段ボール本丸 / 二

 

 

 喧噪から遠ざかり一息つく。影は俺を追うことを諦めたようで、とぼとぼと大広間の団欒の中に戻っていった。

 酒の席は苦手だ。酔いに任せて下世話な話題を振られたり、やたら距離が近くなるやつも少なくない。特に最近顕現した古い知り合いは、そういう雰囲気を好んで余計に場を引っかき回す悪癖が有る。確実に巻き込まれると判っていて長居する馬鹿はいないだろう。
 やたら黒い知人が止めるのも聞かず、夜陰に乗じて追っ手を振り切る。既にやつの背後には次郎太刀の魔の手が伸びていた。就寝には些か早いが、あのタイミングでの中座は紙一重だったに違いない。
 まだ月は中天にも届いていない。摂取したアルコールの熱を冷ますために少し時間を潰すことにした。中庭から畑を通り、自室まで大きく迂回する道を取る。昼間に世話をした白菜の横を通り、ふと内番が終了する間際の掛け合いを思い出した。

 ――畑には驚きがいると思うんだよな

 誰だ、こいつに当番まわしたのは。真剣にそう考えたが、内番のシフトを取り仕切っているのはひとりしかいない。あれの性格を考える限り、顕現したての刀に旧知である刀を組ませただけであって、刃選に他意が無いことは容易に想像できる。

 偽の野菜でも植えたか、或いは得意の落とし穴でも仕掛けたか。夜中に調査することでもないが、どうせ時間だけはたっぷり有る。誰か被害に遭う前に身内の恥は隠蔽しておかねばなるまい。
 ほどなくして、異常は見つかった。

「何をしているんだ、お前は」
 地の底で白い毛玉がきゅうきゅうと鳴き声を上げている。人ならば十分這い上がれそうな深さの穴には、俺の膝の高さほどしかないだろう虎が蹲っていた。
 あの体躯でこの罠が発動するとは思えない。おそらく好奇心のままに土色の異なる地面を掘り、自ら奈落の蓋を開けていったのだろう。この虎はいつも同じ轍を踏む。何度主人の手を離れては事故に遭い途方に暮れたことか。溜息をつきつつ俺は穴底へと腕を伸ばした。
 仮にも肉食の獣は大人しく俺の腕に収まった。白い体毛にこびり付いた土汚れは夜目にも目立つ。ちらと母屋の方へ視線を寄越した。酒宴は当分の間終わりそうにない。俺の足は自室ではなく、大浴場へと向かって歩き出した。
 思った通り風呂を利用している者はいなかった。適当な桶に毛玉を入れ、シャワーから温水が出るのを待つ。始めのうちは虎も濡れるのを嫌がったが、適当に背の肉を揉み込んでやると次第に大人しくなった。
 湯冷めする前に手早く水分をぬぐい取り、ドライヤーを掛けながらブラッシングをしてやる。水を吸って硬質の塊となった体毛は、温風を受けてゆっくりと解れていった。風呂のときは暴れた虎も、今ではごろごろ喉を鳴らして俺の為すがままにされている。

 気配を殺して短刀部屋の前まで行く。夜気を遮断するための障子が僅かに開いていた。一瞬警戒はしたが、住人は例外なく床に就いている。どうやら犯人は俺が抱えている小動物らしい。

 音を立てないよう障子をさらに開き、差し込む光帯を頼りに飼い主の寝床に忍び寄る。この寒さだから懐に抱えて寝ているかと思ったが、虎たちは段ボールに毛布を敷いた専用のベッドに横たわっていた。脱走の名残かタオルが少しめくれあがっている。虎と布団とを戻し、何も言わず部屋を後にした。

 明日こそは出陣できることを祈ろう。
 刀も増え、先陣争いも熾烈になってきた近頃を思い空を見上げる。ひらひらと舞う雪片が濃藍の垂れ幕を彩っていた。

 

□□□

 

 仕事が一段落つき軽く腕を伸ばす。そうして節々から上がる悲鳴は聞いていて心地良いものではない。主に書類の確認を頂いた後は休憩にしよう。今日のお八つは何だろうか、と短刀さながらの思考に期待を膨らませつつ斜向かいの部屋を訪ねた。

「主、長谷部です。政府に提出する書類に目を通して頂きたいのですが」
 入室の許可を仰ぐも返答は無い。もう一度声を掛けるが、やはり部屋も廊下も静まりかえっている。試しに襖を開けてみると、予想した通り主の姿は無くもぬけの殻だった。

「やれやれ、またか」

 景趣が冬景色に変わる少し前のことだろうか、我らが主はそれまで移動に不自由していたのが嘘のように本丸中を歩き回るようになった。

 何故か段ボールの姿を取っている主は、会話や移動こそ可能だが人のような手足を持ってはいない。お陰で一定の高さが有る段差や扉の開閉などにはひどく苦労しておられた。近侍の俺は主を甲斐甲斐しく世話するのが嬉しかったから、移動のたびに呼び立てられるのを疎むどころか寧ろ喜んでさえいた。

 しかし、俺が主を文字通り支えていた日々も唐突に終わりを告げた。いつのまにか主は本丸に点在する段ボールに意識を移し、障害物に触れずとも場所を変える術を身につけてしまわれたのだ。その報告を聞いた俺が内心複雑な気持ちになったのは言うまでも無い。

 これで長谷部の手を煩わせなくて済む、と誇らしげに宣う主の前で、出番が減ったことを嘆く近侍がいてたまるものか。当然その日の夜は友人を犠牲にヤケ酒に勤しんでやった。その際に披露された男の妙技を、俺は一生忘れないだろう。

 閑話休題。主の意向でこの本丸には大量の空き段ボールが存在する。居場所を突き止めるのは中々骨だったが、探さないわけにはいかない。ひとまず人の集まることが多い大広間へ足を運ぶことにした。

「お、長谷部いいところに」
「長谷部さん! ちょうど良かった、大倶利伽羅さん見ませんでした?」
 途中で白と桃色の淡い色彩を持った二振りに呼び止められる。最近お馴染みのコンビ、鶴丸国永と秋田藤四郎だった。

 以前はよく燭台切の世話をしていた秋田だったが、近頃は顕現したての白い太刀と一緒に行動している。単純に面倒見が良いということも有るが、秋田は好奇心旺盛で新しいものに目が無い。そういった点で常に驚きを求める鶴丸とは馬が合うのだろう。鶴丸と燭台切が同じ伊達家の刀だったということも有って、三振り揃って厨で話している姿もよく見かけた。

 非常に仲睦まじそうで結構なのだが、その輪に入りたいとは思わない。何分この鶴丸国永とかいう太刀、馬に珍妙な装飾を施したり悪戯を仕掛けたりとろくなことをしでかさないのだ。
 とはいえ被害も笑い話の範囲に留まり、主に短刀から一定の評価も得ているため、口酸っぱく言って止めさせることもできない。一言で言うならあまり関わりになりたくない刃種だが、幸い人当たりは良いので今回も質問には素直に応じた。

「大倶利伽羅か、いや見てないぞ」
「むむ、そうですか。鶴丸さん、今度は馬小屋の方を探してみましょう!」
「そうだな、もし居なくても轡を伊達仕様に変えることができる。名案だぞ秋田」
「おいこら演習相手に珍走団と噂されるような装いは控えろ」
 追及を避けてか、片手を挙げた鶴丸が笑顔で廊下を走り去っていく。それに従う形で秋田もウインクを決めながら退場していった。

 ええい悪戯どうこう以前に廊下は走るな! 俺の叫びも空しく、童子二人はあっと言う間に俺の前から姿を消してしまった。鶴丸よ、その機動は戦で活かせ。
 それにしても名指しされた大倶利伽羅も可哀想なやつである。あの二振りに追い回されては生きた心地がしないだろう。馴れ合いを好まぬ自称一匹狼が平穏に過ごせますように、と柄にもなく祈ってしまった。

「おがあアアアッーーーー!」
 絹ならぬ紙製品を引き裂くような悲鳴が上がった。廊下を走るなと注意したばかりの俺は脇目もふらずに現場へと急行する。曲がり角を峠のごとく攻め、ドリフトを決めた先には睨んだ通り尋ね段ボールの姿が有った。

「主! に大倶利伽羅!」
 畳の上で暴れている主と慌てふためいた様子の大倶利伽羅とを交互に見やる。主の仮の身体には黄色い染みのついたティッシュが転がっていた。足を踏み入れれば、覚えの有る刺激臭が鼻を突く。そして同僚の足に擦り寄る四足歩行の畜生、俺は何となく一連の喜劇を察した。

「童貞を捨てる前に小スカ強要された。もうお婿に行けないよぉ」
 嘆く主の体表を撫でさする。尿に穢れた箱は既に潰して焼却炉行きにしておいた。

「主ほどの御方でしたら多少の経歴はおおらかに受け止めてくれる娘が見つかるでしょう。自信をお持ち下さい」
 小水を引っかけられた試しの無い俺の慰めなど気休めにもならないだろう。ここはやはり元凶の処分に限る。振り返り、大倶利伽羅の膝元で寛いでいる猫を指さした。

「この大罪人は俺が責任を持って裏山に捨てて参ります。二度と本丸に近づけぬよう結界は施しておきますのでご安心を」
 そうとなれば大量のペットボトルを発注しなければならない。放逐が済んだらすぐに万屋に駆け込むことにしよう。
 立ち上がって捕獲のために猫へと手を伸ばす。が、生意気にもこの畜生、手袋越しとはいえ俺の手に爪を立ててきた。

「ええい、大倶利伽羅その服についてる獣を引き剥がせ!」
 力任せに引っ張れば大倶利伽羅のシャツが犠牲になりかねない。流石に同僚の服を無断で剥ぐわけにもいかず、俺は渦中の刃物にSOSを送った。大倶利伽羅が両腕を伸ばすと猫は抵抗もせず、すんなりと胸に納まった。

「随分と懐かれているな」
 大倶利伽羅の調教師ぶりに俺は主とふたりして感服した。当の本人は心外とばかりに眉間に皺を寄せている。試しに大倶利伽羅の腕にぶら下がる猫に人差し指を伸ばしてみた。威嚇された。貴様を三味線にしてやろうか。

「こりゃ捨てるのは無理だな。多分裏山に放置しても大倶利伽羅のところに帰ってくるべ」
 大倶利伽羅以外では逃げられる。かと言って大倶利伽羅に捨てさせても後を尾いてくる。八方塞がりとなった状況で主が冷静な判断を下した。これはもう飼うしかない。それが主の出した結論なら、俺も三味線を諦める他なかった。

「……大倶利伽羅、さてはこいつに餌をやっただろう」
 いくら動物に好かれる質でも何もせずしてこの結果は有り得まい。
 俺の指摘に大倶利伽羅が肩を小さく震わせた。図星だったのだろう、咎めるように目を見ればあからさまに視線を逸らされた。

「ならば話は早い。中途半端に情を与え、適当に可愛がった挙げ句うち捨てるのは人の所業とは呼べんな」
 奇天烈な命名までしておいて直臣でもないやつに下げ渡す男とか最低だものな! 特に私情は入っていないが、俺は掌を返しあっさり飼育賛成派に回った。特に私情は入っていないが。

「責任は持てよ、色男」
 思えば、あれほど渋い顔をした大倶利伽羅は嘗て見たことは無かった。

 

□□□

 

「撒いたか」
 闖入者は障子に鼻先を突きつけ外の様子を警戒している。何かに追われているらしいが、腕では例の三味線候補がしどけなく身体を伸ばしているため格好が付かない。

「四つ足だけでなく人型にも好かれるらしいな」
「居たのか、あんた」
「ここをどこだと思っている。近侍部屋だぞ」

 それすら気付かず押し入ったのか。まあ相当必死だったのだろう。冬には似つかわしくない汗が乱れた前髪の合間に光って見えた。
 まだ厚みの有る座布団を取り出し、最近導入した衝立の陰になるよう置く。大倶利伽羅はやや躊躇いを見せた後に、軽く断ってから座った。律儀なやつである。

 何をそんなに慌てていたのか尋ねようとしたところで、廊下から賑やかな話し声が聞こえてきた。あれは鶴丸に秋田、それに五虎退だろうか。声の主を推測していると、正面の大倶利伽羅が傍目にも身体を強ばらせたのが判った。理由は、まあ訊くまでもない。
 三振りが近侍部屋を通過するのを陰影ごしに確認し、他人事ながらに俺もほっと胸を撫で下ろす。同じく気を抜いた大倶利伽羅は肩を下ろし、指先で愛猫の喉をさすり始めた。まさに猫撫で声、と言った調子の甘い鳴き声が漏れ出る。

「可愛がってやってるみたいだな」
「そうでもない。言われた通り責任を果たしているだけだ」
 否定する大倶利伽羅の表情は随分と穏やかだった。口先ではこう言っているが、内心飼い猫が可愛くて仕方ないのだろう。愛でる手つきがどこまでも優しいのがその証左だ。

「名前はつけたか」
「必要無いだろう。猫で十分だ」
「俺が言うのも何だが、そのネーミングセンスはどうかと思うぞ」

 命名されなければ俺たち刀も肉体を持って顕現することなど無かったかもしれない。それだけ名前とは大切なものなのである。それを斬れるから刀、などと大雑把なくくりで纏めるのは自己を否定することにも繋がらないだろうか。全くこいつは情に篤いのか薄いのか判らん。

「では俺が付けてやろう。三味線でどうだ」
「本当にあんたが言うのもどうかと思うセンスだな」
 飼い主どころか当の猫まで毛を逆立てて俺の案に否を唱える。くっ、他に良いのが浮かばなかったんだから仕方ないだろう。同情の眼差しを向けるな、腹立つ。

 命名に関する一悶着こそ有ったものの、大倶利伽羅は基本的に静かで作業を妨害するような真似はしないから居心地も悪くなかった。今は膝に猫を抱え、俺が持ち込んだ本を適当に消化している。
 同好の士が増えるのは歓迎だし、積極的に会話する必要性が無いなら時折匿ってやるのも良いかもしれない。そう思い、ふたり分のお八つを確保するため冬場の重い腰を上げた。外に面していない廊下も十分に冷気が迸っていて足下から底冷えする。次に給料が入ったら近侍部屋に炬燵を置こう。密かな野望を燃やしつつ、厨への道を急いだ。

「すまん、何か適当につまめそうなものは有るか」
 暖簾を手で掻き分けると、視界に特徴的な旋毛が飛び込んできた。ああまで判りやすいシルエットもそう無い。振り向いた男は俺の姿を認めるなり、端正な顔に微笑を浮かべてみせた。美丈夫はじゃがいもを持っていても様になるのだから卑怯である。

「お疲れ様、長谷部くん。常備してるお菓子なら有るけど、急ぎじゃないならフレンチトーストでも作るよ?」
「既製品とお前手ずから作った甘味を比べろと言うのか。聞いただけで涎の出るような提案をしおって、社交辞令と言うなら今のうちだぞ」
「はいはい、どうぞお客様。こちらの椅子に座ってお待ち下さい」
 言われるままに引かれた椅子に腰掛ける。本日の厨当番、燭台切光忠は図々しい客人のエスコートを済ませると、無駄の無い動きで材料と道具を揃えだした。

 テーブルには皮をつけたままのじゃがいもが大量に転がっている。待っている間に燭台切の作業を引き継ごうとして、指が止まった。隅に、手つかずのずんだ餅となおも湯気を立ち上らせる緑茶が置かれている。発祥からして燭台切のお八つだろうか。それにしては茶も飲まずに放置されているのが気になる。

「燭台切、このずんだ餅はどうしたんだ」
 泡立て器で卵と牛乳をかき混ぜる背中に問う。ボウルを抱えたままの燭台切が、ああと卓上の郷土菓子を一瞥した。
「これね、伽羅ちゃん用のお八つだったんだ」
 またも大倶利伽羅、最近は本当によくこの刃名を耳にするな。

「でも秋田くんに頼んでみたけど上手く渡せなかったみたいでね。僕はもう食べちゃったし、どうしようか考えたところなんだ」
 眉を八の字に曲げた伊達男が苦笑する。愁いを秘めた表情も見目麗しいことに変わりないが、常に穏やかな燭台切らしくはない。

 ああ大倶利伽羅、何と罪深い刀よ。どんな理由が有ろうと燭台切の作ったお八つを袖にするなんて信じられん。しかも単なる甘味ではない。嘗て仕えた主縁の品と言うのだから、これは大倶利伽羅に食べてもらうことを前提に作った料理なのだ。どういう気持ちで燭台切がこれを作ったのか、手もつけられず帰ってきた菓子を見たとき、どんな心境だったのか考えるだけで目頭が熱くなる。

「そんなもの大倶利伽羅に食べてもらうに決まってるじゃないか」
「え?」
「大倶利伽羅ならさっき見かけたからな、意地でも食わせる。大船に乗った気でいろ燭台切」
 信を得られるよう、ことさら胸を張った。仮に逃げ出されたとしても、大倶利伽羅と俺とでは機動に差が有る。腕力で押さえつけることは難しいかもしれんが、そのときは投石で鍛えた腕を以て奴の口に仙台銘菓を放り込んでやれば良い。

「とりあえず冷めた茶だけは入れ直すぞ。その間にフレンチトーストも作ってくれると嬉しい」
 棒立ちとなった燭台切の横を通り、新鮮な水をケトルにたっぷりと入れる。湯が沸くまでの間だが芋の皮むきは代行しよう。たとえ五分程度といえども時間を無駄にするのは好きじゃない。

「長谷部くん」
「何だ」
「もし伽羅ちゃんに受け取ってもらえたら、一緒にお八つ食べてくれないかな」
「別に構わんが、何故だ」

 俺は初めからそうするつもりだったが、燭台切は大倶利伽羅が近侍部屋に居ることなど知らない。それを踏まえて同席しろとは一体どのような理由が有るというのか。訝しむ俺に負けず劣らず、燭台切もどこか神妙な面持ちでパンをカットしている。

「ふたりが仲良くなってくれたら嬉しいから、だよ」
 既に熱されたフライパンに液体を吸ったパンが落とされる。じゅわあ、と音を立てて焦げ色をつけるパンからは香しい匂いが立ち上っていた。

 きつね色に焼けたパンが数枚重なる頃には湯も沸いた。フレンチトーストに合わせる形で、飲み物も緑茶から紅茶に変わる。内容の異なるお八つが同じ丸盆に載せられた。それを笑顔で渡してくる燭台切につられてか、どことなく己の気分も高揚する。

「ありがとう燭台切、行ってくる」
「行ってらっしゃい。あ、お八つ食べ終わった後で良いから中庭に顔出してみてね」
「? ああ、解った」

 中庭と聞いて内番のシフトを振り返る。冬の気配が濃厚になるにつれ、内番に雪かき当番が加わった。
 今日の担当は鯰尾と石切丸だったと記憶している。特に問題が起きるような組み合わせではないだろうし、燭台切が何を気に掛けているのか見当もつかない。

 詳しく訊きたいところだが、今は紅茶が冷める前にお八つを届けることを優先すべきだろう。俺は足早に厨を出て近侍部屋へと向かった。

「光忠に、ここに居ることを話したのか」
 ずんだ餅を差し出した途端、責めるような視線を浴びせられる。猫の方は鼻先を鳴らして皿を興味深げに見ているが、肝心の主人は警戒したまま一指も動かそうとしない。

「近侍部屋に居るとは話していない。何だ、知られてはまずいことでも有るのか」
 やはり料理は出来たてを食べたい。俺は客人に構わず、卵の色鮮やかなフレンチトーストを口に運んだ。
 パリッと焼かれた表面を突き破れば、内側の柔らかい層から甘い風味が一気に香り立つ。十分に咀嚼し嚥下すると、奥まで染み渡るような官能が身を震わせた。卵と牛乳と砂糖しか使っていないはずなのに暴力的なまでの旨味だ。シンプルであればあるほど料理人の腕が光ると聞くが、その点において燭台切光忠は間違いなく一角の刃物であると言えよう。おそらくは、眼前のずんだ餅も同等以上の破壊力を持ち合わせている。俺はますます、大倶利伽羅が手を付けようとしない理由が解らなくなった。

「あいつは鶴丸の味方だからな」
 大倶利伽羅がようやく盆に手を伸ばす。しかし始めに口を付けたのは餅ではなく湯呑みの方だった。ええい、もどかしい。

「あれも旧知の仲だと聞いているが、苦手なのか」
「ろくなことをしないし、一度捕まったら絶対に逃げられない。とにかく厄介だ」

 俺より付き合いの長い刀であっても鶴丸国永への印象は大差無いらしい。あの刀が顕現してから大倶利伽羅が何かと挙動不審になっているのも窺える。

 だが苦手と嫌悪とはイコールではない。本丸の風紀を乱しかねない鶴丸の言動には俺も手を焼いているが、それでもあの白い太刀のことは、嫌いになれないのだ。

「でも燭台切の料理は美味いぞ」
「は?」
「鶴丸から逃げるのは別に構わん。が、美味い菓子が無駄になるのは見過ごせん。それぐらいはちゃんと受け取ってやれ」

 ずい、と皿ごと大倶利伽羅の眼前にずんだ餅を突きつける。戸惑い、躊躇い、一瞬にして様々な困惑の表情を見せた大倶利伽羅だったが、その右手は確かに、緑色で粉飾された餅菓子を掴んだ。
 口に含み、噛み合わせ、喉を通るまでの動きをじっくりと観察する。注視されるのを大倶利伽羅は快く思っていないようだが、感想を求めて逸る今の俺にはどうでも良いことだった。

「美味いか」
「ああ」
「それを、本人にも言ってやってくれ」
 作った当人でない俺でさえこんなにも嬉しいのだから、燭台切が直接この言葉を聞いたならばさぞ喜ぶことだろう。幸せな想像に自ずと頬も緩む。

 大倶利伽羅はその後さほど時間を掛けずにお八つを平らげた。無理強いしたわけではない。褐色の刀はあくまでも自主的に、一口一口噛みしめるように友人の料理を堪能していた。

 感想を伝えてほしかったので食器は大倶利伽羅に戻してもらうことにした。
 ひとりになり、さて仕事再開だと机に向き直ったところで不意に思い出す。そういえば中庭に顔を出すよう言われていた。脳裏に未確認事項をさっと並べてみたが、急ぎの案件は入っていない。身を起こし、日中はあまり利用しない自室へと歩を進めた。木枯らしの吹きすさぶ季節、装備がカソックだけではあまりに心許ない。

 厳しくも儚げな白銀世界に出迎えられると思っていた俺の幻想は早々に打ち砕かれる。
 ずらりと立ち並ぶ雪だるま兵、その背後に広がる泥混じりの長城、囲いを超えた先には妙にけばけばしい滑り台つきの要塞が君臨していた。側面に砲台を模したと思しき突起が取り付けられているから要塞と表現したが、遠目にはフジツボの群れにしか見えない。このときばかりは自分のことを棚に上げて思った。悪趣味の極みだ、と。

 だが悪夢はまだ終わらない。フジツボ滑り台の頂上を見てみると良い。なんとそこには、背景に溶けそうなほど白い鶴が高笑いを上げて己を待ち構えているではないか!

「はーっはっはっは! どうだ長谷部ぇ! 半日掛けて築き上げた鶴丸ミュージアムは!」
 どの辺りが博物館で美術館なのか言ってみろ放蕩者。雪像はともかく、お前の利用してるお立ち台は装飾が過ぎてゴミ山そのものだからな。

「色々と言いたいことは有るが、内番はどうした」
「雪合戦も遠戦の一環だろう」

 お前も手合わせ相手の三日月も太刀だろ。そもそも雪玉ぶつけて時間遡行軍に勝てると思ってるのか。おい天下五剣、かまくらの中で呑気に茶を啜るんじゃない。

「お前と話していると頭が痛くなる! 石切丸、石切丸はどこだ!」
 大声を張り上げ雪かき当番の名を呼ぶ。期待していた返事は無い。
「石切丸さんなら離れの方の雪かきに行きましたよー」
 鶴丸の足下から顔を出したのは同じく雪かき当番の鯰尾だった。

 ああ、確かに石切丸なら暴走しがちな若人らを抑えてくれるだろう。それも常に監視していたら、の話であった。あの刀は良識的な振る舞いで周囲を窘めてくれはするが、根底はやはり三条の刀である。場の大勢を混沌が支配したと見るや、彼は大らかな態度で全てを成り行きに任せてしまうのだ。要するに面倒になって何もかも放棄するのである。

 いや一対一ならともかく、複数対一の状況を想定していなかった俺の詰めも甘かった。だが真に恨むべきは鶴丸国永である。おのれ平安刀、その白装束俺の怒りで赤く染めてやろうか。

「長谷部も短刀たちの擬似遠戦風景を見れば納得するぞ。きみたち! この一戦にAWT48のセンターが懸かっていると思え!」

 鶴丸の呼号に応じ、それまで城塞に隠れていた短刀たちが一斉に身を乗り出す。なお皆例外なく腕に多量の雪玉を抱えていた。妙に統率の取れた動きは褒めるべきか、悲しむべきか。ああ! 一期一振が顕現していればこんなことには! すまん未だ見ぬ粟田口の長兄よ、お前の愛する弟たちは白い頭巾を被った変な太刀に洗脳されてしまった。

「ようし、じゃあ長谷部に一発中てた方のチームが先攻な」
「はい?」

 あの平安ツルもどきは今何と言った?

 衝撃的な発言を聞き返す間もなく、全身を悪寒が貫いた。反射的に右に跳躍するや否や、それまで俺が居た場所目がけ雪玉が矢嵐のごとく降り注ぐ。柱や縁側にぶつかり粉砕する雪玉の中に、石等の硬質な物体は認められなかった。十分な重量を確保できない条件下であの速度と飛距離か。正直短刀の膂力をあなどっていた俺はぞっとした。

「頑張れよ長谷部ー! もし無事に俺の下まで逃げ切れたら今晩のおかず好きなの恵んでやるぜー!」
 元凶の声援に俺の堪忍袋が限界を迎える。無性に、安全圏で対岸の火事を気取っている驚き妖怪を同じ立場に引きずり下ろしたくて堪らなくなった。

「やかましいぞツル仙人! そんなに札幌雪祭りを開催したいなら自ら展示物と化すが良い!」

 首元を保護していたマフラーを外し、適当な枝振りの木を見繕う。我が身を狙う雪玉を手ではたき落としているうちに、そこそこ立派な木を発見した。
 根に足掛け上へ上へと駆け上り、ある程度の高さを確保する。枝にマフラーをくくりつけた後の動きは、我ながら大道芸じみていた。
 勢いつけてマフラーにぶら下がり、振り子が頂点に達したところで空中に身を躍らす。無事に瓦屋根に降り立った俺は、白い太刀より高い位置に陣取ったことに気分を良くし、心の底からほくそ笑んだ。

「一方的に蹂躙される苦しみを知れ、鶴丸国永あああ!」
 まだ溶けていない雪を掴み、迅速に丸めては目標に投擲する。
 雪合戦というより陣地合戦にシフトしていった戦いは、石切丸の勤めが終わるまで続いた。

「まったく、えらい目に遭った」
 七輪の前でごちる俺の前に湯呑みが差し出される。かまくらの入り口から見慣れた黒手袋が伸びていた。

「二回目だけどお疲れ様、長谷部くん」
 素手で雪玉を握っていた指先に陶器越しの熱がじんわり染み渡る。少し横に移動してスペースを空けてやると、男は多少窮屈そうにしながらも俺の隣に腰を落ち着かせた。

「燭台切」
「なあに長谷部くん」
「お前、こうなること解ってて俺を中庭に誘導したんじゃないだろうな」
「わー! 冷たいよ長谷部くん止めて首筋に雪は止めてー!」
 ただえさえ狭いかまくらの中で大男が身を捩ろうとする。逃げ場など存在しないので追い詰めることは可能だったが、渡されたほうじ茶に免じて水に流すことにした。燭台切より主犯鶴丸への怒りが大きいというのも有る。

「お餅持って来たから許して」
「美味いもの出せば誤魔化せると思ってないか」
「思ってない、思ってない。醤油ときなこ、どっちが良い?」
「醤油」

 餅を焼いている間に、燭台切が薬缶と食器、調味料を持ってくる。湯で溶いた砂糖醤油はこの上なく焼き餅と合い、運動後で糖分を欲する身体の需要をとことん満たしてくれた。
 特別な調理はしていないのに、室内で食べた餅より不思議と美味く感じる。これがかまくらマジックというやつだろうか。鶴丸の騙し討ちは頂けないが、かまくらを作ったことには感謝しなければいけないかもしれない。

「かまくらで食べるお餅はひと味違うだろう」
 燭台切も同じことを考えていたらしい。餅を口に含んだままの俺は頷いて賛同を示した。
 開かれた屋外に敢えて閉鎖的な空間を作る。雪で覆われた冷たい佇まいに反し、その中は意外にも暖かく居心地が良い。

 存在そのものが矛盾の塊は、内と外とでがらりと表情を変えた。入り口から覗く雪景色がどこか現実離れして見えるのも、ここが本当に世界から切り離された特別な場所だからかもしれない。そう思わせるだけの神秘性が、ここには有った。

「たかが遊びと思って舐めていたな。かまくらも、雪合戦も、実際にやってみないと解らないことだらけだ」
「本当にそうだよね。長谷部くんったら良いこと言うなあ」
 笑いながら燭台切がきなこを塗した餅を渡してくる。砂糖醤油のさらりとした舌触りは勿論だが、きなこの主張しない甘さも悪くはなかった。

「そういう気持ちを」
 七輪に入れた木炭がぱちん、と弾ける。
「伽羅ちゃんにも味わってほしいんだ、僕たちは」
 僅かな間に起きた明暗の揺れは、燭台切の蜜色の瞳に翳りをもたらした。

 僕たち。その複数形が意味するところは、一つしかない。
 燭台切も、鶴丸も、どちらも同じくらい旧友のことを想っている。
 馴れ合うつもりはない。口癖のように人との繋がりを拒む大倶利伽羅も、きっと二振りのことは憎からず思っているだろう。

「全力で走り回った後のずんだ餅は格別だろうな」
 面倒事だって一度巻き込まれてしまえば存外悪くない。その弁が通じるかどうかはともかく、短刀に懐かれ、鶴丸にからかわれ、燭台切に宥められる大倶利伽羅を見てみたいと思った。

「あ、あのう燭台切さん、長谷部さん……」
 名を呼ばれ、入り口に近い燭台切が身を乗り出す。訪問者は足下しか見えないが、連れている虎と自信なさげな声で誰かは判った。

「どうかしたかい五虎退くん」
「僕の虎、あのリボンつけてない子なんですけど、見かけませんでしたか」

 畑、裏庭、縁の下と本丸中に捜索範囲を広げる。刀とすれ違うたび行方を尋ねてみるが結果は芳しくない。五虎退を慰める燭台切も俺も、少なからぬ不安を覚え始めていた。

 日が傾くにつれ雲に重たい灰色が交ざり出す。さほど時を置かずに再び雪は降り出すだろう。こうなると足跡が隠れる前に見つけてしまいたい。焦る気持ちに蓋をして、俺たちは既に探索した場所をもう一度改めることにした。

 雪解け水を吸った地面は歩くたび湿った音を立てる。大小様々な靴の形が描かれているが、そこに小さな虎の痕跡は見つけられなかった。雪遊びの意外な弊害と言うべきか、誰が通ったのかも判断しかねる有様である。そんな中で、最後に歩いた者の靴跡だけが異様に目立ってしまうのは致し方ないことだろう。

 スニーカーは中庭から洗濯物干し場まで続き、塀の前で一旦その歩みを止めていた。白い壁面には二、三箇所ほど不自然に泥がこびりついている。見上げれば屋根の端にも真新しい土が乗っていた。
 強いて前例に則る必要は無い。助走をつけ、俺は一気に塀の上を飛び越えた。

「大倶利伽羅」
 呼びかけた背中が小さく跳ねる。その肩口ではご機嫌そうに揺れる白い尻尾が見え隠れしていた。

「雪の下に、埋まっていた」
 見上げた先には、その一帯だけ雪化粧を落とした枝が有る。偶然下敷きになったのか、自ら木に登って雪共々落ちたのかは判らない。いずれにせよ、大事無いと知って全身から力が抜けそうになった。

「見つかったなら何よりだ。早く飼い主の下に届けてやろう」
 吐く息に粉雪が混じる。とうとう降り出したらしい。余計に本丸への帰還が恋しくなって、俺は急かすように大倶利伽羅の名を呼んだ。振り返ったときには、虎だけが残されていた。

「おい、大倶利伽羅!」

 制止の声にも構わず、大倶利伽羅は塀沿いの道を走り抜けた。逐電した同僚を追おうかとも考えたが、その直前で混乱する獣が視界に入る。そうだ、早く虎を届けて五虎退を安心させてやらなければならない。
 虎は大人しく俺の腕に収まったが、大倶利伽羅のときのように尻尾を振ったりはしなかった。

「長谷部くん、君どこから下りてきてるんだい」
 塀に乗り上げると、ちょうど裏庭を探索していた燭台切に見つかった。伸ばされた両手に虎を載せ、俺は悠々地面に着地する。

「まさか外に出てたとはね。長谷部くん、よく見つけられ」
「見つけたのは俺じゃない」
 食い気味に否定した俺を、燭台切はどんな顔で見つめているのだろう。確かな視線を感じながらも、俯いている俺には、友の表情など判らなかった。

「五虎退に礼を言わせる権利も与えないつもりか」
 あまりに頑なな大倶利伽羅の態度に胸が苦しくなる。燭台切に冷えるよ、と移動を促されるまで、俺はその場に立ち尽くしていた。

 

○○○

 

 長い人生には驚きが必要不可欠だ。それは人も刀も変わらない。恩讐渦巻く乱世だろうが、天下太平の世だろうが、いつだって道を踏み外すのは日常に飽いた者だと相場が決まっている。
 何故って? 端から狂っている連中は道を踏み外したりなんてしないだろうよ、奴らにとっちゃ外れてることが当たり前なんだからな。

 だから俺は日常に驚きを求める。どんなに小さな刺激でも、大きな歪みを避けるのには十分なのだと経験から知っていた。矯正は何事も早めにこまめに。放置した後の反動が怖くないなら別かもしれんが。

 さて、驚きという点に関してはこの本丸、合格どころか花丸をやってもいい環境だった。何しろ主は付喪神でもないのに動く段ボールと来たもんだ! それでいて顕現してる刀も個性派揃いで毎日が驚きの連続と言って良い。驚かす側の俺が驚かされているというのもどうかと思うが、仕掛ける悪戯のスケールもその分大きくなるので問題無いだろう。

 こんな調子で俺は人型となった自分に大変満足している。一方で喜怒哀楽の激しくなった身を厭い、刀であろうと藻掻いているやつも中にはいた。
 人生なるようにしかならないんだから、素直に百面相すれば良いと思うんだけどなあ。

 と、直接物申すのはデリカシーに欠けるだろう。所詮自分の問題は自分のものでしかない。そこに第三者が訳知り顔で上から目線の説教したところで、良くて現実逃避、悪けりゃ疑心暗鬼が加速しての精神崩壊コースかな?

 そう思うと喜捨を請求するタイプの詐欺はよくできてる! 信仰を金銭に換えることで救済への道を進んでると錯覚できるんだから、被害者加害者ともに持ちつ持たれつの関係じゃないか!
 まあ対価の要求が双方ともにメリットが有るというのは解る。一方的な厚意を信じ受け止めることのできる者は存外、少ない。見返りを求めない親切を前に、人はついその裏を勘ぐってしまいがちだ。やだねえ、誰かに優しくすれば疑われる世の中なんて。

 俺? 俺はいつも相手に対価を求めているさ。
 人の驚いた表情に退屈を忘れた顔。これ以上の酒の肴が有るとは思えないね。

「鶴さんの愛情表現は判りづらいよ」
 鉄紺色の丹前に身を包んだ男が呆れたように言う。
 銚子をもたげられたので猪口を差し出した。何杯目かなど逐一数えていないが、俺に酌をする黒い青年は乾杯の音頭を取ったきりアルコールを口にしていない。これで酔わせてみると結構面白いのだが、格好悪いからの一言で今夜も深酒を拒否されてしまった。余程長谷部のヤケ酒に付き合った際の醜態がトラウマらしい。リアルタイムで見たかったなあ、その一幕。

「気に入ったやつに構ってちゃんする行動の何が判りづらいんだ」
「控えめに言って好きな子をつい苛めちゃう小学生のやり口だからね」
「なんてこった、じゃあ小学生らしくお誕生日会でも開いてみよう。伽羅坊が鍛刀された日……よし、面倒だから明日ってことにするか! でっかいバースデーケーキ、期待してるぜ光坊!」
「酔っ払いの戯言と流したいのにできないなあ、流石鶴さん」

 俺は酔っても言動が変わらないタイプだった。飲酒時のギャップという美味しいシチュエーションを体現できないのは申し訳ないが、大人しくしてるのは性に合わないので仕方ない。世の中には向き不向きというものが有る。

「大体、そんな無茶苦茶なイベントやっても伽羅ちゃんは逃げるよ」
「逃げればいいさ。どうせ長谷部が捕まえてくれる」

 あの一匹狼が誰かと食事を供にしたと聞かされたときは驚いた。光坊や俺となら解る。正確には渋る伽羅坊を無理に引っ張ってきているだけだが、身内だけの集まりのときは抵抗も控えめだった。嘗て同じ主に仕えていたということで、俺たちの干渉は半ば諦めているのだろう。そして、本丸で初めて縁を結んだ連中とは、顔見知り以上の関係を築こうとしなかった。

 長谷部との食事も当人が望んだ結果ではなかったかもしれない。だが、過程がどうだろうと事実は事実だ。
 俺の予想だが、あのへし切長谷部という刀、戦場を除けば直球勝負しかできぬ男と見た。おそらく舌先三寸で相手を丸め込むなんて器用な芸当は望めまい。だがしかし、意外とその手の輩の方があの問題児を御すのには向いているのかもしれないな。

「鶴さん今すっごく悪そうな顔してるよ」
「おっと心のニヒリズムが表情にまで出ちまったか」
「いやガキ大将のまま成長したヤクザの若頭みたいな表情だったけど」
 あまり長谷部くん苛めないであげてよね。そう続けて、革の手袋がクラッカーをつまみ上げる。

 この男、普段は人当たり良さげな笑みを浮かべてはいるが、真顔になるや途端に近寄りがたい印象になるのだ。ぶっちゃけた話、美丈夫由来の凄みが増して恐い。指先を口の端に持って行き、スマイルとでも呟けば己がどんな表情をしているか気付くだろうか。

「光坊は恋人ができたらとことん束縛しそうだなあ」
「えっ、何で急にそんな話し出したの」
「酔っ払いの話題回しに意味を求めても無駄だぜ。はい、おかわり」
「俺もおかわり」
 酒杯を突き出す俺に便乗する声が上がる。真夜中の厨に侵入する不健康な刀は誰かと思いきや、正体は我らが本丸の主だった。

「何だ何だ、そのナリじゃアレかと思ったが主もいける口だったのか?」
「いや間違いなく身体が溶けて死ぬ。から雰囲気だけ楽しませてくれ」
 陽気なステップを踏む主が面白かったので二つ返事で了承する。持ち上げた主の体は相も変わらず軽い。仮にも収納を目的とされている道具なのに、この中身の無さは少し問題じゃなかろうか。

「ところで、きみの中は何が入ってるんだ?」
「生涯を共にすると誓った伴侶以外には教えないことにしている」
 意外に身持ちが堅い。ガムテープを下着扱いしていた箱と同一人物とは思えない発言である。

「俺のモツよりもっと中身の有る話しろよ。大倶利伽羅の懐柔はどうなった?」
「そうだなあ。不確定要素が加わって面白くなってきたとこではあるんだが」
 長谷部の顔を思い浮かべる。少し突けば彼は望んだ方向に動いてはくれるだろう。しかし、ただ動かすだけでは俺や光坊の二の舞になる。伽羅坊、長谷部ともに引き返せないような状況を作り出さなくては、せっかくの不確定要素も活かしようがない。

「こう、本丸全体を巻き込んだサプライズを仕込めればなあ」
 杯を呷る。俺たちにとっては大事でも他からすれば身内の揉め事に過ぎない。我ながら無茶なことを言ってるな、と思えば自嘲気味な笑いが零れた。

「構わねえよ」

 本日一番の驚きが主からもたらされる。正面に座る光坊も目を見開き、先の承諾の言葉を必死に噛み砕こうとしていた。

「言っておくが、明日の昼食はオムライスが良いな、なんて相談をしたわけじゃないぞ」
「そんぐれえ解ってるよ。ここは俺の城だ、俺が仕事するなって言えばそれは通る。五虎退の件も有るんだ、遠慮せずにぶちかましちまえ」
「……ははっ」
 空になって久しい光坊の猪口に酒を注ぐ。非難の声が上がろうと関係無い。こんな愉快な気分で、呑まずにやってられるか。

 期待されちゃあしょうがない。新鮮な驚きと、最後は皆が笑って終われる大団円を提供してやろうじゃないか。

 

□□□

 

 今日も今日とて大倶利伽羅は逃亡先に近侍部屋を選んだ。
 詰めているのが他ならぬ俺と知って、断りも無しにこの部屋を訪う者はほとんどいない。倉や土蔵は必要の無い限りは施錠されている。各々に与えられている個室も、障子で開閉するのみだから当然防犯という意識は有ってないようなものだ。まさに、猫をあやしながら読書に勤しむ褐色の刀にとって近侍部屋は最後の砦である。

 あの後、虎を届けなかったことについて俺はすぐ当人に問い質した。大倶利伽羅は何も答えなかった。五虎退のことが嫌いなのか、と尋ねれば、違う、と明確に否定する意志を見せた。結局その件については、相手に礼を言う機会くらいは作ってやれ、と俺が折れる形で終わってしまった。

 六畳一間の決して広くない空間に居ながら、ふたりとも特に言葉を交わしたりしない。キーを叩く音、本の頁をめくる音、強いて言えばそうした生活音が俺たちにとっての会話だった。
 俺は燭台切のように相手に合わせる話術は持ち得ていないし、かと言って鶴丸みたいに突拍子も無い企画をすることもできない。俺には俺のやり方が有る。無言のやり取りでも、誰かと共に居る時間が悪くないと、大倶利伽羅がそう思える一助になるなら幸いだ。

「お八つ取ってくる」
 ああ、と短い相槌が返ってくる。意外に律儀なこの刀は、言葉を掛ければ何だかんだ反応してくれるのである。そうと知ったのは、本の感想を求めた昨日のことだった。

 大広間の前を通り抜け、厨に続く角を曲がる。この本丸の厨は、ドアのような遮蔽物も無く一般的ながらも開放的な作りをしていた。お陰でそこそこ距離が有っても厨の会話は外に筒抜けとなる。今日も中に居る人物が誰かも視認できぬうちから、鶴丸国永の声が俺の耳に届いていた。

「そういうわけだ光坊。賞品として当日は宜しく頼むぞ」
「僕なんかで釣れるとは思えないけどねえ」
「始まる前からもう弱気か? 料理の得意な刀の方が少ないんだぞ、一日限定とはいえ燭台切光忠に好物だらけのメニューを組んで貰えるとか、食べたい盛りにはたまらん話じゃないか」

 どうやらまたも鶴丸の思いつきに燭台切が巻き込まれているらしい。いや、先日の連携を考えるなら二振りは共謀しているのだから、あれは同意の上か。
 真実がどうあれ、その企てが怪しげなものなら止めるべきだろう。厨からは死角になる位置を探し、会話を聞き逃さぬよう耳をそばだてた。

「それにしてもこの参加要項、大丈夫なのかい」
「うん? 何か不備でも有ったか?」
「いや、伽羅ちゃんは解るけど長谷部くんにも知らせないって本気?」

 予期せぬところで己の名を挙げられ四肢に緊張が走る。物音を立てていまいか心配になったが、様子を窺う俺に気付いていないのか伊達組の話はなおも続いた。

「だって長谷部が参加したら、近侍部屋に逃げ込んだ伽羅坊をそのまま捕まえて、ひとり勝ちするだろう?」
「長谷部くんはひとの信頼を利用するような刀じゃないよ」
「おっ庇うねえ、光坊。恋は盲目とはよく言ったもんだ」
「鶴さん大丈夫? 手入れする? 眼科行く?」
 よく言ったぞ燭台切。お前が揶揄を軽く流さなければ、自前の紅白帽を被った鶴丸国永が誕生していた。

「ははは、照れることはないぞ光坊。長谷部もお前のことは憎からず思ってるさ、告白すれば上手く行くし、賞品が光坊と知れば伽羅坊を踏み台にだってするかもしれん。愛欲ほど人を狂わせるものはないからな!」
「機動57蹴り!」
 機動57蹴りとは。へし切長谷部自慢の俊足を以て相手との距離を詰め、渾身の力で弁慶の泣き所を狙う一撃必殺技である。なお使用の際には、対象者以外に周囲に人がいないことを確認してから実行に移すべし。目撃者が多いと始末するのが大変だからな!

「は、はせべくんこれはね」
「寄越せ」
 床に沈んだ鶴を足蹴にしつつ燭台切に迫る。男の手には参加要項とやらが書かれているだろうチラシが有った。寄越せとは言ったが、差し出されるのを待つ気は無い。竦む燭台切の手から乱雑に奪い取り、ポップな字体で綴られるそれを黙読してやった。

「~師走の大祭、大倶利伽羅狩りのお知らせ~
年の瀬も押し迫り、皆様におかれましては益々ご清祥でご活躍のことと存じます。寒気もいよいよ厳しくなって参りましたが、こういう時期にこそ身体を動かし健康に留意すべきものと存じます。
つきましては、このたび忘年会の円滑な進行を確保するため、大倶利伽羅捕獲の会を開催する運びとなりました。顕現して早二ヶ月、馴れ合うつもりはないと二次会の参加を拒む刀との交流を深めて頂ければ幸いにございます。
諸事ご多用のことと存じますが、何卒ご出席を賜りますようご案内申し上げます。

日時 冬至 巳の刻より開催
賞品 大倶利伽羅を捕まえた刀には、一日限定で燭台切光忠に好きな料理を作らせることが可能。三大料理から南米のカウサ・レジェーナまでありとあらゆるジャンルを網羅してみせます!
注意 当日まで大倶利伽羅、およびへし切長谷部には当大会の開催を知らせないで下さい。もしバレたときは、主から正式な許可を貰った催しであると明言しましょう」

「さらりと虚言を吐くな! こんな訳判らん話を主が通すわけなかろう!」
 途中から明らかにビジネス文章を真似るのが面倒になったであろうチラシを力の限り破り捨てる。端に描かれた鶴丸謹製と思しき似顔絵がまた腹立たしかった。

「い、いや長谷部くん、主の許可済みっていうのは本当なんだよ」
「ああ!?」
「チラシ右下。主のサイン、というか魚拓ならぬ段ボール拓が入ってるだろう」

 燭台切が拾い上げた紙片を見る。くたびれた箱の隅を使ったのだろうか、出来損ないの血痕のようなプリントが確かに刻印されていた。
 偽物と扱き下ろしたいところだが、こんな代物からでも馴染み深い主の霊力が伝わってくる。そんな主、近侍の俺をのけ者にするイベントを許可するなんて、もしやこれも一種の特別扱いでしょうか、ええ構いません主命とあらばどんな仕打ちにも耐えてみせましょう。

 そうだ、俺は別にいい。だが大倶利伽羅はどうなんだ。あいつが本丸の連中と距離を置いているのを、俺だって良く思っているわけじゃない。だからといって、本丸を挙げて奴を生け贄にすることはなかろう。驚きのためだか何だか知らないが、当日まで本人に告げないでおくというのも騙し討ちのようで気にくわない。

「主の命と言うなら無理には止めん」

 伸びている白い太刀から離れ、燭台切に背を向ける。
 腹は決めた。お前たちがそのつもりなら、俺も好きにやらせてもらおうじゃないか。

「大倶利伽羅!」
 障子をいつになく乱暴に開け広げた。猫と戯れていた大倶利伽羅が目を丸くしたまま俺を見上げている。警戒する一振りと一匹に無言で紙切れを突きつけた。引き裂かれ読み取りづらくなってはいるが、この方法が最も簡潔に状況を説明できる。始め訝しげに断片を受け取った大倶利伽羅も、内容を把握するうちに顔面から色を失っていった。

「こんな、滅茶苦茶な話が有ってたまるか」
 額を押さえ俯く大倶利伽羅の前に膝を付く。俺は身内の横暴に悩む青年の名を呼んだ。大倶利伽羅が顔を上げる。猫を想起させる金色の瞳は、確かにこちらを見据えていた。その視線を真正面に受け止め、俺は胸を張って宣言した。

「安心しろ、お前は俺が守ってやる」

 

□□□

 

 数日降り続けた雪も今朝方には止んでいた。刷毛で描いたような巻雲が師走の空に広がる。植木を覆う天花に冬の日光が反射するのが些か眩しい。
 身を刺すような冷気に耐えつつ布団をめくり上げる。上体を起こして始めに目に入ったのは、壁に掛けられた本日の日付だった。

 冬至、決戦の日である。

「長谷部さん、大倶利伽羅さん見なかったー?」
「悪いが見ていない」
 そっかあ、と肩を落とした乱が障子を閉める。その背中を見送った俺は、再び卓上の電子機器に向き直った。画面上では柑子色の髪がぱたぱたと揺れている。暫くその動きを観察した後に新規メールのボックスを開いた。「乱、書庫に接近」とだけ入力し、送信ボタンを押す。光点がそれぞれ動くのを確認し、俺はまたカメラの監視に戻った。

 短刀たちが慌ただしく走り回る中、俺は今日も変わらず近侍部屋に詰めている。衝立の裏に褐色の刀は居ない。いつもの座布団に転がっているのは、預かってきた彼の愛猫だけだ。

 鶴丸の企画に乗り気なのは主に短刀が中心である。打刀以上の体躯を持った連中は流石に落ち着いたもので、大人と言えばせいぜい酒飲みの次郎太刀や、それに引き摺り回されてる御手杵、今剣に付き合ってる岩融ぐらいのものだった。

 だが、いくら打撃に劣る短刀と雖も、束になって掛かられると対処は難しい。大倶利伽羅の部屋の前で本体片手に仁王立ちする方針を却けた原因はそこに有った。あと同田貫あたりが勘違いしそうなので籠城作戦は取りたくない。と、なれば後は地道に逃げ回るしかない。

 大倶利伽羅には、あんたが参戦して俺がわざと捕まれば解決じゃないか、と言われたがその結末では誰も納得しないだろう。現に短刀たちは目を輝かせて大規模な鬼ごっこに夢中になっている。あの表情を落胆に染めるのは心苦しい。何より、これは主が正式に許可を出して催されたイベントだった。主の期待を裏切って場を白けさせるような真似はしたくない。

「げっ堀川」
 大倶利伽羅の位置を示す赤い点に近づく刀剣男士の姿が有った。カメラに映るは堀川国広、おそらく腹ぺこ属性持ちの和泉守も近くにいるに違いない。二人がかりでは大倶利伽羅も苦戦するだろう。俺は迷わずマップ上に表示された髑髏マークをクリックした。

「うわっ何だあ今の音」
「兼さん、あそこ! 物干し竿が倒れてる!」
 カメラ越しの騒音がマイクを通しても伝わってくる。どうやら薬研は上手くやってくれたらしい。新着メールに「成功」と短い結果報告が送られてくる。

 現場での直接のサポートが敵わないと知った俺は、予め薬研と取引し偵察、攪乱役を請け負ってもらっていた。一期一振のいない現状、鳴狐と並び粟田口のまとめ役となっている薬研だが、大倶利伽羅の境遇には同情気味で、割とすんなり了承してくれたのを覚えている。

 ちなみに、宗三にも頼もうかと一瞬考えたが、小夜が張り切っていたので止めた。あいつはあのナリで薬研より大人気ない。何が鳥籠だ、鉄格子を素手でねじ切りかねん鳥がいてたまるか。

 時計はもうじき午の刻を指そうとしている。
 無駄に気合いの入った鬼ごっこ終了まであと二刻と半時。そろそろ昼食が恋しくなる頃合いだった。

 正午から一時間の間は昼休憩ということで、捕獲も有効とはならない。食欲に飢えた男士たちが集い、閑散としていた大広間が俄に活気づいた。

 席が順当に埋まる中、適当に空いてる場所を探して腰を下ろす。正面に居たのは五虎退だった。

「は、長谷部さん。こんにちは」
「ああ、こんにちは」
 昼の挨拶に加えて頭まで下げる五虎退に苦笑する。一つ屋根の下に住んでいるのだからそこまで丁寧にしなくても、と言ってやってもいいのだが、この慇懃さもまた五虎退の魅力と思えば無理に矯正はしたくない。控えめな態度の主人と違い、周りの虎たちは四肢を擲ってのんびり身体を伸ばしていた。

「この間は虎くんを連れてきて下さってありがとうございます」
「いや、あれは俺じゃなくてだな」

 純粋な謝意を向けられて、つい真実が口を衝きそうになる。まさか、見つけたのは大倶利伽羅だがお前に虎を渡すことを嫌がって逃げた、とは教えられまい。

「見つけたの、大倶利伽羅さん、なんですよね」

 箸が止まる。口に含んだひじきの味が、よく判らない。歌仙の煮物はいつだって絶品のはずなのに、まるで砂を噛んでるような心地がした。

「知ってたのか」
「はい。主様が、教えてくれたんです」

 あの虎はよく単独で行動しては帰ってこなくなるという。行った先で穴に落ち、登った木から下りられなくなり、時には池で溺れていることすら有る。多くの場合は飼い主である五虎退が見つけるが、皆が寝静まった頃に出歩かれると手の打ちようが無い。
 そのようなとき、朝方になって縁側を見ると必ず段ボールが一箱置かれている。中には毛布にくるまれ寝息を立てる虎が入っていて、その毛並みはブラッシングでもされたのか常より艶やかですらある。

 ここまで聞いて察した。あの刀は先日のみに留まらず、同僚の虎を幾たびも救っていたのだろう。それを主が何故知っていたかも理解できた。あの御方が本丸を闊歩するようになって増えた段ボールは、知らぬうちに大倶利伽羅の不器用な優しさを助けていたらしい。

「ずっと大倶利伽羅さんのこと、恐いひとだなって、勝手に避けていた節が有ったんですけど、虎くんを助けてくれたって知って、お話してみたくて」

 安心しろ五虎退、お前が避けなくてもあいつは勝手に距離を置こうとする。
 酷すぎる話じゃないか。友達に優しくしてくれた恩人に、五虎退は礼を言うこともできずにいる。

「だから、鶴丸さんから今日の話を聞いて、頑張って一緒にご飯食べようって、そう思ったんです」

 訥々と語る五虎退の顔をまともに見ていられなくて、面を伏せた。

 縁側に座り、五虎退と一緒に飼い猫の面倒を見る大倶利伽羅を想像して、泣きそうになる。
 少年の願いが叶えば良いと思った。なのに今の自分は、大倶利伽羅を擁護して、その小さな望みすら打ち砕こうとしている。
 大倶利伽羅を助けたいと思った気持ちに偽りは無い。でも五虎退の願いが果たされて欲しいとも思う。何だこれは。俺はどうすれば良いんだ。

「おや、今日の煮物はお気に召さなかったかい」
 あまり量の減っていない皿を見た歌仙が残念そうに呟く。気付けば大広間に居た連中はほとんど食事を終えていて、残っているのは俺と厨番の二振りくらいだった。俺の席を覗き込む歌仙につられてか、燭台切も片付けを中断してこちらにやって来る。

「長谷部くん大丈夫? 顔真っ青だよ」
「あ、ああ。問題無い。続きは部屋で摂ることにする」

 食膳ごと部屋に持ち帰ろうとして何者かに腕を捕まれる。その正体が燭台切の手と気付いたときには、強引に立ち上がらされ、大広間を後にしていた。

「嘘は駄目だよ」
 狭苦しい物置に連れ込まれ、初めて燭台切の面差しを真っ向から捉える。そこには美しい三日月を描く眉も、甘やかすような琥珀色の隻眼も見当たらない。心底から怒りを覚えたとき、この男が表情を無くすことを俺はよく知っていた。

「君ね、一回鏡見てきた方が良いよ? ちょっと尋常じゃないくらい青白くなってるから。それに歌仙くんの煮物をほとんど口もつけずに残す長谷部くんなんて有り得ないよね。今日は皆非番なんだ、大人しく部屋に布団敷いて寝て来なよ」
「馬鹿を言え。体調が悪いわけじゃない」
「じゃあどこが悪いんだい」
「別に、どこも悪くない」
 掴まれたままの腕に痛みが走る。燭台切が力を込めたのだと判った。振り払おうにも、太刀のこいつに力で敵うはずも無い。

「君は、僕に本音で話してほしいと言ったよね」

 燭台切の言葉に在りし日の記憶が蘇る。己の勝手でこの男を散々に振り回し、互いに容赦無く一刀と侮蔑とを浴びせた夜を、どうして忘れることができようか。傲慢な所業を許すに留まらず、彼が朋友の契りを交わしてくれたことが、どれだけ嬉しかったか。

 あの日から燭台切を欺いたことはないし、するつもりも無かった。俺が望んだことでも有ったし、彼の好意を無碍にしてきた償いの意志も含まれていた。

 そうだ、俺はこの美しい刀の前では常に誠実でいたかった。この男だけは裏切りたくなかったのだ。

「だったら、辛いのに平気な振りなんてしないでほしいな。僕が頼るのに値しない男だと言うなら、はっきり言ってくれ」
 伏せられた睫毛が男の麗容に影を落とす。腕を拘束していた手は力を抜き、俺の肩を宥めるように撫で始めた。その優しい手つきに絆されそうになる。

「五虎退が」
「うん」

 こいつは鶴丸の味方で、俺は大倶利伽羅を守ると決めたのに、開いた口からはさらけ出してはいけない本心がどろりと這い出ていった。

「大倶利伽羅と話してみたい、と言っていた。虎を助けてくれたお礼を言いたいと、猫の話も聞いてみたいと、好きな食べ物は何か、非番の日はどう過ごしているのか、そんなとりとめない話を沢山してみたいと、言っていたんだ」
「うん」
「俺は、そうであれば良いと思った。大倶利伽羅はそんなもの求めていないのに、五虎退の望みを叶えてやりたいと思った。俺ならそれができると思った。最悪だ、俺は大倶利伽羅の信頼を裏切って、違う誰かの望みを果たそうと、一瞬でも考えてしまった。燭台切は長谷部くんはそんなことしない、と否定してくれたのに。お前の好意まで踏みにじりそうになった。最後まで大倶利伽羅の味方でいなくちゃいけないのに、五虎退のことが頭から離れない。どうしよう、俺はどうしたらいいんだ、しょくだいきり」

 感極まって、最後はもうほぼほぼ鼻声になっていた。目尻に浮かんだ水分を袖で乱雑に拭うと、やんわり窘めるように手首を取られる。そのまま腕の中に引き込まれ、後頭部をぽんぽんと叩かれた。
 俺は子供か。そう抗議する気も失せるくらい、燭台切の胸の中は安心できた。伝わる体温が心地良くて、ついつい広い背中に腕を回してしまう。

「長谷部くん。僕はね、君のことを嫌いになったりしないよ」
 俺の髪を梳いていた手が下りて背中を擦る。その与えられる温もりに、嘔吐きそうになっていた身体も少し落ち着きを取り戻していった。

「君が、君の思う最善の道を進むなら。それがたとえ裏切りという行為に相当し、君にとっての友を悲しませる結果になったとしても、僕は君の選択を否定しない。燭台切光忠は、へし切長谷部の友であることを絶対に止めたりしない」

 両頬を手で挟まれる。顔を上げるよう促された先で、燭台の灯を点した黄金色と対面した。

「伽羅ちゃんや五虎退くんに嫌われるのが怖いかい?」
「怖くない、と言ったら嘘になる。だがそんなことより、どちらも選ばず何もできないまま終わる自分を想像する方が、ずっと恐ろしい」
「じっとしてられないの、本当に長谷部くんって感じだよね」
「落ち着きが無いと言いたいのか、こら」
 腕を伸ばして伊達男の頬を引っ張る。筋肉が乗って強ばった印象の背中と比べて、こちらの肌は随分と柔らかい。

「ひはひ、はせべくんひたいよお」
「お前だって俺の頬潰したろ、これでおあいこだ」
「ぼくははさんららけらろお」
 ひとしきり弄んだところで手を離す。燭台切の掌は痛みを抑えるために自らの頬に宛がわれたから、もう先程のような距離感は俺たちの間に無かった。

「ありがとう燭台切、吐き出したらすっとした」
「僕は君にやってもらったことを返しただけだけど、どういたしまして」
「みっともないところを見せた。これからさらに最低の男に成り下がるだろうが、どうか見捨てないでやってほしい」
「言っただろう、僕は君を嫌いにならないって。もし本当に堕ちるところまで堕ちたとしても、そのときは僕が殴ってでも更正させるから安心してよ」
「安心できるか打撃73」

 こいつを友と呼ぶ限り俺が魔道に堕ちる心配は無いらしい。全く以て頼もしい男と縁を結んでしまったものだ。

「どうせなら伽羅ちゃんや五虎退くんだけじゃなくて、そこに僕と鶴さんと秋田くんと、当然君も交えて楽しくやりたいものだね」
「ああ、それは良いな。最高に良い」
 これ以上ないほどのハッピーエンドを思い描き、俺は大倶利伽羅の下へ向かった。

 

●●●

 

 渡されたタブレットで時間を確認する。昼餉の時間を少し過ぎたぐらいだった。走ったり隠れたりを繰り返したせいか、先頃まで胃が悲鳴を上げていて、とても食事をする気分になれなかった。

 母屋から離れたところに在る土蔵は普段使用されず、また審神者か近侍の許可が無ければ鍵を持ち出すこともできない。一時的に身を隠す分には絶好の場所だと言える。
 いっそ一日ここに隠れていれば、と思わないでもないが、意外なことにその作戦に反対したのは長谷部の方だった。
 曰く、短刀連中が乗り気だとか。曰く、主が楽しみにしておられる以上怠慢は許さんだとか。本当にあいつは協力する気が有るのだろうか。

 浮かぶ疑問を押しのけつつ、朝方受け取った包みを開ける。随分と大ぶりな握り飯が顔を出した。不格好とは言わないが、少なくとも厨番の双璧が作ったものではないと想像がつく。
 味は、悪くない。塩も満遍なく振りかけられて偏ったところは無いし、中に入っている具も、鮭に梅と王道で食べやすかった。ペットボトルの蓋を開け、適度に水分を摂ったところで、ようやく人心地がつく。

 そろそろ休憩を済ませた連中が戻ってくるだろう。誰も居ない隙を見計らって外に出なければ、と窓に視線を遣った。長谷部が走っている。遠目に捉えた男の肖像はすぐに消え失せ、代わりにタブレットが震動した。電子画面には、長谷部の名が表示されている。

「大倶利伽羅、すまん出てきてくれ」
 息を切らしているのか、届く音声も所々不明瞭なものになっている。
 あの長谷部が焦るような事態が発生したのか。或いは急遽出陣の予定が立ったのかもしれない。そうだとすれば、鶴丸のふざけた企画に付き合ってる余裕は無いだろう。俺は急ぎ身支度を整え、重苦しい鉄製の扉を左右に開いた。

「どうした、何か有ったのか」
「はあ、ああ、ちょっと事情が変わってな」

 迎えた長谷部はひどく疲れていて、上体を曲げながら必死に息を整えようとしていた。貰ったペットボトルの存在を思い出し、蓋を開けて目の前に差し出す。その手首を、獲物につかみかからん勢いで長谷部が捕らえた。

「大倶利伽羅が見つかったぞおー!」
 本丸中のどこで在っても届くだろう大音声がすぐ傍から響く。呆気にとられ、それを長谷部が発したと気付くのに些か時間を要した。

「あ、あんた何を考えてるんだ!」
 これまでの苦労を水泡に帰すような行動を咎めるも、長谷部は済ました顔を向けるだけだった。男のあまりに急激な心変わりに思考がついていかない。

「何を考えている? それはこっちの台詞だ、万年反抗期が」
 長谷部の口角が歪む。それは、敵を切り刻み愉悦に感じ入っているときと同じ表情だった。

「誰が万年反抗期だ、あんた気でも触れたのか」
「やかましい、何が馴れ合うつもりは無いだ! 言われるままに畜生の世話を焼き、同僚の飼っている虎を毎度毎度探し回るような奴がよくもそんな世迷い言を吐けたな! その言行不一致ぶり、反抗期と言わずして何と呼ぶ!」

 五虎退の虎の件を指摘されて竦み上がる。おかしい、長谷部の前で虎を拾ったのは先日の一件だけのはずだ。他に俺があの虎を探していたことを知っている者は居ない。

「五虎退は誰が虎を届けたのか知っていたぞ」
「ッ! そんなわけ、有るか……!」
「でなければ貴様が常習犯だと何故俺が知れる! 五虎退はお前に礼が言いたいと打ち明けてきた、綺麗に毛を整えてくれてありがとうと、猫を飼い始めたお前に話しかけてみたかったと、そう俺に言ったんだ! 馬鹿馬鹿しい、何故正体が割れているのにお前宛の謝辞を俺が聞かねばならん。その言葉を一番伝えたい相手は、他ならぬお前だろうに!」

 たまに廊下ですれ違う五虎退の姿を思い出す。
 いつも何か言いたげにしていたのを、敢えて見ないふりをして通り過ぎていた。あいつが勇気を振り絞って声を掛けてきても、わざと冷えた声を出して追い払った。嫌いなわけじゃない。嫌いだったら、夜な夜な出歩く虎を連れ戻したりなんぞしない。

「冗談じゃない。俺は礼を言われたくて、あの虎を探していたわけじゃない。勝手に好かれて、勝手に距離を詰められても、迷惑なだけだ」
「勝手ぇ? 勝手に親切を働いた貴様がそれを言うのか! いいか、誰かに優しくするならば、誰かから優しくされる覚悟もしておけ半端者!」
「どうして、あんたにそこまで言われなきゃならないんだ!」

 自由な方の手で長谷部の胸ぐらを掴み上げる。威圧的な態度を示しても長谷部は怯むどころか、滑稽とばかりにますます口の端を釣り上げていく。

「何故かだと? 俺は道理に合わんことが嫌いなだけだ。こちらからすれば、ただ礼を言われるだけで済む話をここまで拗らせるお前の方が理解できんな」
「それは」
「単なる刀に戻るのが怖いか」

 がつん、と後頭部を殴られたような心地がした。途端に噛み合わなくなった歯列から白い息が漏れる。寒い。怒りを覚えた身体からは急速に熱が引いて、徐々に外気の冷たさを認識するようになっていった。

「物言わぬ刀となり、大切な者の死を前に何もできぬ身になるのが怖いか。注がれた分と同じだけの情を返せなくなるのが怖いか。誰かを好きになるのが怖いか」

 長谷部の服を掴む手が震える。己を見つめる藤色の双眸がひどく恐ろしい。怖くて怖くて堪らないのに、その視線は逸らすことも許してくれない。

「猫に名前をつけようとしなかったのも、五虎退と話をしようとしないのも、いずれ来る別れを惜しんでのことじゃないのか」

 撫でるたびに擦り寄ってくる猫は可愛かった。五虎退が迷子になった虎を見つけたときは胸が熱くなった。それだけじゃない。俺は、鶴丸や光忠に無理矢理引っ張られて騒ぐのだって、本当は嫌いじゃなかった。

 だが俺たちは所詮刀だ。戦が終われば刀に戻る。身動きも取れないのに、ただ意識だけがそこに有り続ける。たとえ友人を持ったとしても、自らの足で会いに行くことなんてできやしない。そして嘗て過ごした日々に思いを馳せ続ける。そんな地獄を、いつまで続くとも判らず、味わうことになるなんて考えたくもない。どうせ眠り続けるだけなら、何も知らず安らかでありたい。

「諦めろ大倶利伽羅、我々は肉の器を手にしてしまった。人の形を取り、人と同じように感情に振り回される身となってしまった。逆立ちしても完全な人になど、なれやしないのな。それでも折れぬ限り、もはや単なる刀にも戻れん」

 始めに刀剣男士なんてものを顕現しようとした奴は相当なサディストに違いない。こんな惨めな気持ちにさせられるのなら、人の身体なぞ欲しくなかった。もう俺は、鶴丸に光忠、五虎退や長谷部たちの居ない世になど還りたくない。

「あんたは、一度した約束は絶対に破らない刀だと思ってた」
「ふん、せいぜい恨め。俺なんぞを信用したお前が悪い」

 芝居下手のくせによく囀る。殴られたくて言ってるなら止めた方が良い。俺は意外に小心者なんだ。

「おおくりからさん、はせべさんっ……!」

 俺たちの腰元に何かがぶつかる。そいつは小さい身体を懸命に伸ばして、長谷部の服を掴む俺の手を必死に引き剥がそうとしていた。

「喧嘩はだめです、おふたりが争ってるのなんて、見たくありません」
 自分が巻き込まれた訳でもないのに五虎退は泣きそうな顔をしていた。足下に五匹の虎も集まってきて、俺の身体をよじ登ろうとしたり、長谷部の周囲をぐるぐる回ったりと、もはや何が何やら解らない。

「ははっ大丈夫だ五虎退、もう話はついたからな。そうだろう大倶利伽羅」
 長谷部はほぼ力の入っていなかった俺の拘束からあっさり逃れた。ぐずる五虎退の頭を撫でる表情は、先の挑発的なものではなく弟分をあやす兄のそれになっている。この男はこういう顔もできたのかと、今更ながらに知った。

 そうこうしているうちに、五虎退以外の連中も土蔵前に続々集まってくる。手を鳴らしながら勝者を讃える鶴丸を見て、この催しも終わりなのだと改めて実感した。

「おめでとう長谷部くん、賞品の燭台切光忠だよ」
「知ってるぞ。一日限定で、どんな料理だろうと無茶ぶりして構わないんだったよなぁ」
「わあ、お手柔らかにねえ」

 長谷部の意地悪い笑みに、光忠が両手を挙げて恭順の意を示している。本気で脅かすつもりもないし、本気で怯えた節も無い。傍から見ていると、実に変な組み合わせの二振りだった。

「ずんだ餅とミートボール二人分」
 長谷部の指定を聞いて皆一様に首を傾げる。
 どういう食い合わせだ、それは。おそらくは大多数に共通した疑問を知ってか知らずか、長谷部の文句はまだ続く。

「虎は肉食だからな、食べさせるならミートボールと思ったんだが」
 違うか五虎退、と紫色の刀が振り返る。唐突に話題を振られた五虎退は返答に窮して、わたわたとよく解らない身振り手振りをし出した。

「大倶利伽羅はずんだ餅で構わんだろう? 全力で走り回った後に食べるんだから、きっと格別に美味い」
 そして俺にまで矛先が向く。目を何度か瞬き、その意図するところを呑み込んで無性に髪をかきむしりたくなった。
 あの男、堅物に見せてとんだお節介焼きではないか。これなら、さり気ないだけ鶴丸や光忠の方が幾分もマシに思える。

「大倶利伽羅さん」
 隣に立っていた五虎退が俺の服の裾を小さく握った。虎と合わせ、十二の瞳が一斉にこちらを見上げている。

「僕たちと、一緒におやつ、食べてくれますか」

 はにかみ薄く頬を赤らめて告げられた誘いを、どう断れと言うのか。
 逃げ場が無いことを悟り、俺は風にのって揺らぐ柔らかい頭髪に手を伸ばした。

「ああ」

 猫の毛とは全く感触が異なるが、ふわふわと指先を擽る砂色の髪も存外悪くない。照れ笑いする五虎退の様子を見て、機会が有ればまた撫でてやろうと、そう思った。

 

●●●

 

「そろそろ機嫌直してくれないかい長谷部くん、あれはいわゆる不可抗力だったんだよ」
「うるさい。気が散る。仕事の邪魔だ」
「伽羅ちゃんはさっきから居るのに!?」
「大倶利伽羅は騒がない。お前は騒がしい。それだけだ」
「じゃあ静かにしてるから! お地蔵さんみたいにじっとしてるから構って!」
「地蔵にやる饅頭も言葉も無いな」
「長谷部くぅん!」

 後日、例によって近侍部屋で未読本を崩していると、情けない顔をした光忠がミルフィーユ片手に入って来た。長谷部はそれに取り合う様子も無く、電子画面に向かって黙々とキーを入力している。その態度がまた光忠の悲哀を煽り、埒のあかぬ押し問答が延々続いていた。いつもの静謐な六畳一間よ、カムバック。

 さて原因だが、同じやり取りを何度も繰り返しているため、傍観者である俺も大凡の事情が把握できてしまった。

 先の騒動で長谷部が俺の味方についていたのは、鶴丸と光忠の誘導によるところが大きかったらしい。チラシに有った密告の禁止も実のところブラフに過ぎず、あの文面を目にした長谷部が怒りで俺を保護するよう仕向けたかったとのことだ。

 発端となる会話も、初めから長谷部に聞かせることを前提に話されていた。あの場に居たのは三振りだけではなく、実は見えないところに秋田が潜んでいたと聞く。長谷部が来るタイミングを秋田が厨のふたりに教えていたので、都合良く情報が漏洩できたというわけである。

 なるほど長谷部が怒るのも仕方がない。仕方ないのだが、いい加減怒りを解いてもらわねば光忠の鬱陶しさも解消されないので困る。俺は静かに本を読みたいし、でなければ猫に癒やされたい。いっそ自室に戻ろうか。いや最近は鶴丸が天井裏と床下に改造を施している。あのテンションに一振りで対抗することを思うと、多少うるさくても近侍部屋の方が安全と言えた。

「あーお客さん肩凝ってますね、仕事のし過ぎですね、これはお八つでも食べながら休憩を取った方が良いですね」
「ああ、効く、んぅ、そこもっと右」
「機嫌直してくれたら、もっといっぱいご奉仕するよ?」
「んん、どうしようかなあ」
「ねえ長谷部くん、おねがあい」

 あいつら実は楽しんでるだろ。あと何か距離近くないか。友人とはそういうものなのか。いや、鶴丸や五虎退、秋田と居るときにそんな印象を受けた覚えは無い。やはり、あいつらだけ何処かおかしい。会話は聞いているだけで肌が粟立ってくるし、一緒の空間に居れば何故か塩辛いものが恋しくなる。

 そういえば長谷部の握り飯を食べた、と光忠に教えた後も似たような目に遭った。僕にも作ってよ、嫌だ、の無限ループが続くのは耐えがたい苦痛だった。
 光忠も長谷部もひとりのときに会えば普通にしているのに、ふたり揃うとどうしてこうなってしまうのか。その仕組みに気付いたら引き返せないような気がするので、この考察はここで打ち止めにしたい。

「おいおい伽羅坊、これ以上この空間にいたら馬に蹴られて死んでしまうぞ」
「どこから顔を出している」

 畳より這い出し男は何か知っているらしいが、おそらく訊かない方が良いだろう。
 猫の名前もつけないうちに折れたくはないからな。

 

 

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