舌は、離れた後も名残惜しそうに互いの間を銀糸で繋いでいる。

「続きは明日、しよう? そのためなら僕はたとえ折れてでも本丸に帰ってくるよ」
「むちゃくちゃをいう」
「君と一緒にいるのに必要なら、どんな無茶だって通すさ」
「かっこつけ」
「ああ泣かないで長谷部くん。僕は好きな子を泣かす趣味は無いんだからね」
「うそつけ、うれしそうな顔しやがって」

 膨れる長谷部の頬に燭台切が唇を寄せる。宥めるつもりでされたそれは、次第に熱を孕んで再び体液を交換するものに変わっていった。

 

 

「四月十九日
江戸城下出陣 部隊損害状況

中傷 歌仙兼定、鶴丸国永
重傷 大倶利伽羅、小夜左文字、太鼓鐘貞宗

刀剣破壊 燭台切光忠」

 

 

「うそつき」
 鶴丸から形見にと渡された、燭台切の破片を長谷部は力の限り握りしめる。鋼の切っ先が自らの肌を裂こうと気にはならなかった。血の伝う掌よりも何よりも、無傷のはずの胸の奥が苦しくて仕方ない。
「どの口が、かえってくるって、好きな子を泣かすしゅみはない、なんて言ったんだ」
 男を詰る声は次第に弱まっていく。後はもう声にならなかった。
 夜が明ける。燭台切光忠のいない日々が始まった。