吸血鬼パロ番外篇 - 1/2

長谷部国重は友達が少ない

 

 

 細川家の歌仙は友人が少ない。

 武芸を修め、風雅にも通ずる彼は確かに優秀な少年であった。騎射や茶道の腕前は大人にも引けを取らず、秀才の名をほしいままにしたのも当然だろう。ただし、それらの名誉は全てたゆまぬ自己鍛錬により得たものである。余暇のほとんどを勉学に費やしていた少年は、同年代の知人と天気の話一つするにも手に汗握っていた。

 歌仙は落胆した。あれほど必死に覚えたにも関わらず、詩の一節や草木の名称は、友達作りに全く以て役立たないのである。
 歌仙はふて寝した。雅を解さない連中はこれだから、と盛大に責任転嫁しながら枕に若紫の髪を散らす。

 素直でない少年は夢を見る。六月の雨が庭先を濡らしていた。それを縁側から眺める歌仙と、その隣に座る少年。彼らは共に筆と懐紙を持って、露を含んだ紫陽花のうつくしさを語り合っていた。もし歌仙に自分の寝顔を見る機会が有れば、羞恥で筆を叩き折っていたかもしれない。幻の友人と心通わせるとき、歌仙の頬は常にだらしなく緩んでいる。年相応だが、良家の子弟らしさは微塵も感じられない顔つきであった。

 日増しに膨らむのは歌仙理想の友人像だけでない。細川家の当主は赤字で埋まる帳簿を忌々しげに見つめた。
 家計が圧迫されているのは彼の怠慢によるところではない。経営に影が差し始めたのは、数年に渡り続く不作と天災の影響が大きかった。
 既に事業のいくつかは縮小を迫られている。断腸の思いで家宝を売るべきか否か。かように洒落者の当主が延々頭を悩ませている時分の話である。一人の事業家が細川家の門を叩いた。

「しがない投資家の身ではありますが、是非とも御家の役に立ちたくお声を掛けました次第にございます」

 端正な顔に洗練された立ち居振る舞い、高貴な血筋を思わせる男の名は当主の予想に反し、全く聞き覚えの無いものだった。
 しかしながら、少し話をしてみただけでも事業家の誠実な人柄はよく窺えた。提示された条件もさほど難しいものではない。奉公人を路頭に迷わせぬためにも、当主は男の誘いに乗ることにした。

 事業家が細川家に求めたのは一つ。成人するまで長谷部国重という名の少年を世話をすること。何故彼が細川家を選んだのか。どうして自分で少年の面倒を見ないのか。当主は敢えて事業家の事情には踏み込まなかった。男の物憂げな眼差しが訊いてくれるな、と語っているように見えたし、当主にとっても長谷部少年には期待するところが大きかった。果たして長谷部少年は細川家に歓迎され、一日目にして当主の息子と激しい舌戦を繰り広げることになる。

 歌仙も長谷部も真面目で勤勉な性格なのだが、どちらも折り合いをつけるということを知らない。まさに同族嫌悪、似たもの同士の二人は顔を突き合わせるたび火花を散らした。ただ人間万事塞翁が馬、世の中何が吉と出るか判らぬものである。歳の近い彼らは、張り合い切磋琢磨するうちに、気付けば兄弟同然の間柄になっていた。

「君は随分と気合いを入った剣を振るうな」
「稽古事を真面目にこなしているだけだ」
「相手を切り伏せることを前提とした動きなんて誰も教えてないよ。穏やかな昼下がりの中庭で殺気をまき散らすとは雅じゃない。僕の育てた瑠璃末莉が可哀想だ」
「なら手合わせでもするか? 身体を動かせば風流など気にする余裕も無くなるだろう」
「仮に戦場だろうと僕は雅に敵を屠ってみせるよ。文系の誇りに賭けてね」
「世に首塚耳塚が溢れる原因が解った。文系の美的感覚は独特だな」

 何だかんだ言いつつ、歌仙は長谷部の無骨な振る舞いを止めない。取り憑かれたように剣を振るうにもそれ相応の事情が有るのだろう。歌仙は敏い少年である。莫大な支援金を寄越した資産家と、元孤児の長谷部少年が因縁浅からぬ仲であることを門外漢ながらに見抜いていた。

 さしあたって貴族の落胤か不貞の隠し子か。下世話な想像だけに直接長谷部に確かめることは避けたい。そもそも父母はおろか生家の名すら知らぬ長谷部だ、訊いたところで有益な情報が得られるとも思えなかった。

 もっとも歌仙は長谷部の正体など端から興味は無い。不器用で偏屈で負けず嫌いで、勝負事には決して手を抜かない悪友。歌仙にとっての長谷部国重とはそういう人間であった。口さの無い輩の流言を一笑に付し、彼は今日も血の繋がらぬ兄を訪う。歌仙と長谷部の交流は、一方が他国へ留学し、一方が独立した後も長く続いた。

 これは歌仙が長谷部と懇意になって間もない頃の話である。照明も落とされた丑三つ時、歌仙はふと尿意を覚えて厠に立った。

 化生や幽鬼の類は取り立てて珍しいものではない。使用人が時折聞かせる怪談話も歌仙の肝を寒からしめるには至らなかった。いざとなれば化け物すら斬ってみせる。無事に用を足し、気丈な少年は板張りの廊下を揚々と進んだ。
 内廊下ではなく中庭に面した広縁を選んだのは、束の間の月見を楽しもうという算段である。雨も上がり、涼気に素足を晒してご機嫌の歌仙はある部屋の前で足を止めた。

 影が揺れている。障子の向こうでゆらめく黒い像は、ヒトの形をしていなかった。幼き歌仙が身震いしたのは無理もないだろう。戸を一枚隔てた先にいるのは、一角の武人だろうと容易に相手取ることはできない。あまりに強大な妖気は、十に満たぬ少年から発声と移動の自由を奪った。

 こうなると中の住人――長谷部の安否が危ぶまれる。歌仙は萎えた己の喉と手足とを呪った。起きろ起きろ起きろ。歌仙の叫びは音にならず、口だけが忙しなく開閉した。少年の頬を透明な滴が伝う。無力な己を嘆き、歌仙は友のために初めて涙した。万策尽きた彼はひたすら神仏に祈った。その願いが聞き届けられたかはさておき、室内で蠢いていた影は程なくして気配もろとも姿を消した。

 呪縛が解け、動けるようになった歌仙は部屋の中へ転がり込んだ。慌てて長谷部の手を取り、その肌から温もりが失われてないと知った少年は頑是無く泣きわめいた。目を覚ますなり、己の枕元で慟哭する友人を見た長谷部がどれほど驚愕したかは筆舌に尽くしがたい。後にも先にも、歌仙が我を忘れて噎び泣いたのは、この晩だけであった。

 この国では齢十五に達した男児は成人とみなされる。名門細川家の薫陶を受け、退魔師としての修養を積んだ長谷部は、嘗て住まいとしていた教会に戻っていた。
 歌仙の方は昨年より遊学の旅に出ていた。跡継ぎとして見聞を広めるためという名目だったが、その実態は武者修行と呼んで差し支えない。
 少年時代、長谷部の部屋の前で遭遇した魔物に文字通り手も足も出なかった。その敗北の屈辱は歌仙にとって忘れたくとも忘れられない記憶になっている。あれ以来、長谷部と並び素振りをする機会が増えた。未だ若輩の身ではあるが、今や国でも有数の使い手だろうと自負できる。その程度には歌仙も研鑽を積んだ。

 もう二度とあの夜のような思いはしたくない。友人の古巣を前に、歌仙は長年の決意を新たにした。

「久しぶりだね長谷部。めでたく退魔師就任となったそうだが、調子はいかがかな」
「ぼちぼち、と言いたいところだが、その日その日を過ごすだけで精一杯だ。ここのところ粥以外の飯を作っていない」
「そう言う割に血色は悪くないね。副業でまかないでも貰っているのかい」
「……世話好きのお節介が頼みもしないのに食事の面倒を見てくるんだ」

 忌々しげに長谷部は土産のクッキーを突く。付き合いの長い歌仙は、友人の捻くれた発言は好意の裏返しなのだと、とうの昔に承知している。
 どうやら一年ほど顔を合わせぬうちに、なんとこの堅物が外で恋人を作っていたらしい。古来より色恋沙汰は歌の題材として親しまれてきている。芸術に明るい歌仙が友人の恋模様に興味を抱くのは当然の流れだった。

「意外だね。無愛想、無遠慮の申し子みたいな長谷部に良い人ができるとは」
「いきなり何の話だ」
「君の食生活の口出しする健気かつ人のできたご令嬢の話だよ」
「お前の理屈だと世の料理人は好色しかいないことになるんだが」
「将来性も不確かな駆け出し退魔師の家まで押しかけ、食事の世話までしてくれる女性がただの親切心で動いていると本気で思ってるのかい」
「色々と誤解が有る。あいつとはそういう関係じゃない。考えただけで怖気がするから、次に発言する内容には十分注意するんだな」
「さっさと告白しなよ唐変木」

 茶菓子を広げていた机が真二つに分かれる。幸い幼なじみの意図に気付いていた歌仙の手により、紅茶と菓子を載せた皿は守られた。被害は長谷部の愛刀が両断した枯色のテーブルだけである。

「数少ない家具になんてことを」
「貴様が自重しないお陰でな。下衆な勘ぐりはやめてもらおう。あいつとだけは、絶対にそんな間柄にはならない」

 歌仙も長谷部も互いに血の気が多い。言葉よりもしばしば拳や刀を交えて胸中を語り明かした仲であり、先の戯れは物騒の範疇にも当てはまらないだろう。そんな二人にも線引きというものは朧気ながらに存在する。件の人物との関係を否定する声音には、脅迫にも似た切実な響きが有った。

 なるほど長谷部の言うように、彼とそのお節介な知人とは艶めいた間柄ではないのだろう。しかし両者が心の底から現状を良しとしているかは別である。
 歌仙の見立てでは、長谷部もその知人を憎からず思っているに違いない。ただ長谷部にはそれを受け入れられぬ理由が有る。それも強迫観念にも似た、確固たる信念を以て、彼は今後も知人の好意を拒み続ける。長谷部国重とは、そういう頑固な男だった。

「……からかいすぎたね。すまない、久々に古馴染みと会って少しはしゃいでいたようだ」
「なに、このテーブルより質の良いものを見繕ってくれれば十分さ」
「君それを狙ってわざと圧しきったわけじゃないよね?」
「さてなァ」

 喧嘩っ早い二人は仕切り直すのも早い。両者の雰囲気はすぐさま柔らかくなり、積もる話も有るからと歌仙は一晩友人の世話になることを決めた。

 眠れない。布団に横たわり一時間ほどが経過したが、未だ歌仙は寝付けずにいる。どうにも寝苦しく、いよいよ喉まで渇いてきた。根気強く瞼を閉じていても睡魔は一向に訪れない。水でも貰おうと、歌仙はとうとう得物片手に部屋を出た。

 あの夜以来、歌仙はいついかなるときでも武器を手放さない。身の安全を守るためではなく、寧ろ雪辱を果たす好機を逃したくないというのが本音だった。
 夜になり日中と比べ随分と涼しくなった。それでも湿度を多分に含んだ空気は生温く、散歩に適しているとは言いがたい。魑魅魍魎はこうした陰気くささを一等好む。歌仙は柄頭に手を遣り、顔を顰めた。

 細川家の嫡男が怨敵と定めた妖は、あれから一度たりとも姿を見せていない。細川家は往年の威光を取り戻し、長谷部は大病一つ煩わずに成人の儀を迎えた。呪いを施したのでないとすれば、あの魔物はいったい何が目的だったのだろう。コップ一杯分の水で飢えを満たしても、やはり歌仙には答えらしい答えは浮かばない。

 言霊という概念が有る。呪詛や祝詞が実際に力を持ち、魔術という名で市民権を得ている世界では、信仰というよりもはや常識であった。およそ不可視の力に頼らぬ歌仙であっても、鎮魂歌が死者を慰めるという思想を疑ったことは無い。要するに、宿敵との再会を望む歌仙の声が先の運命を引き寄せることも十分に有り得る。
 六年前は床に縫い付けられた双脚も今は自由だ。歌仙は昼に案内された廊下を走り、庭園に続く扉を開け放った。

 長谷部が不在の間、この教会を管理していたのは細川家当主の正妻、ガラシャである。敬虔な信徒である彼女は、使用人と共に自らこの地へ足を運び、神の教えを乞う子羊がために聖堂を日々磨いていた。慈しみを以て世話された薔薇の園は、細川家の男子たちをも唸らせるほど美しい。凡人であれば埋もれかねぬ景勝にあって、その男は周囲の紅色すら引き立て役にするほどの存在感を放っていた。

「こんな夜更けに何の用だい」
 主に代わり、歌仙は黒ずくめの男に問う。身も凍るほどの美貌と、貼り付けたような微笑がヒトの肌をひりつかせた。

「栄養の足りてない主人に晩餐を届けに来た専属料理人、と言ったら納得してくれるかな」
「だとしても雇用人の身で主人の安眠を妨げるのは感心しないね」
「それには僕も同意だ。居間のテーブルにでも置いておくから、そこを通してもらえるかな」
「いやいや、代わりに僕が受け取っておこう。明日の朝食が俄然楽しみになった」
「気持ちは嬉しいけど、お客様にそんなことはさせられないよ。ついでに主人の血色が戻ったか確認しておきたいしねえ」
「お断りする。聖堂に血の臭いのする野犬を入れたりなどすれば、母上に申し訳が立たないからね」
「あはは、野犬ねえ。僕はどちらかといえば蝙蝠の仲間なんだけどなあ」

 言うなり、男の長身が暗がりに溶ける。歌仙もすかさず抜刀し、白刃を月明かりに晒した。
 羽音が静寂を破り、夜空より深い闇を周囲に広げていく。突如として現れた蝙蝠は一匹一匹が男の眷属である。長谷部とは別に退魔の知恵を欲した歌仙は、己が対峙している魔物の正体を既に掴んでいた。

 腕に噛みつこうとする影を一薙ぎにする。白銀の軌跡が縦横無尽に踊り、石畳に澱んだ肉片を散らした。幻の血溜まりは庭園を穢すことなく消失する。そのうちに追い払われた黒い獣たちが集い、再びヒトの形を取った。

「思ったより良い動きをするねえ。伽羅ちゃんに教えてあげたら喜びそうだ」
「生憎と人外の友を作る予定は無い」
「まあまあ、そう言わずに。ああ見えて伽羅ちゃんヒトに甘いし、遊ぶのも嫌いじゃないし、力試しには年中飢えてたりするんだよ」
「なら貴公が相手してやったらどうだ。長谷部にもようやく春が訪れたらしいし、新人の退魔師なら他にもいるだろう」
「長谷部くんに春?」

 余裕に溢れていた人外の男が急に声を低くする。その足下から伸びる影が俄に騒ぎ始めた。

「ふうん、聞き捨てならないなあ。あの子を狙う輩はヒト人外問わず排除してきたつもりだけど、僕の知らないところで恋人作ってたんだあ、へえ」

 ずしりと腕が重くなり、歌仙は危うく武器を取り落としそうになった。両の足で踏ん張らねば立っていることすら叶わない。六年ぶりに味わった威圧感は、記憶とは比較にならぬほど圧を増して歌仙の四肢を苛んだ。

「幼少の頃よりアレを狙っていた身としては不服かい」
「ああ気にくわないね。僕より弱い、彼を置いていくかもしれない定命の生き物には長谷部くんを渡せない」
「はは……貴公は傲慢で独善的だが、それだけの力を持ちながら長谷部を囲わないところだけは評価できるな」
「お褒めにあずかり恐悦至極だよ。僕も彼の友人は傷つけたくないから、なるべく穏便に事を済ませたいのだけれども、協力してくれないかな」
「お気遣いはありがたいがね、長谷部の件とは別に男児として退くことはできないのさ。六年前の屈辱、今ここで晴らさせてもらうぞ!」

 大喝。裂帛の気合いが全身を襲う倦怠感を撥ねのける。鉛のようだった身体は軽くなり、一足で魔物の懐へ飛び込むだけの力を歌仙は取り戻した。
 右肩から左脇へ、化生の胴体を斜めに切り裂くはずだった刀は中空で停止する。
 歌仙は己の眼を疑った。業物として名高い鋼の刀が、たかだか革の手袋に押し止められている。彼の武器がなまくらでないことは、石柱に刻まれた跡が証明していた。異常なのはつまり、刃先を掌中に収めながら平然としている男の方である。

「それなりに面白かったよ。六年間よく頑張ったね、歌仙くん」

 歌仙の努力を肯定し、ヒトならざる者は柔らかく笑った。凶器を受け止めた右手に力が籠もる。バキンと小さく鳴って折れたのは刀か持ち主の心か。武器を失った歌仙が膝を屈して、崩れ落ちる。

 六年の修養などまるで足りない。国で指折りの腕前すら誤差の範囲である。金の瞳を持つ常闇の男が生きた齢はおよそ五百。歌仙が武芸に費やした年数はその八十分の一にも及ばない。その間に得られた力は、化け物にとってはまさに矮小で脆弱であった。

「目が覚めたら今夜有ったことは全ては忘れている。君は何も嘆く必要なんて無い。だから、これからも僕の長谷部くんと仲の良い友人であり続けてくれ」

 茫然自失とする歌仙の頭に妖魔の手が伸びる。抵抗する気力をも奪われた彼なら、忘却の呪いもすんなりと受け入れることだろう。項垂れた青年の髪に男が触れる直前、鈍色の光が両者の間を遮った。

「毎晩毎晩ご苦労様だなァ、暇人ヴァンパイア」
 空を切った刃を振るい、聖職者姿の青年が刀を正眼に構える。難なく避けたとはいえ、危うく手首ごと落とされそうになった男は衣装の下にひやりとした感触を覚えていた。
 汗を掻くなど果たしていつぶりだろう。同族にすら畏敬の念を払われる吸血鬼、燭台切光忠は高揚感に口角を吊り上げた。

「こんばんは長谷部くん、今日も野菜とデザートのデリバリーに参じましたよ」
「俺は生粋の肉派だと日々伝えてるんだがな」
「偏食は頂けないなあ。特に君は成長期なんだからバランスの良い食生活は大事だよ」
「ならその夜食と首を置いて帰ってもらおう」
「この不景気にヴァンパイアからデュラハンへ転職なんて思い切った真似はちょっと」
「そうか。ならとっとと土に還れ!」

 妖とヒトの仔が激突する。歌仙は呆けた様子で両者の大立ち回りを目に焼き付けた。
 歌仙と長谷部との実力に大きな開きは無い。それこそ手合わせでもすれば一進一退の結果に終わるだろう。
 退魔師としての経験も浅い彼が人外の王と渡り合える理由は一つ、燭台切が長谷部の能力に合わせて手加減をしているからである。第三者の歌仙ですら判るのだから、対峙している長谷部が燭台切の違和に気付かぬわけが無かった。

「おい馬鹿力、俺の得物は折らなくていいのか?」
「武器の破壊は君の心よりお財布にダメージが行くだろう?」
「世には吸血鬼の灰を集める好事家もいるんだよなあ」
「そんな趣味の悪い連中と付き合うなんて、いつからそんな悪い子になったんだい長谷部くん」
「間違いなく、いたいけな子供に復讐を教えた悪い大人の影響だろうなァ!」

 燭台切が背を反らす。面を狙った上段からの切り落としは軽々と避けられるが、追って鞘による薙ぎの一打が迫る。それを腕で払い、燭台切と長谷部はまたも睨み合う形となった。

「昨日より良くなったけどまだ伸びしろは有るね。長谷部くんがんばれー」
「やかましい、一丁前に教師みたいな面をするな」
「そういう長谷部くんは顰め面を止めた方がいいよ。眉間から皺が取れなくなったらどうするんだい」
「安心しろ。お前を一発ぶん殴るだけで元の爽やか好青年フェイスに早変わりだ」
「殺すじゃなくて殴ると来たか。随分とご機嫌斜めだね」
「当然だ。いつもなら殺して終いだが、あそこの文系をからかった報いを貴様の命一つで購いきれると思うな」

 友に呼ばれて歌仙はようやく放心から立ち直った。長谷部もまたこの六年を復讐のために費やしている。男の剣は全て養父の仇を屠ることを前提に振るわれた。燭台切の首のみを欲する長谷部が、今だけは友の無念を晴らすために戦っている。これに奮起せずして、どうして長谷部国重の友を名乗れようか。
 一連の攻防も燭台切からすれば童子の戯れなのだろう。この調子では男の機嫌次第で屍体が二つできあがってしまう。

 しかし、と歌仙は燭台切の発言を顧みた。予想しうる最悪の未来はおそらく想像上だけのものだ。だからこそ歌仙は賭けに出た。
 敗北には再戦を、軽侮には制裁を。苛烈な当主から何よりも抗戦を学んだ歌仙は、折れた破片を迷わず掴み取った。

「双方共に矛を収めろ」
 歌仙の声に戦っていた二人が足を止める。停戦を求める友人が、自らの首筋に鋭利な刃物を宛がっているのを見て長谷部は色を失った。

「歌仙貴様、何を考えている!」
「聞いていなかったのか。僕は矛を収めろと言った」
「今日会ったばかりの仲で自らの身体を担保にするとは驚きだね」
「効果的だろう? 僕が死ねば、そこのお人好しが大泣きする」
 歌仙の脅しに燭台切は目を丸くし、苦笑まじりに肩をすくめた。

「あはは。それは、要求を呑まざるを得ないなあ」
 黒衣が風になびく。一度の跳躍で屋根まで上った吸血鬼は、土産のバスケットを置いて聖域を後にした。

「誰が大泣きするって?」
「大将首を譲ってやるんだ、それくらいはしてもらわないと割に合わない」
 不満げな長谷部に構わず、歌仙は吸血鬼が残した手土産を確認する。野菜や果実を挟んだサンドイッチは見た目にも華やかで、味も期待できそうだった。

「こんばんは、歌仙くん」
 歌仙が再び燭台切と相まみえたのは三日後のことである。先日とは異なり、長谷部は客人の訪問にも気付かず健やかに寝入っていた。

「まさか毎日様子を見に来ているのかい。御苦労なことだね」
「可愛い長谷部くんのためなら何てことないよ」
 言いながら燭台切は煤色の髪を愛おしげに撫でる。男はこうして六年前も長谷部の寝顔を見つめていたのだろう。
 歌仙は拍子抜けした。久しく恐怖の対象として捉えてきた影の化け物は、自分と同じく友人の身を案じていた、ただの世話焼きに過ぎなかったのである。報復に燃える気持ちなどとっくに消え失せてしまった。

「君は長谷部が大切なんだね」
「ああ。目に入れても痛くないくらいだ」
「誤解を解くつもりはないのかい」
「何のことかな」
「僕すら仕留められない君が長谷部の養父を殺せるとは思えない。そこで間抜け面を晒している友人の早とちりか、何かしら理由が有って嘘をついているか、そのどちらかだろう」
「そんなに僕に都合の良い解釈しちゃっていいのかい」
「没落しかけの名家に融資して面倒を見るくらいだ。長谷部のためなら親の敵という汚名すら厭わないだろう。長船殿はそういう人柄だとお見受けしたが」
「忠興くんのお喋り」
 細川家当主の口の軽さを咎めながら、燭台切はさも愉快そうに肩を揺すった。

 長船光忠が細川家を選んだ理由に大した意味はない。燭台切の正体を知っても長谷部への干渉を咎めないこと、養子を政略の道具として用いない当主であること、基準となったのはせいぜいその二点くらいだった。養父を亡くし、思い人に裏切られた長谷部が、細川家の跡取りとここまで懇意になるとは燭台切も予想していなかったことである。

「君がその調子では長谷部の春もまだまだ遠そうだ」
「え?」
「この朴念仁には仇以外に目をくれる余裕など今のところ無いってことさ。まあ追ってる相手の見目がこれでは、世間で持て囃されている麗人など案山子も同然だろうがね」
「よく判らないけど、現状長谷部くんに恋人はいないってことで大丈夫かな」
「細川の名に賭けて断言しよう。我が友、長谷部国重は生粋の童貞であると」
「当主の知らないところで細川家が新たな業を背負ってしまった」
 燭台切の意中は聞けた。これ以上歌仙がここに留まる必要は無い。友人の睡眠と恩人の安穏を妨げぬためにも、いい加減お暇すべきだろう。この六年の間に気遣いを学んだ秀才は、そっと用意された客間に戻った。

「僕はまだまだ強くなる。君が余計なしがらみから解放された暁には、またお手合わせ願うよ」

 再戦を宣告されて燭台切は快く頷く。
 長谷部は真に良き友人を得た。喜ばしく思う一方で、同時に名状しがたい蟠りを覚えてしまうのは何故だろう。自問自答しても納得いく説明は浮かばず、燭台切は黙然と壁に向き合った。視界の外で動く指先はなおも長谷部の髪を弄んでいる。

 肝心なところで鈍い吸血鬼が自覚するまで数年、長谷部が真実を知るまでおよそ九年。燭台切が歌仙との約束を果たす日はいまだ遠い。